38 いつもと違う二人




お風呂上がりであろう幸村が部屋に戻ってきた瞬間、部屋中の空気が凍った。
余りにも負の空気を纏っており、誰も喋りかけるなと言う心の声を嫌でも全員が感じ取る。
先程まで枕を投げ合って暴れていた赤也とブン太も、彼が戻って来るなりやばいと思ったのか、瞬時に大人しくなり無言で布団に入った。

ちなみに、柳と真田の希望で立海の部屋は和室だ。
どこもかしこも洋なこの別荘に和室がある事が不思議ではあるが、聞く所によると元々は外国人向けにおもてなしをするための部屋として一室設けたそうだ。
それにしてもとてつもなく広い立派な和室なのだが、結局は皆布団を隣同士に合わせお互い頭を向けて眠る様に布団を敷いていた。
畳に余白があり過ぎるように思うが、そんな事を気にする彼等ではなかった。


現在合宿一夜目の就寝時刻、幸村以外が思う事はただ一つ。


「「「(ね、眠れない……)」」」


彼は眠る時でさえ一向に負の空気を纏ったまま。
それはその場にいた全員の心にまで伝わり、皆が眠りにつけたのは日付がすっかり変わった頃だった。




そして桜華と幸村にとっての露天風呂での出来事があってから一夜が明けた。
幸村の雰囲気は相変わらず……と言うよりかはむしろ酷くなっている気さえする。
その相変わらずの様子に怯えるメンバー達。
しかし例外が二人いた。


(泣いて走ってた桜華と、何故か風呂から帰って来た途端急に不機嫌になってた幸村……。何かあったのは間違いないじゃろうな……)


一人は昨日の二人の様子を比べ、頭の中で状況を整理している仁王。


(精市のあの様子……桜華が関わっているのは確実だろうな。……そして仁王が何か知っている、これも確定だな)


もう一人は、昨夜からの二人の様子を観察していた柳。
幸村のただならぬ態度、そしてじいっと彼を見つめ険しい顔を崩さなかった仁王。
柳は確実に何かあると確信し、その様子を静かに伺っているのだ。


(……俺は今回は後方から見守る事にしよう)


柳は心の中でそう決意すると、「朝食の時間だ」と未だ怯えているメンバー達を食堂へと連れて行く事にした。
しかし幸村だけはその場から動かない。
勿論彼にはそれが分かっていた為、あえて無視をした。
これは彼のためでもあり、他のメンバーのためでもある。

一人部屋に残った幸村は酷い緊張感に襲われており、今にも吐いてしまいそうな程の気持ち悪さを感じていた。


(食堂に桜華いるよね……)


そう。
食堂に行くとなると、必然的に桜華と顔を合わせる事になる。
いつもなら嬉しくて仕方ない事も、今この状況となると話は別だ。
どんな顔をして会えばいいのか分からない幸村は右手で顔を覆うと、重たく息を吐いた。


「……でも行かないとな」


答えが出ないままだが、ずっとここにいる訳にもいかない為、幸村は足取り重く食堂へと向かった。





幸村が到着する少し前。
桜華は既に食堂にいた。
昨日はあまり眠る事が出来ず、結局はほぼ徹夜で今に至る。
頭には未だに昨日の出来事が常に蘇ってきて、その度に彼女の表情を暗くさせた。

そんな中、続々と食堂に集まる氷帝メンバーには悟られない様にと笑顔で挨拶をする桜華。
だがそれだけでは目の下のくまを隠す事が出来ず色々と聞かれる羽目になってしまった。


「桜華ちゃんどうしたの?くま酷いC−……眠れなかったの?」

「何かあったのか?俺に言ってみそ!」

「二人とも、ありがとう……大丈夫だよ。枕変わってちょっと眠れなかっただけで……」

「アーン?お前はそんなにデリケートだったのかよ」

「どう言う事、跡部ってば!」

「堪忍な桜華ちゃん朝から」

「あはは、大丈夫……跡部がこういう奴ってのは分かってるし」

「ハハッ、さよか(ほんまおもろいなこの子)」

「でも本当にくまが凄いですよ桜華さん。寝不足で大丈夫ですか……?俺心配です」

「心配してくれてありがとう長太郎君。でも大丈夫だよ、みんなの迷惑にはならない様にはするから」

「倒れないで下さいよ……」

「日吉君に迷惑はかけないようにするよ!」


氷帝メンバーの質問や優しい気遣いに答えていると、ガチャ……とドアの開く音がした。
今この場には氷帝メンバーが全員揃っている。
となると、次にここに入ってくる人物は立海の面々しかいない訳で。
桜華は心臓が早まるのを感じた。


「やっと来たか立海、遅せーよ……寝坊か?」

「そういう訳ではない。それに食事の時間には間に合っているだろう」

「まあそうだな」

「ちょ!桜華先輩から離れろ氷帝っ!油断も隙もねえっ……!」

「アーン?朝から威勢が良いな立海の1年は」

「うるせえ!とにかく離れやがれ!」

「煩いぞ赤也あ!」

「ひいっ!すみません真田先輩っ……」

「ククッ……まあいい。……それよりも、幸村はどうした」

「!」


幸村と言う名前に、桜華がビクッと反応した。
わずかに震えている様にも見える。
その様子を見ていた数名が二人に何かあったと判断するのはごくごく簡単だった。

見かねた柳は顔を上げない彼女に優しく声をかけた。


「おはよう桜華」

「あ、おはよう蓮二……!」

「目の下のくまが酷いな……ちゃんと眠れなかったのか?」

「あ、うん……ちょっとね!でも大丈夫だよ、ご飯一杯食べて元気出すから!倒れたりしてられないし!」

「そうか……だが、無理はするなよ。辛くなったらすぐに言ってくれ」

「うん、ありがとう蓮二」

「当然の事だ」


どう見ても無理矢理笑っている桜華に気付きはしたものの、柳はあえて何も聞かなかった。
二人の様子を少し離れた所から見ていた仁王は、彼女の辛そうな表情に苛立ちが募り始めていた。
それは勿論、幸村への苛立ちだ。

桜華の反応や表情から、仁王は完全に原因が幸村であると確信した。
何があったのかは本人達に確認しないと分からないが、彼女が震える程の何かを幸村はしたのだ。
昨日の状況的にお風呂上がり……仁王の頭にはあらぬ考えが浮かぶ。


(まさか、幸村が……?いやしかしご丁寧に男女分かれとるここの風呂でどうしたら……ああもう、分からん事だらけじゃ)


あり得ない、そう思うも現に今目の前にいる彼女の顔はそれを物語っているようで。
仁王は必死に考えを纏めようとしていた。


その時。


「……おはよう皆」


食堂の扉が開き、幸村が暗い表情のままゆっくりと入ってきた。
桜華以外の全員の目線がそちらへと向く。


(……やっぱり俺の方なんて見てくれないよね)


自分の声に肩を揺らして反応した彼女を見て、幸村は辛そうに顔を歪めた。
こちらを見ない桜華……いつもなら「精市っ!」と笑顔で名前を呼んでくれるのに。
彼は自分のやってしまった事の大きさを改めて思い知った。


「やっと来たのか幸村……お前が最後だとは思わなかったな」

「すまない跡部。少し支度に時間がかかった」

「ったく……おい!全員揃った、朝食にするぞ」


跡部が指を鳴らすと、待ち構えていたかの様にすっと運ばれてきた朝食。
夕食と同様、朝から豪華過ぎる程のメニューだ。
立海メンバーはやっぱり凄い……と、朝食の豪華さに昨日の夕食を重ねたのだった。


ご飯中も桜華と幸村は顔を合わせる事も、話す事もなかった。
その様子に流石のブン太達も気付いたのか、柳にこそこそと「あの二人どうしたんだよ……」と問い訪ねていた。
しかしその問いを「食事中だ」と軽くあしらったのは、やはりこの場に二人が居る事、そして柳自身ちゃんとした原因が分かっていないからだろう。


「桜華先輩!」

「ん?どうしたの赤也……?」

「はい、これ!」

「あ、これ……バスの中でくれた飴?」

「っす!何か元気なさそうだから、甘いものでも食べて元気出して下さい!ねっ?」

「わあ……ありがとう赤也。大切に食べるね。きっとこれを食べたらすぐ元気になれちゃうだろうなあ!」

「はい!俺も早く元気な桜華先輩がみたいっす!」


ニコッと無垢な笑顔を浮かべる赤也に、桜華は今日初めてほっとした表情を見せた。
ちらっとそのやり取りを見ていた幸村も、彼女のその笑顔を見て今だけは赤也に感謝するしかなかった。


(……俺にもあの笑顔、もう一度向けてくれるのかな)


心の中で呟きながら、幸村は机の下でぐっと拳を握った。





そして午前の練習が開始された。
今日の午後には試合形式の練習もあるため、午前は各学校での練習、ミーティングとなっていた。
しかし桜華に至っては両校のマネージャー業をこなさなければならないため、立海と氷帝を行ったり来たりしていた。


「えっと次は立海のみんなにドリンクを……」

「おい桜華」


慌ただしく働いている桜華を、後ろから誰かが呼び止めた。
その声で誰だかすぐに分かった彼女は、若干面倒臭そうに振り向き、分かり切っている声の主を確認した。


「跡部、今忙しいから用事なら後で……あ、もしかしてそっちで何か足りないものあった?」

「ねーよ。……ちょっと来い」

「ちょっ…待って何跡部!私みんなにドリンク届けないといけないのにっ……!」

「樺地!ドリンクを立海へ持って行っておけ。何かあればこいつの代わりを頼む」

「ウス」

「え!?ちょっと待って跡部ってば……!(いきなり何なの……!?)」


反抗空しくずるずると腕を引かれて連れて行かれる桜華。
痛いと思いながらも、跡部のいつもと少し違う雰囲気に途中から反抗する事が出来なかった。


そのまま連れて来られたのは、とある一室。
「座れ」と言われ、ゆっくりとソファに案内される。
すとんと言われた通りに腰を下ろすと、跡部は彼女とほんの少し間を空けて隣に座った。

そして跡部はすぐに桜華に話しかけた。


「幸村と何があった」

「!」

「隠そうったって無駄だ。俺の眼力に狂いはないからな(まああんな分かり易い態度、誰でも分かるだろうけどな)」


いつもの様に俺様らしく笑った跡部だったが、次にはまた真剣な表情に戻すと話を続けた。


「朝からお前達の様子がおかしかったからな。何かあったんだろ、昨日」

「何もも、ないよ……」

「だから隠そうと思うな。すぐに分かる事だ。と言うかもう大体の人間が何かあったと気付いている」

「っ……(そんなに分かり易かったのかな……反省……)」

「俺に話せ。……桜華の元気がないとこっちも張り合いがねえんだよ」

「跡部……」


ふんっと鼻を鳴らしぶっきらぼうに言う跡部だが、その言葉の端々に優しさが垣間見えて、桜華はふっと笑った。
それと同時に、再び思い出される昨日の出来事。
先程まではマネージャーの仕事が忙しく考える暇さえなかった。
だが、跡部の言葉で脳内に蘇ってきた光景に桜華は顔を赤くし俯き、そしてその時の事を思い出しながらゆっくりと話し始めた。


「跡部が教えてくれたから露天風呂に入ったの……」

「ああ、中々良かっただろ?」

「うん……。……だけど、ね?その……」

「もしかして幸村もいたのか……?」


こくりと頷く彼女に、跡部の表情は曇った。
しかしそれだけであれ程にまでお互いがお互いを避けるはずがない。
跡部は静かに話の続きを聞く事にした。


「で、続きは?」

「そこに精市がいて……タオルも何もしてなかったから裸見られちゃったんだけど、とりあえず言われた通りにタオル巻き直してまた入ったの……」

「……(裸ねえ……)」

「暫く話してたんだけどその……急に精市がおかしくなって……」


少し震えている桜華。
それに気付いた跡部は優しく頭を撫でてやる。
いつもなら払い除けてしまいそうなその彼の行為も、今は少し安心したのか、彼女はまた話し出す。


「それで急にいつもと違うキスされて……っ、胸に触られたの……」

「!」

「いきなりでびっくりして……精市がいつもの精市じゃないみたいで、怖くて……」

「そうか……」


跡部は彼女の頬に手を添え、こちらを向かせ至近距離から見つめた。
その跡部の透き通るようなブルーの瞳に毎度の事の様にドキっとしつつも、余りにもそこに篭る感情が真剣そのものだったため、桜華は目を逸らせずにいた。


「それは勿論我慢出来ずに手を出してしまった幸村が悪い……が、桜華、お前も悪い」

「え……?」

「ただでさえお前は女だ。もう少しちゃんとした自覚を持て」

「自覚……?」

「男が好きな女の裸目の前にして我慢するなんざ、かなりの拷問だ。……俺達みたいな年頃にとっては特にな。幸村だって、いつもは優しいかもしれないがあいつだって男だ。桜華に対してそう言う事をしたいと思う気持ちがない訳じゃないだろうよ」

「!」


跡部の言葉が桜華の胸に突き刺さる。
彼が言う事が本当であれば、幸村はあの場で相当な我慢を強いられていた事になる。
彼女は幸村の気持ちも考えず呑気にタオルを巻いて隣に座り、知らないうちに彼を煽っていたのだと気付かされた。


(もしかして私、精市に酷い事した……?)


そう思い出すと、この原因を作ったのは誰でもない自分であったと感じる桜華。
自分があの時幸村が出るまで待っていれば……一緒に入らなければこんな事にはならなかった。
彼に我慢を強いる事も、その我慢が出来なくなってしまう所まで彼を刺激してしまう事も……。
それなのに、幸村の気持ちも知らずに触られた事に恐怖を感じ頬を叩いてしまった。

桜華は考えれば考える程どんどんと罪悪感に苛まれた。


「どうしよう跡部!私精市を傷付けちゃったかも知れないっ……!」

「アーン?」

「………精市の事殴っちゃったの!触られたのが怖くてつい……っ」


泣きそうになるのをぐっと堪えて、跡部に助けを求める。
不本意ではあるが、今この場で頼れるのは全ての事情を知っている彼しかいない。
桜華の動揺した様子を見た跡部は、ぽんぽんと頭を叩くといつものニヒルな表情を浮かべた。


「素直に謝ればいい。勿論桜華だけじゃなく、幸村もだ」

「謝る……」

「そうだ、ちゃんと話し合え。……幸村の様子を見ただろ?あいつも相当反省してるはずだ……お前にした事を後悔してると思うぜ」

「うん……」

「もし一人が怖いなら俺様もついててやる。……早く仲直りしたいんだろ」

「したい……!ずっと精市とこのまま何て嫌だもん……!」

「じゃあ、善は急げだ」

「そうだね……!今すぐ行かなきゃ……!」


やっと見せた小さな笑顔に、跡部は表情には出さないものの心の中でほっとした。


「ありがとう跡部……すっごく気持ちが軽くなったよ!話、聞いてくれてありがとう……私の事気にかけてくれて本当にありがとうねっ!」

「……いい、気にするな(ったく……桜華は何も分かっちゃいねーな……)」


彼女の屈託ない笑顔に胸が高鳴った跡部。
俺も相当のお人よしだな……と思いながら、「戻るぞ」と桜華の腕を引いてコートに戻るのだった。





(跡部って本当はすっごく優しいよね!)
(本当はって何だよ。俺様はいつでも優しいだろうが)
(えー……)
(アーン?お前、俺様の事を何だと思ってやがる)
(お金持ちで偉そうな俺様……だけど、やっぱりそれ以上に優しい人だって今日はっきり分かったよ)
(全く……お前みたいな女は初めてだ)
(?)
((だから手に入れたいと思うんだな……))







あとがき

合宿もあっという間に佳境です。
跡部君は毎回いい働きをしてくれます。
早く二人を仲直りさせたい。