39 離れないで



桜華と跡部が部屋で話している頃。
立海が使っているコートでは大変な事が起こっていた。


「っ……!」

「幸村お前っ……!桜華を傷付けて何しとんじゃ……!」

「おい落ち着けよ仁王!っ……ジャッカル止めろ!」

「いや分かってるけどっ……!」

「やめたまえ仁王君!貴方と言う人はどうしてそう……!」

「落ち着かんか二人共!いきなりどうしたと言うのだ!」

「これが落ち着いていられるかっ……幸村は、幸村は……!」


肩で息をしながら興奮している仁王は、目の前の彼を睨んだままだった。
睨まれている幸村は、ぐっと唇を噛みしめながら殴られた右頬を手で押さえている。
いきなり始まった喧嘩に他のメンバーは何事かと思ったが、この二人が喧嘩している理由が桜華だという事は仁王の言葉からして明白だった。


(後方から見守るつもりだったが……まさかこの様な事になるとはな……)


柳は少し眉間に皺を寄せると、先程起こった喧嘩の発端を思い返した。




仁王が幸村に殴りかかる少し前……二人はコート脇のベンチにいた。
幸村が座って試合結果を確認している最中、彼に近付いた仁王。
何か怒りにも似た険しい雰囲気を纏っている彼に気付いた幸村は、何事かと思いそちらを向いて話しかけた。


「どうしたんだい仁王」

「……幸村、お前さん桜華と何かあったんじゃろ」

「!」


仁王の質問に戸惑う幸村。
何かあったのか……そう聞かれるとあった所の話ではないのだが、彼にこの事を話すのは憚れた。
何故なら、彼も桜華の事が好きで、大切に想っている事を知っているからだ。


「……どうしてだい?別に何も……」

「ない訳ないじゃろ。昨日の夜……桜華が泣きながら走っとったのに」

「!」

「廊下ですれ違った時にの。……桜華は何もないと言うとったが、部屋に戻った幸村の様子も変じゃったし、今日のあの態度…どう考えても何かあったとしか思えん」

「っ……」


仁王に真剣な眼差しに、流石の幸村も怯んだ。
思わず逃げる様に視線を逸らす。


(あんな事言える訳ないじゃないか……。桜華を最低な方法で傷付けてしまった事なんて)


心の中で呟く幸村。
それと同時に、彼女が泣きながら廊下を走っている姿を思い浮かべ、胸を痛める。
そうさせてしまったのは他の誰でもない自分自身だという事に次は憤りを感じ、ぎりっと歯ぎしりをしてしまう。

イラついている様にも見える幸村の態度に仁王は深く溜息をつくと、少し声を低くして問い詰めるように話しだした。


「あの時桜華はお風呂上がりじゃった……そして幸村も……。……まさか、お風呂で何かあったんか」

「!?」

「その表情図星なんじゃな」

「それ、は……」

「幸村お前……桜華に何したんじゃ……」


より声を低くして問いただす仁王。
だが幸村は俯いて何も答えない。
その事に彼の苛々は募るばかりだった。


(何も話さん気か幸村……俺もそろそろ限界じゃ)


仁王が自分自身の理性に限界を感じ始めている中、諦めた様にようやく口を開いた幸村はとても普段の彼からは想像出来ない様な小さな声で話し始めた。


「あの時俺は一人で露天風呂に入っていて……そしたら桜華が入ってきて」

「……」

「桜華は最初タオルを巻いてなくて……俺はその姿を見ちゃって……。流石に出て行くかなと思ったら、タオルを巻いて俺の横に座ってきてそれで……」

「それで何じゃ」

「桜華のあんな姿見るの初めてで、理性が抑えられなくなって……」

「まさか幸村お前……」

「……無理矢理酷いキスをして、気付いたら胸に触ってた……」

「!」


仁王は自分の頭に一気に血が上るのが分かった。
幸村が、桜華に触った。
彼の言う事を聞いていると、そこに彼女の同意はない。
我慢出来ずに無理矢理……という事だ。
そんな事が、彼氏であったとしても許されるはずがない。


「で、触ってどうしたんじゃ……まさかそれ以上は何もしてないじゃろうな……」

「桜華に頬を叩かれて目が覚めた。気付いた時には桜華はそのまま走って出て行ったよ」

「何しとんじゃ……」

「本当に我を忘れていたんだ……今は反省してる」

「お前が反省したとしても、桜華がどれだけ傷付いたか……どれだけ恐怖じゃったか……お前には分からんじゃろうな……!」

「っ……」

「彼氏じゃからって何でもしてええとでも思ったんか!?同意もせずそんな事したら、それは強姦と変わらんじゃろ、なあ!?」

「!」


幸村がはっと顔をあげた瞬間、彼の頬に仁王の拳が入った。
その勢いでベンチから崩れ落ちる幸村。
ガタガタッという凄まじい音に、練習をしてたメンバー達も何事かと駆け寄り、そして冒頭に至るのだ。


二人のやり取りの一部始終を見ていた柳は、思い返しつつ早く止めに入るべきだったと後悔した。


(俺とした事が……まさかあの仁王が精市に殴りかかるとは……)


仁王は全員の必死の制止も振り切り、幸村の胸倉を掴む。
いつもの飄々とした彼からは考えられない様な険しい表情と怒りに満ちた声でその体勢のまま幸村を罵倒する。
幸村はそれをただただ目を逸らしながら聞くしかなかった。


「お前は桜華を傷付けたんじゃ……!なあ、大切なんじゃろ?桜華の事、好きなんじゃろ!?」

「好きだ、好きだから我慢出来なかった……」

「そんな言い訳はいらん!」

「っ……」

「……もう幸村に桜華を渡したままには出来ん。桜華は俺が守る」

「!」


すっと掴んでいた胸倉を放すと、仁王は何か覚悟した様な表情を湛えながら顔を上げた。
するとその瞬間彼の動きが止まる。
幸村は何があったのかとその視線を辿った。


「みんなどうしたの?練習は……?」


そこにいたのは、この状況に驚きの表情をしている桜華だった。
彼女の登場に場の空気は一気にしん……と静かになる。
誰も何も言わない中、桜華は幸村の頬が赤い事に気付く。
声をかけようと思ったが、それは仁王によって遮られた。


「っ……桜華、ちょっと来んしゃい!」

「え?わ、ちょっと雅治っ……!」

「仁王、何処へ行く」

「……桜華に話を聞くんじゃ。止めても無駄じゃき参謀」

「止めるつもりはない、ただ、深入りはするな」

「っ……」


柳の一言に眉を顰めた仁王は、ふいっと前に向き直すとそのまま桜華を引っ張っていった。
行ってしまった二人の後姿に、流石の彼もはあ……と溜め息をつき、そして気持ちを切り替える様に倒れている幸村を支え立ち上がらせた。


「すまない蓮二……ありがとう」

「礼はいい。……それよりも、このまま仁王と桜華を二人きりにするのはあまり良い予感がしない……後を追え精市」

「……そうだね。俺もちゃんと桜華に謝りたい。いつまでもこのままは嫌なんだ」

「ああ、それがいい。桜華も分かってくれるだろう」

「うん、そう信じてるよ。……すまないが、後は任せたよ蓮二」


その場の事を柳に託すと、幸村は駆け足で二人を追った。
嵐の様に起こった出来事に動揺している他のメンバー達に、柳は「練習を再開するぞ」とまるで何もなかったかの様に自然に促した。
何か気になっている様ではあったが、皆はこの件に関してはこれ以上の詮索はしてはいけないのだと理解し、各々練習を再開させた。







「どうしたの雅治いきなり……」

「……幸村から話聞いたんじゃが」

「?」

「無理矢理触られたんじゃろ、身体……」


仁王が真剣な目で桜華を見つめる。
怒りに満ちているその瞳に少し怯えるも、その奥には自分の事を心配してくれているという感情が見えたような気がして逸らす事は出来なかった。
どこか彼と跡部は似ていると感じながら、桜華はゆっくりと言葉を紡ぎ出した。


「触られたよ、精市に……」

「怖かったじゃろ……」

「うん……だけど私も悪いんだ、精市の気持ちなんか何にも考えずに一緒にお風呂に入っちゃったから」

「自分を責めるんじゃなか。桜華は何も悪くない……悪いのは……」

「ううん、女だからこそ自分でしっかりしないといけないのに……むしろ精市には悪い事しちゃったって反省してるんだ」

「!」


どこか寂しそうに笑う彼女に、仁王はどうしようもない感情に苛まれた。
何故そうやって幸村を責めず、自分が悪いと言うのか……仁王には理解出来なかった。

が、同時に再び湧き上がる幸村への怒り。
やられた側の桜華に罪悪感を感じさせるなんて、どれだけ最低なのだろうと。

もう彼に渡したままには出来ない。
仁王は一度小さく舌打ちをすると、ぐっと桜華を強く強く抱き締めた。


「わっ……雅治っ!?(どうしたの!?)」

「俺にしんしゃい……俺なら桜華に無理矢理そんな事したりせんよ?怖い思いもさせん……じゃから……っ」

「雅治……」

「……桜華を傷付けた幸村に、もう渡したままにしとけん」

「え……?」

「好きなんじゃ桜華の事が……ずっとずっと好きじゃった」

「!」


更にぐっと腕を強められ、その力に少し苦しくなる桜華。
だがそんな事よりも、彼の悲痛にも満ちた声でのいきなりの告白に思わず泣きそうになってしまった。


(雅治にそんなに大切に想われてたんだ私……嬉しいな……。だけど……)


「ごめんね雅治……私、何があっても精市の事が好きなんだ」

「俺じゃいかんのか……?俺なら桜華を傷つけたりせんよ……?」

「雅治が優しいのは知ってるよ?私も雅治の事が大好き……だけど、その好きは……」

「友達以上ではない、か……」


桜華はこくりと頷く。
彼女の中で、幸村への気持ちは圧倒的なのだ。
何があっても、誰よりも好きでいたいと思える存在……それが幸村でない事を、桜華は考えられなかった。

それでも、大好きな仁王からの告白に答えられない辛さ、何よりも自分を心配してくれた彼の優しさ……桜華は謝罪と感謝の気持ちを込め彼の背中に腕を回した。




その時。


「……桜華」

「精市……!」


幸村が建物の蔭から出てきた。
実は少し前に彼等を見つけたのだが、二人の様子に出るに出られなかったのだ。
だが、桜華が仁王を抱き締めたその光景に辛くなってきたらしく、やっと二人の前に姿を見せた。


「精市、まさかずっとそこにいたの……?」

「出るに出られなくてね、ごめん……」

「幸村……」


仁王は桜華を抱き締めていた腕を解くと、険しい表情で目の前の彼を見つめた。
それに答えるように幸村は真っ直ぐと仁王を見据え、先程とは違うしっかりとした口調で話し始めた。


「桜華を大切に出来なくてすまなかった。全ては俺の責任だ」

「……」

「だけど、俺は誰にも桜華を渡したくない。例えどれだけ嫌われたとしても……俺は桜華の事が好きなんだ」

「!」


言い切ると、幸村は桜華に近付き深々と頭を下げた。
突然の行動に彼女は戸惑い、おろおろしながら「精市頭上げて!」と言う事しか出来なかった。
だがその言葉を聞いても幸村は顔を上げようとはせず、頭を下げたまま少し震える声で喋り出した。


「本当にごめん桜華……」

「精市……」

「あんな姿の桜華が隣にいて……興奮しちゃって。駄目だって分かってたのに、止まらなくなった……」

「うん……」

「いきなりあんなキスして身体触って……桜華を傷付けたのは分かってる。謝って許される事じゃないっていうのも分かってる。だけど……」


彼はそこまで言うと、すっと頭を上げ真っ直ぐに桜華を見た。
彼女も自分を見つめる蒼い瞳を見返す。


「桜華の事が好きなんだ……好きだからした。都合がいいかもしれないかもしれないけれど、俺は桜華と離れたくない。お願い、俺から離れないで……」

「精市……離れないよ、大丈夫だよ……?」

「桜華……」

「さっき跡部に言われたんだ、お前も悪いって。ごめんね精市……精市の気持ちも考えないであんな事して」

「……桜華は悪くないよ。悪いのは俺だから」

「ううん、そんなことない。私にも責任あるって思ってる……だからお互い様ね?」

「……」

「あとね、さっきも言ったけど私も精市から離れたくないって気持ちは一緒!だって精市の事、大好きだから」

「!」


彼女の言葉に幸村は居てもたってもいられなくなって、優しくぎゅっと抱き締めた。
その優しい抱擁に、やっぱり精市の事が好きだなあ……と桜華は改めて感じた。


「お前さんら、俺の事忘れるんじゃなか」

「あ……!(そうだった雅治がいたんだった……!恥ずかしい……!)」

「仁王……」


放っておかれた仁王は、はあ……と溜め息を一つつくと左手で髪を掻き上げた。
そして改めて二人に向けたその目は、いつもの飄々とした彼のものだった。



「全く、目の前でたまらんぜよ」

「ごめんね……でもやっぱり桜華は渡せないよ」

「折角桜華を手に入れられるチャンスやと思ったのにのお……残念じゃ」


そう言うと仁王はその場から立ち去ろうとした。
背中にどこか淋しさが残るのは二人の気のせいじゃないはずだ。
その姿をじっと二人で見ていると、急に彼が振り返りニヤリと笑った。


「幸村、もし次また桜華を傷付ける様なまねしたら……今度こそ桜華は貰うぜよ」

「ふふ、肝に銘じておくよ」

「じゃあ後はお二人さんで、仲良くしんしゃい」


再び前を向いた仁王はひらひらと手を振りながら去って行った。
彼の姿が見えなくなると、幸村は改めて桜華を抱き締めた。


「桜華、本当にごめんね……」

「もういいよ?私もごめんなさいだから……ね?」

「……仲直り、してくれる?」

「うん!」

「よかった……本当に良かった……」


ほっと胸を撫で下ろす幸村。
桜華もやっと彼と仲直り出来た事に素直に喜びを感じていた。
彼と喧嘩してからというものの時間が一秒一秒長く感じ、もう何日も話していない様な感じさえしていた。
今こうして普通に話せている事が、彼女にとっては何よりも幸せだった。


「……桜華」

「ん?」

「キス、してもいい……?」

「あ……」

「優しくするから……ねえ、だめかな……?今すっごく桜華とキスしたいんだ」


彼に見つめられ顔を赤くする桜華。
その反応に微笑むと、幸村は念押しかの様にもう一度「ダメ?」と少し首を傾げてみた。


(キス……!あ、どうしよう……誰も見てないかな?こんな所で?ううーん……恥ずかしいなあ……)


幸村の申し出に暫く迷っていた桜華だったが、彼のお願いには構わなかったようだ。
照れながら、おずおずと彼の望み通りの言葉を紡ぐ。


「いい、よ……?」

「ん、ありがとう桜華……愛してる……」

「ん……」


ゆっくりと触れ合う唇の柔らかさに彼女は安心した。
それは幸村にも言える事で、桜華にキスする事でやっと元に戻れたような気がした。
そして改めて彼女への気持ちを確認したのだった。






(精市、あのね……)
(ん?どうしたの?)
(その……ちょっとえっちなキスあるでしょ…?)
((ああ、舌入れるやつのことかな)……それがどうしたの?)
(……嫌いじゃ、ないよ?)
(!)
(昨日は優しくなくて少し怖かったけど……嫌いじゃ、ないから……!)
(じゃあ、またしてもいい……?)
(優しくしてくれるなら、いいよ……?)
((あ、だめだ可愛すぎる))







あとがき

とりあえずの仲直り。
仁王君はいつもこんな役回りで申し訳ないです。