・ずっと、ずっと【前篇】

「桜華の事が好きなんだ。だから、俺と付き合ってほしい」


そう精市に言われたのは、つい三か月前の事。
テニス部の部長とマネージャーとして、仲は良かった。
でも、まさか恋愛対象として見られていた何て思いもしてなくて。
それでも私は精市が好きだったから凄く嬉しくて、すぐにOKの返事を出した。
その時の精市の顔が凄く嬉しそうだったのは、今でも容易に思い出せる。


「好きだよ、桜華。ずっと俺の傍にいてね」

「精市もずっと、そばにいてね……約束」

「うん、約束するよ。絶対に離れないし、離してなんかやらないから……」


二人きりになるといつも、精市は必ず好きだと言ってくれる。
ずっと傍にいるって約束もしてくれる。
そして言い終わると、優しくキスをしてくれる。

だけど三か月たった今でも、精市はそれ以上をしてこない。
大切にされているのかもしれない。
でも思春期の男が、キス以上の事をしたくないはずはない。
だったら、やっぱりそれはまだまだ女としての自分の魅力が足りないのかな……とそんな事ばかりを悶々と考える日々が続いていた。




「あ、筆箱がない!」

「何してんのよ桜華。もしかして家?」

「うーん……。……あ!分かった、部室だ!蓮二にペン貸してそのままにしてた」

「それなら早く取ってきちゃいなよ。まだ間に合うよ」

「そうだね、ちょっと行ってくる!」


授業で絶対使う筆箱を部室に置いてくるなんて、今日はツいてない。
溜息をつきながらも、私は部室へと急いだ。


「……っていうか鍵、開いてるのかな?ま、いっか。なかったらまたダッシュで取りに行こ……!」


呑気にそんな事を考えながら走っていると、ようやく部室前に到着。
しかし、少し中の様子が変だ。
人のいる気配がする……と言うよりは、明らかに女の子の声がする。


(ここは男子テニス部の部室なのになあ……)


さては、仁王あたりが連れ込んでるな?……何て、悠長に考えていた私の頭の中を、一番よく知っている声が通り過ぎて行った。


「大丈夫、ばれないよ」

「ふふ、私は別にばれてもいいけど?」


……何がばれないのだろう。
聞こえてきた声に、いやに心臓が速くなるのが分かった。
聞きたくない……だからこそ中で何が起こっているのか、早くドアを開けて確かめたい。
そう思っているのに、体が動かない。
聴覚だけが異様に研ぎ澄まされて、中の声や音をどんどん拾っていく。


「んっ……幸村君、手付きがやらしい……」

「今からもっとやらしいことするんだから、これ位どうって事ないでしょ?君だってもうこんなにして……やらしいね」

「っ……ぁっ……恥ずかしい……」

「(精市……)」


先程よりもはっきりと聞こえてくるその声に、もう中を確認しなくても何をしているか分かってしまって。
分かると同時に私は膝から崩れ落ち、目からはぼろぼろと涙が溢れ出てきた。


「私に何にもしてこなかったのは、こういう事だったんだ……。はは、馬鹿みたい。大切にされてるなんて……本当に魅力がなかっただけじゃない……」


ずっと否定したかったそれをもう否定し続ける事が出来なくなってしまった私は、ふっきる様に立ち上がった。
溢れていた涙も、拭った。
そして、ゆっくりと部室のドアを開けた。


「きゃっ!……え、あの子って……幸村君……?」

「桜華……どうしてここにいるんだい……?」


部室に入ると、女の子はほぼ裸、精市も上半身が肌蹴た格好で密着していた。
そんな二人は私が入って来た事に驚きを隠せない様だった。
精市もいつもの余裕の表情はなく、少し怯えた様子さえあった。


「筆箱を忘れたから取りに来ただけ。部室が開いてて助かったよ。……でも、私が言うのも何だけど、そういう事するなら、鍵、閉めておいた方がいいよ。じゃあ。」

「待って、桜華!」


私が行こうとすると精市は女の子の上から離れ、こちらに向かってきた。
そして、ぐっと力強く腕を掴んできた。


(さっきまであの子を触っていた手で触らないでっ……!)


私はとっさにその手を払った。
自分の腕には、ぞわぞわっとする程の鳥肌が立っていた。


「どうしたの幸村君。私なんかより、そっちの子に構ってあげなよ。中途半端は可哀想じゃじゃないかな?二人のお楽しみの邪魔、これ以上するつもりないから。……さようなら」

「っ……桜華……」


私は平常心を装って部室を出た。
その行動に、自分は本当に可愛くないと思った。
あそこで、「何してるの精市!やめてよ!」と泣いて縋れたらどれだけ楽だったか。
でも出来なかった……精市が好きだから、好き過ぎて出来なかった。
名前さえ、呼ぶ事が出来なかった。

「あーあ、終わっちゃった……。何だかあっけなかったなあ……」


中学三年生。
私と精市の恋人関係は、たった三か月で終わってしまった。




精市と別れてもう三年近くが経った。
私はそのまま立海の高等部に進学し、何事もなく平穏な毎日を過ごしていた。

こんなに時間が経っているのに、たまに思い出す。
精市の笑顔とか、別れ際の必死な顔とか。
今でも精市とはたまにすれ違うけど、お互い顔も合わせない。

……でも知ってる。
すれ違った後、必ず精市が振り返ってる事。
そして自分でも気付いてる……無意識に精市を目で追ってる事、声が聞こえる度心のどこかで安心してる事。

まだ、精市を好きだという事も。




「桜華、また補習なんだって?今度はどうしたの?」

「宿題の提出忘れ……に加えて授業中の居眠り」

「まあそんな事だろうと思ったけど。ま、頑張りなよ。じゃあねー」

「何か急いでるね、どうしたの?」

「ああ、今日彼氏とデート。待ち合わせしてるから」

「そっか。楽しんできてね」


デートかあ……精市と別れてから誰とも付き合っていない私にはもう通り昔の出来事だ。
合コンとかにも何回か行ったし、それなりにいい人もいたけれど……頭には必ず精市の存在があって、結局付き合う事が出来ない。


(私は一生このままかもね)


そんな先の未来を考えながら、私は補習を始める事にした。
幸い先生は来ておらず、自習の様なものだった。


「面倒臭い……分かんないし。はあ、お腹空いたし帰りたい……」


早速の手詰まりにペンを置き、ぼーっと窓の外を眺める。
部活をしている人や、友達と帰っている人、色んな人が見える。
高い所からの人間観察も悪くない……なんて思いながら辺りを見回していると、そこに見えた懐かしい景色に目を奪われた。


「テニスコート……」


そこには、前は毎日の様に見ていたテニスコートが広がっていた。
高等部に上がり、私はテニス部のマネージャーにはならなかった。
したくなかったなんて言ったら嘘になるけれど、近くに精市がいるそんな環境に耐えられる強い心は生憎持ち合わせていなかった。


「……やっぱり部長なんだね、精市は。あの頃と全然変わってないや……」


精市は中学生の頃と同じ様にジャージを羽織っており、下級生やレギュラーに指示を飛ばしている。


(あの場所に自分もいれたら……なんて、今更そんな事を考えても遅いだけなのに)


暫く外を眺めていると、ふいに襲ってきた睡魔に私はあっさりと心を許してしまった。
補修なんて出来る気分でもなくなっていたし。


「ちょっとだけ休憩しよっと……」


私はそのまま腕を机に、そしてその腕を枕にして眠りについた。




今日も、いつもと変わらない放課後だった。
いつも通りテニスコートに向かい、いつも通り後輩達に指導をする。
そう、本当にいつもと変わらない日常の一コマ。


「精市、すまないが頼まれ事をしてくれないか」

「蓮二。うん、いいよ。何をすればいい」

「教室に筆箱を忘れてきてな。自分で取りに行けばいいのだが、生憎手を離せない。……取りに行ってもらえないだろうか。今暇そうなのは精市だけの様だしな」

「仕方ないな。いいよ、丁度手が空いたところだ……行ってくるよ」

「ああ、助かる。窓側の席の後ろから二番目が俺の席だ」

「分かった。俺がいない間は頼んだよ」


蓮二にそう伝えると、俺はそのまま蓮二の教室へと向かった。


「筆箱か……。確か、あの時桜華が忘れてたのも筆箱だったな……」


あの時……俺が浮気をしていた現場に、桜華が来た時。
その時見た、桜華の悲しそうな顔、いや悲痛と言った方が正しい様な……あの表情が今でも頭から離れない。


(いや、離れさそうとしないからだな……自分が)


俺は今でも桜華が好きだ。
あんな事をして、桜華を傷付けた自分にこんな事を言う権利はないのかもしれない。
だけど、今でも忘れられない。
俺はあの後すぐ女を切り、それから今まで誰とも付き合っていない……桜華と付き合う事以外考えられなくて。


「……これだな。全く、蓮二もたまに抜けてるんだから」


考えながらもきちんと筆箱を見つけた俺は、そのまま教室を出てテニスコートへと戻るために廊下を歩いていた。
だけどその足はすぐに止まる事になる。


「……桜華?」


さっきは気付かなかった……机に伏せて寝ているから顔は見えないけれど、間違うはずがない。
窓際の席に一人ぽつんと座っているのは、紛れもない桜華の姿だ。


「どうしてこんな時間に教室で居眠りなんか……」


俺は、吸い寄せられるかの様に教室の中へと足を進めた。
桜華の席の前まで行くと、腕の隙間から補習プリントと思わしきものがはみ出ているのに気付く。


「桜華、高校生になってもこういう所、変わってないな……」


中学生の頃も、よく桜華は補習を受けていた。
その度に真田がたるんどる!……と、怒鳴るのが日常だった。
俺との事があったせいか、その頃からテニス部員とは少しずつ距離を置いていたみたいだけれど。
俺はそのまま前の席に腰を下ろした。
すると桜華は「んっ……」と小さく声を漏らしながら、顔を横に向けた。


「桜華……」


俺は久しぶりに近くで見た桜華の顔に頬がゆるゆるに緩むのが分かった。
だけどそれを戻す気は更々なくて……そんな人には絶対表情のままゆっくりと起こさないように、頭を撫でてみた。


「……好きだ、桜華。今でも、忘れられないんだ……」


聞こえていないのをいいこ事に、俺は今まで言いたくて仕方なかった事を口にしていった。


「今でも桜華の事抱き締めたくて……キスしたくて……。俺が悪いのに、都合いいかもしれないけれど……本当に好きなんだ」


そして、あの時からずっと言いたかった言葉を、ようやく言う事が出来た。


「ごめん……本当にごめん桜華……」


言い終わった時、目から涙が出ているのが分かった。
慌てて拭おうとしたが、もう遅かった。
俺の涙が一滴、桜華の頬に落ちた。




冷たい何か……水の様なものが頬に落ちたのが分かった。
私は何だか凄く幸せな夢を見ていた様な気がして……だから目覚めたくなくて。
出来ればそれに気付かずにいたかったけれど……それでも気付いてしまった瞬間、あっさりと目が覚めてしまった。


「ん……だれ……」


目を開けると、誰かが前にいるのが分かった。
位置的に顔が見えないけれど、男の子だというのは何となく分かった。
それに、それは制服ではなく、とても見覚えのある服だったから……私は一気に目が覚めて、慌てて顔を机から離した。


「せ、いち……?」

「桜華……っ……」


目の前にいたのは精市だった。
そして、私の頬に落ちた冷たいものは、精市の涙だった。
驚いた拍子に名前で呼んでいた事に気付いた私は、自然を装いそれを訂正した。


「……幸村君、どうしてここに?何で泣いてるの……?」

「桜華の姿が見えてここに来たら、何だか色々思い出しちゃってね……。はは、こんな風に泣き顔なんか見られたの、初めてだよ」


精市はそう言いながらゆっくりと笑った。
その笑顔は、昔と何ら変わりなくて。
やっぱり、綺麗でかっこいい。


「幸村君、部活行かなくていいの……?その格好、途中たったんでしょ?」

「うん……。でも、桜華に少しだけ聞いてほしい事があるんだ……いいかな、時間を貰っても」

「……いい、よ」

「ありがとう」


精市は真剣な目で私を見つめると、一番聞きたくなかった事を話し始めた。


「俺があの時、浮気をした理由。……浮気と言っても、俺は別にあの子が好きじゃなかったし、何とも思ってなかった。余計に性質が悪いかもしれないけれど、でも実際そうだった」

「うん……」

「体だけの関係……とは言っても、あの時が初めてで、未遂に終わったんだけど。……どうして俺が桜華じゃない、他の子を抱こうとしたのかなんだけど……」


私は耳を塞ぎたかった。
これ以上聞くと、今まで押し殺してきた感情が溢れ出しそうで怖かった。
でも、精市は続けた。
私をまっすぐ見つめて。


「……本当は、桜華としたかった。当たり前の話……だって愛してたのは桜華だったから。……だけどね、桜華を抱きたかったけど、桜華を大切にしたくて、傷つけるのが怖くて……。でも年頃だったしそういう事に興味があって……桜華を抱く前の練習だと思って割り切って他の子を抱こうとした……」

「最低……」

「今考えると、本当にそう思うよ……。若気の至りってだけじゃ許してもらえない事だ。本当に悪かったって思ってる……」


精市の話を聞いて、私は最低だと言った……素直にそう思ったから。
精市も自嘲気味にそう思うと答えた。
そして次の瞬間、私は泣いていた。
精市は驚いていたが、慌てる様子はなかった。


「……私、そんなに大切にされてたんだね」

「大切にし過ぎちゃったみたいだけど……」

「魅力がなかった訳じゃなかったんだよね……」

「魅力がないなんて、そんな事ある訳ないじゃないか……。魅力的過ぎたんだよ、俺には眩しい位にね」


精市の言葉を聞いてもう抑えきれなくなってしまった私は、今まで隠していた思いを無意識に口にしていた。


「好き、精市……」

「桜華、それって……」

「あの後も、ずっと忘れられなくて……精市の事が頭から離れなくて、誰も好きになれなくて、付き合えなくて……。今でもあの頃と変わらない位沢山精市が好きなのっ……」


名前呼びもお構いなしに、私は精市に自分の思いを伝えた。
精市はさっきよりも驚いていた。でも、ゆっくりと私に顔を近づけると、綺麗な微笑みを湛え、こう言った。


「俺も、ずっと桜華が好きだった。一時も忘れられなかった……。だから、俺もあの日から誰とも付き合ってないよ。桜華以外なんて、考えられなかったから」

「精市も……?」

「うん、俺も」


精市も一緒だったと知って、私は少し笑ってしまった。
そんな私を見て精市は安心したのか、もう一度私を見つめて言った。


「もう一度、俺と付き合ってほしい……駄目かな……?」

「今度は絶対あんな事しないって約束してくれるなら」

「しない、約束するよ。……好きだ、桜華」


こうして、私と精市は約三年越しにもう一度一緒にいられる事になった。
離れていた時間が長かった分、それを埋めるのには少し時間がかかるかもしれない。
だけど、例え時間がかかったとしても、私達は急ぐ必要がない。

もうずっと、離れる事はないのだから。




(そういえば精市、一つ聞いてもいい?)
(何だい?)
(ずっと誰とも付き合ってなかったって事は、もしかして……その……)
(うん、童貞だけど?)
(立海一モテる精市が童貞……!?)
(……すぐそれも卒業出来ると思うけど)
(……え?)