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 玉山家に来てから二年が経ったある日、俺が啓兄と同じ中学に上がったばかりの頃だ。
 俺は授業が終わっていから、いつものように学校近くの土手に寝転がり、啓兄が下校してくるのを待っていた。
 行きも一緒に登校するし、帰りはいつもこの土手で待ち合わせている。啓兄のクラスは帰りのホームルームが長めなので、大抵俺が待つことになる。
 周りからは兄弟で気持ち悪いほどに仲がいいと言われるが、俺は啓兄以外に何を言われても別に気にならない。
 ぼーっと雲が流れていくのを眺めていると、どこからか猫の鳴き声が聞こえた気がした。
 きょろきょろと辺りを見回すと、高架下に段ボールが置いてあるのが目に入った。動物に興味はないが、時間を持て余していたことも手伝って、段ボールに近づく。
 覗き込むと、案の定猫がいた。ぼろぼろのタオルの上に、白い子猫が横たわっている。浅い呼吸を繰り返していて、だいぶ弱っているようだ。
 多分もうすぐ死ぬだろう。でも俺には関係ない。
 興味を失って立ち上がろうとすると、頭上から啓兄の声が降ってきた。
「周、何してんの?…あ、猫じゃん。かわいいなぁ」
 啓兄は段ボールの中を覗き込んで、顔を綻ばす。
「でも、だいぶ弱ってるな」
 啓兄は子猫をそっと抱きかかえて、心配そうに頭を撫でる。
 子猫も啓兄に抱きしめられて逝けたら、悔いなく往生できるだろう。
「見ろよ、周。この子俺と一緒だ」
 啓兄は子猫の左目元にある茶色の小さなぶち模様と、同じ位置にある自分の泣きぼくろを指さして言う。
 啓兄と猫が同じな訳ないだろ。そう思いつつも口には出さない。
 啓兄はそっと子猫を段ボールに戻すと、名残惜しそうに猫の背中を撫でてから立ち上がった。
「飼ってやれたらいいんだけどな…」
 申し訳なさそうにぼそりと呟いて、立ち去る啓兄の丸まった背中を見た瞬間、口を突いて出た。
「飼おう」
 言ってから、自分の言葉に驚く。啓兄も驚いたように振り向く。
「何言ってるんだよ。裕美さんが許すわけないだろ」
 啓兄の言うとおりだ。玉山夫婦は俺たちを引き取るのを渋ったくらいだ。そこにさらに猫が増えるとなったら、堪ったものではないだろう。
「俺が説得するから」
 啓兄は誰よりも優しいから、きっと子猫を置いて行ったことを、ずっと後悔する。猫を見るたびに、今日のことを思い出すかもしれない。猫を見捨てたぐらいで、啓兄は何も悪くないのに、啓兄はきっと自分を責める。俺はそれが堪らなく嫌だ。啓兄にはずっと笑っていて欲しいから。
「周…、ありがとう」
 そっと微笑む啓兄に、俺はいつも心を奪われる。


  *


 玉山夫婦を何とか説得し、俺たちは猫を飼い始めた。
 衰弱した猫を見ている啓兄は辛そうだったけれど、だんだんと猫が回復していくに連れて、啓兄にも笑顔が戻ってきた。
 二週間後には、猫はすっかり元気になって、家の中を歩き回ったりすることが出来るようになり、やがて万全の状態にまで回復した。
 猫は俺より啓兄に懐いていて、啓兄が帰宅する気配を察すると、啓兄が玄関扉を開けるより先に、玄関まで来て啓兄を出迎える。
 今も、庭から摘んできたねこじゃらしで猫と戯れる啓兄はとても楽しそうだ。
 啓兄が嬉しいと俺も嬉しい。
 でも、俺は釈然としない。猫が家に来てから、啓兄は猫にかかりっきりだ。学校から帰ったらすぐに猫と遊ぶし、俺といる時でも猫の話ばかりする。たかが猫が啓兄の心を占領しているのが、俺は気に喰わない。
 俺は喜ぶ啓兄が見たくて、猫を拾った。その結果、啓兄はとても楽しそうにしている。もちろんそれは俺も嬉しい。だが、まるで自分が啓兄と対等だとでも思っているかのような不遜な猫が、俺は嫌いだ。
 ねこじゃらしに夢中だった猫は俺と目が合うと、毛を逆立て、逃げるように部屋を飛び出していった。
「ぶちは周が拾ってきたのに、周には懐かないの何でだろうね」
 啓兄が不思議そうに、猫が飛び出していったドアを見る。
「さぁ」
 猫も本能的に俺に何かを感じているのかもしれない。


  *


 その夜、歯を磨きに洗面所に入ると、洗濯機の上に猫が座っていた。二層式洗濯機の中で回る水を、洗濯機のふちに座って上からずっと眺めている。
 この猫は水に興味があるようだ。蛇口から水が流れていると、近寄って行って前足で触ったり舐めたりする。
 俺はふと、ある衝動にかられた。猫は回る水に夢中で、そっと傍に近づいていく俺に全く気づいていない。
 頭の片隅で、警告音が鳴り響く。こんなことをしたら啓兄はきっと悲しむ。そんなことは分かっている。分かっているのに、止められない。
 俺はぬっと腕を伸ばして、猫を洗濯槽に突き落とした。


   *
 

 肌に当たる夜風は冷たく、夜空には星一つ浮かんでいない。公園へと向かう道は街灯が少なく、足元が暗い。
 啓兄は動かなくなった猫を抱えながら、俺の横をとぼとぼと歩いている。涙を堪えるように唇を噛みしめて俯く啓兄を見るのは、苦しい。
 最初は啓兄を喜ばせるためだったのに、最終的には啓兄を余計に悲しませることになってしまった。一時の感情に身を任せてしまうと、やはり物事は上手くいかない。もっと考えて行動すべきだった。
 反省点は山ほどあるが、俺は不思議と後悔はしていない。今は邪魔者がいなくなって、むしろせいせいしている。
 今回の一件ではっきりした。啓兄と対等な生物はこの世には存在しない。啓兄がこの世で一番、純粋で聡明で綺麗で美しい。
 だからこそ、啓兄にその気がなくても、下等な生物を魅惑してしまう。啓兄は優しいから、寄ってきたやつらに平等に接するけれど、やつらは気づくべきだ。自分たちが啓兄と話せるほど高貴な存在でないことを。だが、やつらは気づけない。下劣で傲慢だから。ましてや猫なんて言語道断だ。
 勿論、俺もやつらと同じ下賤な生き物だ。でも、その中でも啓兄の尊さに気付いているのは俺だけだ。ならば俺が分からせてやるしかない。汚物のような脳みそが詰まった頭をぶら下げて、啓兄に近づけばどうなるか。
 やがて公園に着き、啓兄と一緒に大きな木の下に穴を掘って、猫を埋める。
 こんなただの肉塊を埋葬したところでどうなるんだと思いつつも、啓兄の意向に逆らうという考えは最初からない。
 啓兄が手を合わせるのを真似して、俺も一緒に手を合わせる。
 猫は微生物に分解されて、この木の養分になる。惨めな最期がお似合いだ。
 俺は垂れてきた鼻水をすする。
 もう一枚羽織って来れば良かったと、少し後悔した。


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