13

 啓兄は東京の大学に進学した。一年間も啓兄と離れ離れになるなんて、俺にとっては拷問でしかなかった。俺の見ていない所で啓兄がどんな目に遭っているか分からないのが、辛かった。啓兄の部屋に盗聴器を仕掛けることも考えたが、盗聴器の有効範囲はたかが知れている。東京からでは電波が届かない。仮にもし仕掛けたとしても、周波数さえ合えば誰にでも視聴可能だから、啓兄を狙うゴミ共に聞かれる可能性がある。やつらに啓兄の声を拝聴させるなんて真っ平御免だ。
 メールや電話のやり取りだけで一年間、何とか我慢し、高校卒業と共に俺は啓兄を追いかけるように上京した。
 東京でも啓兄を取り巻く状況はさして変わらなかった。相変わらず思いあがった虫けらが啓兄の神々しさに惹かれて群がっていた。
 それでも俺が捻り潰してやるほどの害虫はいなかったので、俺も少し安心して行動を控えていた。
 だが、啓兄が三回生の後期に入った頃、啓兄は授業数が少なくなったからと言ってバイトを始めた。啓兄が働く必要なんてないから俺は正直嫌だったが、啓兄の意思を尊重するのが第一だから、仕方なく黙認した。
 しかしそれは大きな間違いだった。バイトを始めて二週間経った頃から、啓兄の様子がおかしくなり始めた。疲れた顔をしていることが多くなったし、眠りも浅いようだった。
 不審に思って居酒屋の従業員を調べてみたら、店長の鹿田という男が怪しかった。四三歳で未婚な上に、ゲイの社交場にもよく足を運んでおり、啓兄のことを厭らしい目で見ていることは容易に想像できた。
 脂ぎった爺の欲望の対象にされた啓兄の苦痛は想像を絶する。俺はすぐに鹿田を抹殺する決定を下した。
 俺が計画を練っている間にも、啓兄のストレスが膨れ上がっていった。啓兄の疲れた顔を見るのが辛かった。
 啓兄が居酒屋のティーシャツ姿のまま、真っ青な顔で家に逃げ帰ってきた時には、鹿田への殺意が一気に増幅した。
 俺は計画が完成するとすぐに、行動に移した。鹿田の家に予め忍び込んで部屋を荒らして物陰に隠れておき、帰宅して乱れた室内の状況に困惑する鹿田の腹を折り畳みナイフで刺した。本当は原型を留めないまでに肉体を切り裂いてやりたかったが、それでは空き巣の犯行に見せかけられなくなるので、殺傷的な衝動を腹の中にねじ伏せた。そうして俺は逃亡した。近辺で空き巣が横行していたので、その空き巣と同一犯と見せかけるのは造作もなかった。
 鹿田を殺して安心したのも束の間、俺の眼が全くの節穴だったことに気付かされた。今更になって黒川の存在を知ったのだ。黒川は入学当初から啓兄に嫉妬して、嫌がらせを繰り返していた。俺はそれに気づかずに、黒川をのうのうと生かしていたのだ。自分の失態に気付いた時は、自己嫌悪で吐きそうになった。
 俺は焦ってすぐさま黒川を殺した。酔っぱらって歩いているときに、車通りの多い道路に突き飛ばしたのだ。即死だった。
 野次馬が集ってくる現場から立ち去ろうとしたとき、通りに立ちすくむ啓兄の姿を視界に捉えた。瞬時に俺は、啓兄に犯行現場を目撃されてしまったと悟った。
 今日、啓兄が現場にくることは想定外だった。もっと入念に計画を練ってから動くべきだったと、軽率な自分の行動をなじった。
 俺は平常心を装って歩みを進めながらも、心臓はばくばく言って、頭の中はパニックだった。
 俺は自分のしていることが悪いことだと思ったことは一度たりともない。むしろゴミを掃除することは褒められたことだと思っていた。だが、黒川の死体を呆然と見つめる青ざめた啓兄の顔を見て、啓兄は決して俺を褒めたりはしないと思った。俺は啓兄に嫌われて突き放されることが怖くなった。
 帰宅してからも、何もやる気が起こらなくて、ダイニングのソファに座って放心していた。
 だが俺はふと思い立った。啓兄は俺が犯人だとすぐに断定するだろうかと。優しい啓兄のことだ。まず疑ってかかるに違いない。
 そう思った俺は、啓兄に嫌われるのを避けるために、平然を装って啓兄を出迎えた。啓兄は最初は困惑していたけれど、いつも通りの俺の姿に、疑いを取り払って安心したようだった。
 俺は安心したようにため息を吐く啓兄を見て、今まで何度も取り返しのつかないことをしてしまっていたことに気付き、血の気が引いた。
 俺は啓兄に嘘を吐いている。自己保身のために、嘘で塗り固めた偽りの自分でいままで啓兄に接していた。啓兄の周りのゴミを掃除している優越感から、周りを見下していたが、俺も所詮そのゴミと何ら変わりなかった。
 啓兄が事故で死んだと思っている猫は俺が殺した。啓兄が自殺だと思っている兼森も俺が殺した。啓兄が階段からの落下事故で足の骨を折ったと思っている山内は、俺が突き落とした。数え上げればきりがない。
 俺は啓兄をずっと騙しながら、生きていたのと同じなのだ。今だって啓兄の良識を利用して、穢れた自分を純潔に見せかけている。啓兄をこのまま騙し続けることは万死に値する。
 啓兄に全てを打ち明けることを覚悟した俺は、翌朝、わざと啓兄の前で黒川の死を喜ぶような発言をした。察しの良い啓兄が、再び俺を不審に思うことは想像に難くない。そうして啓兄に再び俺に疑いの目を向けさせ、ノートを発見してもらった。
 直接俺が言わなかったのには訳がある。俺が口で言うだけでは、啓兄は簡単に信じてくれないと思ったからだ。確実な証拠であるノートを見てもらった方が、啓兄もすぐに信用してくれると判断した。
 俺は自分のしてきたことや、啓兄に黙っていたことを全て吐露した。
 だが、啓兄はいつも俺の予想の斜め上を行く。もう家から出ないと言いだしたのだ。啓兄がそんなことをする必要はないのに、いくら言っても耳を貸そうとしてくれない。
 閉じこもり始めて一週間が経った今も、啓兄は頑なに家から出ようとしない。俺も大学をほっぽり出して、啓兄の傍に付き添っている。
 ずっと狭い部屋にいるためか、元から患っていた閉所恐怖症が悪化していくのが目に見えてわかる。少しでも開放感を作り出そうと、秋の冷たい風が入って来るにも関わらず窓を開け放し、明かりのない恐怖感を和らげるために、部屋の電気は眠るときも点けっぱなしだ。
 でも、啓兄は俺が傍にいる時が一番恐怖心が取り除かれるようだ。最近は眠るときも、二人で同じ布団に入り、寄り添うようにして眠っている。
隣で俺に背を向けて横になっている啓兄の呼吸は落ち着いている。
「啓兄、頼むから外に出てくれ」
「嫌だ」
「何でだよ」
 もうこのやり取りは何度目だろうか。幾度繰り返しても、啓兄の答えは変わらない。このまま閉じこもっていたら、いつか啓兄が壊れてしまう。
「また誰かを殺すんだろう」
 突き付けるような啓兄の言葉に、俺は言葉に窮する。もう殺さないと答えるのは簡単だが、啓兄に嘘を吐かないと決めた手前、安易に口にできない。
「周は人の命の重さが分かってない。簡単に奪っちゃ駄目なんだよ」
 俺にはそれが分からない。啓兄の言う事を理解したいのに、それだけがどうしても分からない。
 どうして人を殺したらいけないんだ。他人の価値なんて、ゴキブリとさして変わらないのに。皆平気で虫を叩き殺しているじゃないか。なのに、どうして人は殺しちゃいけないんだ。同じゴミ蟲なのに、命に差が生まれる意味が分からない。
 もう殺さないと、たったそれだけの言葉が言えない。
 啓兄、ごめん。俺が嘘を吐けたら楽にしてあげられるのに。
「啓兄は、神様だから」
 俺はもう啓兄を裏切れない。


- 13 -

*backnext#

-家庭内密事-
-彼の衝動-