16

 自宅の玄関扉を開ける。
 死ねない俺は未練がましい。
 残された啓兄が、俺の知らない所で俺以外の誰かに触られると思ったら、足が止まった。
 死のうとしてもなお、独占欲が邪魔をする。啓兄は俺だけのものだ。他の誰にも盗られたくない。
「啓兄、起きてるか?」
 啓兄に呼びかけながら、俺の部屋のドアを開ける。だが、ベッドで寝ていたはずの啓兄の姿はない。
 啓兄の部屋にいるのかと思い、部屋を覗くが啓兄はいない。
 外に行ったのかもしれない。俺が昨日啓兄と約束したから、啓兄は安心して外に出られるようになったんだ。
 喜ばしいことのはずなのに、何かが引っかかる。
 床を見ると啓兄がいつも使っているリュックが置いてある。机の上にはスマホと財布もある。啓兄はいつも外に出る時は必ずスマホを持っていくのに、今日は何も持たずに出て行っている。
 普段ならなんてことのない違和感が、今は無性に気になる。
 何だか胸騒ぎがする。
 俺は急いで部屋を飛び出した。
 階段を駆け下りて、エントランスを抜け、マンションの外に出る。傘も差さない俺に、強くなった雨が打ち付け、肩を濡らしていく。
 啓兄は財布を持って行っていないから、行動範囲は限られている。この近くで啓兄の行きそうな場所を思い浮かべるが、いくつかあって絞り込めない。しらみつぶしに当たるしかない。
 とりあえずここから一番近い公園に検討をつけて、走りだそうとすると、前方から突風が吹いてきた。雨が顔に叩き付けられ、咄嗟に腕で顔を覆う。
 風が過ぎ去り、額に貼りついた髪をかき上げた時、俺が出てきた十五階立ての自宅マンションの屋上に人影が見えた。屋上へのドアは防犯のためにいつもは施錠されているはずなのに、人がいるのはおかしい。不審に思って、人影に眼を凝らす。
「…え、…啓兄!?]
 俺が見間違えるはずがない。あの人影は確かに啓兄だ。どんよりとした灰色の雲が啓兄の背後を取り囲んでいる。
 啓兄は柵を乗り越えて、屋上の縁に立っている。先ほどのような突風が吹けば、いつ落ちてもおかしくない。下はコンクリートでできた歩道だ。あの高さから落下すれば、確実に死は免れない。
 俺は全速力でマンションに戻り、エレベーターを呼ぶ。運悪く電光掲示板は十三階を示している。数字が減っていくのを待つ時間がもどかしい。開くボタンをがんがんと何度も押す。だが、数字は十二階で止まって動かなくなる。
「くそっ…!」
 エレベーターのドアを蹴りつけて、すぐ脇の階段へと向かう。何もしないでエレベーターが到着するのを待っていられない。二段飛ばしで階段を駆け上がる。
 最上階までの道のりが長く感じる。呼吸が苦しくなり足が重くなっても、立ち止まらずに脚を回し続ける。
 全身の酸素が欠乏し、脚が鉛のように重くなる。
 やがて前方から光が差した。屋上のドアの隙間から、外に光が漏れているのだ。
 俺は最後の力を振り絞って、飛び込むようにドアを押し開ける。
「啓兄!」
 足がもつれて、水溜りに倒れ込む。
 数メートル先の柵の向こう側に立つ啓兄が、ゆっくりとこちらを振り返る。啓兄はまるで俺が来ることが分かっていたかのように、優しく微笑む。
 俺は重い足を奮い起こして立ち上がり、手を伸ばしてじりじりと啓兄に近づく。
「啓兄、何でそんなとこにいるんだ。こっちに戻ってこいよ」
 啓兄はそれを拒むように、また正面に向き直り、空を見上げる。
「啓兄…!」
 どうして啓兄が死のうとするんだ、死ぬべきは俺なのに。啓兄をずっと穢れた目で見ていた俺なのに。
「…約束したのに、また殺そうとしただろ」
「え?」
「自分自身を」
 俺自身を?さっき国道にいた所を見られたのか。
「俺が周を苦しめてるんだ。周が怪我をさせたり殺したりした人は皆、俺に危害を加えた人だ。周はいつも俺のために誰かを傷つけてる。自分自身でさえも。俺はそんな周を見たくない。なら、俺がいなくなったら、周は一喜一憂せずに穏やかに暮らせるだろ?」
「それは違う!俺は啓兄がいなかったら生きていけない」
 全部、俺が悪いんだ。
 俺が約束を破ったから。
 俺が啓兄みたいに人を寛大に愛せないから。
 啓兄以外は、皆同じ動く肉塊にしか見えないから。
 啓兄しか愛せないから。
 独占欲に塗れて、みっともなく嫉妬に狂うことしか出来ない。
 啓兄を俺のものにしたくて堪らない。
 啓兄が他人のものになるなんて、死んでも嫌だ。
 俺は啓兄を守りたかっただけなのに、いつから歪んでしまったんだろう。
 …最初からなのかもしれない。
 ずっと俺は啓兄を守っているつもりで、自分自身を守っていた。
 でも俺は、この守り方しか知らない。
「俺はどうすればいい?どうしたら、誰も傷つけずに啓兄を守れる?」
 どうしたら、啓兄を綺麗に愛せる?
「周は俺の傍にいてくれるだけでいいんだ。俺はたったそれだけで幸せなんだよ」
 柵にもたれた啓兄の髪が、風にそよぐ。
 俺は啓兄に近づいて、柵越しに背後から抱きしめる。
「なら、啓兄の全てを俺にくれ」
「俺の全てを?」
「あぁ」
 啓兄が俺のものじゃないから、俺は不安になって周りを巻き込む。なら、啓兄が完全に俺のものになれば、俺は周りに嫉妬しても、我慢できると思う。
「でも周は、俺を寝たことを後悔してるんだろ?許されないことをしたと思ってるんだろ?それでも、俺の身体もちゃんと愛してくれるのか?」
「それは…」
「俺は神様なんかじゃないんだよ。ここから一歩踏み出せば簡単に死ねるぐらい脆いんだ。神様なら不死身のはずだろ?…俺は周と寝たこと後悔してないよ。俺は普通の人間だから、煩悩塗れだし、セックスだってする。周は俺が万人を愛してるように見えてるのかもしれないけど、そんなことないよ。苦手な人も、嫌いな人もいる。でも、愛してる人もいるよ。俺は一人の特別な人を、特別に深く愛してるんだ」
 啓兄は振り向いて、俺の目を真っ直ぐに射抜く。その頬は温かい愛情で濡れている。
「…特別な人?」
「うん、誰かなんて言わなくても分かるだろ」
「…俺は、思いあがってもいいのか?啓兄の隣にいれる人間だと思っていいのか?」
「いいに決まってるだろ。昔からずっと、俺の傍にいてくれたのは周じゃないか。…心も身体も、周に俺の全てをあげるよ」
 微笑んだ啓兄の唇にキスを落として、強く抱きしめる。
「啓兄は俺のものだから。誰にも渡さない。もし啓兄が俺に飽きて、他の誰かを好きになっても、俺は啓兄を離さないから」
「飽きたりなんか、する訳ないだろ」
 啓兄はそう言って笑い飛ばす。
 二人で見上げた空はいつの間にか真っ青に澄み渡り、雲一つない。
「そうだ、二人で海の見える家に住もう」
「海?」
「あぁ。昔、啓兄言ってただろ。海が見える開放的な家に住みたいって」
「あんな昔のこと、憶えてたのか?」
 啓兄は少し驚いたように言う。
「当たり前だ。俺が啓兄のこと言ったことを忘れるわけないだろ」
 啓兄は嬉しそうに笑う。
「ありがとう、周。…好きだよ」
「…俺もだ」
 目の前が霞む。
 あぁ、俺は泣いているのか。
 涙を流したのは、いつぶりだろうか。


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