18

 啓兄と二人、海辺を波打ち際に沿って歩く。
 冬の海は白く見える。薄く広がった雲の隙間から、水平線に沈みゆく夕焼けの赤い光が、海の白さを際立たせる。
 この季節にレジャーに来る人はなく、海辺には俺たち以外誰もいないから、気兼ねなく二人で手を繋げる。
 こちらに来てから、もう一月が経つ。駄菓子屋を開くには資金が足りないから、俺は派遣として地元企業で働き、啓兄は喫茶店でバイトをしている。金が貯まれば、いずれ開くつもりだ。
 鹿田のこともあったから、正直啓兄がバイトをするのは心配だが、以前よりは楽に構えられるようになった。何度か喫茶店には足を運んでいるが、気の良さそうな夫婦が二人で経営していて、俺が懸念することもなさそうだった。
 少し、心に余裕が生まれてきたように思う。昔なら、啓兄と話している人を見ただけで嫉妬心がむくむくと膨れ上がっていたが、今でも嫉妬はするものの、啓兄はちゃんと俺のもとに帰ってきてくれるんだと思うと、安心できる。
 啓兄の体重も元に戻り、俺はこの生活に何の不満もない。
「今日の晩御飯、何にしようか」
「啓兄が作るものなら、何でも美味しい」
「そういうのは抜きにして」
 啓兄は砂を蹴飛ばす。
 東京に住んでいた頃は、俺が啓兄の世話をしないと気が済まなかったので、家事はほとんど俺がしていたが、今では半分ぐらい啓兄にも手伝ってもらっている。最初の頃は、啓兄に雑用じみた事をしてもらうなんて申し訳なかったが、楽しそうに台所に立っている啓兄を見ていると、何だか啓兄が俺のお嫁さんになったみたいな気がしてきて、案外悪くない。
 足元すれすれに波が押し寄せる。
 そういえば、冷蔵庫にじゃがいもとニンジンが余っていたのを思い出す。
「肉じゃがにしよう」
「おっけー。じゃあ、肉買いに行こうか」
 啓兄は軽やかに言うと、俺の手を離して、足取り軽く、海とは反対方向に歩き出した。
 越してきてから、啓兄の閉所恐怖症の発作はめっきり減った。のんびりした気楽な空気感や、この地の雰囲気が啓兄に合っているのかもしれない。楽しそうに笑う啓兄を見ることも多くなった。俺はそのたびに、幼い頃にこの笑顔を守りたいと願ったことを思い出す。


  *


 俺は夕飯の材料が入ったビニール袋を提げてスーパーを出た所で、トイレに行った啓兄が出てくるのを待つ。
 陽はすっかり沈んでいる。北は東京よりも、陽が沈む時間が早い。
 冷える手先をこすり合わせていると、道路の向こう側の茂みから、一匹の猫が飛び出してきた。すると、走って道路を横切ろうとした猫に横っ腹に、軽トラックが突っ込んだ。軽トラックは何事もなかったかのように、そのまま走り去り、後には道路に横たわった猫だけが残る。
 猫に近づいて見てみると、口から血を流しており、もう心臓は動いていなかった。
 道路に置いてあったままだと邪魔になると思った俺は、猫の首根っこを掴んで持ち上げ、スーパーの前に設置された、燃えるゴミと書かれたごみ箱に入れた。
「何してんだよ!」
 スーパーから出てきた啓兄が俺を押しのけるようにして、ごみ箱から猫を取り出す。
「さっきそこで轢かれたんだ。道路にあったら邪魔だろ」
「…だからって、ごみ箱に捨てることないだろ」
 啓兄は泣きそうに顔を歪める。俺は何か誤ったことをしただろうかと、思いを巡らせる。
「…あぁ、そうか。土に埋めなきゃいけないのか」
 昔飼っていた猫が死んだとき、死体を啓兄と公園に埋めに行ったことを思い出した。動物が死んだときは土に還さないといけないのか。
 啓兄は猫を抱えて歩き出した。
 家の近くに、小さな公園がある。俺たちはそこに行って、黙々と木の下に穴を掘る。
 どうせ消えてなくなるんだから、ゴミとして捨てても同じだと思うが、口にはしない。
「周ってさ、猫好きじゃなかったっけ?」
「何で?」
 啓兄以外に好きという感情を抱いたことはない。ましてや猫など、言うには及ばない。
「昔、ぶちが死んだ時に今みたいに公園に埋めに行っただろ」
 そういえば、猫はそんな名だったか。
「あの時、周泣いてたじゃん」
「泣いてないぞ」
「本当に?」
 俺はどうでもいい事をしつこく聞いてくる啓兄に、訝し気な視線を送るが、辺りが暗くて啓兄の表情がよく分からない。
 掘った穴に猫を埋めて、二人で手を合わせる。冷たい土を触った手は、すっかりかじかんでいる。
「そういえば、昔もこんな寒かったな」
 俺はそう言って、寒さで麻痺した鼻をすする。
「…あぁ、そういうことか」
 啓兄は一人納得したように呟く。
「何が?」
「いや、周は昔から何も変わってないんだなと思ってさ」
 雲の狭間から差した月明かりが、啓兄の顔を照らす。その微笑は、切なさを孕んでいた。


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