02

 はっと目覚めると、周が心配そうに俺を覗き込んでいた。
「大丈夫か、啓兄(けいにい)。すごいうなされてたぞ」
「……あ、あぁ」
 身体を起こすとびっしょりと汗ばんでいて、服と嫌悪感が肌に貼りついている。
気持ちいいはずの昼寝の後味が最悪だ。
久々に幼い頃の夢を見た。ここ数年見ていなかったのに、やはりあの事がストレスになっているだろう。
荒い呼吸を繰り返す俺の背中を、周がさすってくれる。
「晩飯できてるから、落ち着いたら出て来いよ」
「うん、…ありがとう」
 弱弱しく微笑む俺の肩を励ますように叩くと、周は部屋を出て行った。
 俺達にはもう、虐待をしてくる父親はいない。俺が小学六年の時に死んだ。
 それからすぐに、遠い親戚に俺たち兄弟は引き取られた。それまで顔も見たことのない夫婦だった。その玉山夫婦には一人息子がいた。息子と俺たちとの扱いの差は目に見えていたけれど、不満はなかった。実の息子と、今まで会ったこともなかった親戚の子では、実の子を厚遇するのは当たり前だ。むしろ、俺たちにとっては、ちゃんとご飯が三食も出てきて、学校にも行かせてくれる環境で暮らせるようになったことだけで、ありがたかった。邪険に扱われるのは正直寂しかったけれど、周がいたから我慢できた。
 中学と高校を玉山家で過ごし、それから俺は東京の大学に進学した。周を一人、玉山家に残していくのは心配だったが、獣医学科のある大学が、東京まで行かないとなかったのだ。玉山夫婦は金銭面の問題から渋っていたが、俺が授業料が免除になる特待生で入学することを条件に、受験を許してくれた。そうして無事に特待生で合格した俺は、東京の大学に進学した。
 最初は一人暮らしだったが、一年経って、周も上京してきたのを機に、マンションを借りて二人で暮らし始めた。周も俺と同じ大学の工学部に進学したからだ。周を玉山家のもとに一人残してきたのが、ずっと心がかりだったので、周の合格が決まった時は嬉しかった。
 自室を出てダイニングに行くと、周がもう晩御飯の用意をして待っていた。
「もう落ち着いたのか?」
「うん、ごめんな。心配かけて」
「まだ顔色悪いけど、本当に大丈夫なのか?」
「もう大丈夫だよ。相変わらず、周は心配性だな」
 ローテーブルの前に座り、手を合わせてから食べ始める。
 二人で共同で使っているこの部屋は、ダイニングとキッチンが一緒になっている。中央にローテーブルとソファがあり、壁際にはテレビが置いてある。お世辞にも広い部屋だとは言えないが、二人暮らしには十分な広さだ。玄関側の壁には備え付けの小さなキッチンがある。料理は周の担当だ。周は何でもできて器用だから、俺が作るより断然美味い。二人暮らしを始めるにあたって、家事の分担を決めるとき、周は啓兄がやる必要はないと言って、家事全般をやりたがったけれど、それだと申し訳ないので、俺も洗濯を手伝う権利をなんとか勝ち取った。
 他の二つの部屋は、俺と周のそれぞれが自室として使っている。でも二人とも、ダイニングで過ごす時間の方が長い。自室に行くのはせいぜい寝るときぐらいだ。
 せっかく二人で暮らしているのに、自室に籠りっぱなしなのは味気ないというのもあるが、一番の理由は俺が閉所恐怖症だからだ。幼いころ、父親に物置に一人で長時間閉じ込められていたトラウマが原因だ。暗くて狭い部屋にいると、息苦しくなって、酷くなるとパニックに陥る。だから俺は自室にいるときは常にドアを開けている。トイレや風呂に入るときも、ドアを少し開ける。そうしないと怖い。完全に閉鎖された部屋にいると、このまま閉じ込められて、どうにかなってしまうんじゃないかと不安に襲われる。
 それは一人でなくても、誰かと一緒に閉鎖された空間にいても、同じだ。これでも昔よりはましになったのだが、なかなか完治まではいかない。でも、なぜか周といると症状が和らぐ。閉鎖空間でも、周と一緒なら、ある程度の時間は我慢できる。幼いころから二人で支えあってきたからだろうか、一緒にいると落ち着けるのだ。
 当の周は、隣で黙々と料理を口に運んでいる。
 周は昔からあまり口数が多くないけれど、口にする言葉にはいつも重みがある。それは、言葉を慎重に選んで話しているからだと思う。思ったことをすぐ口にする人よりも、俺との会話を大事にしてくれていることが伝わってくるので、一緒にいて心地いい。
「啓兄、今日バイトだろ?」
「うん、七時から」
 壁にかかった時計を見ると、もう六時半を回っている。急がないといけない時間なのに、気が急かない。
「体調悪いなら休めば?」
「大丈夫だよ。周の飯食ったら治った」
 にっと笑うと、周は呆れたように軽くため息をつく。
 食べ終わった皿をキッチンのシンクに持っていく。
 バイト先の居酒屋までは歩いて十分程だ。家賃や生活費は玉山夫婦が負担してくれているので、別に働かなくてもいいのだが、いつまでも彼らに頼っているわけにはいかない。援助をしてくれるのは大学までという約束だ。卒業すれば、俺たちには何の後ろ盾もなくなる。今のうちに貯金しておいた方が安心だ。
 しかし、実は最近そのバイトがストレスになってきている。嫌な夢を見たのも、ストレスが溜まっているせいだろう。そろそろ辞めて、別のバイトを探した方がいいかもしれない。
「じゃ、いってきます」
「気を付けてな」
 周にこれ以上心配をかけないように、笑顔で声をかけ、リュックを肩にかけて家を出た。
 エレベーターで一階まで降りる。何気なく確認したエントランスの脇にある掲示板には、空き巣の注意喚起のポスターが貼ってある。近頃この近所では空き巣が頻繁に起こっているらしい。気を付けないといけないなと薄っすら思う。
「あ、やばっ」
 時計を確認すると、七時十五分前だ。俺は夜の繁華街へ向かって駆け出した。


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