05

 獣医学部の塩崎(しおざき)教授の教授部屋は、本棚に囲まれている。中心に位置する机にもたくさんの本が積まれていて、塩崎教授はその中で埋もれるようにして仕事をしている。授業や実験の準備でいつも忙しそうだ。資料の整理も一人では追いつかないので、俺も頼まれたときには手伝っている。
 今日も塩崎教授の傍らで、資料の整理を手伝っている。
「いつも悪いねぇ、沖山くん」
「いえ、いいんですよ。俺も好きでやってますから」
 こうして黙々と何かに集中していると、昨日あった嫌なことも忘れられる。それ抜きにしても、こういう単純そうに見えて、パズルみたいな作業は結構好きだ。
 もうすぐ還暦を迎える塩崎教授は、おっとりしていて、物腰柔らかだ。畳の上に座って、ゆっくりお茶を飲んでいるのが似合うようなお爺ちゃんだが、世間ではとても権威のある先生だ。講義も分かりやすいし、俺は塩崎教授を心から尊敬している。
「沖山くんは、成績もいいし、いつも頑張っていて偉いね。僕も見習わなくちゃ」
「そんな、僕は頑張らないと周りについていけないだけですよ」
「またまた、謙遜しちゃって」
 塩崎教授はいじわるそうに笑う。つられて俺も笑うと、室内に穏やかな空気が生まれる。窓からは午後の温かな日差しが射し込む。夏もそろそろ終わりに近づいている。
「沖山くん、そこの資料を資料室に返してきてくれないかな。少し量が多いんだけど」
 作業を初めて少し経った頃、塩崎教授が机の端に積んであった本を指さした。
「はい、わかりました」
 俺は両手に本を抱えて、教授部屋を出る。
  少々重いが、資料室は教授部屋の真下なので、それほど距離はない。
 階段を降りて廊下を歩いていると、前から数人の人影が現れた。同じ学年で獣医学科の黒川(くろかわ)たちだ。黒川の癖の強い茶髪が、歩みと同時にふわふわと揺れている。
 俺は道を譲ろうと廊下の端に寄ったが、黒川はそのまま直進する。すれ違う瞬間に、黒川がわざとらしく俺に肩をぶつけてきた。その拍子に、手の中に積んでいた本を数冊落としてしまう。
 黒川の周りにいた黒川の男友達の一人が、本を拾おうとすると、黒川が「拾うな」と言って、それを制した。
「え、でも…」
「いいから拾うな」
 黒川はその子を睨んで、引き下がらせる。
 俺はしゃがみこんで、手に残った本をいったん床に置き、散らばった本を拾い集める。黒川はそんな俺を見て鼻で笑うと、悠々と廊下を歩き去っていった。
 黒川の後ろで申し訳なさそうに会釈する先ほどの男の子に、軽く手を挙げて気にするなと伝える。
  一人で本を積みなおしていると、目の前にずいっと本を差し出された。
「はい、これ」
 視線を上げると、周が不満そうに唇を尖らせて立っていた。
「周、ありがとう」
「あぁ」
 周は本を半分以上持ってくれて、一緒に資料室まで運ぶのを手伝ってくれた。
「…さっきのあいつ、何?感じ悪いよな」
 資料室で本を棚に戻していると、周がいらだった様子で本棚にもたれる。
「見てたのか?」
「あぁ、廊下の端から見えた。あいつ、明らかにわざと啓兄にぶつかっただろ。いつもあぁなのか?」
「うーん…、悪いやつではないんだけどな」
 曖昧に笑って返事を誤魔化すと、周はいらいらと足を踏み鳴らす。
「別に、周が怒る事じゃないだろ」
「啓兄は腹立たないのかよ」
「んー、そこまででもないかなぁ」
 呑気に言う俺に、周は呆れたようにため息をつく。
 黒川は多分、俺のことを妬んでいるんだと思う。これを言うと自画自賛のようになってしまうが、俺の方が成績がいい上に、教授にも気に入られているからだ。元々頭がいいからではなく、必死に努力した結果なのだが、そんなことは黒川が知る由もない。
 黒川は恐らく、高校までずっと成績もトップを維持して、挫折も経験せずに甘やかされてここまで来たのだろう。そのポジションを、大学になって突然現れた俺にかっさらわれたのだから、気を悪くするのも当然だ。
  時々、腹いせのように嫌がらせをしてくるのだが、気にするほどのものではない。
  呑気に鼻歌を歌う俺とは対照的に、周はいらいらと頭を掻きむしる。
 俺はふと思い出した事があって、パンツの尻ポケットからスマホを取り出し、周に見せる。
「なぁ、周。この子かわいくね?」
「…猫?」
「うん、来るとき大学の前にいてさ。塀の上で寝てたんだけど、俺が写真撮ったら、シャッターの音でびっくりして、逃げちゃった」
 黒猫なのだが、右前脚だけ白くなっていて、それが靴下を履いているように見えてかわいい。
 画面を見て頬を緩める俺に、周の表情も綻んでいく。猫好きの周に見せたら喜ぶだろうなと思って、撮っておいてよかった。
 周は知らないだろうが実は、俺が獣医を目指そうと思ったきっかけは、周にある。
 俺と周が中学生の頃、二人で土手の高架の下で、段ボール箱に入れて、捨てられていた子猫を見つけたことがあった。それまで動物に興味のなさそうだった周が、急に飼うと言いだして驚いた。
 玉山夫婦はもちろん飼うことに反対したが、周は餌代は新聞配達でも何でもして、自分で稼ぐから飼うと言って聞かなかった。いつになく主張の激しい周に、玉山夫婦は根負けして、俺たちが世話をすることを条件に、飼うことを許してくれた。それに、中学生に新聞配達をさせるなんて、玉山家の世間体が悪くなるからと言って、スーパーで一番安いキャットフードを、結局は買ってくれた。
 その猫はまだ生まれたばかりの子猫で、小さくて可愛らしかった。白に茶色のぶち猫で、左の目元のぶち模様が、俺の涙ぼくろと同じ位置にあったのがなんとなく記憶にある。だが、長時間誰にも見つけられず、餌を与えられていなかったせいか、子猫はかなり衰弱していた。それでも、俺はペットを飼うのは初めてで、テンションが上がったのを覚えている。
 その日から、俺たちは二人で子猫を育て始めた。猫についての知識なんて全くなかったけれど、二人で協力して本やネットで調べ、なんとか子猫を元気にしてあげようと躍起になった。それまで自主的に何かをすることがなかった周が、進んで自主的に動いてくれたのが、俺にとっては何より嬉しかった。
 俺たちの努力のおかげか、子猫は次第に元気を取り戻し、二週間後には走り回れるまでに回復した。俺たちはその子をぶちと名付けて可愛がった。
 ぶちは水に興味津々で、蛇口から流れる水に戯れて遊ぶのが好きだった。
 そんな性質が祟ったのか、ある日俺たちが目を離したすきに、ぶちは洗濯機のなかに落ちてしまった。俺が気づいた時にはもう既に虫の息で、病院に連れて行く間もなく死んでしまった。
 それから二人でぶちを抱えて、とぼとぼと公園の大きな木の下に埋めに行った。
 手で掘った穴に、小さな身体はすっぽりと収まった。
 二人で手を合わせていると、横から鼻をすする音がした。
 その時俺は、自分の無知さに後悔した。俺にもっと知識があれば、ぶちを助けられたかもしれない。そうしたら、周が悲しむこともなかったのに、と。
 何年も前の、たった数週間の出来事だから、今まだ周がこの事を覚えているかは分からないけれど、俺の中では人生の契機となった大切な思い出だ。
 猫の写真を見て、悲しくも懐かしい思いに浸る俺の横で、周は何かを考え込むように目を伏せていた。


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