06

 日は既に地平線に沈み、夏が終わり、秋が迫ってくるのを感じさせるように、顔に当たる風が少し冷たい。
 居酒屋へ向かう足取りは重い。この前の店長とのあの一件があってから、三日経ったが、嫌悪感は拭えないままだ。
また今日も店長と会わなければいけないと思うと気が重いが、今日は、今月いっぱいでバイトを辞めると店長に伝えるつもりだ。後味は悪いが、もうこれで店長と顔を合わせずに済むと思うと気が楽になる。こんなことなら、もう少し早くに辞めておけばよかったと、今更ながらに後悔する。
「おはようございます」
「おはよう、沖山くん」
 出ていくお客さんと入れ違いで居酒屋へ入ると、入り口横のレジに浜口さんがいた。
「店長はバックヤードですか?」
「なんか今日、無断欠勤らしいよ」
「え、そうなんですか?」
 顔を合わす覚悟を決めてきたのに、不在とは何だか拍子抜けだ。
「でも、無断欠勤なんて珍しいですね」
「昨日から連絡取れないみたい」
 店長は仕入れの発注や在庫管理などの仕事があるため、意外と忙しく、ほぼ毎日のように出勤している。今まで無断欠勤などしたことがなかったのに、何かあったのだろうか。
バックヤードに行って、店のティーシャツに着替える。
今日はバイトを辞める旨を伝えられないが、店長と顔を合わさずに済んだことには、少しほっとする。
 ホールに顔を出すと、早速浜口さんに刺身の盛り合わせを手渡された。
「沖山くん、これ五番テーブルまでお願い」
「はい、了解です」
 店内は仕事帰りのサラリーマンで賑わっている。
ホールで慌ただしく動き回っているうちに、あっという間に時間が過ぎる。ふと時計に目を遣ると、もう午後十一時だ。あと一時間で俺のシフトは終わる。客数も少なくなってきて、大分余裕が生まれる。
「いらっしゃいませ」
 テーブルを拭きながら、開いた入り口を見やると、見知った顔が入ってきた。
「よぉ、沖山じゃねぇか。こんなとこで働いてたのか」
 黒川だ。その後ろには俺の知らない五人の男女がいる。黒川たちは既に酔っていて、顔が赤い。口ぶりからして、たまたまこの店に入っただけで、俺がこの店で働いていたことは知らなかったのだろう。
俺は黒川たちを奥のテーブル席に案内する。
「こんな汚い居酒屋でバイトして、金になんのかよ」
「まぁ、ぼちぼちかな」
 どかりと椅子に腰かけた黒川たちは、ビールと数種類のつまみを注文する。
黒川たちが来てから半時間ほど経ち、厨房でビールをジョッキに注いでいると、浜口さんが声をかけてきた。
「ねぇ、奥のテーブルって、沖山くんの友達?」
「黒川…あー、茶髪の男は俺と同じ大学です。他の人は知らない人ですけど」
「さすがにちょっとうるさくない?私注意して来ようかな」
 厨房から顔を出して、奥の席を確認すると、すっかり出来上がった黒川たちが、スマホで大音量で動画を見ながら、うるさく騒いでいた。周りのお客さんも、迷惑そうに黒川たちを見ている。
「俺が言ってきますよ。知ってる人が言った方が効果あるでしょうし」
「本当?ごめんね、ありがとう」
 俺は注いだビールを運ぶのを浜口さんに任せて、黒川たちのテーブルに向かう。
「黒川、申し訳ないんだけど、もう少し静かにしてくれるかな?他のお客さんもいるから」
「はぁ?なんだよ。沖山のくせに俺に命令すんな」
 黒川は隣に座る女の子の肩を抱きながら、俺を睨む。
「スマホの音量下げるだけでいいからさ」
 それでも黒川は俺の注意を無視して、いらいらと貧乏揺すりをする。女の子は、俺と一向に動こうとしない黒川の顔色を困ったように交互に窺っていたが、躊躇いながら音量を下げた。黒川はそれを横目に見て軽く舌打ちをする。
「ありがとうございます」
 俺が会釈すると、女の子は黒川に気を遣うそぶりを見せながらも、遠慮がちに会釈を返してくれた。
 するといきなり、黒川は拳でテーブルを叩いて席を立ち、俺の胸倉をガッと掴んできた。
「むかつくんだよ、てめぇ!」
 テーブルが揺れた拍子に、ビールジョッキが倒れて床にビールがぶちまけられた。喧噪だった店内が急に静かになって、店内の視線がこちらに集まる。
「お前がいるから、俺はうまくいかねぇんだ!」
 急に怒鳴られて固まる俺の背後から、浜口さんが駆け寄ってきて、タオルで床を拭こうとしたが、黒川はそのタオルを奪い取って、俺に投げつけてきた。
「沖山に拭かせろ」
「しかし、お客様…」
「いいよ、浜口さん。俺がやるよ」
 手伝おうとする浜口さんを制して、俺はタオルで床を拭く。
 こちらに興味を失った店内に再びしゃべり声が戻り、時が止まったかのような静寂が消える。
浜口さんは一瞬迷う様子を見せたが、すぐに黒川に謝って、空になったジョッキを持ってビールを汲み直しに行った。
「しっかり拭けよ、貧乏人」
 そう言って、どかりと椅子に座り直した黒川の腕には、大学生にして高級ブランドの腕時計がはめられている。
黒川はアルコールのせいで気が大きくなっているのだろう。嫌がらせが露骨だ。さすがの俺も怒りが湧いてくる。俺が黒川から理不尽な仕打ちを受ける謂れはない。だが、ここで怒って事を荒立てるのはよくないと、自分に言い聞かせる。
「ねぇ、もう出ようよ」
 黒川と俺の間に漂う険悪な空気に、さすがに気まずくなったのか、女の子が黒川をせっつく。周りの人も賛同し、黒川は促されるように席を立ち、店を出て行った。
床を拭いていると、テーブルを片付けようと近寄ってきた浜口さんが声をあげる。
「あれ?これ忘れ物かな」
 立ち上がって見てみると、浜口さんが持っていたのは、黒川のスマホだった。
「黒川のですね。まだ間に合うと思うんで、俺追いかけて届けてきます」
「大学同じなんでしょ?明日でいいんじゃない?」
「あいつ明日講義入ってるか分からないですし、ないと困るでしょうから」
 黒川は友達も多いし、連絡手段がないと、色々と不便だろう。あんなひどい仕打ちを受けておきながらも、黒川のことを完全に嫌いになれない俺は、馬鹿が付くほどのお人好しなのかもしれない。
浜口さんは、届けに行くと言い張る俺に、眉を寄せる。
「あんな最低なやつ、ほっとけばいいのに」
「そういうわけにもいきませんよ」
 俺の代わりに怒ってくれる浜口さんの存在がありがたい。小さく笑う俺に、浜口さんは諦めたようにスマホを手渡した。
俺は浜口さんに礼を言ってから、そのまま店を出て、国道に向かって走る。黒川は駅に向かうはずだから、国道沿いに走っていけば、すぐに追いつくはずだ。
国道に出て、周囲に目を走らせるとすぐに、遠くの方の人ごみの中に黒川の癖のある茶髪が揺れているのを見つけた。先ほど一緒にいた友達とはすでに分かれており、今は一人だ。
「黒川!」
 遠くから呼びかけるが、車の音や人の話し声で騒がしく、黒川には届かない。もっと近づく必要がある。
俺は人ごみをかき分けながら、黒川の名を呼ぶ。
ふと、黒川の傍に見知った人を見つけた。人ごみから頭一つ飛び出している黒髪には、よく見覚えがある。道路の方を向いた時に現れたその横顔は、紛れもなく周だ。
「周!」
 周に黒川を止めてもらおうと、呼びかけるが、俺の声は周りの雑音にかき消されて、周は気づかない。
足を速めようとするが、人ごみに邪魔されて、なかなか前に進めない。
やっとのことで前に出て視界が開けると、黒川の後ろにいた周が、今度は黒川の横につけているのが見えた。
彼らに注目しているのは俺だけだ。他の人は皆、自分たちの会話に必死になっている。
もう一度黒川の名を呼ぼうとした瞬間、周が黒川の肩を腕で押したのが見えた。アルコールで足取りのふらついていた黒川は、簡単にバランスを崩して、道路へと足を踏み外す。その刹那、黒川が吹き飛んだ。
次の瞬間にはもう、黒川は道路に横たわっていた。
周囲の悲鳴が鼓膜をつんざく。
あまりの光景に、身体が凍り付いたように動かない。
道路には血だらけになった黒川が倒れている。その身体は関節があらぬ方向に曲がっており、ぴくりとも動かない。。
傍らに停車したトラックは、前部が大きくへこんで、フロントガラスに幾筋ものひびが入っている。慌てて車から降りてきた運転手は、倒れている黒川を見て、頭を抱えて力が抜けたように地面にへたり込む。
 俺の脚は地面に縫い付けられたように固まったままだ。
騒ぎにつられて、わらわらと野次馬が集まってくる。目の前の惨事に目を背ける者もいれば、スマホのカメラを向ける者もいる。だが、俺にはそれが、ただ電車の外を流れていく景色のように感じられた。
遠くから救急車のサイレンが聞こえくる。
到着した救急隊員が素早く黒川に駆け寄り、容体を確認したが、すぐに別の隊員に向かって小さく首を横に振った。そして、数人が手慣れた動きで黒川を担架に乗せる。
俺はその様子を呆然と見つめることしか出来ない。
 救急車が走り去ると、野次馬も興味をなくして、方々に散らばっていく。
だが、俺はいつまでも動けなかった。
周が黒川を殺した。
俺ははっきりと、決定的なその瞬間をこの瞳に捉えてしまっていた。


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