07

「沖山くん、どうしたの?顔真っ青だよ」
 店に戻ると、浜口さんが顔色を変えて駆け寄ってきた。
「スマホ、返せなかったの?」
 言われてから、未だに黒川のスマホを握ったままだったことに気が付いた。
 いつも人の輪の中心にいた黒川の笑顔が浮かぶ。
 かすれた声でぼそりと呟く。
「……黒川が、死にました」
「え?」
 信じられない。ついさっきまでここで飲み食いしていた黒川が、もうその目に生気を宿すことがないことを。
 それ以上に信じたくない。周が黒川を突き飛ばしたことを。だって、周がそんなことをするはずがない。優しい周が、人に手をかけることなんて、あるはずがない。あれは本当に周だったのか。俺の見間違いなんじゃないか。…そうだ、きっと見間違いだ。あれは周じゃない。人違いだ。ただの俺の勘違いだ。そうに違いない。
「沖山くん、何があったの?大丈夫?」
 浜口さんは、床の一点を見つめてじっと動かない俺の顔を心配そうにのぞき込みながら、俺の腕を引いて、バックヤードに連れて行く。
「とりあえず、今日はもういいから帰った方がいいわ。スマホは私が警察に届けておくから」
 浜口さんは俺の手から黒川のスマホを取ると、代わりに俺のロッカーから出した私物を手渡す。
「店のことは心配ないから。沖山くん、シフト時間もうすぐで終わりでしょ?…ねぇ、本当に大丈夫?顔色失ってるわよ」
「……はい、大丈夫です。すみません」
 心底心配そうにする浜口さんに、俺は力ない呟きしか返せなかった。


  *
 

 自宅の玄関扉の前で立ち尽くす。
 周に会う勇気が出ない。周のことを信じたいのに、どこかでまだ信じられない自分がいる。 
 周はいつだって優しい。昔からずっとそうだ。
 小学生の頃、稀に父さんからお小遣いが貰えた時に、二人で近所の駄菓子屋に行っていた。少ないお金だったけど、俺たちはそのお金を握りしめて、胸を躍らせながら駄菓子屋へ走った。百円で、なるべくたくさん買うにはどうしたらいいか、店先で二人で真剣に悩んだものだ。そうして買った駄菓子を二人で分ける段階になると、周はいつも俺の方が多くなるように分けた。周だってお腹が空いていて食べたいはずなのに、俺がいくら断っても受け取ろうとはしなかった。
 いつだって俺のことを最優先に考えてくれる出来すぎなまでにいい弟だ。
 だが周は、俺以外とはあまりコミュニケーションを取ろうとしないのだ。周に友達と呼べる人がいるのかどうかも分からない。一度も家に誰かを連れてきたことがないからだ。外で誰かと一緒にいる姿も、あまり見た覚えがない。俺より背が高くて精悍な顔つきをしている周は女の子にモテると思うのだが、彼女といるのを見たこともない。寡黙で人と騒ぐのが苦手だから、ノリが悪いと勘違いされて、友達が出来にくいのだろう。
 そのためか、周は昔から他人といるより俺といる方を好む。その方が気を遣わなくていいし、無理に周りにテンションを合わせなくていいからだろう。
 俺もすぐ周りに気を遣ってしまう気質のせいで疲れてしまうことがよくあるので、周といると気が楽だから、今まであまり気にしたことはなかった。
 だが今になって、小さなことが気にかかる。周が他人を見る目は、凍り付くほどの冷酷さを孕んでいることがある。俺に向けたことのない冷淡さを潜めたその目が、黒川を捉えたように思えてならないのだ。
 その時、急に玄関扉が開いて、身体がびくついた。
「啓兄?そんな所に突っ立って、何してんだよ」
 扉から顔を覗かせた周は、不思議そうに俺を見る。俺は目をぱちくりさせて、周を見返す。
「何変な顔してんだよ。早く入れよ」
「…あ、うん」
 あまりに自然な周の様子に気の抜けた声が出る。
 促されるままに部屋に入り、ソファに腰掛ける。音楽番組が流れるテレビでは有名なアーティストが歌を披露しており、テーブルにはスナック菓子の袋が広げられている。
「何か食う?」
「いや、いいよ。腹減ってないから」
「そうか」
 周は納得したように頷いて俺の隣に座ると、普通にテレビを見だした。
 拍子抜けするほどに、周はいつも通りの周だ。やはり俺の勘違いだった。先刻、人を殺した人間が通常の精神状態でいられるはずがない。挙動不審になったり、辻褄の合わない言動をするはずだ。だが、周はいつもと何ら変わりない。
 俺の心配は杞憂に終わったのだ。黒川はアルコールのせいで足元がふらついて、道路に飛び出してしまっただけだ。ただの事故だ。
 安心して、腹の底から深いため息が出る。
「どうかしたか?」
「いや、何も」
 首をかしげる周に、俺は静かに答える。
 周の疑いが晴れ、一つの重荷が降りると、今度は黒川のことが心中を占拠する。気が動転していて、彼の事をきちんと受け止めきれていなかったが、今になって事の重大さが身に染みる。彼と特別親しかったわけでもないし、楽しい思い出を共有しているわけでもないが、それでも悲しいものは悲しい。嫌なことをされたことはあるけれど、彼の事を本気で嫌いだと思ったことは一度もない。友達だったら、本当は良いやつだったんだと思う。彼の周りにはいつも誰かがいたのがその証拠だ。
 急に圧し掛かってきた現実に、気が塞ぎそうになる。
 俺の陰鬱な心を察してか、周が俺の肩を抱いて、頭を軽く撫でる。俺は周の温かい気遣いに甘えるように、周の肩に頭をもたせかけた。


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-彼の衝動-