08

「おはよう、啓兄」
「おはよう」
 寝ぼけ眼を擦りながら、ローテーブルの前に腰掛ける。テレビを点けると、朝の情報番組が流れだす。
 周が入れてくれたホットコーヒーを飲みながら、ぼーっと画面を流し見る。昨晩は眠りが浅かった。キッチンからは周が朝食を作る音が聞こえてくる。
 黒川の事故は報道されないだろう。日本では一年に約四千人が交通事故で死亡している。それらを全て報道していたらきりがない。
 だが間もなく、それとは別の驚愕のニュースが読み上げられた。
『昨日未明、都内に住む飲食店店長の鹿田幸三(こうぞう)さん四三歳が、自宅で血を流して倒れているのが発見されました。鹿田さんは腹部を刃物で刺されており、検死の結果、死後から二日程経過していたと見られています。また部屋が荒らされていたことから、警察は物盗りの犯行とみて、捜査を進めています。周辺の住宅では空き巣被害が多発しており……』
 画面いっぱいに映し出されたよく知る被害者の顔に目を見開く。
 鹿田店長だ。
 思わず手に持ったマグカップを落としそうになる。
 空き巣犯が店長の家に侵入し、金目のものを物色している最中に偶然店長が帰宅した。顔を目撃された犯人は口封じのために店長を刺殺し、そのまま逃亡した。
 ニュースキャスターは淡々と事件について説明する。
 昨日店長は店に来なかったんじゃない。来れなかったのだ。もう昨日の時点で既に殺されていたのだから。
 周がテーブルにハムエッグトーストの乗った皿を運んで腰掛ける。
「啓兄、どうかしたか?」
 唖然とする俺に、周が尋ねる。
「この人、バイト先の店長なんだよ」
「そうなのか。空き巣がいる時に家に帰るなんて、運が悪いな」
「…そうだな」
 周はテレビを一瞥して、トーストを齧る。
「啓兄が気に病むことはない」
「それもそうなんだけどさ…」
 確かに俺は鹿田店長からのセクハラが心底嫌だったが、死んでほしいと願ったことはない。俺がバイトを辞めれば済む話だからだ。現にそうするつもりだった。
「昨日、黒川も事故に遭って死んだんだ。こんな立て続けに二人も…」
「啓兄は黒川に嫌がらせを受けてたんだろ。むしろいなくなってせいせいするんじゃないのか」
 はっとして周を見ると、周の眼は例の氷のような冷たさを帯びていた。軽蔑が混じったような声音に、昨夜、国道で見た横顔が蘇る。あれは周じゃないと昨夜確信したはずなのに、またもや懐疑的な推測が首をもたげる。
「啓兄、今日は大学行くのか?」
 周に話しかけられて、我に返る。
「三限に講義があるから、午後から行くよ」
「昼飯食ってから行くだろ?冷蔵庫の中何もないから、ついでに色々買ってくる。何か食いたいもんあるか?」
「いや、何でもいいよ」
「分かった」
 周は食べ終わった皿をシンクに持っていくと、財布を持って家を出て行った。
 普段なら深く考えずにスルーできるような小さな違和感が、やけに気になって仕方ない。昨日で疑いは晴れたはずなのに、俺はまだ周のことを疑っているのか。
 いや、馬鹿な考えだ。あれはただの事故だ。黒川は事故当時、相当酔っぱらっていた。足元がおぼつかったとしても不思議ではない。でも俺は、確かに誰かが黒川を道路に押し出すのを見たんだ。その誰かが周であるはずがない。それなのに、あの時見た横顔が周であったように思えてならない。だが考えてもみろ。周が黒川を殺す理由なんてこれっぽっちもないじゃないか。大学は同じだが、学年も学部も違うし、周と黒川に関わりがあったとは思えない。
 いくら考えても周を疑う余地はない。なのに、どうしても確信が出来ない。疑惑が胸につっかえて、飲み込めない。
 こうなったらもう、確かめるしかない。
 俺はすっかり冷めてしまったトーストを皿に置いて、立ち上がる。本人のいない間にこんなことをするのは気が引けるが、確かめなければ気が済まない。ずっと周を疑いながら、一緒に暮らし続けることなんて出来ない。さっさとけりを付けて、自分の馬鹿な考えを吹き飛ばそう。
 俺は周の部屋の前に立ち、ゆっくりとドアを開ける。俺以外家に誰もいないのに、妙に緊張する。
 間取りはほぼ俺の部屋と同じだが、こちらの方が物が少ないためか、すっきりと片付けられている。思い返せば、周の部屋に入ったことはあまりない。掃除は周が自分でしているし、二人で過ごすときは大抵ダイニングだ。
 部屋の奥のワークデスクに歩み寄る。
 黒川が事故に遭ったのは昨日の午後十一時半頃。俺が十二時過ぎに帰宅した時には、周は既に自宅にいた。ならば、それより以前から周が在宅していたことが確認できれば、周に犯行は不可能ということになる。
 デスクに置かれたノートパソコンの電源を入れる。
 周は部屋にいるときは大抵パソコンをいじってる。昨夜もパソコンを使用していたならば、履歴が残っているはずだ。
 ブラウザを起動して、履歴を開く。
「…ない」
 昨日は午前中の履歴しか残っていない。
 得られなかった成果にため息を吐いて、パソコンの電源を落とす。勝手に疑って覗き見てしまった自己嫌悪に苛まれる。
 もういっそ周に直接聞いてしまう方が早いのか。そうすれば安心できる答えが返って来るはずだ。最初からそうすればよかったか。
 諦めて部屋を出ようと踵を返したとき、机の上に置かれた手のひらサイズの黒いノートに目が留まった。
「なんだろこれ」
 珍しいサイズのノートだ。何に使っているのか何となく気になる。罪悪感を感じながらも好奇心が勝り、そっと手に取ってしまう。
「……え?」
 表紙をめくって、いきなり目に飛び込んできた文字に困惑する。
「廃棄処分リスト?」
 何のリストだろうか。用途がよく分からない。
 最初のページをめくると、人の名前が書いてあり、その下には何やらびっしりと書き込まれていた。他のページも同じように書き込まれている。俺の知らない人の名もちらほらと見受けられるが、知っている名前が大半だ。
「なんだこれ」
 何のためにこんなものを書いているんだろう。俺の中学時代の同級生など、周と面識のないはずの人の名まで書いてある。
 数ページ繰ると、忘れもしない名が目に留まった。『兼森憲明(かねもり のりあき)』。高校二年の時の俺の担任教師だ。俺は彼に窃盗の容疑をなすり付けられそうになったことがある。彼はその事件をきっかけに精神錯乱状態になり、自宅で首を吊って自殺した。苦い思い出に蓋をして、ぱらぱらとページをめくる。
 いくつも連なる名前に、俺はある共通点を見出した。彼らは皆、過去に大怪我をしているか、もしくは既に死亡している。なぜ周はこんなものを書き残しているんだ。だが、こうして見てみると、俺の周りで不幸に遭った人があまりにも多すぎる。たまたま偶然が重なったとは思えない。
 脳裏に廃棄処分という文字が脳裏にちらつく。まさかと思い、急いで書き込みがされた最後のページまでめくる。
『黒川友洋(ともひろ)』
 飛び込んできた名前に、はっと息を飲む。名前の下には、住所や行動範囲、帰宅経路まで詳細に渡る個人情報が記載されている。
「まさか、そんな…」
 俺の中で、まるで非現実的な妄想が膨らんでいく。
 震える手で、恐る恐るひとつ前のページに戻ると、そこには『鹿田幸三』と書かれていた。
 頭を思いっきり鈍器で殴られたような衝撃が走る。
「店長まで…!?そんな…、周が、そんなこと…」
 ありえない。そんなことは不可能だ。誰にもバレずに、今の今までやり通せる訳がない。俺の馬鹿な妄想だ。だがそれ以外に、周がこんなものを書いていることに説明がつけられない。
「啓兄?」
 咄嗟にノートを閉じてばっと振り返ると、ドアの傍に周が立っていた。手にはスーパーのビニール袋を提げている。
「周…」
 俺がノートを手に持っているのを見て、周がビニール袋を取り落とし、がさりと音を立てる。周は怯えた顔で一歩一歩とこちらに近づいてくる。
「そのノート、見たのか?」
 周は俺が頷かないのを肯定と受け取ったのか、立ち止まって諦めた様に小さく微笑む。
 身体が小刻みに震え出して、止まらない。
 聞きたくない、聞きたくない。
 周の口が紡ぐのは、いつだって心地よい言葉だ。喧嘩だって、一度たりともしたことがない。周はいつだって、自分を押し殺して俺の事を優先してくれるから。
 今まで、これほどまでに周の口が開かれるのを恐れたことはない。
「もういい、周。何も言わなくていい。俺は――」
「俺が殺したんだ」
 周が落ち着いた声音で、俺の言葉を遮る。
「う、嘘だろ……?」
 悪い冗談はやめてくれ。周は人を殺すような人間じゃない。いつだって優しく、過剰なまでに俺を気遣ってくれる。
「本当だよ。鹿田も黒川も、兼森も俺が殺した。大怪我させたやつもいる」
 周はいつも通りの優しい笑顔を浮かべながら、残酷な言葉を吐く。
 足元の床が崩れ落ちるような錯覚に陥る。
「どうして、そんなこと…」
「当然だろ。啓兄を傷つけるやつが、この世に存在していいわけがない。啓兄はこの世で誰よりも尊い存在なんだ。全人類は啓兄に敬服する義務がある。なのにそれを理解していない輩がいる。俺はそんな存在価値のないゴミを排除しただけだ」
 まるで呪文を聞かされているように感じる。周の言っていることが全く理解できない。
「…ゴミ?」
「あぁ。啓兄以外は全員ゴミだ。ただの肉塊だよ」
「周…、何言ってるんだよ」
 笑顔で狂気的な思想を語る周に、背筋に寒気が走る。
 周は何を言っているんだ。俺が神のような存在で、俺以外の人間は取るに足らない存在だとでも言いたいのか。俺はただの人間だ。他の人と何も変わらない。ごく普通の人間だ。過大評価するにも程がある。
「啓兄は俺にとって、神様みたいな存在だ。親父の暴力から、身を挺して俺を守ってくれた。だから俺も啓兄を守りたいんだ」
 周は穏やかな目をしていて、自分がおかしなことを言っているなんて、夢にも思っていない。
「…だからって、人を殺していい理由にはならないだろ」
「何でだ?親父が死んだ時だって、啓兄嬉しいって言ってたじゃないか」
「それとこれとは話が別……、…まさか、全部俺のためか?」
 父さんが死んだとき、俺は確かに周に嬉しいと言った。でもそれは、周が自分のしたことのために傷つかないようにするためだ。そうしないと周の心が壊れてしまうと思ったからだ。だが、それが全て裏目に出た。俺があの時嬉しいと言ってしまったから、周の中で殺人が防衛手段として正当化されてしまった。俺の言動が逆に周の心を壊してしまったというのか。
「全部、俺を守るためにやったのか?」
「何でそんな傷ついた顔するんだ。黒川や鹿田だって、親父と同じようなものだろ。違うのか?」
 なぜ俺は今の今まで気づかなかったんだ。俺は知らぬ間に周を殺してしまっていた。
「啓兄は、今まだ親父が生きていても幸せだったと言えるか?」
「それは…」
 肯定できずに言葉に詰まる。
「俺があの時親父を殺さなきゃ、啓兄が殺されていたんだ。黒川や鹿田も、俺が殺さなきゃ、きっと親父みたいに啓兄を傷つけてた」
 リストに名前を連ねた人物は、恐らく全員俺に何らかの危害を加えた人物だ。周は彼らが、親父のように俺を死にかけるまで痛めつけることを恐れ、俺に降りかかる最悪の事態を防ぐために彼らを殺したり、怪我をさせたりした。でも彼らは俺に殺意を向けていたわけじゃない。俺を殺そうだなんて、夢にも思っていなかったはずだ。
 リストには俺の知らない人も数人書かれていた。俺の全く知らない所でも、周は報復を繰り返している。
「もう人殺しなんてやめてくれ。誰も俺を殺そうなんて思ってない。周が殺さなくても、俺は誰にも殺されないんだ」
「そんなことはない。ゴミ共は何をしでかすか分からないんだ。俺が処分しないと、啓兄が傷つく」
 周は俺の言っている意味が分からないとでもいう様に眉を寄せる。
 俺のせいだ。俺があの時嬉しいなんて言わなければ、周は壊れなかった。俺は周を父さんから守りたかったのに、一切守れていなかった。周に猟奇的な思想を植え付けてしまったのは、紛れもない俺自身だ。
 涙が溢れて、足元から崩れ落ちる。
「啓兄!?]
 周が駆け寄ってきて、俺の肩を抱く。
「…周がそこまでする価値なんて、俺にはないよ」
 震える声を絞り出すと、滂沱のごとく溢れる涙が頬を濡らしていく。
「何言ってるんだ。啓兄の命が一番大事なんだ。命は平等じゃない」
 伝わらない。人を殺してはいけないという倫理観が、周にはまるでない。このままでは、俺がいる限り、周は何人でも手にかけるだろう。
 涙でぼやけて、見上げた周の顔がにじむ。
「周、俺もう外には出ない」
「え?」
「そうすれば、俺を傷つける人は誰もいなくなる」
 人と接すれば、必ずどこかに摩擦が生まれる。その摩擦が不和を生み出し、調和を乱す。ならば誰とも接触しなければ、そこには何も生まれない。怒りや嫉妬、嫌悪、好意も何もかも。
「啓兄がそんなことをする必要はない。今までみたいに俺が守るから」
 焦ったように言う周には、俺に対する慈愛が満ちている。
「周…、守り方、間違えてるよ…」
 泣きながら掠れる声で微笑むと、周は俺の頬に伝う涙をそっと拭った。


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