「――?」


噂がなくなるまで、審神者の部屋には出入り禁止。もっとわかりやすくいえば、添い寝はなし。

そう告げた時の小狐丸は、どこか呆けているようにみえた。審神者が違う国の言葉を喋っていて理解できない、というような表情だ。状況についてこられなかったのか、しばらく無言でいた小狐丸は、徐々に困惑を露わにしてきた。


「……な、何故ですか、ぬしさま。もしやぬしさまは……小狐丸めのことを、お嫌いになられたのでしょうか?」


そう言い終わる頃には、小狐丸は審神者の宣告に目に見えて動揺してしまっていた。耳に見える髪の跳ねも、今はへにゃりとしおれてしまっている。審神者はその姿に心を痛めながらも、ここで譲ってしまうのは本丸の風紀に繋がりかねないと、心を鬼にすることに決めたのである。


「小狐丸。お前に悪気がないことは重々承知の上だ。けれど、小さな言動があらぬ誤解を生んでしまうこともある。分かってくれ。あくまで、その手の噂がなくなるまでは――添い寝はなし。部屋にも出入り禁止だ」
「そんなっ、ぬしさま……!」
「そのような目で見ても、駄目なものは駄目だ」


そうしたやり取りを十分程繰り返して、涙目でそれだけはと縋る小狐丸にも負けることなく、最終的に審神者はしっかりと約束をさせたのである。

噂がなくなるまでは、決して審神者の部屋には入らないという約束を。
涙目で意気消沈している小狐丸は、自分のことを慰めるような口振りで、審神者にこう切り出してきた。


「ではぬしさま……一つ、約束をして頂けませぬか?」
「約束?」
「ええ。たったの一つです。でなければこの小狐丸、ぬしさまに突き放された苦しみで、どうにかなってしまいます」


おいおいと言われれば、審神者とて無闇に要求を突っぱねることなど出来はしない。元々、審神者自身が小狐丸に怒りを覚えているわけでも何でもないのだ。ただ、本丸の風紀を守るために、やっているだけのことだ。


「そこまで大袈裟なことではないよ。あくまで、私が小狐丸に夜伽を命じているという噂がなくなるまでの話だろう? それが済めば、また前のように添い寝も……」
「それでは足りませぬ…! ぬしさまは私のかけがえのない存在……そんなぬしさまに捨てられてしまうなど、一時のことでも、耐えられぬほどの苦しみだというのに……生きながらに皮を剥がれてしまうようなものです」
「そこまで言うか……いや、だから捨ててなどは……」


小狐丸の哀愁漂う表情に、審神者はついには根負けする。


「わかった。分かったよ小狐丸」


別に、噂が訂正されるまでの話だが、小狐丸がそこまで嫌がるのであれば、その約束とやらをしてもそれはそれで構わないと思ったのだ。


「それで、何を約束すれば良いんだ?」


そう言えば、袖で口元を覆い隠していた小狐丸は、ぱっと機嫌を良くした。それを感じ取って、審神者もどこか安心する。


「では――」


そうして小狐丸が告げた条件は、とても可愛らしいもの。そんなことでよいのならばと、審神者は何も深く考えずに頷いたのだった。

こうして、審神者は小狐丸と約束を交わしたのだ。










小狐丸が審神者の部屋の出入り禁止を言い渡されてから、しばらく経つ。
あれから小狐丸は、約束通り、一度も審神者の部屋に入ることはなかった。朝の日課になりつつあった、小狐丸の髪を梳くこともなくなってしまった。そのことを審神者は少し寂しく思い、けれど噂がなくなればまた小狐丸との日課も戻ってくるだろうと、そう楽観的に考えていたのである。


「小狐丸の様子が変?」


言われて、審神者はきょとんとする。おやつの羊羹を食べながら、今剣は頷いてみせる。


「はい! あるじさまに‘でいりきんし’をいわれてからというもの、小狐丸はめっきりげんきがなくなりました。いまでは、いつみてもしょんぼりしていて、かわいそうになります」


今日のおやつ当番は今剣である。綺麗に羊羹を食べながら、思い出したようにそう審神者に告げて、今剣は眉をハの字にしてみせた。


「とてもしんきくさいです」


表情とは裏腹に、毒舌である。審神者はそのギャップに気をやりながらも、出入り禁止にしてからの小狐丸のことを思い、罪悪感を覚えた。審神者が小狐丸に夜伽を命じているという噂がなくなるまで、とはいったが、期日は曖昧だった。出入り禁止にしてから、一月は経っている。審神者の感覚ではまだ一月、なのだが、小狐丸にとってはそうではないのかもしれない。

出入り禁止を告げたときの小狐丸の様子を思い出して、審神者は胸を痛めながら、言葉を選びつつも、今剣に問いかける。


「今剣。その……変な噂は、もう消えたかい?」
「小狐丸とあるじさまがそういうなかだといううわさですか?」
「……ああ。そう。そういう噂だ」


平安生まれということも関係しているのか、今剣はその手の話題に抵抗はないようだった。とはいえ外見は子供なので、問題はないと分かっていても、こういった話題を出すこともはばかられた。だが何でもないように返ってきた返事に、何ともいえない気持ちを感じてしまう。聞いておいて失礼な話ではあるが。


「もうだれもしんじていないですよ! だいじょうぶです!」


にっこりと笑ってそういう今剣の言葉に安堵して、審神者はしばらく考えた後、肩の力を抜いた。


「……そうか。なら、もうそろそろいいか」
「はい! ぜひ、あいにいってあげてください。あるじさまがきょかしないと、小狐丸はここにこれないので」


そういう今剣の言葉に頷いて、審神者は今剣の頭の上に手を置いた。


「ありがとう。今剣。教えてくれて」


そういうと、嬉しそうに目を細めながら、今剣は無邪気な笑顔を浮かべた。


「ほんらいなら、あるじさまがじぶんできづかないといけないんですよ。ちゃんと、小狐丸をみてあげてください」


言われ、審神者は固まる。そして今剣の言葉は尤もだと思い、頷く。


「ああ。すまなかった。小狐丸にも、ちゃんと詫びるよ」
「はい! いっぱいあまやかしてあげてくださいね」


審神者は強く頷いて、まだ手をつけていなかった羊羹を今剣にあげることにしたのだった。増えたおやつに喜びながら、今剣は「ありがとうございます!」と元気いっぱいにお礼を言ったのだった。


(後で時間を作って、小狐丸に会いに行かなければ)


今剣の言った通りだ。出入り禁止の期間を、明確に決めておくべきだったのだ。審神者は目を細めて、きちんと小狐丸にその旨を謝罪することを決意したのだった。






小狐丸。小狐丸はいるか。

そう名前を呼びながら本丸を歩いていた審神者は、首を傾げた。


(見つからないな……)


詫びる気持ちがどれだけあろうとも、本人がいなければどうしようもない。審神者は小狐丸を探して本丸中を歩いていたが、一向に小狐丸は見つからない。時折小狐丸の場所を刀剣達から教えてもらい、その場所に向かう。けれど小狐丸の姿はなく、また近くの刀剣から小狐丸の情報をもらって、違う場所を探す。

その繰り返しで、既に一時間は本丸をうろついてしまっているのではないだろうか。最後に聞いたのは岩融だったか。別に今日中に終わらせなければならない仕事が残っているわけではないけれど、仕事自体はまだまだ残っているのだ。小狐丸と話はしたいが、小狐丸を探すために一日潰すわけにもいかない。


(まるで小狐丸に避けられているかのようだ……)


ふと、そんなことを思う。思ってからしばらくは何も思わなかったが、時間差でじわじわと己の言葉に焦りを感じた。


(いや……避けられて、いるのか?)


もしもそうならば、小狐丸が審神者を避けていたとするのならば、小狐丸が自分から審神者の元へ来なかったことも、全てが説明がつく。まるで、追いかけてくる審神者から逃げているようにも思えるからだ。耳の良い小狐丸が、審神者の呼びかけに気づかないで本丸中を動き回っている可能性など、その方が皆無と呼べるのではないだろうか。

審神者は嫌な汗をかいてしまい、足を止める。


(私が、小狐丸を突き放すような真似をしてしまったからか。だから、小狐丸に愛想を尽かされてしまったと、そういうことなのだろうか)


違和感が紐解かれていく。その場でしばらく考え込んで、審神者は眉間にしわを寄せると、悔しそうに目を細めた。


「……なら、仕方がないな」


どんな形であれ、傷つけてしまったことを小狐丸に謝りたいが、本人が審神者との接触を避けているのであれば、それを無理にすることもない。審神者はため息をついて、踵を返す。これで全てを諦めることはないが、それでも、一度撤退しておこう。

その時、かたんと背後で音をした。振り返ってみると、そこには誰もいない。気のせいだったと判断することは簡単だったが、審神者は胸騒ぎのようなものを感じてその場に立ち続けていた。


(小狐丸は……本当に私が嫌になったのだろうか)


その胸騒ぎの正体を追い求めるように思案する。審神者は何か、大事なことを見逃してしまっているような気がしてならなかった。それが何か分からず、けれどこのままではいけないのだと、そう感じる。


(このまま小狐丸を、放っては、おけない)


根拠のない、そんな確信があった。
本丸の奥へ奥へと進みながら、審神者はまた声を出す。


「小狐丸。小狐丸はいるか」


名前を呼びながら進んでいく。そうして歩みを進めていく度に、審神者の頭の中で、推測ではあるが、小狐丸に対するある可能性が浮かんできた。


(小狐丸が本当に私を避けているとして、もしもそうならば、果たしてこうも手がかりが残るだろうか。他の刀剣達に場所すら知らせぬように口止めぐらいしそうなものだが……)


それどころか、本気で審神者を避けているのであれば、きっと小狐丸は手がかりすら残さない。そんな風に思っていると、審神者は不意に違和感の中で一筋の光が射し込んでくるような感覚を受けた。具体的なことは何も分からない。けれど、小狐丸には何か目的があるのだと、そう感じた。







そして更に本丸の奥に進んだ審神者は、歩く速度を遅くした。ここから先は、物置に使われている部屋しか残っていない。詰まるところ、行き止まりということだ。新しく本丸にやってくる刀剣達の為の布団がしまわれている部屋に、消耗品や備品の予備などがしまわれている部屋。使う時にしかやってこないだろう部屋の近くは、まだ昼間だというのに、やけにしんとしている。


(ここではないだろうな。どこかで道を間違えたか?)


だがここに来る前に出会った石切丸は言っていた。小狐丸は物置部屋の方へ向かったのだと。石切丸が嘘を言うとも思えない審神者は、ここにはいないだろうと思いつつも、部屋の中を見て回ることに決めた。

手始めに、備品がしまわれているだろう部屋の襖を開く。中は薄暗くて少し埃っぽく、審神者はここの掃除もそろそろしなければと考えながら、部屋の中に足を踏み入れる。けれどやはりというか何というか、小狐丸がいる様子はない。


「小狐丸。いるか? いたら返事をしてくれないかい?」


意味がないと思いつつも、そう呼びかけるが、案の定返事はない。審神者はやはりと思いつつ、また物置部屋を出て行った。


(やはり、ここにはいないのだろうな……一度元に戻って、小狐丸を探し直すか? まあ、今でなくとも、いずれ話をする機会は訪れてくるだろうが)


そんな風に思いつつ、審神者は最後に布団部屋の中を見ることにした。期待はほとんどない。だが、念のためである。審神者は戸を開くと布団部屋に足を踏み入れ、あたりを見渡す。

薄暗く、どこかひんやりとした空気に包まれながら、審神者は小さくため息をついた。押入の中と、押入には入りきらなかった布団が所狭しと並べられているが、小狐丸の姿は見えない。予想通りだ。だが、それ故に気も落ち込む。

寝具に関する小物が仕舞われている棚の影まで覗いて確認したが、やはり小狐丸の姿はない。


「いないか……」


分かり切っていたことだが、審神者は肩を落として、一度先ほどまでいた場所に戻ろうと踵を返す。ここまで来ると、今日は本当に諦めた方がよいのかもしれない。会うつもりでいたのに会えないとなると、やはり、何かしらの思うところがあった。


(小狐丸は、ずっとこのような気持ちだったのだろうか……?)


そんなことを思うと、本丸の規律を守るためとはいえ、出入り禁止を言い渡したことは、やりすぎであったような気がしてしまう。


「小狐丸……」


名前を呟いて、小さくため息をついた。審神者はそのまま部屋から出ていこうと足を踏み出したが――その足が廊下に触れることはなかった。背後から誰かに引き寄せられたのである。


「っ――!」


背後から回された腕と、背中に当たるなつかしい感覚。何より、審神者が以前好きだといったトリートメントの香りが鼻をくすぐって、審神者は背後にいる者が誰かを瞬時に察したのだった。例え香りがなかったのだとしても、審神者の胸の方へ流れている白の髪が視覚に入っているのだ。気づかぬ訳がない。


「――ああ、ぬしさま」


審神者の肩の上に顎を置くようにして審神者を後ろから抱きしめている小狐丸は、感極まったような声でそう口にした。


「……小狐丸。ここに、いたのか」


驚いたが、大声を上げるほどでもなく。審神者は腹部に回されていた小狐丸の腕に己の手を重ねて、小狐丸に体を預けるようにした。


「やっと、会いにきて下さった」


頬ずりをしながらそう続けた小狐丸に、審神者は申し訳なさを感じて、目を伏せる。致し方ない事情があるとはいえ、小狐丸を突き放すような真似をしてしまったことは紛れもない事実。後ろめたさと罪悪感で、真っ直ぐ小狐丸の目を見られる自信がなかった。


「……すまない。遅くなったな」


何故ここにいるのか。先ほどまでどこに隠れていたのか、聞くタイミングを逃してしまったが、審神者にとってその疑問は既にどうでもよいことに成り下がっていた。それになんとなくであるが、小狐丸がここに至るまで姿をみせなかった理由も、分かっていたのだ。なんとなく、だが。


「ええ、本当に。ぬしさまに触れられぬ夜が、これほどまでに苦しいとは……もう二度と、離れたくありませぬ」


審神者の部屋に出入り禁止を言い渡した日、小狐丸と一つ約束をした。その約束を思い出せば、小狐丸がこういったことをした理由もよく理解できたのである。

審神者は右手を小狐丸の頬に当てると、そのままするりと撫でてみせる。


「小狐丸。出入り禁止を解くよ」


そう言って、審神者は小狐丸の顔を正面から見たいと、体勢を変えようとする。背後から抱きしめられていると、小狐丸の顔がよく見えないのである。頬を当てられている今は、なおさら。つまりは、一度小狐丸から身を離れさせなければならないということ。


「……小狐丸? 少し、離してくれ」


けれど、小狐丸は腕の力を弱めたりはしなかった。むしろ強く強く抱きしめられてしまうだけ。息苦しさを感じた審神者がそう言えば、背後から、不機嫌な声が落とされた。


「逃げる、おつもりですか」


当てられていた頬が離れ、耳元に小狐丸の唇が寄せられる。吐息と共に耳に吹き込まれた声の低さにぞくりとして、審神者は逃げるように身をよじった。


「小狐丸、違――んっ……!」


それが面白くないのだろう小狐丸は、耳に音を立てて唇を当てると、そのままがぶりと甘噛みをした。体が強ばって、変な声がこぼれてしまったことに、審神者は羞恥で顔が熱くなっていく。


「や、めなさいっ」
「ぬしさまも人が悪い……私はもう一月も、ぬしさまに触れられず、枕を濡らす辛い日々を過ごしたというのに」
「〜〜だから、そこで話すのは……!」


不機嫌が滲んだ声が耳に直接吹き込まれていく。ざらついた舌が耳内を撫でて、体が震えた。審神者は必死に小狐丸の拘束から逃れようとするが、次に耳元で呟かれた言葉で動きを止めてしまう。


「その間にぬしさまは、一体何振もの刀と、何処で、何をしていたのやら」


不機嫌の色を、怒りの感情が塗りつぶしていくような、ぞっとするような低い声。小狐丸のこのような声など、審神者は今まで一度も聞いたことがなかった。
審神者の周りで起きた出来事を、まるで見透かしているかのような言葉。出入り禁止を言い渡されていたというのに、小狐丸が見ていたはずがないのに。審神者は顔を青くさせて、息をのんだ。


「……!」


審神者の耳に触れていた小狐丸の唇が離れ、今度は審神者の首筋に埋めるように唇を当ててくる。ちゅっと音を立てたそれに小さく肩が跳ねて、体が強ばる。


「分からないと思いましたか。こんなにも、べったりと臭いを身につけておいて。……本当に、ぬしさまはなんと酷な方か」


唇を首筋に埋めたままそう続けられて、審神者は唇を強く引き結んだ。それから、はっと吐息をこぼすと、小狐丸の腕を強く握って引き離そうとする。けれど、やはり小狐丸は離れようとする素振りは見せなかった。


「小狐丸……とにかく、離してくれ」


とにかく、小狐丸が審神者を解放する気がなければ何も始まらないのだ。審神者は気丈に振る舞いながら、その一点を小狐丸に頼み込む。


「逃げるつもりはない……が、お前の顔が見たい」


そう付け加えれば、小狐丸は無言のままでいた。動くこともしないままである。その沈黙の中、審神者の心臓は嫌な音を立てていたような気がする。


「……良いですよ」


小狐丸は足を伸ばして襖を乱暴に閉めると、そのまま審神者を抱えるようにして部屋の奥へと引きずり込んだ。そうして奥に畳んで置かれていた敷き布団の前に審神者を放ると、審神者に詰め寄るような姿勢をとった。審神者の足の間に自身の足を割り込ませ、積まれた敷き布団に審神者の背中を押しつけた小狐丸は、薄暗い部屋の中でもはっきりと分かるようなぎらついた目をしていた。


「ぬしさま」


その目を細めて、小狐丸は審神者の腰に手を回して引き寄せる。


「私とぬしさまの間に不埒な関係はありませんでしたが、私はぬしさまに遠ざけられました。では何故、ぬしさまに不埒な真似をする刀は、今ものうのうとぬしさまのおそばにいられるのでしょう?」


もう片方の手でぐっと審神者の顎を持ち上げると、小狐丸は顔を近づける。審神者はその小狐丸の気迫と言葉に口を閉ざし、必死で言葉を探す。けれどことこの件に関しては、返す言葉もない、といった表現が不可欠であると言う気がしてたまらなかった。


(……返す言葉もない)


そうして審神者の中で出た結論も、結局はそれだ。下手ないいわけをする気も起きない。実際、小狐丸は何も審神者に手を出していないにも関わらず出入り禁止を言い渡され、口づけだけとはいえ審神者と接触を持っている者は、(薬研藤四郎を除いて)出入り禁止を言い渡されてはいないのだから。

全てを知っているのだとすれば、小狐丸の怒りも尤もだ。


「……すまない。小狐丸」
「はて……何に対して謝っているのでしょう」


謝罪をすれば、小狐丸は表情一つ変えることなく続ける。審神者は口ごもり、そして、小さな声で絞り出すように口を開く。


「……お前に、不実なことをしてしまった」
「不実、とは?」
「だからそれは、……分かるだろう?」
「……ええ。分かりますよ。確かに、不実そのもの」


割り込ませるようにして、小狐丸は親指を審神者の唇の間にねじ込んだ。乱暴なそれに咄嗟に小狐丸を押し退けようとするも当然うまくいかず、審神者は苦しげに目を細めた。


「……口にも出せぬ行為を、ぬしさまは他の者には許している。素知らぬ顔で振る舞いながら。ええ、とても、腹立だしいですよ」
「っ…や、めろ、小狐丸…」


乱暴に口内を指でなぞられ、審神者は必死に小狐丸に訴える。負い目があるせいで、はっきりとした拒絶が出来ないが、だからといって、このままでいいわけがない。誰も来ないようなこの場所で、このようなことをされて、それを受け入れるほど審神者は甘くない。

口内を蹂躙する指を噛んで、審神者は小狐丸を睨みつける。食いちぎるような勢いではないが、甘噛みといえるような力加減ではない。審神者はぎりぎりと小狐丸の親指を噛んでいた。

傷をつけるつもりはなかったが、ある程度は審神者は真剣だった。が、小狐丸はそんな審神者の気持ちを知って知らずか、静かにふっと笑う。


「構いませんよ。どうぞ、噛みちぎって下さい。ぬしさまに与えられるのならば、どんな痛みも受け入れましょう」


その言葉に怯んで、噛む力が抜ける。そんな風に言われようとも、結局の所、審神者は小狐丸を傷つけることなど出来ないのである。小狐丸は緩く親指を引きながら、にやりと笑った。


「……ぬしさまは本当に、甘い」


抜かれた指が、その手が、審神者の後頭部に回る。状況を把握するよりも先に、噛みつかれるように、乱暴な口づけをされた。空いていた隙間からすぐに熱い舌が口内に進入してきて、逃げるように背中が反ってしまう。けれどすぐ背後には重ねられた布団があり、加えて小狐丸は審神者の腰と後頭部に回しているせいで、少しの距離も離すことが出来なかった。

卑猥な水音を立てながら絡められた舌と、口内に流れ落ちていく唾液。乱暴なそれのせいで飲み込めずにいた唾液が、唇の端から伝い流れていった。時折、唇を食むように噛まれ、その度にまるで補食されているようだと、審神者はそんなことを思った。

何度小狐丸の服を引っ張り、制止した後のことだろう。おそらく三分にも満たないその間で、審神者の呼吸はすっかり乱れてしまっていた。小狐丸は顎まで伝っていた唾液を舐めとるように舌でなぞると、そのまま審神者の唇に、ふれるだけの口づけを落とした。音を立てて唇が離れた瞬間、肩が上下してしまう。


そしてゆっくりと離れた先で、小狐丸は歪な笑みを浮かべていた。
力が抜けた審神者が布団に背中を預けるようにすれば、小狐丸は審神者の腰と後頭部から手を引いて、今度は審神者の横の畳の上に手をついて、そしてもう片方の手で、頬をなぞるように触れていく。


「……ああ、憎らしい。ぬしさまのこの表情を、私以外に見た者がいるとは。――斬り殺してしまいたくなる」


血走ったような視線。審神者は呼吸を整えながら、小狐丸の顔に手を伸ばした。小狐丸は審神者の手を振り払うことはせず、じっと審神者の動きを待っている。


(ああ、なんという表情を……させてしまったのか)


審神者は小狐丸の頬に手のひらを当てると――優しく、撫でた。


「……ぬし、さま?」


叩かれるとでも思ったのか、小狐丸は審神者の行動に目を丸くしていた。審神者は悲しげに目を細めて、小さく口を開いた。まだ整い切れていない呼吸の合間合間で、言葉を紡ぐ。


「すまなかった。小狐丸」


もう片方の手も使い、小狐丸の頬を挟むようにして、触れる。


「お前を、傷つけてしまった。ここまで追いつめてしまった。本当に、すまないことをした」


目を逸らすことなく、告げる。小狐丸は言葉に詰まった様子で、ただ審神者の目を見つめていた。

小狐丸は、一度も審神者にそういった行為はしていない。ただ、意味深な物言いで周囲に誤解を与えてしまっただけである。それなのに、出入り禁止を言い渡した。そして、実際にそういった行為があったもの――この場合は、加州清光が当たるのだろう。加州清光は、今も近侍として、審神者の一番そばにいる。何故小狐丸が知っているのか、今はそこはどうでもよいのだ。

ただ、小狐丸を遠ざけてしまったこと。期間も決めず、今剣に言われなければ、いつ小狐丸に会いにきたのかも分からなかった状況のこと。そんな己のことは、不実という言葉では片づけられない。狡賢く、手酷いと評価されても、仕方のないことである。

今の行為が小狐丸にとって、当てつけなのか、嫉妬なのか、仕返しなのか、それとも恋愛感情があってのものなのか。そのどれかなのかは未だ分からないままだが、少なくとも、今一番小狐丸に告げなければいけない言葉はこれだけなのだと、審神者は思った。


「――やくそく」
「ん?」


小狐丸は、少しの沈黙の後、か細い声で、ぽつりとそう切り出した。審神者に聞き返されて、小狐丸は先ほどよりも大きな声で口にする。


「約束を、覚えていますか、ぬしさま」
「ああ、覚えているよ」


あの時、確かに小狐丸と交わした約束。審神者は微笑んで、口を開いた。


「――『今まで以上に、小狐丸を甘やかす』だったな」


あの時強請られた希望を聞いて、審神者はとても微笑ましく思ったものだった。時間と共に約束を反故にしようなどと考えることもなかったうえに、忘れるつもりとてなかった。あの時、あの瞬間、必ず叶えようと決めていたことだ。

審神者の返事を聞くと、小狐丸はようやく、微笑んでみせた。


「ええ。そうです」


そして、審神者が背中を預けていた布団ごと、床に滑らせるようにして押し倒す。審神者の顔の横に手をついて、小狐丸は犬歯を覗かせて笑っていた。


「まず、ぬしさまの部屋にはいつでも出入り自由にして頂きます」
「……まあ、仕事の邪魔をしないのであれば」

「それから、ぬしさまの布団で一緒に寝ることの許可を」
「添い寝だろう? 構わないよ。元々、お前と寝ることが嫌だったわけではないからね」

「毛並みの手入れも、毎日」
「ああ、分かった」

「それから、ぬしさまの膝枕で昼寝もしとうございます」
「ん、仕事している時以外でな」

「ぬしさまと一緒に、いなり寿司を食べに行きたいです。町に美味い店があると聞きました」
「いいよ。時間を作って、一緒に行こう」

「それから……それから、」


続け、小狐丸はふと、泣きそうな表情を浮かべてしまう。それに審神者は首を傾げ、慰めるようにまた優しく小狐丸の頬を撫でる。


「先程、ぬしさまにしてしまったことを……許すと、言って下さいませんか?」


表情だけでなく、声まで泣きそうに震えている。審神者は少しの沈黙の後に――ふっと、微笑んだ。


「許す。そうさせてしまったのは、私だ」


頬を撫でていた手のひらを頭の上に移動させて、撫でてやる。小狐丸は目を細めて、もっともっとと強請るように、すりすりと手のひらに寄っていた。


(やはり、先のあれは、仕返しのようなものか)


小狐丸には、そういうところがある。おそらく、ここまで小狐丸が姿を見せず、この布団部屋に審神者をおびき寄せたことも、今まで放ってしまっていた仕返しなのだろう。仕返し、というと、あまり良い響きではないが、小狐丸なりの甘え方なのだと、審神者はとっくに知っている。だからこそ、小狐丸に対して怒りのような感情は持ってはいないのである。

そして先程の行為が恋愛感情からくるものでないのであれば、審神者がこれ以上言うことはない。褒められたことではなく、審神者自身もいけないと思っているが、それでも、ああいった口づけをされることは初めてではない。己でも酷く焦りのようなものを覚えるが、割り切る術は持っている。同等にして良いものか判断に困るが、恋や愛でないのならば、酔っぱらった長谷部にされた類のことと同じものであるという認識だった。


(だが……慣れないな)


口内とは、体の中。他者にあのように蹂躙されてしまう感覚は、なんとも形容しがたい気持ちになってしまう。思い出しかけた記憶を振り切って、審神者は目の前の小狐丸を真っ直ぐと見上げた。


「ぬしさま……!」


小狐丸は破顔すると、感極まったように、審神者のそばに顔を近づける。そして額に軽い口づけを落とすと、そのまま、頬に、鼻先に、何度も何度も触れるだけの口づけを落としたのだった。審神者はそれに困惑しつつも、後ろめたさや罪悪感の手前、強く否定することが出来ずにいた。

唇には触れないそれは、親愛から来るものである。そう言い聞かせ、結局、審神者は小狐丸の気が済むまで好きにさせていたのである。









「小狐丸、うまくやったでしょうか? しんぱいですねえ。いまごろ、あるじさまをてごめにしてはいないでしょうか」

「ううむ、あれで小狐丸は直情型だからなぁ。邪魔が入らぬように人払いも手伝った手前、確かに乱暴なことは困るが……」

「……君たち、もう少し信用してあげられないのかい? 大丈夫さ、彼は狡猾だからね。一番良い立ち位置をとるためにも、主に妙なことはしないさ」

「石切丸がいちばんひどいこといってますね」

「信頼しているといってほしいね。まあ、もしもの時は連帯責任ということで、私達も一緒に、主が許してくれるまで謝ればいいさ」

「はっはっは! そうだな。同じ三条として、小狐丸を応援してやらなければな!」

「ええ! ほかのかたなにおくれはとらせませんよ! あるじさまはさんじょうがいただきます! えいえいおー!」

「おおー!」



「……今更だけれど、主も大変だねえ」



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