「……っ、つめたい」
湯船に足を浸して、一言。すぐに足を水面から離して、審神者はぶるりと震える体を温めるよう腕を組んだ。確かめるように腕を湯船につけ、そしてその後蛇口を回してお湯を出そうとする。しかしお湯が出ることはなく、出るのは冷たい水ばかり。
審神者は顔をしかめて、つぶやいた。
「壊れたか……」
どうせならば、服を脱いでしまう前に気がつきたかったと、審神者は肩を落とした。
本丸には、二カ所、浴場が設置されている。まだ本丸に刀剣が少なかった時代に使用していた小さい浴場と、刀剣が増えて増築した大きな浴場の二つである。新しい大浴場が設置されると、刀剣はそちらを使用するようになった。一方、審神者はあまり刀剣たちと関わりを持たないこともあり、小浴場を使い続けた。そうしていつしか、小浴場は審神者専用になってしまっていたのである。そんな明確な決まりはないが、滅多な用がない限り審神者以外の誰も小浴場は使用しない。
そしてその小浴場は、今日壊れてしまった。
(……そういえば、大浴場を使うのは初めてだな)
大浴場は刀剣専用。小浴場と同じく、そんな決まりはないけれど、審神者はそんなイメ―ジを抱いてしまっていた。それを思うと、大浴場を使うことに少し引け目のようなものを感じてしまいそうになるが、小浴場が壊れてしまったのなら致し方ない。まだ冷え込んでいないとは、流石に夜に水風呂は遠慮したい。
和風に構えられた風呂の入り口。のれんをくぐって中に入ると、水色の髪をした長身の後ろ姿が目に入った。
「一期一振」
名前を呼べば、振り返る。一期一振は審神者の姿を見ると、小さく目を丸くした。
「主殿。……如何されましたか? 確か、主殿には専用の浴場があると聞いておりましたが」
「壊れてしまったんだ。水しか出なくてね」
「おや……それは、災難でしたな」
「ああ。すっかり体が冷えてしまった。こっちは大丈夫だったかい?」
髪の毛が湿っている一期一振を見れば、入浴後の姿であることは簡単に分かる。寝間着をほとんど着込んでいる一期一振は、上品に微笑んでみせた。
「こちらは問題ありませんよ。今日も、良い湯でした。確か、今日は檜の湯でしたな」
「へえ、凝っているんだな。それは楽しみだ」
「……主殿は入浴剤は使われないのですか?」
「ああ。私しか使っていないからね」
興味も特にはない。あれば嬉しいものなのだろうが、わざわざ調達したいとは思わない。
「そうですか。ああ、そうだ。もう少しで弟達が出てきますので、その後でしたら、静かに入れるかと」
「そうか。でも、それはそれで寂しいな。どうせならば今度は、皆と入ってみたいものだ」
審神者は深く考えずに、そんなことを口にする。そうして一期一振の近くの、空いている脱衣用のかごの中に荷物を入れながら、帯に手をかけた。
「それはそれは。弟達も喜びますな。是非、前向きに検討を」
「そうだな。今度、一緒に入ろうと誘ってみようか」
そうにっこりと笑いながら言う一期一振に、審神者はくすりと笑みをこぼした。一対一で話したことはあまりない相手であったが、穏やかな物腰はどこか安心する。
(一期一振とも、いずれゆっくり話をしてみたいものだ)
そんなことを思いながら、しゅるしゅると帯をとき、あっという間に下着姿になる。下着にも手をかけてそれも脱ぎ終わると、かごの中に入れてから、審神者は体を洗うための小さなタオルを手にとった。
「……どうした? 出ないのか?」
とうに入浴が済んだはずなのに脱衣場を出る気配のない一期一振にそう言えば、一期一振は使用前のきれいに畳まれた大きなタオルを持ったまま、口を開いた。
「弟達の髪を拭いてやらねばなりませんので」
「……成る程。それで先に出ているのか。弟想いだな」
肩にタオルをかけて、審神者はそう言う。審神者の言葉に、一期一振は答える代わりに、はにかんだ。審神者はそれだけで満足して、美しき兄弟愛、なんて思いながら浴場に向かって歩いていく。そうして浴場へ続く扉に手をかけたとき、曇りガラスの向こうに肌色の影が写る。ならば此方から開ける必要はないと判断し、審神者は手を止めた。予想通り、がらがらと音を立てながら、反対側から扉が開かれる。
「――厚か」
そうして姿を現したのは、厚藤四郎だった。厚とばっちり目があった審神者は、微笑んで口を開く。
「ゆっくり浸かれたかい?」
挨拶代わりにそう問いかけるが、厚は審神者の姿を認識すると、ハッと息をのんで目を見開いた。顔全体を使って驚きの表情を浮かべている厚は遠慮なく審神者を指さし、浴場に響きわたるような大声をあげる。
「たっ、大将っ!?」
その驚きように固まる審神者に、厚は後ろを振り向くなり、浴場に響き渡るような大声で叫びだした。
「みんな! 大将だ! 大将がいるぞー!」
まるで、敵襲に出くわしたような雰囲気であった。思っていた驚き方と色々と違っている。確かに大浴場に足を踏み入れるのは初めてだが、そこまで驚くことではないだろうと思う審神者は、厚の声の大きさを窘めようとしたものの、厚の後ろから続々と藤四郎がひょこひょこと顔を覗かせたことで思わず口を閉じてしまう。
「わっ! 本当だ、大将だー!」
「あるじさん、どうしたの?」
厚の後ろからいの一番に飛び出してきたのは、信濃藤四郎と乱藤四郎だった。勢いに圧され後ろに下がると、あっという間に囲まれてしまう。
「風呂が壊れたんだ。だから今日は、こっちに入ろうと思ってね」
「え〜! 言ってくれたら、ボク、あるじさんと一緒に入ったのにー!」
「ああ。今度は、一緒に入れると嬉しいな」
そう言いながら腕を組んでくる乱に、笑いかけながらそう言う。反対の腕を信濃が張り合うように組んできた。
「乱だけいいなあっ。大将、俺も俺も!」
「もちろん。皆で入ろうか」
「やったー!」
両腕を捕まれている中、続々と浴場から藤四郎が現れる。
「わ〜。本当に主じゃないですか! え? 今日は特別な日か何かなんですか? 俺たちと一緒にお風呂入りたかったとか!?」
「……だが、もう入り終わってしまった」
鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎が表れ、そんなことを言う。その後ろから、また二人ほど脱衣所に現れた。
「主君っ! ほんとだ、わあっ、こっちで会えるなんて思いませんでした!」
「あるじさまも、こっちのお風呂に入るんですか?」
続いて現れたのは、秋田藤四郎と五虎退である。あっという間に大人数に囲まれた審神者は、勢いに圧倒されながらも、にこりと微笑む。
「向こうの風呂が壊れたんだ。直るまでは、此方の風呂に入ることになるだろう。また今度、一緒に入ろうな」
「「はいっ!」」
言えば、二人は声を揃えてそう言った。そろそろ、扉の前にスペースがなくなっていく。けれど腕を離す様子のない乱に信濃、周りからいなくなる気配がない厚と鯰尾と骨喰と秋田と五虎退。そろそろ解散しなければ。他の刀剣の通行の邪魔になってしまう。
「こらっ! 扉ふさぐんじゃねえよ!」
「そうばい! 俺も主が見たかあ!」
そう浴場から声がする。この声は後藤藤四郎と博多藤四郎である。無理矢理体をねじ込むようにして審神者の前にやってきた二人は、審神者が本当にいることを確認すると、目をまん丸くした。
「おおっ……本当におるばい……」
「大将。どうしたんだよ? いつも、専用の風呂に入ってるんじゃ……」
「壊れて水しか出なくなってな」
そう答えれば、二人は何ともいえない表情を浮かべる。驚きと、期待が混ざっているように見える。
「じゃ、じゃあ、明日から大将はこっちの風呂を使うのか!?」
「ああ。しばらく世話になるよ」
言えば、ぱあっと目を輝かせる。そんな後藤をなでたくなったが、乱と信濃にがっちり腕を組まれているため、それは叶わない。
「! 主、風呂を直すのにもお金がかかるんやないと? やったら、今度からもこっちの風呂を使うといいばい! 経済的にも、そっちの方がずっとお得と思わん?」
ナイスアイデアとばかりに声を張る博多の声に、続々と同意の声があがる。
「博多のいうとおりだよ! ね! そうしようよ大将!」
「ぼ、僕も、あるじさまと、もっと一緒に入りたいです…!」
「そうです主君! そうしましょう!」
「大将、オレもそうした方がいいと思うぜ。なっ、後藤!」
「っ、そ、そうだな。皆もそう言ってるしっ……、大将! なっ?」
「いいですね! 今度は皆で水鉄砲で遊びましょうよ! 温かいので風邪もひきませんし!」
「……鯰尾、またいち兄に叱られる」
一斉に話し始めた短刀達の勢いに困惑しながらも、審神者はそれを嫌だとは思わずにいた。むしろ嬉しくて、頬はだらしなく緩んでしまう。
「……それも良いな」
むしろ、そうすることで、皆との距離が縮まりそうで嬉しい。そんな審神者の反応に手応えを感じた短刀達がわっと沸き立つと、脱衣所からタオルを抱えた一期一振が近づいてくる。
「皆、そこまでだよ。主殿は風呂に入りにきたのだから、邪魔してはいけないよ。さ、おいで」
そう言った一期一振の声で、一斉に短刀達が動き出す。はあいと次々返事をして、まるで蜘蛛の子を散らすように。流石兄。弟達の面倒は見慣れたものである。
「じゃあ、明日は一緒に入ろうね。大将」
「主さん、約束だよ?」
一番最後に審神者から離れていった乱と信濃に手を振って、審神者は浴場に足を踏み入れる。後ろ手で扉を閉めようとしたが、まだ脱衣場へ出ようとしている者がいることに気づいて、手を止める。
「主君、話は聞こえたのですが、本当ですか!?」
「明日から、主も一緒なのでしょうか……?」
そう声をかけてきたのは、前田と平野である。風呂上がりで髪がぺたんとしていると、本当によく似ていた。見間違えることはしないけれど、なんとなく、感心してしまう。
「そうなるね。一緒に入ってくれるかい?」
皆の声が大きくて、二人にも聞こえていたのだろう。あれだけ大声で話していれば当然だと深く考えずにそういえば、二人は嬉しそうに、目を丸くし、口角は自然に吊り上がっていく。
「はい! お背中お流しします!」
「では、僕は髪を洗います!」
「ふふ、ありがとう。では、頼もうかな」
今度は両手は空いている。二人の頭をなでながら、審神者は優しく声をかけた。
「さ、湯冷めしない内に着替えておいで」
そういうと、二人は素直に頷いて脱衣場に向かっていく。そうしてゆっくりと扉が閉じられると、審神者は浴場の中を見渡した。確かに、審神者が普段使っている浴場とは比べものにならないほど大きい。完成したときに一度訪れて外観は知っているはずだったが、長くこなかったせいだろうか、記憶に残っている浴場よりも、やけに大きくなっているような気がした。
(それにしても、短刀達は元気だな)
掛湯代わりにシャワーを使って全身を洗いながら、審神者はそんなことを思った。現在包丁藤四郎と毛利藤四郎は遠征中なため、現在本丸にいる藤四郎は全員そろっているということである。
(……いや、足りないな)
いたのなら真っ先に審神者にちょっかいをかけてきそうな、薬研がいない。けれど入るタイミングがずれているのか、もう入り終わったか、いない理由などいくらでもあるため、深く考えることもせず、審神者は体を洗い終わると、浴槽に向かって歩いていく。
「――薬研?」
すると、浴槽の縁に座って審神者に背中を向けている姿が目に入る。顔を確認しなくとも薬研だと分かった審神者は、小さく驚きをみせながら声をかけた。
「まだ入っていたのか? 皆、もう出てしまったよ」
すると、後ろを振り向いた薬研は、審神者の姿を見て、にんまりと笑ってみせる。
「大将が来てるっていうんでな、もう少しいることにした」
「のぼせてしまわないかい? 大丈夫か?」
「なあに。いつもこうだ。俺っちは、そもそも長湯する方だからな」
そう言われて、審神者はふとこの本丸が出来たばかりのことを思い出した。
「……そういえば、そうだったな」
まだ小さい浴場しかなかった頃、つまり、初期の頃から、薬研はこの本丸にいた。たまに同じ湯につかることもあったが、いずれも薬研の方が先に風呂から上がるところは見たことがなかった。
刀剣と会話をしなかった頃の話。記憶は薄れていたが、薬研との会話がきっかけで、徐々に思い出してきた。
「思い出してくれたか?」
「ああ。あの時は、ずっと無言で、会話なんてなかったな」
「大将がそういう主義だったからな。俺はそれに従っていただけだぜ。――今は、どうだ大将? 俺は黙っていた方がいいか?」
そうなら、従うぜ。そう続けて、薬研は目を細くする。審神者はゆっくりと首を横に振って、ふっと微笑んだ。
「だが、お前と話していたらのぼせてしまうかもしれないな」
「なあに。その時は、俺が責任もって布団に連れ込んでやるよ」
「言葉はちゃんと選びなさい。前々から思っていたが、お前は、少し言い方が下品だよ」
「心配ねえよ。大将にだけだ」
「それはそれで問題だよ」
「主、僕もいるよー」
「…燭台切」
そんな掛け合いをしていると、同じく、湯船に浸かっている燭台切が声をかけてくる。そう声をかけられて、初めて審神者は燭台切光忠がいることに気がついた。燭台切はゆるく審神者に手を振り、審神者もそれに同じように返す。
「いたんだな。……その眼帯は、とらないのかい?」
「うん。これがないと、落ち着かないっていうか……皆驚いちゃうかなって」
「湯気がひどいだろう? 前は見えているのか?」
「うん。大丈夫。もう慣れたものだからね」
そんな会話をしていると、審神者の視線は燭台切から――隣で審神者に背中を向けている人物に向けられてしまう。
「………長谷部。何故壁を見ているんだ?」
燭台切の隣で審神者に背中を向けている長谷部の姿には、違和感しか感じない。一人だけ、壁に向かって湯船に浸かっている様は、どこか異様にも思えた。なんとなく嫌な予感を覚えながらそう問いかけると、長谷部は肩を震わせながら、声をあらげた。
「――主。どうか、前をお隠し下さいっ……!」
その長谷部の言葉に、審神者はとにかく、呆気にとられた。その言葉だけで長谷部が何故壁を向いて座っているのかも理解できたが、それ故に思考が定まらなくなってしまうのである。長谷部はおそらく、審神者がタオルで下半身に隠していないことが気になるのだろう。だがその必要性があるか否か、そこに審神者は納得がいかないのだ。どんな理由を持って審神者に下半身を隠せというのか、審神者が一番意識をやったのは、そこであった。
「何故だ」
「何故と申されましても……ここは皆が入浴しますので、」
「? 隠さなければならない決まりでもあるのか?」
「い、いえ、そういうことは……」
「なら良いだろう。何の問題がある」
恥ずかしいことはない。審神者と刀剣男子。そもそも前提が違うものの、作りは同じ。もしも刀剣達が女性の体に顕現していたのであれば遠慮もするが、形自体は誤差があれど同じなのだ。そういったルールもないのに、隠す必要はない。審神者はそう思っている。
「大将は最初から、股間は隠さない主義だったもんなあ?」
「普通だろう。最初の頃は、皆もこうだったと思うが……」
「大将に合わせてたんだ。そういうもんだと思ってな」
でも、と続けて、薬研はため息をつく。
「いち兄の方針でな。粟田口は、皆隠すことになってる」
「……成る程。そういえば、短刀たちは皆巻いていたな」
そういう薬研も、タオルで隠している。脱衣場では一期一振に股間を隠すようには言われなかったが、そういった事情があったらしい。
(弟たちにだけ、ということか)
弟想いだ。だが、何が短刀たちのためになっているのか、よく分からない。まあ兄弟の事情ならば何もいうことはない。というよりも、審神者は何も他者に股間を隠すなといってまわっているわけではない。各々、したいようにすれば良いと思っている。
だが、己は隠すつもりはない。というだけである。
「長谷部。何も困ることはないだろう。お前達と同じようなものがついているだけだ。私は、見られても何も困らないよ」
「……主、なんか男前だねえ」
「最初から、こうだったぜ。大将は」
燭台切と薬研の会話がなされた後、長谷部は口を開いた。
「――俺が困ります! 主のそんな姿、とても直視できませんっ!」
「……そんな姿、か。そこまで可笑しいものはついていないつもりだが」
つくりが同じとはいえ、細部は違っている。中には、周囲に見られたくない外観をしている者もいるだろう。だが、審神者はそんなコンプレックスなど持ってはいない。むしろ股間を隠す方が女々しく見られてしまうから嫌だ、そう思っている程である。
「主の裸を馬鹿にしているわけではありません。ですが――」
「――なんだ?」
いつにない長谷部の拒否に、審神者はむっとしてしまう。審神者には恥ずかしいものがついていると思われていると、そう感じとってしまったからである。腕を組んで、審神者は言葉の続きを急かす。
「――その、俺が気になってしまって……」
「? ……そんなに、変な形をしているか?」
「そ、そんなことは!」
強くそう聞き返せば、焦った長谷部が慌てて弁解を始める。
「――主のものは、とても可愛らしいです!!」
「………か、」
長谷部に向けていた苛立ちが、あっという間に冷却されていく。長谷部から受けた暴言のようなものは、繰り返して発言することすらできずに、最初の一文字で発言を放棄してしまう。あまりの衝撃に、審神者の脳内には己が長谷部の暴言に脳天を殴られているイメージ映像が鮮明に浮かんでいた。
常時背中をむけていた長谷部だが、おそらく、目を背ける前に審神者のものをみたのだろう。そしてその上での、先ほどの発言なのだろう。審神者はそれを察して、だからといって、衝撃を受け止めきれずに固まってしまっていたままだ。
「長谷部くん……君ねえ」
「――っ、…」
視界の端で、口元を覆って肩を震わせている薬研と、目を覆ってため息をつく燭台切の姿が写る。燭台切はともかく、薬研は笑いをこらえていることがすぐに分かる。審神者の苛立ちに拍車がかかった。
審神者は、静かに表情に影を浮かべた。
「……そうか」
これほどまでに、長谷部に怒りを覚えたことはない。胸に静かな怒りの炎を宿しながら、審神者はちゃぽんと湯船に足を踏み入れて、そのまま長谷部の背中に向かって歩いていく。そうして長谷部の後ろに移動すると、怒りの感情にまかせて、長谷部の耳の横から壁に手をついた。
「長谷部。此方を見ろ」
耳元でそう言えば、長谷部は体を震わせて動揺する。
「い、いえ、主。それは……」
「長谷部」
逃がす気はない。長谷部は審神者に対して夢を見すぎている。その夢が視界にフィルターをかけているのだろう。審神者はそのフィルターとやらを壊してしまおうと思ったのである。否、壊さなければならないと思ったのだ。
「私を見ろ」
「っ――」
もう一度、念を押すようにそう言えば、長谷部は、抵抗の気持ちを抱きながらも、逆らうことが出来ずに、ゆっくりと体を動かした。審神者は壁についていない方の手で長谷部の肩を掴むと、少々乱暴に長谷部の体を己に向き合わせた。ちょうど、長谷部を壁に押し付けるような体勢になった。
「目を逸らすな」
視線をどうにか審神者から外そうと躍起している長谷部に、審神者はそう念を押す。肩を掴んでいた手を長谷部の頬に当て、無理矢理己の方に向けた。
「主、主を愚弄するつもりは――…」
「分かっている。だが、このままではいられない。分かるな? 失望されるよりは良いが、過剰に持ち上げられても困る」
視界から逃げられてしまわぬように、長谷部との距離を縮める。そうして鼻先が当たる距離にまで顔を近づけて、審神者は長谷部に告げる。
「よく見ろ。私は‘審神者’でお前達の‘主’だが――ただの、人間だ」
長谷部の瞳が揺れる。いつから浸かっているのか、触れている長谷部の温度はとんでもなく高い。審神者は長谷部の顔から少し距離を空けて、長谷部の足の間に割り込むようにして、湯船の底に膝をつく。そして、壁と頬に当てていた手をひいて、そのまま長谷部よりも少し高い視点から、長谷部の首の後ろに回して緩く引き寄せた。
「前提は違うが、同じ体だろう……? ほら、ちゃんと見てみろ」
「あるじっ……お、俺がいいたいのはそういったことでは……」
「なら、どういうことだ? 直に触れば分かるか? きっと、二度と可愛いなどと言えなくなるぞ」
「そ、それ以上は本当に……お許しください……」
「……末恐ろしいな、大将」
「っていうかもう、鬼かな……長谷部くんかわいそう」
熱で揺れる瞳から一切目を逸らさずにそう言い放つ審神者の後ろで、同情するような声が聞こえる。けれど、今の審神者にはどうでも良い話だった。
「目を瞑るな」
「……主の命でもそれは」
「長谷部!」
ぎゅっと瞼を閉じて顔を背けようとする長谷部に、審神者は困り果てた。ここまで意識されてしまうと、今後にも問題が出てきそうである。何より、これからもずっと悪気なく、あのような暴言を吐かれてしまうかもしれないことが恐ろしい。
(果ては、主ではなく女扱い……か?)
笑えない。審神者はそんな扱いなどは望んでいないのだから。だが、主命には従順な長谷部がここまで頑なになってしまえば、どうすれば良いのか分からなくなってしまうというのも本音。審神者は声を落として、問いかける。
「そんなに、私が嫌か……?」
「いいえっ、そんなことは!」
困り切った審神者の感情が伝わったのか、長谷部は目を閉じながらも、困惑の色をみせた。
「ですから、そうではないのです」
「ならば、目を開けてくれ、長谷部。……頼む」
「っ……」
そういうと、長谷部は考え込んだ挙げ句に、観念したようにそろそろと目を開いた。熱に浮かされたような表情だ。その目に審神者の姿をうつすと、長谷部はごくりと唾を飲み込んで、審神者の腰を抱えるようにして両手を添えた。今まで受け身だった長谷部の急な行動に、審神者は体を震わせる。そのまま長谷部の手に力がこもり、一瞬、長谷部の方に強く引き寄せられた。反動を受け、審神者は咄嗟に長谷部の首に回していた手に力を入れてしまう。
近距離で目が合い、その瞬間、腰に当てられた長谷部の手が、不自然に腰のカーブをなぞった。
「っ…はせべっ」
自然と漏れた小さな声で、長谷部の目の中に怪しい光がうつったような気がした。
けれど、それは今度は審神者を突き放すような動きに代わり――長谷部は審神者の腰を抱えたまま腕を伸ばして、強引に審神者に距離をとらせた。
「――光忠! 頼む!」
「オーケイ、任せて!」
背後から燭台切の声がする。同時に腹部と目を多い隠すようにそれぞれに腕が回る。目の前が真っ黒になった直後、ばたばたと、慌ただしい音がして、足音のようなものが遠ざかっていく。
「……燭台切!」
「ごめんね、主。でも、流石にこれ以上は、主のためにもならないからさ」
長谷部が浴場から出ていってしまっている。それが分かった審神者が視界を奪われたまま恨めしげに名を呼ぶが、申し訳なさそうな声を出しながらも、燭台切は決して腕の力を緩ませなかった。
そうして少し経って、ようやく燭台切は審神者のことを解放する。審神者は駄目元で周囲を見渡して、ため息をついた。
「……逃げられてしまった」
ぴしゃりと扉を閉めるような音も耳に入っていた。予想通りの結果ではある。そう呟いた審神者に、燭台切はまた湯船に浸かりながら口を開く。
「主。あんまり、長谷部くんを苛めないであげて」
「そう見えたか? 苛められていたのは、むしろ私の方だろう」
そう答えれば、燭台切は困ったように笑った。燭台切の隣で腰を下ろして湯に肩まで浸かると、審神者はふうと息をついた。湯船の熱が、首まで上ってきているかのようだ。
「ねえ、主」
そう切り始めた燭台切に目をやる。燭台切が水面を見下ろしながら、伺うように笑みを浮かべた。
「長谷部くんのこと、嫌いになっちゃった?」
「馬鹿をいうな。そんなこと、あるわけがないだろう」
ばっさりと燭台切の言葉を切り捨てて、審神者はため息をつく。先ほどのやりとりを見られて、そんな印象を抱かれてしまったということに、少し反省をした。とはいえ、あれは必要なことだったと、今でも思っている。
「ただ、軽視されるのは困るんだ」
「……主。あれはむしろ、大事に想われている結果だと思うよ?」
「分かっている。忠心が一周回って、結果軽視されているといっているんだ」
審神者の命ならばと、夜伽の相手までしようとした長谷部。その忠心は有り難いが、審神者はそんなことは望んでいない。使命と関係のないところであるのならば、個人の自由を尊重したいのだ。そのためにも、先ほどのような長谷部の態度はなんとかしたいものである。
「忠心かあ……そんな感情じゃないと思うけどね。うーん、手強いなあ。長谷部くんも苦労しそうだねえ」
「生きづらくはありそうだな。もっと気を抜けば良いものを」
しみじみとそう呟いた燭台切にそう返せば、小さなため息がかえってきた。
「あっ! ねえ主、今度、長谷部くんを誘って二人で出かけてみたらどうだろう?」
そして閃いたように手のひらの上に拳を置いて、燭台切はそんなことを提案した。それに審神者が返事をする前に、名案とばかりに続けて口を開く。
「ほら、主は皆とあまり仲良くしてこなかったじゃない? だから、きっとその反動で長谷部くんがああなっちゃった可能性もあると思うんだ!」
そう言う燭台切の言葉に、審神者は少しの沈黙を置いた後、感嘆の声を漏らした。燭台切の言葉は、いやにしっくり来ていた。
(……そうだ。長谷部が私のことで悩んでいたことも、私は本人から、周囲から聞いている)
つまるところ、長谷部が審神者に対する適切な応対が出来ない理由はそこにある。心から納得した審神者は、しみじみと頷いた。己が距離感を間違えていたことは、審神者自身、よく分かっている。
「確かに、その可能性は十分あるな」
「でしょう? だから長谷部くんと二人の時間をもっといっぱい作ればいいんだよ! お出かけに限らず、もっと二人きりになる機会を――」
「おっと、そこまでだ」
話しに熱中している燭台切と耳を傾けている審神者の間に、背後からねじ込むようにして薬研が入ってくる。審神者は薬研が入れるだけの隙間が出来るように移動しながら、薬研に問いかけた。
「薬研、どうした?」
「おいおい大将。さっき話したことも忘れちまったのか? 俺っちとゆっくり話すってのはどうなったんだ?」
「……ああ、すまない。あと少しだけ待っ――」
「待てねえ。これ以上はのぼせちまう」
審神者の肩に頭を預けるように寄りかかりながら、薬研はそっと燭台切に視線を流す。
「燭台切の旦那は、そろそろ上がった方がいいんじゃねえか? そろそろのぼせちまうだろ?」
「……心配ありがとう。でも、僕はまだまだ大丈夫だよ」
にっこりと笑い、答える。
「薬研くんこそ、僕が入ったときからいたよね? さっきものぼせそうって言っていたし、体調を崩す前に出た方がいいんじゃないかな?」
「俺は長風呂派なんでな。それこそ、心配はいらないぜ」
それに、と付け加えながら、薬研は審神者の肩に手を置いて、引き寄せる。
「明日は兄弟に大将をとられちまうからな。今日は独り占めするって決めたんだ」
その言葉に、審神者は成る程と思い、薬研のつむじを見下ろす。短刀たちが入り終わっても出なかったのは、そういうことだったらしい。初期の頃について話していた内容を思いだし、そして今回の薬研の行動を思うと、審神者はどうにも、たまらない気持ちになった。
「ずるいなあ。僕も主と話がしたいんだけど」
「順番は守ってくれ。俺の方が先約だ」
「三人で話せば良いだろう」
だがわざわざ二人になる必要性はないように思えて、二人の会話にそう口を出す。薬研は目線を燭台切から審神者に移すと、不満を存分に含ませた目を審神者に向けてきた。
「……大将。健気に大将を待ってた俺に、よくそれを言えたな」
珍しく、拗ねたような表情を向けている。審神者は眉を寄せて、薬研の頭の上に手をのせる。
「詳しく調べてはいないが、壊れた風呂の修理には時間がかかるだろう。だから、これから先機会はいくらでもある、という話だよ」
「今はこの瞬間にしかないぜ、大将。替えはきかん」
「……大袈裟じゃないか?」
「とにかく、俺は譲る気なんてないぜ」
絶対に引かないという意思表示か、薬研は審神者の首に両手を回して身を寄せる。それを見て、燭台切は観念したようにため息をついた。
「分かったよ。順番は順番だからね。今回は、僕が引くよ」
そして薬研に目を向けると、不適な笑みをみせた。
「でも、負けないよ。僕は長谷部くんを推すからね」
「そいつはこわいな。だが、粟田口は全員俺推しだぜ。勝てるか?」
「ふっ、望むところだよ」
同じように不適に笑う薬研。審神者は二人の言う‘推し’の意味が読みとれずに、眉を潜めていた。短刀たちならばともかく、燭台切が薬研とこのようなやり取りをするところは見たことがない。審神者は脱衣場に歩いていく燭台切を見ながら、なんとなく問いかけてみた。はっきりとはいえないが、審神者も関係しているとみて良い気がする。
「何で争っているんだ?」
「それを聞くのは野暮だぜ、大将。聞くな」
「そ、そうか…? すまない」
審神者が関係していると思って尋ねた言葉だったが、あっさりと躱されて不発に終わる。審神者は眉を潜めて、満足そうに顔を近づけてくる薬研を引き離して隣に座らせた。放っておいたら、膝に乗ってきそうな勢いだったためである。意外と大人しく隣に座りなおした薬研に、審神者は声をかける。
「本当にのぼせてはないか? お前ほどなら運べるけれど、無理はしてはいけないよ」
言えば、薬研は口角を吊り上げてみせる。
「心配いらねえよ、大将。あと一時間は入れる」
「本当に風呂が好きだな」
「まあな」
知ってはいたが感心する。燭台切が出ていって浴場に二人きりになると、薬研と審神者が口を閉じれば、当然沈黙が流れる。その沈黙が初期の頃と重なり、審神者は静かに目を細めた。
(あの頃とは違う。もしも、あの頃と変わらぬまま大浴場に来ていたら……あんな風に、短刀たちに声はかけてもらえただろうか? いいや、きっと、なかっただろうな)
そんなことを思いながら、審神者は先ほどの短刀たちの笑顔を思い出して、頬をほころばせた。己が変われたのかどうか、はっきりと目の前に答えとして現れたのだ。嬉しくないはずがない。
「喜んでたな、兄弟。風呂中に響いてたぜ」
「ああ。嬉しい事だ。明日は、平野と前田が髪と背中を洗ってくれるらしい」
「そりゃいいな。大人気じゃねえか」
「そうだな。まあ、すぐに慣れるだろう。二、三日ほどで静かになるんじゃないか?」
普段はいないはずの審神者がいる。だからこそ、その驚きにつられて喜んだ部分も多いことだろう。おそらく、しばらくすれば審神者にも慣れて、今に普通の反応をするようになるに違いない。喜ぶ気持ちとは裏腹に、審神者は冷静な部分でそんなことを思う。
「鈍いな、大将」
「鈍い?」
「俺たちの愛を舐めすぎだ」
「あ、愛……?」
そう繰り返せば、薬研はまた頭を審神者の肩に預けて、やけにしっとりとした声で口を開いた。
「今までずっとお預けくらってたんだ。長谷部の旦那の話じゃねえが、今までの反動もある。皆仲良く――の次の感情は、独り占めにしたい、だ。大将。覚悟しとけよ」
「……それは、薬研もかい?」
問えば、薬研は少し黙り込んだのち、すりすりと肩口に頭を当てる。
「俺は、その次の段階だな」
「まだ次があるのか?」
「あるぜ。当ててみろよ、大将」
それを受けながら、審神者は頭を使って考える。
仲良くしたい。
独り占めしたい。
その次の感情――。
「離れたくない――か?」
審神者と居るためにわざわざ残った薬研のつむじを見ながらそう呟けば、ふっと、小さく薬研は笑った。
「そんなに可愛いものだったら、良かったかもな」
「違うのか?」
「……良い線はいってたぜ」
「そうか。それで、正解は?」
深く考えずにそう聞けば、薬研は小さな声で何かを言いかけ、やめた。
「秘密だ、大将」
「なんだそれは」
くすくすと笑い、審神者は薬研の頭の上に手のひらをのせる。
「お前は時々、可愛い甘え方をするな」
「……甘やかしてくれるのは結構だが、子供扱いは頂けねえな」
「はは、すまない」
不満をのぞかせた声でそう言う薬研に、審神者は目を細めた。
以前の審神者は、このように戯れることなどはしなかった。義務的な声かけはしても雑談などしなかった関係が、一年経って、こんな形になったこと。実感と後悔と、もう一つ。審神者は、気になったことがあった。
(……薬研は、どう思って居るのだろう? 私が変わったことを)
隣にいる薬研が、審神者が変わってしまったことをどう思っているのか、気になってしまった。明確な答えを、ただ言葉にして欲しかっただけかもしれない。
「薬研。変なことを聞いても良いかい?」
そっと薬研に問いかける。薬研は審神者を上目遣いで見上げ、「なんだ?」と口にした。審神者はそれに従って、静かに口を開き、問いかける。
「昔の私と今の私、どちらの方が、お前達にとって良い主だっただろうか?」
後ろめたさのようなものから、薬研から目をそらし、水面に反射する己の顔に視線を向ける。ゆらゆらと揺らぐ水面に反射する顔を見ながら返事を待てば、薬研は少し考え込んだ後、静かに口を開いた。
「――大将は、昔の俺と今の俺、どっちが好きだ?」
けれど返ってきたのは、答えではなく問い。問いに問いで返された審神者は、戸惑いを覚えつつも、口を開く。
「何か違うのか? 薬研は、変わっていないだろう?」
確かに審神者が変わってから、薬研との距離感は変わったが、薬研自身が変わったわけではない。薬研は薬研のまま。何かが違っているとは思えない。
そう言って、審神者は薬研に目を向ける。するとその先で、薬研は優しい笑みを浮かべていた。
「俺も同じ気持ちだ、大将」
どこか、大人びた雰囲気があった。何もかもを見透かしているような、そんな雰囲気である。
「大将は自分が変わったから、なんて思ってるみたいだが、そんなの、俺にいわせれば表面上の話だ。大将の本質は、最初から今まで、何一つ変わってないぜ」
その言葉に、審神者は目を丸くした。薬研は肩にもたれかけさせていた頭を退かすと、審神者の前に移動する。
「大将がどんな形であれ、俺たちのことを大事にしてくれていたのは――アンタに顕現された時から分かってたことだ。審神者としての振る舞いは、昔も今も、大将がより良くあろうとした結果だろ?」
正面からまっすぐと向けられる目線と言葉。するりと、審神者の頬に薬研の指先が触れた。
「大将が変わったから好きになったわけじゃない。大将が変わったから、好きだって表だって言えるようになったってだけのことだ」
そういうと、薬研は審神者との距離を縮めた。そして、審神者が窘める暇さえも与えずに、伸ばしていた審神者の足を挟むように底に膝をついて、審神者の首に両腕を回す。ちょうど、先ほど審神者が長谷部にしたような体勢である。
「大将は知らねえだろうな。俺が昔から、大将に手入れされんのを楽しみにしてた、なんて」
「……そう、なのか? 何故……」
「決まってるだろ。大将に会えるからだ」
審神者の首に回した腕を引いて、同時に薬研は顔を審神者に近づけた。目を逸らすことができないままじっと目を見つめていたら、このまま薬研の中に吸い込まれてしまいそうだ、なんて馬鹿げたことを思ってしまう。
「目の前で、大将が俺だけを見て、俺だけのために霊力を使う。その間は、俺以外の誰も、大将の中にはいない――俺だけが、大将の全てになるんだ。これ以上のことはないだろう?」
嬉しそうに瞳を細めて、薬研は笑みを浮かべた。
「大将は大将だ。好きだぜ。昔も、今もな」
初めて見るその表情に見とれるように黙り込んだまま、審神者はなんと言えばいいのか、必死に言葉を探していた。心の中で、燻っているものが澄み通っていく感覚。薬研の言葉は親愛からくるものに間違いがないというのに、妙に胸が忙しなくなった。
「――ありがとう、」
嬉しさからだろう、頰が、いや、顔全体が熱くなった。気の利いた言葉は出てこない。審神者はそれだけを口にして、何だか、昔の愚かだと思っていた己のことを、ほんの少しだけ、好きになれたような気がした。
(私が嫌う過去の後悔も失敗も、丸ごと受け入れていてくれているんだな……)
それがどうにも嬉しくて、けれどうまく言葉にして伝えることが出来ないでいる。審神者はゆっくりと、言葉を紡ぐ。気の利いた言葉ではないけれど、とにかく、素直な感情を伝えたかった。
「なんて言葉にしたらいいのか分からないけれど、うれしいよ……とても」
感極まって、少しだけ声が震える。けれど、薬研は審神者の気持ちなど見透かしているとでも言いたそうに、微笑んでいた。
それから、すうっと距離が近づくと――自然な動きで、唇が重ねられる。あまりに自然な動きに、審神者は身動きができないまま、それを受け入れてしまう。熱かった。ただ、ひたすらに。
一、二秒。重なるだけの口づけはすぐに終わった。名残惜しそうに離れてしまった感触を追うように薬研の目を真っ直ぐと見上げれば、体勢のせいで、その色はどこか陰っているように見えた。普段の薬研の雰囲気とは違う紫に、くらくらする。
「……薬研」
思考がうまく働かない。本来ならば叱って剥がさなければいけないというのに。まるで、頭の中が、ぐるぐると回転しているようだ。
「だめだ、」
力なく、辛うじてそれだけを口にするが、薬研は審神者の言葉に何も言わずに、またそっと唇を重ねてしまう。伝わる熱は脳にまで侵入していたような感覚を思わせる。そうしてまたゆっくりと離れた唇から、審神者はこんな言葉を漏らした。
「……やげん、あつい」
そう訴えるようにいった瞬間、体の力が抜ける。前のめりに倒れて、薬研の鎖骨あたりに頭をもたれさせた。
「――大将?」
もたれかかってぐったりしている審神者に、薬研はハッとした。慌てて審神者の脇の下に手を入れて抱き上げると、そのまま立ち上がった。
「のぼせちまったか」
焦りを含んだ声と共に持ち上げられて、審神者の体は湯船から出ていった。薬研が抱えているのだと遠くなる意識の中で気づいた審神者だったが、思うように体も動かせずに、薬研にその身を任せてしまっていた。どのみち、声も出ない。
ぱたぱたと、心地良い風が当てられる。審神者が目を開けると、そこには見慣れた天井が写った。
(私の部屋か……)
部屋全体を見渡さなくとも、直感でそう気づいた審神者は、風がやってくる方へ目を向けた。風呂で意識が遠のいてからの記憶はほとんどない。けれど、ずっとそばに薬研がいたことは覚えている。
「……薬研」
「起きたか、大将」
案の定、そこには団扇で審神者を扇いでいる薬研の姿があった。胡座をかいていた薬研は、審神者が目を覚ましたことに気がつくと、胡座を崩して、団扇を畳の上に置いた。そして四つん這いになって審神者の頬に手を当てると、調子を診るように触れたり目を覗いたりと繰り返す。
「気分はどうだ?」
「だいぶ、楽だよ。少し、頭は重いが……」
「まだしばらくは休んでいた方がいいな。……だがまあ、あまり悪くなさそうで安心したぜ」
とはいえ、じっとしてはいられない。審神者は上半身を起こして、額を押さえて目を瞑る。薬研は近くに置かれていた盆の上にあった水差しを手に取ると、それをコップに注いで、審神者に差し出した。
「ほら、水だ」
「ありがとう、薬研」
審神者がコップをうけとると、薬研はまた胡座をかいて座り込んだ。そうして、また団扇で審神者のことを扇ぎ始める。心地よい風を感じながら、審神者はコップに口をつけた。乾いた体に、染み渡っていく冷たさが心地よかった。あっという間に飲み干して盆の上に置くと、審神者は申し訳なさそうに口を開いた。
「すまない、薬研。のぼせたんだろう? あれだけ薬研にいっておいて……」
「気にすんな。言ったろ? 大将がのぼせたら俺が責任もつって」
「そうだな。そんな言い方ではなかったが……」
ふっと笑い、けれど疲労感には勝てずに、ぼんやりしてしまう。太股の上に置いた手の甲を見下ろしたままの審神者に、薬研の方から、そっと尋ねてきた。
「で、大将――どこまで覚えてるんだ? のぼせて倒れる前のこと」
「……ん、どこまでだったかな……確か、」
目を瞑って、おぼろげではあるが、記憶を思いだそうとする。風呂が壊れて大浴場に行って、短刀たちと会って、長谷部に逃げられて、そうして薬研と二人になって――。
「………あ、熱かったことだけは覚えているが……他は、あまり……」
薬研に唇を重ねられたような気がする、なんてとても言えない。鮮明に覚えてはいるが、意識が遠くなる前の話だ。もしかすれば、審神者の夢だったのかもしれない。本人を前にして思い出したままを口にすることも出来ずに、曖昧な返事をした審神者に、薬研は「成る程な」と呟いた。そうして団扇を放り投げると、審神者の前に膝立ちになる。そして審神者の首に両腕を回すと、あの湯船の中でしていた体勢をとった。
「じゃあ、もう一回するか」
そうしてあの時のように審神者のことを見下ろしながら、薬研はこともなしにそう口にする。審神者は慌てて薬研の胸板を押し返そうとした。気を失う前の記憶が、感触が鮮明に思い出されて、頰が紅潮するのが己でもわかった。
「ま、待て、しなくていいっ。その……覚えている、から」
やはり夢ではなかったのか。薬研の反応で得たくはなかった確信を得た審神者は、訴えるようにそう言った。そんな審神者の反応を受けて、薬研は拗ねたような表情を浮かべた。
「知らんふりはどうかと思うぜ、大将」
「……すまない。けれど、もしも夢だったら、恥ずかしいだろう。あんな……」
「あんな?」
額をこつんと当てながら、自分以外に向けさせないというように引き寄せられる。感じる熱い視線から目を逸らそうとするも、それを薬研は許さなかった。強引に審神者の顔を自身に向けさせながら、薬研はうっすらと笑みを浮かべていた。
「……はなれなさい」
「嫌だっつったら、どうする?」
「……駄目だ。離れなさい」
あの時、気を失う前までの記憶の再現をここでするつもりだったのかもしれないが、それは受け入れられない。あの時は流されてしまったが、今はもうあの時の思考力が足りない状態ではないのだから。審神者はそう念を押して、薬研の胸を押し返すように力を入れた。けれど、薬研の体はびくともせずに、審神者は困って目を逸らしてしまいそうになる。
「ちゃんと見ろ、大将」
だが、目の前の薬研がそれを許さないため、嫌でも真っ直ぐに薬研の目を見つめることになる。薬研の瞳に写る己の姿は、ひどく狼狽えているように見えた。主人としての威厳など、欠片ほども見当たらない。見事に、振り回されてしまっている。
「目は逸らすな」
念を押すようにそう言われて、審神者はきゅっと唇を引き結ぶ。あんなやりとりをした後で、薬研を手ひどく拒絶できるわけがない。こんなにも真っ直ぐに見つめてくる者を、どうやって拒否しろというのか。残念だが、己が絆されかけてしまっている可能性を自覚せざるを得ない。実際、普段ならば声を荒くして止めるのに、今は、薬研を突き飛ばすことも出来ずに、されるがままになっている。明らかに、主従関係が崩れてしまっていた。
(このままではいけない……)
絆されてしまうことも、目を逸らすことも出来ない中、咄嗟に思い浮かんだ方法は、目を瞑ることだった。これ以上見つめられていたら絆されかけてしまいかねないと思ったからである。けれど目を瞑った瞬間、逆にこれが悪手であるとすぐさま気づいて、審神者は慌ててまた目を開けた。けれど、その時には既に遅く。
「……っ」
唇に触れているそれは、浴場で知ったものと同じ。伏せられた睫が目に映り、審神者は薬研の胸に当てていた手で押すのを止めた。
あの時のように、名残惜しそうに唇が離れていく。薬研はゆっくりと瞼を開けると、じいっと審神者を見つめた。
「大将。前に話してた褒美、あるだろ?」
「? …あ、ああ」
熱に浮いた声とは裏腹に、急に話題が変わる。急に何を言い出すのか、今の状況と、それは何か関係があるのか。そんなことを考える審神者に、薬研は告げた。
「今、欲しい。今だけ、大将を俺の好きにさせてくれ。十分、いや、五分でいい」
その言葉に、審神者は驚きで小さく目を見開いた。即答で了承できる内容ではなく、審神者は困惑して、今度こそ薬研から視線を逸らそうとする。目を伏せてきゅっと口を閉ざせば、薬研にそっと額に口づけられた。
「大将が、俺を拒まない理由が欲しい」
そう言って、薬研は、もう一度審神者に鼻先に顔を近づけた。目の前にある真剣な眼差しに、審神者は狼狽えながら――ついに、観念したように頷いた。負けてしまった瞬間だった。そして、それを確認した瞬間には既に、薬研の唇は審神者のものに触れていた。五分。たったの、五分だけである。間違っていることであると自覚しながらも、審神者はそんな思いから目を逸らしてしまった。
薬研の目を真っ直ぐ見られず、審神者は目を瞑る。啄むような口づけを数回繰り返されると、ぞくぞくして、背中が軽く反った。くすぐったさにたまらず唇を開くと、ぺろりと唇を舐められる。
「っ……やげんっ」
驚いて目を開ける。薬研の表情からは普段の余裕も感じられない。初めて見るその表情に、名前を呼んだだけで審神者は口を閉ざしてしまう。薬研は舌なめずりをすると、静かに目を細めてまた口づけを再開した。乱暴に噛みつくようなそれは、今度は深く角度を変えながら何度も繰り返された。
「、んっ…」
いつの間にか薬研の手は、審神者の後頭部に回されている。髪に指を絡ませながら引き寄せられているせいで、審神者は息継ぎもろくに出来ないままである。一度止めて欲しいと訴えようと開いた唇は、薬研の名を呼ぶこともできないまま、またすぐに飲み込まれた。
「っ…!」
同時に、熱くて薄い舌が、口内に進入してくる。歯列をなぞり、逃げるように縮こまっていた審神者の舌を追いかけ、絡められる。酔っぱらった時に長谷部にもされたことがあるが、素面の時にされるのは初めての経験であった。とにかく呼吸ができない苦しさから逃げたい一心で、審神者は薬研の胸を叩いて訴えた。一瞬でも良い。息継ぎをする間だけでも、解放して欲しかった。
じわりと、苦しさから浮かんだ涙が、頬を伝っていく。
しかし止めてはもらえずに、口内は尚も蹂躙されていく。伝って流れ込んでくる唾液が審神者のものと混ざり合って、審神者はそれを何度も何度も飲み込んだ。けれど、解放はしてもらえない。時折、唇が微かに離れた隙をついて酸素を取り込もうとするも、十分な量は得られない。十分な量の酸素を取り込む前に、またすぐ、薬研に塞がれてしまうのだから。
そうして一体、どれだけの時間が経ったのか。体感時間で言えば、確実に十分は過ぎていると思った。
意識が薄れ、薬研の胸を叩くことも寝間着を掴むことも出来ないまま、審神者は体の力を抜いた。そうなって、ようやく、薬研は審神者から唇を離す。
「――わりい、やりすぎたな」
すぐに倒れ込むようにして薬研の方に頭をもたれさせた審神者は、取り込めなかった酸素を貪るように、大きく肩を上下させながら、荒い呼吸を繰り返した。のぼせて倒れた人間への仕打ちとはとても思えないほどの遠慮のない口づけに、文句をいう余裕など全くない。ぐったりと薬研に体重をかけたまま、審神者は必死で呼吸を整えた。
そんな審神者の背中に手を回して優しくなでながら、それでも薬研とて、息は乱れていた。審神者ほどではないが。切羽詰まったような吐息を漏らしながら、審神者の腰を下からそっとなで上げた。
「あっ、」
ただでさえ過敏になっている体だ。びくりと体を震わせてそう声を漏らすと、薬研はそのまま審神者の顔をのぞき込もうとした。だが、審神者はそれを許さず、構わず背中に両腕を回してしがみついた。今顔を見せたら、もう一度やられてしまう。そんな危機本能が働いた。
「……大将、顔みせてくれ」
そう言われても、審神者は動かなかった。梃子でも動かないと主張するように、薬研の肩口に顔を押しつけたままぎゅうっと寝間着の背中部分を強く握りしめた。
「悪かった、大将、次はもっと休み休み……」
縋るような声を出されても審神者は動く気にはなれなかった。むしろ、また先ほどのような口づけをされてたまるものかと、余計にしがみつくだけ。
「〜〜たいしょー」
困り切った声で呼ばれるが、意思は変わらない。とにもかくにも、呼吸を整えなければ話にならない。ようやく少しだけ落ち着いた呼吸を整えながら、薬研に反応を見せずにいる。そんな審神者の態度がじれったかったらしく、薬研は体重を前に移動させて、審神者をそのまま布団の上に押し倒した。前触れもなく急に反転した視界に映った天井に、思わず背中にしがみつく腕の力が緩む。
先ほどまで横になっていた布団に押し倒されて、審神者の緩んだ力分、薬研は審神者から距離を置いた。
「……悪かった。余裕がなくて。無茶をしちまったな」
上から見下ろされるように押し倒されたことで、薬研と目が合ってしまう。目尻を指で拭われながらそう言われ、審神者はかたく唇をとじあわせたまま反射的に目をつぶった。そうして薬研の指が離れると、ゆっくりと目を開く。審神者は、恨めしげに薬研のことを見た。
「もう、五分経っただろう」
軽率に薬研の希望を受け入れたのは他ならぬ審神者自身。だが、こんなにも手酷い口づけをされるとは思わなかった。
「だろうな。もうしねえから安心しろ、大将」
審神者が怒っていることに気づいているだろう薬研は、それでも審神者の上から退かずに、審神者の頬に手の平を当てると、優しく撫で下ろした。
「好きだ。大将」
上気した頬で、とろけきったような目で己の見下ろす薬研のその声はとびきり甘く、審神者は不機嫌に寄せていた眉間のしわを、ほんの少しだけ緩ませてしまう。これほどまでに幸せそうな表情を浮かべている薬研を突き放すことも傷つけることも、出来そうにはない。すっかり、絆されてしまっている。
(以前、薬研に言われた通りだ。私は甘い)
つくづく、それを痛感した。
だが、だとしても、薬研の気持ちに応えることはできない。
ここまでされて、薬研の好きが親愛によるものだとはさすがに思わない審神者は、先ほどの口づけを思い出して頬に熱を集めながらも、ゆっくりと口を開く。
「……応えられない。審神者として、刀剣とは、そんな関係にはなれない」
いずれは言わなければいけないこと。薬研が傷ついてしまうだろうことは分かっていて、審神者はそう告げた。
「ああ。そう言うと思った」
しかし薬研は審神者の予想に反し、少し寂しそうにではあるが、笑っていた。審神者は、目を丸くして、そんな薬研の顔を見上げる。薬研はそんな審神者の気持ちを見透かしたように、ふっと微笑む。
「けどな、こんな顔されて、可能性がないなんて思えるわけねえだろ。諦める気なんてねえよ。なあに、簡単なことだ」
親指で、すっと唇をなぞられる。狼狽えて視線を逸らしたきゅっと唇をきつく閉じ合せた審神者に、薬研は笑みを深いものにした。そうして、そっと審神者の耳元に唇を寄せると、囁く。
「俺を好きになってくれ、大将」
そう言って、薬研はそのまま審神者の頬に唇を落とす。薄い皮膚の感触とともに、ちゅっと音を立てて離れていく音に、審神者は体を強ばらせた。
「っ……な、なにを、言って……」
そうして告げられた真っ直ぐな殺し文句は、審神者には刺激が強すぎた。最後まで紡ぐこともできずに、審神者は途中で口を閉ざしてしまう。相手は刀剣とはいえ、こんな風に、誰かに恋慕の感情で迫られたことはない。審神者はただ、顔に集まっている熱の行き先が分からず、薬研に視線を奪われてしまっていた。家族がいたことがない審神者には、兄弟というものが何たるかはわからない。けれどもしも弟がいたのなら、短刀達のような存在ではないだろうか。そんなことを思ったことがある。
だが、今はとても、目の前の短刀が、弟のようには思えないのだ。そんな風には、見えなくなってしまっていた。
「……とにかく、退きなさい」
薬研の背中に回していた手を、胸に移動させて押しながら、審神者はかろうじて、そう紡いだ。顔はともかく、声については普通に出せていたつもりだった。実際はいつもより上擦っていることに、審神者は気がついていない。それほどまでに動揺していたのである。
「ああ。今日は大将に従う。そういう約束だったしな」
審神者の反応に満足したのか、薬研は体を起こして座り直した。審神者にぐしゃぐしゃにされてしまった寝間着を直しながら、機嫌良さそうに口元を緩ませている。そんな薬研から目を逸らして膝を抱えるようにして座ると、審神者は視界に入れないようにその間に顔を埋めた。
「薬研、しばらくここには出入り禁止だ」
「……そりゃ、何でだ?」
「そんなこと、わざわざ聞かなくても分かるだろう」
「聞くだろ。俺はちゃんと、大将に了承はとったぜ。なあ、何でだ大将」
了承など。ちっとも止めてくれなかったくせに何をいうのか。そんな気持ちが浮かぶが、審神者はそこには触れずに、言葉を選んで、ゆっくりと口を開く。
「……お前の顔を見てしまったら、思い出してしまう」
「……何をだ、大将。具体的に言ってくれないと、分かるもんも分かんねえぞ」
「分かっているだろう!」
すっとぼけていることは丸わかりだ。
「だから、お前を見ると意識してしまう、から、しばらく出入り禁止にする。分かったら、部屋に戻りなさい」
反論はきかないとばかりにそう言い放って、外を指差す。今日のところは、とても薬研の顔を見れなかった。このまま顔を見ないまま出て行ってくれるものだと思っていた審神者は、顔を上げるつもりなどこれっぽっちもなかった。
「……わかった」
その声に、安堵する。しかし、外を指していた審神者の指が薬研に掴まれてしまい、審神者は反射的に顔をあげてしまう。そして薬研を見れば、案の定薬研から真っ直ぐな視線を寄越されていて、審神者はただでさえ熱くなっていた顔に更に熱が集まっていくことを感じ取った。こうならないための手段だったのに、意味がなくなってしまった。
真剣な眼差しで審神者を見つめていた薬研は、その審神者の反応に満足げに頬を緩ませると、そのまま審神者の手を引き寄せた。そのまま指を開かせるようにして手を握ると、瞼を閉じてから、そっと手のひらに唇を押し当てる。
「今日のところは、これで引き下がる」
そう言って、薬研は目を開けて再び審神者に視線を向ける。と、静かに目を細めた。獲物に狙いを定めた時のような鋭さを感じる視線に、審神者はぐっと口が詰まった。そうして審神者の手を解放し、ゆっくりと部屋から出ていくと、障子戸が閉められた。
「ああ、そうだ。水分補給はちゃんとしろよ、大将」
そう言い残して去っていった薬研に、残された審神者は言葉を失っていた。触れられた手のひらを見下ろしながら、なんとも形容しがたい気持ちに襲われる。
「……っ、こんな…ことを…」
審神者は顔をしかめると、枕に顔を埋めるようにしてまた布団に潜り込んだ。早く寝てしまいたい。考えなければならないことは腐るほどあるのだろうけれど、今は何も考えたくない。そして、あらゆるところに薬研が残していった感触も熱も、どうにかしてしまいたかった。
けれど、寝たくても寝られず、次の日、審神者は初めての寝坊をしてしまったのだった。
[newpage]
[chapter:入れる予定だったけどやめた粟田口のおまけ]
次の日、短刀達と約束した通り、風呂に入っていたときのこと。
前田と平野に髪と背中を洗ってもらい、湯船にて暖まる。各々体を洗い終えて湯船に、一人、また一人と増えていくにつれて、自然と審神者の周囲には多くの短刀達が集まっていた。
そうして、他愛のない話をする。本丸にいる刀剣達とのほのぼのするような話を聞きながら、審神者は微笑んでいた。時折相づちを打ち、頷いて反応をしながらしばらく、審神者はふと、こんなことを乱に切り出された。
「あるじさん、昨日、薬研となにかあった?」
ほのぼのするような話から一転、今触れられては困るような話題を切り出された審神者は、乱の言葉に固まった。完全に虚を突かれて、はいも、いいえも、何も言えない。ぱっちりとした目の中に疑惑と好奇心を含めて乱が審神者に聞くなり、何故か他の者達も黙り込んで、審神者の反応を伺っているのである。
「……なにか、とは、何かな?」
困ったときの質問返し。ぐるぐると回る思考の中で、審神者はあらゆる可能性を打ち立てた。
一つは、薬研が粟田口の皆に詳細を話している可能性。
もう一つは、薬研の様子から粟田口の皆が疑問を抱いている可能性。
乱の質問から考えると、やはり後者の可能性の方が高いけれど、分かっていてなお聞いてきている可能性も捨てきれない。
(いや、気のせいだな、おそらく……)
まさか薬研に限って、兄弟たちに一々説明をするようにはどうにも思えない。おそらく、薬研の言動から純粋に疑問に思ったのだという可能性の方が大きい。話すにしては後ろめたいことだからだろう、痛くもないだろう腹を探ろうとしてしまうのは。審神者はきらきらした視線を向ける乱に、心の中で謝罪する。
「――えっちなこと?」
そんな罪悪感すら一瞬で吹き飛ばしてしまう威力だったと、審神者はこの時の感覚を語る。頭を棍棒で殴られたような衝撃でも、まだ言葉が足りないと思うくらいに。乱の言葉に思考能力もろとも飛ばされてしまったようだ。審神者は今度こそ固まって、言葉も発せない状況になってしまう。
「だって、昨日薬研戻ってくるの遅かったし。戻ってきたらやけに嬉しそうだったし。かと思えばあるじさんの部屋に出入り禁止になってるし。おかしいよね〜」
そういいつつ、とどめ。
「今日だって、一緒にお風呂いこうって言ったのに、薬研なんて言ったと思う? あるじさんのことは昨日じっくり味わったから、今日は遠慮しとくんだって」
無邪気な上目遣いで告げられる言葉は、まるで状況証拠を突きつけられて自白を強要されているかのようだ。審神者も乱の話を聞きながら、言い逃れできないと確信した。ごまかせるような嘘を今からつけるような気もしなかったのだ。
(味わうってなんなんだ……)
もっと言い回しがあっただろうに。味わう、なんて生々しい言い回しのせいで、審神者は嫌でも昨晩のことを思い出してしまう。風呂の湯の熱さも合わさって、頬が上気してしまう感覚に焦ってしまう。
「……そんなことはないよ」
だが、ここで素直に認めることはない。審神者は己でも違和感を覚えながらも、しらを切り通すことにした。
「ふうん……?」
乱はそれ以上は何も言わなかった。審神者は真っ直ぐ見られている目から視線をずらし、話はこれで終わりとばかりに話題を変えようとする。だが、それは叶わなかった。
「じゃあ、何をしてたの?」
言われ、審神者は固まった。先手を打たれて、今から話題を変えるのは不自然だ。何が何でも、昨夜の出来事を詳細に聞きたいらしい。審神者は言葉を探し、けれど適当な言葉を見つけることが出来ないでいた。かといって沈黙を貫けば貫くほど、そのようなことがあったと言っているようなものである。
かちかちと、刻限が迫る音が頭の中を流れていく。審神者は表面上は冷静に保ちながら、思わずこんなことを口にした。
「秘密だよ」
何故こんな言い回しをしてしまったのか。適当に遊んでいたとかお菓子を食べていたとか、それらしい理由はいくらでもあったはずだ。そう考えるも遅く、こぼれた水はすくうことは出来ないのである。
一斉にざわつく粟田口の面々。審神者は顔を青ざめさせながら、必死に付け加える。
「だが、や、やましいことはないから、勘違いしないように……」
そう否定するも、騒ぎがすんなり静まるわけでもなく。
「違うからな! そんなことは何も……」
審神者の制止も何の意味もなさない。非常にまずい事態である。心底困り切っている審神者に、天の助けが入った。
「皆、落ち着きなさい。主殿が困っているだろう?」
流石は粟田口の長兄、一期一振である。鶴の一声とでも言うべきか。審神者の言葉では静まらなかった短刀達も、それぞれ口を閉じていく。そうして静かになった瞬間に、一期一振は非常に穏やかな微笑みを携えながら、口を開く。
「恋仲同士の秘密を、むやみやたらに暴こうとするのは良くないことだ。それが兄弟と主との仲であっても」
「っ……い、一期一振! 待て、私と薬研は恋仲では……」
「おや、違いましたかな? ですが少なくとも、薬研の方は主を慕っているようですが……」
「そ、んなことは……薬研がそう言っていたとでもいうのか?」
薬研が進んでそういった話をするとは思わない。本人から聞いたのでなければ、そのようなことは迂闊に口にするものではないと窘めるつもりでそう尋ねた審神者だったが、一期一振はにっこりと笑ってから、頷く。
「ええ。本人から、聞いております。薬研は、気持ちを秘めても隠すような性分ではありませんからな」
返す言葉がもうない。審神者は言葉に詰まって、震える唇を無理矢理にとじ合わせる。今すぐ風呂場から逃げたい衝動にかられるものの、両端に座っている乱と信濃にがっちりと腕を捕まれて、身動きがとれなくなった。
「主、薬研はおすすめだよ! 気もきくし、頼りになるし」
「そうだよ、あるじさん♪ 薬研ならきっと、あるじさんをリードしてくれるよ」
言い聞かせるように両側から囁かれ、審神者はハッとする。
(――囲まれている、)
粟田口の短刀達と仲良く風呂に入りにきた。それくらいの認識だったが、どうやら、審神者の考えが甘かったようである。外堀から固めようということなのだろう。すっかり薬研をすすめる会になりつつある現状に、審神者は気圧されそうになっていた。
「――私は審神者だよ。刀剣に手を出すことはしない」
だが、例え誰に囲まれようとも、己の決めたことを曲げるつもりはない。審神者ははっきりとそう告げて、凛と構えようとする。これ以上狼狽えるわけにいかない。
「だいじょうぶだよ〜! だって、あるじさんの方が手を出される側なんだもん。それなら問題ないでしょう?」
「っ……乱、そういう問題では……」
「そういう問題だよ。ちっちゃい問題。もしも薬研と恋人になって文句をいう人がいるなら、ボクが黙っちゃいないから、安心して、あるじさん」
力こぶを見せつけるようなポーズをとって、あっけらかんとそう言ってのける乱に、審神者は思わず黙り込んでしまう。
「そうですよ、主君! 愛があれば些細なことです!」
「演練の時にも他の本丸の者を見ますが、刀剣と恋仲になっている審神者はたくさんいますよ!」
「っ!? ま、まさか、そんなことがっ……」
ぞっとするような話に思わずそう口にすれば、審神者を囲む短刀達はあっけらかんとした物言いで告げる。
「普通だよー! だって俺、前よその審神者と刀剣が抱き合ってキスしてるとこ見たし!」
「あっ、僕も見た見た! すごかったねえ、あれ」
当たり前のように告げられた真実に、審神者は文字通り頭を抱えた。
「……嘘だろう…?」
嘘だと言って欲しい。眉間にしわを深く刻む審神者だが、嘘だよ、なんて言葉はどこからも返ってこない。演練には行かない審神者にとっては、その短刀達の言葉が事実か否かなど確かめる術などない。
「大将は演練こないからねえ」
「……行かずとも、映像記録も書類記録も目を通している……だが、よその審神者と刀剣の距離までは……嘘だといってくれないかい?」
「残念ですが、主と刀剣の間では、さして珍しい関係でもありませんよ。女性の審神者も――男性の審神者も。我々も、偏見は一切ございません」
審神者の希望を打ち砕く一期一振の言葉。審神者はもう言葉が出てこなかった。乱れている。あまりにも、風紀が。己の今の状況を棚上げしてそんなことを思う審神者に、一期一振が追撃をする。
「ですから主殿――どうぞ弟の薬研を、よろしくお願いします」
一期一振から聞くことはないだろうと思っていた言葉。審神者は青白い顔で眉間のしわを押さえたのだった。
「一期一振……私は一度、お前ときちんと話をしなければいけないな」
「ええ。主殿を慕う刀はまだまだおりますからな。そのあたりの対策も、しっかり相談しておかなければなりますまい。揉め事は避けるに越したことはありませんからな。無論、私共は協力を惜しみません。どうぞ、ご安心下さい」
「違う、違う一期一振。だから私は刀剣に手を出したりなどは……」
一期一振はこのように審神者の話を聞かない気性だったのか。審神者は頭が痛くなるような気がして、今度は額を押さえる。話を聞いてもらえなくともここで口を閉ざしてはいけないと、審神者はあきらめずに口を開く。だが、一期一振は譲らなかった。
「先程乱も言いましたが――主殿が手を出される側なら問題はありません。障害はあれど、問題は、何も、ありません。障害は我々が取り除きますので、どうぞご心配なく」
否定そのものを否定するかのような反応。そう言い放った一期一振に、審神者はいよいよ言葉を失いそうになってしまう。同じ言葉を話しているとは思えないくらいの意思の強さ。頑固とでもいえばいいのか、審神者はぐっと疲れてしまう。聞き流すことが出来てしまえば楽だが、それをして了承ととられてしまうのは困る。
わあ、いち兄公認だね!なんて乱に言われた言葉に、審神者は肩を落とした。
「手を出す出されるの話ではないよ。――私は、刀剣の誰とも、恋仲にはならない」
そう強く主張するも、一期一振はそれを真剣には捉えない。
「まあ、今すぐにとは言いますまい。心の準備も必要でしょう」
審神者の話を受け入れているのか定かではないが、一期一振はいつものような上品な微笑みをみせながら、まるでそう決まっているかのような物言いをする。
「ただ、主殿が薬研と共に生きることを選んだ時は、我々に一番最初にご報告を。粟田口一同、主殿と薬研のため、いつでも刀を抜く覚悟はございます」
「〜〜例えそうなったとしても、そんな物騒な話にはなるものか! 一期一振、そういった冗談は控えろ」
窘めるように言う審神者は、間違いなく頭痛を覚えていた。審神者と同じような常識がある方の刀剣だと勝手に思っていたために、衝撃が中々去ってはくれない。
「ふふ、主殿は照れ屋でいらっしゃる」
笑う一期一振は、ひどく手強い存在のように審神者には思えた。
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