「はぁ……爛れてますね」
仕事中の審神者の部屋に足を運んだ宗三は、部屋の中を見渡すなり、そうこぼしたのだった。
宗三の言葉よりも、宗三の登場の方に気をとられた審神者は、書き損じがないかチェックをしていた書類を握ったまま、庭を背景に気怠げに己を見ている宗三に目をやっていた。
「宗三……? どうしたんだい? ここに来るなんて、珍しいな」
「ええ、ここへ足を運ぶのは初めてですよ。本来ここは、近侍以外は出入りしない場所でしょう」
宗三はまたため息をつくと、部屋の奥に足を進め、審神者から二歩程離れた場所にまで近づき、静かに足を止める。
「……もう一度言いますよ。なんですか、この爛れた部屋は」
そうして軽蔑の色を含めた冷たい視線を――審神者と、審神者の膝の上に頭を乗せているすやすやと眠っている小狐丸に。そして――審神者の背中に抱きつくようにしてぴったりと身を寄せ眠っている清光に向ける。二度も言われれば、審神者とて宗三が何を非難しているのかなど分かるというもの。
「……何と説明すれば良いものかな。気持ちは分かるが、察してくれ。お前が思っているようなことではないから」
出入り禁止を解かれた小狐丸は、また以前のように――否、以前よりずっと審神者のそばにいるようになった。仕事中はだめだと言っても、のらりくらりとかわされて、仕事の邪魔になるようなことはしないからと、結局審神者の体のどこかしらに常に触れているようになったのだ。正座で机に向かう審神者を後ろから抱きしめて背もたれ代わりになったり、膝の上に頭を乗せてじいっと審神者を見上げていたり。審神者にとって、はっきりと仕事の邪魔になるとは言えない触れ方であった。
(多少は……甘やかしてしまった自覚はあるが……)
本当ならば、きっぱりと断るべきだったのだろう。それは審神者とて分かっていたのだ。けれど、小狐丸を放っておいてしまっていたことに対する負い目があったため、結局審神者は小狐丸の行動を看過してしまっていた。
小狐丸の寝顔を見下ろしながら、起こさぬように声を抑えて審神者は口を開く。
「甘えているだけなんだ。不純なことではないよ。ただ、眠っているだけだ」
「また、甘いことを……まあ彼については……貴方に出入り禁止を言い渡されてからというもの、ひどく沈んでいましたからね。百派譲ってよいとしても……」
一度口を閉ざすと、宗三はなんともいえないような表情を浮かべた。その顔には、ありありと理解不能とかかれているような気がしてならなかった。その視線は、審神者の背中にくっついている清光に真っ直ぐと振り下ろされている。
「その背中の引っ付き虫はなんなんです。それ、近侍でしょう? 仕事はどうしたんです? 怠慢ですか。良いご身分ですね」
「清光は……そうだな。日頃の疲れがたまっているんだろうな……見なかったことにしてくれ。さっき、寝ついたんだ」
そうして小狐丸が審神者のそばにいることが多くなると、清光は目に見えて、露骨に、嫌がった。それというのも、以前のことがあってから、清光は誰も見ていない時を狙って審神者とスキンシップをとるようになっていたからである。スキンシップといえば聞こえは良いが、迫っているといっていいほどの触れ合いで、審神者は色んな意味で気が気でない日々を送っていた。
それが、目覚めから就寝するまで小狐丸が審神者のそばにいるせいで、その接触はなくなりつつあった。ここ三日の出来事である。
(……それは、本丸の風紀から考えれば、良いことなのだろうが)
正直いうと、それに安心している己がいることも事実。そんな気持ちも、今現在小狐丸の甘えを享受するに至る理由の一つといえるのかもしれない。
(薬研のことだって……まだきちんと向き合えていないのに。迂闊に、そういった相手を増やしたくはない……)
先日、恋慕の感情を伴って告白をしてきた相手を思い、審神者は困ったように目を伏せる。つい最近の話だ。未だ審神者の部屋への出入り禁止を言い渡しているが、それも、いつまでもというわけにもいかない。薬研との出来事があった今、清光とそういった触れ合いをすることは良くないことである。その自覚だけは審神者にもあった。
(……清光には、申し訳ないけれど)
清光は小狐丸をなんとか審神者の部屋から追い出そうとしていたが、どうにものらりくらりとかわす小狐丸とは相性が悪いらしい。審神者の膝枕でのんびり昼寝をしている小狐丸にいよいよ我慢できなくなったらしい清光は、対抗するように審神者の背中にひっついて、延々と抗議をしていたのだ。
仕事する手を止めることなく、清光の言葉に相づちを打っていた審神者だったが、その内、うつらうつらと清光の声が途切れ途切れになっていくことに気がついたのだ。そして今では背中に体重をかけつつ、清光は審神者の背中ですやすやと寝ている。これは、ふて寝というべきなのかもしれないが。
そこに宗三が来て、今に至る。
「仕事の邪魔以外の何者でもありませんね。もっと、規律を弁えたら如何です? 他の者に示しがつかないとは思い至りませんでしたか?」
「……そう、だな。仕事中はいけないと、よく言い聞かせる」
「出来るんですか? 昔の貴方は何処へ行ったのやら……今の貴方は、何もかもが半端で、見ていて苛々します。どうせ、すぐに絆されるんでしょう?」
ねっとりとした口調で責められ、審神者はぐっと言葉に詰まる。宗三のいうとおりだ。正論だと思う。審神者には、返す言葉もない。
「……すまない」
「僕に謝ってどうするんです?」
はあ、とため息をついて、宗三は気怠げに髪をかき上げる。
「短刀たちは我慢していますよ。仕事している貴方の邪魔をしないように、おやつ当番が回ってくるまで大人しく待っています。謝るのなら、彼等に謝るのが筋だと思いますが」
正論がぐさぐさと審神者のことを刺していく。絆されやすいところも流されやすいところも、審神者が何とかしなければならないと自覚しているところではあるが――やはり、耳が痛い。だが、宗三の言うことは間違ってはいない。我慢する者よりも、我を通す者を優先させてしまっているこの状況に宗三が苦言を申す理由も、よく理解できるのだ。
「……ああ、お前の言う通りだ。今一度、己の行動を見直すよ。嫌な思いをさせて、すまなかったな」
甘え。逃げ。己を表す言葉はいくらでも出てくる。耳を塞いだり右から左に流すことは簡単だが、それをしてはならない。審神者は己に言い聞かせるように、そう口にした。
「それが良いでしょうね」
肩を落とす審神者に何か言いたげな顔を見せて、けれど一端口を閉ざし、宗三は審神者のそばに近づいた。そうして両膝を畳の上につくと、そのまま至近距離で審神者の顔をのぞき込む。左右で異なる色を持つ宗三の瞳を、こんなにも近くで見たことは初めてであった。
気圧され、口を閉ざす審神者に、宗三は静かに告げる。
「線引きが出来ないままでいれば、付け込まれます。貴方――近い内に犯されますよ。誰に、とは言いませんが」
「っ――…」
上品な雰囲気を漂わせながら、直接的な言葉で審神者に忠告する。その真っ直ぐな視線は、決して冗談でそれを言っているのだとは思わせない。審神者はたじろいで、けれど、その言葉を否定したかった。
「……今までの反動が来ただけだよ。私が皆から距離を置いてしまっていたから……だから、少し距離が近いように見えるだけだ」
本音を言えば、審神者は焦っている。宗三の言葉に酷く狼狽えている。だがそれを表に出さぬように堪えているだけだ。心当たりはある。審神者に対して、そういった感情を抱いている、もしくは抱き始めているのではないかと思う者については。
「そういうところですよ。まあ、貴方が誰に犯されようが僕の知ったことではありませんが……確かに、忠告はしましたよ。主」
「……宗三」
そんな審神者の心中を見透かしたように言いながら、この話題への興味が失せたといいたげに、宗三はすうっと目を細めた。
「さて、本題に入りましょうか」
「本題……?」
「ええ、用もないのに、ここまで来ませんよ。今、時間いいですよね? お優しい主様は、僕の頼みを無碍にはしないでしょう?」
「……宗三。……いや、いい。それで、どうしたんだい? お前がここまで来るのだから、よほど大事な用なのだろう?」
手に持っていた書類を机の上に置いて、審神者は宗三に問いかける。宗三は、小さく、「ええ」と答えて、少しだけ審神者との距離を詰めると、声を潜めながら言葉を紡ぐ。
「おやつ当番についてです。明日の当番が誰かご存じですか?」
どんな重要な話題が来るかと思えば、なんとも可愛らしい話題。審神者は呆気にとられて、目を丸くする。
「……いや、知らないな。ああ、でも、お前が来るのだから……小夜かな? だが、小夜は少し前におやつ当番で来たはずだが……」
口数は少なかった小夜と、縁側に座って葛きりを食べた記憶は新しい。そう口にした審神者に、宗三は悩ましげにため息をついた。
「そうですよ。お小夜は貴方とおやつを一緒にとりました。けれど、貴方に甲斐性がないせいで、お小夜は落ち込んでいるのです。可哀想に……」
言われ、審神者はぐっと息を飲んだ。
「……私は、小夜に何かしてしまったのか?」
審神者の記憶の限りでは、小夜とのおやつは無事に終わったはずだ。確かに、話数は多くなかったかもしれない。けれど、小夜は元々口数の多い刀剣ではないのだから、審神者はそれが小夜の通常なのだと思ったのだ。だからこそ、特に問題が起きたと認識することはなく、いつものようにおやつをすませたのだと、そういった気でいたのである。
「おやまあ……主ともあろう方が、お小夜の変化にも気づかずにいたのですか」
冷たく紡がれた言葉に、審神者は眉を潜めた。小夜の変化に気づかずにいた己の情けなさに、嫌に胸が騒ぐ。小夜と一緒に過ごした時間を思い返し、今からでも小夜の違和感がなかったかを思いだそうとするも、それでも、小夜が落ち込む理由が分からなかった。
「……不甲斐なくて、すまない。どうか、教えてくれないか? 私が小夜を傷つけたというのなら、今からでも、私に出来ることは何でもしてあげたいんだ」
真っ直ぐと宗三の目を見つめてそう言えば、少しの間を置いて、宗三はとぼけたような表情を浮かべた。
「別に、貴方がお小夜を傷つけたとは言っていません。貴方がお小夜の変化に気づけば、話は早かったのにというだけです。あくまで、お小夜の問題ですよ」
ですが、と続けて、宗三はふっと笑みを浮かべる。
「主足るもの、嘘はいけませんね。――なんでも、して下さるのでしょう? 確かに、聞き遂げましたよ」
その微笑みは美しいけれど、その舌には鋭い刃が宿っているような気がした。言質をとられたのだと、その時になって審神者は気がつく。実に強かである。そんな宗三に思うところはあれど、小夜を傷つけたわけではないと分かったことに対する安堵の方が大きい審神者は、脱力して頷いた。
「ああ、分かった。二言はないよ」
そうして同時に、ここまで駆け引きをしなければならなかった宗三のことを思い、苦笑する。器用なのか、それとも不器用なのか。判断に困るところである。
「……そうでなくても、お前がここに来てまで頼んでくることだ。お前にとって、とても大切なことなのだろう。言質など取らずとも、いつでも、私に出来る限りのことはするさ」
そう付け加えて言えば、宗三は審神者の言葉を受けて、微笑みをしまい込んだ。そうしてじっと、観察するように審神者を見つめて、面白くなさそうに顔をしかめる。袖で口元を覆い隠しながら、露骨に目元を険しくさせた。
「――なら、僕が抱かせろと言えば、貴方、大人しく抱かれてくれるんですか?」
軽蔑か照れ隠しか、判断に困る。審神者は困り顔を浮かべた。
「宗三。私は真面目な話をしている」
「僕は大真面目ですよ」
何故その方面に話を持って行こうとするのだろうか。審神者は小さく息を吐いて言い含めるように口にしたが、宗三は面白くなさそうに審神者との距離を縮める。
「言葉の重みを弁えろと、僕は先程忠告しました。貴方はまるで理解していませんね」
低い声だった。審神者はその宗三の様子を見てから、ふっと笑う。
「理解ならしている。――私を想って忠告してくれるお前が、私にそのようなことを強いるわけがない、と」
宗三は言葉に棘があるのかもしれない。けれど、間違ったことは言っていない。毒があれど、おそらく、審神者にとっての良薬になってくれる存在だろう。審神者はそんな気がしていた。宗三と一対一で話をしたことないが、宗三は信頼がおける者なのではないかと、なんとなくそう信じてしまう。
「……………」
宗三は面白くなさそうに、無言のまま審神者のことを睨みつけていた。威圧感があれど、怖く感じない審神者は、そんな宗三の反応を、新鮮な気持ちで見つめている。
「――不愉快です」
「そうか。すまない」
「貴方の言葉は軽い上に薄いですね。そうやって謝れば済むと思っているんでしょう? ああ、いやだ」
吐き捨てるような口調でそう言って、宗三は立ち上がり、上から審神者を見下ろした。そうして大きなため息をつくと、渋々といったように、審神者に手のひらを差し出した。
「……宗三?」
その意図を計りかねて名を呼べば、宗三は審神者に目を向けることなく淡々と口にした。
「仕事を寄越しなさい」
ついに主に命令を下すようになった宗三に、審神者はきょとんとして、少しの間を置いて理解をする。
「手伝ってくれるのかい? ありがとう」
そう言って微笑めば、更に、手のひらが審神者に近づけられる。
「お小夜の為ですよ。貴方の為ではありません」
ちらりと、目線が審神者に向けられる。
「明日のおやつ当番は僕ですが、お小夜に譲ります。堅物が取り得だった貴方ならば、それほど仕事もためこんでいないのでしょう? 今日で明日の分まで片づけて、その分明日はお小夜のために時間を作って下さい」
言われ、審神者は宗三がここに来た全ての事情を読み込んだ。弟想いの宗三のことが微笑ましく思えた。それから、宗三の言うとおり、期限が迫っているような仕事もない。元々、審神者は仕事を貯めこむ方ではないのだ。ただ、先の仕事を際限なく進めるタイプであるが故に、時間に追われているだけである。
「どのくらいの時間があれば良いのだろう?」
そう問いかければ、宗三は一拍の間を置いて、紡ぐ。
「そうですね。多ければ多いほど良いですが――とりあえず、最低でも、八つ時から夜までは覚悟して下さいね」
それから、視線が審神者の膝の上と背中に向けられる。まるで、汚物を見ているかのような冷ややかな視線だった。
「……ここにいては邪魔が入りますから、僕達の部屋に来てもらいます。貴方一人だけですよ。決して、他に誰も連れてこないように。ここまでで、なにか、異論はありますか?」
決定事項のような物言いだ。だが、小夜が落ち込んでいるというのであれば、少々の無理などなんということはない。審神者は首を横に振って口を開く。
「構わないよ。今日の内に、明日の分にも手をつけておく」
多少は就寝時間を押すかもしれないが、決して出来ない量ではない。無理難題、なんてこともない。二つ返事で答えた審神者に、宗三は不機嫌そうに眉を寄せていた。希望が通ったとはとても思えない反応であった。
清光と小狐丸を起こさないために動けない審神者は、処理の済んだ書類をまとめ上げると、それを宗三に手渡す。
「これを、そこに置いてくれ。それから、政府から新たな連絡物が届いているはずだから、それを持ってきてはくれないかい? ああ、あと、そこに書類が積んであるだろう。ここまで持ってきてくれ」
手伝ってくれるというのであれば言葉に甘えよう。そんな気持ちで宗三にいえば、宗三はすうっと目を細めた。
「貴方、見かけに寄らず図々しいですね」
不思議と、貶されているような気はしなかった。
審神者は歯を覗かせて笑うと、「頼むぞ」とだけ口にする。宗三は何か言い足そうにしていたが、無言で審神者の手から書類を受け取ったのだった。
――そうして、次の日。
審神者は宗三に言われたとおりに、おやつ時前に審神者の部屋を出ていった。今日の分の仕事は終わりだと言えば、その後の時間を共に過ごしたいと言われもしたが、どの誘いも断った。そうして部屋を出て、小夜と宗三が使う部屋に向かっていく。
部屋に近づいた場所で待ちかまえていた宗三は、審神者の姿を確認すると、気怠そうなため息をつく。
「ちゃんと一人でこれたんですね」
「迷わないよ。ここは、私の本丸なのだから、誰がどの部屋を使っているかは把握している」
確かに審神者の部屋と刀剣達が住む部屋は離れている。正確に言えば、審神者の部屋が離れに作られているのだ。だから把握できていないと言われているのだろうが、きちんと否定しておく。
「僕は、貴方が供を連れてこなかったことに対して言っているんですよ。早くに仕事を終わらせたなら、ここぞとばかりに寄ってくるものがたくさんいたことでしょう?」
「ああ……そういうことか。確かに誘われはしたが、今日は小夜と宗三のために時間を使うつもりでいるからな。そう心配することはないよ」
「良い心がけです。ですが……その様子だと引き離すのには苦労したようですね。髪が乱れていますよ」
言われ、審神者は己の髪に触れる。確かに、小狐丸も清光も、審神者に抱きついて離れようとはしなかった。また時間を改めて作るから、と言い聞かせて宥めて、ようやく解放してもらえたようなものだ。涙目で見られては、無碍にあしらうことなど出来はしない。時間はかかったが、容赦して欲しかった。
ここに来るまでに鏡を見ることもなかった審神者は、指摘された気恥ずかしさに、戸惑ってしまう。
「そうか……少し、なおしてくる」
「結構です。時間がもったいない。僕がなおします」
言いながら、宗三は審神者の目の前に近寄ってくる。そうして遠慮なく審神者の髪に触れると、どこからか取り出した櫛で梳き始める。「じっとして下さいね」とぶっきらぼうに言いながら、それでも審神者の髪を梳くその手つきは優しい。審神者は心地よさに目を細め、じっと宗三の顔を見つめていた。
「髪、伸ばしているんですか? 貴方、今まで短くしていたでしょう?」
不意に、問いかけられる。審神者は何ともないように「ああ」と返事をすると、手首に身につけている組み紐のことを思った。
「審神者になった今、髪は伸ばす必要がないからな。その方が楽だからそうしていたのだけれど――でも、また、伸ばしたくなったんだ」
「……? へえ、それで、それは誰に強請られたんです?」
ふっと、審神者は笑みをこぼした。考えもしていなかったことだからか、宗三の質問の意味を理解すると、肩の力が抜けたのだ。
「私の意思だよ。和泉守と堀川に組み紐を貰ったんだ。それで、髪を結いたくなったから伸ばしている」
「……そうですか」
答えれば、宗三は面白くなさそうに淡々と答える。そんな宗三の顔を変わらずじっと見ていれば、審神者からの視線を鬱陶しく思ったのか、不機嫌な声で宗三が口を開く。
「なんです? じろじろと見ないで下さい。セクハラで訴えますよ」
「せ、くはら…? ……すまない。そんなに嫌だったとは……見ないようにする」
どきりと嫌な感覚を覚えて、審神者は慌てて瞼を閉じる。卑猥な気持ちで見たわけではなかったが、宗三が嫌がるということは、少なくとも、良くない感情を審神者から感じ取ったということなのだろう、と。
「……冗談ですよ。嫌みな反応をする方ですね、貴方」
「っ、そうざっ…」
鼻をつままれて、審神者は目を開ける。そうしてその先では宗三が珍しく困ったような表情を浮かべていて、つままれていた鼻を押さえながら、審神者は眉間にしわを寄せた。
「分かりにくいよ」
「それを察するのが、主の器というものですよ」
「……確かに、そうかもしれないが」
とはいえ、もう少し分かりやすい反応をしてくれても良いのではないだろうか。露骨に照れ隠しだと分かる場合ならともかく、先程のような否定の感情を冗談で片づけられたとて、審神者には判別が難しかった。とにかく審神者はそのような駆け引きを得意とはしなかったのだ。嫌だと言われれば、それが冗談であっても、審神者はもうしたいとは思えない。
だが、主である以上、刀剣の些細な感情の機微を見抜いて当然。そんな宗三の言い分も、尤もと感じるのだから戸惑う。
「――おかしな人ですね」
考え込むように黙り込んだ審神者の様子が面白かったのか、宗三はふっと笑って、髪を梳くのをやめて一歩距離をおいた。
「さ、行きますよ」
そう言って、審神者の返事を待たずに歩いていく。審神者はハッと我にかえると、少し遅れて宗三の後ろをついていった。
(今のは、じゃれていただけなのだろうか?)
そんなことを思うも、結論ははっきりしない。審神者は宗三の細身の背中を見ながら、なんとなく、宗三ともっと話をしてみたいと思ったのだった。
「やあ、小夜。邪魔をするよ」
この本丸に、宗三と小夜の兄にあたる江雪左文字は顕現していない。つまり、この部屋を使用している者は宗三と小夜のみである。テーブルの上に置かれているのは一輪挿しと、既に用意されている二人分の今日の分のおやつだった。
「っ……あるじ…?」
座布団の上に座って、おそらく宗三の帰りを待っていたのだろう小夜は、審神者の姿を確認すると目を大きく見開いて固まった。そのはずみで、小夜の髪がぴょこんと跳ねるように動く。
そんな小夜の反応も予想通りだったのか、宗三は深く突っ込むこともなく、涼しげな表情で審神者の話題を切り出す。
「主が ど う し て も お小夜と食べたいといって聞かないので、連れてきましたよ。今日は主もご一緒させて良いですか? お小夜」
言い方。審神者は苦笑しながら、小夜の反応をまつ。
(落ち込んでいるといっていたが……こうしてみる限りは、あまり変化もなさそうだ)
観察しながらそんなことを思う審神者に、小夜は無言でこくこくと首を縦に振って、いそいそと立ち上がる。そして、駆けるようにして座布団を取りにいくと、小夜の座布団の横に座布団を置き、そっと審神者の顔を見上げてきた。
「あるじ、ここに座って」
「ああ、ありがとう。小夜」
その上に正座をした審神者は、そのまま小夜の頭の上に手のひらを置いた。そのまま撫でていると、小夜は照れを隠すように俯いてしまう。
「――さて、主が急に我が儘をいうものですから、これではおやつが足りませんね。僕は追加分をとってきますので、先に二人で食べていていいですよ」
宗三は部屋に入ることもなく、そう言って部屋から出ていく。姿が見えなくなる前に、流し目に審神者に視線を送ってからである。
(うまくやれという合図だろうか)
そんなことを思いながら、この状況を整理する。宗三は、どうやら事前に小夜に審神者のことを説明はしていなかったようだ。審神者の姿を見たときの小夜の反応は、驚きで満ちていたのだから、それは簡単に予想が出来る。おそらく、宗三は小夜が落ち込んでいたということを知っていたことを知られたくはなかったのだろう。だからきっと、このような手段を用いたのだ。
抜き打ちで仕掛けるとは些か乱暴な気もするが、小夜のことは宗三の方がよく知っているのだろう。審神者には分からぬ分野な話だ。口は挟まない方がよい。審神者は、審神者にしか出来ることをするだけでよいのだ。
「……急に、すまない。迷惑ではなかっただろうか?」
頭を撫でる手を止めて、そう問いかける。小夜はふるふると首を横に振って、小さな声でぽつりと言葉をこぼす。
「……ううん。嬉しいよ」
ほんのりと頬を染めながらそんなことを言われてしまえば、嬉しくないわけがない。審神者は頬が緩んでしまうのを感じながら、また頭を撫でることを再開させる。時折くすぐったそうに目をつぶりながらも、小夜はそれを拒否することはしなかった。
「あるじ」
「なんだい?」
「……少し、くすぐったいよ」
そんなことをしていたら、小夜にそんなことを言われてしまう。遠回しに止めるように言われているというのに、もっと撫でたくなる衝動が湧いてきてしまう。審神者はそんな気持ちを必死に押さえ込んで、小夜から手を離して解放した。
「すまない。つい……」
まだ小夜の頭を撫でていたい欲を押さえつけるように、審神者は今度は膝の上に手のひらを置いた。更に押さえ込むように右手の甲に左手を重ねて、ぎゅっと押しつける。
「あっ…」
頭を撫でるのを止めた審神者に、小夜は少しだけ寂しそうな表情を浮かべると、小さく肩を落とす。その際に小さくこぼれた小夜の息が、尚更その雰囲気に拍車をかけている。
その反応に、審神者は手を引いてしまったことが己の失態だったことを懸念した。
(……先のことは、やめてほしいという意思表示ではなかったのだろうか?)
そんなことを思いながら、けれど自信がない審神者は、そっと小夜の機嫌を伺うように見つめる。だが、小夜は膝の上に作っていた自分の拳を、ただただ無言で見下ろしているだけだった。その顔が笑っていないことだけは分かるが、どんな気持ちを抱いているか分からない審神者は、どんな行動をとれば良いのか、どんな言葉をかけていいのかも分からないままでいる。
(……触れていいのか?)
小夜は黙ったままである。静けさが、いたたまれない。小夜の視線は自分の膝にあり、審神者の方にそれが向くことはない。審神者はおろおろとしながら、そっと小夜に声をかける。
「小夜」
名前を呼ぶと、審神者は畳に手をついて、小夜との距離をゆっくりと縮めた。名前を呼んでみたはいいものを、ここからどんな話題を振ればよいかも分からない審神者は、周囲を見渡して話題を探す。
(何でも良い……何か、話題になるようなことを……)
そうしていると、机の上に置かれている一輪挿しに目を引かれた。思えば、あまり物が溢れていないこの左文字部屋の中では、どこか目立つ存在ではあったのだ。
「あの花、綺麗だな」
そう話を切り出すと、小夜はぴくりと肩を動かして、小さく口を開く。
「あなたは、花が好きなの?」
小夜から反応が返ってきて嬉しいが、審神者は少しだけ考え込んだ。花など、進んで愛でる程好きというほどではない。けれど、目の前にあれば綺麗だと思う。そんな風であるから、審神者は花を好きと言って良いものか、少しだけ躊躇したのである。
「……ああ、そうだな。詳しくはないけれど、見ていると、綺麗だとは思う」
分からないまま適当な言葉を並べることが出来ずに、審神者は思ったままを告げてしまう。すると、小夜はそっと顔を上げて、審神者のことを見つめたのだった。そうして審神者に向ける小夜の瞳は、どこか嬉しそうに揺れていたように審神者には見えた。
「きれいなものは好き…?」
「きれいなもの……? 花の話かい?」
「花も……だけど、きらきらしてるものとか」
「……?」
小夜の方から話をしてくれることは嬉しいが、審神者は妙に返事につまってしまう。何故なら審神者には、特別に好きなものやことが何一つないからであった。けれど、小夜の期待するような眼差しに圧され――小さく、微笑んだ。
「よく分からないが……でも、小夜が好きなものは、私もきっと好きになるよ」
少し投げやりな返事だっただろうか。そう思う気持ちが少しはあるが、この気持ちに間違いはない。そう言った審神者に、小夜は何か考え込むような表情を見せてから視線を一輪挿しに向ける。審神者も、続くように花に目を向ける。
「あれは、僕がつんできた花なんだ。近くに、きれいな花が咲いている場所があって……それで……そこには……きれいな川もあって……だから……」
そこまで言って、小夜は黙り込む。言葉が続かないことを不思議に思った審神者がそっと視線を向けると、小夜は俯いてしまっていた。
「小夜?」
不思議に思って名前を呼ぶと、小夜は困ったように口を閉ざして、また先程のように黙り込んだ。肩を落としている様は、流石に審神者にも分かる変化だ。これから先に、おそらく、小夜にとって大切なことだっという何かがあったのだろう。宗三が小夜が落ち込んでいると言っていた理由は、このことに関係しているのではないだろうか。
(小夜は私に、何を伝えようとしていたのだろう……以前のおやつ当番の時も、そういえば…小夜は時折何かを言おうとしていたような……)
審神者はふと、小夜とおやつ当番を共に過ごしたときのことを思い出した。小夜はその時も、何度か言い掛けていたような気がしたのである。後にその都度違う話題が続けられていたので、審神者は話したいことがたくさんあるのだと捉えていたのだけれど、どうやら、宗三に指摘されたとおり、審神者には観察力が致命的に欠けているようだった。
「だが……そんなにも綺麗な場所があるのなら、一度、見てみたいものだな」
言いながら、審神者はそっと小夜の頭を撫でようと手を伸ばした――が、手が触れる寸前で小夜が勢いよく頭を上げたことに驚いて動きを止めてしまう。
「――!!」
「っ……さ、さよ?」
急な動きに驚いている審神者のことを見上げ、小夜は目をぱちくりとさせている。どちらかといえば、小夜の方が驚いているようにも見える反応だ。思いも寄らなかった小夜の反応に、審神者は失言をしてしまったかと焦りを覚える。
「どうしたんだい?」
静かに問えば、小夜は困ったように眉を寄せて、小さく唇を開いた。そうしてじいっと何かを訴えるような瞳で審神者を見上げて、泣きそうな表情を浮かべてしまう。かと思えば立ち上がって、座っている審神者の懐に入るかのように距離を縮めた。
ぎこちなく、審神者の襟に指をかけるように伸ばして、小夜は不安そうに瞳を揺らした。
「あなたは……あの時のこと、まだ、覚えている?」
そっと小夜に告げられた言葉。まっすぐと見つめられた審神者はぱちぱちと瞬きを繰り返して、小夜のいう‘あの時’のことが何を指すのかを考えた。一体何かを考える時点で、それは覚えていない証拠。だが、‘あの時’が何なのかさえ分かれば自ずと思い出せるようなことでもあるかもしれないからである。
(あの時……? 以前の、おやつ当番のことだろうか)
この質問、どんな返答を望まれているのか、鈍い審神者も理解をしている。けれど、覚えてもいないのに覚えているようなことをほのめかすことがどれだけ不実かも理解している。迂闊に、返事はできない。
「――小夜。それは……」
何のことか、聞き返さなければならない。だが、それだけで、小夜が傷ついてしまう可能性は十分にある。故に、すぐさま問うことが出来ないのである。
「――おや。まだ食べていなかったんですか?」
揺れている声でそう言いかけた時、狙ったかのようなタイミングで宗三が部屋に入ってきた。飄々と言い放った宗三は、まるで助け船を出したようだった。確かめるように部屋に入ってきた宗三に目をやると、審神者と目があった宗三は静かに目を細める。まるで、何か文句を言いたそうに。だが小夜に対しては、優しく微笑みを向けるのだ。
「お小夜。足りなければ、僕の分もあげますよ」
「……ううん。大丈夫だよ。兄様も、いっしょに食べよう」
そう言って、小夜は審神者から指を離して、また座布団の上に座り込む。宗三は小夜と審神者の前に向き合うように座ると、お盆の上に載せていたおやつをテーブルの上に置いた。
「主。くず餅は好きですか?」
「ああ。好きだよ」
「それは良かった。そういえば 今 日 は ず っ と 暇 を し て い る と言っていましたね。どうぞ、ごゆっくり食べてくださっていて結構ですよ」
だから、言い方。審神者は附に落ちないものを感じながらも、「そうだな」と言って頷いた。おそらく、小夜に聞かせようとしているのだろうが、審神者が時間に余裕があるだなんて言ったところで、小夜が反応を見せるとは到底思えない。審神者がそんなことを思っていると、横から何やら視線を感じ取った。
小夜に目を向けると、ばっちりと目があった。
「……そうなの? 今日はずっと?」
小夜から反応があったことに驚きを浮かべつつ、審神者はしっかりと頷いて見せた。
「ああ、そうだよ」
「ずっと? ――ずっと、暇、なの?」
「ん、まあ、そうだな。暇だよ」
暇ではないけれど、まあ、暇でも良い。心の中で突っ込みつつも訂正する気も失せてきた審神者は、そのまま微笑んでみせた。すると、小夜は雰囲気をぱっと明るくさせて、それを隠すように、今度はくず餅に視線を向けた。
「そっか……そうなんだ」
そう呟いて、しばらく。無言でいたのち、小さな声で小夜はいただきます、と呟いた。それに合わせて、審神者も手の平を合わせていただきます、と口にする。宗三も目の前の席で同じことをして、おやつのくず餅に手をつけ始めたのだった。
「そういえば、主は僕よりもお小夜とつきあいが長いんでしたよね」
くず餅を食しながら、唐突に宗三が話を切り出す。その顔は審神者に物申したいと言わんばかりの刺々しい雰囲気がまとわりついており、審神者は申し訳ない気持ちを抱きながらも頷いてみせる。
宗三がそのような反応をするのはもっとものことだった。小夜に言われた覚えているかと問われた内容を、審神者は必死に頭の中をひっくり返して探し回っている最中だったのだ。口数も少なくなってしまうし、小夜もあまり口を開こうとはせず、静かに静かにおやつを食しているだけのこの部屋の状況が、宗三にはじれったかったのだろう。
「ああ。小夜は、審神者になって間もない頃に鍛刀した刀だからな。清光と、薬研の次に、私との付き合いが長いことになるな」
一時だけ記憶をかき回す作業を止めて、審神者はそんなことを答える。あの時のことは、今でも覚えている。小夜だけでなく、全ての刀剣と、初めて顔を合わせたときのことは、全員かかさず鮮明に覚えているのだ。
(小夜を鍛刀したとき、復讐を望むのかと聞かれたな……面食らったものだ……今でも、ちゃんと覚えている。不思議だな)
そんなことを思いながら、審神者は小夜に目を向ける。
「付き合いが長い分、小夜には多くの苦労をかけてしまった。本丸が出来た頃は、あらゆることに手が回らない状況だったからな……きっと、多くの不便をさせてしまったことだろう。……あの時は、苦労をさせてすまなかった、小夜」
そう声をかければ、小夜はぴたりと匙を持つ手の動きを止めてしまう。はずみで、匙の上にのっていたくず餅が、ぽたんと畳の上に落ちてしまう。それに驚いたのは小夜自身だったようで、慌てて口を開いた。
「…ご、ごめんなさい」
「ああ、いや、私こそ、急に声をかけてしまってすまなかった」
「全く……主にも困ったものですね。はい、これで拭いてください」
「ああ、ありがとう、宗三」
審神者は手拭いを取り出すと、それを拾って包む。そうすると宗三が布巾を手渡してきてくれたので、それを使って畳を拭いた。小夜は持っていた匙を机の上に置くと、布巾で畳を拭く審神者に手を伸ばそうとする。
「僕が拭くよ」
「ああ、いいよ。これくらい、大したことではないからね」
「そうですよ。些細なことです。気にすることはありませんよ、お小夜」
「……うん、」
そうは返事はしたものの、気持ちの切り替えができていないのか、失敗してしまったことに元気をなくしているらしい小夜に、審神者は心配になってしまう。そのまま審神者の手は、自然と小夜の頭の上に伸びてしまっていた。
「こういうこともあるさ。私もたまにする」
言いながら、ぽんと頭の上に置いて、優しく撫でていく。
「……あるじ」
小夜は審神者の行動にわずかに目を丸くして、今度は照れくさそうに目を伏せる。かと思えば、きゅっと唇をとじ合わせて、審神者のその手を両手で包み込むように握りしめた。
それは、何かを決心したような仕草だった。
「――……あなたに、見せたいものがあるんだ」
そろそろと、伺うように目を合わせた小夜は、それでも真っ直ぐな視線を審神者に向けている。審神者はそれから目を逸らすことはしなかった。
「あなたの時間を、僕にくれる?」
問われ、審神者は微笑んで、頷いた。返事など決まっている。その為に、審神者はここまで来たのだから。頷いた審神者を見て、小夜はどこかホッとしたように肩を下げた。
「勿論。私も、小夜ともっと一緒にいたかったんだ」
そう返事をすれば、小夜は動揺するように肩を揺らして、慌てて審神者の手を離して後ずさるようにして距離をとる。
「さ、小夜…?」
その反応に何か失言をしたのかと思って、困惑の表情を見せた審神者は、己が間違っているかどうかの確認のために、宗三に目を向けた。あまり褒められたことではないが、小夜に対しては宗三に確認する方が間違いがないのだから。
「……貴方の、そういうところですよ?」
審神者に視線を寄越された理由を察しているらしい宗三は、呆れたようにそう言った。けれど、その表情はどこか、柔らかく見えた。
「良かったですね。お小夜。主もこう言ってくれているようですし、なんなら、夜まで連れ回しても良いんですよ」
「……夜まで?」
「ええ、折角ですし、添い寝もしてあげたら如何です? 主は一人寝ができないようですから、きっと喜んでくれますよ。小狐丸の話は、お小夜も知っているでしょう?」
「……でも、それは小狐丸さんがあるじと寝たいからじゃ……」
「どちらでも同じことですよ」
「宗三。出任せを言うんじゃない。私は一人寝が出来ないわけでは――…」
宗三は、審神者のことを好き勝手に言う。物申したいところがあれど流してきたが、ここは流せない。宗三にそう言い掛けていた審神者は、小夜との間に出来ていた物理的な距離が僅かに縮まっていることに気がついた。座布団の上でちょこんと正座をして、期待を込めた眼差しを審神者に向けた小夜は、審神者が続ける言葉を待っている。
その小夜の視線に気がついた審神者は、己の自尊心と小夜の期待を天秤に掛けて――無理矢理に微笑みを浮かべる。
「…――ないけれど、小夜がそばにいてくれたら、ぐっすり眠れそうで嬉しいな!」
文脈が無理矢理。審神者はそれを自覚しながらも、最後までそう言い切った。瞬間、宗三が吹き出して笑う。口元を袖で隠しながらクスクスと笑って肩を震わせている宗三は、どうやら今の審神者の反応がつぼにハマったようであった。
「では、決まりですね。小狐丸には、僕から伝えておきましょう」
笑いを堪えながらもそう続ける宗三の目尻には、うっすらと涙が浮かんでいた。そこまで笑うようなことかと恨めしげな視線を送るが、逆効果のようで、宗三はそんな審神者を見て、一層楽しげに笑みを作っていた。
小夜が審神者と行きたい場所というのは、本丸の外にあるらしかった。本丸の外に、小夜の言う、審神者に見せたいものがあるらしい。外へ出かける用意をして、見送りをしてくれる宗三と相対する。
審神者は、宗三に身支度を整えて貰っている小夜と、宗三の様子を見下ろす。二振りとも、あまり感情を表に出すタイプではない。けれど、こうして兄弟で顔を合わせると、普段は見ないような柔らかな――というべきか、なんだか、気を許したような表情を見せる。
「――行ってきます。兄様」
「はい。いってらっしゃい、お小夜。主はあらゆる方面に鈍い方ですから、お小夜がしっかり懐刀として、お守りするのですよ」
「……うん。あるじは、僕が守るよ」
「宗三、一言多い」
それに微笑ましく思いつつ、審神者は宗三に物申す。
(全く……先程から宗三は口が悪いというかなんというか……)
宗三は審神者のことをあまり良くは思っていないのかもしれない。そんな懸念を抱きつつ、あまり効果はないだろうと分かっていても、言わずにはいられなかった。すると宗三は、そんな審神者を鼻で笑う。
「……そうですか? それは、失礼しました。貴方の霊力の満ちた本丸以外の場所で、貴方に戦闘力など期待していなかったもので。いいえ、本丸の中でも、人の身の貴方の戦闘力など皆無に等しいでしょう?」
「……こう見えて、私はそこそこ動けるんだよ」
申し訳ない気持ちなんて米粒ほどもないだろうに、そんなことを口走るのだから呆れてしまう。最後のあがきのように一言申せば、宗三は静かに目を細めた。
「――はっ」
そうして、鼻で笑われた。審神者は静かに眉間にしわを寄せて、じいっと宗三のことを見下ろした。そうして小さくため息をつくと、小夜に目線を合わせるためにしゃがみこんでいる宗三の頭の上に手のひらを載せた。
「私がどれだけ弱かろうと、関係ないよ。小夜は、私が必ず連れて帰る」
そのままわしゃわしゃと柔らかな髪を撫でて言えば、宗三は審神者のその行動を予測していなかったらしく、ぽかんとした表情を浮かべている。その表情が小夜が浮かべる表情とそっくりだったため、審神者はどこか微笑ましい気持ちになりつつ、ふっと微笑む。
「行ってくるよ、宗三。良い子で待っていなさい」
そう言い終わったとき、ようやく宗三は我にかえったらしい。不機嫌そうに顔にしわというしわを寄せると、ぱちんと審神者の手を叩いてしまう。さして痛くはないが、鋭い音がした。
「……気安く触らないで下さい。貴方に期待などしていません。自惚れないで下さい」
そう言って、不機嫌そうにそっぽを向く。別段、頬を染めているわけでも耳を真っ赤に染めているわけでもない。目に見えるようなサインは何もないのだ。けれど、どうにも、審神者にはそんな宗三の言葉が、照れ隠しのように思えてならなかったのである。
だが、照れ隠しのような気がする、なんて根拠のない気持ちでこれ以上宗三に言葉を投げかけたり触れることは、良いことではない。審神者は宗三から手を引っ込めると、困ったように笑った。
「……ん、そうだな。すまない」
そう言えば、宗三は居心地が悪そうに表情を強ばらせた。
「謝るくらいならば、最初からしないで下さい」
そしてどこか憂いのような色を表情に指しながら、呟くようにそう告げる。そして黙り込むと、審神者のことを視界から外すようにして、小夜にまた目を向ける。
「……兄様」
「……なんです」
そんなやり取りの後、二振りは無言で見つめ合った。何かを訴えるように見つめる小夜と、後ろめたそうな表情を浮かべる宗三。審神者には分からないが、このやりとりだけで意志疎通が出来ているのだろう。声をかけずらい雰囲気を感じながら、審神者は事のやりとりを見守る。
「……わかりましたよ。お小夜がそこまで言うのなら」
何も言っていない。小夜は一言兄様と呼んだだけで、他には何も言ってはいない。審神者はそんな突っ込みを、ぐっと堪えた。
宗三は立ち上がってため息をつくと立ち上がり、審神者に向き合って、とても不機嫌そうな表情を向けた。
「……宗三?」
審神者の目線よりも高い位置から見下ろされると、威圧感の凄まじいこと。審神者は構えて、宗三からかけられるであろう、何らかの言葉を待つ。宗三は面白くなさそうに審神者のことを見下ろしながら、嫌々そうにため息をついた。
「少し、言い過ぎました。良いですよ、触れても」
小夜からあの沈黙の中でそんなことを窘められたようである。兄弟の心の通じ合いとはなんと凄いものなのだと感心しきっていた審神者は、間違っても宗三が言わないような台詞にすぐに反応できずにいた。宗三はそんな審神者の反応が気に入らなかったのか、むっと唇をへの字にして、審神者の手首を掴み上げた。
「――良いと、言っているのですが」
言われ、ようやく審神者は「ああ」と返事をした。ぎゅっと握られた手首を見ながら、審神者は無言で宗三の目をじっと見つめる。
(……嫌そう、だな)
弟の小夜を溺愛している宗三だからこそ、嫌嫌ながらも審神者が触れることを許したのだろう。けれど、審神者は、嫌がる相手に触れることはしたくない。刀剣が望んでいないのであれば、それは、主が主従関係を利用して無理強いをしていることと何も変わらない。
「やめておく。宗三」
「……おや、聞こえませんでしたか? ここまで言わせておいて、よくもまあそんな台詞が吐けたものですね」
「それは、そうだな。すまない」
宗三の言葉も尤もである。触られたくない時には触ってきたくせに、触っても良いと言えば触らないと言う。そんな審神者のことが、ひどく身勝手に見えたに違いないのだ。
けれど、審神者にとて譲れないものがある。いつも、気づくのは遅いけれど。
「お前が触れられたいと思うのなら、私もお前に触れたい。でも、お前がそうでないのなら――約束するよ。もう、お前には触れない。お前の嫌がることは、もうしないからな」
そう言い終わって手を引けば、するりと宗三の拘束はとけてしまう。困ったように無理矢理笑みを浮かべたまま言う審神者は、一言、「行ってくる」と告げた。そう言った時の宗三は、意外に、これといった表情を浮かべていなかったように見えた。呆けているようにも見えなくはなかったが、そうとはいえないような表情だったように審神者は思う。
審神者は宗三から距離をとって、小夜を見た。困ったような表情を、小夜は浮かべていた。審神者は意識して笑顔を浮かべると、そんな小夜に手を差し出す。
「行こうか、小夜」
言うと、おろおろと宗三と審神者のことを交互に見て、小夜はそろそろと審神者と手を重ねようとする。けれど、その手は最後まで動かず、途中で止まってしまった。
「良いのですよ、お小夜。いってらっしゃい」
「……兄様」
「ええ、分かっています」
小夜の兄様という言葉だけで、言いたいことが分かるというのもとんでもなく凄いことである。宗三の言葉で、小夜はそろそろと審神者の手に己の手を重ねた。そうして手を遠慮がちにぎゅっと掴むと、小夜はゆっくりと歩き出した。それについていくように少し遅れて足を進めていった審神者は、門を出る前に、一度宗三を振り返る。
「行ってくる」
言えば、いつもの気怠そうな表情を浮かべていた宗三は、静かに目を細めた。
「ええ。お気をつけて」
そう言った宗三を見た後、審神者と小夜は、本丸の外へ出て、歩き出したのである。
「……別に。嫌なんて、言ってないんですけどね」
閉まった門を見つめながら、宗三は、小さな声でそう呟いた。
「ごめんね、あるじ」
「……宗三のことかい?」
ぽつりと呟くようにしてこぼされた言葉。審神者は小夜を見下ろして、そう口にした。心当たりと言えば、先程の今ではそれしかない。地面を見ていたため、小夜のつむじしか審神者には見えないが、おそらく小夜は今落ち込んだ表情を浮かべているのだろうと察する。
「……兄様は、素直じゃないから。本当は、あるじと仲良くなりたいはずなのに」
肯定するように頷いて、そんな言葉を口にする。審神者は少し考えた後、自嘲するように薄く唇を開いた。
「そうだったのなら、嬉しいな」
ぎゅっと、安心させるように小夜の手を握る力を強くする。
「けれど、宗三が素直じゃないというのなら、それは私の責任だ。私は長い間皆に無理を強いていただろう? だから、仕方のないことなんだ。小夜も宗三も、私に謝ることなど一つもないよ」
そう言えば、小夜はそろそろと顔を上げて、審神者の顔を見上げる。小夜は、何か言い足そうな雰囲気を醸し出していた。
心優しい刀だ。審神者は優しく微笑んで、けれど寂しそうに目を細める。
「むしろ、気を遣わせたな。どうにも私は、まだ距離感というものが掴めていなくてね」
距離が近すぎる刀剣がいれば、逆に、遠すぎる刀剣もいる。距離のある刀剣と仲良くしたいとも思うけれど、スムーズに仲良くなれたことはない。いつも何かしらの失敗や失態を起こしているのだ。適切な距離感というものを、未だに審神者は計れていない。昨日宗三に忠告されたことも、それに関連していることだ。
「宗三とも、いずれ仲良くなりたいのだけれど……」
そこまで口にして、言葉を続けることを止めた。これでは小夜に愚痴を聞かせているだけである。小夜と話をするためにそばにいるが、愚痴を聞かせるために一緒にいるわけではないのだから、この話はもう終わらせるべきだと思った審神者は、一旦口を閉じた。
「――すまない。とにかく、小夜が心配することはないからね」
「あるじ……」
小夜は小さな声で審神者を呼ぶと、きゅっと審神者の手を握る力を込めた。
「そんなことないよ、あるじ。兄様は、言っていたから」
「宗三が? 何をだい?」
聞けば、小夜は少し迷った挙げ句、歩くペースを緩くした。審神者の問いから少し経った後、小夜はゆっくりと告げる。
「この本丸は、心地が良いって。……あるじが、みんなと話すようになる前から、兄様はそう言ってたから……」
初めて聞く言葉だった。審神者は小夜の言葉に呆気にとられたように言葉を発することが出来なくなった。審神者は、以前の刀剣と接点を持とうとしなかった己の在り方を、その時の本丸自体を好きだという意見を耳にしたことが初めてだったからである。故に、反応が出来なくて、それどころか、まだその言葉を心の中で飲み込めていない。
けれど、じわじわと、体中に広がっていく気持ちに、審神者はたまらない気持ちになった。きゅっと唇を結びあわせて、どのような表情を己がしているのかも分からないような心地のまま、ゆっくりと進んでいく己のつま先をじっと見下ろしてしまう。
「……だから、兄様のこと、もっと……」
そう言い掛けた小夜が、言葉を飲み込む。審神者の表情を見たからだ。困惑しているのか、口は半開きのままで固まってしまっている。
審神者は己の顔を見られないように手の甲で押さえると、ざわざわと揺れる気持ちを必死に納めようとした。
「……そうか。そう、なんだな……」
「……うん。だからまた、兄様のこと撫でてあげて……さっきは急だったから、驚いただけだと思うんだ」
そんな言葉しか出てこない己の語彙力が情けない。それ以上何もいえない審神者だったが、小夜はそれを察したのか、何でもないようにそう言って、審神者の手を引き続けた。
「……ああ。宗三に、謝らないといけないな」
あれは、心からの拒絶ではなかったのだ。ようやく、審神者はその確信が持てた。宗三は口は悪いし少々意地の悪いような振る舞いもするが、きっと、それが宗三にとっての甘え方のようなものだったのだろう。それを薄々感じていたのに、確証が持てなかった故の先程の審神者の振る舞いに宗三は嫌な思いを抱いたに違いない。
そう考えてそう呟いた審神者に、小夜はそれ以上何も言わなかった。
そうして、どれだけの間歩き続けたのだろう。
山の中を、薄暗くなった空の下、歩き進めていく。
本丸からはそう離れていないとはいえ、審神者はここに来たことはない。小夜は見知った道のようで、進む勢いに躊躇いはないようだった。審神者は周囲を見渡しながら、ふと、既視感のようなものを覚えた。
(……どうしてだろうか。見覚えがあるなど……私は、何故そんな風に思うのだろう?)
ただの気のせいだろうか。ああ、そうに違いない。己にそう言い聞かせて、審神者は首を緩く横に振った。
その時、小夜から握っていた手を離されて、審神者は小夜のことを見やった。
「ここからは、道が険しくなるんだ。狭くなるから、並んで進めない」
そう説明を受けて、審神者は小さく目を丸くした。小夜が審神者を連れて行きたがっている場所が、そんな道の先にあるなどと予想もしていなかった。日頃から小夜がそこに行っていたのだとすれば、それは危険な行為ではないのかと思いながらも、審神者はその言葉を飲みこんだ。小夜にとって、大切なことがこの先にあるのであれば、今は、そんな言葉を口にするべきではない。あまりにも危険だと判断したら、その時は強引にでも連れて帰ればよい。
「分かった。少し待ってくれ。今、灯りをつけるから……」
こっくりと頷いて、小夜は審神者が灯りを持つのを待つ。
短刀である小夜はともかく、生身の人間である審神者は、夜目はきかない。真っ暗になって足下が見えなくなる前に、灯りがなければ困るのである。持ってきていた提灯を灯して、審神者は小夜を見た。
「準備ができたよ。行こうか」
目を合わせてにっこりと笑うと、小夜はまたもこっくりと頷いて、言い聞かせるように口を開く。
「僕の後ろをついてきてね。ぬかるみや穴があるところもあるから、僕の足跡をたどって欲しい」
「分かった。気をつけよう」
審神者は気を引き締めて、道を避けるように横の茂みを突き進む小夜の後ろを追いかける。小夜の言葉通り、小夜の足跡をたどるようにして。
(それにしても、何故、こんなところを行こうと思ったのだろうか……?)
そんなことを思いつつ、進んでいく。足場が悪く舗装されていないそこは、気を抜いたら転んでしまいそうな道だった。否、これは道とは呼ばないだろう。時折、近くの木にしがみつくようになりながら、足場の悪い坂を上り、下り、奥へ奥へと進んでいく。
その内、ずるりと足をぬかるんだ泥にとられ、足を滑らせた。
「くっ…!?」
転びそうになるも、手を伸ばして近くの木に抱きつくようにして、なんとか持ちこたえる。勢いよく掴んだせいで手の平がひりひりとしたが、おそらく、出血するには至っていないだろうと感覚で判断する。なんとか転ばずに済んだ審神者は、安堵するように息をついた。
慌てた小夜が、審神者との距離を縮める。
「あるじっ、大丈夫? 怪我は…」
「ああ。問題ないよ。……小夜は平気なのか?」
「うん。僕は、もう何度も来ているから……」
「そうか。なら、良かったが……」
言いながら、審神者はしがみついた木の表面に何気なく目をとられた。
「……? これ、は……」
そこには、刃物のようなものでつけられたような、意図的に傷つけられたような傷がつけられていた。それを見つめていると、審神者はどうにも、胸が騒いだ。位置からして、熊といったような生物がつけたようなものとは思えない。それに、ちょうど、審神者にとって見安い位置につけられたその傷は、まるで目印のようなものにも思えた。つけられてから長い時が経過しているらしいその傷は、既に薄くなっていて、よく見なければ気づかないようなものだったというのに。こんな傷を、どうして己が見つけられたのだろう。
審神者は、胸がざわつくのを感じた。
「――これは、」
答えがすぐそこまで出てきている。けれど、出てこない。あと少しのところで留まっている答えにもどかしい気持ちを感じながら、審神者はその傷をそっとなぞりあげた。
「――あるじ?」
だが、小夜に呼ばれて我に返る。審神者が小夜に目を向けると、そこでは、審神者のことを心配そうに見つめている小夜の姿があった。
「大丈夫? 辛いなら、もう、帰る?」
寂しそうな声で、そう問うてくる。その小夜の言葉に審神者はすぐさま首を横に振った。小夜に、要らぬ心配をさせてしまった。審神者は口角を強引に吊り上げるようにして、笑った。
「平気だ。行こう、小夜。連れて行ってくれ」
そういえば、小夜はほっとしたように、胸をなで下ろしていた。
そうしてまた小夜の背中を追いかけながら、審神者は必死に記憶を追いかける。過去を遡って、この場所と己との関係を探そうと必死になっていた。
(小夜のいっていた‘あの時’のこと、この場所は関係している。どこかで感じる既視感も、おそらく、気のせいじゃないだろう)
けれど、審神者は本丸の外にほとんど出ない。町にだって、一年経つかどうかまで、降りようとはしなかったのだから。上からの呼び出しなどがあればゲートを通って本丸からは出るが、それ以外の用事で本丸を出ることなどがそもそもない。
では何故、己はこの場所を知っているような気がしているのか。審神者は真剣に考えながら、他にも何か手がかりがないかと灯りを頼りに周囲の光景を見渡した。
(……? まただ、また、傷のある木が……)
そうして見つける、先程の木についていたような、目印のような傷。まるで、迷わないようにつけられたかのような――……。
その瞬間、全てを思い出した。
「――小夜」
足を止めて、小夜を呼び止める。散らばっていた点の全てが線となって繋がった。ようやく、審神者は既視感の正体を突き止めたのである。思い出せば、その時の鮮明な記憶が広がるように思い返される。審神者はふと笑って、振り向いて審神者を見上げる大きな瞳に、柔らかな眼差しを向けた。
「思い出した。この場所は――本丸に来てしばらく経った後、姿を消してしまった小夜を、見つけた場所だ」
ようやく、思い出せた。審神者は肩の力を抜いて、くすくすと笑った。
「正確にいえば、もっと先の方で見つけたんだったが――まあ、似たようなものだろう」
そう続ければ、小夜は大きな瞳を更に大きく、丸くした。
「……あるじ、覚え…てるの…?」
「……いいや。あの時は無我夢中だったから、場所なんて覚えてはいなかったよ。ここまで来なければ、私がつけた目印を見なければ、きっと、思い出せなかった。――お前があの時聞いてきたのは、このことだったんだな、小夜」
本丸に小夜が来てしばらく経った頃――小夜が三日間本丸から消えたことがあった。既に本丸にいた加州清光と薬研藤四郎と審神者で、それこそ、夜通し探し続けたものだった。
本丸の中、床下から天井まで見回ったが小夜はなく、審神者は本丸の外へと足を運んだのだ。そうして――一体何故ここに足を運んだのか、審神者は覚えていない。呼ばれていたような気でもしていたのか、小夜を鍛刀するときに注いだ己の霊力を無意識に追ってきたのか。当時も、そして今でも、さっぱり分からない。それに関しては全く思い出せない。
それこそ無我夢中だったからだ。そうして、ようやく見つけた小夜は茂みの中でぐっすりと眠っていたものだったから、審神者は叱る気も咎める気も起きず、そのまま小夜を抱えて本丸に帰還したものだった。何より審神者も、体力の限界を迎えていたのだ。そんな元気はなかった。
「――あの時のこと、僕は、加州さんにきいたんだ。あるじが…僕を見つけてくれたんだって」
そう言うと、小夜は、少しだけ、泣きそうな表情をした。
「でも、あるじは何も言ってこなかったから……あるじが来てくれたことも、連れてかえってくれたことも、夢なんじゃないかって思ってたんだ」
清光が言っていたのに夢かと思ったという感覚はよく分からない。けれど、審神者が何も言わなかったことは本当である。小夜を本丸に連れ帰った時、審神者は既に三日ろくに睡眠をとっていなかったから、意識も朦朧としていた。だから、人の身の審神者とは違い、比較的意識がはっきりしていた清光と薬研に小夜を任せて、審神者はそのまま気絶するように眠りについたのだ。そうして一日半たっぷり睡眠をとって目が覚めたときには、既に清光が小夜にしっかり注意をした後だと報告された。
ならばこれ以上言うこともないと判断して、審神者は小夜に何も言わなかったのだ。そもそも必要以上に刀剣に関わるつもりのなかった審神者には、その方が都合が良かったという理由もあったけれど。
「十分、清光から言われたのだろう? なら私が同じ事を言うこともないかと思ってね」
言って、審神者はしゃがみ込んで、小夜の顔をのぞき込む。
「――ずっと、気にしていたのかい?」
もう一年も前の話だ。小夜が姿を消したことも、その一度きり。審神者はもう気にしてはいない。もうしないのであれば、小夜がそのことを忘れていても問題はないとすら思う。けれどこうして今も覚えているということは、小夜にとって記憶に残るような悪い思い出であるということ。
「……うん。でも、それだけじゃなくて……やり残したことがあったんだ……」
もしもそうならば、忘れてくれていいと言うつもりだった審神者は、次に発せられた小夜の言葉にぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「やり残したこと?」
繰り返せば、小夜は頷いて、ゆっくりと審神者の手を掴んだ。
「この先にあるんだ。ずっと、あなたと見たかったもの――来て」
「わ、わかった」
言って、くいくいと引っ張る。そういう小夜の手に引かれるまま進んでいく。一度は通ったことがあるといえど、一年も前ならば、初めて通る道と大して変わらない。審神者は転ばぬように気をつけた。片手に提灯、片手に小夜の手を握っている今、転びそうになっても木を掴む手は残ってはいないのだから。迂闊に転んで、小夜を巻き込むわけにもいかない。
そうしてしばらく進んだ後、開けた場所にたどり着いた。そこには小川が流れており、さらさらと水の流れる音が心地よく響いていた。
足を止めた小夜の隣に並ぶように立ち止まった審神者は、その先に広がる光景に目を丸くした。
「――ここは、」
呟いた言葉は、それ以上は続かない。見惚れてしまったのである。
「……これは、蛍……か?」
子供の頃、審神者は昔なじみからその姿について聞いたことがあった。
『蛍ってな、すっげえきれいなんだよ! こう、ピカピカーって光っててな、まるで、星が踊ってるみたいに! 見たことがないなんて、損してるぜ! ホントここつまんない場所だよな? でもさ、いつか見に行こうぜ! ホントに、ホンットーに、きれいなんだ!』
審神者になるための生活は規律を重んじていた。早寝早起きは勿論、必要がなければ、夕暮れ以降外に出ることも禁止されている。だから存在は知っていても、蛍の実物など見たことがなかった。昔なじみからその話を聞いたことがあったが、まともに取り合ってもいなかったのである。
(大袈裟に言っているだけだと思っていた……)
柔らかな水の流れる音。ふんわりとした優しい光が、点滅しながら木々を引き立たせるかのように輝き、瞬いている風景。星が踊っているよう、なんて。おかしな表現をしていると思っていたが、この光景を見ては、その表現を笑うことは出来はしない。
「……そうか。こんなにも、綺麗だったんだな……知らなかった」
それ以上言葉が続けられなかった審神者に、小夜は頷いた。
「……うん。この場所は、僕しか知らないんだ。とてもきれいなものだから、一番最初に、あなたと見たかった」
言って、小夜はきゅっと審神者の手を握る。そうして、震える声で続けた。
「……気に入って、くれた…?」
そろそろと、機嫌を伺うような声だった。審神者は蛍の光を瞼の裏に焼き付けようとするように、そっと目を閉じた。それから微笑んで、ゆっくりと小夜に目を向けると、優しい笑みを携えたまま、小夜の手を握り返した。
「ああ――…とても、」
優しい光。見ることはないと思っていた光景、見ることが出来るとも思っていなかった光景を、小夜が見せてくれた。一番最初に己と見たかったのだと言ってもらえて、嬉しくないはずがない。綺麗だと思わないわけがない。気に入らないわけがないのだ。
「こんなに綺麗なもの、初めて見たよ、小夜」
審神者はきゅうっと、嬉しいのに、切ない気持ちになってしまう。
鼻の奥がつんとして、何故だが、涙がこぼれてしまいそうになってしまうのだ。どうしてそんなにも切なくなるのか、泣いてしまいそうになるのか、審神者にはさっぱり分からなかった。
小夜がここに連れてきてくれた。喜べば良いのに、どうして、喜びより、切なさの方が勝ってしまうのだろう。己の感情が理解できず、審神者の声は震えてしまっていた。
「嬉しくて……すまない、言葉が、出てこないんだ……おかしいな」
そんな言葉を吐き出してから、審神者は声が震えてしまっていることを自覚したのだった。すると、くいくいと、小夜に手を引っ張られた。審神者は小夜と目を合わせると、小夜が審神者に腰を下ろしてほしいのだと示していることに気がついた。
「……小夜?」
辿々しく名を呼びながら、審神者はしゃがみ込む。すると、小夜は審神者の顔と目線を合わせると、そのまま、審神者の首に手を回すようにして、ぎゅっと抱きしめてきた。
くしゃりと、慣れていないような手つきで審神者の頭を撫でて、そっと呟くように口を開く。
「――泣いてもいいよ。僕しかいないから。……誰にも、言わない」
審神者の気持ちを見透かしているような言葉。審神者はくしゃりと表情を崩して、けれど寸前の所で堪えてみせる。ただ、顔を見られないように、小夜の小さな体を、ぎゅっと抱きしめた。
「――……小夜には、適わないな」
衣服が汚れることを気にすることなく地面に膝をついたままの審神者は、小夜の肩口に顔を押し当てるようにして、しばらくそのままでいたのだった。
「……ありがとう、小夜。もう随分落ち着いたよ」
「っ…!?」
言って、審神者は抱きしめていた小夜の体をそのまま抱える。そのまま立ち上がれば、驚いたらしい小夜との距離が少しだけ空き、お互いの顔をのぞき込むような距離感になる。予想していなかったのか、小夜は目をぱっちりと開いて、その瞳に審神者のことを写している。
呆気にとられた小夜の表情を見て、審神者は口元を緩ませた。
「――あの日も、こうしてお前を抱えたんだよ。小夜は覚えていないだろうけれどね。ぐっすりと、眠っていたから」
重くなったわけではない。けれど、あの時の小夜と今の小夜では、知識も経験も、他者との関わりも、違ったところがたくさんあるのだろう。先程のように審神者に気を遣うことができる小夜に至るまで、審神者も知り得ないことが小夜の中でたくさんあったはずである。
(……随分と、立派になった)
本当は、最初からそうだったのかもしれない。審神者が気づいていないだけで。けれど、そう感じた気持ちは本物で、審神者は小夜を抱えたまま、どこか寂しそうに目を細めた。
そんな審神者を見つめたまま、小夜は、そっと審神者の頬に手を当てた。
「覚えてないけど、覚えているよ」
そうして、ぽつりと話し出す。
「……あなたは、忘れてると思ってた。僕に何も言わなかったから。だから、ここには一緒にこれないって諦めてたんだ」
表情に、大きな変化はない。けれどほんの少し、小夜の瞳が泣きそうに震える。
「でも――あるじは変わったから、もしかしたら一緒に見れるかもって……そう思ったら、どうしてもあなたに、これを見せたくなったんだ」
審神者はくしゃりと表情を歪めて、そんな小夜のことを見つめる。
「どうして、そこまで……?」
「あなたの笑ったところ、見たことがなかったから――これを見たら、笑ってくれるんじゃないかって思って」
健気なことを口にする小夜に、審神者はそれ以上何もいえなかった。小夜には伝えていなかったが、あの時審神者は、小夜が己の本丸に不満があるのではないかと密かに考えていたのである。清光からは道に迷って帰れなくなったらしいと報告を受けてようやく、その懸念を払拭できたぐらいだ。
だが審神者がそんなことを考えている間も、小夜は審神者のことを想っていたのだろう。
審神者は笑わない――その自覚はあった。審神者は元々、陽気や朗らかといった言葉に似つかわしくない性分だったのだ。立派な審神者になるためだけに日々の生活を過ごしていた審神者には、娯楽というものにも縁がなかった。ましてや審神者として本丸に就任されてからしばらく、それはそれはめまぐるしい日々を送っていた。笑えるような余裕など、あるわけもない。
今でこそ余裕が出てきているが、それに至るまでの道のりは、決して楽なものではなかったのだから。
「……すまない。すまなかった。小夜」
寂しい思いをさせてしまったから。誤解をしてしまっていたから。己が不甲斐ないばかりに、本来必要のない苦しみを与えてしまったから。謝らなければいけない事がたくさんある。審神者は、小夜の心も知らずに好き勝手を思っていた己が情けなくて、息苦しい気持ちでそんな言葉を繰り返す。
「あやまらないで」
小夜は小さく首を横に振って、続ける。
「僕は、あるじのこともあの本丸も、好きだよ。――僕はずっと、あなたにそう言いたかったんだ」
すうっと息を吸い込むと、小夜はゆっくりとそれを吐き出した。まるでずっと抱えていた荷物を下ろしたかのように肩を落とすと、感極まったような声で呟いた。
「――やっと、いえた」
辿々しい声と言葉。審神者はたまらず、ぎゅっと唇を閉じ合わせてから、ゆっくり、ゆっくりと口を開く。
「……っ…」
けれど、言葉が出てこない。
嬉しいと悲しいが混ざり合って、そのどちらも、審神者の胸の中で渦巻いてしまっている。たまらず、また震える唇をとじ合わせた。言葉が出てこない審神者は、そのまま小夜の体を抱きしめていた。
(どうして私は……ずっと、何も気づけないままでいたのだろう。ほんの少しでも、私がちゃんと気づけていれば、小夜だって、ここまで……)
歯がゆい。今更審神者が変わったからと言って、だからどうしたというのだろう。それまでに悩み苦しんだ刀剣達にとって、審神者の事情など何の関係もないというのに。気にしなくて良いと言われても、謝らなくて良いと言われても、簡単に受け入れられるわけもない。
「……あるじ」
先程のように審神者の体を抱きしめて、小夜は優しく審神者の髪を撫でた。梳くように触れて審神者を呼ぶと、優しい声で告げる。
「あの時、迎えにきてくれてありがとう」
そういう声に、審神者は何もいえず、ただ返事をする代わりに、小夜の言葉に頷き、更に強く強く、小夜の体を抱きしめ返した。ぽろりと零れ落ちた涙が、地面に染みていった。
[newpage]
その後、審神者は小夜を抱きかかえたまま、本丸への道のりを歩いた。まるで、一年ほど前の行動を繰り返すように、やり直すように。遠慮する小夜を強引に押し切って、他愛のない話をしながら本丸への道を歩いていく。
途中でウトウトと眠ってしまった小夜を抱えたまま本丸に戻った審神者を迎えたのは、宗三だった。片手に灯り、もう片腕で小夜を抱えていた審神者は、本丸の門の外で待っていた宗三に、ぎこちなく笑みを向けてみせる。
「ただいま、宗三」
「……思っていたより、遅いお帰りでしたね。お小夜に何かあったらと、気が気ではありませんでしたよ」
審神者の胸に体を預けるようにして眠る小夜の様子を確認する宗三は、小夜がただ眠っているだけで特に怪我をしていたわけではないと悟ると、安堵したような声を漏らす。
「まあ、無事で何よりです。……貴方も」
そう言って、最後に審神者が気がつくかどうか微妙な声量で付け加える。気を向けていなければ逃してしまいそうな最後の言葉を、けれど審神者は耳にしていた。ふっと笑う審神者に目を向けた宗三は、少し驚いたように眉を潜め、呟く。
「……おや。主を泣かせてくるとは、流石お小夜ですね」
自嘲気味に目を細め、審神者は目を伏せる。赤くなった目元に気づかれてしまったこと、仕方のないことだが、少しだけでも隠したくなったのである。
「ああ、そうだな。……格好悪いところを、見せてしまった」
「貴方に格好良い時などあったんですか?」
今度は、宗三の方がふっと笑う。審神者は、力なく首を横に振った。
「――ないな。ずっと、私は情けないままだ。少しも、変われていない」
変わろうとしてから、己の情けなさをが何度も何度も己の首を絞めている。刀剣達を泣かせて悩ませて、苦しませている、いた事実は、いっこうに消える気配がない。今だって、距離感を違えたせいで問題が起こってしまっているのだから。小夜を抱いたまま歩いて本丸に向かっているとき、審神者は静かに己の姿と向き合っていた。
「お前の言う通り、何もかもが半端だ」
遠すぎたかと思えば、近すぎて、全ての刀剣達に平等に振る舞うことすら出来ずにいる。良い審神者になるために学んできたことは、心がけていたことは、本当に意味があったのだろうか。その教えで学んだことすら、審神者は何も活かせていなかったのではないか。そう思うのだ。
「小夜を運ぼう。起こすのは忍びないからね。寝かせてあげたい」
審神者の言葉に肯定も否定もせずに、宗三は静かに目を丸くして、本丸の中に歩いていった審神者の背中に視線を送る。微かに開いたままの唇を動かすと、声を出さぬまま、審神者を呼んだ。
すやすやと寝息をたてる小夜の寝顔を見て、審神者はそっと微笑みを落とした。無防備な表情を見ていると、思わず頭を撫でてあげたくなる。その欲に従ってそっと髪に触れ、起こさぬように優しく撫でると、審神者は黙って目を細めた。
「……宗三は、知っていたのか?」
そっと、問いかける。審神者と反対側に座って小夜の寝顔を見ていた宗三は、審神者の問いに気怠そうに口を開く。
「……いいえ。僕は知りませんよ。小夜にとって、秘めていたいことだったのでしょうから。僕はただ、小夜が貴方と過ごしたいと思っていたことしか知り得ません。ですから僕に出来るのは、貴方とお小夜の時間を作ることだけでした」
「小夜から相談でも受けていたのかい?」
「いいえ? 何も。兄の勘とでもいいましょうか。見ていれば分かりますよ」
「……そうか」
近しいものならすぐに気づくことが出来たのだろう変化は、小夜と宗三が元々近しい存在だから出来たことである。宗三と審神者である己を比べてしまうことの陳腐さも、審神者は分かっている。分かっていても、比べてしまう。己の情けなさがずっと目の前にあるようなものだった。
審神者は自嘲するように口角を吊り上げて、ゆっくりと立ち上がる。
「小夜が起きるまで、まだ時間があるだろう? 一度、部屋に戻るよ」
もう少し、頭を冷やしていたい。
言って、静かに足を動かそうとした審神者は、くいと衣服を引っ張られて足を止める。この状況下で審神者の衣服を引けるような存在は、宗三しかいない。
「……どうした?」
何気なくそう問えば、宗三はむっとしたように目を細めた。審神者の衣服を摘んでいた指が審神者の手首に移り、緩く握る。すると、今度はそれを引き寄せるように力を入れられた。
「何処へ行くつもりなんですか? 仕事は片づけたのでしょう。戻る必要があるんですか?」
「……だが、小夜は寝ているだろう。なら時間がある内に、やれることはしておきたいんだ」
時間を作ってほしいと言われることも多くなった。それに応えようと思えば、時間はいくらあっても足りない。審神者が明言しなくとも仕事に手を着けようとしていることを察しているらしい宗三は、そんな審神者の行為に不服を隠すことなく態度で示している。
「貴方がいなければ、お小夜が起きてから悲しむでしょう。今日は何もせずとも良いなら、ここにいてください」
ぎゅっと、審神者の手首を掴む手に更に力が込められる。そう言う宗三を見下ろしたまま、少しの沈黙の後に、審神者は頷いた。
「……そうだな。配慮が足りなかったよ。すまない」
「ええ、本当に。貴方は、いつもそうですよ」
するりと、審神者の手首から指を離して、宗三はため息をついた。
「もう少し、愛されている自覚を持って下さい」
そうして吐き出された言葉に、審神者はきょとんとした。すぐに言葉の意味を飲み込むことが出来ずに、静かにその場に座ったあと、少ししてからそろりと宗三のことをみる。
「……宗三に言われると、変な感じがするな」
「おや、不満ですか?」
「不満ではないよ」
「では、喧嘩を売っているんですか? お望みなら、高く買ってあげますよ」
宗三の指が、今度は審神者の頬に伸びる。やわく摘まれて、審神者は顔をしかめた。
「売っていないよ。やめなさい」
宗三の手を掴んで引き離し、審神者は呆れたように息をつく。そのまま宗三のそばに移動すると、宗三の顔をのぞき込むように前のめりの体勢をとった。
「宗三」
名を呼ぶと、宗三は様子をうかがうようにしながら、それでも審神者から距離をとろうとすることはなかった。ただじいっと審神者の目を真っ直ぐと見下ろしている。
「今日は、ありがとう」
そうして審神者の口から放たれた言葉に、宗三は少しだけ目を丸くした。そんな何でもないような反応が、何故か嬉しくなった。
「……別に、礼を言われるようなことはしていませんよ。近いです。離れて下さい」
「ああ……すまない」
宗三は審神者の胸に手を当てると、そのままやんわりと突き放すように押す。それを受けて審神者は普通に座り直した。ついでに、少しだけ宗三とも距離を空けておく。
「なに、距離をとってるんですか。そんなに僕が嫌ですか」
「離れろと言っただろう。たった今」
それは審神者にとって気遣いの一つだったのだが、宗三はそうは思わなかったらしい。
「言ってません。貴方、本当に空気を読めないんですね」
すねたような口振りだった。だが間違いなく、宗三は審神者に離れろと口にした。審神者はしっかりと覚えている。
「僕は、別に、嫌がっているわけではありません」
「……? ……どういうことだ?」
さっぱり分からない。何が何だというのだろう。審神者は真剣に宗三の言いたいことを読みとろうとして、やはり理解できずに、首を傾げる。
「嫌じゃないのかい? 私に近寄られることは……」
「だから、嫌なんて言っていません。一度も、言っていません。貴方が勝手に決めつけたんですよ」
言って、宗三は不機嫌そうにそっぽを向いた。
「それを貴方は嫌みったらしく離れていって……不愉快です」
ふんと鼻をならす宗三に、審神者は何がなんだか分からないまま、小夜とのやりとりを思い出した。宗三は審神者のことを嫌いなわけではないと、そういったことを言われていたことを、である。小夜から貰った言葉を反復させながら、審神者はおそるおそる、宗三との距離を詰めた。
「…………」
「…………」
宗三はそんな審神者の様子をちらりと見たが、けれど逃げる素振りも拒否する素振りも見せないままでいる。そんな宗三の反応が嫌がっているようには見えない審神者は、まるで敵意と警戒心をむき出しにしている野良猫に近づいているかのような感覚を覚えた。
(……犬猫といった生き物には、好かれたためしがないのだが……いや、流石に犬猫と比べるのは失礼か……)
そんなことを思いながら、そろそろと、審神者は宗三の頭に向かって静かに手を伸ばす。宗三はそっぽを向くのを止めて、じっと審神者の顔を見る。何も口にしないまま、審神者にされるがまま、受け入れようとしている意思が、そこには見えていた。
審神者を見る宗三の目に、微量の熱が灯る。けれど、心臓がばくばくと音をたてている審神者には、それに気づけるだけの余裕がなかった。
あと少しで、宗三の頬に触れそうな距離まで審神者の指が迫ったときだった。
「……にい、さま?」
むにゃむにゃとまだ眠たそうに目を擦りながら、小夜が寝かされていた布団から上半身を起こしている。
「っ……お小夜、起きたのですね」
「お、おはよう、小夜」
別にやましいことをしていたわけではないのだが、慌てて宗三が審神者から距離をとった。つられるように審神者も宗三から距離をとって、寝起きの小夜にそう声をかけた。
「………ここは…」
まだ状況が読み込めていないらしい小夜に、審神者は説明をするべく話し出す。
「小夜が眠ってしまったから、あのまま連れて帰ってきたんだ」
「っ! ……ごめん、」
「ああ、いや、気にすることはないよ。私が、そうしたかったんだ」
寝癖がついてしまったのか、軽く毛先が跳ねてしまっている小夜の頭の上に手のひらを置く。そのまま少し強い勢いで撫でてしまえば、小夜は反応に困ってしまったかのように目を伏せて身を固くしてしまった。
「お小夜、お腹は空いていませんか。まだなら、先にお風呂も入れますよ」
「…お風呂……あるじも、一緒?」
「ええ、勿論。嫌だと言っても湯船に叩き込みますから、安心して下さい」
「……宗三」
無駄なことだと諦めつつも、窘めるように名を呼ぶ。とはいえ、どうやら宗三は小夜の前で審神者に触れられたくはないらしい。兄心とでも言うべきだろうか。審神者には分からないが、無碍にする気もないので、これ以上深く突っ込むつもりはなかった。
話を変えようと、審神者は小夜に向かって微笑みかける。
「じゃあ、皆で行こうか」
「……うん」
言えば、小夜は照れくさそうにそう答えたのだった。
「宗三。また、後で良いかい?」
風呂に入りにいく道中、宗三にそうひっそりと声をかける。
「…………」
宗三は無言で審神者の額を小突いた。その表情から意図を読みとることが出来ればと思ったが、あまり感情的にならない宗三の表情から、何も得るものはない。
(……難しい)
空気が読めない、とは先程宗三に表された言葉。でも、そうだろうか。それだけが、その理由なのだろうか。宗三から表に出してはいない感情を読みとらなければならない。そのこと自体が、実はとても難易度が高いということはないのだろうか。
審神者はそんなことを真剣に考え、宗三の返事がイエスかノーのどちらだったのかを思案する。
そんな審神者の様子を見て、宗三は小さく口角を吊り上げていた。
「可愛い寝顔だな」
「……ええ。本当に」
小夜の布団に邪魔をさせてもらう形で、審神者は小夜と並んで横になる。既に、小夜はすやすやと寝息を立てていた。そんな小夜の寝顔を見ていると審神者もつられてしまいそうになって、重くなってきた瞼についつい素直に従ってしまう。
「それで、いつになったら、先ほどの続きをして下さるのでしょうか……まさか、口だけだったんですかねえ?」
それをさせないという意思を込められた棘のある声。小夜を挟むように布団の上に座っていた宗三は、じろりと審神者のことを恨めしげに、睨むように、見下ろしていた。そんな宗三の棘に瞼を引き上げさせられた審神者は、ハッと失いかけていた意識を急速に取り戻す。
「……すまない、つい……」
「別に、良いんですよ。貴方に嫌々触られたくありませんから。どうぞ、寝たいのならご自由に」
つんとした物言いでそっぽを向いた宗三は、髪を梳くように触れながらため息をつく。完全に不機嫌な様を見せている宗三に、審神者は慌てて上半身を起こした。
「そんなことはないよ。……私は、お前のことをもっとよく知りたいんだ」
そう訴えるものの、宗三は視線を審神者にはくれない。不機嫌な棘のある声で「どうだか」と呟くだけである。
(怒っている……間違いなく)
審神者は小夜を起こさぬように布団から出ると、自分の布団の上に座っている宗三の方へ移動する。そのまま、そろりそろりとではあるが宗三の布団の上に邪魔をするような形で足を踏み入れて腰を下ろす。
「小夜には見られたくないのだろう? だから、タイミングが分からなくて……」
「言い訳は結構ですよ。本当に酷い人ですね」
ちらりと、宗三は審神者のことを見やる。
「――貴方、この本丸でどんな評価を受けているか知っていますか?」
言われ、どきりとする。おそらく、あまり良いものではないのだろう。歯に衣を着せたような物言いをしない宗三のこと、手厳しい言葉が出てくるだろうことを覚悟して、審神者はぐっと息をのんだ。
「人誑し、ですよ。まあ、僕達は人ではありませんから、表現は正しくはありませんが……」
「……誑した覚えはないが、」
「自覚がないだけでは?」
覚悟していたほど辛辣な言葉ではなかったが、不本意極まりない評価だった。審神者は表情を曇らせてそう呟くも、宗三はそんな審神者の反応を小馬鹿にするようにふっと笑う。そのまま審神者の顎に指を当てて、くいと持ち上げると、静かに自分の顔を近づけた。
「こんなにも簡単に床に入ってくるなんて、襲ってほしいといっているようなものです」
「……またそれかい? 心配せずとも、私はそういった相手の床には入らない。きちんと、分別は出来ているよ」
「どうだか。僕が貴方に下心を持っていたらどうするんです? 非力な貴方など片手でどうこうできますよ」
宗三はことそういうことに対して、やたらと審神者に警告を繰り返す。それが審神者を想っているが故であり、宗三が己に対して劣情のようなものは抱いていないことを知っている。宗三が何を言おうとも、審神者は宗三に対して危機感は抱けない。
「仮にそういった気持ちがお前にあったとしても、小夜の隣でそんなことはしないだろう」
「……まあ、そうですけれど。……つまらない反応ですね。がっかりです」
「どんな反応なら良かったんだ?」
呆れた口調でそう言えば、宗三はふっと笑って審神者の頬を緩く摘んで引っ張った。
「さあ、どうなんでしょうね。まあ、案外、真面目に受け取られれば面白かったかもしれませんね――貴方をおちょくるのは楽しいので」
「……宗三」
不服を露わに宗三を呼べば、宗三はくすくすと笑った。
頬を好き勝手に弄ぶ宗三の手を引き離す。そうして、頬から離した宗三の手に己の手を重ねるようにして、審神者は静かに口を開く。
「私は、お前のことを知りたいし、お前と沢山の話をしてみたい。出来ることならば――お前と一対一で向き合う時間を作りたいと思っている」
不安はある。宗三は素直に物を話すことがないようだから、尚更のこと。
「私は鈍いからな。はっきり言っておいてほしい。そう思うことは、お前にとって、迷惑なことだろうか?」
真っ直ぐと宗三の目を見つめて、そう問いかける。宗三は審神者の言葉に笑みを引っ込めて、静かに、静かに、口を開く。
「僕は、嫌ならば嫌だと、はっきりと口にして言いますよ」
じと見られた瞳は、機嫌が悪そうに見えた。けれどその中に、甘えのようなものも感じられる。
「嫌と言わなければ、私はお前に近づいても良いのか?」
審神者は確認するように、再度問いかける。宗三は無言で、ふいと視線を逸らしてしまった。
「好きにすれば良いでしょう。貴方は僕の主なのですから」
そうしてそれだけを言った宗三に、審神者はようやく、宗三の気持ちを確認できたことに安堵する。
「……分かった。好きにする」
微笑んでそう口にすると、宗三が反応を見せるよりも早く、審神者は両頬を包むように挟んで、そのまま頭に移動させてわしゃわしゃと撫で回す。乱雑というわけではないが、審神者にしては豪快な撫で方だった。
「っ……ちょっと、何をするんですか」
嫌ならば嫌という。嫌と言わないのなら、好きにしてもよいという意思表示。審神者は、宗三の言葉をそう受け取った。不服そうに紡がれた言葉にも怯むことなく、にいっと笑って、宗三の頭を撫でていく。柔らかな絹糸のような感触の髪に指を差し入れながら撫でていけば、宗三は戸惑うように目を細めた。
宗三のそんな様子が、どうしてか可愛く思えて、審神者は小さな声で笑い声をこぼしてしまう。
「嫌なら嫌と言うんだろう?」
「調子に乗らないで下さいっ……そんな、乱暴に……」
「優しい方がいいかい?」
「〜〜一々、言わせないで下さい。仕返しのつもりですか?」
憎らしいという目で見られるが、嫌とは決して口にはしない。文句を言えど抵抗しない宗三は、審神者が思っているよりもずっと分かりやすいのかもしれない。
「ふふ、すまない」
そう口にするものの、申し訳ないという気持ちを抱いているわけではない。今度は優しい手つきに変えながら、宗三の髪を梳くようにして頭を撫でていく。宗三は変わらず恨めしげな視線を審神者に向けたまま、けれど少しだけ、その目つきは優しくなったような気がした。
「………貴方の謝罪は、軽いんですよ……」
そうぼやいて、宗三は視線を伏せるようにして黙り込む。されるがままの状態となっている宗三に、審神者は優しく目を細めて、なで続ける。
「なあ、宗三。酒は好きだろうか?」
「……好きですよ。それがどうしたんですか」
「そうか。だったら今度、付き合ってもらえないかい?」
「――おや、貴方、飲めるんですか?」
「少しは、ね。最近になって、やっと飲めるようになった」
長谷部と飲んだきり酒は口にしていないが、間違ったことは口にしていない。宗三の頭を撫でながらそう言えば、宗三は少しの沈黙の後に、そっと視線を審神者へと向ける。そして迷ったように少し視線を泳がせた後、再び審神者の目を真っ直ぐ見つめて、遠慮がちに口を開いた。
「では、今度と言わず今から」
「……今、かい? すまない、酒はまだ取り寄せていないんだ……」
手を止めて、そう答えた審神者に、宗三はふっと笑う。
「酒を嗜むのが貴方だけだと?」
挑発するような口調。宗三は静かに立ち上がり、部屋の隅に置かれた戸棚の戸を開ける。その姿を後ろから見ながら、審神者はきょとんとする。小夜を起こさないためか、最小限に音は押さえているようだが、それでも静かな部屋に響くごそごそという音に、気になって、審神者もそっと宗三の隣に移動する。
「……少し外は冷えますが、飲んでいれば丁度良くなるでしょう」
そうして取り出されたのは、このサイズの戸の中にどうやって収まっていたのか分からない大瓶の酒である。暗がりに慣れた視界でその酒瓶に書かれた文字を追えば、大きく‘魔王’と描かれていた。
「さあ、つまみでも調達しに行きましょうか」
ぱちぱちと瞬きを繰り返す審神者に、してやったりという表情を浮かべて宗三は笑ってみせた。
「……美味しい…ですね。……信じられませんが」
「そんなに意外かい?」
一口サイズに切られただし巻き卵を口に含んで、宗三は珍しく棘のない口調で感想を述べた。唇に指を当てて、更にもう一口、口の中に運んでいく。そうして味わうようにゆっくり咀嚼して飲み込むと、少しの沈黙の後に、じいっと審神者のことを見た。
「本当に出来たんですね、料理。てっきり、お小夜が大袈裟に貴方を褒めているものだと思っていましたが……」
審神者をおちょくる風ではない。おそらく、宗三の本音なのだろう。だからこそ審神者は苦笑して、脱力して肩を落としたのだ。
ここは厨房である。宗三と酒をくみあわせることが決まり、つまみを調達しに来たのである。審神者も知らない酒事情だが、どうやら厨房には、刀剣達の日々の食事に使う食材とは別に、酒のつまみなどで使用しても良いとされる食材が用意されているらしい。その食材を使って、つまみを作って酒のお供にするということは、酒を嗜む刀剣達には周知の決まりだったようである。
そうして、その食材を使って、比較的短時間で簡単に作れるだし巻き卵を審神者が調理し、それを宗三が一口味見をする。
それが、宗三の先程の言葉に繋がったのである。
「……とはいえ、焼いて丸めるだけだ。難しいことは何もないよ。小夜が贔屓目に私を見てくれているからというのも、まあ、間違いではないだろうな」
そうして笑えば、宗三は何か言い足そうな表情を浮かべる。
「本丸が出来た当初は、貴方が皆の食事を用意していたという話は、本当だったのですね」
「ああ、そうだよ。ただ、歌仙が来てからは、厨房は引き継いでもらった。それでも歌仙が不在の時にはしていたが……燭台切が来てからは、それきり料理はしていないな」
当初の頃を思い出すと、懐かしい気持ちを覚える反面、もっと良い行動がとれたのではないのかと改善をしたい気持ちでいっぱいになる。何せ、料理はしていたものの、皆と食事を共にしたことはない。審神者はただ、食事を用意していただけだったのだから。
少しだけ眉を広げて、審神者は宗三に目を向ける。
「他にも、食べたいものがあれば用意しよう。凝ったものは作れないけれどね」
とにかく、宗三が審神者の料理を気に入ってくれたことは分かった。味覚が審神者と似ているのであれば、おそらく審神者と同じものを美味しいと感じることだろう。審神者は、不味いと思うものを刀剣に出すことはしない。当初は少なくとも、審神者が己で美味しいと思うものを食事には出していた。そういう意味では、審神者は料理の腕には自信があった。
「……なんでも。貴方の好きなものを。どうやら味覚は……似ているようですから」
言われ、審神者は目を細めて頷く。宗三と同じようなことを考えていたことが、何だか嬉しく思えたからだ。「分かった」と返事をして、食材を見ながらメニューを考える。そんな審神者を興味深そうに見下ろす宗三の視線に気づいて、審神者は優しく声をかけた。
「先に戻っていていいよ。出来たら持って行くからね」
ここで待たせるのは悪いと思いながら言えば、宗三は腕を組んで少しだけ審神者から視線をずらした。
「いいえ。ここにいます。貴方が料理するところは貴重ですし。それに、貴方は一人にするとすぐに、他の者に連れて行かれるでしょう……貴方は、本当に気が多い人ですので」
「……宗三がそうしたいなら良いけれど……妙な言い方は止めなさい」
どうしても審神者を誑しにしたいのだろうか。審神者はため息をついて、つまみを作る作業に戻ることにした。
卵料理ときたら、野菜と肉も取りたいところだ。だが、夜なのだからさっぱりしたものの方が良いだろう。酒がメインならさして量は必要ないだろうから、少し濃いめの味でも良いかもしれない。だが、審神者は薄味の方が好みである。宗三と味覚が似ているなら、味は薄めの方が良いのだろうか。
そんな風に思考を凝りながら料理をする審神者の様子を、宗三はじいっと見つめていた。
目の前には、先程つくっただし巻き卵と、追加で作ったおひたしと、大根と豚肉を蒸したものが並んでいる。短時間で作ったものだが、一応宗三に味見も済ませて貰っているものだ。そこに、宗三は所有していた酒がコップに注がれた状態で並んでいる。
揃ったそれが圧巻というかなんというか、審神者は何故だかわくわくして、小さく声を漏らした。宗三の所有していた酒は日本酒のようで、どうやら度数も高いらしく、審神者には少ししか与えられなかった。半分も満たされていない酒の入ったコップを持って、並々酒が注がれたコップを持つ宗三を見る。
「宗三」
夜も冷えるようになってきた縁側で、羽織をかけて宗三と並んで座り、審神者はコップを宗三に寄せた。宗三は何も言わずに、静かに持っていたコップをかちんと当てて、ぐいっと酒を口にする。一口が大きい。儚げな外見とは裏腹に、実に豪快な飲みっぷりであった。
そんなことを思いながら、審神者も宗三を倣ってぐいっと酒を口に流し込み――咽せた。
「っ〜〜、」
鼻孔を突き刺す刺激と、カッと熱くなる顔。目頭に涙が浮かび、体が驚きをあげてしまう。大きな音を立てながらげほげほとせき込む審神者に、楽しげな声で宗三は笑った。
「おや、刺激が強すぎましたか。僕と同じペースで飲んでいると、すぐに潰れますよ、主」
涙目で言葉を出せずにいる審神者は、口元を押さえたまま、驚きのような目を宗三に向ける。
「……お前は、平気なのか?」
「誰の酒だと思ってるんです? 水のようなものですよ」
「酔わないのか?」
「酔いますよ。翌日に持ち越したことはありませんが……」
そこは、長谷部とは違うようだ。やはり、刀剣によって個性というか個体差があるのだろう。こんなに度が強い酒を水と言う宗三は、間違いなく酒豪と呼ばれる類で間違いない。
「そんなに弱くて、よく酒飲みになど誘えましたね?」
ふっと笑われ、審神者はううっと押し黙る。長谷部と飲んで、審神者は意外と酒を飲める口だと思っていた。けれど宗三の言うとおり、己は酒に弱い方なのかもしれない。なんだか無性に恥ずかしくなって、おそらく酒のせいだけではないだろう頬の熱さを隠すように手のひらで覆う。
「……前は、平気だったんだ。だから……」
言い訳がましくそんな言葉を振り絞れば、宗三はああ、と言葉をこぼす。審神者の作ったおひたしを摘みながら、淡々とした声で口を開く。
「長谷部と飲んだ時の話ですか。残念ですが、彼は酒に酔いやすい方ですので、度が低くても簡単に酔っぱらいますよ。別に、貴方が酒に酔いにくい方であるということはありません」
言って、少しだけ目尻を下げる。
「貴方は酒よりも、つまみを楽しんだ方が良いですね。ほら、美味しいですよ?」
箸で摘んだおひたしを、そう言いながら審神者の口元へ持って行く。作ったのは審神者だが、まるで自分で作ったかのような口調である。けれど美味しいと宗三が口にしたものだから、それだけで審神者はどこかうれしくなってしまう。
「……そうだな」
宗三の言う通りであった。名前の通りに凶悪な度数の酒を飲み進めれば、すぐに潰れてしまうだろう事は簡単に予想できた。審神者はそう答えて、宗三に差し出されたおひたしを口に入れた。脳天まで貫くようなアルコールが、おひたしの味で少し誤魔化されたような気がして、少しだけ気持ちが楽になる。
「もう少し濃くても良かったかもしれないな」
「そうですね。でも、このくらいの方が僕の好みですよ。次も、これくらいで味付けして下さいね」
「そうかい? ……わかった。なら、そうする」
そう言われては、気も良くなるというものである。そう答えてはにかんだ審神者に、宗三は満足そうに微笑んで、またつまみだす。
「……貴方がもっと早くに僕を顕現してくれれば、これを食べられたかもしれないんですね」
そうしてぽつりと、そんな言葉をこぼした。それを耳にした審神者は、何ともいえない表情を浮かべる。そればかりは、どうしようもない。審神者は、あの刀剣が欲しい、この刀剣がほしいと思って刀剣男子を顕現させているわけではないのだから。全ては、縁である。
縁があって繋がれば、出会う。それだけのこと、そういうものだと、審神者は思っていた。
縁がなければそれで良い。そのかわり、縁があったのなら、大切な己の刀剣である、という認識だ。
だからこそ審神者は、いわゆるレア太刀と呼ばれる刀剣がいなくとも、何とも思わなかった。それが関係しているのかどうかは定かではないが、審神者の本丸には天下五剣と呼ばれる刀剣はいない。とはいえ、審神者はそれをどうとも思わないのだから問題はなかった。天下五剣を顕現させても問題ない霊力があるのだから早く手に入れろと上からはせっつかれることもあるが、あれもそれも右から左に流している状態だった。出せと言われて出せるものではないからである。
「……宗三が望むなら、また作るよ。何度でも」
だからこそ、審神者はそう返事をした。少なくとも、この件については宗三に謝らなければならないようなことはないと判断したからである。
すると宗三はすうっと目を細めて、そのまま目を閉じた。力を抜くように一つ呼吸をして、緩く口角を引き上げた。
「……約束ですよ」
「ああ、約束する」
そんな返事をして、審神者は空を見上げた。星が見える空をぼんやりと見つめながら、ちびりちびりと、それこそ舐めるように少しずつ酒を飲む。しんとした空気。それが悪いものからくるものでなければ、その静けさは審神者は嫌いではなかった。
「そういえば貴方……あの時、もう髪を伸ばす必要がないと言っていましたね」
「………言ったかい?」
「言いましたよ。ほら、髪を伸ばすのかと聞いたときに。あれ、どういう意味だったんですか?」
「意味……ああ、あれか」
宗三にかけられた質問に、審神者は星を見ながら口を開く。星を見ていると、小夜と一緒に見た蛍を思い出して、胸の奥がきゅっとした。
「髪が長いと、身代わりとして捧げられるから便利なんだ。浄化とか鎮魂とか、そんな類で」
「……何を言っているのか分かりませんが。石切丸のあれと同じ類の話ですか」
「ううん、そうだな。まあ、そんな感じだ」
宗三の例えに、審神者はくすくすと笑った。
「本丸を設置したい土地は、霊力が溢れている場所が多いんだ。だからこそ穢れてしまっている土地もあってね、そういう場合は、私のような者が浄化に向かわされるんだ」
審神者も含め、幼い時から国の管理下で育った者は皆一様に特逸した霊力を有している。故に、審神者になる前からそういった仕事を与えられることがある。それは審神者一人だけに限らず、似た境遇の者は皆そうなのである。その際、悪しきものが留まる土地を清める場合、自らの髪を切り落として供物として捧げることがあるのだ。
「でも手入れが面倒だから、審神者になってからはすぐに切り落とした」
酒が入ったせいか、どこか饒舌になってしまう。からからと笑いながらいえば、宗三は不味いものを食べた時のような表情を浮かべていた。
「……全く想像がつきませんね」
そんな表情が珍しくて、審神者は微笑みを浮かべてしまう。
「お化け退治とでも思っておけばいいさ」
「尚更意味が分かりませんね。本当に貴方にそんなことが出来るのですか? そんな、虫も殺せないような顔をしておいて」
「……宗三、お前は私をなんだと思っているんだ…?」
「箱入り娘……のような」
「男だぞ」
「そんなことは分かっていますよ。物の例えです」
「物の例えね…」
本丸に広がっている審神者のイメージは一体どこから来ているのだろうか。審神者は微妙な心地で何ともいえない表情を浮かべた。
「どうして私は、皆に貧弱だと思われているのだろうか」
「貧弱だからでは?」
「……そこそこ、動けるんだぞ」
「貧弱を自覚していない貧弱は性質が悪いということです。加えて誑しとくれば心配もされますよ」
からかう風ではなく、真剣味のある声で告げられる。酷い言いようだと思った。
「……どこかで、誤解をとかなければな」
絞り出すように審神者が真剣に呟けば、宗三はくすりと笑った。
「守られていれば良いではないですか。貴方は主なのですから」
「お前たちが守るのは私でなく、歴史だよ。守るなとは言わないが、私の命よりも、歴史を守ることを優先してくれ。私を守る必要などないよ」
言えば、ぴたりと宗三の笑いが引いた。そのまま眉間にしわを作った宗三は、無言で手を伸ばして、審神者の頬をぎゅっと引っ張った。
「……ひゃめなさい」
「いやです」
審神者は宗三の手首を掴んで、強引に引き離す。そうして宗三の表情を見ると、困ったように、へにゃりと眉を下げた。
「そんな顔をするな」
泣きそうに目を細める宗三に、たじろいでしまう。別に深い意図などない言葉であったが、審神者は迂闊な発言をしてしまっただろうことを自覚する。
「そんなこと、間違ってもお小夜に言わないで下さいよ」
「……ああ、すまない」
審神者が反省したことが伝わったのか、宗三は手を引っ込めて、また審神者の作った料理を摘み始める。そうして、ぽつりと話し始めた。
「小夜は貴方を大切に想っています。ちゃんと見ててあげて下さい。言葉もちゃんと選んで下さいよ。貴方を大切に想っているお小夜が相手だから、貴方も自分を大切にしなければいけないんです」
箸の先で弄ぶように料理をつつきながら、そんなことを口にする。そんな宗三の言葉に暫く考えて、審神者は何も言えずに曖昧に言葉を濁す。
「……気をつける」
直す、とはいえない。審神者が審神者として生きていくために、いつの日か、己の命をかけなければならない事態を迎えることもあるかもしれない。そうなれば、審神者は己の身を捧げる覚悟は出来ている。だからこそ、いざとなれば投げ出すことを厭わないこの身を、大切にする約束は出来なかった。
そんな審神者の融通のきかなさを、おそらく宗三は理解しているのだろう。ただ一つ、小さなため息をついたのだった。
「まあ、良いでしょう。追々、よく言い聞かせます」
審神者はその言葉に返事をせずに、またちびりと、酒を舐めた。
それからは、他愛のない話を繰り返した。そうしている内に、審神者はふと、己の体の変化に気がついた。
(……頭が、ぼんやりする)
一気に飲めば咽せてしまうような凶悪な度数も、少しずつなら、美味しさも楽しめる。それは分かったが、同時に、少しずつ蓄積していくようにふわふわとした気持ちが、浮いていく感覚があることに気がついた。そんな変化を自覚した審神者は、ゆっくりと目を瞑る。
(これが、酔うということか)
背もたれが欲しくなってきた。このまま横になってしまえば、審神者は己がすぐに眠ってしまうことを確信した。
「……弱いですねえ。もう潰れてしまうのですか」
自身のコップに並々とおかわりを注ぎながら、宗三が残念そうにそうこぼす。審神者はその言葉にはっとして、眠気を払うように首を横に振った。
「平気だ。まだ、眠くない」
「眠いのでしょう? 強い酒は、飲ませるべきではありませんでしたねえ。ここで寝られたら風邪を引きますから、布団に戻って下さいね」
「まだ寝ないからいいんだ」
最後は、あまり呂律が回っていなかったように思える。体中が火照ったように熱くなり、審神者はまた、ちびちびと酒を口にする。
「まだ宗三といたい」
ぼんやりとした思考でそんな言葉をこぼせば、宗三は驚いたように静かに目を丸くして、けれどそれを審神者に悟られぬようにそっぽを向いた。それに気づかぬ審神者は、重くなってきた頭を押さえて苦悶に似た表情を浮かべている。
「……だったら、酒はそこまでですよ。水も、ちゃんと持ってきていますから」
そうしてしばらくしてから、宗三は審神者の手の中のコップを没収してしまう。代わりの水の入ったコップを差し出しながら、審神者が口をつけていたコップの酒の残りを飲み始める。
「すまない」
気を遣わせてしまった。審神者は出された水を飲みながら、ふうと息をついた。
「ほら、」
いいながら、宗三今度はだし巻き卵を一口サイズに切り分けたものを審神者の口元に持って行く。何も躊躇いもなく、差し出されるままに審神者はそれを口の中へ受け入れた。
「……本当に、隙だらけですよねえ、貴方は」
そっと、頬に手のひらが添えられる。その宗三の手のひらが冷たくて、心地よさに審神者は無意識にすり寄った。それに宗三は息を呑んで、顔をしかめてしまう。
「主。今後、親交を深めるために酒を飲むのは禁止ですよ」
「……? 何故だ?」
近づく距離と、目の前に広がる色の異なる瞳。審神者は突然の宗三の言葉に、心底不思議そうに問いかけた。そんな審神者の反応にも思うところがあったのか、宗三は眉間にしわを寄せる。
「相手によっては、そのまま犯されかねないからですよ」
ぼんやりとしているせいか、その言葉を飲み込むのに二、三秒かかった。審神者は宗三に負けじとぎゅっと眉間にしわを作って視線で異論を唱える。
「……宗三はそればかりだな」
「心配なんですよ。貴方の自覚のなさが」
今度は、真面目な表情を浮かべている。そんな宗三の様子に、審神者は静かに目を細めた。
「以前までの貴方ならば、その心配はなかったでしょう。けれど今は――あまりにも、僕達に近づきすぎています」
宗三はそう言って、審神者の肩口に顔を押しつけるようにした。
「貴方がそう望んだ上での行為ならば文句はありません。けれど今の貴方を見ていると――いずれ、絆されて望まぬ行為を強いられるだろう姿が、容易に浮かぶ」
審神者は頬に、首に触れる宗三の髪の毛の柔らかさに、意識を向けていた。そんな場合ではないことは分かっているし、宗三が審神者のことを気遣っていることも理解している。でも、どこか他人事のように宗三の言葉を聞いている己がいることこそ、宗三が審神者を気にかけている大きな理由なのだろう。
「僕は、それが一番恐ろしい」
「宗三…」
名を呼び、審神者は水の入ったコップを置くと、空いた手を使ってそのまま宗三の頭を優しくなで下ろした。宗三はそれを黙って受け入れ、されるがままになっている。
確かに、流されつつある己がいることは、審神者も自覚をしていた。けれど、どこか思考は逃避に走っていて、明確な拒絶の意思を出すことも出来ずにいた。審神者が絆されて流されて、いつか一線を越えてしまうのではないかという宗三の心配は、審神者とて危惧はしている問題なのだ。
何も言えないでいる審神者に、宗三は続ける。
「……貴方は、変わりましたよ。以前のように僕達と距離を置いていた貴方より、身近に貴方を感じられる今の方が好ましいと思う者もたくさんいることでしょう」
けれど、と続けて宗三は体重を審神者に預けるようにしてもたれかかかり、目を瞑る。
「――僕は、以前の貴方のことも、この本丸も、好きでしたよ。貴方の霊力に満ちているから、いつでも貴方を身近に感じられる。寂しいと思ったことはありませんでした。だから、忘れないで下さいね」
予想もしていなかった言葉に、宗三の頭をなでる審神者の手が止まる。言葉の意味を完全に理解する前から、審神者の心臓は鼓動を早めていた。耳で宗三の言葉を聞くというよりも、直接心に語りかけられているような感覚だったのである。
「貴方がまた以前までの貴方に戻ろうと――僕は変わらず、貴方を慕っています」
そして、ぎこちなく、審神者は宗三にゆっくりと触れ直す。その手は震えていて、撫で方も、先程よりずっとつたなくぎこちないものに変わっていた。
胸が苦しくて、審神者はくしゃりと表情を崩す。
「っ……」
今宗三に告げられた言葉は、審神者にとって間違いなく救いの言葉だった。己の在り方に後悔している審神者には、ひどく優しく甘い慰めになる言葉だった。たまらなくなって、うまく言葉を絞り出すことすら、今の審神者には難しい。
(……声が、出せない……)
感謝を伝えたい気持ちがある。宗三の言葉が本当に嬉しいのだと、伝えたいのだ。
そう伝えたいのに、審神者の口からそれが出てこなかったのは、何故だろう。分かっているくせにそんなことを思いながら、審神者は震える唇をぎゅっと噛みしめた。留めることのできなかった涙がじわりと溢れて、こぼれていく。そのまま勢いが弱ることもなく、ぽろぽろと玉となりこぼれていく涙に気づかれないようにと審神者は祈った。だが、そんな祈りなど、何の意味もなかったらしい。
「……何を、泣いているんですか。本当に仕方のない人ですね」
顔を上げぬまま、宗三は全てを見透かしたように優しい声でそう口にした。そんな審神者の肩を引き寄せながら、肩口に預けていた顔をゆっくりと上げる。そのまま審神者の顔をのぞき込むようにした宗三は、静かに頬に流れる審神者の涙を拭った。
口を開けば嗚咽がこぼれてしまいそうだと、何もかもを堪えていた審神者の肩を引き寄せるようにして、宗三は審神者の体を抱きしめた。
「僕もお小夜に負けていませんね。こうして主を泣かせてしまうなんて」
宗三の背中に手を回してぎゅっと羽織を掴む。しわになってしまいそうだったが、宗三は何も言わなかった。
それから、どれだけ経ったことだろう。冷え性なのか、冷たかった宗三の体温が温かく感じられてきた頃、審神者はようやく落ち着いてきた。けれど泣き疲れと酔いも合わさったせいか、未だ頭の中はぼんやりとしていて、宗三の胸に頭を預けたままである。
「……酒が入ると駄目ですねえ、貴方」
「……すまない」
そうやって絞り出した声は、今にも消えてしまいそうなくらい覇気がない。もう何も考えられないと、思考が溶けてしまいそうな感覚に脳を蝕まれているのだ。退けと言われることも覚悟するが、今放り出されてしまうと、審神者はおそらく今ここで死んだように眠ってしまうだろう。
「…そうざ」
「なんです?」
「そうざ」
「だから、なんなんですか」
舌っ足らずに名前を呼び、そして重い瞼を閉じる。出来ればもっともっと宗三と向き合いたかった。けれど、もうこれ以上は目を開けていられる自信がなかったのである。
「すまない、ねむい」
「でしょうねえ」
いいつつ、審神者の髪を梳くように撫でる。耳元で聞こえる宗三の声は、審神者にはなぜだか心地よい。
「適当に、転がしておいてくれ」
布団まで戻る時間すら惜しい。かといって、宗三に任せるのは申し訳ない。少し寝れば落ち着くだろうと楽観的に考えてそう言えば、宗三は思い切りため息をつく。吐き出された息が耳に直接当たって、審神者は小さく身じろぎをした。だが既に睡魔に雁字搦めにされている今、それ以上の言葉も反応も出てはこない。
「……良いですよ」
そう呆れたように口にして、宗三は審神者の体を引き寄せて、膝の上に載せるように横抱きするように抱えこむ。体が大きく移動したことで、微かに審神者は瞼を開いたけれど、それも大した問題ではないと脳が判断したのか、また、ゆっくりと閉じてしまう。寝やすいようにか、無意識に審神者は宗三に体を預けて、その内寝息を立て始めた。
「適当に、転がしておきます。……本当に、仕方のない人なんですから」
審神者の薄れゆく記憶の中、最後に宗三がそう口にしたのを聞いた。
「っ……ちがっ、違います! 決してお小夜が思っているようなことはっ…」
次に目を覚ました審神者は、がんがんと頭の中で爆音が響きわたっているような痛みを感じていた。脳味噌を直接揺さぶられているような気持ち悪さと不快さと苦痛に、審神者は頭を抱えながら、ゆっくりと上半身を起こす。
(……宗三の声、か?)
そうして重い瞼を擦りながら、声の主を確認しようとする。するりと、肩から寝間着が落ちて、ひやりとした空気が上半身を覆ってしまった。審神者は体を震わせて、一体何なのかと宗三の姿を探す前に己の姿を確認するべき目を向ける。
(帯が解けていたのか……)
普段から寝相は良い方であった審神者にしては珍しく、寝間着の帯が解けてしまっていた。それによって、どうやら上半身に至っては体を起こしたことでほぼ裸になってしまっている。というよりも、かろうじて袖に腕が通っているだけで、あとは下着一枚だけのようなものだった。寒さを感じるわけである。
「……僕、誰にも言わないよ。兄様」
「いえ、だから、誤解なんですよ。僕が主に手を出すわけがないでしょう!? ほら、起きたのなら、貴方からも一言いってください!」
そんな声と共に、ひやりとした指が肩に触れる。その冷たさに、審神者はびくりと体を震わせた。
「んっ……そうざ、つめたい…」
「〜〜変な声出さないで下さい!」
「もう少し声を……頭に響く」
あまり聞かない宗三の切羽詰まったような声。頭を押さえて、疲労困憊の体を宗三の方に向ける。帯が外れてしまっていたせいで、ほぼ下着だけの状態の審神者を見ていたのは、昨夜一緒に酒を飲んだ宗三と、何やら深刻そうな表情を審神者に向けている小夜だった。
「おはよう、小夜。宗三も、おはよう」
基本的に目覚めは良い方なのだが、今日ばかりは許されることならまだ眠っていたい。そんなことを考えながら、呑気にそう口にする。
「何を呑気に挨拶なんてしてるんです」
着崩れているとはいえ審神者ほどではない宗三は、元々白い肌を更に青白くさせている。その横では、これまた寝起きらしい寝癖がついたままの小夜が、真剣な表情で審神者と宗三を見比べるように交互に観察している。
状況がよく読み込めていない審神者は、はだけた寝間着を着直しながら、首を傾げる。
「おはよう、あるじ。僕、兄様とあるじを応援するよ。誰にも言わないから」
「…? ああ、ありがとう……?」
「意味も分かってないのに返事をするんじゃありません! 貴方は本当に……!」
帯を締めながら訳も分からず礼を言う審神者を窘めるようにそう言いながら、宗三は審神者を指さして、まるで審神者にこの状況を説明するかのように口を開く。
「僕と主は、恋仲ではありません。同じ布団で寝ていたのは、酔いつぶれた主を運んだのがたまたま僕の布団だったと言うだけで……」
「でも、兄様すごく幸せそうにあるじを抱きしめてた……あるじも寝間着が……」
「だから、それが誤解なんです! 主も説明を…」
「宗三、声をもう少し落としてくれ……頭に響くんだ」
「いいから否定なさい、この酔っぱらい!」
ずきずきと痛む頭を押さえながら、審神者はそれでも状況を理解して、小夜に説明しようとするが、説明するとなると、酒に潰れた話までしないといけない。言葉を探しつつ、痛みに耐えつつの審神者に、神妙な面もちで小夜は頷く。
「大丈夫。僕は、二人の味方だよ」
全然大丈夫ではない。審神者は眉間にしわを寄せて、小夜を見下ろした。恐ろしいまでに曇りなき眼で見る小夜に、審神者は頭痛が悪化した気がしてならない。
「……小夜、誤解だよ。酔いつぶれた私の面倒を、宗三が見てくれただけだ」
「でも、寝間着が……あるじは、寝相が悪いの?」
「ん、いや、そんなことはないけれど…………宗三。私は、脱ぎ癖など…なかった、だろう…か?」
途端に不安になって宗三を見れば、宗三は頭を抱えて、ため息をつく。
「そんなことはどうでも良いです……でもまあ、ありませんでしたよ」
なら何故こうも寝間着が着崩れているのか。不安だったが、少なくとも脱ぎ癖があるわけではないらしい。附に落ちないが安心した審神者は、帯を結びながら事の成り行きを見守る。
「これで分かったでしょう? 僕は主に手を出したりしません」
そう言って、小夜に言い聞かせるように口にする。小夜はどこか納得がいっていないというように黙り込むが、その内こくりと頷いた。理解してくれたことに安堵するように息をつく宗三に、審神者に対するときのような余裕は見えなかった。
内容はともかくとして、その光景自体は微笑ましいものだ。審神者はふと笑って、けれどすぐにズキっと頭に響いた痛みに顔をしかめた。
「…………」
そうして宗三の意識が己に向いていないことを良いことに、再び宗三の布団の中に潜り込んで目を閉じる。
そうして再び宗三に起こされるまで、審神者は束の間睡眠をとったのだった。
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