小夜左文字と宗三左文字との出来事があって以降――審神者は決心をした。
有耶無耶にしていた問題から、目を逸らしていた問題から、もう逃げないこと。なし崩しで許してしまうこと、絆されて必要以上の接触を許してしまうことからきちんと向き合うこと。
不器用で、失敗ばかりをしてしまうこんな己のことを気にかけてくれる、心配してくれる刀剣の優しさを踏みにじるような真似など、どうしてもしたくなかったのである。
だから審神者は、逃げていたことから、真っ正面をきって向かい合うことを決めた。少なくとも、以前までの己を慕ってくれていた刀に、もう二度と、あのような表情をさせたくはなかった。
毎朝の日課に組み込まれている小狐丸の毛並みの手入れを済ませた後、審神者は静かに小狐丸に話を切り出した。
「小狐丸。大事な話があるから、少しそこに座ってくれるかい?」
そんな前置きをして小狐丸の前に正座をすると、小狐丸は明らかに不安そうな表情を浮かべて、広い背中を少しだけ小さくしてしまう。そんな表情をされては敵わないと早速審神者は怖じ気づきそうになるが、ここで決心を曲げるわけにはいかない。
「ぬしさま…? 改まって話とは……私は、また何かぬしさまの気を損ねるようなことをしたのでしょうか?」
きちんと向き合わなければならない。甘えてはいけない。何度も己に言い聞かせながら、審神者はゆっくりと首を横に振って口を開く。
「いいや。だが、お前にとって、嫌な話かもしれない」
「……でしたら、聞きたくありません」
「駄目だ。聞いてくれ、小狐丸。私にとって、大事な話なんだ」
決して審神者が譲らないということを察した小狐丸は、じいっと黙りこんで、けれど渋々と審神者のそばに寄った。正座をして無言で縋るような視線を向けてくる小狐丸の前で、審神者は背筋を正して座り直す。
そしてどこから話したものかと考え、審神者はゆっくりと口を開いた。やはり、一番重要なことを簡潔に伝えるべきだろう、との判断だ。
「小狐丸。これから、仕事中のこの部屋への出入りを禁止する」
ぐっと、言葉を飲み込むように息を呑んで、小狐丸は悲しげに眉を下げた。そんな姿を見て心が痛むが、ここを耐えなければならないのだと、審神者は意識して表情を硬くさせた。
「あくまで、仕事中の話だよ。それ以外は、何もないからな」
とはいえ、そういったフォローを入れてしまうことも仕方のないことである。意識を改めるとはいえ、恋愛感情を持たない小狐丸のこと、それ以外の約束を違える気も更々ない。そもそも、審神者の部屋の出入りも、仕事の邪魔にならない範囲でと言ってあった。特に約束を違えたのだと後ろ指を指されるようなことは口にしていないのだ。そのはずなのに、どうしてこんなにも罪悪感に駆られてしまうのか。審神者は釈然としないものを感じていた。
「……それだけ、ですか」
審神者の言葉を疑うようにそれだけを口にして、小狐丸は畳に手をつくようにして前のめりに審神者に近づいた。すっと目の前にまで移動してきた小狐丸の目を真っ直ぐと見つめながら、審神者は肯定するように頷いてみせる。
「その他には……?」
「何もないよ。あくまで、仕事中は出入り禁止という話だ」
「ほんとうに、本当に、それだけですか…?」
審神者の言葉の真意を探るようにしばらく無言になった小狐丸は、審神者の頬に手を当てて、遠慮がちに触れてくる。その手を覆うようにして己の手を重ねると、審神者は小さな微笑みを浮かべる。
「ああ、それだけだよ。聞き入れてもらえるかい?」
ここで断られたとしても審神者は小狐丸の意見を聞き入れたりはしないだろう。けれど、そんな風に問いかけて、審神者は小狐丸から良い反応を貰うことを期待する。
「……分かりました。ぬしさまの望む通りに致します」
「ありがとう、小狐丸」
望んでいた言葉を貰えたことに安堵して、審神者は胸をなで下ろした。
「……小狐丸?」
小狐丸は審神者から離れる素振りを見せない。怪訝に思った審神者が小狐丸の名を呼べば、すっと目を細めて、静かに距離が縮まる。陰りを見せたその瞳に審神者は困惑して、咄嗟に身を引いてしまう。それを追いかけるように小狐丸が更に距離を縮めていき、審神者は後ろ手に畳に手をついて、焦ったような声で口を開く。
「……どうしたんだい?」
「いいえ。何も」
そう言いつつ、小狐丸は身を引こうとはしない。審神者を追いつめるように、じわじわと距離を縮めていく。仕舞いには上に乗っかるような体勢になった審神者は、何もないと言いつつも、明らかに何かを抱えている小狐丸の様子に動揺を隠しきれないでいる。
「ただ……ぬしさま、何かありましたか?」
「何か…?」
具体的に何を指しているか分からぬ質問に曖昧に返事をしている内に、探るような視線を向けたままの小狐丸が審神者の肩を押して畳に審神者の体を押しつける。そのまま審神者の首筋に鼻を寄せる小狐丸の肩を手で押し返しながら、審神者は首を傾げた。
「何か、ですよ」
「何と言われても……そうだな。気を引き締めようと思ったんだ。最近は、色々と弛んでいたから」
「? いいえ、むしろ痩せている方では…?」
「っ……違う! 体の話ではなく……やっ…やめなさい!」
不思議そうな表情を浮かべながら両手で審神者の腰を掴んで、小狐丸は審神者の体の線をなぞるように手を滑らせた。腰から背中に走るぞくぞくとした感覚に背中を反らしながら、審神者は抵抗するように小狐丸の体を押し返す。だが人の身である審神者の力など小狐丸には意味を為していないらしく、小狐丸は構わず何かを探るように審神者の腰を撫で回すままである。
「〜〜小狐丸!」
そうやって声を荒くして初めて、小狐丸はようやく手の動きを止めた。小狐丸の表情には未だ不服のような感情が含まれており、審神者は眉間にしわを寄せた。立腹、というほどではないだろうが、それでも小狐丸の中では素直に納得などできていないのだろう。
(仕事中は構えないという話は、そこまで納得できない話ではないはずだろう……)
己の思考はずれているのか。そう不安に思うものの、やはり、己のその認識が間違っているとはどうしても思えない。困り顔の審神者に、小狐丸はふむ、と考え込むような声を漏らしながら、審神者の腰に置いていた手を背中に回し、交差させる。
「――小狐丸?」
そのまま強く引かれ、いとも簡単に審神者は小狐丸の膝の上に向かい合うようにして座らせられた。
目線の高さが小狐丸の同じほどになり、審神者は小狐丸の考えていることがとんと分からずにいる。小狐丸はじいっと審神者のことを見つめていて、少しの沈黙を置いた後に口を開く。
「先日、ぬしさまが告白を受けたとの話を聞きました。その刀はそのせいで、ぬしさまの部屋を出入り禁止にされたとか。事実、でしょうか?」
そうして放たれた言葉に、今度は審神者が沈黙を抱くことになった。図星を指されたとはいえ、素直に洗いざらいを話すわけもなく。審神者は顔を青ざめさせながら、僅かに唇を震わせた。
「――その様子ですと、どうやら事実のようですね。その始末が、私にも回ってきたということですか」
「違う。それとこれは別の話だ」
「違わないでしょう」
ぐいと腰を引き寄せぴったりと体を寄せると、小狐丸はくくっと喉を鳴らすようにして笑う。
「ぬしさまは、私がぬしさまに無体を働くと思っているのでしょう? だからこうして、遠ざけようとしているのです」
笑ってはいるものの、明らかに機嫌が悪いことは審神者にははっきりと分かった。同時に、頭を抱えたくなる。こうなってしまっては、小狐丸が一体何をやり出すのか、審神者にも予測がつかない。一刻も早く小狐丸と物理的な距離をとらなければならないが、今そんな行動をとれば逆効果である。小狐丸の機嫌が悪化する未来が手に取るように見える。
どうしたものかとため息をついて、審神者は体の力を抜いて、そのまま小狐丸の肩口に頭を預けるように体重をかけた。
「聞いてくれ、小狐丸」
小狐丸は何も返事をしなかったが、その意識は審神者に向けられている。俯きながら口を開いた審神者だったが、それでもその小狐丸の気配はよく感じられた。
審神者といえば目を伏せながら、小狐丸を刺激しない言葉を探して、ゆっくりと話し始める。
「おやつ当番なんてものがそもそも、私の勝手で作られたものなんだ。私が思ったように自由な時間を作れないにも関わらず、皆と仲良くしたいなどと思ったから、皆をその分振り回してしまっている。だからこそ、きちんと分別はつけたいんだ」
「……ええ、気の多いぬしさまに翻弄されているのは、私だけではありませんね。捕まえたと思った先から逃げていくぬしさまには――いっそ、その両足を斬り落としてしまえば何処にも行けなくなるのだろうかと、そんなことを思う時もあります」
言いながら、小狐丸は審神者の首に頬を当ててぎゅうぎゅうと抱きしめる。息苦しさを覚えながら、審神者は以前の小狐丸とのやりとりを思い返す。
(あの時も、他の刀に対して斬ってやりたいと言っていたな……)
そんな物騒な言葉が出てきてしまうことは、刀である本分のせいだろうか。そんなことを思いながら、審神者は小狐丸を宥めるように背中に手を回して優しく擦ってやる。
「……毎夜、一緒に寝ているだろう? 寂しくなどないはずだ」
「いいえ。そうは言いますがぬしさま。ぬしさまは他の刀とも床を共にしていたではありませんか。もはや、添い寝は私だけの特権ではなくなっております」
「小夜のことを言っているのかい? たった一度の話だろう。私が一番床を共にしているのは、お前だよ。それでも、まだ足りないのかい?」
おやつ当番関係なしに審神者のそばにいる小狐丸は、間違いなくこの本丸の中でも上位を争うほどの時間を審神者と共にしている。小狐丸のことを以前よりも甘やかすという約束は間違いなく果たされていると、審神者自身もそう感じるほどである。だからこそ、宗三に苦言を申されたわけだが、今はそんなことは関係がない。
「……足りませぬ。もっと、ぬしさまの特別が欲しいのです」
さて、どうやって宥めたものか。そんなことを思案しつつ、審神者は何か小狐丸にあげられるものがあったかどうかを考える。けれど元々物欲も食欲もあまりない審神者のこと、お菓子の備蓄も贈り物に出来るような品物も、何も持ってはいないのだ。
ここで甘えるなと一喝することも出来ずに機嫌をなおしてもらう手段を考えるあたりが、審神者に甘えが残っている証拠なのだが、審神者はそこまでの考えには至らない。それを察しているのか、小狐丸は意味深に目を細め、けれど審神者はそれには気づけないままである。
「毛並みの手入れ……は、毎日しているからな。他に小狐丸が喜ぶような……油揚げかい? 折角だから、色々なところから違う油揚げを取り寄せて、食べ比べでもしてみるかい?」
そうやってようやく絞り出した答えがそれである。小狐丸は少しの冷めた沈黙の後に、審神者から体を離して間近で審神者の顔をのぞき込んだ。
「――それも良いですが。ですがもっと、ぬしさまと特別なことをしとうございます」
にっこりと笑みを浮かべながら言う。その小狐丸の笑顔は完璧で、まるで何か別の感情を覆い隠すために作られたもののようにも感じられる。
審神者は嫌な予感を覚えながらも、微かに震える声で「特別なこと?」と小狐丸の言葉を繰り返す。
小狐丸は赤い瞳をぎらぎらと揺らしながら、静かに審神者の唇に、自身の唇を寄せた。そこまでされれば、小狐丸の言葉を聞かずとも次にされる行為が予想できる。
「っ…小狐丸! だから、そういうことは出来ないんだ、……私は誰とも、そんな関係にはならない」
おそらく、張り合おうとしているのだろう。薬研とのことが何故広まっているのかは定かではないが、小狐丸は甘えたがりで寂しがりやだと審神者は思っている。それに起因しているのが己であるが故に、小狐丸を甘やかしてしまいがちであるが、だからといって譲れぬ一線はあるのである。
「……何故? 口吸いなど、ぬしさまは、誰にでもしているはずですが」
「それは頬に、だろうっ…! あれはもういい……だが口は……それ以上はもう――誰ともしない」
以前も、似たようなことを清光にも言われたような気がする。つくづく己の評価が酷いものであると自覚した審神者は、弁解するようにそう口にして、ぐっと、下唇を噛むようにして口をとじ合わせる。
「私が相手では不足でしょうか?」
「そんなことは言っていない!」
「私は、ぬしさまを困らせるようなことは言いません。ただ少しだけ、ぬしさまのぬくもりが欲しいだけ……どうしても、私を受け入れてはもらえないのでしょうか?」
目に見えてシュンとする小狐丸に、審神者は罪悪感を覚える。とはいえ、小狐丸にその気がないとしても、例外を作っては審神者の決意など何の意味ももたない。一振りだけずるい、贔屓だと言われれば、審神者は他の者の申し出を断ることが出来なくなるのだから。
頬や額など、唇以外にする口吸いならばもう仕方ないと割り切った。だからこそ、それ以上の行為は徹底して拒否をするのだ。それが、審神者は己で決めた一線なのである。
(……あまり、こういったことも良くないが……もう、やむを得ない…か)
審神者は諦めたようにそう考え、そっと、小狐丸の頬に唇を落とした。
「……これで、許してくれ」
小狐丸の頬を撫でながら、そう言えば、小狐丸はおもしろくなさそうに唇を尖らせる。けれど、小狐丸の心境を表すようにぴこぴこと髪の毛は動いている。どんな仕組みでこうなっているのか、審神者には分からない。だが間違いなく、小狐丸の機嫌は上向きになった。けれどそれを素直に言うつもりはないのか、小狐丸はそうしてしばらく無言の訴えをした後に、すりすりと審神者の肩に頭を埋めるようにして頬ずりをはじめた。
「分かりました。今は、引きましょう。ですが――足りませぬ。もっとしてくれなければ嫌です、ぬしさま」
「……本当は、こういったことも、あまり良いことではないのだが」
「そうですか。では知りませぬ。寂しさのあまり、ぬしさまに無体を働いてしまうやもしれませんが、それもやむなしと受け入れて下さいますか?」
まるで脅迫である。顔をしかめた審神者に、小狐丸は甘えるような上目を向ける。
「……不安なのです。ぬしさま。ぬしさまからの愛情表現がないのであれば、私は、今度こそどうなってしまうことか……」
大袈裟だ。そう思うのに、そのような瞳を向けられてはどうしようもない。
(毛並みの手入れを欠かさず、ほぼ毎日共に寝て、仕事の合間に膝を枕にし……それでも本当に足りないのか?)
小狐丸が本気でそう言っているようには思えない。ただ、審神者の気持ちを試しているかのよう。審神者は分かっているのに、こうして不安そうな表情を向けられてしまうと、本当にそうなのかもしれないと罪悪感のようなものに苛まれてしまうのである。そんな審神者の弱みを、小狐丸はよく理解している。
「……頬以外にはしないぞ」
まあ、良い。審神者が決めたのは、あくまで頬や額など、親愛ととれるような口づけ以外はもうしないことである。親愛のそれだけで小狐丸が満足するのであれば、審神者はもうそれでいいと割り切ることにした。
「はい! ぬしさま」
先ほどまでの不機嫌な表情はなんだったのか、小狐丸はぱっと表情を輝かせた。やっと満足のいった様子だ。その小狐丸の反応に、審神者はうまいこと転がされているのだと分かっていても、それでも良いかと考えてしまう。
「さ、どうぞ、ぬしさま」
ぴこぴこと毛先を揺らしながら小狐丸は口づけを強請るように頬を審神者に近づける。審神者は思うところがあれど、割り切ったように、小狐丸の頬に、ゆっくりと己の唇を押し当てた。そしてゆっくりと顔を離して、小狐丸の顔をのぞき込む。
ぱっちりと合った小狐丸の目は、喜びを携えながらも未だ満足がいっていないという意思を含んでおり、審神者は困り顔を浮かべて、再び小狐丸の頬に口づける。そのまま、二、三度、位置をずらしながらも口づけたところで、何ともいえない羞恥を感じて、そのまま小狐丸の肩口に顔を埋める。
(私は一体朝から何をしているのだろう……)
羞恥と自己嫌悪が混ざり合った状態ほど居心地の悪いものはない。己の今の状況を思うと、このまま穴にでも入りたい気持ちになってしまいそうになる。
「……小狐丸、もう、いいかい?」
「いいえ。まだまだ、足りませぬ」
「…………そう、か」
具体的にあと何回すればいいのか分かっているのならばともかく、終わりが見えないとなると、やはり審神者も躊躇いを覚える。延々とこのやりとりが続くような気がしてならないのである。
「……次で最後だよ。続きはまた今度、な」
異論は聞き入れないというようにそう言って、審神者はじっと小狐丸の顔をのぞき込む。今は部屋に小狐丸と審神者しかいないとはいえ、いつ清光や長谷部が入って来るとも分からないこの状況で、延々と口づけを続けるわけにもいかないのだ。それが例え頰であっても。
「今度、とは?」
「……仕事が終わって……いや、寝る前ぐらいかな。二人の時にね」
寝る前ならば、小狐丸以外が審神者の部屋にいることは滅多にない。そう言えば、小狐丸は不満げな表情の中に少しの意味深な色を潜めて、静かに目を細めた。
「――わかりました。では、最後に、一度だけ」
「……ん、わかった」
そう言って、これが最後なのだと割り切る。審神者は少しぎこちない動きで小狐丸の頬に、ゆっくりと唇を押し当てる。
「これで――……」
そうして顔を離して、小狐丸をのぞき込む。これで終わり、そのような言葉を続けるつもりだった。
けれど、その言葉は途中で止まってしまう。審神者は目を丸くした。その原因は小狐丸にあったわけではない。小狐丸の顔をのぞき込んだその背後に――廊下に立ってこちらを見ている刀剣の姿が視界に入ったからである。いつの間に、障子戸が空いていたのだろう。気づかなかったと、審神者の顔からさあっと血の気が引いていく。
「……主」
「――長谷部?」
審神者が己で決めた一線は守られている。だが、堂々と朝っぱらからやるにしては不適切な行為であるという後ろめたさはある審神者は、咄嗟に小狐丸から距離を置こうとした。
けれどそれを許さないというように、小狐丸は審神者の腰を強く引き寄せ、そのまま膝に審神者を座らせたまま背後にいる長谷部を振り返る。
「おや――失礼。見られてしまいましたか」
長谷部は小狐丸の背後に立っていた。けれど、小狐丸は少しの驚きすら見せずに、飄々とそう言ってのける。膝から降りようとする審神者の身を頑なに引き寄せたまま、にやりと、口角を吊り上げた。
「このことは、どうか内密に。私とぬしさまだけの秘め事ですので」
ふっと笑いそう告げた言葉に、長谷部は僅かに目を見開いた後、震わせていた唇を躊躇いがちに開いた。
「主。ご説明を……しては、頂けませんか」
困惑を隠せていない様子、途切れ途切れに紡がれた言葉。審神者は居心地の悪さに顔をしかめて、けれど下手に誤魔化せば逆効果だと察する。ゆっくりと空気を吸って、審神者は長谷部に向けて頷いた。
「分かった。その方が私も――…小狐丸!」
すりすりと頬ずりをした後、ちゅっと音を立てて頬に口づけをする小狐丸に制止するように言うものの、小狐丸は素直に従う様子はない。ついでにいえば、審神者の体を解放する素振りさえも見せない。
「やめなさい!」
窘めるように、更に強い口調で言ってやっと、小狐丸は、渋々といった様子で審神者の体を引き寄せる力を少しだけ抜いてみせた。その隙をつくように審神者は両手を小狐丸の胸に押し当てて、力を入れる。とりあえず、小狐丸の膝の上からは一刻も早く退きたいところだった。
「約束ですよ。ぬしさま。この続きは――寝る前に、床の中で」
「分かった。分かったから、離しなさい!」
その思いが先行して、会話の内容にまで気を回す余裕がなかった審神者は、何も考えないまま、そんな返事をしてしまう。その小狐丸と審神者とのやりとりを聞いた長谷部は、眉間にしわを作り、静かに殺気を纏い始める。
「――では、私はひとまず席を離しましょう」
真っ先にそれに気づいたのは小狐丸だが、小狐丸はそれこそ望んでいた反応だと言わんばかりに笑みを深くして、審神者の体を解放する。そうしてゆっくりと立ち上がると、今にも刀を抜きそうな殺気を放っている長谷部に、勝ち誇ったような上機嫌な声で、こう告げた。
「失礼。そういうことですので」
長谷部はその小狐丸の言葉に何も返さず、代わりに鋭い視線を突き刺した。それすらも楽しむようなに小狐丸はふっと笑って、審神者の部屋を後にする。
その背中を見送りながら、どっと疲労を感じた審神者は、小さなため息をついた。
とはいえ、状況は何も好転していない。
(妙なところを見られてしまった……)
小狐丸と審神者の間に不埒なものは一切ない。とはいえ、見られても良い光景というにも、些か問題がある。長谷部が見たのは、そういう光景だ。
「……おはよう、長谷部。今日は、随分と早いんだな」
取り繕うように、朝の挨拶と共にそんな言葉を放つが、長谷部はそれに答えることなく、審神者から目を逸らすように視線を畳の上に向けている。返事はなかった。そんな長谷部の反応は、やはり先ほどの光景を見た感想の現れなのだろう。少なくとも、その反応の中に審神者に対しての失望が含まれているのだろうことを察する。
しんとした空気を挟んで、長谷部は審神者と視線を交わすこともしないまま、静かに口を開いた。
「小狐丸と寝たのですか」
緊迫した空気を纏って、それだけを口にする。問いつめるように。責めているように。
審神者は小さく唇を開いたまま、固まってしまう。そうして次に審神者が口を開くまでの間、長谷部はぴりぴりとした雰囲気を纏ったまま審神者の目を真っ直ぐと見る。その視線の鋭さと熱さに圧されそうになりながら、審神者は曖昧に首を捻る。
「……まあ、そうだな。出入り禁止を解いてからは、毎日」
瞬間、長谷部の纏う雰囲気は一層険しくなり。審神者はすぐさま続ける。
「添い寝だけだぞ。本当に、寝ているだけだ」
「では何故、小狐丸の膝に乗っていたんですか」
「……成り行き、だな。こう…話の流れというか」
小狐丸は前々から、審神者を膝に乗せて毛並みの手入れをしてもらうことを好んでいた。最初こそ手入れの手つきを見られているものだと構えていた審神者だったが、どうやら、小狐丸はただ審神者が自身の髪に触れているところを見ることが好きだったらしい。審神者の振る舞いの反動か、小狐丸の元々の性質なのか。小狐丸はとかく甘えたがりなのである。
先ほどの体勢も、その延長のようなものだ。長谷部から見た審神者と小狐丸の姿は誤解を生みかねないものだったとしても、あくまで小狐丸にその気はないのである。
「成り行きで、口づけをするんですか」
侮蔑を含んだような印象を受けるほど、低い声だった。長谷部からそんな声など聞いたことのなかった審神者は、呆けるように目を丸くする。長谷部はかつて審神者が見たこともないような険しい表情で、批判するような目を審神者に向けていた。
「……挨拶のようなものだよ。小狐丸にとってはね」
「あいつは、挨拶だなんて思っていませんよ。俺の存在に気づいておきながら、あんな挑発をするんですから」
一歩。部屋の中に足を踏み入れて、長谷部はぎりっと奥歯を噛みしめる。そうして、苦虫を噛んだような声で、続けて口を開いた。
「小狐丸は、主を手中に納めようとしています」
更に、一歩。
「誰よりも先に主を手篭めにしようとしているんです。何故、それが分からないのですか」
明らかに、審神者を責めているような声と言葉。審神者は背中を小さくしながらも、小狐丸の行動はあくまで甘えの延長であることを分かってもらわなければと考えてしまう。長谷部の言う通り、小狐丸には下心があるかも、なんて思うことはなかった。
「長谷部。小狐丸は甘えているだけだ。下心など……」
「どれだけ、鈍いのですか。そこにつけ込まれているんですよ。気づいて下さい」
一蹴するようにそう言われ、審神者はぐっと押し黙る。更に足を踏み進めて審神者の目の前に来た長谷部は、静かに膝をついて審神者の目線を合わせると、酷く冷たい視線を向けてきた。
「それとも、小狐丸の気持ちに気づいていながら、あのような真似を?」
「そんなことはっ…」
「分かっています、主。貴方がそのような方ではないことは。ですが、あのような光景を見せられて、正気を失う者もこの本丸にはいるでしょう。あのような行為は、相手が誰であっても控えて下さい。もう、小狐丸を主の部屋に招くようなこともないようにお願い致します」
顎を掴むようにして、やや乱暴に上げさせられる。そうやって怒りに震える声で告げられた言葉に、審神者は戸惑いを隠せないままでいる。へし切長谷部という刀は、忠心に溢れた刀剣である。そんな長谷部は審神者を敬っており、勢いのある触れ方をされようとも、決して今のような乱暴な触れ方などしたことがなかった。それ故に長谷部の反応に何も言えず、審神者は困惑で目を細めたのだ。
「……主。返事を」
返事を急かされ、顎を掴んでいた長谷部の指が唇に伸びる。親指で唇を押さえた長谷部は、何かを期待するように眉を潜めた。
「――っ、だから、小狐丸にはそのような気はないんだ。お前が思うようなことはない!」
長谷部の手首を掴んで、引き離す。長谷部は抵抗することなく審神者の力に従い、あっさりと審神者から手を離れさせた。
「……お優しいのですね。尤もこの場合――甘いと言うべきでしょうが」
かと思えば、もう片方の手を審神者の頬に当てるように伸ばし、触れる。その手から伝わる熱に、審神者は身を強ばらせた。一体どうしたというのだろう。長谷部から受けるには、覚えのない感情ばかり。本当に目の前の長谷部が己の知る長谷部なのか。審神者は確かめるように、長谷部の目を見つめ返す。
「だから、長谷部。小狐丸には本当に、そんな感情はないんだ。先のことも、じゃれているだけで。膝の上にのせたがるのは前々からのことだ。おかしなことは何もない。確かに長谷部の言うとおり、そんな風に見えてしまうだろうことは分かっているから……大っぴらにする気はないというだけで、やましいことなど何も……」
説明をしているつもり。けれどそれらを口にしながら、審神者は言い訳を並べているように感じてしまう。長谷部があのような物言いをする理由も十分に分かっているだけに、後ろめたささえ感じてしまう始末。
目を逸らしたい。だが、今、逸らしてしまえば、まるで己の行為が後ろめたい行為であると認めたようなもの。そんな気がして、審神者は目を逸らすことも出来ないまま、震えそうになる唇をきつくとじ合わせる。
「小狐丸は、特別なんですね」
そんな審神者の態度から、自身の申し出が受け入れて貰えないことを悟った長谷部は一転、悲しげに眉を寄せた。先ほどまでの剣呑は一体何だったのかと思うほどに一変した長谷部の反応に、審神者は今度は目を丸くしてしまう。けれど、長谷部の言葉に図星を刺されたとは思わない。むしろ、どうしてそんな思考に走ってしまったのかと一番はじめに思ってしまったくらいである。
「……長谷部。勘違いをしないでくれ」
頬にある長谷部の手に、両手で包むようにして触れる。そのまま己の頬から長谷部の手を離して胸の前に持って行くと、審神者は大事にその手を握り直した。
「小狐丸については、夜伽の噂が出たことで出入り禁止を言い渡した。それは、お前も知っているだろう? けれど、小狐丸との間にそんな関係は全くなかった。にも関わらず、随分と長い間、小狐丸を突き放すような真似をしてしまっていたんだ」
下心はない。例え小狐丸が非常に誤解を受けやすい言動をとっていたのだとしても、それは小狐丸ではなく、小狐丸を突き放してしまった己の所行のせいなのである。現に、小狐丸が誤解されやすいスキンシップをするようになったのは、審神者が出入り禁止を解いてからだった。それを思えば、審神者には小狐丸を突き放すような真似など出来るわけもない。
「だから、小狐丸のことは出来る限り、甘やかしてやりたい。でもそれは、決して恋慕の感情ではない」
言い聞かせるように、説得するように。そう続ければ、長谷部はぐっと押し黙るように唇をとじ合わせる。
「どうか分かって欲しい」
長谷部、と続けて名を呼べば、長谷部は不満の感情を残しつつも、表情を幾分か緩くさせた。
「お前には、誤解されたくない」
小狐丸との間に誤解を受けて、このまま、先ほどまでのような侮蔑を含む視線を浴び続けることは避けたい。そんなことはない、不埒な関係を誰とも持ってはいないと、忠心を己に向けてくれる長谷部には信じていてほしいと、その一心からくる言葉だった。
「……狡いですね。そんな風に言われたら……俺はもう、何も言えない」
納得はしていない。けれど、誤解は解けたようだった。寂しさを感じさせるような、力の抜けた声で長谷部はつぶやいた。審神者は安堵して、ふっと小さな笑みを浮かべる。
「すまない。けれど、私の身を案じてくれたのだろう? ありがとう、長谷部」
ぎゅっと握っていた手に力を入れてから、ゆっくりと長谷部の手を解放する。そのまま己の手を膝の上に置いた審神者は、苦みを含んだ声で、続けた。
「例え誰が相手でも、あくまで、親愛の範囲での触れ合いだけしかするつもりはない。それ以上の感情を含んだ行為は、小狐丸とも――誰ともしない。約束する」
言われた瞬間、長谷部は小さく目を開いて、物憂げに視線を伏せる。そうして少しの沈黙を置いて、悲しげな声で口を開いた。
「……それは、加州清光とも、ですか」
長谷部から出てきた名前に、審神者はどきりとした。胃が重くなるような、気持ち悪くなるような。長谷部の質問にただ頷けば良いだけの話にも関わらず、何故か一瞬、返事を躊躇ってしまう。けれどすぐに背筋を正して、審神者と目を合わせていない長谷部を、まっすぐに見つめる。
「――ああ。清光も、例外ではない」
そして、長谷部を安心させるため。何より、己自身に言い聞かせるように、ゆっくりと、審神者はそう口にした。それを受けた長谷部は、そろそろと、視線を審神者と合わせた。その顔には微笑みが浮かんでいた。けれどその微笑みはどこかぎこちなく、審神者は少しの違和感を覚えた。
「そうですか」
それだけを告げて、長谷部は口を開きかけて――またすぐに閉じた。先ほどは怒りを含んで作られていた眉間のしわは、今は違う理由で刻まれているように見える。
「……長谷部?」
名を呼べば、今度は、長谷部は泣きそうな表情を浮かべてしまった。審神者は無意識にその長谷部の顔に手を伸ばしたが――触れる前に、逃げるように長谷部は立ち上がってしまう。座っている審神者と、立っている長谷部。その近いようで遠く感じる距離に、審神者の胸はざわついた。
「余計な口を挟みました。どうか、お許し下さい。主にご迷惑をかけるつもりなどありませんでしたが……貴方を困らせてしまった」
その差は大きく、長谷部は審神者を見下ろしたまま、まるでそう言うことが義務であるかのように、つらつらと口にする。そんな長谷部の反応に、審神者は戸惑いをが大きくなっていくことを確かに感じ取った。
「そんなことはないよ、長谷部。心配してくれたのだろう? 私には、有り難いことだ」
このまま、長谷部が自身を責めてしまうようなことは避けたい。己の所行が招いたことなのに、そのせいで長谷部が重荷を感じることなど何もないのだ。そう思っての言葉だったが、どうしてか、それが長谷部に届いているようには思えない。
「少し、頭を冷やしてきます」
そのことに焦りを感じる審神者の気持ちを知ってか知らずか、長谷部はそう言って、審神者に背を向けてしまう。その言葉、態度。審神者は長谷部はまだ胸に本音を隠しているのだと確信した。行かせたくないと思う衝動に任せるまま、審神者は長谷部に向けて手を伸ばす。
考えるよりも先に気持ちで動いていたおかげか、なんとか辛うじてではあるが、長谷部の指を掴んで引き留めることに成功する。審神者に引き留められると思っていなかったのか、長谷部は目を丸くして、審神者のことを見下ろした。
触れている指先は、熱い。その熱を手放しては、己は必ず後悔してしまう。だからこそ審神者は、逃がさぬように、長谷部の指に己の指を絡めて引いた。
「………あるじ…?」
長谷部の唇からこぼれ落ちた言葉。審神者は何と声をかけていいのか分からぬまま引き留めてしまったせいで、今更になって、どんな言葉をかければいいのかを考える。こんな局面で、気の利いた言葉の一つも出てこない。
「行かないでくれ」
今までの振る舞いのせいで己に欠落しているものを、こんな時になって実感する。こればかりは、勉学では身につかない。己が最初から刀剣たちと向き合ってさえいれば、とうに身についていたはずのものだったのに。
それが歯がゆくて、審神者は震える唇を、無理矢理にこじ開けたのだった。そのせいで、出てきた言葉は何ともいえないものである。だが、何か言わなければならない。続けなければならない。
「言ってくれ。お前が思っていることを、全部。頭など、冷やさなくていいんだ」
ぎゅっと指に力を込めて、またそばに来てくれるように、座ってくれるように祈りながら、くいっと引き寄せる。長谷部の力なら払うことなど容易いだろうそれに、それでも、長谷部は審神者の意志に身を委ねるかのように、背を向けることを止めた。そうして正面から向き合うようにすると、不安げに瞳を揺らして、縋るような声で口を開く。
「……聞かなければ良かったと、後悔しますよ」
その言葉に、審神者は僅かに目を細めた。
「それでも良い。長谷部の気持ちが聞きたい」
そして最後の一押しをするように、強く長谷部の手を引いた。今度こそ長谷部は座り込むように膝をつき、震える唇からこんな言葉をこぼした。
「俺を、嫌いになりませんか」
「ならない」
「面倒な刀だと、貴方には思われたくない」
「思わない」
「ですが――」
「長谷部」
延々と続きそうな門答を繰り返す必要はない。審神者は、長谷部の指を解放して、その手を、指を、そのまま長谷部の唇に押し当てる。まだ審神者に何かを言い掛けていた長谷部だったが、審神者に触れられたことで呆気にとられたように言葉を飲み込んだ。
「どうか、信じてくれ」
嘆願のような言葉。審神者の言葉に長谷部は感極まったように顔をくしゃくしゃにして、ぎゅうっと唇をとじ合わせたあと、審神者の指を包むように握って、ゆっくりと自身の唇から引き離す。あらがう必要もなく、それに従った審神者の指は長谷部の唇から離れて、けれど長谷部の手に包まれるように握りしめられた。
「主。俺は――…」
覚悟は決めたように思えた。だが長谷部の反応をみて、審神者はその考えを振り払う。まだ、長谷部の中に審神者への不信感があるのだろう。審神者は長谷部が言葉の続きを紡げるようにと、じっと、その時が来ることを待った。
「……いいえ、やはり、やめておきます」
少しの沈黙の中に、長谷部の中で何が起きたのかなど、審神者には分からない。ただ、その決断は、長谷部の中で確かに下されたものだったのだろう。それを察した審神者は、諦めきれずに、けれど、何も口にすることが出来ない。
「俺は――小狐丸のように、なりたくない」
まっすぐと向けられる視線。けれど、その瞳には陰がさしている。審神者は小さく眉を潜めて、縋るように長谷部を見つめていた。
長谷部の反応は、審神者への不信感からくるものなのだと。そう気づいてしまった以上、長谷部を問いつめるようなことも出来なくなってしまった。ゆっくりと審神者の手を離し、長谷部はぎこちない笑みを無理矢理に浮かべる。審神者のことを安心させたがっているように見えた。そのことが、審神者にはひどく応えてしまった。
「俺は、あいつとは違うんです」
そういう長谷部に、審神者はもう何も言葉が出てこない。名前を呼ぶことすらも出来ずにいる。長谷部は、今度こそ立ち上がって、審神者が手を伸ばしても届かないような位置に早々に移動する。
それから、静かに、笑って審神者に問いかける。
「主。俺はこれからも、貴方のお側にいても良いでしょうか」
答えの決まりきったその問いに、審神者は迷わず頷く。
「ああ、勿論」
そう絞り出すような声で言えば、長谷部はどこか悲しげな表情を浮かべて、「よかった」と、そうこぼした。
「それなら、良いんです。……俺は、それだけで」
念を押すように口にして、長谷部は審神者に背を向けた。
そうして、扉に手をかけてゆっくりと開く。その中を通って廊下にでると、長谷部は感情の読めないような表情で、審神者を振り返る。
そうして畳に座ったまま、何と声をかければ良いのか迷っている審神者に向けて、ゆっくりと目を細めた。
「主。俺達刀剣とは恋仲にならないと仰りましたが、その言葉に偽りはないのですよね? それでも、もしも貴方が言葉を違えて俺達の中の一振りを選ぶ時が来たら、その時は――俺の我が儘を聞いていただけませんか」
高圧的な物言いではなかった。けれど有無を言わせないような口調に、審神者は身構える。審神者に攻撃などしたこともない長谷部を前にして、そんな反応をしてしまうことに自己嫌悪を抱きながら、同時に長谷部の言葉に奇妙な感情を感じながら、審神者は小さく口を開く。
「……我が儘?」
繰り返す。そんな審神者に、長谷部は頷いた。
「難しいことではありませんよ。ただ、俺を刀解して下されば良いのです」
瞬間、審神者の呼吸は止まった。怒りよりも濃い衝動が胃の奥から湧き上がってくるような、そんな不愉快な感覚に顔つきが変化する。それでも、理性を持って、冷静を装うとする。冗談です、と言われれば、ギリギリ流すことができるように。
「…………どうして、そうなるんだ。そんな冗談はやめなさい」
「本気ですよ。俺は、他の刀に懸想する貴方を見たくないので」
及び腰だった審神者だが、長谷部が口にした言葉が冗談ではないと悟ると、今までの弱腰を一変させた。刀に手を出すような、そんな審神者の下では戦いたくない。と、長谷部はそう言っているのである。なんてことを言うのだろう。なんて酷なことを言い放つのだろう。けれど長谷部にここまで言わせたのは、間違いなく己の振る舞いから来るもの。審神者はぎゅっと唇を噛んで、迂闊な言葉を吐かぬように自制を働かせる。
(潔癖なことを言う……まさか、私の夜伽の相手をしようとした長谷部にそんなことを言われるとは……)
上に立つべき主という立場。審神者はそれを弁えているつもりであった。けれど、まだ未熟だということなのだろう。迂闊にも、審神者として振る舞う己ではなく、素の己が出てきてしまいそうになる。
迂闊な言葉を、こぼしてしまいそうになる。
「〜〜刀解など、しない」
絞り出すような、声。審神者の返事に、長谷部はくっと眉間にしわを寄せた。
「既に、懸想している刀がいるんですか? だから、そんな約束は出来ないと――」
「長谷部。此方に」
必要な事だけを、余計な言葉を吐かぬようにと意識していれば、自然と口調は崩れていった。
「来い」
このまま、ふざけた言葉を吐いた長谷部をみすみす行かせるつもりなど、既に審神者の中にはなかった。
そんな審神者の雰囲気からは、普段の穏やかな雰囲気は感じられない。審神者にとっての超えてはならない一線を超えたのだと、長谷部は察したようだった。平静を保てないまま放たれた審神者の‘命令’に抵抗することも出来ずに、長谷部は静かに審神者の目の前に移動して、膝をつく。
普段とは違う審神者の姿。だが長谷部は恐怖を覚えることなく、むしろ衝動的な感情にかられて、喉を上下させる。それすらも気づかないほど頭に血が上っている審神者は、長谷部同様静かに、けれど怒りに震える声で口を開く。
「お前が潔癖なのは分かった。私がお前の理想から離れていることに、思うこともあるのだろう。だが、それを理由にお前を刀解などしない。もしもお前が私に失望して、どうしても私から離れていきたいというのなら――その時は、他の、お前が認めるような主のいる本丸に――…」
審神者の見当違いな誤解をしていることに、長谷部は早々に気がついた。けれどそれを止めなかったのは、普段の姿が考えられないような審神者の姿に、口を挟むことが出来なかったからである。しかし、おそらく審神者の口から次に発せられるだろう言葉に気がついた長谷部は、審神者が避けることも出来ないような速さで手を伸ばす。優しさも、気遣いもない速さだった。
唇が覆われ――その勢いのまま、畳に叩きつけられるように押し倒される。支えられることもなく、かけられた体重をまるごと受け入れさせられるように背と、後頭部を畳に打ち付けた審神者は、一瞬、目の前が真っ白になった。
「っ――…」
長谷部の行動に、頭がついていかない。急に与えられた衝撃と痛みに、審神者は続けようとしていた言葉を紡ぐこともなく、上から見下ろす瞳から目を逸らすことも出来ずにいた。
怒りを、失望を備え合わせた長谷部の瞳は、激情に駆られているようにしか見えなかった。長谷部の地雷を踏んだのだと、審神者はこの時になってそれ実感した。それはもう、痛いほどに。
同時に、己の先ほどの言葉を思い出して、審神者は戦慄する。
(私は今……長谷部に言ってはならないことを……)
譲る。下げ渡す。それは、どんな言葉に言い換えたとしても、へし切長谷部という刀に言ってはならない言葉だったのだ。それにも関わらず、今、己は何と言おうとしたのか。
ぞっとした審神者の口から、長谷部の手が離れる。だがそれは一瞬のこと。その隙に審神者の顎を掴んで固定させるや否や――長谷部は乱暴に、審神者の唇に自身の唇を重ね合わせていた。
「っ――」
目を見開いて、審神者は長谷部の肩に手を押いて、引き離すように力を入れる。けれど押し返せるわけもなく、現状何が変わるということもない。触れている熱が唇を通じて移動してくるように、次第に熱を上げていく。力が抜けてしまいそうになる。とはいえ、この状況。長谷部にやめる意思がなければ何にもならないのだけれど、それでも、力を抜いてはいけないと審神者にはわかっていた。
こういった触れ合いはしないと、小狐丸に宣言してから何分後の話だろう。受け入れられるはずがない。
このまま長谷部の唇を――それが恋慕でなく怒りがくる感情であったとしても、受け入れてはいけないのだ。
角度を変えてされるものの、触れられているだけで、舌を入れられることもない。ただただ怒りをぶつけるようなそれに、審神者は負けじと長谷部の体を押し返すことで抵抗を続ける。
「っ、……はせべ、」
そんなに長い時間ではなかった。息が乱れるというほど、崩れてしまっているわけでもない。少しだけ離れた位置で、審神者を見下ろす長谷部は、怒りと不安、そんなものに振り回されているようだった。
名を呼べば、長谷部はくしゃりと表情を歪める。
「――俺は潔癖などではありません。それどころか俺は、」
それ以上言葉は続かない。代わりに、おそらく、本来次に続けられるであろうものとは違っただろう言葉が、長谷部の唇から紡がれる。
「……俺は、主のために、距離を保とうとしたんですよ。なのに貴方はそれを引き留め、煽るようなことばかりを言う…」
「長谷部……確かに、先の言葉はお前に言うべきではなかった言葉だ。だが、どうしてわざわざこんな真似を……当てつけているのか」
そう言えば、僅かに長谷部は目を見開いて、呆れたように自嘲する。
「ここまでされて、まだ分かりませんか。いいえ――それとも、分からないふりですか。……言ったでしょう、俺は小狐丸とは違うと」
「……? 私の振る舞いが、気に入らないのだろう…? 違う、のか?」
小狐丸とは違い、主である審神者に対して過度なスキンシップなど望まない。長谷部が言っているのは、そういうことだったはずだ。
(……怒っているのではないのか? ならば何故こんなことを……)
理解出来ず、審神者は困惑を浮かべながら長谷部にそう問いかけた。長谷部は審神者の反応にぐっと口を閉ざして、脱力したように審神者の首の横に頭を下ろした。その先でため息をついた長谷部は、審神者は困惑を露わに戸惑いを隠せない声で口を開く。
「違うなら、どうしてこんな真似を……私が好きなわけではないのだろう? ならばこんなことをする理由は、一体なんだと言うんだ」
理解が出来ないと、そう問いつめるような口調で聞いた審神者に、長谷部は今度こそ、脱力したようだった。
「――貴方という人は……」
そう言って長谷部は顔を上げる。そうしてもう一度審神者の顔をのぞき込むと、苦い表情で薄い笑みを浮かべていた。けれどその目には笑いの感情など全く含まれておらず、審神者は長谷部が未だ怒りを抱えていることを察すると、口角をひきつらせた。
「……す、すまない。だが理由が分からなければ私にはどうにも……」
だから説明を。そう求めようとした言葉は、続けることができない。
長谷部の手が、耳の横から、髪を梳くようにし滑らせて、審神者の後頭部に移動する。
(……これは、)
その瞬間、審神者の頭の中に、これからされてしまうだろう行為が容易く浮かび上がった。
その既視感は、そう遠くない時の出来事のせい。審神者に夜伽を命じられたと思いこんだ長谷部が、その時に審神者に触れた手の感触。長谷部のことを抜きにしても、審神者には他の刀との触れ合いから、この次にされる行為を簡単に察することが出来た。
「っ、待ってくれ、長谷部、それは駄目だ。できない。だめなんだ」
出せる限りの力を振り絞り、長谷部の説得を試みる。しかし長谷部は審神者の意を汲むつもりは微塵もないらしかった。
「……何をされると思っているんですか?」
「……何を、と、言われると……」
口づけされると思っている。舌をねじ込まれて、呼吸が出来なくなるような、そんなやり方で。そんなことを馬鹿正直に言われるわけがないと、途端に審神者は口ごもってしまう。長谷部に限らず、他の刀剣相手にも心当たりがあったから分かるなどと、口が裂けても言えるわけがない。
とはいえ、長谷部を押し返す手に込められた力が緩くなる。されてしまうと思っていたが、そう聞かれてしまうと途端に自信がなくなってしまった。
「……すまない」
情けないを通り越して恥を覚える。じっと己を見下ろす長谷部の視線から、居心地の悪さに目を伏せて黙り込んだ。もはや、何に対して謝っているのか己でさえ分からない。
「どうして謝るんですか?」
ふっと笑い、長谷部は目を合わせるように、顔をのぞき込み、近づける。なんてこともないという反応に、審神者は長谷部にそんなつもりは全くなかったことのだと思うと、過剰な反応をしてしまったような気がして、情けなさに言葉が出てこなかった。
「必要ありませんよ。別に、間違ってはいないのですから」
その言葉を理解することに時間がかかって、審神者は反応が遅れてしまう。笑ってはいたが、その目は決して笑ってはいない。
気づいた時には、再び、唇が触れ合っていた。顔を背けようにも、後頭部に回った手がそれを許さない。構えるように、唇を強く閉ざし、その先を許さないという意思を示すが、長谷部はそんなことは気にしていないらしい。ただ触れるだけの口づけを、一回、二回、と回数を重ねていくだけである。
逃がすつもりはないという力で頭を固定されて、けれどただ触れるだけの接触で済ませる長谷部に、頭の中は混乱を極めていた。ここまでされていて、先ほどの長谷部の反応を照らし合わせても、審神者は、当てつけ以外の感情がある可能性を素直に思い浮かべられずにいる。
答えはもう、察していたというのに。そんなはずはないと信じていたことが、もう随分と、昔のことのように思えた。
「……ん、」
何度も繰り返されるくすぐったい感触に、くぐもった声がこぼれる。閉じられていた長谷部の瞼が開いて、唇が僅かに離れると、吐息が唇に当たった。
「……まだ、あてつけでやっていると思われますか?」
熱を抱いた視線に、審神者は小さく、首を横に振った。
それを確認した長谷部は、満足そうに目を細める。
「俺は、小狐丸とは違います。この意味を、はき違えないで下さいね」
そう言って、愛しさを示すように唇を優しくなぞる。
「貴方のことを、愛しく思っています。だから、他の刀に懸想する貴方を見たくないだけのことです。俺の主は貴方だけですよ。分かって頂けましたか?」
幼子に言い聞かせるような甘さを含んだその言葉に、ようやく審神者は、長谷部の感情を完全に理解する。同時に、先ほど長谷部が言っていた言葉の意味も。そうしてようやく、長谷部が己に何を意識した言動をしていたのかを気づいた審神者は、じわじわと頬に熱が集まっていくのを感じ取った。
小狐丸との間に不埒なものはなかったのに。一線を決めて、刀剣達ときちんと適切な距離をとるのだと決めた矢先の出来事だった。薬研のことだけでも手一杯だというのに、まさか長谷部にまで告白をされるなど考えもしなかったことだ。動揺するな、という方が無茶な話だろう。
「っ……ほ、本気で、言っているのか?」
「本気ですよ。真剣に、貴方のことを想っているんです」
その言葉を裏付けるように、審神者の頬に唇が落とされる。そうしてまた視線を合わせられると、もう片方の手が頬に当てられ、優しく撫でられた。その割れ物に対するような触れ方に審神者は戸惑う。先ほどの乱暴な触れ方との違いのせいだろうと、己に言い聞かせる。
「本当はもっと、然るべきタイミングでお伝えしたかったのですが……」
予想もしていなかった告白に、審神者は視線を迷わせながら、くっと、長谷部の体を己から離すように力を入れていく。本当に長谷部が審神者に対して恋慕の感情を持っていたとしても、それは審神者の意思を覆す理由にはならない。つまり、それでも、長谷部の気持ちを受け入れることは出来ないということである。
「だが長谷部、私は誰とも――」
「分かっています。ですので、返事は必要ありません。俺に対する態度も、今まで通りで結構です。無理を強いたりはしません」
ですが、と続けて、長谷部は瞳の奥にぎらぎらとしたものを宿して、険しい表情を浮かべる。
「もしも貴方が、言葉を違えて他の刀剣から一振りの相手を選ぶというのならば、その時は――我慢などしませんよ。どんなことをしても、必ず貴方を手に入れます」
それは許しをこうような口調ではなく。決定事項を口に出しているだけの言葉だった。冗談を言っているとは思えない真剣な目つきの長谷部を前に審神者は息を呑み、ぞっと背筋が凍ることを感じた。
「……嫌でしょう? だから刀解を、と言ったんです」
何ということもないというように、続けられた言葉。審神者は目の前が暗くなったような感覚を覚えて、くしゃりと表情を歪めさせた。
「――好きにしろ。その時は、お前の思うままにすればいい。お前からされるどんな行為も、受け入れよう」
元より、そんなつもりはない。長谷部の言うその時など永遠に訪れることはない。そう思う審神者は事も無げにそう言い放つ。そんなことよりも、長谷部が軽々しく刀解という単語を発することの方が、酷く気に障ったのである。
「……え?」
あっさりと自身の言葉が受け入れられたことに、長谷部はぽかんとしていた。他ならぬ審神者の口から許可をもらえるなどと、思ってはいなかったようである。そんな長谷部の反応に気をとられることもなく、審神者は荒々しく言い放つ。
「その代わり、二度と刀解をほのめかすな。望むな。進言するな。それだけは、絶対に許さない」
続けて言えば、長谷部は欲情を纏った視線を審神者に向けて、笑う。白い歯が姿をのぞかせていた。
「ええ、‘約束’します。――ですから、‘約束’ですよ、主」
念を圧すように言われた言葉。審神者は躊躇うことなく頷き、それを確認した長谷部は、ひどく満足そうな表情を浮かべていた。
それを受けて、審神者は見えない鎖に足首を繋がれたような、そんな感覚を覚えた。この約束は、きっと果たされるだろう。有耶無耶にはされず、目の前の刀剣の意思はどんな形であれ果たされるはずである。それを察して、覚悟を決めた審神者は静かに目を伏せた。
『今の貴方を見ていると――いずれ、絆されて望まぬ行為を強いられるだろう姿が、容易に浮かぶ』
今更、宗三の言葉が、頭に思い浮かんだ。
刀剣達の中から特別な一振りを選ぶことはない。そう思っているのに、どうしてこんなにも息苦しい感覚に縛られているような気がするのだろう。あの言葉が現実になるかもしれない感覚に、今更ながらに怯えているだけなのだろうか。
「……長谷部?」
そんなことを思う審神者の手をとり、うっとりとした顔で、そのまま手の甲に長谷部は口づける。堅い皮膚の感触が確かに感じられて、審神者は目を丸くした。
「そんな表情をしないで下さい。……欲が出てしまう」
酷く楽しげに笑って言う長谷部の言葉に、審神者は一拍の間を置いて、その言葉の意味を理解する。
「――どきなさい」
上擦った声でそう言うと、長谷部はそれを予想していたとばかりに微笑んだ。そうして愛しくてたまらないといったような声で、返事をした。
「はい、主」
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