長谷部に告白されてすぐ。一人になりたい旨を言うよりも先に、長谷部は審神者を気遣って部屋から出ていった。考えたいこともあるでしょう、と。審神者を気遣っている言動をとりながら、長谷部は最後に審神者の頬を愛しそうに撫でていった。長谷部の気持ちを聞いた今となっては、その指は最早、気遣いから動いているものではないのだと知る。その触れ方の奥には、長谷部のいう‘欲’があった。

今まではそのように触れることをしなかった長谷部に、審神者は困惑せずにはいられない。長谷部は、態度は今まで通りで良いと言った。何も強いることはしないと。けれど審神者に対する態度も、言葉も、声も、視線も、何もかもが今までとは変わってしまっている。


それに気づいた審神者は、泣きたくなった。











長谷部が部屋を去っていった後。審神者は机に突っ伏すようにして、体中の力を抜いた。普段ならばやらないような行為だが、誰も見ていないのだからそんなことは気にしなくてよい、なんて。そんな、どこか投げやりな思考をしてしまう。


(体が熱い……唇も、肩も、手も。……ああ、あと、ぶつけた頭が痛い、背中も)


長谷部に迂闊な言葉を吐こうとして、畳に押しつけられた時。あの時は痛みよりも衝撃が勝っていたけれど、時間が経つと、痛みが輪郭を露わにしていった。ぶつけた後頭部に後ろ手で触れて確認する。こぶは出来ていないようだ。

刀剣達と然るべき距離を置くために、気を引き締めようと思った。
そう決意をしてから行動に移して、半日すらも経たない内に、越えてはならないと定めていた一線など容易く踏み越えられた。


(……長谷部に、あのように想われていたとは)


主である審神者に対し、恋慕の念を抱いている刀は薬研だけだと思っていた。長谷部が己を敬ってくれているとは思っていたが、あくまでそれは忠心の域を越えないものだと思っていた。過ぎるほどの忠心ではだったが、まさかそれが恋慕を伴うものであるとは。


『もしも貴方が、言葉を違えて他の刀剣から一振りの相手を選ぶというのならば、その時は――我慢などしませんよ。どんなことをしても、必ず貴方を手に入れます』


先ほどの出来事を思いだし、審神者は小さくため息をつく。長谷部は審神者が他の刀から一振りを選ばなければ、何もしない、そう言った。それはおそらく嘘ではないはずだと審神者は感じていた。
具体的な根拠といえるような理由はない。けれど、長谷部は、満足していたように見えたのだ。おそらくは、言葉を違えた瞬間に、審神者を好きなように出来る――言質をとったからだろう。


(安心したのだろうな。小狐丸のことを、随分と警戒していたから。……これは長谷部に限ったことではないけれど)


小狐丸は確かに周囲が誤解をするような振る舞いをする。今回は、それが起爆剤のように働いてしまった。今夜あたり、きちんと小狐丸にそのことをよくよく言い聞かせなければならない。

己は審神者である。審神者とは国のために生き、国のために人の生を捧げるために存在する。そう認識していた故に、己の気持ちなど関係なく、色恋に現を抜かす余裕など存在しないのである。

ましてや刀剣と、そのような仲にはなるなどもっての他だ。


(――問題ない。誰とも、そのような関係にならなければ、これ以上何かが変わるわけではない。だから、大丈夫だ。まだ、何とかなる)


言い聞かせるように、心の中で繰り返す。流されていない。流される予定もない。だから、大丈夫なのだと。


「主? 起きてる……よね? 入るよ?」


とんとんと、障子戸の縁部分を控えめに叩く音がする。清光の声だった。その声に審神者は机に突っ伏していた体を起こして、気持ちを切り替えるようにふうと息を吸った。


「ああ、構わないよ。おはよう、清光」


ゆっくりと開けられた障子戸が開いて、身支度を整えた清光が顔を出す。清光は審神者と目があった瞬間、嬉しそうにはにかんで、弾むような声で口を開く。


「おはよう、主」


その表情が好きで、審神者は小さく目を細めた。どうしてか、今ではその表情に眩しさまで感じてしまう。己の現状に対する罪悪感のせいだろうか。情けない姿を清光に見せてしまっているように思えて、審神者の胸に暗い気持ちが渦巻いていく。



「……? 主、なんか、元気なくない?」


部屋に入ってきて早々、清光ははにかんでいた笑みを引っ込める。審神者の異変に気がつくと、そばに寄って座り込んだ。そのまま両手の平で審神者の頬を挟み、目をのぞき込んでうんうんと声を漏らしながら観察する。


「熱いね……熱は少し、あるかな。隈とかあるわけじゃないし、寝不足とか疲労ってことはなさそう……頭とかお腹とかさ、痛いとかない? 寒気はする? 食欲は?」


審神者の表情から健康状態を読みとろうとして気遣う清光に、審神者は鳩が豆鉄砲を食らったような表情を浮かべた。


「……主? どうしたの?」


そうして、少しの間を置いて、審神者はふっと笑みをこぼした。先ほどまで抱いていた不安やもやついた胸の内が、すっと溶けていくような感覚を覚えたのだ。完全になくなったわけではない。けれど、幾分か楽にはなった。


「……お前には、敵わないな。清光」
「えっ、なに? 主、どうしたの?」


ふっと笑いながら言えば、清光は複雑そうな表情を見せる。審神者が笑ったことに対する喜びを含ませながらも、やはり審神者に何かあったのだと、その身を案じてるように見えた。


「清光」


頬に触れる手に、上から包むようにして触れる。そこから伝わる温もりに触れるだけで、張りつめていた気が和らいでいく。安堵して、審神者はゆっくりと清光の名を呼んだ。


「ん、なあに?」


清光は急かすこともなく、審神者の言葉を待つ。審神者のペースに合わせてくれる清光のこういうところが、審神者は好きだった。


「今まで、すまなかった。これからは、審神者として、お前たちの主として――ちゃんとする」


ちゃんとする。そうは言うものの、審神者には己がそれを実行できるのだという自信がない。そう思って行動に移した矢先に、先ほどの長谷部との出来事があったのだ。自信がある方がおかしいというものだ。


「……主、やっぱり、何かあったんでしょ? 良かったら話してよ。俺、役に立てないかもしれないけど、話を聞くぐらいは出来るからさ」


優しい声でそう言う清光に、審神者はじわじわと胸が温かくなってきて、つい、甘えてしまいたい衝動に駆られてしまう。話せる部分ならばある。けれど今は、とてもではないが話せないことの方が多い。審神者は余計なことを悟られぬように言葉を選びながら、間違いのないように、ゆっくり、ゆっくりと口を開いた。


「……審神者として、適切な距離を置くと決めたんだ。今朝、小狐丸にも話をした。仕事中は、部屋に入ってきてはいけないと……とはいえ、仕事中でなければ普段の通り甘やかすつもりではいるけれど……」


そうやって説明をしていくと、清光はきょとんとしていた。小狐丸を仕事中だけであっても部屋に出入り禁止にするといえば、小狐丸を疎ましがっていた清光は喜ぶことかと思っていた審神者は、その反応を少し不安に思う。


「え? それだけ?」


そう口にして、清光は不思議そうに首を傾げた。その淡泊ともいえるその反応に、審神者もつられてきょとんとしてしまう。


「ねえ、他に何かあったんじゃないの? よく分かんないけどさ、主、元気ない気がする。小狐丸を仕事中だけ出入り禁止にしたからって、そこまで凹むことじゃなくない?」


そうして言われた言葉に、審神者はぐっと言葉に詰まった。ずっとそばで近侍をしてくれていただけあって、清光は審神者のことを理解していたようである。目の前で己を気遣う清光に全てを話して協力をしてもらいたい欲がないともいえないが、それは出来ない。


「小狐丸がいないのは納得。どうせ、へそ曲げて出て行ったんでしょう? 仕事中は俺だって我慢しているのに、ずっと主とべたべたしてるんだもん。出入り禁止は俺も賛成! っていうか、遅いくらい! 遅いよ! 主! 遅すぎ!」


むにむにと頬を揉むように触れる清光の手の感触に、困り顔を浮かべる。少し耳が痛いけれど、けれどこの正直さが心地よくもある。審神者は少しだけ俯いた。


「……すまない」
「ま、いーよ別に。それより俺は、主が小狐丸以外のことで悩んでるように見える方が、ずっと気になる」


謝れば、清光は俯いてしまった審神者の顔を上向きに持ち上げると、心配そうに細められた目で審神者の目をのぞき込んだ。清光の瞳に己の顔が写り込んでいることが分かるくらいの距離であった。


「……ね。話してよ。それとも俺じゃ、役に立てないかな?」


寂しそうに見られてしまうと、審神者は弱い。その弱みを知っている清光は、こうやって審神者に自身の望む言葉を吐かせようとする。この行為も、また然りである。以前まではなし崩しにそれらを受け入れてはいたけれど、その弱さにつけ込まれてきた結果が今の己である。

審神者は清光の瞳に移り込む情けない己の表情を見ながら、その表情が更にくしゃくしゃに変化していく様を見た。


「――……清光。私は、駄目な審神者だ。何もかもが中途半端で、変わろうと思っても、変われない」


そうこぼせば、清光は悲しそうな表情を浮かべる。まるで、審神者の感じている痛みや苦しみを、共有しているかのように。慰めるように審神者の額に自分の額を重ねると、優しい声で審神者にささやく。


「そんなことないよ。主は頑張ってる。俺が言うんだから間違いないよ。俺はずっと主のそばにいたから、誰よりそれが分かってるんだよね」
「……そんなことは、」
「俺の言葉じゃ信じられない?」


言われ、小さく首を横に振る。その反応に、清光はふんわりと笑った。


「ねえ、話してみてよ。主。一番刀の俺を信じて」


そう言われた言葉に絆された、とでも言えばいいのだろうか。審神者は、清光の手に重ねていた手に力を入れると、ぽつりぽつりと、話せる範囲ではあるが、事情を話し始めた。





一年前の己の振る舞いという負い目のせいか、近すぎる距離にまできていた刀剣の気持ちを見誤り、適切でない距離をとってしまっていたこと。主従関係でおさまる関係ならば良かったけれど、それ以上の関係を望んでいる刀剣がいることを知ってしまったこと。

今更ではあるが、その状況をずるずると引きずることは出来ないと思ったこと。精算を、改善をしなければならない。だからこそ、その刀剣も、それ以外の刀剣とも、きちんと線引きをしようと思ったこと。

そう思って行動した矢先に、新たに主従関係以上を望む刀剣の存在を知ったこと。そしてその刀剣に、もしも他の刀剣と結ばれるようなことがあれば、己のことを好きにしても良いと言質を与えてしまったこと。

名前は出さない。ばれないように細心の注意を払い、特定されるような単語や情報は決して口に出すことはしなかった。

途中までは、清光は審神者のことを気遣っているのか、険しい表情を浮かべてはいなかったが、全てを話し終えた時――清光の表情はすっかり真顔になっており。口角を少しだけ吊り上げてはいるものの、それは笑みに含まれているとは言い難いものであった。


「――それで、俺は薬研と長谷部をシメてきたらいいんだよね?」
「っ――!?」


名前は出さなかった。特定されるような情報は何も口にしていない。それこそ、細心の注意を払ったのである。どうして第一声で、確認されることもなく特定されてしまったのか、審神者はショックを隠しきれず、また、清光の殺伐とした発言に慌ててしまう。


「っ、どうしてそれが――…」
「分かるに決まってるじゃん! 主に下心持ってる奴なんて限定されてるんだから! 俺のいない隙狙ってあいつら! もう絶対許さない!」
「そんな……――いや、そんなことはしなくていい!」


万が一にも、このまま部屋を出て行かれては困る。その一心で、審神者は清光の衣服を掴んで、皺がついてしまうことも厭わずにきつくきつく握りしめる。


「その必要はないんだ。誰ともそんな関係にはならなければ、何も問題はないのだから。だが――自分が情けなくて、気が落ちているだけというか……」


言えば、困ったように清光はため息をついた。


「主はほんっとーに、鈍いからね。でも、そんなことは皆分かってるし、分かってて、そんな主のことを好きになったんだからさ。主がそうやって気を落とすことなんてないんだよ? 主が鈍くて押しに弱いって分かっててやってるんだから、タチが悪いのはあいつらなの! 放っておいていいよ!」


ぷんすかと怒りながら、清光は、唇を尖らせるようにしてそう言い放つ。そうして少しの間を置いてから、少しだけ寂しそうに表情を軟らかくさせた。


「でも、そっか……主はそう決めたんだね」


そう呟いて、清光はゆっくりと審神者の頬から、両手を離した。離れていってしまった温もりに、審神者は寂しさで目を細めてしまう。同時に、清光の衣服を掴んでいた審神者の手も、離れていった。そんな審神者の反応を見下ろしながらも、清光は審神者から距離をとった。


「なら、俺も主に従うよ。俺は主の一番刀で、近侍だからね。主の心も気持ちも理想も、全部全部、守るからさーー安心して、主」


その先で、精一杯の笑顔を浮かべている。心からではなく、作られた偽りの、精一杯である。審神者にはそれが、手にとるように分かった。

だからこそ、それが堪えてしまった。


「俺の‘好き’は、主が俺に向ける‘好き’と同じだからね。主に恋愛感情なんて持たないよ!」
「っ――…」


そして、その言葉はどうしてか、深く審神者の心に突き刺さった。胸が痛い。衝動的に、清光に抱きついて、泣きついてしまいそうになる。先程の言葉を撤回して欲しい、撤回させてほしい。そんなことを懇願したくなる。清光に言わせてはいけない言葉だと思ったのだ。同時に、清光から聞きたくなかった言葉であるとも。

審神者は泣きそうに表情を歪めて、清光にその顔を見られたくないと、下を向ける。己の膝をじっと見つめながら、審神者はどうしてこのような気持ちになってしまうのか、その理由から必死に目を逸らしていく。考え込んではいけない、気づいてはならない。


「すまない、清光。……すまない」


繰り返し紡がれる謝罪に、清光は何を思っていたのだろう。清光から目を逸らしていた審神者には、分からなかった。

ただ清光は審神者の頭を慰めるようにぽんぽんと手の平を乗せると、強がるような声で続けた。


「大丈夫だよ、主。何も心配ないからさ」


それが強がる声だと分かっていて、清光にそれを止めさせることが出来なかった。審神者は清光の顔を見ることも出来ず、それ以上何と声をかければ良いのかも分からない。

ただ頭の上に置かれた手のひらに甘えていた審神者は、いよいよ己の矮小さに嫌気が指した。誰も傷つけずにスマートに解決する術も身についていない己に、うんざりして、けれど最善の方法も分からず、良かれと思ってとった言動も裏目にでる。そんな己を守ってくれると言う清光の心境は予想がつく。それでも、その痛みを払拭するために動くことが出来ない醜い己を、それでも清光は支えてくれると言う。

清光に、触れたくなった。


もしも、誰か一振りを選ぶ日が来るのなら――



けれどその時、長谷部の言葉が、警告のように脳裏を過ぎる。
審神者はぐっと唇をとじ合わせて、何もしなかった。

清光の、甘さにつけ込んだのである。





(ああ、清光は、私のことを――……)


その先の気持ちには、蓋をした。知らなくて良いことだ。知ることを、しなくても良いことだ。
審神者として生きる己には必要のないことなのだと、そう割り切ってしまわなければならない。

清光のためを思うのならば、早く決着をつけなければならない。審神者は、ある決心をした。











解決しなければならない問題は、まだまだ残っている。
とりあえず、目先の問題としては――薬研とのことを解決しなければならない。

といっても、難しいことはない。薬研に課していた、審神者の部屋への出入り禁止を解くこと。そして、薬研の気持ちには応えられないとはっきり断ること、その二つだけである。けれど、出入り禁止を解くことはともかく、後者は必ずしも必要なのかどうか、審神者はそこを悩んでいる。というのも、既に薬研の告白を審神者は断っているからだ。主として、審神者として、刀剣とそういった関係にはなれないと既に伝えているのである。


(私からの返事は何も変わらない……こちらから何度も断る必要などないだろう。だが、あの時の薬研は、諦めたようには見えなかった。ならば期待を持たせるような真似をするよりは、今一度返事をした方が良いのかもしれない)


出来ることならば、傷つけたくはない。何事もなかったように、以前のような関係になることが出来るのであれば、おそらくそれが最善だろう。だが、とても、薬研という刀剣が素直にそれに甘んじてくれるとは思えない。

相手が審神者であろうと主であろうと、隙を見せれば深く懐に潜り込まれてしまう、踏み込まれてしまう。薬研藤四郎とは、そういう刀である。


(……薬研のあの目は、苦手だ)


薬研と長谷部が同じ恋慕という感情を審神者に向けているとして、その想いが全く同じ形をしているとは思えない。己でも馬鹿げていると感じるものの、審神者はどうしてか、薬研に熱を浮かせた目で見られてしまうと、心の奥底まで見透かされてしまったような、隠しているものを掌握されてしまっているような、そんな気がしてしまうのだ。

審神者としてあるまじき失態ともいえるそれを恐れたのだろう。だからこそ審神者はあの時、咄嗟に薬研に出入り禁止を申しつけたのだ。それに気づいたとして、今、それがどうということもないのだけれど。



そんなことを考えながら移動していると――目当ての部屋の前にたどり着く。そこは、薬研が主に医療に関わる薬や書物を保管している部屋である。薬研はこの部屋にいることが多いらしい。それを知っていた審神者は、刀剣達の目を盗んで、ここまで来たのである。協力してくれると言ってくれた清光にさえ、ここに来ることは告げてはいない。

薬研の元へ行くと言えば、きっと止められただろう。それか清光を伴わせるように言われるかのどちらかである。それは避けたい事態だった。話がややこしくなってしまう。審神者はあくまで一対一でこの件を解決したかったのである。


(すまない、清光)


席を外した隙をつくようにして、ここまで来てしまった。それを清光に心の中で謝罪しつつ、審神者は目の前にある襖に手をかけた。この中に薬研がいるかどうかもわからない。けれど、心臓は忙しなく動いていた。

もしも薬研がこの部屋にいなければ、それまで。
だが、もしもこの部屋に薬研がいたのであれば、その時はきちんと話をしよう。否、話をしなければいけない。
きちんと薬研と向き合って、その上で、終わらせなければならない。


「……入るぞ」


そう言って、ゆっくりと襖を開く。深く考えずに、返事を待たない内に入ってしまった部屋の中を見渡すと、そこには薬研の姿があった。声をかけようと口を開きかけた審神者は、けれど薬研の様子がおかしいことに気づいて口を閉ざす。

部屋の中、沢山の書物が詰まっている棚のそばで、薬研は書物に囲まれて静かに寝息を立てていた。その周囲には読みかけのような書物が散乱しており、本に埋もれているという表現がしっくりくる光景であった。


(……寝ているのか…?)


驚いて、審神者は小さく目を丸くする。不在の可能性は考えていたが、まさか昼寝をしているとは考えていなかった。咄嗟の判断で薬研を起こさぬように静かに中に入ってから襖をしめると、昼とはいえ、部屋の中は少しだけ薄暗くなった。

そっと薬研のそばに寄って、静かに隣にしゃがみ込む。開いた状態の本を胸の上に置いて目を瞑っている薬研は、確かに眠っている。そのあどけない寝顔を見ると、とてもあのような形で審神者を振り回しているとは思えないのだから不思議である。


(……起こすのは、忍びないな)


そんなことを思いながら、音を立てぬように審神者は散らかっていた書物を退けてスペースを作る。そうして薬研の横に腰を下ろすと、静かに薬研の顔をのぞき込んだ。寝顔は可愛らしいというのに。という言葉は飲み込んだ。

下手に起こすのは可哀想だと思えば、出直すことが一番なのだけれど。出来るだけ早く出入り禁止を解いてやりたい思いが、それを躊躇させてしまう。


(少しだけ、待ってみるか……)


そう決めて、審神者は近くにあった書物を手にとった。そうして開けば、中には医学に通ずる内容がずらりと並んでいる。小難しい単語が並んでいるそれは、最早審神者でもよく分からない内容である。刀剣男子である彼等には人の身に対する医療など何の役にも立たないというのに、薬研はとりわけ人の身に使える知識を欲しがった。

それが何故なのか不思議に思うほど、審神者は鈍くはない。


(……私の為、だな)


一度、審神者がまだ刀剣達と距離をとっていたとき、薬研に直接書物を強請られたことがあった。顕現して人の体を得た以上、その分の知識が欲しい。得た知識は本丸にいる刀剣達にも役立つことがあるだろうし、何よりそれは審神者にとっても利益になるはずだ。もしもの時の備えは、あればあるだけ良い、と。審神者に強請るというよりも、説得しにきているといった方が適切だった。

審神者はそれを受け入れた。断る理由はなかった。学ぶことは良いことだ。すぐに書物を用意して、他に欲しい書物があれば清光を通して要望を出すようにと伝えた。以降、清光から薬研の欲しがる本を聞いて用意はしていたが、直接薬研と書物についての話をしたことはない。

小難しい内容の書物から、視線を薬研の寝顔に移す。そっと、指先で頬にかかっていた髪の毛を避けながら、審神者はふと、考える。結局、審神者はこの一年で怪我らしい怪我も病気らしい病気もしたことはなかった。以前の夜伽騒動でようやく、薬研の手を借りたくらいである。


(……あの時から想われていたのだろうか? いや、まさかな。……なら、一体いつから……)


いっそのこと、病気にでもかかっていれば、もっと早くに薬研の気持ちに気づくことが出来たのだろうか。そんなたらればを考えてしまいそうになる。


「……すまない、薬研」


薬研に届かないことは承知の上で、審神者はそんな謝罪の言葉を口にする。尚更、審神者への恋愛感情を断ち切る必要があると、そう感じた。


「それは何に対しての謝罪だ? 大将」


届かなかったはずのその言葉に、返事があった。薬研の唇が動いて、そう紡ぐ瞬間を見た審神者は、静かに目を丸くした。息を呑んだ審神者の視線の先で、薬研はゆっくりと瞼を開けると、薄い唇で綺麗な弧を描いた。


「……や、げん」


戸惑いながら名前を呼ぶ。そんな審神者に、薬研は慈しむような優しい眼差しを向けていた。


「すまない…起こしたな」
「いいや、狸寝入りだ。気にすんな」
「? そう、なのか? どうしてまたそんなことを……」
「寝込みでも襲ってくれるのかと思ってな。残念だ。期待していたんだが……」
「…っ、馬鹿なことを言うな」


茶化すように言った薬研は、ゆっくりと体を起こすと、器用に散らかった書物を退かしながら胡座をかいた。その前に正座をし直して向き合うと、審神者は早速、この部屋に来た本題に入ろうとする。

けれどそれよりも先に、薬研の方が口を開いた。


「そろそろ来る頃だと思ってたぜ、大将」


静かに口にするその声からは、喜びと悲しみ、そのどちらとも分からない色を感じる。何を考えて、何を思っているのか、審神者にはそれが分からない。


「……遅くなって、すまない。出入り禁止を解きに来たんだ」
「ああ。了解した」


あっさりとそう返事をした薬研に、審神者は呆気にとられてしまう。薬研が何か言葉を続けるのではないかと身構えてはいた審神者は、困惑を隠せないでいる。


「……ん? どうした、大将。まだ何かあるのか?」


そんな審神者の反応に、薬研も不思議そうな顔をする。用件はもう済んだだろう、そういった感情が表情に出てきている。審神者はぱちぱちと瞬きをして、それから、目を伏せて、身構えるように唇をとじ合わせる。

淡々とした薬研の反応は予想外であった。そんな反応から、審神者はもしかして、とある考えが頭を過ぎったことを意識した。


(……私が思っているほど、薬研は私のことを好いているわけではないのだろうか?)


簡単に話が済むとは思っていなかった。説得にせよ、断るにしても、時間はかかるだろうと。構えて、警戒していたにも関わらず、あっさりと受け入れられたことに、審神者は動揺を隠せなかった。

次に訪れるのは自己嫌悪である。まるで、最初から薬研を疑っていたようなものではないか、と。審神者は、眉間にしわを寄せた。


「……大将? どうした?」


審神者の反応を怪訝に思ったらしい薬研にそう聞かれもするものの、素直に言えるわけがない。審神者は言葉を放ちかけて、また閉じる。そんな審神者の反応に思うところがあったのだろう薬研は、ふっと笑った。


「別に、今まで通りでいいぜ、大将」


まるで審神者の考えていることなど分かっていると、そう言われているようだった。審神者は小さく目を見開いて、胡座をかいた膝の上に手を置いている薬研のことをじっと見やる。


「本音を言えば、今すぐにでも大将を俺のものにしたい。だが、無理強いはしねえよ。とって食うような真似もな。だから、まあ、そうだな。大将がやりやすいようにやってくれや」
「……薬研」
「つってもな、ちょっと強引に迫るくらいは良いだろ? 審神者だから主だからと建前があるようだが、大将自身が俺を拒んでいるわけじゃねえ」


そっと、薬研の瞳が楽しげに細められる。その視線にぞくぞくとしたものを感じ、審神者は思わず目を逸らしそうになった。


(駄目だ、やはり、言わなくては……)


けれど、逸らしてはならない。逃げてはいけない。
万が一も、何もないのだ。望みなど、決してない。己が刀剣とそのような関係になることなど、生涯ないのだ。そう言わなければならない。審神者は唾を飲み込んで、そうして、ゆっくりと唇を開いた。


「……薬研。駄目なんだ。私は、誰とも、そんな関係にはなれない」
「それはもう聞いたぜ、大将」
「私の意思は変わらない。……どうか、諦めてくれ」
「断る」


審神者の願いをきっぱりと断って、薬研はすっと笑みを引っ込めた。


「俺が大将へ向ける気持ちは、俺だけのもんだ。いくら相手が大将だろうと、この気持ちを誤魔化すようなことはしてやれねえ」


そうして真剣な表情でそう言って、薬研は、一拍の間を置いてから、真っ直ぐと審神者の目を見つめた。


「――諦めて、俺を好きになれ。大将」


俺が諦めるよりも、その方が手っ取り早いぜ。なんて付け加えて、薬研はにいっと笑う。その瞳は揺らいでいない。審神者の返事に心変わりした様子もない。その真っ直ぐな視線は、今の審神者にはことさら痛かった。


(いっそのこと、言ってしまうか?)


もしも仮に薬研のことを好きになって、薬研を選んだとしたら。そうなれば、審神者は無条件で長谷部のものになる。長谷部の望むままに、持っているものすべてを捧げることになると。審神者に想いを寄せているというのであれば、それだけの事実があれば審神者とどうこうなろうと考えることはしないかもしれない。


そんな考えが頭を過ぎるも、それを実行には移せない。
何が火種になるか分からない今、迂闊なことを口にするべきではない。


(――清光にも、すぐにばれてしまったというのに)


薬研はとにかく頭が回る、賢い刀だ。名前を出さずとも、状況を把握するかもしれない。そうなってしまえば、審神者への好意を隠そうとも押さえ込もうともしていない薬研が、どのような行動にでるのか予測がつかない。


「……困るんだ」
「ああ。困らせている自覚はあるぜ」


遠回しに薬研の気持ちを断っても、薬研はそれをのらりくらりと交わしてしまう。審神者は薬研の気持ちに応えることはないとはっきりしているが故に、今ここで、薬研の心変わりを望んでいた。だが薬研の言動からするに、どうにも、引くつもりはないらしい。


(これも、私のはっきりしない態度が原因か……)


審神者として、主として。その免罪符のような言葉が、薬研に希望を持たせてしまっているのだ。審神者はそれを自覚しているものの、薬研自身を恋愛対象として見ていないという言葉を吐くことは出来ずにいた。そもそも、恋愛対象など、最初から審神者には存在しないのである。今の今に至るまで、そのようなことは考えたことがなかったのだから。

色恋に興味はない。それも、審神者としての欠陥を持ちたくなかったから。欲に駆られて、刀剣を蔑ろにする審神者に決してならないと決めていたからだ。であるならば、嘘の理由を告げてまで、わざわざ薬研を傷つけたいとは思わなかった。だが審神者のそんな考えが、この状況を作り出している。

出来ることなら、主である立場の審神者とは恋愛関係は成り立たない。そういった認識で、審神者への気持ちを断ち切ってほしい。そんな思いが先行してしまった審神者は、ぽつりと、故意にある言葉をこぼす。


「薬研……お前のそれは、本当に恋愛感情か? 本当に、それは相手が私でなくてはならないものなのか?」


その審神者の言葉に、薬研は表情を変えないまま、ただ、静かに目の色を変えた。薬研藤四郎を取り巻く雰囲気が、鋭くなったことを肌で感じ取る。

薬研の気を損ねてる自覚は、審神者にもあった。


「……何が言いたいんだ?」


声が荒くなっているわけでない。感情が高ぶっているようにも思えない。けれど、確実に気を悪くしている。


「……通常、審神者の霊力をもって人の身に顕現した刀剣は、審神者に対して好意を持ちやすい。同じ霊力を身に宿す者が相手ならば、敬愛の気を恋愛感情と勘違いすることもあるだろう」


失言である。それを分かっていながらも止めることをしなかった理由は、たった一つである。

応えられない気持ちならば、断ち切ってくれた方が良い。長谷部との約束を交わしてしまった今、どんな出来事が薬研との間にあろうとも、薬研と関係が変わってしまうことは万が一にもないからだ。ならば、希望など早い内に消えてしまった方が良い。

審神者の失言に怒って幻滅して、薬研の方から気の迷いだったと思われる方が、ずっと良い。審神者にとっても、薬研にとっても。そうすれば、薬研は怒りの矛先を審神者に向けるだろう。悲しみもあるかもしれないが、それはいつしか消えるだろうことである。


「薬研。お前のその気持ちは、恋愛感情ではない。だろう?」


挑発するようだと思う。実際、挑発しているようなものだった。審神者は、薬研に言わせようとしている。薬研が審神者に向ける気持ちがなんたるかを知っていながら、傷つけるようなことと自覚していながら。期待を持たせて傷つけるより、その方が良いなんて考えながら、酷い言葉を吐き出している。


「そうだと言ってくれ。薬研」


そう言う審神者の胸も酷く苦しく、痛みを伴った。けれど審神者の口からこのような言葉を聞いている薬研の気持ちを思えば、審神者の抱える痛みなど、痛みと呼べるものではないのだと容易に想像がつく。薬研の瞳に浮かされた怒りの感情を一心に肌に感じながら、審神者は堪らず、目を伏せた。


「冗談も大概にしな、大将」


そうして言われた薬研の言葉は、ひどく鋭く。激情に駆られたその声は、まるで審神者の心に直接刃をたてているかのようであった。それを甘んじて受けると決めた審神者は、そのまま薬研に謝罪することもせずにいた。引くつもりはない。

むしろ、


「……お前は勘違いをしている。私は、刀剣を恋愛対象として見ることなどない。お前とどうにかなることはないよ。――それに、お前のその気持ちは、相手が私でなくても良いものだ。私でない他の者に向けるべき気持ちだ。主に対する親愛を、お前が恋愛と勘違いしているだけの――」


言い掛けた言葉は、乱暴な音で遮られる。薬研の拳が、審神者との間にある畳の上に叩きつけられた音である。畳からその衝撃が足を通じて伝わってくる。微かに、部屋全体も揺れたような気がした。

このような反応も覚悟の上としても、その薬研の反応に、審神者は思わず息を呑んでしまう。



「その辺にしとけ。それ以上は、聞き流してやれんぞ」


そう言い放つ薬研は、今にも、鯉口を切りそうな雰囲気だ。審神者の望む通り、怒りに震えて整った顔を歪ませている。そんな薬研を前にして、審神者は、覚悟を決めるように唾を飲み込んだ。


「――私を想う時間が報われることはない。ならばその気持ちは、持っているだけ無駄なものだ。他の者を好きになってくれ――それが、お前の為になるだろう」


審神者へ気持ちは勘違いだったとし、諦めてほしい。それを薬研に了承させたい審神者は、薬研の忠告を無視して、踏み込んではならない場所へわざと足を踏み入れているのだ。
自覚はある。自覚しておきながら、審神者はそうしているのだ。そうしなければ、きっと今以上に、薬研を傷つけてしまう。傷つくことが必須ならば、せめて、傷を小さくしてやる方が良い。


「……お前との間にあったことは、なかったことにしよう」


思わせぶりなことは出来ない。傷つけないために、傷つける矛盾した行為をする己が嫌で嫌でたまらないと思った。それでも、そうせずにはいられない。薬研が審神者に向ける気持ちを、出来ることならば他の者に向けて欲しい。そうなれば、その先には薬研の幸せがあると信じて、心を鬼にするのだ。

例え、それで薬研の怒りを買い、憎まれたとしても。

薬研の指先が、審神者にのびる。それは審神者の胸ぐらを掴んで、薬研の方へと乱暴に引き寄せた。咄嗟に畳に手をついて、審神者はけれど薬研から逃げるようなことはしなかった。手を振り払うことも、抵抗することも、何も。


「……自分が何を言っているのか、分かってんのか?」
「ああ。分かっている」


分かっているからこそ、質が悪い。審神者は自嘲するように目を細めて、静かに唇を開いた。


「殴られる覚悟も出来ている。お前の気が済むように、してくれ」


それで薬研の気が済むとは思っていない。精々、憂さ晴らしが出来る程度のこと。けれど、それで、少しでも薬研が審神者への気持ちに何らかの決着をつけてくれるのであればと。そんな期待を浮かべる。


「――本当に、酷いな、大将」


一発か、二発か、それ以上か。気を失ってしまうまで殴られたとしても良いと素で思ってしまうほど、審神者は罪悪感を覚えていたのだろう。怒りの中、悲しみに揺れる瞳を見つめたまま言った審神者に、薬研は、本当に悲しそうに口にした。


「すまない…」


これから来るだろう痛みに気を構えていたものの、薬研から痛みを与えられることはない。薬研は審神者の胸ぐらから手を離すと、座り直して、自嘲するような痛々しい笑みを浮かべた。


「――…フラれちまったな。嫌われたもんだ」
「嫌ってなどいない。ただ、私が審神者である以上は、どうしようもないことなんだ」


決して、決して薬研を嫌いなわけではない。他の刀剣達と同様、審神者にとってはかけがえのない存在である。生みの親の顔も名前も知らず、物心をついた時から国の管理下にいた審神者は、家族を知らない。けれど審神者になって、多くの刀剣を人の身に顕現して――現在。

全ての刀剣を大切に想っている。
戦いに赴かせながら、傷ついて欲しくないと願う矛盾した気持ちは、その証拠だと言えるだろう。


「私の命は、審神者として歴史を守るために存在している。色恋に時間を割いてはいけない。それは審神者には、不要のものだからだ」


歪んでいると、言われても仕方ないかもしれない。
どんな感情であれ、情が湧いてしまえば困るのだと危惧した一年前までの己の行動は、決して、何から何まで間違っているわけではなかったのかもしれない。そんなことをちらりと考えて、今はそんなことを考えている場合ではないのだと思い直す。


「償いならば何でもする。だが、応えることは出来ない」
「狡い言葉だな」


嘲笑、という言葉がよく合う笑い方だった。審神者は返す言葉もなく、静かに唇をとじ合わせる。


「無理矢理組み伏せるのは簡単だ。俺は刀で、大将は人だからな。傷つけようと思えば、次の瞬間にでも、大将はその畳の上で倒れているだろうな。だが、主でもある大将に、そんな真似は出来ないし、するつもりもない。俺の名の由来がなんなのか、忘れたとは言わせねえぞ。なあ、大将――アンタの言う、償いってのは具体的に何のことなんだ」


すっと細められた瞳。審神者はどきりとして、眉間にしわを作る。


(……そうだな。薬研という刀が、傷つけて満足する刀ではなかったと、知っていたはずなのに)


馬鹿げたことを言ってしまった。そう考えて、審神者は膝の上に拳を作って、それをぎゅっと握りしめた。


「お前の希望を、出来る限り叶えたいと思っている」
「へえ、そりゃあ有り難いな。その希望とやらは、何でもいいのか?」
「……私に、出来ることならば」
「ふうん。そうか」


何でもないように口にしながら、薬研はこともなしに口を開く。


「なら、アンタを抱かせてくれ」


まるで、挨拶をするような気安さで。審神者はぐっと息を呑んで、聞き間違いでもしたのかと思ってしまう。薬研がそんな要求をするなど、と一瞬考えたものの、審神者はすぐに薬研の意図に気がついた。

薬研は真剣というより――何かを推し量っているかのような目で審神者のことを見ていたからである。それに気づいて、審神者は少なからず動揺を隠せなかった。それでも、平静を装うとする。


「……私は男だよ。抱いても、良いことは何も……」
「それは、俺の決めることだ。大将の決めることじゃない」
「………」
「償いたいんだろう? 大将。出来ることなら何でもすると、その口が言ったんだぜ。ついさっきのことだ。忘れたか?」


そっと、審神者の顎に指先を当てて、自身の顔に向けさせる。言葉に詰まって何も言えずにいる審神者のことを、薬研は真っ直ぐと見つめていた。印象は変わらない。薬研は、審神者の反応を伺っている。審神者は、返事を間違えてはいけないのである。


「どうなんだ、大将」


賢い刀だ。審神者の言葉よりも、審神者の言葉を吐くに至った背景を探ろうとする。それを察した審神者は、慎重にならざるを得なかった。


「……それは、出来ない」


静かに、けれどはっきりと拒絶する。心は許せないけれど体だけは、などと、口にするわけもない。断る以外など選択肢など、存在するわけもない。


「それはつまり……この本丸の刀剣から、一振りを選ぶということだろう。私は、刀剣の中から一振りを選ぶつもりはない。皆、大切な私の刀だ。全員が特別で、その中で優劣も特別も、作ってはならない」


まるで、己に言い聞かせるように。

清光の存在が頭に浮かぶ。清光にあそこまで言わせてしまった審神者が、加州清光という刀を差し置いて、薬研を――他の刀を選ぶことなどありえないのである。


「今お前に抱かれるということは――今後、他の刀剣にも求められればその都度応じるようになるということだ。薬研、お前は、それでも良いのか?」


今度は、審神者が薬研の様子を、気持ちを、伺う番である。薬研は審神者が他の刀にも抱かれるだろうといった意味合いの言葉を吐いた瞬間に、一等鋭く目を吊り上げた。

審神者は思う。もしも薬研がそれでも良いと言ったのならば、この本丸において風紀など何の意味も為さないものになるだろうことを。


「させるかよ、そんなこと」


吐き捨てるように紡がれた言葉。審神者は目を伏せて、そうか、と呟いた。もしもこの場でそれでも構わないと答えられていたら、などと考える余裕はなかった。今更になって、己の迂闊さを恐ろしく思う。一種の、賭けのようなものだったのだ。内心、ほっとする。


「なら、納得してほしい」


説得は難しいことだ。相手が薬研ならば、なおのこと。審神者は静かにそう口にして、肩を落とす。話は一段落ついたのだと、そう感じた。けれど、薬研はそんな風には思っていなかったらしい。


「――はっ。馬鹿を言うな、大将」


色々な薬研の反応を予想していた。怒り、非難、失望。そんな反応だろうと。けれど薬研の反応は、その予想とは離れていた。

――薬研は、口角を吊り上げていた。
その笑みは、先程まで浮かべていた怒りの感情を微塵も感じさせない。本当に怒りを覚えていたのだろうかと不安になってしまうほどに、薬研は雰囲気をがらりと変えてしまっていた。


「薬研、」


目を丸くして、審神者は戸惑いを隠せないまま薬研の名を紡ぐ。どうしてここで薬研が笑みを浮かべるのか、さっぱり理解ができずにいた。


「生憎と、物分かりの良い刀じゃないんでね」


顎に置かれた指が、審神者の腰に回り、薬研にそのまま引き寄せられる。畳に手をついてバランスをとっていた審神者は、前のめりになるように薬研の胸に体重をかけるように移動させられた。ついには両膝を畳につくような形で、薬研の胸に飛び込むような形となった審神者は、ただただ、目と鼻の先にいる薬研に怪訝な目を向けるのだ。


「人だろうが刀だろうが、他じゃあ意味がない。大将――アンタだけだ。この身が折れてしまうその日まで、俺はアンタを想って生きていくと決めている」


吹っ切れたような口調。先程の怒りは演技だったのかと、そう疑ってしまうほどの変化だった。審神者は何が何だか分からぬまま、薬研の話に割って入ることも出来ないでいる。


「――愛している。諦めろだなんて、言うだけ無駄だぜ。大将の為に刃生を捧げると決めた俺の気概を汲んでくれ。何度でも言うが、俺じゃなく、大将が諦めるんだ。俺に惚れられたのが運の尽きだってな」


至近距離で覗かれる瞳。審神者が最も苦手に思う薬研の、全てを見透かしたような目であった。


「……だから、私は、」


背筋がぞわぞわとする。この流れはまずい。非常にまずい。危機を察知した審神者は、薬研から距離をとろうとする。だが、そんな審神者の行動も予想できていたらしい薬研は、笑みを崩さないまま、ぴったりと自身の胸に閉じこめるように審神者を抱きしめた。畳から手を離して薬研の胸板を押すも、びくともしない。

審神者は、冷や汗がこめかみを伝っていく感触に震えた。


「もう我慢は無しだ。今この瞬間から――俺はアンタを全力で口説いていくと決めた」


そう言って、薬研は審神者の首筋に唇を当てて――思い切り噛みついた。いつか噛まれた時とは比べものにならない痛み、深く深く、皮膚に食い込んでいく感触。


「っ……! 薬研!」


やめるように、との意思を込めて名を呼ぶ。だが、薬研が素直にやめることなどない。このまま皮膚どころか、肉まで食いちぎられると想像した審神者は、痛みと逃げ出すことの出来ないこの状況から、なんとかしなければと必死に逃れようとする。審神者の声にも反応せずむしろ痛みを強くしていく薬研は、審神者を逃がすつもりはないと意思表示しているように思えた。

動けば動くほど、痛みは増していった。


「くっ……や、やげんっ」


その間にも、ぎちぎちと、歯が皮膚に食い込んでいく。目がチカチカとして、審神者は薬研の胸を全力で押し返そうとする。けれどそんな審神者の抵抗をあざ笑うように、尚も痛みは審神者の首に食い込んでいく。


「っ〜〜」


じわりと、視界が潤んでいく。愛しているという言葉とは裏腹に、薬研のとっている行動は真逆である。


(愛しているなど……憎んでいるの間違いじゃないのか……)


確かに、薬研から向けられるだろう怒りは受け入れる覚悟だった。それで、薬研が気持ちを切り替えることができるのならば、と。あれだけ冷酷な言葉を吐いた審神者に、それでも口説いてくるとは思ってもみなかった。例え薬研が諦めずとも、こういった行動に出ることは予想していなかった。


(せめてこれが、報いだというのならば……)


これで薬研の気持ちの整理がつくというのであれば、おそらく、この痛みにも耐えただろう。けれど、薬研は好意を告げた上で審神者に痛みを与えている。それが審神者の覚悟を揺るがせているのだ。この痛みを受け入れることが、今の薬研にとってどのような意味をもつのか、審神者には判断がつかないのである。


「あーあ。もうこれは隠せねえな、大将」


ようやく解放された首に吐息をかけながら、挑発するような口調で口にする。解放されたとはいえ、痛みがすぐになくなるわけではない。じくじくとした痛みに表情を歪めて、審神者は混乱を極めた脳で現状を把握しようとする。


「――さて、これを見たら他の奴はどうするかな」


その言葉に、背筋が凍る。以前は隠し通した。それは近侍である清光も、長谷部も、目の前にいる薬研も、隠すことに協力をしてくれていたからである。けれど、今回はどうだろう。あのようなことがあったばかりだというのに、清光も、長谷部も、手を貸してくれるだろうか。


(……そんなこと、あるわけがない)


血の気が引いていく感覚がする。

薬研の狙いがぼんやりと見えてくる。輪郭を少しずつ明確になっていく一つの予想に、審神者は呆然としていた。


「……っ、」


ようやく、薬研の拘束が緩む。薬研は審神者から少し距離を離し、顔をのぞき込んだ。その目は審神者には冷ややかなもののように感じられた。

ふっと、小さく笑う気配があった。審神者は微かに震える指先で薬研の白衣を強く握りしめる。口には出せない非難の感情を、代わりに指先に込めるように。

髪をかき分けるように撫でていく手つきの優しさとは裏腹に、薬研は審神者に対して容赦がなかった。


「腹を決めろ、大将」


それから、両手で包むように頬に触れられた。


「誰も彼も、アンタを逃がすつもりなんてないんだぜ。誰も選ばず平等になんて、土台無理な話だ」
「薬研――どうしてっ…」


その言葉が言い終わるか終わらない内に、一瞬唇と唇が重なる。そうして触れるだけの口づけはあっという間に終わった。


「わ、私は、誰とも――」


小さな抵抗だと感じつつも、審神者はそれでも足掻こうとする。諦めてはなるものかと審神者は声を張って、そう言い掛けた。けれど最後まで言うことも出来ずに、再び薬研に塞がれた。今度は触れるだけに留まることなく、すぐに熱い舌が唇の間を割って入ってこようとする。慌てて唇をとじ合わせようとするも遅く、いとも容易に口内への進入を許してしまった。

審神者の放つ言葉など必要ないのだと、そう意思表示されているようであった。
最初に感じたのは鉄の味。己の首から多少なりとも出血があるのだろうと、審神者は頭の片隅でそんな理解をする。


「んっ、んうっ……」


体を離そうと背筋を後ろに反らす。けれどそれを利用するように、薬研は審神者を押し倒すように体重をかけてしまう。あっという間に畳に背をついてしまった審神者は、もう後方に逃げることは叶わない。けれど既に薬研藤四郎は上に覆い被さっているのだから、他の方向へ逃げることも出来ない。逃げ場がなくなった審神者の頭は真っ白となり、最早抵抗できているのか分からない指先で薬研の白衣をくしゃくしゃに握りしめることしかできない。

逃げようとしても追いかけてきて、強引に舌を絡められる。審神者には思考を働かせる余裕もなく、まともな抵抗も出来ないまま、翻弄されっぱなしだった。じゅっと舌を吸われて、背筋が仰け反る。微かに漏れる吐息と嬌声ともとれる声が部屋に響き、審神者の耳には、いやに水音が響いていた。


(どうしてこんな……どうして……)


わざとそうしているのだろうと思った。薬研はその卑猥ともいえる乱暴な水音を、審神者の耳に入れたがっているのだと。目を覆っていた水膜からは、生理的な涙が溢れて横に伝い落ちていく。本当にそれが生理的な反応から流れ落ちるものだったのか、それとも、その他の感情から流れたものだったのか、審神者には判別がつかなかった。
歯列をなぞるように舌先を滑らされ、口蓋をなぞられると、力が抜けていく。そのタイミングを狙ったかのように、唇が一度離れていく。けれどすぐに唇は重なって、今度は啄ばむような口づけを何度も繰り返された。

そうして、ようやく解放される。

ゆっくりと顔を離されて、審神者の目をのぞき込み、薬研は審神者の目尻を優しく拭った。息が乱れて、言葉が出てこない審神者を、酷く扇状的な目で見下ろしている。その表情に、主である審神者への反抗ともいえる行為を後悔している様子は微塵もない。


「……後悔はさせない。俺を選べ。大将」


唾液で濡れた自身の唇を舌でなぞってから、真剣な表情を浮かべて、薬研はそう告げた。その大人びた表情に、迷いのないその瞳に、本能的に逃げられないのだと察する。少なくとも、審神者への気持ちを断ち切ってほしい、割り切ってほしいなんて希望が叶うことはないのだと。

自身が噛みついたことで刻み込まれた跡を、薬研は確かめるように指でなぞり上げた。指で触れられたところから、また皮膚を破られるような痛みが突き刺してくるようだった。


「まあどのみち、これで嫌でも、誰かしらを選ばなきゃならんだろうな」


まるで他人事のように、ぽつりと呟く。
そんな薬研を、審神者は呆然と見上げていた。

薬研は、獲物を捉えた獣のように、こんなにも獰猛な目をしていただろうか、と。頭の片隅でそんなことを思う。





「逃がさねえよ、大将」



薬研は、挑発するようにそう言った。

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