キッと眉を吊り上げる。怒りよりもずっと、この現状を迎えてしまったという事実に、気を抜いたらすぐに表情が崩れてしまいそうだった。

既に審神者として、主としての威厳などないに等しいのかもしれない。けれど、だからといって、ここで取り乱してしまうことは出来ないと、その感情こそ最後の砦であるかのように、審神者はぎゅっと唇をとじ合わせるのだ。

未だ審神者を押し倒しているままの薬研は、そんな審神者のことを、審神者が苦手だと感じるあの瞳で見下ろしている。
あの、審神者の心の奥底まで見透かしたような瞳で。




[chapter:審神者は仲良くなりたい14]




出来る限り低い声で、落ち着いて、口を開く。
目を逸らしたくなる衝動を抑えて、あえてじっと薬研の目を見つめながら。


「……薬研」
「ああ。なんだ? 大将」


穏やかな声で返事をする薬研だが、先程された行為を思えば油断してはならないことを審神者は重々承知している。小さく息を吸って、審神者は口を開いた。


「人の身はお前たちとは違う。手入れでは治らない。時間が必要になるんだ。札は使えない。傷が塞がっても、跡が残ることだって珍しくないんだぞ」
「知ってるぜ。どうして俺が、こんな書物に囲まれてると思ってんだ」


審神者の首筋を見つめて、薬研は静かに目を細めた。


「承知の上で、つけた。二度となかったことにされないようにな」


その言葉に、審神者は心のどこかで納得する。己が言葉選びを間違ったから、このような状況になっているのだ。それを考えると、審神者は少し前の己を律しに行きたくなった。薬研を諦めさせる目的だったのだろうが、全くの逆効果であると、忠告しに行きたい。

結果、審神者の希望は悉く無に返っている。状況は悪化しているばかりなのだ。審神者は、ため息をついた。


「……この跡は長く残る。前と違って、隠し通せないだろう。それが分かっているのか?」


後悔の色が、声に滲む。そんな審神者の心境も、おそらく目の前の短刀は理解しているのだろう。その上で、少しの後悔も見せないでいるのである。審神者とは対照的に薬研は完全に吹っ切れてしまっている。なおのこと状況が悪い。審神者はそれを実感せざるを得なかった。


「もちろん。傷物にした責任はとる。大将、一生大事にするからな」
「……そういう話をしているわけではないよ」


口角がゆるりと上げられる。整った笑みで言ってのける薬研に、審神者は口角をひきつらせた。瞼を閉じて吐息を吐き出せば、その拍子に未だ流れ落ちていなかった涙が一筋流れていく。それを優しく拭う薬研の指に、審神者は切なげに目を伏せた。


「――何度でも言うが私は……」
「もういい大将。それは聞き飽きた。次言ったらまたその口塞いじまうぞ」
「っ……」


ぐっと言葉を飲み込んで、審神者は今度は恨めしげに薬研を睨む。そんな審神者の様子に薬研はくくっと笑った。


「そう可愛い反応するなって、大将」


頬を指先でなぞるように撫でられる。背筋がぞわぞわとして、自然と困り顔を浮かべた審神者に、薬研は続けた。


「審神者だろうが主だろうが、惚れちまったもんはしょうがねえ。……大将はちょっと目を離した隙に、すぐに他の刀誑し込むからな…それに俺がどれだけ嫉妬してたかなんて、理解もできんだろうが――」


一瞬だけ、薬研の瞳が妖しく煌めいたのを、審神者は見逃さなかった。同時に、誑かしていないと反論したかったが、へし切長谷部のことを思えば、即座にそれを否定することは出来なかった。


「――こっちは一年越しで、やっとこうして触れるようになったんだ」


親指で唇をゆっくりとなぞられる。先程の口づけで濡れているそこに触れながら、慈しむような、それでいて熱をはらんだそれに、審神者はとうとう、耐えられずに目を伏せてしまう。


「なあ、大将」


もう良いだろう、と。そう言いたそうにしているように聞こえた。何の返事を求めているのか。審神者は、薬研の望む言葉など口には出来ないというのに。


「――どうして、」


言い掛けて、言葉を選ぶための間が空く。少しの間を空けた後に、審神者は顔を上げ、ゆっくりと薬研に問いかける。


「……私の、どこをそんなに…好きになったんだ。私はお前たちと必要以上の接触を避けていたんだぞ。なのにどうして、そこまで……」


審神者は霊力を用いて、刀剣を顕現する。故に、審神者の霊力によって顕現された刀剣は審神者の命には逆らえない。人の身以上の力を持っていても虐げられてしまうということは、そのためだ。

それを恐れた審神者は、必要以上の接触を断っていた。唯一例外の存在として初期刀である加州清光を近侍に据え、極力審神者が刀剣と関わらぬように働いてもらっていた。そんな中で、どうしてここまで強烈な想いを秘めるようになったのか、審神者には理解が出来なかった。ここまで好かれるような行動をとった覚えが全くなかったからである。


「どうして、ねえ」


薬研は少し考えを巡らすように唇を閉ざす。そうして、どうしてか寂しそうな表情を浮かべて、審神者の頬を撫でた。


「俺は最初から、大将が俺たちと距離を置く訳を知っていた。加州の旦那から聞いていたし、何より俺はアンタの初鍛刀だ。ずっと大将のことを傍で見ていたし、理解していたつもりだ。だからこそ、大将の意向を尊重するつもりでいた」


だがなあ、と。ぽつりと呟くように口にして、続ける。


「俺は、そんなアンタが気に入らなかった」


そうして紡がれた言葉に審神者は凍り付いた。
心臓が嫌な音を立てて軋み、唇が震えるような。不快な感覚だった。


「刀剣との関わりは極力避ける――だが、加州清光という例外がいる。俺は一番最初に大将の声に応えた、大将を選んだ刀だ。なのに大将は一番最初に選んだ刀に頼りきりで、ずっとくすぶっていたんだぜ。大将の理想のためにその役目が必要なのは分かる。だが、どれでも良いなら俺でも良いだろう、ってな。まあ、表には出さなかったが」


気づかなかったろ?なんて軽くいいながら、審神者の反応に薄い笑みを浮かべて、薬研はくくっと声を漏らす。審神者の考えていることが、手にとるように思っていたのだろう。審神者の頬を弄ぶように触れながら、楽しげに続けた。


「大将のことを一番に想っている自信が俺にはあった。だからこそ、大将の意思に従っていた。アンタが困るなら、この気持ちも表に出すつもりもなかった。だが、状況が変わった」


そして、時折不穏ととれるような感情を滲ませて紡いでいく。


「大将が変わって、大将に近づく刀が増えた。アンタに懸想する刀の存在を知る度に、俺はどうしようもなく嫉妬したよ。そうして、このまま大将を俺以外の刀にとられちまうくらいなら、我慢なんてしても意味がないってことに気がついた」
「……私が、変わろうとしたからか」
「別に、大将が悪い訳じゃねえよ。成るようにして成っただけだ」


もしも、あの時、町に行かなければ。清光を連れて行かなければ。きっと審神者は今でも、変わらず刀剣達と距離を置いて過ごしていたに違いない。けれど、もしそのままでいれば、こうして違う形で刀剣達の感情を煽ることもなかったはずである。


(情が移れば、支障が出る。迂闊な距離に近づけば、刀剣達に何をしでかすか分からない)


その懸念は、間違いだったと思っていた。けれど、ここまで来て、考えは変わる。変わろうとした結果、この本丸の風紀は乱れているとしか表せなくなった。

審神者は国のために、戦うために存在しているのだから、良い審神者でいなければならない。そのためにも、決して、刀剣達との距離を違えてはいけないというのに。情けないことだと、審神者は嘆いた。


「……とられないよ。私は、審神者なのだから」


何もかもが間違いだったとはいわない。けれど、全て正しかったなどとは嘘でもいえない。中途半端な距離を作ってしまった審神者の落ち度を認め改善しようとしても、おそらくもう、どうにもならない場所にまで行き着いてしまっている。そんな絶望を見ながら、審神者は自嘲するように笑った。


「恋慕の感情など持たない。審神者には、荷物になるだけの感情だ」
「そうかい。……なあ、大将。一体誰が、大将にそれを教えたんだ」


聞かれ、審神者は小さく目を丸くした。


「誰が……?」
「いるんだろう? 大将にそういったことを吹き込んだのが」
「変な言い方をするんじゃない。……これは、」


そこまで言い掛けて、止まる。審神者は、懐かしげに記憶を遡る。記憶が蘇り、その記憶をなぞるように、己の唇が勝手に動いていく。


「……これは、師からの教えだ。審神者であることは名誉なのだから。命をかけてお国に仕えるため、邪魔な感情は持つ必要もないと」
「師匠? 大将のか?」
「ああ。私も、それが正しいと思っている。その教えを違える気はない」


鋭い眼光にも気づかす、頭に浮かべた記憶を見下ろしながら頷く。


「……ふうん。そうか」


他人事のようにそう言う。薬研に、審神者は口を開く。


「だから私は、そんな関係にはならないんだ。それは、相手が人であっても同じだ。誰とも、交わりは持たない――持ってはならない」


己を律するような言葉だった。審神者はそう言い切ると、やんわりと薬研の胸板を押した。いつまでも、この体勢のままではいられない。


「退きなさい。……この跡は隠しきれない。清光や長谷部に見つかっても、誤魔化せるとは思わない。お前の名を出さずとも――すぐに気づかれてしまうだろう」


まさか、抜刀するような騒ぎにはならないだろうとは思いたい。だが、少なくとも口頭でのやりとりで済むようなことだとも思えない。長谷部にも清光にも、あのやりとりの後だ。何かしら刺激を与えてしまうだろうことを想像して、審神者は気が沈むのを感じ取った。

薬研は少し沈黙をして、胸を押していた審神者の手首を掴んで引き寄せる。そうして今度は、審神者を起こすように手を引いた。その勢いに驚きつつも審神者は上半身を起こす。正座する気にならず、へたり込むように座っていた審神者は、薬研の反応に目を向けている。


「大将。好きだ。愛している」


真っ直ぐに目を見つめながら、ゆっくりと、かみしめるように言った薬研に、審神者は一歩遅れた反応で目を丸くする。


(どうして今そんな話を……)


予測できていなかった分、直球で薬研の言葉を受けてしまった審神者は、動揺と困惑を露にしたまま、唇を震わせている。頬を赤くしてあわあわとする審神者の反応を、薬研は慈しむような柔らかな表情で見ていた。


「っ、今は、そんな話をしている場合じゃないだろう……」


平静を保とうとした先から、薬研はそれを崩そうとしてくる。その手強さに、声が上擦ってしまう。薬研にとられていた手が更に引かれて、そっと薬研の口元に持って行かれる。その先の行動が察する前に、意味深な視線にぞくりとする。

そうして、ゆっくりと審神者の手の甲に薬研は唇を落として、目を細めた。それに動揺した審神者がぎゅうっと唇をとじ合わせると、薬研は静かに、けれど強い意志を込めて、口を開いた。


「大将への気持ちを、俺は誰にも隠すつもりはない。全部包み隠さず言ってくれ。――何なら、俺が直接説明しに行ってもいい」


そこまで言い終えると、審神者の手を強く握りしめて、今度は額におしつけながら、言う。


「だから、俺が大将を想っていることを、ちゃんと受け入れてくれ。俺の気持ちを否定して、俺の心を殺そうとするな」


物騒な言葉とは裏腹に、審神者に懇願しているような声だった。瞬間、ハッとする。先程、薬研に言い放った己の言葉を思い出したからだ。分かっていて口にした言葉だった。薬研が傷つくと知っていて尚、審神者への気持ちを断ってほしい一心で口にした言葉だった。


「――……すまなかった、薬研」


結果、それが状況を好転させることはなく、むしろ悪化させただけだった。薬研の審神者への気を焚きつけてしまった。今からでも、薬研が諦めてくれたらと思う。だがそれはもう、無理だと分かっている。審神者がしたことは、無意味に薬研を傷つけてしまっただけのことだ。


(何も解決できずこの状況を招いた以上、私も、このままではいられない)


刀剣達と結ばれるつもりはない。それは変わらない。例え相手が、同じ人間であろうとも。審神者は誰とも結ばれるつもりはない。審神者としていきる為に、国に仕えるため、邪魔なものは必要ない。良い審神者であるためにも、荷物は少ない方が良い。持たずに良いものは、生涯持つ必要がないものでもある。変わる気がないのに、目の前の薬研の気持ちを否定することもできない。突き放すことも、己から距離を置くように命令することも。

こうなってしまっては、どうしようもない。


「もう二度とお前の気持ちを否定はしないと、約束する」


手から伝わる薬研の体温が熱くて、審神者は軋むように痛む胸を押さえながら、そう口にする。手から伝わってくる熱が、もしも心臓にまで達してしまったら。そんなことを考えて、審神者はぐちゃぐちゃに混ざり合った感情から慌てて目を逸らす。こんな風に好意を向けられることなど、審神者になる前は一度もなかったことだ。このような時、どう対処すれば良いかなど、教わったこともない。


(……誰も傷つけず、誰も選ばず……か)


薬研の手を振り払うことも出来ない己には、そんなことは出来ないだろうとどこか諦めのようなことを思う。薬研の真っ直ぐな目が、今の審神者には辛かった。同時に、審神者の心の奥底に、不要としてきた道が姿を表したことを感じ取る。誰も傷つけず、誰も選ばず。その両方が叶わないとして、どちらかを切り捨てなければならないとしたのなら。刀剣達を傷つけることのない選択を、選ばなければならないということになればそれはつまり――審神者の、審神者が大切にしてきた信念を己自身で壊さなければならないということである。

とても恐ろしいことだ。審神者にとって何よりも恐ろしいことは、そんな選択肢を認識し始めている己がいることだった。


審神者に恋愛感情は必要ない。
審神者の命も人生も、全てはお国のためにあるのだから。


師から受けた教えを、審神者は心の中で繰り返した。










静かに歩きながら、執務室と自室を兼用させた己の部屋に歩いていく。薬研との件に決着をつけに行くつもりだった。清光にこれ以上の心配をかけさせぬように。けれど、実際はどういうことだろう。薬研に審神者への想いを断ち切らせようとした計画は崩れ去り、むしろ、これ以上ないくらいに、薬研の気を焚きつけてしまった。結果、首に刻み込まれた傷に、薬研の覚悟に、審神者の方が根負けしてしまったようなものだ。

何も終わらせることができなかった。

間違いなく、あれほどまで想われていることを自覚していなかった審神者の失態である。こんな姿で自室に戻り、清光に見つかってしまったら、どう弁明すれば良いのだろう。


(要らぬ争いの種になってしまったのなら、それは私の責任だ。そうなる前に、諍いが起きぬように動かなければ)


まだ痛む傷を隠すように手のひらで覆いながら、審神者は静かにため息をついた。下手に隠そうとしても、間違いなく気づかれてしまうだろう。ならば先に説明をした方が良いだろう。


(だが、どう説明すればよいものか……)


薬研は、ありのままを説明してくれて良いといった。その覚悟ならば出来ていると。だが、どうしてありのままなど話せるだろう。己の甘さと隙が招いたこととはいえ、だからといって、無闇に他の刀剣まで焚きつけるような真似ができるわけがない。

とはいえ、誤魔化しがきくような跡ではない。これが打撲跡や切り傷の跡ならば、いくらか誤魔化しようもあったが。噛み跡は誤魔化しようがない。


「ぬしさま?」


もうすぐで自室にたどり着きそうだった審神者は、唐突に背後から呼ばれた声に足を止める。その声も、呼び方も、心当たりは一振りだけだ。審神者は心の準備が出来ていない状態で、振り向くこともしないまま、口だけを開いて反応する。


「小狐丸か、どうしたんだい? まだ仕事が残っているから、相手は出来ないよ」


平常を装いながら、そう口にする。少し声は上擦っていたかもしれないが、そこまで怪しまれることもないだろう声だった。はずだと、審神者は思っていた。


「……血の臭いがしたもので。ぬしさま、お怪我をされたのでは?」


背筋が強ばる。こんな小さな出血さえ、こんなに早く気づかれてしまうものなのだろうかと、ぞっとした。もしもそうならば、ああ、もう、隠すことなど不可能ではないだろうか。


「……大した怪我ではないよ。気にしないで良い」


下手に誤魔化すことを避け、審神者はそれだけを答えると、また足を踏み進めていく。夜にまた小狐丸と顔を合わせることになるのだから、いずれはばれてしまうだろう。けれど、今は、その事態を避けたいと思っている。

逃げるように歩き出した審神者だが、背後にいるだろう小狐丸が予想以上に静かでいることに、一抹の不安を覚える。振り返って距離を確認したいところではあるが、下手に顔を合わせてしまえば、何かを察されるかもしれない。


「ぬしさま」


足音は聞こえなかった。近づいている気配も、感じなかった。けれどいつの間にか小狐丸の腕が背後から回されていて、審神者を呼ぶ小狐丸の声は、審神者のすぐ耳元から聞こえてきた。想定していなかった距離に、声がひきつった。


「っ……何だ、今は時間が――…」


逃がさないとでも言うように、審神者の腹部の前で交差された腕に力が込められた。そうして耳元で、審神者を逃がさないようにした状態で、小狐丸はささやいた。


「今度はどの刀です?」


酷く冷たい声だった。そんなはずはないのに、首元に刃を当てられているような、そんな気がした。


「この小狐丸めが斬って差し上げましょう。さ、ぬしさまに傷をつけた不届き者の名を教えて下さい」


傷を覆い隠すように触れていた審神者の手の甲に口づける。その仕草は優しいが、その声とは裏腹に、言葉には刃を剥き出しにしたような殺意が乗っている。審神者はさあっと血の気が引いていく感覚を覚えた。そうして、ゆっくりと唇を開く。


「必要ない」


行かせぬように、首を覆っていた手を退かせて、代わりに腹部の前に交差している小狐丸の腕の上に置く。何でもない、少しはしゃぎすぎていただけなのだと、そういった理由を咄嗟に並べ立てようとしたが、薬研の覚悟を思い出すと、そんな理由は口には出せなかった。

けれど、このまま言い淀んでいては、何が起きるか分からない。今ここで小狐丸を止めなければならない。


「やめてくれ、小狐丸。……頼む」


交差された腕が己から離れないようにしっかりと手に力を込める。万が一にも他の刀剣に襲いに行かないように。
懇願するような口調になっていたことに気づいた審神者は、眉間にしわを寄せて言い直す。


「いや――主命だ。私闘は禁じる。歴史修正主義者の目論見を阻止する以外に、時間遡行軍を倒す以外に、刀を抜くことは許可しない」


言い終えると、小狐丸は審神者に聞こえるようにため息をつく。そうして、すりすりと、傷の上から頬ずりをした。遠慮なく擦りあわされることで痛みが走り、審神者は顔をしかめて、けれど声は漏らさぬように堅く唇を閉ざした。


「私は、ぬしさまのために戦っているのです。そのぬしさまが傷つけられているのに、何故刀を振るってはならないと? ……納得いきません」


決して声が震えないように、小さく息を吸って、審神者は口を開いた。


「敵意があったわけではない」
「敵意でなければ、ぬしさまに傷をつけて良いと?」
「そうは言っていない。だが……それでも、私闘は許さない。処罰が必要なら私が下す。お前の出る幕はない」


毅然とした態度を貫き、そう言い切る。少しの隙をここで見せれば、小狐丸は何をしでかすか分からなかったからだ。決して、言質は与えてはいけない。


「いいな? 小狐丸。何もするな」


念を押してそう言えば、沈黙したとともに、ゆっくりと小狐丸は傷の上に唇を押し当てた。そうして、舌が跡を這う感触に審神者は小さく肩を上下させた。痛みに顔を歪ませる審神者は、堪えるように奥歯を噛みしめた。


「ぬしさまは、本当に、甘い」
「っ……」
「私がここでこの傷を上書きしても、きっと許して下さるのでしょうね。ぬしさまは刀に甘いですから」


言いながら、言葉通り、傷を上書きするように小狐丸の歯が首に立てられる。じんわりと傷を圧迫する感覚に、審神者は堪えるように静かに目を細めた。


「では、私もその刀と同じようにしましょう。ぬしさまの体に己の跡を刻みつけて、他の刀への牽制とし、いずれはぬしさまの全てを喰らい――全てを私のものに致します。良いのでしょう?」


耳元でそう囁かれ、審神者は背筋が粟立つ感触を覚える。穏やかな口調とは裏腹に、腹に据えかねている。嫉妬などという言葉では片づけられない。殺意にも似たその感情に審神者は体重を背後の小狐丸にかけるようにして、そっと小狐丸の顔をのぞき込んだ。


「……小狐丸」


不機嫌を隠すようなこともせず、不服そうに審神者を見下ろす小狐丸の顔は、当然ながら、審神者の目と鼻の先にあった。訴えるような視線は真っ直ぐと審神者の中に流れ込み、審神者は困り顔でそれを受け止める。


(……小狐丸の怒りは尤も…だな)


小狐丸にしてみれば、審神者はきちんと距離を置くことを話して納得した後の出来事である。自身が審神者から距離を置かれる理由が他の刀剣にあると思っているのだろう小狐丸の心境からすれば、審神者の姿に思うところもあるはずである。


「お前が思うような傷ではないんだ。だから、」


唇が閉じる。否、正しくいうのであれば、閉ざされたのだ。腹に回っていた小狐丸の左手が、審神者の口を覆ってしまっているのだと気づいたとき、審神者はただただ小狐丸の目を見つめていた。


「もう良いです、ぬしさま。良いのです」


細められた瞳に、審神者は背筋に冷や汗が流れるような感覚を受けた。投げやりになったような、自暴自棄になっているような、そんな小狐丸の声が聞こえているこの状況が非常に不味いものだと、審神者は身を持って知っているのだから。


「やられたのなら、やり返すまで。少しの間、我慢をして頂けますか? ……痛くは、しませんので」


危機を感じて、審神者は足に力を入れる。小狐丸から距離をとらなければならない。その一心で体を離そうとするものの、小狐丸は審神者を逃がさぬように拘束してしまっている。
腹部に回された腕と、口を塞ぐ手。その両方を引き離そうとするものの、それは叶わず。無駄と察しつつも抵抗を続ける審神者を気遣うことのない小狐丸は、構わずに傷跡に舌を這わせる。ゆっくりと、けれど乱暴に傷をなぞっていく舌に、痛みと共に、ぞくぞくとした感覚を覚える。

舌はやがて噛み跡以外の箇所にも移動して、滑らせるようにしながら箇所を変えて口づけられていく。時折、強く吸いつかれて、審神者は深く眉間にしわを刻み込んだ。身をよじらせて、小狐丸の唇から離れようとすれば、それを逆手にとられるようにして、今度はうなじを甘噛みされた。


「んぅ、っ…」


反射的に背中を反らせれば、小狐丸は楽しそうに声を漏らした。


「ぬしさまは、煽るのがお上手ですね」


ちゅっと音を立てながら口づけた後、小狐丸は腰をなぞるように撫でていった。うなじから伝わる熱く堅い皮膚の感触が嫌で、反応などするべきではないと分かっていても尚、己の意思とは裏腹に敏感に反応をしてしまう己の体を憎らしく思う。

戯れのように唇で触れては甘く歯を立て、その度に審神者の体が反応をすることを楽しんでいるようだ。小狐丸は甘い吐息をこぼしながら、くっと笑った。


「満更でもないのでしょう? 数多の刀に言い寄られ、口説かれて。それでもこうして隙を見せるなど……そうとしか考えられませぬ」
「っ……ん、んんっ」
「ああ、何を言っているのか分かりませんね。……ですが、ぬしさまは無理矢理跡をつけられることが好きなのですから、きっと、喜んでくれているのでしょうね。でしょう? ぬしさま」


くぐもった声でその言葉に反論を唱えようとするも、聞き取れるような声を出すことは出来ない。屈辱ともいえる言葉を小狐丸から放たれた審神者は、小狐丸から体をなんとか離そうともがく。しかしそうすればそうするほど、小狐丸は楽しく感じているのだろう。


「逃がしませんよ。これで二度目。もう決して、見逃してやるものか。――許さない」


ぞくりと、悪寒が走る。小狐丸は嫉妬深い。けれど、ここまで剥き出しにしたような怒りを審神者にぶつけたことなど――ない、とはいえないが、それでも、ここまで審神者が怯んでしまうほどの怒気を含んでいたことなどなかったはずだと審神者は思った。

長くはない時間だった。触れられることを苦手とする首に幾度となく触れられた審神者は、ようやく、小狐丸の手が審神者の口を解放したことで、大きく息を吸い込んだ。乱れた呼吸を整えることに意識を向けるものの、今度は小狐丸に壁に押しつけられたことで、それを邪魔されてしまう。

ひやりとした冷たい壁の感触が、頬に当たる。目の前に壁しか見えない状態では、もう小狐丸の姿も見えなかった。ただ、背後で聞こえる小狐丸の呼吸は明らかに興奮を抱いているものである。
繰り返しうなじを這う感覚に、審神者は乱れた呼吸の中から声が漏れてしまいそうになることを必死で堪えた。


「っ、や、」


繰り返し口づけられて、時折強く吸われてしまう。審神者は壁に手を押しつけて、なんとか逃れようとする。けれど腹部に回った小狐丸の腕の力が抜けることはない。背中にぴったりと小狐丸と身を寄せられては、壁と距離が離れたとしても何の意味もなさない。


「小狐丸…!」


焦りが先走り、声が震える。主としての威厳はもはや掠れて、懇願しているような声になっていた。それが気を良くしたのか、小狐丸は後ろから回した指を審神者の唇に押し当てた。それは気まぐれに、唇を弄んでいる。
その間も審神者の首に吸いつき、いくつもの跡を残しているだろう小狐丸に、審神者は危機感を覚えて目を細める。


(……やめるつもりはないのか…)


こうなってしまっては、気が済むまで小狐丸を止めることが出来ないのだと思った。やめろと言っても聞かない小狐丸は、審神者が困っていることを楽しんでいる節がある。抵抗すればするほど、小狐丸は、審神者を困らせようとするのだろう。

小狐丸に、部屋への出入り禁止を解きに行った時もそうだった。審神者が小狐丸のことを受け入れてから、小狐丸は審神者に手を出すことをやめたのである。それを思いだし、審神者は諦めを抱く。
着物で隠れているだろう部分にまで小狐丸の唇が降りていき、審神者はぞくぞくとした感覚にはっと声を漏らして、気丈な声を意識しながら口を開いた。


「……っ、わかった、もう気が済むようにしなさい」


唇から放たれた声は震えている。まともに虚勢もはることも出来ない審神者は、悔しさで壁に爪を立てる。己を押さえるように、審神者は唇を強く噛んで、また口を開く。


「満足したらもう、これ以上、事を荒立てるようなことはするな」


薬研のつけた跡は隠せない。ならば、もうどんな跡がつこうが大して差はないだろう。逃げの思考か諦めの思考か、今の小狐丸相手では分が悪いとそう判断を下した審神者に、小狐丸は何を思ったのだろう。


「私は誰も選ばない。嫉妬など、必要がない」


体の力が抜けていく。唇を弄ぶ小狐丸の指先を受け入れながら、審神者はため息をついた。小狐丸の指先が唇の隙間に割り込むように進入してきて、審神者は反射的に口を閉ざそうとする。けれど間に合わず、そのまま指は口内に押し入り、審神者の舌に触れた。


「……では、気が済むまで、付き合って頂きますよ。ぬしさま」


甘ったるい語尾に、審神者は苦しげに目を細めた。そうして己の首が無惨な姿になっているだろうことに、苛立ちを覚える。加えて、他の刀に助けを呼ばなければならない事態にまで陥ることを懸念して、ぞっとしたのである。










ところが、どうだろう。


「……満足したかい?」
「いいえ。まだ足りませぬ。まだまだ、」


審神者の膝枕の上、すりすりと太ももに頬ずりをする小狐丸は、先程までの態度が間違いであったかのような豹変ぶりで、審神者に甘えてしまっていた。

気の済むまで好きにしろと言った審神者の決断は、半ば賭けのようなものだった。小狐丸の性質を知っていたからといっても、実際、嫉妬にかられて怒っていた小狐丸がどのような行動に出るのか、審神者にも確信めいた自信はなかったのだから。

あの後審神者の体を抱き抱えて審神者の部屋に訪れた小狐丸は、審神者を畳の上におろして座らせるなり、その膝の上に頭を乗せて言った。


『今日はもうぬしさまから離れませぬ。小狐丸めを精一杯甘やかして下さい』


面食らった。先程の行為の続きを期待していたわけではない。審神者にとって、有り難い展開の内に入るだろう行動である。既にそう簡単には消えないだろう跡を付けられているという前提こそあれど、この程度の事で小狐丸の気が済むというのであれば、審神者にとっても助かることである。

そうして小狐丸にせがまれるまま、小狐丸の頭を撫でていた審神者は、脱力しつつある体で、小狐丸に問いかけた。


「もう三十分はこうしているぞ。そろそろ良いだろう?」
「いいえ。足りませぬ。とはいえ……ぬしさまが困るというのであれば、我慢しても良いですが――その際は先程の続きをすることとしましょう」
「………」
「どちらがよろしいですか? ぬしさま」


半ば脅迫のようなものだと、審神者は率直に思った。ぐっと息をのんで、ため息をつくと、また小狐丸の頭を撫でていく。
質が悪い。審神者を困らせることに関しては、小狐丸が一番かもしれない。


「分かった。もう少し、このままで良い」


小狐丸が望む返事をすれば、小狐丸は満足そうに緩く口角を吊り上げた。


「それで、どうするのですか? ぬしさま」


そうして、穏やかな口調で、そんなことを問いかけてくる。それが何を指しているのか、察しはつくものの確信のない審神者は、困り顔でそんな小狐丸を見下ろしている。


「言い寄られているのでしょう? 複数の刀に」
「……どこから、そんな話を聞いてくるんだ」
「風の噂で、とでもいいますか。ぬしさま、当事者がわざわざ口に出さずとも、見ていれば周りは察するものです」


赤い舌を覗かせながら、小狐丸は審神者の顔に手を伸ばす。そのまま審神者の頬に触れて、真っ直ぐと審神者の目を見つめる。


「ぬしさま。皆、気づいております。ぬしさまを慕う刀のことを。隠そうと思っても、隠せる感情ではないのですから。だからこそ、どんな手段を用いようとも、どうしても我先にぬしさまを手の中に納めたいと思ってしまうのですよ」


審神者は困ったように目を細めて、眉を寄せた。


「……お前は、そうではないだろう?」


薬研と長谷部、清光のことがあり、そうして、今現在己の膝の上で寝ころぶ小狐丸。小狐丸については他の刀への嫉妬と甘えからくる行動であり、方向性が違う故に、審神者もある程度の接触を許容しているが、今後も先程の調子で触れられてはたまらない。

散々小狐丸については忠告をされている。疑っているわけではないものの、甘えの延長といえど、先程のような行動が繰り返されては流石に受け入れることなど出来はしない。審神者がそう問いかけると、小狐丸は少しの沈黙の後、ゆっくりと口を開く。


「何と答えてほしいですか? ぬしさまの望む言葉を吐きましょう」


その返事に、背筋が粟立つ。その台詞は、審神者を想っているようにもとれる。つまり、隠している感情があると自己申告しているようなものだと感じたからだ。小狐丸が己を恋愛対象として見ているかもしれない可能性にぞっとしたのである。

戸惑う審神者の反応を見て、小狐丸は妖しく笑った。


「……小狐丸」


声が上擦る。動揺を隠せない審神者の頬を優しく撫でて、小狐丸は口を開いた。


「そんなに構えずとも良いですよ、ぬしさま」


審神者の頬を撫でていた手のひらが、ゆっくりと離れていく。その手は首を撫でながら降りていき、審神者の襟に人差し指を引っかけて、ゆるくそれをずらしてしまう。指先でその下にあった肌をなぞられて、審神者は体を強ばらせた。


「ぬしさまの衣服を剥いで、霰もない姿を見たいとは言いませぬ」


指が襟から抜けていく。今度は小狐丸の大きな手は審神者の腹部に当てられた。ばくばくと、審神者の心臓が乱暴に音を立てていた。


「この中を、己の欲で満たしたいとも」


言っていることは、審神者にとっては都合の良いもののはずだ。審神者に性的な感情などないと言っているのだから。だからといって、馬鹿正直にその話を鵜呑みにして安心して良い状況なのだといえるわけがない。

にっこりとかたどったような笑みを浮かべた小狐丸は、自身の頭を撫でていた審神者の手をさらって、深くつなぎ合わせるように指を絡めた。


「ただ私は――ぬしさまの寵愛を受けられればそれで良いのです。他の刀達よりも一つ抜けたような、証がほしいのです。たったのそれだけですよ。私の知らぬぬしさまを、私より先に知っている刀がいるというだけで、どうしようもないほど熱情に振り回されてしまうので」


そうして、指先に唇を当てながら、小狐丸は呟いた。


「――情けで十分です。ほんの少しだけで、満たされるのですから」


その手を振り払うことはしない。そうすることが、小狐丸を煽ることになってしまうのではないかと懸念したから、である。


(……不味い。これでは、まるで……)


小狐丸の審神者に向ける感情が、決して良いものではないことに、審神者は焦りを覚えずにはいられなかった。長谷部や薬研のような恋愛感情とは違うのだろう。小狐丸の審神者への感情は恋慕ではなく、ただの独占欲である。

だからこそ、審神者の感情に一番興味がないのも、小狐丸であるということ。駄々をこねて、我が儘を言う。その延長で、審神者の望まぬ対応を求めているのだ。

小狐丸が、静かに上半身を起こして審神者の顔をのぞき込む。逃げるように体を後ろに反らそうとした審神者を、小狐丸は楽しそうに見ていた。まるで、捕獲できる距離にいる獲物をいたぶる前の獣のような、野性味に溢れた表情だった。


「……だ、めだ。できない」
「では、他の刀と同じものを、ぬしさまに望みます」
「っ、意味を分かって、言っているのか?」
「勿論。分かっていないのは、ぬしさまだけですよ。でしょう、ぬしさま?」


繋がれた手を引かれ、いとも簡単に胸の中に収まる。小狐丸は審神者の額に唇を落としながら、優しい声で審神者に囁きかける。


「難しいことはありませんよ。ぬしさまはほんの少しだけ、この小狐丸に唇を許すだけで良いのです」


額から唇が離れ、小狐丸は審神者の鼻先に、自身の鼻を近づけた。そうして真っ直ぐと審神者の目を見つめながら、まるで悪魔の囁きのような言葉を口にする。


「たったそれだけのことで、私は満足なのですから。他の刀には許さない行為を、私にのみ許しているというのであれば」


くくっと声を漏らして、小狐丸は楽しそうに続ける。


「そうすれば、私がぬしさまを他の刀から守りましょう。ずっとぬしさまのそばにいて、ぬしさまが望まぬ好意をはねのけてやりましょう。ですからぬしさま――覚悟を決めて下さいますよう。なに、簡単なことですよ。私を選んで下されば良いのです」


受け入れられるわけがない。警鐘が鳴り響く脳内で、審神者は小狐丸から離れなければならないと考える。小狐丸を制止するよりも説得するよりも、真っ先に小狐丸から距離をとろうとしたのだ。その判断は決して間違いではなかったが、そう考えるタイミングが些か遅かった。

小狐丸から体を引き離そうとしたときには既に、いとも容易く審神者の唇は奪われてしまっていた。片手は小狐丸の手に繋がれて、空いている手で小狐丸を引き離そうとしても、案の定何の意味もなさない。力量だけでいえば、何をしようとも、審神者は刀剣である小狐丸に叶うはずもない。


「――大したことではないでしょう。ぬしさまにとっては既に、このような行為は挨拶代わり」


満足げに、いとも容易く吐かれた言葉が屈辱で、審神者は表情を歪めた。己に一等甘える小狐丸から、そのような言葉を吐かれて、望まぬ形で触れられて、どうして傷つかずにいられるだろうか。

想いには応えられない。審神者である以上、恋愛感情など誰とも持たない。そう言っている。刀剣達に触れる行為も、あくまで親愛のもの。それ以外の形でのスキンシップなど、審神者の方から迫ったことは一度もない。

良い審神者であるようにと考え行動してきた、つもりであった。けれどその思いは小狐丸には届いてはいないのだろう。


(……そうか。お前は、そう思うのだな)


自棄になっていたといえるかもしれない。どうせ言葉は届かないのだろうと投げやりなことを思ってしまうことを情けなくも思う。だがもう、どうすれば良いのか分からない。

途端に、体から力が抜けた。抵抗することが馬鹿馬鹿しくなったとも。審神者のその反応を怪訝に思ったようだった小狐丸だったが、むしろこれ幸いと、再び審神者の唇に自身の唇を重ね合わせた。触れるだけの口づけだったが、審神者が言葉を発する暇など与えないようにしているように、何度も何度も、繰り返し触れてくる。

いっそのこと、もう諦めてしまおうか。一瞬だけ、そんな考えが浮かんで、審神者はそんな己の心に失望する。けれど、どうせどんなに抵抗しようとしても、出来ないのだ。主である審神者の言葉など、きっと重荷にもなっていないに違いない。抗うことの出来ない状況で、一体審神者に何が出来るというのだろうか。

とんと、畳の上にそのまま押し倒される。何度も繰り返し触れていた唇が離れた時、審神者は、恨めしげに小狐丸を見上げ、こんな言葉を漏らした。


「他の刀への嫉妬だけで、こんなことまで出来るのか……?」


非難を込めたような声だった。主としてはあるまじき、子供じみたような、余裕も何もないものだった。


「……愛しているなどと言えば、ぬしさまを困らせてしまうだけでしょう」


小狐丸はそんな審神者を見下ろして、酷く冷たい表情を浮かべていた。けれどその表情とは裏腹に、その声には切なさが滲んでいる。それに小さく目を見開いた審神者は、そのまま顔を近づけてくる小狐丸のことを拒めなかった。

ゆっくりと、唇が重なる。触れるだけでは終わらず、角度を変えながら、深く深く繋がろうとする意思を含んだそれを受けながら、審神者は動揺を隠せなかった。

小狐丸のそれは嫉妬と独占欲からくるものだと思っていた。一番でいたいという欲からくるものであると思っていた。唇から伝わる熱が増していくに従って、審神者は己が酷い思い違いをしていたのではないかと考える。けれど真っ白な頭の中では思考を進めることも出来ず、審神者は不意に唇を割って入ってきた舌に、びくりと肩を震わせた。

舌は審神者の舌をつつき、そしてゆっくりと絡め取ろうとする動き方をした。あくまで、乱暴に無理矢理する気などないらしい。審神者の了承を得ることもせずに事に及んでいるのだから既に無理矢理ではあるが、柔らかくなった小狐丸の触れ方に、審神者は動揺せずにはいられない。


「っ、んっ……」


くぐもった声が漏れて、くすぐったさに思わず唇を開く。その隙間を利用するように、もっと深い角度に変えられて、審神者は思わず目をつぶった。小さいけれど荒い息づかいが部屋に響いて、流れ込んでくる唾液を飲み込んで、審神者は頭がくらくらしてくるのを感じ取った。

動揺している頭の中でも、このままでは不味いということはよく分かる。指先を絡めたまま畳の上に押しつけられた小狐丸の指先が、すりすりと指同士を擦り付けあう。敏感になった感覚が審神者を更に追い立てていく。

けれど、審神者の指から小狐丸は自身の指を離し、解放する。それに続くように、小狐丸は口づけをやめて顔を離した。そうして審神者を見下ろしていた小狐丸は色恋に疎い審神者の目から見ても明らかに――興奮を隠し切れぬ様であった。


「――こぎつね、」


最後まで言うことが出来ずに、言葉を失う。しゅるりと、衣擦れの音が聞こえたからだ。と、同時に、着物の締め付けが緩くなる。ハッと視線を己の体に向ければ、小狐丸の手が、審神者の着物の帯を解いてしまっているところだった。

呆気にとられるようにぽかんとして、けれど小狐丸が首に顔を埋めたことでハッと我に返る。今のこの状況に疑問に思わないほど鈍い審神者ではなかった。


「っ…なにを――や、めなさい」
「やめませぬ」


無駄だと分かっていても小狐丸を引き離すように足掻く審神者だったが、やはりそれは小狐丸にとって驚異にもならないらしい。体格の差も関係しているのか、小狐丸は荒い手つきで審神者の衣服を脱がしにかかっている。


「ぬしさまが煽るような真似ばかりをするのがいけないのです。痛くはしませんので、大人しくしていて下さい」
「だから、そんなことは出来ないと何度も――!」
「出来ますよ。試してみますか?」


あっという間に着物の前がはだけて、襦袢が姿を見せる。審神者はさあっと血の気が引くのを感じ、慌てて着物を直そうとした。けれど小狐丸は、そんな審神者の手を掴むと、審神者の頭の上にまとめて拘束させてしまう。すぐに動きを封じられてしまった審神者の姿を見下ろし、小狐丸は悩ましげにため息をついた。


「愚かですね、ぬしさま。余計な言葉を吐かず、受け入れてさえいれば、今頃このような目にはあっていなかったでしょうに。とはいえ、ぬしさまのそんなところも、愛しいのですが」


片手で両手を拘束されて、襟から小狐丸の手が入り、いやらしい手つきで撫でられていく。背中が浮いた審神者の様子を見下ろしながら、小狐丸は楽しげに、けれどどこか鋭い目つきでその様子を見下ろしている。


「先程のぬしさまの言葉には傷つきました。よもや、私のぬしさまへの気持ちを、あれほどまで軽んじているなど。まあ、疑われてしまったものはしょうがありませぬ。身をとして、証明するといたしましょう」


審神者の股の間に足を押いていた小狐丸は、乱れた呼吸と共に、審神者の足に自らのものを当ててみせる。それが何か察した審神者は、怯えるように顔をひきつらせた。同じ体のつくりをしているのだから、分からない方がおかしい。


「……嘘だろう。お前は、私のことを」


その先は、言葉にならなかった。けれど審神者が続けただろう言葉を小狐丸は察していたらしく、少し迷いを見せた後に、観念したようにふっと微笑んだ。


「勿論。ぬしさまのことを愛しく思っております。ですが、先程の言葉に偽りはありませぬ。ほんの少し、ぬしさまの特別を頂ければそれで良かったので……あれらの刀と一緒にされても困りますが、」


くくっと声を漏らして、続ける。


「抑えが、きかなくなってしまいました。許して下さいますね? ぬしさま」


感情で動きすぎて、最早言葉では止めることは叶わないだろうと嫌でも察する。だからといってはいそうですかと了承できるわけがない。審神者は青ざめ、何度も首を横に振る。


「で、できないっ、」


懇願するように言えば、小狐丸はごくりと喉を上下させる。審神者の言葉が審神者の意図とは違う方向に働いてしまっている。襦袢がはだけて肌が晒されれば、そこからひやりとした空気に触れる。同時に、熱を持った小狐丸の手のひらがその上を這い、審神者の口から微かに声が漏れる。聞き逃すことのなかった小狐丸は、その燃えるような瞳をぎらつかせていた。


「……ああ、お可愛らしい」


ぽつりと呟いて、小狐丸は審神者の口を塞ぐ。今度は性急に押し入ってきた舌から逃げることも出来ずに、審神者は翻弄されるがままであった。悪戯に肌を撫でられながら、口内を欲望のままに犯されていく。その恐怖に、じわりと涙が浮かぶ。

己の望まぬ形、己が最も恐れる状況に陥ろうとしている。理想とする審神者の姿から、似ても似つかぬほど醜悪な姿になりかけているのである。それが恐ろしい審神者の心境を知ってか知らずか、散々口内を蹂躙して唇を離した小狐丸は、少しだけ審神者の唇から距離を離すと、今にも溶けてしまいそうな声で囁いた。



「――諦め、受け入れて下さい。ぬしさま」



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