すんなりと小狐丸を受け入れるわけがない。けれど、言葉が届かないのであれば、今の審神者にはどうしようもない。無理矢理体を暴かれることへの恐怖に、じわりと審神者の目尻に涙が浮かぶ。
審神者は、ただ変わろうと思った。刀剣達と然るべき距離をとり、己が理想とする審神者の姿から離れないようにするために。
こんなつもりではなかったのに。まだ、何も状況は進展していないというのに、己を取り巻く状況が全てが全て、悪化していくばかりだ。
(どうして私は、こうなのだろうか……)
そんな審神者の瞼に口づけて、小狐丸はすぐ近くで審神者の目をのぞきこむ。野性を滲ませたその視線から、小狐丸が審神者を解放する気がないらしいことは明らかだった。
いよいよ全てが終わってしまう。そんな怯えの感情から、審神者の体が震えた。
「ああ、そんな顔をしないで下さい」
気にかけているのだろう。けれどその声色からは、とてもそのような意味合いなど感じない気を使うよりも、興奮しているための台詞のように思える。腕力だけでは小狐丸には適わない。つまり審神者は、この状況を打破するためには言葉だけを使ってやめさせなければならないのである。
(……止められる気がしない)
小狐丸に己の言葉が届くわけがないと絶望した瞬間のことだった。不意に、小狐丸が不快そうに目つきを鋭くした。一変したといっても過言ではないその反応に、審神者は小さく目を丸くする。
「――邪魔が入りましたね」
「……邪魔…?」
言葉の意味をすぐに飲み込めなかった審神者は、けれど急速に近づいてきた足音に、小狐丸の言葉の意味を理解する。誰かが、審神者の部屋に真っ直ぐ向かってきている。本丸の離れにある審神者の部屋に、通りすがりでくるということはない。間違いなく、足音の主は審神者の部屋に向かっているのだと、確信が持てた。
救いの手だと思う反面、この状況を見られてしまうことを思えば、どちらにせよこのままでいられない。小狐丸から離れようと身をよじらせるが、ずっとそうしようとして出来なかったことだ。今更離れられることもなかった。
小狐丸は、心底面白くなさそうな表情でため息をつく。
「――主!」
部屋に乱入してきたのは、長谷部だった。
[chapter:審神者は仲良くなりたい15]
「――御無事で…すか、」
まさに天の助けとでも言おうか。とはいえ、今の審神者の状態では些かこの状況は悪すぎる。
駆け込むように部屋に飛び込んできた長谷部は、審神者を押し倒している小狐丸の光景に、ショックを受けたようだった。審神者の無事を確認する声も、威勢の良さがすぐに萎んでしまっている。
「全く……ぬしさまの部屋にそのように押し入るなど…」
小狐丸といえば焦った様子もなく、ただ、審神者との行為を邪魔されてしまったことへの不機嫌さを隠せずにいるようだった。審神者の両手を拘束していた手は解かれて、気怠げに髪をかきあげながら上半身を起こした小狐丸は、長谷部に向かって片腕を突き出す。その手に微かな光が生まれ、審神者はハッとして慌てて口を開いた。
しかし、審神者が声を発する前に、刃と刃がぶつかる音が部屋中に響いた。直後、地を這うような声で長谷部が口を開く。
「――貴様、よくも主をっ…!」
「他人のことをいえた口か? ぬしさまに手をつけよって…! 斬り落としてやりたいのは此方の方よ」
審神者の目では捉えることの出来ない早さでぶつかり合う金属の音に、審神者は慌てて体を起こす。小狐丸の拘束が解けた今、審神者とて動くことは出来る。足取りは随分と覚束なかったけれど。
「やめろ!」
衣服を整えるような余裕はなく、小狐丸に乱された状態のまま、長谷部の方へ向かっていく。攻撃をしているのは長谷部の方であり、あくまで小狐丸はそれを防いでいるだけのように感じた故の判断だった。
小狐丸に私闘のための抜刀は許可してない。それでも小狐丸が刀を顕現したのは、自身の身を守るためだろうと、判断を無意識の内に下していたのだろう。
「ハッ…本性を見せたな。その首切り落としてやる。大人しくそこになおれ!」
「やめろ長谷部!」
二人の間に入るようにすれば、小狐丸はすぐに刀の顕現を解いた。長谷部もすぐに審神者に当たらぬように刃の向きを変える。審神者は構わず長谷部に詰めより、服を掴んで引き寄せる。
「しまえ! 抜刀は許可しない!」
既に涙目であった審神者の表情には、決して威厳といったものはなかっただろう。けれど長谷部には効果がきちんとあったようだ。ぐっと言葉を飲み込んだようではあったけれど渋々と刀の顕現を解いた。
「しかし、小狐丸は主を――」
言い掛けて、くっと悔しそうに目を細める。そうして審神者の姿を見つめて、更に表情を歪ませた。そうして刀の顕現を解いたことで空いた手を審神者の首もとにのばすと、絞り出したような声で呟く。
「……いえ、これは、私闘などではありません。主を守るためです。――このようなこと、許されるわけがない」
首筋につけられているだろう数多の跡を見て言っているのだろう。察した審神者は首筋を隠すように手のひらで覆いながら、何でもないように平静を装った。
「小狐丸だけがつけたわけではない」
小狐丸への怒りを減少させられればと思った。その一心から軽く吐いてしまった言葉は、長谷部を激昂させるには十分だったらしい。
冷たい殺気を放ちながら、唸るような低い声で長谷部は口を開く。
「――主命を」
「長谷部?」
「その刀の首を持って参ります」
「っ、だから、私闘は駄目だと言っているだろう!」
視線が審神者を見ているようでどこか違うところを見ている長谷部は、明らかに冷静な状態とはいえない。審神者は長谷部の両頬を包むようにすると、真っ直ぐと己に目を向けさせた。
「落ち着け長谷部! まだ、何もされていない!」
それに、と付け加えて、審神者は言いづらそうに付け加える。
「――お前だって、似たようなことをしただろう。……跡が残っていないだけで」
小狐丸には聞かせたくなかった故に小声になる。審神者の発言に、長谷部は居心地悪そうに顔をしかめた。言葉につまり、審神者に何か訴えそうな視線を向けるものの、適した言葉が思いつかなかったらしい。
「他の刀と俺を……一緒にしないでください」
ただ力のない声でそう呟く長谷部に、審神者は肩を落とす。確かに、小狐丸ほどのことはしていないが、それでも、長谷部とて、同じ部類の行為を審神者に行っていたのだから。一緒にされたくないという長谷部の心境も理解できなくはないが、納得がいくはずもない。
「長谷部、」
長谷部の名前を呼んですぐ、背後から抱きしめられる。はだけて露わにされていた肌に手を差し込まれて撫でられながら、背後からの小狐丸が囁くように口を開く。
「そんな刀は放っておいて、続きを致しましょう。ぬしさま」
しっとりとした声だった。耳に直に当たる吐息に、審神者は顔をしかめた。反射的にきゅっと唇を閉じ合わせたのは、情けない声をだしたくなかったためである。そうしている内に、下着に指先がすっとかけられて、審神者はたまらずひっと声を漏らす。声を漏らさないようにという努力は、一瞬で打ち消されてしまったのだった。
目の前に長谷部がいるというのに、何事もなかったかのようにこのような行動に出る小狐丸の精神はどうなっているというのか。審神者にはとても理解が追いつかなかった。
「貴様っ…!」
案の定長谷部はこめかみに青筋を浮かべ、今にも切りかからんばかりの殺気を出している。審神者は下着にかけられていた小狐丸の手首を掴んで、背後にいる小狐丸に必死に訴える。
「やめろ小狐丸!」
何故わざわざ煽るような真似をするのか。審神者は状況がだんだん悪化していることに絶望するばかりだ。出来ることなら今すぐこの場を去って体制を整えたいところだが、この二振りを残してここを去れるわけもない。仲間割れで殺傷沙汰は御免であるし、そのせいで負った刀の手入れなどしたくない。
「とにかく離れるんだ! でなければ――」
「なんですか? また、出入り禁止でしょうか? ……聞きませんよ」
「だったら、尚更離れろ! 聞けぬなら、もう、お前の毛並みの手入れはしない!」
強行手段ともいえるだろう。なんとか小狐丸を止めたくて口にした言葉は、効果があったらしい。むっとした表情を浮かべた小狐丸は、唇をへの字に描いて、沈黙したまま審神者のことを見下ろしている。その目に負けてはならないと、確固たる意志を持ってその目を見つめ返せば、小狐丸は不機嫌そうなまま、審神者の下着にかけていた手を引っ込めた。
代わりに、寂しそうに審神者の頬に自身の頬を引っ付ける。
「……ぬしさまは、私を嫌いになられましたか?」
ずるい言い方だ。しゅんとしているような様を見せられては、審神者の良心も痛む。けれど、ここで許すわけにはいかない。あのような行為があってもなお、小狐丸を今まで通りに甘やかすことなど、出来るわけもない。
「――いいや。だが、嫌いになど、させないでくれ。私はお前とそのような関係にはならない。お前だけでなく、他の誰ともだ」
口調は弱々しくなってしまったが、それでも、きっぱりと言い放つ。小狐丸は悲しみを込めた瞳で審神者を見つめ、審神者はそれを見つめ返す。ここで、引いてはならない。必ず、ここで拒否しなければ。
「お慕いしております。ぬしさま」
今度は、静かにそう告げられた。僅かに目を見開いて、審神者は言葉を失う。そんな審神者に、小狐丸は悲しげに目を細めて、切ない声で続けた。
「何と言われようとも、この気持ちは変わりませぬ」
真っ直ぐと言われた言葉に、審神者は何も言えなかった。唇が震えて、罪悪感が胸を包む。
(まただ。また、傷つけてしまった)
薬研の姿と、重なる。傷つけてしまった事実が審神者の良心を激しく責め立てる。審神者は表情を歪めて、それでも小狐丸の気持ちには応えられないと伝えなければと唇を開く。
「っ……」
けれど、言葉が出てこなかった。審神者としてそのような感情は持つわけにはいかないと伝えなければならないのに。また刀剣を傷つけてしまうのだと思えば、まだ癒えてもいない傷がじくじくと痛むような、そんな苦しさに邪魔をされてしまうのだ。
そんな審神者の首に、今度は長谷部の腕が回る。
「無駄だ」
そのまま引き寄せられ、とんと、背後の長谷部の胸に背中がぶつかった。審神者がぶつかった衝撃などなかったように、長谷部は淡々と、けれど思い知らせようとするかのようにゆっくりと言葉を紡ぎだす。
「――主の心は俺にある。もしも特別な一振りを選ぶことがあれば、主の身も心も俺が貰うと、そう主と約束を交わしたのだから。決して反故にはできない」
ですよね?主。
そう続けた長谷部に、僅かに目を丸くした小狐丸は、虚をつかれたように黙り込む。長谷部の言葉が信じられないといったような、まだその言葉の意味すら理解が追いついていないというような表情だった。けれど、その視線は審神者に向けられている。審神者の言葉を待っているような、待つしかないような、というべきか。
小狐丸の視線から隠すように、もう片方の腕で審神者の襦袢をとじ合わせるようにしながら、長谷部は更に強く審神者の体を抱きしめた。審神者の口から肯定の言葉を吐き出させたいという、無言の主張だった。
「……そうだ。分かってくれるな、小狐丸。私は、誰も選ばない。最初からそのつもりだった。これからもそうだ。私が望む審神者になるために、誰も、選んではいけない」
目を伏せて、審神者は長谷部の腕に、己の手のひらを重ねた。
「だから約束をした。もしも一振りを選ぶようなことがあれば、この身も、心も、全て長谷部に譲り渡す。どちらにしても、小狐丸。お前を選ぶことは出来ない」
体の良い言い訳。そのように長谷部の存在を利用しているようなものだった。そんな己が醜く思え、審神者は一層苦しげに目を瞑った。そんな審神者のすぐ傍から、満足そうな吐息が吐き出された。
何を言われようと小狐丸は選べない。
とはいえ、長谷部に全てを委ねることはない。
審神者は、誰も選ばないのだから。
最初から決まっていたこと。けれど、何も言わない小狐丸の表情を見ることが出来ない。見たくないと思った。無意識に、手のひらが震えてしまう。
ここからどうすれば良いのか分からないまま、事態は更に悪化する。
「――どういうことだ。大将」
ギシリと、木で出来た床が軋む音がする。小狐丸の正面に立ち、長谷部に抱きしめられていた審神者が、その声に肩を上下させる。空耳であってほしいという願いもむなしく、声の聞こえた廊下に目を向ければ、そこには無表情で審神者を見ている薬研が立っていた。
「……や、げん」
呟くような掠れた声で名前を呼ぶ。けれど、薬研はそんな審神者の呼びかけに返事をすることもなく、ただただ、真っ直ぐと、審神者のことを見据えているのだ。
「聞いた通りだ。薬研」
代わりに、長谷部が声を上げる。自身の物だと示すように、審神者の体を強く抱きしめて、挑発するような声で続ける。
「主が選べる刀は俺だけだということだ。主の気が万が一他の刀に向けられようが、関係ない。今は違うが――いずれは、主の身は俺が貰い受ける」
「……誰かを選べば、の話だ」
肯定の言葉。逃がさぬように意識しているかのように審神者の体を抱きしめている長谷部の言葉に、どうしても逃げることは叶わないのだと思いながら、審神者はくっと、苦しそうな表情で続けた。
「言っただろう。誰も選ばない、と」
そう呟けば、薬研は間を空けることなく口を開く。
「選べば、強制的に長谷部のものになるからか?」
「選ぶ気など、最初からない。長谷部との約束があるからというわけではないよ」
あくまでそこは否定して、審神者は、青ざめているであろう己の額に手のひらを当てて、きゅっと唇を噛んだ。薬研から目を逸らすと、居心地の悪さに吐き気がしてきた。
「なら、その首の跡はなんだ。俺っちはそんなもんつけてねえぞ。ちょっと目を離した隙に、今度はどの刀にやられた? 長谷部か?」
「小狐丸だ。俺は主に乱暴など働かない」
怒気を含んだ薬研の声と、すぐさま言い返す長谷部の声。
「……では、噛み跡はお主か? ぬしさまの体に気安く触れおって……今すぐここを去れ。でなければ……」
「……へえ? 去らなきゃどうなるんだ? 教えて貰いたいもんだな」
棘どころか、言葉の端々に刃が宿っている。今にも抜刀しての騒ぎになるのではないかと感じた審神者は、ぐっと奥歯をかみしめる。そうしてすうと息を吸って、震える隙を与えないように勢いよく唇を開く。
「やめろ!」
怒気を含んだ審神者の制止の言葉。けれど、三振りにそれが届いたのかといえば、微妙なところである。三者一様に殺気と敵意を抱いており、この部屋の空気は最悪なままだ。
「……そもそも、どうして、お前達はここにいるんだ」
長谷部も薬研も、審神者を一人にさせたはずだ。なのに、半日も立たない内に、何故審神者の部屋にまた集合しているのか。その間の悪さに助けられた部分は確かにあれど、審神者はそう疑問に思わざるを得なかった。
「俺は、小狐丸が主の部屋に向かったと聞いたので……」
離れたくない。そう言い足そうに、長谷部は審神者の体をきつく抱きしめ続ける。それに息苦しさを覚えた審神者が顔をしかめると、苛立ちを含んだ声で薬研が声をあげる。
「大将を潰す気か? いい加減、離れたらどうだ。少なくとも今は、大将はアンタのもんじゃないぜ」
切りかからんばかりの殺気。薬研は審神者の乱れた衣服、首に残された痕を見て、忌々しげにその視線を更に鋭くする。
「アンタもアンタだ、大将。警戒心を持てと、今までに何度忠告された? 見ろ、その様でいてまだ、小狐丸は無害だといえるのか?」
今までに見たことがない形相。先程薬研と一対一で対話したときよりもずっと、酷い表情である。審神者は返す言葉も思い浮かばず、悔しげに、きゅっと唇を噛みしめた。視線は薬研と交わすこともできず、何も言えない様はまるで、後ろめたいという言葉を体現しているようだった。
もしも長谷部が来なければ。おそらく今頃、審神者は小狐丸に犯されていたことだろう。
「……とにかく、その格好を何とかしろ。大将」
その後で、話がある。そう続けた薬研に、審神者は、何も言い返すことが出来ないまま、力なく頷いた。
「おい。主に命令を――」
「良い、長谷部。構わない」
すっと息を吸って、審神者は潤んだ視界で己の足下を見下ろしながら、ゆっくりと口を開く。
「私からも、皆に、話さなければならないことがある」
声は、震えていた。
乱された衣服を着直してから、審神者は正座をして対面するように座る三振りを前に背筋を正した。
前に並んで座する三振り。左から小狐丸、長谷部、そして薬研。何れも雰囲気は殺伐としていた。審神者は身に刺さるような視線を受けながら、すうっと息を吸う。
(……話せるだろうか。ちゃんと、伝わるだろうか)
隠せない位置に刻みつけられた数多の痕。変わろうと、そう考えて行動した後にすぐに付けられたそれが、審神者の実行力のなさを物語っている。状況は悪化した。未遂で終わったとはいえ、審神者は無事で済んだとは言い難い。果たして、そんな己がこの三振りを相手にこの場を治められるようなことができるのだろうか。
(清光が居てくれれば……いや、こんな姿を見られることを思えば、いない方が良かったのかもしれない)
審神者は小さく震える拳をきつく握りしめながら、ゆっくりと唇を開いた。
「皆には、もう、伝えたが……私は、誰ともそのような関係にはならない」
各々が審神者の言葉を耳にしながら、値踏みするように審神者を見つめている。その視線を一心に受けて、審神者は今すぐにでもこの場から去っていきたい衝動に駆られた。
一番最初に審神者の言葉に答えたのは、長谷部だった。
「はい。ですよね。主は誰も選ばないと約束して下さいました。もしもそのようなことがあれば、主は俺のものになるのですから、俺は、主の言葉を信じますよ」
薄い笑みを浮かべてはいたが、その目は射抜くように審神者に向けられている。三振りとも険しい雰囲気を纏ってはいたが、審神者との約束があるからだろう、長谷部はその中でも比較的落ち着きがあった。けれどにじみ出る嫉妬の炎は抑えようとも、審神者には痛いほど伝わっている。
「約束だと? ……笑わせる。大方、おぬしが無理矢理ぬしさまに言わせたのだろう」
吐き捨てるように言って、小狐丸は目を細めた。
「ぬしさまが絆されやすいことを知っておきながら――どうせ、他の刀を選ぶなら折ってくれとでもいって言いくるめたのだろう」
「……どんな形であれ、既に主はそれを承知している。お前達の出番などない。お前が選ばれることはなく、先程の無体も罰せられるべき行為だと知れ。刀解処分をされない主の恩情に感謝しろ」
「――とにかく、もう分かっただろう。私は誰も選ばない。もしも選ぶことがあれば、その時は長谷部にこの身は明け渡す。……約束は、約束だ」
息が詰まりそうだ。はっと小さく息を吐き出してから、審神者は畳の上に両手をついて、ゆっくりと頭を下げる。
「……お前達の気持ちを迷惑だとは思わない。誰かに必要とされることも、想われることも……きっと私は、嬉しかった」
もう一度、深く息を吸い込む。誰かに必要とされる喜びを、審神者はおそらく審神者になる前まで知らなかった。審神者として国の役に立つことも、必要にされていることにはなるのだろうが、それとは違う。人ならぬものが相手だとしても、それが親愛や敬愛でなく恋慕の感情だとしても、審神者はそれに嫌悪を持つことなどなかった。
それだけは伝えなければならない。こんな状況を望んだわけではないけれど、それでも、今目の前に座る刀剣達の気持ちを否定することはもうしたくない。受け入れることが出来ないのだと分かっていても。
「だが、私はこの命を、人生を、国のために使うと決めている。特定の相手を作る気はない。私は生涯、伴侶は作らない」
そこまで言い切って、審神者は顔を上げた。
小狐丸、長谷部、薬研。三振りに順番に目を合わせてから、審神者は口を開いた。
「諦めろとは言わない。けれど、私は誰の気持ちにも応えない。知っておいてくれ」
言い終えた瞬間の反応は様々だった。小狐丸は眉間にしわを刻んで苛立った表情を。長谷部はショックを受けたような、傷ついたような切なげな表情を。薬研は審神者の言葉など予想通りだったとでも言わんばかりに、冷静に構えているように見えた。
「……大将。俺の気持ちは、もう散々言ったな」
背筋をぴんと伸ばしたまま、審神者は真っ直ぐと薬研と向き合うように目を合わせる。薬研は強い意志を含んだ声で、口を開く。
「だが、もう一度言うぞ。これは、宣戦布告だ」
「……? 薬研…」
何を言い出すつもりなのだろう。そう怪訝に思った審神者に、薬研はにいっと笑みを浮かべた。
「――アンタを愛している。大将」
その笑みはどこか晴れやかだった。まるで、憂いが全て晴れたような。この場にはふさわしくないようなその笑顔と、そして放たれた真っ直ぐな言葉に、審神者は虚をつかれた。変化することなく真っ直ぐに向けられた言葉に、審神者はかあっと頬が熱くなるのを感じ取る。
「長谷部の約束なら気にすることはない。どうとでもなる。大将を渡すつもりは更々ないからな」
「っ…薬研、貴様何を……」
突然の発言に戸惑う長谷部に構わず、薬研は口を閉ざそうとはしなかった。審神者は戸惑い、制止の言葉すらかけられないままである。
薬研は視線を今度は長谷部と小狐丸に向けて、わらう。審神者に向ける微笑みとは違う、煽るような笑みである。
「――誰にも渡さん」
それは審神者に向けられた言葉ではない。審神者は言葉に詰まって、話の流れが穏便に収まるといった方向とは真逆に向いていることにぞっとする。
「やれるものならやってみろ。そんな抜け道があるものか。お前が足掻けば足掻くほど、俺が主に近づくことを忘れるなよ」
牽制のような言葉。続き、長谷部は審神者に進言するように口を開く。
「主。これからは、常に俺を傍に置いて下さい。主の身を守る刀が必要です」
「どの口が言うのか……一番質が悪いわ」
ため息をついて、小狐丸が吐き捨てるように言い、今度は審神者に甘えるような声で提案をする。
「ぬしさま。この二振りは解かしてしまいましょう。ぬしさまに手を出す刀など、この本丸には不要」
「だったら、一番に解かされるのは旦那だな。手篭めにしようとした責任はその身をもって償っておけよ」
淡々と目の前で行われる言葉の応酬に、審神者は頭を抱えたくなった。話が、ちっとも伝わっていない。審神者は応えられないと言っているのに、まだ一振りも審神者の言葉を汲むという姿勢にはなっていないのだ。
「刀解などしない」
耳にするだけでも不愉快だと、審神者はきっぱりと言い切った。そうして、続ける。
「それに、傍には清光がいる。問題ない。それは今までと変わらない」
そう言うと、長谷部はがっかりしたような表情を見せて、そして詰め寄るように口を開く。
「加州は…加州こそ、主に手を出すかもしれないとは思わないのですか?」
「あり得ない」
その言葉に即答して、審神者は一度目を閉じて、瞼の裏に清光の姿を映した。そうしてすぐに目を開けて、静かに告げる。
「清光は理解している。私が誰も選ばないと。それを尊重すると言ってくれている。だからこそ、近侍は清光だ。変わらない」
もしもここに清光がいたのなら、きっと審神者のフォローをしてくれていたことだろう。清光は、そういう刀だ。だからこそ、いなくて良かったとも思う。これ以上無駄に傷つけることをしなくてよいということなのだから。
「――私は審神者で、お前達の主だ。決して、交わって許される関係ではない。……それを、忘れてくれるな」
諦めろ、とはもう言わない。
審神者の言葉が届いたとて、それが受け入れられることとはまた別の話である。もう、とうに理解していた。
「私が不甲斐ないばかりに、お前達を傷つけて、振り回してしまった。本当に、すまないことをした」
これはけじめである。己の失態の上で成り立つこの関係に、完全に蹴りをつけることができないのだとしても、それでも、歯止めをかけなければならない。
「重ねて、お前達に主命を下す。この本丸で、私情での抜刀は決して許さない。これからこの命を破ったものには、必ず処罰を与える。いいな?」
必要なことは伝えた。伝わったかどうかは定かではないが、少なくとも審神者の主張は三振りの耳に入ったことだろう。それを聞いて三振りがどう思うのかは定かではないけれど。現に、薬研も引くつもりは少しもなさそうだった。
「主命ならば、従います」
最初に口を開いたのは、長谷部だった。
「けれど、諦めません。俺は貴方を、必ず手に入れます」
「…長谷部」
「主にとって、俺の気持ちは迷惑ではないのでしょう?」
傷つけぬように選んだ言葉は、期待を持たせることに繋がっている。審神者は伴侶を作らないと言っているにも関わらず、やはり、聞き入れてはもらえなかったようである。審神者は躊躇いがちに口を開く。
「……迷惑ではないよ。けれど、応えられない」
「人の気は移ろいやすいものです。今にきっと変わります。俺は、待てますよ。……主を、貴方を、愛しているのですから」
真っ直ぐな視線だった。審神者は言葉に詰まり、熱を感じる頬を隠すように視線を己の膝の上に落とした。否定の言葉を言わなければいけない。そう思うのに、その視線と言葉に真っ直ぐさに、怖じ気付くように黙り込んでしまう。
「……待つ必要など……」
辛うじて絞り出したような声も、最後まで続けられることなく掠れて消えていく。応えられないと伝えた。審神者に向けられる気持ちを否定するような言葉も避けた。これ以上、審神者には言えることがない。後はもう、同じような言葉を延々と吐くしか出来ないのである。
困り顔で視線を落としていた審神者は、不意に目の前に影が差したことで顔を上げる。そこでは、いつの間にかに距離を縮めていた小狐丸が、ふんわりと、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「ぬしさま」
呼ばれる。その表情と声に審神者は目を丸くして、小狐丸が審神者の気持ちを尊重しているのだろうという錯覚すら覚えた。もしもそうなら、審神者にとっては朗報だといえるだろう。そうとしか考えられないような雰囲気だと審神者は思ったのだ。
その一瞬だけは。
「まどろっこしいのは好きではありません。ですので、今ここではっきりと申し上げておきます。今回は邪魔が入りましたが、私の気は変わっていませんよ」
うっすらと細められた瞳。それが意味するものを本能で察した時、審神者は言葉を失った。そっと、顎に指をかけられ、持ち上げられる。
「心は後からで構いません。これだけ恋敵がいると知った今、先にぬしさまの体だけでも籠絡しなければ、気が収まりませんので。これだけのことがあった後も今までのように私に隙を見せるのであれば、それは了承とみなします。一切の遠慮は致しません故、」
声が、一等低くなる。
「ぬしさま、早い内に、どうか心の準備を済ませておいて下さいね」
予想もしていなかった発言。長谷部や薬研のいるこの空間で、あろうことか審神者を犯す宣言をした小狐丸に、二重の意味で審神者は戦慄する。誰より穏やかな表情を浮かべながら、小狐丸は誰よりも気を荒くしていたのだと、ようやく審神者は気がついた。
「……で、きないと、言っただろう」
殺気を放つ長谷部と薬研をおさえるように、手のひらを向けながら、審神者は震える声で訴えた。つい先ほどの行為を思い出して、背筋が冷たくなるのを感じ取る。
「できますよ」
否定するように、小狐丸は唇で綺麗な弧を描いた。提案ではなく、もはや決定事項となっているような自信だった。審神者の耳には、「やりますよ」と言っているようにも聞こえた。小狐丸はおそらく、今ここで審神者に気を向ける三振りの中でも、一番審神者の命を軽く見ているのか、一番の脅威となりうる存在とも言えるだろうことは明らかだった。
「ここまで気を許しておいて逃げようなど、甘い話が通るわけもない。期待させたのはぬしさまです。その責任を、どうか、とって下さいますよう」
それはまるで、脅迫のようだった。いや、そうとしか聞こえなかった。審神者はぐっと黙り込み、抵抗するように首を横に振った。そんな審神者の反応に、小狐丸はくくっと楽しげにわらう。
「逃がしません」
そういって微笑みを携えた小狐丸の目から、審神者は視線を逸らせなかった。僅かに、体がこわばる。小狐丸はゆるりと立ち上がり、背後に座している二振りに目を向ける。
「‘早いもの勝ち’じゃ。斬るのは簡単じゃがぬしさまは争いを好まぬ。競争としよう。私がぬしさまを籠絡するのが先か、おぬしらの内どちらかが、ぬしさまを口説き落とすか」
「……シンプルでいいんじゃねえか? 俺は賛成だ。まあ、大将に手を出す暇なんてやらねえけどな」
「主に無体を働いてみろ。主が何と言おうが、俺はお前を圧し斬るぞ。精々背後には気をつけろ。……主は、俺のものだ」
審神者の意思が全く反映されていない会話に、審神者は顔から血の気が引いていくのを感じ取った。
(……少しも話が伝わっていない……)
火花の飛び散る部屋の険悪な空気の中、審神者は額を押さえてうなだれる。選ぶことはないと言っているのに、何故こうも話が通じないのか。
拒絶することも、突き放すことも、効果をなさない。
では、これ以上、どうすれば良いというのか。
審神者は、ここにいない清光に助けを求めたくなった。
[newpage]
そうして、三振りが部屋を去った後、漠然とした不安が審神者を包んでいた。
審神者は歯がゆい思いで手鏡を取り出し、のぞき込む。そこに移る審神者は今にも泣き出しそうな表情を浮かべており、その首には、とても事情を知らぬ刀剣男子達には見せられないような数多の痕が刻み込まれていた。
(……清光)
疲弊した精神状態で、自然と呼ぶ名前は、己の為に身を引いてくれた刀剣男子の名前だ。審神者はぎゅっと目を瞑って、己のために再び自身の心を殺した近侍の名を、恋しい思いで呼んで、続ける。
(……すまない、清光。私は、やはり、上手く立ち回れなかった)
出来ることならば、今すぐに会いたい。けれど、この姿を見せることで傷つけるようなことはしたくない。審神者はその気持ちの狭間で揺れながら、現実から逃げるように、堅く目を瞑る。
清光が好きだといってくれた己の姿は、もはやここにはない。そう思った。じわりと、審神者の目に涙が滲んだ。
どれくらい、そうしていたのだろう。審神者が瞼を開いて、重苦しい体を起こすと、空の色が幾分か赤くなっていた。何をするでもなく呆けていると、ふと、部屋の外に気配を覚えた。審神者はそれを他人事のように思いながら、障子に差す影を見つめる。
「……主。入りますよ」
そうして、ゆっくりとかけられた声。審神者が返事をする前に、静かに障子が開いていく。
淡い夕日の光を背に受けながら、審神者を見下ろす人物を見上げる。審神者は、一度、眩しさに瞬きをしてから、目を開く。
「……宗三か?」
「ええ。僕ですよ」
薄く微笑みながら、宗三は審神者に近づいて、目の前にまで移動すると、腰を下ろして審神者の顔をのぞき込むようにした。そうして、じっと審神者の表情を見ると、つんと審神者の額を指先で押してみせる。
「酷い表情ですね。いずれこうなるだろうとは思っていましたが……」
そして視線を鋭くさせて、冷たい指先で審神者の首に触れる。なぞるわけでもなく、ただ触れただけのそれに、審神者は体を強ばらせた。己の姿が酷いものであることを察した審神者は、今にも泣きそうな表情を浮かべて、震える声で口を開く。
「――……できなかった、宗三」
まるで、幼子のように弱々しい声。
放心していた状態だった審神者は、目の前で己に恋愛感情を持たない宗三を前に、気が緩んでいることを確かに感じ取った。くしゃりと表情が崩れて、嗚咽を堪えるように唇を噛みしめる。
「ちゃんと、しようとしたんだ。でも、何も変わらなかった……それどころか私は、皆に、」
最早、主としての威厳は審神者にはない。まるで縋るように言った声を塞ぐように、宗三の指が当てられる。審神者は口を閉じてすぐその指は離れていって、審神者の首に当てられていた指先も同時に離れていく。
「分かっています。もう本丸中に、話は広がっていますから。言う必要はありません」
うっすらと、左右で異なる宗三の瞳が、細められた。
「貴方がここにいる間、随分と本丸は騒がしかったですよ。ひとまず、貴方に説明しなければいけないことがあります。覚悟は出来ていますか? まあ別に、話は明日に回しても構いませんよ。少なくとも今日は、貴方に気のある刀剣達は来れないでしょうから」
宗三の言葉は審神者には有り難かったが、明日に回すには気がかりな発言が多すぎる。審神者は出来ることならこのまま耳を塞いでしまいたかったが、そうするわけにもいかないと、悩んだ末、首を横に振る。
「……聞く。今、どうなっているんだ……?」
問えば、赤くなった目を指先でなぞりながら、宗三は悩ましげにため息をつく。
「覚悟が出来ているのならば、良いでしょう。では先に、結論だけ伝えておきますね」
「………?」
「新しい決まり――役目が作られました。貴方の、護衛係ですよ。近侍とは別に、常に二振り、貴方の傍に控えます」
護衛係。その言葉が上手く己の中で飲み込むことができずに、審神者はきょとんと疑問符を頭に浮かべる。そうして数十秒考え込むように黙り込んで、そうして、ようやく口を開く。
「……私を想う刀から、私を護衛するというのか…?」
言いようのないような不安に苛まれながら、そんな言葉を口にする。おそらく、審神者が今発した言葉が間違っていないだろうと思いながらも、審神者は己の聞き間違いを願った。
「ええ。そうですよ。もう皆、貴方が一部の刀剣達に好かれていることを知っているので、騒ぎにはなりましたが、話はスムーズにまとまりましたよ」
宗三の手のひらが、ぴたりと審神者の頬に当てられる。その冷たさは、嫌でも審神者を現実に引き戻す。現実から逃避できぬまま、審神者は唇を震わせた。
「誰が、そんなことを」
「加州ですよ」
その名前に、審神者は背筋がさあっと冷えていくのを感じ取った。顔から血の気が引いていく審神者に、宗三は静かに言葉を続けていく。
「貴方が刀剣達と恋愛を望んでいないことは理解していますが……言ったでしょう? 貴方は、隙が多いですから。加州は、それを懸念していました。その為の解決策ですよ」
くらりと、目眩を感じて審神者は目を伏せる。そんな審神者の体を支えるように、宗三は審神者の体を引き寄せた。
「決して貴方を、件の刀剣男子と二人きりにしないこと。貴方に気のない刀を中心に、貴方の護衛係は選ばれます。……僕が思っていたよりもずっと、加州は貴方のことを大切にしていましたね。近侍である自分も例外ではないから、決して貴方と二人きりにはならないと、皆の前で啖呵を斬っていましたよ。――正直、彼を見直しました」
引き寄せられるがまま、宗三の胸に頭を預けながら、審神者は拳を強く握りしめた。己が三振り相手に情けない様を見せていた間に、清光は審神者のことを考えて、審神者の為に行動に移していたのだ。だからこそ、審神者は清光の姿をあの時から今まで見ることがなかったのだろう。
(一体、どんな思いで言ったのだろう……どんな表情で、そんなことを……)
己のことを想ってくれている清光を、また傷つけてしまっているのだと思えば、どうしようもない自己嫌悪に襲われる。
「酷い表情でした。丁度、今の貴方のように」
さらりと審神者の髪を優しく撫でながら、宗三は幼子をあやすように、諭すように、柔らかな口調で口に出す。
「貴方にとっては不本意かも知れませんが……彼の気持ちを尊重して、護衛係が貴方の傍に控えることの許可を、どうかお願いします」
「護衛など……なあ、宗三。どうして、清光はここに来ないんだ?」
「貴方に見せられる顔じゃないから、と。それから、貴方に手を出した刀達への説教で忙しい様子でしたよ。ですから僕が貴方に説明しに派遣されましたが、一人ではありません。小夜が、部屋の外で控えてくれています」
審神者はゆっくりと宗三から体を離して、部屋の外へ目を向ける。審神者に背中を見せるような形で廊下に立っていた小夜左文字の姿を確認すると、苦しげに目を細めてみせる。
「小夜まで、巻き込んでしまったのか……」
「巻き込まれたなど、お小夜は思っていません。僕だってそうです」
強引に顔を向けさせ、審神者の顔を宗三は自身の顔に近づけさせてしまう。
「こんな姿にされても刀解処分が出来ないというのでしたら、ここまでやらなければ意味がありません。貴方に許可を貰いにきた体ではありますが、拒否権はないと思って下さい。今の貴方の姿を見れば、間違いなく本丸内は殺傷沙汰ですよ。今の貴方の姿、完全に事後ですよ? 事後」
露骨な表現に、審神者の表情が曇る。そんな審神者の反応に気をとられることもなく宗三は言い放つ。
「貴方に自分の身を守る力はありません。それは理解できますね? それでも護衛をつけないというのならば、手っ取り早く僕が彼らを斬ってきます」
はっとして、審神者はあわてて首を振る。
「そんなことをっ…」
「させたくないのなら、道は一つですよ。巻き込んだとか巻き込めないとか、つまらないことに気をとられないで下さい。主。決断を――」
告げられ、審神者は宗三から逃げることも出来ず、沈黙の後に、小さく頷いた。それを確認した宗三が審神者の顔を解放する。
「……わかった。頼む。護衛をつけてくれ」
悔しくて、審神者は苦痛の表情を浮かべる。
「私では、私一人では、何も変えられない」
その悔しさを吐き出すようにそう口にすれば、宗三は、慰めるように審神者の頭をなでていく。それを受け入れながら、審神者は目を閉じた。
「……良かった。これで僕は、彼らの首を落とさなくて済みそうですね」
ぽつりと、宗三が呟いた言葉。審神者は己の耳を疑いながら宗三のことを見る。宗三は先ほどの自身の発言など気にも留めていないように、静かに微笑んだ。
「聞き流して良いですよ」
先ほどの宗三の言葉が衝撃的で、すぐに答えることが出来ない審神者に、宗三はふっと笑った。
「冗談ですから。今のところは」
やわく審神者の頬を摘んで、事もなげに口にする。完全に血の気が引いてしまっている審神者は、覇気のない声で口を開く。
「……駄目だ。許可しない」
「ええ。分かっています。未遂の内は、僕も、仲間を斬りたくはありませんからね。くれぐれも自衛に努めて下さいね。全ては貴方次第ということです」
言いながら、宗三は立ち上がり、審神者を見下ろす。
「心配ありませんよ。主。貴方は僕が守ります。……お小夜も、同じ気持ちですよ。忘れないで下さいね」
そうして、緩く、自身の髪を撫でながら、宗三は続けた。
「……後ほど、加州を寄越します。二人きりになれる機会はこれきりと考えて、しっかり話をしておくことを勧めます」
その宗三の言葉に、審神者は何も答えられなかった。
ただ、己の本丸の空気が一変していく恐れを感じ取っていた。
審神者は、ただ刀剣達と仲良くなりたかった。
それだけであった。
近侍である清光を傷つけたくはなかったし、むしろ、審神者は清光の笑顔が見たかった。幸せそうにする様を見たかった。
間違っても、本丸の刀剣達の間で諍いを起こさせるようなことを望んでいたわけではない。恋愛対象としてみられることを、口説かれるようになる事態を、審神者はほんの少しも想定していなかった。己がそのような対象としてみられてしまうという可能性すらも、審神者は最初から考えていなかったのである。
ましてや、審神者を想い欲望の対象とする刀剣達から審神者の身を警護するために、別の刀剣を護衛とするなど。これも全ては己のふがいなさが原因なのだと思えば、審神者はただただ己の無力と情けなさを嘆くほかなかった。
ここまで事が進行した以上、審神者が今更何をしたとしても、結果はそうは変わらないだろう。それだけは、はっきりと自覚していた。
「――主。入っても良い?」
宗三が部屋から出ていくと、入れ替わるように、清光の声が聞こえてくる。審神者は己の膝を見下ろしながら、ぼんやりと、まるで他人事のように考えた。
(……二人で話せるのは、これが最後…か。おかしいな、離れるわけでもないというのに)
先ほど、宗三が審神者に告げた言葉を脳内で繰り返す。審神者はつんと切なくなった胸を手のひらで押さえながら、静かに息を吸い込んだ。
そうして顔を上げて、ゆっくりと、吐き出す。
「ああ」
するすると、開かれる障子の間から、目元を赤くした清光が姿を見せる。その姿を見て、清光が審神者のいないところで泣いたのだと実感した審神者は、泣きそうになった。堪えるように視線をまた膝の上に移せば、清光はゆっくりと審神者の視線の中に入ってきて、審神者の前で膝をつく。
そっと、清光の手のひらが、審神者の頬へ当てられた。ぴたりと触れられた審神者は、清光から伝わってくる体温に、きゅうっと胸が締めつけられているように感じてならなかった。
「清光、」
「うん。分かってるよ、主。だから、謝らないでね」
すまない。そう言い掛ける前に、清光はそう口にする。どこまでも審神者のことを理解しているのだろう清光は、審神者の首に残された数多の痕にも、激昂した様子はなかった。
ただただ審神者を気遣うような柔らかい声に、審神者はどうしようもない気持ちになって、きゅっと唇をとじ合わせる。
「宗三から聞いたかな? 主の護衛係のこと。護衛っていうか、見張りだよね。薬研も長谷部も小狐丸もさ、主が好きってことばかりで、主の気持ちなんて二の次だもん。こうでもしないと、きっと守れないから」
反対側の頬も、包むように触れられる。優しく頬に触れる指先が、何故か痛く感じてしまう。
「主が嫌がるだろうなって分かってたけど、ごめんね、分かってほしい」
返事をしようと思うのに、思ったように声が出てこない。審神者は代わりに、こくりと頷いた。清光は寂しそうな声で続けた。
「主。俺がこうして二人で話すのも、多分、これきりだと思う。言い出したのは俺だから、ちゃんとしなきゃだし。……だからさ、主の顔、ちゃんと見たいな」
言われ、頬に触れる清光の手に己の手のひらを重ねてから、静かに顔を上げる。近い距離に、清光の整った顔があった。けれどその目元は赤く色づいていて、至近距離で見て改めて、清光がこの件でどれだけ心を痛めたのかを実感する。
「はは、主、目が真っ赤だ」
から元気に言いながら、清光はぎこちない笑顔を浮かべた。それから、か細い声で、続ける。
「……守れなくて、ごめん」
そんなことはない、と。そう主張するように、審神者は首を横に振る。じわりと浮かぶ涙で視界が揺れて、清光の輪郭すらぼやけてしまう。
「……そんなこと、ない。清光は、ずっと私を守ってくれていた。初めてお前と出会った日からずっと、おまえは、わたしを支えてくれていた……」
応えられるものならば応えたい。与えられるものがあるのならば、全てを与えたい。そんな気持ちで、審神者は、衝動的に、言葉を紡いでいく。
「なのに、傷つけてしまってばかりだ。いつだって、お前のことをないがしろに……」
話の途中で、遮られる。引き寄せられ、そのまま強い力で抱きしめられたからだった。
「そんなことない。そんなことはないよ、主」
震える声で、清光は告げる。
「だって俺、幸せだもん。主のために頑張ってさ、主から頼りにされて、必要にされてるって感じ、大好きだから」
耳元で言われているせいで、清光の表情は確認できない。けれど、審神者には何故だか、清光が今どのような表情を浮かべているのか、手に取るように分かった。きっと、強がっている。審神者に心配をかけないように、必死に虚勢を張っているのだ。
「心配しないで。俺、ちゃんと出来るから。主のために、いっぱい頑張るからね」
そう言って、清光は審神者の肩口に顔を埋めるようにする。
たまらない気持ちになって、審神者の目から、溢れた涙が粒となってこぼれ落ちていった。
何も言えず、審神者は清光の背中に腕を回して、強く強く抱きしめる。
そうして、互いに何も言わないまま、どれだけの時間がたったのだろう。審神者はそれが分からぬまま、このまま、ずっとこうしていられたらと、そんなことを願ってしまう。伝わる清光の体温を逃したくない、離れたくないと思いながら、静かに目を閉じる。
ふと、清光が動いた。審神者の体から離れようとするかのように、肩口から顔を上げて、もう一度、審神者の顔をのぞき込んだ。
静かに交差した視線に、審神者は全ての意識を持って行かれてしまったような錯覚を覚えた。
「また、泣いてる」
清光は無理矢理に笑みを浮かべると、ちゃかすようにそう言いながらも、ゆっくりと、審神者の目尻を指先で拭う。清光はそっと、審神者の顔に自身の顔を近づけた。
瞼の上に、優しく重ねられた唇。審神者が再び瞼を開くと、そこでは清光が寂しそうに、微笑んでいた。そうして、ゆっくりと離れようとする。離れて、行こうとする。
咄嗟に、審神者は清光を引き留めるように、背中に回した手の平に力を込めた。
「……主?」
審神者の方から引き留められるなどと考えていなかったのだろう。審神者とて、清光を引き留めるような真似をした己の行動に驚いている。
「……きよ、みつ」
自分でも理解できないと思いながらも、審神者は、無意識に清光の名を呼んでいた。まるで、すがりつくような、哀れな声だったと、己自身そう思う。早く離さなければ。そう思うのに、体はその意思に従ってはくれない。
どこにも行ってほしくない。そんなことを思ってしまうのは、己の弱さと自覚している。受け入れることなどできないのに、それでも、離れてほしくないと考える思考のなんと身勝手なことか。
けれど、審神者は離せなかった。いっそ、清光の方から、この手を振り払ってくれればいいのに。そんなことを考えてしまう。
「だめだよ、主。離さないと、どうなっても知らないよ?」
茶化すような物言い。けれど、そっと唇を指先でなぞられて、審神者は僅かに肩を強張らせる。清光が冗談でこう言っているのだと理解しているが、それでも、それでも良いからなどと考えてしまいそうになる。
清光を解放することが出来ずにいる審神者の姿を見て、困ったように、苦しげな表情を浮かべながら、清光は審神者の唇に、自身の唇を近づけた。これで、審神者が自身から離れると思ったのだろう。審神者はその意図を、なんとなく理解していた。刀剣男子とはそんな関係にならないと、審神者はもう何度も清光に伝えているのだから。清光はそれを理解しておきながら、行動しているのである。
審神者はそれでも、清光を離したくないと思っていた。
例え、このまま触れられようとも、相手が清光ならばなどと、考えてしまいそうになる。
(……こんなにも、私は弱かったのか)
そんな審神者の態度は、清光を受け入れると、態度で示しているようなものだった。受け入れることなど、実際は出来もしないくせに、である。
その証拠に、清光の気配がすぐそこにまできていたというのに、ギリギリになってから、審神者は逃げるように下を向いた。流されそうになった己に、流されたいと思った己から向き合うように、瞼を開く。けれど、清光の顔は見れない。
審神者として越えてはいけない一線だ。相手が清光であろうとも、審神者にとって、それは許されないことだった。
あと一瞬でも反応が遅れていたのならば、審神者は、清光を拒むことなどもう生涯出来なかっただろう。そんなことを思いながら唇を閉じ合わせた審神者に、清光の冷たい声が降ってきた。
「――酷いよね、主は」
乱暴に、清光は審神者の肩を掴んで、引き離す。審神者は顔を上げて、目の前の清光のことを見る。
清光は、決して審神者と目を合わせようとしなかった。
「……ごめん、俺、何言ってるんだろうね……」
立ち上がって、清光は審神者から距離をとる。その拍子に、清光に回していた手が離れていった。確かに手の届く距離にあった体温が、存在が、遠くに離れていってしまっていく不安に、審神者は寂しそうに目を細める。
けれど、引き留めることなど出来るわけもない。
審神者は清光から放たれた言葉を己自身に似合った言葉だと思いながら、それ以上何も言えずに、黙り込むようにして視線を落とす。
「……私は、刀剣達とそんな仲にはなれない。相手が誰であっても」
絞り出すように紡いだ言葉。審神者はこのような発言を、もう何度したのかさえ覚えていない。一貫してそう言い続けても、受け入れてはもらえなかった言葉である。
清光は息を呑んで、自嘲するように笑った。
「分かってるよ。だから、俺は主を――」
「違う。違うんだ、清光。私は……」
言い掛けて、止まる。己が今何を言おうとしていたのか、頭の中でまとめてさえいない状態で、審神者の口からは言葉が溢れていった。
「それでもお前を…清光を差し置いて、他の誰かを選ぶことなどしない」
何を言っているのだろう。己の言葉を省みることすらしないまま、口を閉ざさなければならないと思いつつも、そんな思いに逆らうように唇は動いていく。
「お前以外は、選ばない」
決定的な言葉だった。審神者の中では、明らかに、審神者としては逸脱している発言に、口にだして初めて審神者は己の言葉を後悔する。言わなくても良い言葉だった。なのに審神者は、それを清光に伝えてしまった。
応えることなど、出来ないと言うのに、告げてしまった。
酷な仕打ちを、審神者はしてしまっている。自覚はあった。
「やめて」
清光から返ってきた言葉に、審神者は体が強ばるのを感じ取った。その声は震えていたが、それは悲しみや喜びよりも、怒りに近い感情からくる震えだったと、清光の表情を見なくても分かることだったからである。
「二度と、そんなこと言わないで」
血の気が失せていく。審神者は拳をぎゅっと握りしめて、か細く震えた声で口を開く。
「――すまない、」
顔を上げられない。清光の表情を見ることが怖い。己を見下ろす清光の目は、きっと冷ややかなことだろう。そう思うと、審神者の体は拘束されているかのように強ばって、酷く重苦しくなるのだ。呼吸も鈍くなって、審神者は、逃げるように堅く目を瞑る。
己がみっともなく、情けなく思えた。こんなにも己を恥じたことはないとも思った。
目の前で立ち、審神者を見下ろす清光は何を思ったのか。それ以上審神者に何も言葉を投げないまま、踵を返して部屋から出ていく。その気配を感じながらも、もう引き留めることもできないままでいる。
静かに、障子が閉まる音が聞こえた。そして、遠ざかっていく足音。清光がいなくなったと分かってもなお、審神者は暫くその姿勢のままでいた。
(――呆れられた。失望、された)
先ほどの清光の反応。それ以外は考えられない。審神者は絶望ともいえるような表情を浮かべて、くしゃりと表情を歪めた。そうして、再び簡単に溢れ出てきた涙が、重力に従ってぽたぽたと落ちていく。
(当然だ。こんな浅ましい姿を見て、清光が私を軽蔑しないわけがない。挙げ句、あのような言葉を、よりにもよって清光に――……)
涙を拭う気力もない。どうせ拭ったところで、次から次に溢れてくるのだから同じことである。
ただ、一つだけ分かったことがあった。はっきりと自覚した気持ちがあった。今まで目を逸らして逃げようとした、自覚しないようにしていた気持ちを、はっきりと言葉にして吐き出してしまった。
(――……私は、清光が好きだったのだろう。きっと、清光が私に言ってくれていた言葉と、同じ意味で)
一度受け止めてしまえば、もう己自身にさえ隠せない感情だ。己自身に嫌悪を抱きながら、審神者は静かに絶望した。部屋に響くのは、嗚咽の音だけである。
清光とは、以前のような関係には戻れない。清光は既に、審神者に対しての想いを見限っている。
自覚した気持ちは、自覚した時には既に枯れるしかない運命にあったのだ。
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