朝、目を覚ます。少しの眠気はあるが、ほんの少しの時間で意識は完全に覚醒する。審神者は、誰に起こしてもらわずとも、勝手に目が覚める方である。酒を飲んで酔った日や夜更かしをしてしまった翌日などは例外ではあるが、基本的に寝起きは良い方なのである。今日も、またそうだった。

昨夜は燭台切と様々な話をして寝るのが遅くなったが、どうやら起床時間に影響はなかったらしい。審神者は静かに体を起こして、隣の布団で眠る燭台切のことを見下ろした。そして布団から出て移動すると、眼帯を外してぐっすりと熟睡している燭台切の寝顔をのぞき込んで、審神者は優しく微笑んだ。


(……護衛係などと思っていても……やはり、昨日のように交流ができることは有り難い)


小狐丸や蛍丸のように甘えたいと素直に言って積極的に動いてくれる刀剣ならば良いが、燭台切のように我慢して、審神者への希望を胸の内に秘めている刀剣もまだいるのだ。おやつ係なんてものがあっても、実際審神者にそこまで口に出せない刀剣男士もいることが、燭台切の件でよくわかった。

くしゃりと、燭台切の頭に手の平を置く。起こさないように撫でてあげれば、心なしか、燭台切の寝顔が幾分か柔らかくなったような気がした。

堅めの髪質が見た目の想像通りで、なんだか審神者は笑ってしまった。





[chapter:審神者は恋ができないB]




「おはよう、大倶利伽羅」


障子を開けて、審神者は部屋の外で刀を抱きながら片膝を立てて座る大倶利伽羅にそう声をかけた。審神者がどれだけ言っても聞く耳を持たず、決して譲らなかった大倶利伽羅は、やはり立派に寝ずの番をやりとげたようだ。その膝の上には、昨夜審神者が渡した薄手の毛布がのっている。

無言でいた大倶利伽羅だが、審神者はその反応に驚いたりはしない。
審神者は大倶利伽羅と視線を合わせるように床に膝をついて、微笑んだ。


「守ってくれて有り難う」


手を伸ばして、先程燭台切にしたように、頭の上に手のひらを置く。振り払われるかもしれないとは思ったが、大倶利伽羅は審神者の手を振り払ったりはしなかった。

眠気を少しも感じさせない視線を審神者に向けて、大倶利伽羅は静かに口を開いた。


「アンタは、どうしてそうなんだ」
「? 何の話だ?」


大倶利伽羅が審神者に何を言いたいのか分からない。審神者がそう聞き返せば、大倶利伽羅は頭を撫でる審神者の手首を掴んで引き離し、じっと、審神者の目を見据える。


「何でも受け入れるのは止めろ。もっと突き放せ。気があると思わせるから、悪化するんだ。昨日の件でよく分かった。アンタは、質の悪い誑しだ。言われている通りだな」
「……誰が言っているんだ、それは」
「誰でも良いだろう。とっくに周知されていることだ」


朝から耳に痛い台詞を聞きながら、審神者は苦い表情を浮かべた。誑しとの評価を受けていることは度々耳にしてはいる。だが、こうも違う相手からその評価を聞く度に、本当にこの本丸にその情報が流れているのかと耳を疑いたくなる。それというのも、審神者には思い当たる節がないからである。

そんなつもりはないというのに、皆に周知されている点が審神者は恐ろしかった。


「気を引き締めろ。今日は、アイツも帰ってくるんだろう」
「……遠征部隊か」


小狐丸のことか、とは言わなかった。大倶利伽羅が危惧しているのであろう刀剣は小狐丸のことだろうが、なんとなく、直接的な名前を出すのは憚られたのである。そんな審神者の考えを見透かしたように、大倶利伽羅は言う。


「小狐丸だ。アンタはあれに犯されかけたのだろう?」


審神者は、沈黙した。沈黙せざるを得なかった。言葉が出てこなかったのだ。起き抜けにかけられる言葉としては、耳に入れたくない言葉の筆頭である。


「アイツはこの本丸でも一番警戒されている。だから身動きがとれないのだろうが、その分鬱憤が溜まっているらしい」
「………」
「反動がいつ来るか分からん。いいか? 二人になるな。必ず、護衛を傍に置け。昨日のような不抜けた対応はするな。少しくらいは良いなど判断するな。この件については、お前に決定権はない」


耳に痛い。昨日の審神者の判断を、大倶利伽羅は忘れてはくれないようである。審神者は肩を落とし、けれど同じようなことが起きないのかどうか強く言い切ることもできず、大倶利伽羅から視線を少しずらす。


「……気をつける」


大倶利伽羅に顎を掴まれ、強引に視線を合わせられる。じっと、至近距離で真っ直ぐ目を見据えられて、審神者はどきりとした。自信のなさを視線だけで指摘されているようで、非常に、後ろめたかったのである。


「ああ、気をつけろ」


出来なければ許さない。そう言いたげな眼力は、凄まじかった。








「来たぜ、大将! 厚、今日の護衛係だ!」


朝餉の膳を持参してやってきたのは、厚藤四郎である。戦衣装に身を包んでにっかりと笑った厚に、審神者は微笑む。今日一番の元気の良さだ。とんと胸を叩いて元気いっぱいにそう言い放った厚に近づいて、優しく口を開く。


「おはよう、厚。今日はよろしく頼む」
「任せとけ! ちゃ〜んと、オレが大将を守って見せるからな!」


頼もしい限りだ。まだ審神者の傍にいる燭台切は、持参した布団を畳みながら不思議そうに首を傾げた。


「あれ? 厚くん、一人? 護衛係は二人のはずだけど」


そう言う燭台切に、厚は何でもないように笑う。


「ああ、もうすぐ来るんじゃねえか? なんか寝癖が直らないとか言って時間かかりそうだったから、置いてきた。そもそも寝坊してたからな、後藤。昨日なんて全然寝れなかったみたいで、中々起きねえし……でも護衛は交代しないとだからな」
「そうなの? うーん。じゃあ、僕は後藤くんが来るまで残っていようかな。何があるか分からないから、護衛係は二振りは必要だし」

「……オレ一人でも、十分大将を守れるぜ?」


おそらく、燭台切は昨日のことを考えているのだろう。大倶利伽羅を置いてきてしまった先の出来事を未だに引きずっているらしい。それを察することのできる審神者はともかく、そのような事情など知らない厚にとっては力不足を指摘されたような気の悪さを感じたらしい。

それに気づいた燭台切は、慌てて首を横に振る。


「違うよ? 厚くんがどうって話じゃなくて、ええっと、あのね、」


けれど言葉に詰まって、何も続けられない。流石に昨日の出来事を厚に伝えることは躊躇われたらしい。審神者もそれには同意見だ。わざわざ伝える必要などない。フォローしようと審神者が口を開きかけたとき、部屋の外から大倶利伽羅が入ってくる。


「一振りだと、隙をつかれる。ふらふらと姿を消してすぐ刀剣を誑し込む主を守ろうとするなら、どうしても一振りでは足りない」

「伽羅ちゃん…」
「大倶利伽羅?」


説明し、大倶利伽羅は親指で審神者を示す。


「いいか? 護衛係なら肝に銘じておけ。この本丸の審神者――お前達の主は、自覚のない誑しだ。ちょっと目を離した隙をついてまた違う刀を口説き出す。昨日も、それで苦労した」


そうして当然のようにそう続けた大倶利伽羅の言葉に、厚は驚愕の表情を浮かべて審神者のことを見る。酷い言い草である。ここで黙っては大倶利伽羅の言葉を肯定するようなものだ。審神者は眉間にしわを寄せて、大倶利伽羅の言葉を窘める。


「大倶利伽羅。適当なことを言うんじゃない」


既に大倶利伽羅の言葉を信じかけている厚の視線のなんと痛いことか。大倶利伽羅は審神者のことを全く信用していないようだ。審神者は昨日大倶利伽羅にかけた迷惑のことを思い返した。それを差し引きしても、どうしても大倶利伽羅の言葉を肯定することなど出来なかった。


「適当か? 身に覚えはあるはずだが」
「ない」


きっぱりと返事をすれば、大倶利伽羅は鼻でわらう。


「そら見ろ。自覚が全くない」


厚を見ながら言う大倶利伽羅。どうしても審神者の言葉を聞き入れる様子はないらしい。言い返そうとする審神者より先に、大倶利伽羅は審神者に背を向けながら口を開いた。


「俺はお前と交代する。後は頼んだぞ」


すたすたと歩きながら出ていこうとする大倶利伽羅に、厚が頷く。


「分かった! 大将はオレがしっかり見張っておく!」


見張る対象は審神者ではなかったはずだが。釈然としない気持ちで、審神者は心中そんなことを思った。けれど何を言っても分かって貰えないだろうという諦めにも似た気持ちが、それ以上の発言を躊躇わせてしまう。何も言わずに大倶利伽羅の背中を見送る審神者の肩に、燭台切が控えめに手を置いた。


「……ごめんね、主」
「ああ、大丈夫だ。燭台切」


それ以上審神者は、この件については何も言わないことを決めた。護衛係として来た厚が、審神者の元に来て五分も経たない内に審神者を護衛対象から監視対象へと変えたことなど、審神者はもう気にしない。刀剣男士同士で諍いが起きるより、審神者を警戒対象にしていたほうがマシである。己にそう言い聞かせることで審神者は平静を保つことにしたのだ。


「口説いちゃ駄目だぜ、大将。大将には薬研がいるんだからな」


だが、その平静もすぐに打ち破られた。とんでもない発言に審神者は固まり、さも当然のことのように言われた言葉にすぐさま反応を示すことが出来なかった。

代わりに、燭台切が反応する。


「………薬研くん? 残念だけど、主は薬研くんと恋仲になる予定はないよ。そうだな……どちらかといえば、長谷部くんの方がお似合いだと思わない? 二人ってほら、どこか似てるんだよね。きっと相性も良いと思う」


何を言っているんだ何を。厚への返事をする前に燭台切まで爆弾発言をしてしまう。審神者は、信じられないといった形相を燭台切に向けた。


「いいや? 大将は薬研の隣が一番似合うね。やっぱり初鍛刀ってのは特別だよね」
「ううん、出会った順番なんて関係ないよ! 長谷部くんが一番主のことを好きなんだから、やっぱり長谷部くんがいいよ。長谷部くんは尽くすタイプだからね、ちょっぴり抜けてる主にはぴったりだよ」
「それを言うなら、薬研の方が尽くすタイプだろ。薬研の包容力は粟田口一だ」
「うっ…確かに、薬研くんは頼りになるけど……でも、長谷部くんだって負けてないよ!」


燭台切は負けじと言い返す。その二振りのやりとりに、審神者は静かに眉間にしわを寄せた。今の燭台切の発言から色々な可能性が浮かび上がる。それを昨日の燭台切の台詞の諸々と照らし合わせると、辻褄があった。


(……長谷部と恋仲にさせようとしていたのか?)


昨日の燭台切のあの健気さはなんだったというのか。審神者はショックを受けていた。何も言えずに眉間のしわを指先で押さえながら、審神者は護衛係とは何ぞと己に問いかける。間違っても、主である審神者と刀剣男士を結びつけるような役割ではなかったはずだ。


「……やめなさい。私は、刀剣と恋仲にはならないよ」


いつまでも現実から逃避するわけにはいかない。白熱している二振りに向けて言えば、さっと審神者に目を向けて声をそろえて答えるのだ。


「「今は、だろ(でしょう)?」」


去ったばかりであるが今すぐに大倶利伽羅に戻ってきて欲しい。誰か大倶利伽羅を呼んで来て欲しい連れてきてほしい。審神者は思考を張り巡らせる前に、無性に大倶利伽羅を恋しく思った。歯に衣を着せない大倶利伽羅の言葉でこの本丸の状況を、刀剣男士達の考え等をまとめて教えて欲しかったのである。


「……?」


ふと、ドタドタと慌ただしい足音が近づいてくることに気がついた。審神者は、その音の主が予想できて、部屋の外へ目を向ける。間違いなく、遅れてくると言っていた後藤藤四郎だろう。大倶利伽羅もこの調子で戻ってくれば良いのになんて考えつつ、審神者は歩いて部屋の外へ歩いていく。部屋の外に出て、離れに向かう後藤の姿が見えるのを待とうと思ったのだ。けれど短刀の機動は舐められない。既に部屋の前にたどり着いていた後藤は、審神者の姿を確認すると、乱れた戦衣装を直す余裕もない状態で慌ただしく口を開く。


「悪い! ちょっと寝坊して、遅れた!」


息を乱しながらそう言う後藤は、はきはきとした物言いではあったが至る所が隙だらけで、審神者はその勢いに呆気にとられた後、笑ってしまう。くすくすと笑い出した審神者に、後藤は頬を赤らめながら反応する。


「な、なんだよ、大将、なに笑ってんだよ……」


審神者が笑っている理由が笑わず、けれど自分が笑われているのだということは分かった後藤は、既に恥ずかしそうにしている。審神者は後藤を呼ぶように手招きする。後藤は、戸惑いながらも審神者のそばに近づいた。

審神者はちょいちょいと、後藤の服を指さした。ちょうど、シャツのボタンがかけ間違えられている箇所を。


「あっ、……わ、ちょ、うそだろ〜」


シャツのボタンはかけ間違えているし、ネクタイも曲がっている。加えて、いつもそうだが、それでも、いつもと違うと感じるくらい髪も寝癖がついてしまっていた。申し訳ないと思いつつ、審神者はそれを可愛く思ってしまう。笑ってしまったのも、可愛くて、思わずだ。

部屋の中にいる二振りには気づかれないように声は出さなかった。審神者の言いたいことに気づいたらしい後藤は、少し涙目になってしまっている。よほどショックだったのか、恥ずかしかったのか。焦ってうまくいかないのか、もたつきながら慌てて服の乱れをなくそうとしている。一度上着の前を開いて、シャツのボタンを正しくかけようとしているが、時間がかかりそうだ。


「私がするよ」


小さな声でささやくように言って、審神者は後藤のシャツに手を伸ばす。てきぱきと乱れを直していく審神者に、後藤は緊張するように強ばらせた。


「わるい、大将」
「構わない。急いで来てくれたのだろう? 嬉しいよ」


言いながら、ボタンをきちんとかけ直した審神者は、今度はネクタイに手を伸ばす。


「や、そこまでしなくていいって。それくらい、出来るし」
「そうかい? まあ、でも、迷惑でなければやらせてもらえないだろうか。ネクタイなんて、滅多に触らないからな。なんだか新鮮なんだ」
「……大将、和服ばっかりだもんな。まあ別に、大将がしたいっていうなら、やってもいいけど、」
「ああ、ありがとう。後藤」


身につける機会も触る機会もそうないが、やり方を知らないわけではない。審神者は綺麗な見た目になるように注意をしながら、ネクタイをしめる。最後にきゅっとネクタイを締める時の布が擦れる音は、嫌いではなかった。そうして上着もしめれば、乱れなんて何もない。立派な戦衣装を纏った後藤藤四郎である。


「――男前だな、後藤。よく似合っているよ」


一度目で成功したことがちょっとだけ嬉しくて、審神者は歯をのぞかせてわらう。後藤の頭の上に手のひらを置いてわしゃわしゃと撫でれば、後藤は恥ずかしさに耐えきれなかったようで、上擦った声をあげてしまう。


「っ〜〜あんま、恥ずかしいこと言うなって! 誤解されるぞ! 大将には薬研がいるだろ!?」
「……後藤?」


まさかお前も薬研を推しているのか。護衛係の両方が特定の刀剣男士と審神者をくっつけて恋仲にしてしまおうと考えているのだとすれば、護衛係なんてあってないようなものではないだろうか。あまり考えたくはないがいずれはしっかり答えを出さなければならないだろう疑念に、審神者は顔をひきつらせる。


「……本当だ。目を離した隙に口説いてやがる」
「厚くん、主のこと頼むからね。しっかり見守っておいてね?」
「おう。でも、こりゃあ、目を放せねえかなあ。薬研のためにも」
「長谷部くんのために、ね」
「薬研のためにも、だな。大将はきっちり見張っとくからな」


部屋から顔を除かせてそんな会話を繰り広げる二振りに、審神者は頭が痛くなりそうだった。そんな各々の様子を見ながら、後藤だけがきょとんと構えていた。




加州清光。小狐丸。同田貫正国。鳴狐。蜻蛉切。千子村正。
遠征部隊は、この六振りである。遠征部隊を希望したのは清光であり、小狐丸も共に連れて行くと言った清光には、何か遠征以外での目的があったようだった。深くは立ち入らなかったが、審神者にはその目的が何であるのか、容易に想像が出来ていた。


(……私絡みなのだろうな)


はっきりと清光が言ったわけではない。けれど、それで間違いないだろうと審神者は思っている。深く尋ねていけば清光も教えてくれたかもしれないが、審神者はそれをしなかった。予定のなかった遠征だ。急な話だった。急いで残りの人員配置を審神者が行い、送り出したのは数日前。

彼らの帰還を、審神者は今待っている。
複雑な心境であった。


「何かされそうになったら俺達がいるからな! 大船に乗った気でいろよな。大将」
「でも、誑しちゃダメだぜ大将。これ以上数が増えたら大変だからな」


両側には、護衛係である厚と後藤が控えていた。

清光不在時の近侍である長谷部は、現在審神者の部屋で書類整理を勤めてくれている。遠征部隊の出迎えに行く審神者を気にかけており、ついてこようとはしていたが、護衛係である厚と後藤に何やら説得されて断念していた。審神者には聞こえないようにひそひそとされていた説得だったので審神者にはその内容が分からないが、出迎えにそんなに人数も要らないだろうと思っていたので、特に何も言うことはなかった。


『主。くれぐれもお気をつけ下さいね』


心配そうに審神者にそう言った長谷部の姿は、まだ記憶に新しい。小狐丸が部隊に含まれているとはいえ、出迎えをするだけである。審神者は、大袈裟だと思わざるを得なかった。

それはそれとして、審神者は厚の言葉を否定する。


「……厚。誑した覚えなどないのだけれど」
「自覚はした方がいいと思うぜ、大将」
「大倶利伽羅も言っていたが……何故私はそこまで酷い評価を受けているんだ? 誑しだなんだと――私は、普通に接しているつもりだよ」


朝から何度誑し呼ばわりされているのか。朝からどころか、違う刀剣男士からも何度も誑し呼ばわりされている。前々から、聞いては凹んでいたのだ。審神者は、何も口説こうと思って刀剣男士と接しているわけではないのだから。

何が悪いというのか。己の行動を思い返してみても、審神者は刀剣男士に特別好かれるような行動はとったことがない。ただ、今までと比べて共に過ごす時間が、話をする時間が増えたというだけである。

現状を踏まえてみても、やはり審神者は、好意を持たれる理由には刷り込みのような仕組みが関係しているのだと、そう思わずにはいられない。だが、その審神者の考え方は己のことを好きでいる刀剣男士にとっては侮辱のようなもの。審神者は決してそれを口に出したりはしない。気持ちを否定することもしない。だが、考えの根底は変わらないのだ。

己の何が間違っていたというのだろうか。それとも、仲良くなりたいと思ったことが間違いなのだろうか。審神者は、そんなことを思うのだ。


「俺はそうは思わねえよ、大将」


じいっと審神者を見上げる厚は、言葉を選んでいたようだった。だが厚が口を開くよりも早く、くいくいと、右の袖を引っ張られて後藤が審神者にそう声をかける。審神者は小さく目を丸くして、後藤を見下ろした。


「大将は意外と甘やかしだからな、優しいし、褒めてくれるし、あんま怒んないし。だから勘違いされたりするんだろ? 俺は、大将のことそんな風に思ってないぜ。大将は別に悪くねえよ!」


どこか誇らしげな表情を浮かべてそう言う後藤の言葉に、審神者はしばしの間言葉を無くす。何も言えないまま審神者は後藤を見下ろしていたが、不意に、きゅうっと、胸の奥から沸き上がってきた衝動に唇をぎゅっととじ合わせた。そして、感激のあまり、後藤の頭に手を伸ばした。


「っ〜〜」


何も言葉が出ない代わりに、審神者は両の手のひらを使って、遠慮なく後藤の頭を撫で回す。


「わっ、おい大将、ダメだってせっかくなおしたのに!」
「すまない、でも、今のは嬉しかった…!」
「っ、大袈裟だって。ったく、しょーがねえんだから、」
「誑したことなどないというのに、ひどいと思わないか? 皆は、私のどこを見てそんな風に言うのだろうな?」
「わかったわかった! 大将も苦労してるんだよな? な?」


嬉しさを隠すことなくそう言いながら撫で回した審神者に、後藤は戸惑いが許容範囲を超えたらしい。照れの感情が全面的にでてしまっている。


「〜〜っ、もういいだろ大将。なあ、もう、ほんとに――……」


耐えきれずに後藤が大きな声を出した瞬間に、審神者の手首が持ち上げられる。横から伸びてきた手が、審神者の手を捕まえてしまったのだ。それは後藤の手ではなく、厚のものである。


「大将、そーいうとこだ」
「……どこだ?」


今、厚の目には審神者が後藤を口説いているように見えたというのか。理解不能である。審神者はそういう厚に怪訝な目を向けて、問いかける。とぼけているわけではなく、本気で、何を見て厚がそう感じたのか聞きたかったのである。

厚は、審神者は望むものをわかっていたようで、ちゃんと審神者に答えを与えようとしていた。だからこそ、真っ直ぐと審神者の目を見て、口を開きかけていたのだ。後藤はその横で、羞恥の感情からか頬を赤らめて忙しなく髪を整えようとしていた。


「あのな、たいしょ「主――!!」」


けれど、話の途中で、声が割り込む。審神者も厚も後藤も、揃って声の主の方へ視線を向けたのだった。


「今帰ったよー! ただいまー!」


元気にそう言うのは、遠征部隊の隊長でもある清光である。怪我も見受けられない、元気な姿でいた清光を見た瞬間に、審神者はぱあっと表情を明るくさせた。大きく手を振る清光の姿に、自然と足は動いていく。


「清光」


声がこぼれて、審神者は早歩きで進んでいく。審神者の手首を捕まえていた厚の手からするりと離れ、門から帰還した遠征部隊に向かっていく審神者の背中に、厚と後藤もついていく。

先頭を歩くは清光。その後ろを同田貫と鳴狐が歩いており、更にその後ろを村正と蜻蛉切が続いている。そうして最後に小狐丸がいたが、誰しも、手入れを必要とするような怪我はしていないようだ。遠征と出陣は違うのだから、当然といえば当然。だが、分かっていても心配するし、不安にもなる。確認が済んで安堵する審神者が清光のすぐ目の前にまでたどり着くと、清光は足を止める。続いて、後方にいるものも立ち止まった。


「――おかえり。誰も、怪我はないな?」


とはいえ、確認はする。開口一番にそう尋ねた審神者に、清光はにっこりと笑って見せた。


「もちろん。皆元気だよ! 資材集めも大成功だから、後で報告を楽しみにしててね」


人なつっこい軽やかさと返事に、審神者も、つられるように微笑む。良かった、とこぼせば、清光は柔らかく目を細めた。

もしも遠征部隊に短刀がいたのなら、今頃審神者の胸に飛び込んできていることだろう。けれど打刀を中心とした部隊では、審神者にそれを望むものはいないようだった。スキンシップの多かった清光も、護衛係が出来た今、審神者に触れようとはしない。これが、審神者と刀剣男士との適切な距離だったのだと、そう言わんばかりの距離感である。


「――皆も、おかえり」


清光の後方にいる刀剣男士達に声をかける。すると、清光を抜いて一番近くにいた同田貫がすたすたと歩いてくる姿が見えた。自然と、審神者の視線は同田貫に向けられる。そしてそのまま清光を抜いて、同田貫は審神者の横を歩いて去っていこうとした。


「おう、帰ったぞ」


そうして審神者とすれ違い様に、無骨な指を審神者の髪に差し入れるようにして頭の上に置くと、そのままわしゃわしゃと審神者の頭を撫で回す。


「次は遠征じゃなくて戦で頼むぜ」
「っ、同田貫…」


足を止めることなくそう言って、審神者の横を通り過ぎていく。髪を乱されて驚く審神者は振り返って、通り過ぎていく同田貫の背中に目をやった。同田貫は振り返ることもなく、手をあげて、一言だけ残していった。


「痴話喧嘩に巻き込まれるのは御免だからな、俺は先に戻るぜ」


ひらひらと手を振りながら去っていき、玄関に入って姿を消してしまった同田貫の背中を見送った審神者は、首を傾げる。


「……痴話喧嘩?」


誰と誰の。そう思ったが、なんとなく、その中の片割れに己が含まれているような気がして、嫌な不安を覚える。乱されてくしゃくしゃになった頭を押さえるように手のひらを置き、審神者は顔をしかめた。


「……小狐丸がさ、話はきっちりしたんだけど、ちょっとへそ曲げちゃって」


すると、清光は審神者に近づき、耳打ちする。それを聞いて、審神者は一番後方にいる小狐丸の方へ視線を向けた。


「ごめん。ちょっとっていうか、かなり」


眉間に深く皺を刻み込んで無言でそっぽを向いている小狐丸は、ああ確かに、酷く機嫌が悪そうであった。もしも尻尾がついていたのなら、不機嫌にゆらゆら揺れていたに違いない。


「……そうか。分かった」


それだけを答えて、審神者は小狐丸の様子に目を細める。話をつけるといっても、具体的にどのような話をどのようにしたのか分かっていないために、小狐丸への対応に困るところではあるが、何かしらのフォローは必要だろう。清光の行為を無駄にしないためにも。


(だが、どうしたものか……)


このまま何事もなかったかのように放置などできるわけがない。審神者は静かに考えていたが、ふと、距離をつめてきた存在に気づいて顔をあげる。



「――村正?」


何も言わずに大きく腕を広げて審神者に示しているのは、村正である。きらきらと視線で審神者に行為を訴えるその姿に、審神者はきょとんとしてしまう。そんな審神者の反応に痺れをきたしたのか、村正は、じりじりと審神者との距離を縮めてきた。


「huhuhu……ただいま帰りましたよ。このワタシ――千子村正が!」
「? ああ、おかえり、村正」


そこでようやく抱擁を期待されているのだと察した審神者は、同田貫に乱された髪を整えることなく、そのまま村正の胸に飛びこむようにして抱きしめに向かう。審神者が自身の懐に入った瞬間に、村正は強く強く締め上げるように審神者のことを抱きしめた。食虫植物が虫を捕まえたときのようだと、ぎゅうぎゅうに抱きしめられながら、審神者はそんなことを思う。


「っ…元気そうで何よりだ」
「ええ、もちろん。元気ならば有り余っていマスよ。お望みならば、まだまだ働けマスが――脱ぎましょうか?」
「脱がなくて良いよ。おかえり、村正」
「はい!」


衣装の作りの関係上、どうしても審神者の顔は村正の胸の素肌に直接当たってしまう。ぺったりと頬を村正の胸板にくっつけながら、審神者はすりすりとつむじに頬擦りされていた。不敵に笑いながら、村正はところで、と切り出す。


「遠征も大成功しましたし、アナタからの労いがほしいところデスが、頂けますでショウか?」
「こらっ、村正! 主殿になんという口を……」

「ああ、構わないよ。蜻蛉切」


わたわたとしている蜻蛉切を制止して、審神者は村正に問いかける。今回は急な編成だった。それでも快く引き受けてくれたのだから、少しくらいは問題ない。そんな気持ちで、審神者は口を開く。


「――何が良い?」


問えば、村正はふふんと満足げに笑って、審神者の体を一時的に解放し、少しだけ自身の体から引き離す。そうして村正を見上げる審神者の顔を、上からのぞき込むようにして距離を縮めていく。目の前に迫った村正に、審神者はぱちぱちと瞬きをした。


「アナタからの口づけが欲しいデス」


そう言って、村正は自分の唇を示すように指を置いてみせる。審神者は目を丸くして、横に移動した蜻蛉切は顔を青白くさせて村正の肩をつかんだ。


「村正、お前主に何を……取り消さないか!」
「何故デスか? 蜻蛉切は大袈裟なのデスよ。元々、褒美の口づけはもらえるものでしょう? いつも短刀ばかり、羨ましいと思っていたんデス。ワタシももらって良いのでは?」
「それは……だが、だからといって口にねだる奴があるか! それに主は今微妙な立ち位置におられるのだ。もっと気を遣え」
「huhuhu……主サンをとりまく三角関係のことデスね? もちろん、承知していマスよ。……いえ、四角関係でしょうか? まあどちらでも良いデスが。燃えてきますねえ? 蜻蛉切」
「村正!」
「ワタシも参戦しまショウか? いつでも脱げますが」
「脱ぐな!」


そんな二振りのやりとりを、審神者は渋い表情を浮かべて見つめる。審神者にとってデリケートに扱って欲しい話題に、このように勢いよく踏み込んでこられてしまうと、正直反応に困った。

審神者の前で服をはだけさせる村正とそれを止める蜻蛉切に、審神者はなんと声をかけようとしたものかと迷う。そんな審神者の隣に移動して、口を開いたのは厚と後藤だった。


「ダメダメ。そういうことなら、大将にはお触り禁止だからな」
「そうそう。オレたち護衛係がいる内は、大将にはそういうことさせないから。我慢してくれな。抱きつくのはまあ、ギリギリいいけど」


両腕でばってんを作る後藤と、庇うように審神者の前に腕を突き出す厚。その二振りを見下ろして、村正はううんと考え込むように声をもらす。


「おや、ダメですか? ……では、しょうがないですね。ほっぺたでもよいデスよ? 良いデスよね? もともと、ほっぺたにはしていたはずデスから」

「……まあ、してたけど」
「……どうだろうな。大将、頬にするのはアリか?」


アリかナシかでいえばナシと言いたい。そんな真剣な表情で問いかけられて、審神者はそんなことを思いながら、困ったように考え込む。強請られれば、唇以外ならばしても良いという、もはや諦めにも近い基準でいたけれど、改めて聞かれると少し悩んでしまう。

これ以上勘違いを生むような行為は避けたいところではあるが、今更になってやはり辞めようというのも、どうなのだろうか。村正の言うとおり、審神者は今まで短刀達にはしていたのだ。それを事情が変わったとはいえ、打刀にはしないなど決めるのも不平等である。


「……短刀は当然のようにされているので、羨ましかったのデスが――アナタがワタシにはしたくないというのであれば、我慢します。仕方ありません……」


そんな審神者の態度から察したのか、村正はしょんぼりとしてそう口にする。その姿に、審神者は心苦しくなる。いわれてみれば、打刀含む短刀以外の刀剣男士から口づけを強請られることはあまりないことだった。相手は短刀だけだと決めていたわけではないけれど、やはり寂しい思いはさせてしまっていたのかもしれない。


(……まあ、今更か)


強請られて、頬とはいえもう何度口づけをしてきたか、審神者自身も覚えていない。舌をねじ込まれるような口づけを何度もされてきた身としては、少しくらい触れるくらいでとやかく言うようなこともない。すっかり耐性が出来てしまっている。非常に宜しくない変化ではあるが。


「……口でなければ、良いんじゃないか? 今更だ。私は構わないよ」


そうこぼせば、少しの沈黙の後、護衛係である二振りが口を開いた。


「……ま、大将が良いなら俺たちは良いけど」
「じゃあ口にされそうになったら止めるからな」

「ええもちろん。頬で我慢しマス。huhuhu、言ってみるものデスね、蜻蛉切」
「村正、お前というやつは……」


明確な基準が出来たためか、二振りは村正と審神者から一歩距離を置いた。そうして、今度は審神者の返事に目を輝かせた村正が、目を閉じる。審神者が口付けしやすいようにか、膝を曲げて背を少し丸めて、位置を調整していた。


「さあ、どうぞ」
「ん。……もう少し、かがんでくれるか?」
「こうですか?」


審神者は村正の頬に手を伸ばし、背伸びをする。そうして、頬に唇を押し当ててから、そっと唇を離す。


「……これで、良かったかい?」


唇を当てているだけだ。褒美として求められてはいるから応えるものの、どこが良いのか、審神者には今一分からない。美味しい食べ物を強請った方がずっと良いのではないかと思いもする。


「………これは、中々良いものデスね」


満足そうにしている村正の姿を見ると、ますますそう思う。審神者が刀剣男士の立場であれば、もっとより良いものを求めるだろうに、なんて考えもするが、喜んでいるのであればそれが何よりだ。


「では、ワタシからもお返しをしまショウ。口以外ならば良いのデスよね?」


審神者の肩を掴んで、そのまま村正の顔が近づいてくる。あっという間に審神者の頬に口づけをした村正は、そのままの勢いで反対側の頬にも、額にも、こめかみにも、口づけを繰り返す。リップ音を立てながら、顔中に触れていく村正に、審神者は体を強ばらせた。


「っ、やっ、まて村正。くすぐったい…」

「ダメダメ! 終わり!」
「ほら、離れろ離れろ!」


審神者が受け入れていないためか、素早い動きで村正と審神者の間に割り込んでくる。同時に、蜻蛉切が背後から村正を羽交い締めして引き離す。


「村正! やりすぎだ」
「? 口にはしてませんが?」
「いいや、やりすぎだ! 主も嫌がっておられただろう?」
「気のせいでは? くすぐったいと言っていただけデスよ」


のらりくらりと蜻蛉切の小言を交わしていく村正。

その二振りの様子を呆れた様子で見ていた護衛係は、視線を審神者に写して、審神者の袖を掴んで緩く引っ張った。


「大将、止めて良かったよな? ああでも、口以外なら問題ないんだよな? どうなんだ?」
「大将からするのは問題ないだろうけどさあ、じゃあ、俺たちからされるのはナシって解釈であってるか?」


確認するように問われた内容に、審神者は困り顔を浮かべる。改めて聞かれると、基準が曖昧だ。別に下心がないのであればそこまで気を回す必要はないと思うが、護衛係にしてみれば明確な基準がなければ動きづらいということなのだろう。尤もである。

審神者は迷い、戸惑いながら、口を開く。


「……そう、だな。けれど、その気がないのであればそう気にすることも、」

「その判断はオレらには出来ねえよ。見ただけじゃわからねえって」
「とりあえず、大将からの接触以外は止める方向で行くか? 抱擁は、まあアリってことで」
「だな。じゃあ後藤は大将を引き離す係で。オレは相手を引き離す係でいく」
「わかった。刀は基本抜かないんだよな?」
「ああ。それは禁止されてるからな。止まりそうにないなら、ちょっと気絶して貰わないとな。その時はオレが動きを止めるから、」
「俺がその隙にしとめるんだな。任せろ」


「huhuhu……さすが、護衛係は優秀デスね。素晴らしい、主も安心でしょう」
「お前、警戒されているのだぞ。もう少し申し訳なさそうにしたらどうだ。――申し訳ありません、主。村正にはよくいって聞かせますので」


頭を下げてそういう蜻蛉切に、慌てて審神者は首を横に振った。


「その必要はない。むしろ、私のせいで迷惑をかけているな。すまない」
「いいえ。主殿が謝る必要など…」

「ええ、もっと言ってやってください。蜻蛉切は大袈裟なんデスよ。ちょっとした愛情表現でショウ?」
「お前は少しは反省しないか!」


蜻蛉切は村正の頭を掴んで頭を下げさせる。それに合わせるように、蜻蛉切も続けて再度頭を下げた。そうなってしまうと、審神者の罪悪感もとんでもないものになってしまう。


「頭を上げてくれ」
「しかしっ」
「頼む蜻蛉切、これ以上は……」


申し訳なさから頼み込むようにそういえば、村正はすぐに頭を上げた。そうして未だ頭を上げようとしない蜻蛉切のつむじをつついていく。


「主が困っていマスよ。蜻蛉切は悪い子デスねえ。このままでは主が泣いてしまうのでは…?」


そんなことはない。だが、蜻蛉切が頭を上げてくれる方が審神者にとっては大事なことなので、それは口にしない。


「っ……申し訳ありません。そのようなつもりは――」


村正の言葉にどきりとしたのか、慌てて蜻蛉切が頭を上げる。そのことにほっとした審神者は、けれどまたすぐに蜻蛉切が頭を下げることがないようにと、蜻蛉切へ間合いを近づけて、下から見上げる。


「良い。もうそんな風に頭など下げないでくれ」


切実な声でいえば、戸惑いつつ、蜻蛉切は頷いた。
すると、話は終わったと言わんばかりに、今度は村正が蜻蛉切の背中を押す。


「では、次は蜻蛉切が主に口づけして貰う番デスね」


妖艶に笑いながら、当然のように口にした村正の言葉に驚いたのは審神者だけではないらしい。蜻蛉切はまさに鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、少しの間を置いてから慌てふためく。


「馬鹿を言うな。主にそのようなことを――」
「おや、蜻蛉切は主に口付けされるのが嫌なのデスか?」
「いっ、嫌だといっているわけではない」
「では照れ隠しデスね! さあ主、蜻蛉切にもお願いしマス」


審神者は蜻蛉切と村正の表情を交互に見つめ、口を開く。


「……嫌がるものに無理矢理触れる気はない。だから、そう蜻蛉切を困らせてはいけないよ、村正」


動揺している蜻蛉切は、審神者から強引に行けばおそらく口づけも受け入れたことだろう。けれど、だからといって審神者が進んで口づけをしたいと考えたことなどないのだ。望まぬものに強制するなど、むしろ審神者の志に反することであるといえる。


「主。自分は、何も主に触れられることを嫌がっているわけではなく……」
「ああ、分かっているよ。だから、何も気にすることなどない」


要らぬ気を背負わせぬように、審神者は薄い微笑みを浮かべてそう答える。その審神者の反応に少し安心したらしい。蜻蛉切はぎこちなくではあるが、息をついた。


「しかし、こうして主に迎えて貰えることは、とても嬉しく思います」


言われ、審神者はふっとわらう。


「確かに、お前は少し大袈裟かもしれないな」
「そ、そう、でしょうか?」
「ああ。村正とまではいかないが、少しくらい、蜻蛉切も希望をいってほしい。何かしてほしいことがあったら、今でなくても良いから、いつでもおいで」


真面目な気性のものは好ましい。共感できる部分がそれだけ多くなるからかもしれない。審神者は目を細めて、蜻蛉切に微笑みを向けた。


「おかえり、蜻蛉切。無事に帰ってきてくれて嬉しいよ」
「……主。はい、ただいま帰りました」


感慨深そうに審神者を呼ぶ蜻蛉切の隣からひょこっと顔を出して、村正は審神者とも蜻蛉切にも向けているようにとれる声で問いかける。


「それで、口づけはいつして貰うんですか? ほらほら、今がチャンスですよ蜻蛉切」
「……村正。少しこちらに来い」


村正の首根っこを掴んで、蜻蛉切は引きずるようにして歩いていく。一度足を止めて、審神者に向けて頭を下げた。


「では、我々も先に失礼いたします。少し、村正と話がありますので」
「……手柔らかにな?」
「約束は出来かねますが、善処致します」


しないやつだな。そう思いながら、特に村正が気にした様子はなさそうだったので、審神者はそれ以上何も言わなかった。


「全く、素直じゃないデスねえ」
「いいから、早く来い」


やれやれといったように首を横に振っている村正をひきずっていく蜻蛉切の背中を見送っていた審神者はぽつりとこぼす。


「大丈夫だろうか、村正」

「まあ、大丈夫じゃねえ?」
「やっぱ蜻蛉切はしっかりしてんなあ」


感心したように口にする護衛係は、どこか達観しているような口振りだった。






「主殿ー!! 次は鳴狐の番でございますよおー!!」


今度は甲高い声に呼ばれる。審神者は急に大声を出されたことで肩を震わせて、慌てて後ろを振り向く。そこでは思っていたよりも近い位置にまで迫っていた鳴狐――のお供のキツネがいた。手を伸ばした鳴狐の腕の上から審神者に迫って物申しているキツネに、審神者は瞬きを繰り返した。


「……キツネ。急に大声を出さないでくれないか? 驚くだろう?」


両の手のひらを上に向けて並べて、キツネに近づける。キツネはふんすふんすと鼻息荒く物申しながら、審神者の手のひらに乗って移動してきた。肉球の感触がくすぐったい。


「主殿がよそ見ばかりをしているからです! いつもいつも、わたくしめは思っておりました! 主殿はきちんと鳴狐を見てくださっていないのではありませんか!?」


キツネはてしてしと、ゆっくり審神者の腕をのぼって肩まで移動していった。そうして審神者の耳に向かって直接吹き込むようにして、更に続ける。


「問題児にばかり構い過ぎなのです! 主殿に面倒をかけていない鳴狐にもきちんと目をやって頂けなければ、不公平というものではありませんか!?」
「っ……すまない、」


言っていることは耳に痛く、きちんと受け止めるべき言葉だと思うが、如何せん耳元で喋られると身が入らないというか、話に集中できなくなる。ぞわぞわとした感覚に、審神者は身を強ばらせた。


「キツネ……別にいい」
「良くありませぬ! 鳴狐はいつも頑張っていること、わたくしめはよくよく知っているのです! 褒美というのであれば、鳴狐にも与えてくださいますよう!」
「っ〜〜わかった、わかったから、少し降りてくれ…」



ヒートアップしていっているのか、お供のキツネは審神者の耳へ更に近づき、しまいには耳の中に直接口を突っ込んでいく。なんとか我慢しようとしていたものの、今にも不抜けた声が出てしまいそうで、審神者はキツネの体を肩から引き離そうと動く。両手を使ってキツネを引き離そうとするも、キツネは意見が通らないことに抵抗するかのように、衣服に爪を立てている。


「いいえ! 主殿が考えを改めてくれるまで離れませんよ。わたくしめは、健気な鳴狐があまりに不憫でなりませぬ! 主という立場なのですから、刀剣男士達には等しく接するべきですぞ! 具体的にいえば、まずは、短刀達にするようにしていただくのが良いかと思いますが! そこのところをどうお考えですか主殿っ!!」
「――っ、っ…す、すまない、っ…だが、そこで話すのはもう……」


多少強引にでも引き離さなければ、今にも、我慢が崩れてしまいそうである。大勢の刀剣男士に囲まれている中、間抜けな姿を晒してしまうことが嫌で、審神者は涙目になりながら訴える。意見をきくつもりはもちろんある。だが、まずは離れて欲しい。距離を置いた瞬間逃げるとでも思われているのか、キツネは全く審神者から離れようとしない。


「……やりすぎ」


天の助けでという表現がこれほど似合うものもいないはずだ。見かねた鳴狐は、審神者の肩にしがみついて耳に口を突っ込んでいたキツネの体を片手で引きはがす。審神者はすぐさま、耳を隠すように手のひらを当てた。


(……助かった)


そのまま自身の肩の上に置いてから、鳴狐はそっと審神者の目元に指先を伸ばす。涙はこぼれていないが、涙目であったことには気づいているらしい。


「ごめんね、あるじ」


そっと、目尻を拭われるようにして撫でられて、審神者は目を細めた。間抜けな姿を晒す前に止めて貰ったことを有り難く思い、ほっとしてしまう。


「ですが鳴狐! 鳴狐にも褒美はあって然るべきです! 鳴狐だっていっぱい頑張ったのですから!」
「べつに、いい」
「良くありませぬ! 鳴狐が良くとも、わたくしめは納得がいかないのでございます!」

「キツネの言うことは、間違ってはいないよ。平等にしなければ」


呼吸を整えてから、審神者はそう口にする。耳を庇うようにしていた手を、ようやく下ろす。


「鳴狐、何か欲しいものがあるかい? キツネも、言ってごらん」


毎回、というわけにはいかないだろうが。それでも今回は、急な遠征任務だったのだ。少しぐらいは褒美があっても良いだろう。キツネを肩の上から退かすことで精一杯だったが、話の内容は一応頭の中には入っていた。鳴狐は少しだけ目を見開いて審神者を見て、キツネはぱっと声を明るくさせる。


「さすがは主殿! それでこそ主人の器というものです!! では、わたくしめは油揚げを所望いたします!!」
「分かった。用意しよう」
「そして油揚げ料理を作って頂きたく!」
「ああ。では、燭台切に頼んでおく」


言えば、キリリとキツネは眼孔を鋭くした。


「いいえ! 主殿に作っていただきます!」
「……私に?」
「ええもちろん! そしてそれをつまみに、是非、鳴狐と親睦を深めて頂きましょう! 鳴狐は人見知り故、もちろん、わたくしめも相伴に預かります」
「……油揚げの料理か。………分かった。調べておこう」


いなり寿司が真っ先に思い浮かんだが、キツネも食べるのであれば別に用意が必要になるだろう。最近、色々なところで料理を強請られる。勘を取り戻すためにも、これからまめに厨房に立った方が良いかもしれない。思案しながら答えれば、ご満悦といったように、キツネは鼻息を荒くした。料理を作ることについては、何の反対もない。


「……いいの?」


鳴狐がそっと顔を審神者に近づけて、問いかけてくる。控えめに言ってはいるが、声の中に嬉しさが見え隠れしているようで、審神者は柔らかくほほえんでみせる。


「勿論。鳴狐は、何か欲しい褒美はあるかい?」


今度は鳴狐に問いかける。すると、ふるふると首を横に振って、鳴狐は審神者に向けて小さく口を開く。


「いらない。もう、十分」
「そんなこと言わず! 貰えるものは貰っておきましょう! 主殿と共にいられる時間は短いのですから! 護衛係はまだ先ですよ!」
「あるじが困るから、いらない」

「聞きましたか主殿! 鳴狐は健気なのです! いつも我慢しているのですぞお!」


確かに、キツネがこんなにも興奮して審神者に物申す理由が、確かに分かる。放っておいてしまえば、鳴狐はいつまでも我慢をしてしまっていそうだという理由も、よく分かった。


「……何でも良いよ。思いついたら、おいで。いつでも良いから」


微笑みかけて、キツネの勢いに圧されてまだ言えていなかった言葉を告げる。


「遅くなってしまったが……おかえり、鳴狐」
「……うん。ただいま、あるじ」
「キツネも、おかえり。疲れただろう?」
「ふふん、この程度、なんということもないですよ! 日々鍛えておりますからなあ!」


言いながら、キツネはご機嫌に続ける。そして、突然、名案が思いついたばかりに口を開く。


「そうです! 主殿、鳴狐にも口づけをしてください! 打刀も良いのでしょう!? 短刀だけというのもずるいというものです! 不公平ですぞ!」


その言葉に驚いたのは審神者だけではないらしい。鳴狐はびくりと肩を震わせて、慌てたように首を横に振る。


「いい、キツネ。いらない」
「何故ですか鳴狐! いつもいつも、短刀たちを羨ましそうに見ていたではありませんか! 折角ですからしてもらいましょう! 減るものではありませぬ」
「…………」


キツネの暴走か、それとも本当に鳴狐の希望なのか。審神者は見極めるようにじいっと目の前のやりとりを観察する。

キツネの言葉に慌てふためいていた鳴狐の姿は初めてみる。審神者はなんとなく珍しいものを見ている気でいた。その内二人のやりとりも済んだらしく、ちらちらと鳴狐から視線が送られてくるのに気がついた。どうやら、審神者の反応を伺っているらしい。

今更だ。口ではなければもう審神者は気にしない。羞恥もほとんどない。


「……するかい?」


だから嫌悪感を感じさせないように微笑んでそう問いかければ、鳴狐は困惑するように視線をずらしてから、決心したように審神者に目を向けた。何も言わなかったが、その視線が答えのような気がした。そっと、鳴狐が少しだけかがんだ。

審神者も距離を近づけるものの、ふと、面が邪魔になっていることに気がつく。


「面の上からで良いのか?」


確認するように聞けば、あっとしたような目をして、鳴狐がかがむのをやめて、一歩下がる。常につけている面に手をやって、鳴狐は沈黙する。どのようなものかは分からないが、鳴狐の中では、何かしらの葛藤があるようだった。


「……じゃあ、これで」


面の上からは嫌だったようだ。代わりに、鳴狐は指をキツネの形にして、審神者の顔の前に持ってくる。よく指の形をキツネにしている姿は見るが、これで、の言葉の意味が理解できない。この指で良いというということが、どう解釈してよいものか分からず、審神者は迷う。


「……?」


分からず、考え、それでも迷う。けれどそのまま長考することもなく、審神者は鳴狐の言動から、一つの答えを導き出した。審神者は鳴狐の手首に下から触れるように、己の手のひらを重ねる。


(こう、だろうか…?)


顔を近づけ、瞼を閉じる。

そうしてそっと、鳴狐の指先――ちょうど、口の部分に当たるだろうそこに、唇を押し当てた。確かに触れた感触を得た後、審神者は唇を離して、同時に鳴狐の手首にやっていた手のひらも撤退させた。


「――鳴狐?」


これで間違いはないのだと思っていた。だからこそ審神者は、開いた視界の中で、目をまん丸くして固まっていた鳴狐の姿を疑問に思ったのだ。鳴狐は何も言わず、キツネの形を象っていた手を引いて、もう片方の手で隠すように覆ってしまう。そうして視線を斜め下方に向けて、無言のまま、逃げるように駆けだしていってしまった。


「〜〜は、破廉恥ですぞ主殿ぉお――ー!!!」


段々遠ざかっていくのは鳴狐の背中と、絶叫に近い声を上げながら鳴狐と共に去っていくキツネの姿である。遠ざかるにつれて小さくなっていくだろう声は、それでもしばらくの間しかと審神者の耳に入るほど、大きく響いてしまっていた。


「破廉恥……!?」


破廉恥。今破廉恥と言ったか。そう言ったのか。

本気で理解が追いつかない。己は今、破廉恥なことを鳴狐にしてしまったというのか。審神者は動揺しながら、キツネに叫ばれた単語を繰り返す。納得がいかない。破廉恥なことなどしていない。けれど、あの鳴狐とキツネの慌てようといったら、一体なんだというのだろう。

わけが分からず戸惑っている審神者の服を引っ張り、両側に厚と後藤が並ぶ。


「……大将。そういうところだ」
「どういうところだ…!?」

「口にはしないって言ったばかりなのに、大将、さすがに軽すぎるって」
「くっ…いや、指だろう? あれは口では……」
「いや、あれは口だぜ、大将」
「指だろう!?」
「指だけど、口なんだよ、大将」


言っている意味がさっぱり分からない。いや、分かるが、分からない。
審神者からすれば指にしたつもりだったが、鳴狐にとってはキツネを象った指の、口の部分にされてしまったという認識なのだろう。だから鳴狐は先ほど、指ではなく口にいきなり口付けされてしまったいう認識なのだ。分かるが、やはり分からない。


「……なら、先のことはどうすれば良かったんだ?」


分からず、そう問いかける。厚と後藤は顔を合わせて、先ほどの鳴狐のように、指でキツネの形をつくる。そうして今度は、そのキツネの指先を、審神者の頬に当てて見せた。厚のキツネは審神者の左頬に、右の頬には後藤のキツネが当てられる。ふにっと触れたそれは、審神者が状況を認識すると離れていった。


「これで良かったんだよ」
「鳴狐は、俺らにも結構これするから。正解はこっち」


言われて、ようやく審神者は状況を飲み込み、そうして大きく肩を落とした。


「そうだったのか……鳴狐には、ひどいことをしてしまったな」
「うーん。まあ、びっくりしただけじゃねえかな。そんな気にすることはないって」


肩を落としてつぶやけば、フォローしてくれているのか、後藤がそんなことを答えてくれる。


「それより、大将。大変なのはここからだぜ」
「? 何を……」


言い掛けて、審神者は口を閉じる。言わずとも、厚の言いたいことがよく分かったのである。

残った遠征部隊のメンバーは、あと一振り。
目の前で鳴狐の口に口づけをした様を見せられて酷く気を悪くしている――小狐丸である。





不機嫌な小狐丸ならば今までにも、もう何度も見てきた。その度に審神者は小狐丸のことを甘やかして、機嫌をなおしてもらってきたのだ。そのような過去の経験を踏まえても、審神者は、小狐丸がこれ以上ないほど気を悪くしているだろうことをすぐに察したのである。


「――おかえり、小狐丸」


腕を組むようにして視線を審神者から逸らし、決して審神者のことをみようとはしない。


「……」
「小狐丸」
「…………」


そして、返事をするつもりも更々ないらしかった。審神者の声が聞こえていないという可能性はあり得ない。
だが、小狐丸は審神者のことを待ち続けている。それについては確信があった。審神者に声をかけてほしくないのであれば、同田貫のように審神者の横をさっと通り過ぎることだって出来たのだから。

それをしなかったということはすなわち、小狐丸は少なくとも、審神者に声をかけてほしくないとは思ってはいないということである。そう判断してかけた声であったが、やはり小狐丸は審神者に返事をしない。ただ、ちらりと不機嫌に審神者のことを一瞥しただけである。

審神者は小狐丸のすぐ目の前に移動する。下から顔をのぞき込めば、小狐丸はひどく冷ややかな視線を審神者の上に落とした。


「――満足されましたか?」


その視線と同じく酷く冷たい声だった。審神者はそれを受け、首を傾げる。


「満足とは? 何のことを指している?」


侮蔑のような感情が小狐丸の声の中に混じっている。それに気づきながらも、審神者はまっすぐと小狐丸の目を見て、そう問いかけた。小狐丸は不快そうに目を細めて、続ける。


「そうやって気を持たせるだけ持たせておきながら、結局は応えられぬと突っぱねる。虫も殺せぬような顔をして、ぬしさまは鬼のような惨いことをなさりますね」


怒りの感情を表に出し、隠すことのない怒気を纏わせながら、小狐丸は声を荒くさせた。


「――私を追い出して過ごす日々は、如何でしたか? さぞ、満足されたことでしょう」


続けられた言葉に、審神者は目を丸くする。小狐丸がこんなにも表に棘を出してきたことなど、おそらく、これが初めてのことである。小狐丸はそんな審神者の反応を見て、なおのこと面白くなさそうに続ける。


「ぬしさまは私がいなくとも、侍らせる刀は大勢いますから。私がいなくなったところで、結局ぬしさまは何も傷つくことも失うこともなく、今の今まで私のことなど忘れていたのでしょう。目の前で、他の刀を誑し込むような真似をして試すような真似ばかりして。ぬしさまは私のことなど何とも――…」


話せば話すほど小狐丸が楽になるというのであれば、審神者は何時間でも聞いたことだろう。けれど、おそらくそうではない。言えば言うほど、小狐丸が辛くなるだろうと、審神者はそんなことを思った。

思ったら、考えるよりも先に、手が動いていた。背伸びをして、腕をまっすぐにの延ばす。そうして、小狐丸のうなじに指を引っかけるようにして、力一杯に己の方に引き寄せた。小狐丸が全力で抵抗すれば成し得なかったことだ。けれど小狐丸は、隙をつかれたことも関係しているのだろうが、審神者の力にあらがうことなく、引き寄せられている。

引き寄せ近くなれば、それだけ更に近くに引き寄せられるようになる。うなじにかけていた指は腕をかけられるまで近づいて、今度は小狐丸の首の後ろで己の両腕を組む。

そうして至近距離にまで小狐丸の顔を引き寄せると、そのまま、小狐丸の唇のすぐ横に己の唇を押し当てた。


「――……ぬしさま?」


小狐丸の口からこぼれた言葉には戸惑いが含まれていたが、怒りがこもっているようには思えない。それを受けながら、審神者は今度は額を重ね合わせるようにして、至近距離から小狐丸の目を見つめるようにのぞき込む。


「おかえり、小狐丸。お前が怪我なく帰ってきてくれて、本当に嬉しいよ」


小狐丸は何も言わずに、審神者の目をまっすぐと見返した。赤い瞳は怒りとも喜びともどちらにもとれない揺れ方をしていて、審神者は鼻先が触れ合う距離にまで詰めていく。


「私は審神者だからな。結局のところ、渡せるものは限られている。だからこそお前のように、不快な思いをさせてしまうこともあるのだろうと思う。――嫌な思いをさせたな、小狐丸。すまなかった」


小狐丸から見ればそうは写らないかもしれないが、少なくとも、これは審神者の心からの謝罪であった。それが伝わったのだろうか、腕を組んでいただろう小狐丸の腕が、おそるおそるといったように、審神者の背中に回される。


「期待などさせないでください。そう言っておきながら、私だけがいつもぬしさまから遠ざけられる。裏切られるくらいならばいっそ――…突き放された方がマシです」


悲しげに細められる瞳。審神者は少しだけ小狐丸から顔を離して、口を開く。


「お前がそれを望むのならば、そうしよう。関わることが辛いというであれば、私は出来る限りお前と距離を置く」


小狐丸の望みを尊重するということは、そういうことだ。審神者はもちろん、小狐丸を警戒しているとはいえ、何も、嫌いになったわけではないのだ。だからこそ、このような形で遠ざけてしまったことに罪悪感があれど、それでも小狐丸と特別な関係を築くことなど出来ようもないのである。

距離を置く、の部分で、小狐丸が息をのんだ。その反応から、審神者は察した。小狐丸はやはり、審神者のことを遠ざけたいわけではないのだ。けれど状況が状況だ。小狐丸は審神者を想う刀剣男士の中でも、特に審神者から遠ざけられている。だからこそ、一番抱えきれない感情とてあるのだろう。


「ぬしさま。そんな…」


泣きそうな声で呟かれた言葉。審神者はそれが最後まで紡がれる前に、今度は先ほどとは反対の唇の端に、己の唇を重ねるようにして口づけをする。そのまま、先ほどと同じように額を重ね合わせて目をのぞき込めば、小狐丸は小さく目を丸めて審神者の目を見つめ返している。


「だが、寂しい。お前がいないと、寂しいんだ、小狐丸」


優しい声で、続ける。


「結局、想いに応えられないことは変わらない。けれど、代わりに渡せるものは全て渡したい。手間も時間も、何もかもな」


小狐丸の首の後ろに回していた腕をおろして、今度は審神者は小狐丸の頬に手のひらを当てて、優しく撫でる。


「小狐丸。まだ、私の刀でいてくれるだろうか?」


不安を感じながらも、小首を傾げて問いかける。拒否されることはないと思いたいが、いざ尋ねるとなると返事を聞くのが怖い。じっと、小狐丸の目を見つめる。小狐丸はどこか不安と期待を織り交ぜたような視線を審神者の向けたまま、やがて観念したように目を細める。


「――はい、ぬしさま」


ぎゅっと抱きしめてきた小狐丸の背中に審神者も腕を回し、優しくその背中を撫でた。


「体を休めたら、また部屋においで。二人にはなれないが、毛並みの手入れぐらいならば今まで通りに出来るから」


そういえば、小狐丸は更に強く審神者の体を引き寄せてから、すりすりと頬擦りをする。甘えたな小狐丸が戻ってきた、そんな感覚を受けて、審神者は目を細めた。


そうしてそのまま小狐丸をあやすように抱きしめていたが、小狐丸は一向に離れる素振りを見せない。審神者は困ってしまって、とんとんと小狐丸の背中をたたいた。


「小狐丸、そろそろ良いか?」
「いいえ。まだです。もう少し、このままぬしさまに触れていたいのです」
「またいつでも会えるだろう? ある程度は、触れあえるのだから、そう構えることもないのだし。毛並みの手入れだって、毎日出来る」
「もうずっとぬしさまに触れられなかったのです。もう少しこうしていなければ、もう動けませぬ」

「……気持ちは察するが、遠征の報告もある。お前も疲れているだろう? まずは、きちんと休んでからだよ」


他の刀剣男士はともかく、清光は報告しなければならないため、審神者が自由になるまで待たなければならないのである。


「では、もう一度して下さいますか? でしたら、離れます」


小狐丸は審神者の顔をのぞき込んで、そんなことを言う。既視感を覚える物言いである。審神者は少しだけ呆れた表情を浮かべて、けれど口でなければもう何でも良いという精神の元、小狐丸の背中に回していた手を引いて、代わりに小狐丸の頬に手のひらを当てる。

今度は頬に、そっと唇を押し当てる。
そうして小狐丸の顔をのぞき込めば、小狐丸は満足げに目を細めたのだった。


「また、伺います。今夜にでも、必ず」
「ああ、分かった」
「約束ですよ」


言って、小狐丸はそのまま審神者の横を通り過ぎていく。そのまま、厚と後藤の横を、そして清光の隣をすぎていく。清光は眉間にしわを寄せて、けれど何も言わずに通り過ぎていく小狐丸を見送っていた。


そうして小狐丸が去った後、厚がぽつりとこぼす。


「大将はあれだな。襲われても文句いえねえな」
「……厚?」

「今のはフォローできねえよ……完全に誑し込んでるじゃん」
「後藤…!?」


しみじみと言われた言葉に、なおさらショックを受ける。審神者は、慌てて弁解をしようとするも、それを遮るようにかかってきた清光の言葉で、口にする前に口を閉じた。


「行くよ、主。報告あるから」


淡々とした物言い。けれど、どこか凄みのようなものを感じて、審神者は無言で頷いた。清光の背中を追いかけて歩いていく。その背中は、どこか冷たいように感じた。











刀を持つ清光の手に、人知れず力が込められる。気づいたのは、厚と後藤だけである。

清光と審神者の後ろで、少しだけ距離をとり、審神者の耳には入らぬように声を潜めて会話をした。


「どーすんだよこれ。大将から目離したら本当にやばいやつだろ」

「……いや、話には聞いてたけどさあ……まさか大将がここまで誑しだったとはなあ」

「護衛係って、牽制っていうか見張りみたいなもんだと思ってたんだけどな……これ護衛に回らないと今に大将の貞操なくなっちまうぞ」

「困るよなあ……大将には薬研がいるってのに」

「自覚ないけど浮気性。で、隙だらけで無警戒ときた」

「……警戒とくなよ、厚」

「お前もな。しっかり大将見張っといてくれ、後藤」


同田貫や蜻蛉切はともかく、村正や鳴狐、小狐丸に対する審神者の触れあいは危うかった。危ういのは審神者の自覚のなさだけでなく――近侍である清光についてもそうである。

抜きこそしなかったが、そっと刀に手をかけ、いつでも抜けるようにしていた清光の冷え切った殺気に、おそらく審神者は気づいていない。気づいたのは、刀剣男士だけである。

審神者は酷く鈍い。なのに、簡単に刀剣男士を誑し込むのだ。末恐ろしささえ感じると、護衛係の二振りは気を引き締めた。
油断は決してしてはならない。全ては、審神者の貞操を保ったまま、兄弟刀である薬研藤四郎に審神者を引き渡すためである。


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