小狐丸は、毎朝審神者の元へ訪れる。それは、毛並みの手入れをしてもらうためである。護衛係が出来る前から続いていたそれは、護衛係が出来てからはなくなり、遠征から帰還してからまた再開された習慣だった。
審神者を横向きに膝の上にのせて毛並みを整えてもらいながら、隙を見つけては審神者に触れ、愛を囁く。審神者はその口説き文句をかわしながら、確実に慣れていった手つきをもって小狐丸の毛並みを整えていく。
スキンシップ自体も慣れたもの。頬に、こめかみに、とにかく唇以外に触れる口づけについては審神者が既に諦めているため、頓着していない。それくらいならば構わないとしている審神者だからか、小狐丸も遠慮せずに審神者に触れていた。
勿論、それが良くない状況であるという自覚はあった。けれど、審神者には審神者の考えがあったのである。
小狐丸は人一倍審神者に甘えたがる。故に、どんな形であっても我慢を強いれば、行動が直接的に、少々乱暴になりがちなのだ。だからこそ、審神者は小狐丸を遠ざけてはいけないと考えた。甘えたがりで嫉妬深い分、小狐丸は不満をため込むと、審神者にも予想が出来ないような行動をとることが多々あることを、身をもって知っている。
だからこそ、定期的に小狐丸は審神者のそばに置いて、少しずつでも欲求を発散させた方が良い。
そんな風に考えて好きにさせていたことを、この日、審神者はちょっと後悔した。
[chapter:審神者は恋ができないD]
「ぬしさま」
膝の上に座って毛並みを整える審神者を見ながら呼んだ声は、とても甘ったるかった。審神者は手際よく毛並みを整えながら、「なんだい?」と返事をする。審神者が視線を髪から小狐丸自身に向けなかったことに不満そうに眉間を寄せ、小狐丸は審神者の髪に鼻を寄せる。すりすりと鼻先を埋めるようにしながら、小狐丸は静かに口を開いた。
「シャンプーを変えましたか?」
「いや、変えていないが……何か変かい?」
小狐丸の発言が気になって手を止めて、審神者は一度小狐丸と視線を合わせた。視線が交わったことに小狐丸は嬉しそうにして、己の髪の毛にさらっと指を絡ませた審神者に微笑みを浮かべる。
(臭い…か? 自分ではよく分からないな……)
いつも通り。普段通りのつもりである。けれど己では気づかないだけで、臭いのかもしれない。そもそもの体臭か、ただ汗くさいだけなのか。少し気にかかって、審神者はもう少しで肩にかかりそうな髪の毛に視線を向ける。
「いいえ。そういうわけではありませんが……」
何か気にかかることがあるのだろう。小狐丸は審神者の頭に鼻を埋めたまま、同時に、審神者の肩を寄せて自身の方へ引き寄せる。元を追いかけるほどの臭いが己からしているという事実に、審神者は不安を覚えずにはいられない。
「風呂にはちゃんと入っているのだが……」
「臭うといっているわけではありませんよ。ただ、今日は一段と、ぬしさまから良い匂いがするな、と。それだけです」
「…そうかい? なら、良いけれど」
頭皮に唇を押し当てて、小狐丸はそう口にした。安心させるためか、今度は小狐丸は審神者のこめかみに唇を押しつけた。同時に、背後から不機嫌に畳を軋ませる音が耳に入る。
「調子に乗るな、貴様」
不機嫌な長谷部の声。長谷部の言葉に答えようとした小狐丸の唇を指先でおさえて、その口を開じさせる。小狐丸は唇を押さえた審神者のことをじいっと見つめ、審神者の手を片手でさらうと、そのままちゅっと音を立ててその手のひらに口づけた。
「………」
審神者に視線で訴えかけているようであった。声に出されずとも小狐丸の言いたいだろうことはなんとなく分かる。かといって、審神者はそれに好意的な答えをするつもりもないので、それで何かが変わるということはない。その手からやんわりと抜け出して、審神者は指を動かす。毛並みを整えることを再開させるために。
「もう終わるよ、長谷部。少し待っていてくれ」
「……主」
「分かっている」
そろそろ頃合いだと判断し、手早く小狐丸の毛並みを整えきって、櫛をしまう。毛並みの手入れが終わるや否や、小狐丸は名残惜しそうに、審神者の肩と腰に腕を回して自身の胸に閉じこめてしまう。そんな小狐丸の頬を撫でて、審神者は優しく言い聞かせる。
「終わりだよ、小狐丸。今日も良い毛並みだな」
小狐丸は機嫌良さそうに目を細め、口から牙を覗かせた。
「お気に召して頂けて何より。ぬしさまのためだけの毛並みです。どうぞ、ぬしさまの心行くまで、ぬしさまの思うままに」
すりすりと頬ずりをしながら、小狐丸は口にする。その勢いのまま審神者の頬に唇を押し当てていく。一度、二度、三度。回数を重ねる度に、触れられる位置が下がっていった。
「ぬしさま。少しはこの小狐に気を持って頂けましたか? 他の刀は到底この毛並みには叶いませぬ。ぬしさまには、私を選んで頂きたいのです」
冗談めかして、けれど真剣な眼差しで審神者を口説く小狐丸には、審神者もすっかり慣れたものだ――といいたいところだが、そうでもなかった。今までとは、状況が違ってしまっている。
あの日、鳴狐の褒美にする料理を練習して、その料理を小狐丸へ持って行った日のことである。あの日、審神者は言わなくても良いのならば、言わない方が良いことを、小狐丸に口にしてしまった。
『審神者である私を好きだというお前に、審神者としての私以外の感情で応えて何の意味がある?』
『審神者でない僕は、お前が思う以上に醜悪だ。それを知らずに、審神者でない僕に返事など求めるな』
『審神者ではない私に価値はない。審神者であること以外は、何も私の中にはない』
後悔はないが、まだ良い言葉を選べたのではないかと、そう思うような言葉だった。小狐丸は審神者としてではなく、本来の審神者個人を愛するなどと口にした。そんなことは出来るわけがない。そう思うのに、審神者はどうにも、その言葉を引きずってしまっている。適度に流していた小狐丸の口説きをなぜだか意識してしまうのは、そのためだろうか。
「私は審神者だよ。お前は選べない」
少しの触れ合いは許可する。だが、それだけである。審神者が刀剣男士に譲ることができるのはそこまでだ。それ以上は、何も渡せない。審神者が審神者であるために。
「だが、愛している。お前は私の大切な刀だ」
きっぱりと断る。寸分の隙もない返事であると審神者は思っていた。
今までならば小狐丸はこう切り返してきた。いずれ気は変わるものだとか、自分が一番審神者を愛しているのだと、そういった系統の返事で。けれど今日、小狐丸は初めて審神者にこんな問いを投げかけてきた。
「では、私がぬしさまの刀でなくなれば、ぬしさまは私を大切にはして下さらなくなるのでしょうか?」
審神者は驚き、小狐丸の言葉の真意を探る。探るといっても、これは難解な問題ではない。先日の審神者と小狐丸のやりとりを思えば、小狐丸が審神者に何を問いかけているのかは明白だ。
「私はずっと、お前の主でいる。お前が私の刀でなくなる日など来ないよ」
小狐丸の狙いを理解していながら、審神者はとぼけるように返事をする。小狐丸はそんな審神者の様子をじっと観察しながら、何かを企むように口角を上げている。
「それは、とても喜ばしいことですが、そんな保証はどこにもないでしょう? ……ですから、保証をこの小狐丸めに頂けませんか? ぬしさまがいなくなったとき、ぬしさまを探すための手段がほしいのです」
背後から不機嫌な長谷部の視線を受けているだろうに、小狐丸はなんとも焦った様子がない。近侍の任に関することで席を外している清光の代わりに近侍に入っている長谷部は、清光というストッパーがいない分、感情が露骨に表に出されている。鬼気迫る勢いといっても良いくらいなのに、小狐丸はまるで気にしていないとでもいいたげだ。審神者に向かって、とても白々しい口調で言い放つ。
「――ぬしさまの真の名を教えて下さいませんか? 悪いようには致しませぬ。私だけの秘め事としますので。どうか、私だけに、そっと」
「――貴様ッ!!」
審神者が返事をする前に、長谷部の堪忍袋の尾が切れてしまったらしい。戦以外での刀の顕現禁止を守れているらしく、まだ刀は出していないが、今にも臨戦態勢に入りそうな殺気はまとっていた。
「いい加減にしろっ! 真名とは神聖なものだ。お前のような奴が頂いて良いものではない!」
「おぬしには話しておらぬ。下がれ、邪魔だ」
「やめろ。争うな」
真名とは、審神者にとって命綱のようなものである。名前を知られてしまえば、刀剣男士との関係は簡単に崩れてしまう。刀剣男士に真名を知られてしまえば主従関係は逆転し、審神者の生殺与奪の決定権は刀剣男士に委ねられる。
真名は刀剣男士に知られてはならない。というのは、全ての審神者に当てはまる決まり事である。
それを小狐丸が審神者に強請ったのだ。審神者に無理強いをするためだと、長谷部は判断したのだろう。その怒りようも、審神者を主と慕う彼にとっては看過できないものだったはずである。
「ぬしさま。ぬしさまには、この言葉の真意が分かるはずです。何故私がぬしさまの名を知りたいと思うのか――貴方のことを知りたいと思うのかを。決して、不埒な考えからの申し出ではないと」
審神者の唇に指を伸ばし、触れ、なぞる。その小狐丸の手を払うことなく、審神者は眉尻を下げた。
「真名とは流石に、穏やかではないね」
「そればかりは見逃せないよ。主にそれだけ触れているのはあなたくらいだ。それで満足したらどうかな?」
言うは、本日審神者の護衛係を担っている歌仙兼定と蜂須賀虎徹の二振りである。今までは、渋い表情を浮かべていたものの、審神者が許可しているが故に小狐丸の行動を見逃していた二振りも、流石に真名を要求する姿は止めずにはいられなかったようだった。三振りから咎められた小狐丸は、不快そうに表情を歪ませた。
「――揃いも揃って鬱陶しい。ぬしさま、護衛など不要です。二人になれる場へ行きましょう」
「……小狐丸。お前を警戒しているわけではない、二人になることが嫌ということもない。だからこそお前の意を汲んでやりたいが――これは他の刀のためでもある。それは出来ないよ」
不満を訴えるように目を細めた小狐丸の頬を宥めるように撫でて、審神者は困ったような表情をみせる。
(迂闊だっただろうか)
審神者ではない己のことなど、決して口にするべきではなかったかもしれない。今更遅い後悔ではあるが、そんなことを考えたところで時は戻りはしない。それに審神者だから気持ちは受け入れられない、という返事に痺れを切らされることも時間の問題だった。いずれは、誰に対してもああなっていたに違いない。
審神者ではない、審神者の個人のことを知りたがる。審神者は少し、うんざりとしたものを感じてしまう。小狐丸がその気ならば、突き放さなければ。小狐丸の企みが無駄なものであることを、今ここで突きつけておくことも必要だ。
「――…それから、真名も教えられない」
審神者は小狐丸の目を真っ直ぐと見つめ、突き放すような口調で告げる。
「私の真名は、私も知らない。私には名前がないんだ」
だから、教えられない。そう続ければ、僅かに、小狐丸の目が見開かれた。
「――……は?」
少しだけ空いていた口からこぼれるのは、戸惑いを含んだ言葉にもなっていない文字だけである。審神者は、今度は優しい口調で説明をする。聞き分けのない子供に、諭すように。
「私は赤子の時に、審神者となるため国元にこの身を移された。名はその時に記録から抹消されている。名を呼ばれた記憶も残っていないから、私も私の名前は知らない」
静まりかえる審神者の部屋。ここに存在している全ての刀剣男士全員から、戸惑いと動揺を審神者は感じ取った。だからといって、下手に誤魔化すこともせず、これが小狐丸の気を挫くことになれば良いと考えながら、あえて、嫌な言葉を選んで口を開く。
「代わりに、番号ならば与えられている。仮とはいえ、名前といえば名前だな。それで良いのなら、教えることは構わないよ」
お前が望む先には誰もいないといったはず、と。審神者はそれを改めて小狐丸に突きつける。挑発するように向けた視線に小狐丸は静かに険しい表情を浮かべて、そうして、噛みつくような口調で口を開く。
「構いません。――それが貴方の中にあるものならば。番号であっても、私には価値があるものです」
大した間を置くこともせずに、そこまで言い切った小狐丸に、審神者は感心した。だからといって、絆されることもないけれど。
小狐丸の気も長くは続かない、これは勢いでいっているだけだろう。そんな風に考えてしまう。引けなくなっただけなのだろうと、疑いの声を上げる己の心の声を聞きながら、そうか、と呟いた。
ならば構わない。どうせ、名としては何の利用価値のない記号である。惜しむことなど何もない。審神者はそっと、小狐丸の耳に唇を寄せる。すぐに返事がくるとは思わなかったが、ここで言い渋ってはまるで、審神者の大切なものを、小狐丸に渡しているようなものではないか。なおさら、ここで沈黙は出来ない。
「――… 」
告げる。小狐丸は審神者の名を聞くと、小さく目を見開いて、静かに唇を弧に描いた。そうして、耳から顔を離した審神者の顔をのぞき込むと――不意打ちをしかけるように、審神者の唇に噛みつくような口付けをした。
一瞬の熱が審神者の唇に合わさって、審神者が驚きで目を丸くしてからは、あっという間だった。
「――そこまで。これ以上は、触らせないよ」
腕が引かれ、歌仙の腕の中に審神者は抱き込まれていた。背後から腹部へと回された手は小狐丸から遠ざけようとするように強く審神者を引き寄せたまま、あっという間に審神者の体が浮き上がる。足が畳から離れたまま、小狐丸と距離が出来ていった。そうして小狐丸の間に出来た距離の中に割り込むように、紫色の長髪が割り込んでくる。カーテンのように流れていく髪になんとなく目を奪われ、状況を把握することが遅れてしまう。
「駄目だよ、小狐丸。それは主の意ではないからね。そういった行為は慎んでくれ。良いだろう? あなたはもう十分、優遇されているよ」
蜂須賀の穏やかな声が、意を唱えさせないような口調で告げていく。
ようやく畳に浮かされていた足が畳につき、けれど歌仙は審神者を離そうとする素振りは見せなかった。
「全く、君はどこまで愚鈍なんだ」
呆れたように、頭上で歌仙がそうぼやいた。その声に答えるように早く、審神者は小狐丸の姿を目で探す。けれど蜂須賀の影に隠れてしまっていて、小狐丸の姿は確認できないままである。
「ぬしさま」
蜂須賀の言葉にも歌仙の行動にも触れることなく、小狐丸は審神者のことを呼んだ。見えないと分かっていても尚視線で小狐丸を探す審神者を引き留めるように、歌仙は更に自身の方へ審神者を引き寄せていく。ぴったりと、歌仙の胸板に背中を合わせたまま、審神者は歌仙の腕に己の手のひらをのせる。
「なんだ、小狐丸」
小狐丸に口付けされてしまったことは審神者にとっては不可抗力のようなものであった。審神者の意思がそこにあったわけではない。
完全に油断した。けれど、以前のこともある。今更、小狐丸に口を付けられたからといって、一体それが何だというのか。驚くほど冷ややかな思考の中、小狐丸の言葉に答えると、小狐丸は楽しそうに笑った。
「番号というのだから構えましたが――良い名ですね。ぬしさまに、よく似合っている」
「……そうか。思い入れも何もないが、お前が満足したのならば良かった」
「満足? ……いいえ、まさか。まだまだ、足りませぬ。この程度のことで、満足など致しません」
直接見ていないのに、審神者は小狐丸の顔が手に取るように分かった。今にも食らいついてきそうなほどの野性味溢れる眼差しを、おそらく蜂須賀越しに審神者に向けているのだろう。審神者は静かに、眉間にしわを寄せる。
「――次は、ぬしさまではない貴方から愛してると言ってほしいものですね。そしてあの時のように――貴方の方から私に触れてほしいものです」
審神者に唯一ある記号。それが名前でなくとも真名でなくとも、小狐丸は一歩審神者に近づけたのだと思っているのだろう。小狐丸の声だけでそれを察することが出来た審神者は、ふっと、鼻であざ笑ってしまう。
「抜かすな、小狐丸」
こぼれた、否、こぼした言葉。突き放すような物言いは、小狐丸が見たがっていた審神者の姿でもある。審神者ではない本性を愛するなどと宣った小狐丸に、審神者はどうしてもそう言葉をかけずにはいられなかった。それを分かっているのかいないのか、小狐丸は小さく笑い声をこぼしていく。
立ち位置を変えた小狐丸は、蜂須賀の姿が重ならない縁側に移動して、確かに、審神者と視線を重ね合わせる。
「私はこれで戻ります。収穫としては十分です」
怪しげにうっそうと細められた赤い瞳は、審神者を通して、審神者でない者をみようとしている。審神者は顔をしかめて、その視線を受けている。
「――愛していますよ。貴方を」
そう言って、小狐丸は審神者に背を向けて去っていく。審神者は小狐丸の様子に、何とも言い難い複雑な思いを抱いた。たかが数字を知ったからなんだというのか。審神者が小狐丸の主であり、小狐丸が審神者に使役される刀剣男士という事実は何も変わらない。
(私と小狐丸の関係は変わらない)
小狐丸のアプローチも、おそらくは長くは続かない。審神者はそんなことを思った。後は時間が解決してくれる。小狐丸が審神者近づけば近づくほどに、審神者の中には望むようなものはないのだと小狐丸も気づくはずである。そうに決まっている。
「主、大丈夫かい?」
小狐丸が去ったのを見送り、振り返った蜂須賀は、心配そうな表情で審神者にそう問いかけてくる。審神者は考えるのをやめて、頷いた。
「問題ない。もう慣れた」
そう答えれば、刺されるような殺気を感じ取って審神者ははっとした。蜂須賀も歌仙も審神者に恋慕などしていない。だからこそ、そこまでの気を回して言葉を選ぶ必要などないけれど、一振りだけそうでない刀剣男士がこの場にいたことを、一瞬だけ失念してしまっていた。
ぴりぴりとした視線の主を目で追いかける気にならず、困って見当違いの方を見てしまう審神者のすぐ後ろで、歌仙ははあとため息をついた。
「君は本当に……」
その先に続くだろう言葉は簡単に予想できる。ぱっと審神者の体を離した歌仙に顔を向けると、歌仙は審神者に向けて物憂げな表情を浮かべていた。
「……良いのかい? 例え番号だろうと、それが君の名前であることに変わりはないのだろう?」
「……ただの記号だよ。真名でなければ使い道もない。知られても何も困らないよ」
「違うよ。主」
返事は意外なところから返ってきた。何の問題もないと、そう答えた審神者の顎を、蜂須賀がそっと指先ですくいあげる。視線を自身に向けさせるためだったそれは、実に軽やかな動きで、いとも簡単に審神者の視線を奪ってしまう。
翡翠の瞳が、真っ直ぐな視線を審神者に向けていた。
「あなたが自分の意思で名前を教えたことに意味があるんだ。それが記号でも番号でも、それはあなたの名前なのだろう? 彼は本当にあなたを愛しているんだ。だから、あなたが受け入れる気がないのであれば、線引きは必要だった。迂闊に名前を教えてはいけなかったんだよ」
「……蜂須賀」
「あなたが許可しているのだからと、俺も歌仙も随分と見逃していたけれど、それでもあまり看過は出来ないよ。あなたのことを、ちゃんと守りたいからね。だから言うよ。今のは良くなかった」
真っ直ぐな言葉に、真っ直ぐな感情。審神者はじっと蜂須賀の言葉に、耳を傾けた。
「だから、あなたの名前をこれ以上本丸に広めないでくれ。あなたの望まない形で、あなたと距離を詰めたがる者が他に出ないとは限らないからね」
その忠告に、審神者は考え込むような沈黙を作ってから――頷いた。
「……すまない。思慮が足りなかった」
そっと、蜂須賀は審神者の顎をのせていた指を引いて、上品に微笑んだ。審神者がすんなりと意見を聞き入れてくれたことに、どこか安心しているように見える。
「良かった。あなたが素直に聞いてくれて」
蜂須賀に返事をするよりも前に、今度はがしっと、背後から頭を鷲掴みにされてしまった。少しも遠慮を見せないその豪快な触り方に、審神者は大きく肩を跳ねさせる。
「……!? な、何だ、歌仙…?」
そんなことをする者はここには一振りしかいない。審神者は咄嗟につむじの上から頭を押さえつけてきた手をどかすように、両手で掴んで、身をよじらせて後ろを振り返る。
「次は僕からの説教だよ、主」
「説教? 何のだ?」
「何の、と聞くか。君は自分で思っているよりもずっと、思慮が浅いらしいね」
正面から向かい合うようにそういわれて、審神者は怪訝そうに眉を潜める。
「覚えがないかい? 君が小狐丸に名前を教えただけではなく、他に窘められるべきことがあっただろう?」
「……………?」
「どうして、僕が君を小狐丸から引き離したと思っている」
「…………、口づけのことか? 別に、口以外なら気にしないと――…」
「口に! されていただろうが!」
頭を離す代わりに、むぎゅっと顎を掴まれる。その声の大きさに驚いた審神者は、反射的に黙り込んでしまう。歌仙は畳みかけるように続けていった。
「僕が怒っていると思うのは、口にされても一切動じていない君にだよ! 実に嘆かわしい! 恋仲でもないのに、意中の相手でもないのに無理矢理唇を奪われたというのに、慣れきって何も感じないだと!?」
「……好きでもないのに変に意識する方がおかしいだろう? 少し当たっただけだ」
「君のそういうところに小狐丸はつけ込んでいるんだ。それが分からないのかい? 下手な鉄砲だろうと数打てば当たるものさ。回数を重ねれば情が湧くこともあるだろう」
「歌仙。お前の言いたいことは分かるけれど、」
歌仙の手首に両手をおき、優しく握って、引き離す。元より乱暴する気などなかったであろう歌仙のことだ、すんなりと離しはしたものの、まだ審神者に物申したいという強い意思は瞳に秘めていた。
「あれで満足するのならば構わない。小狐丸についてはな。明確に境界を作って遠ざけるよりも、その方がかえって落ち着かせられる」
審神者は確信している。小狐丸はそう長くは続かない。
今小狐丸は、審神者の本性を捜している状態だ。その上で愛しているのだと言って、口説いてくるのだろう。けれど、きっと、何も見つけることなど出来はしないのである。何もないのだから、どうしようもない。
仮に審神者の本性を知ったとしても、その姿に想いも冷めるはずである。
「――小狐丸も直に飽きるよ。だから、放っておいて良い」
はっきりとそう言い放った審神者に、歌仙は眉を潜めた。
「そういうところも、問題だね」
今度は両の頬を指でつまんで引っ張ってしまう。痛いわけではない。けれどむにむにと触られるのは嫌で、審神者は顔をしかめた。
「そんな顔をしたってやめないよ! 君には誰かがきっちり言わないとね。僕は他の刀でなく君の味方だ。だからこそ、はっきり言うよ」
感情的な声で、歌仙は口を開く。
「僕たち刀剣男士の好意を甘く考えてはいけないよ。僕たちの君に対する好意というものは、そこらの人間よりもずっと、いや、比にならないくらい一途なものなんだ。そもそも君は愚鈍なくせに、隙を見せすぎるんだよ。言い方は悪いが、あれでは君が自ら相手を誘っているようなものだよ! 誰も選ばないのなら、誰も選ばないなりに言動を貫くべきだ! 中途半端に許しを与えて有耶無耶に出来るのは最初の内だけだからね。今に無理矢理手込めにされてしまうだろうよ! 今の君のままではね!」
きっぱりと、迷うことなくそう言い放った歌仙の言葉に、審神者は目をまん丸くする。傷ついたという事ではない。ただ、このようにはっきりと言われたことに対する驚きが突出していて、反応に困ってしまっただけだった。返す言葉がすぐには出てこなくて、審神者は口を閉ざす。耳に痛い言葉で、審神者に対する警告と忠告をしてくれた歌仙に、本来ならばすぐに返事をしなければならないのに。
答えを探すため、歌仙からの言葉を頭の中で反復させる。歌仙は審神者に今必要な言葉を言ってくれている。審神者のために、どう思われることも覚悟の上で。だからこそしっかり受け止めなければならない。けれど、分かっていても、審神者はすぐに首を縦に振ることが出来ない考えを持っている。この場を取り繕うためだけの返事など出来ないのだ。
(……なら、他に方法はあったのだろうか)
本丸にいる刀剣男士は、審神者にとって等しく平等だ。特別は作ってはいけない。審神者に好意を持っているからといって、警戒した後に遠ざけるわけにもいかない。刀解する気もない。よその本丸に送るようなことも、よほどの事がない限りは、するつもりがない。
諦めて貰うために小狐丸を突き放した審神者のあの時の言動は間違いであると一概にはいえないはずだ。そうでなければ、いつまでもいつまでも終わることなく、小狐丸は審神者に対してアプローチを続けていたはずだろう。
歌仙の言いたいことは理解している。けれど、刀剣男士が一途だというのであれば、なおさら、突き放してでも終わらせてしまわなければならない。分かった上で、審神者は終わらせるために必要なのだと判断していたのだから。
「……主。僕はね、何も、怒って言っているわけではないんだよ。君の為を思っている。君が後悔しない選択をしてほしいと思っているだけなんだ」
「ああ。分かっているよ。……すまない。何と返せば良いのか分からなかっただけだ。歌仙に何を思っているわけではないから、どうか、気を悪くしないでくれ」
返事を出来ない審神者に思うところがあったのだろう歌仙が、そうフォローするように口にする。審神者はすぐにそう返事をして、付け加えた。
「ただ、小狐丸にはあれで良いんだ。私のことを知れば知るほど、小狐丸は私に興味をなくすだろう。思っていたような性格ではなかったと幻滅するだろうからね。距離を縮めればそれだけ早く、時間が解決してくれる」
護衛係なんて役目を作って、刀剣男士と仲良くなれる機会をもらった。それは良い。けれど、それはあくまで結果論であって。護衛係など、この本丸には不要だったのだ。歴史を守るために力を借りている刀剣男士に、こんなことまでさせたくはない。その気持ちはずっと、審神者の中にはあったのだ。
歌仙は顔をしかめていた。審神者の言葉に納得がいっていないようだった。審神者の言い分を把握したが理解は出来ない。そういった視線を審神者へ向けている。
「主」
ハッとする。声の主が誰かなど、考えることもなく。わざと視線を向けないようにしていた長谷部の声に、審神者は苦い表情を浮かべる。後ろめたいというか、罪悪感を覚えるとでもいおうか。
長谷部の前で小狐丸に口付けをされて、それをもう慣れたと言ってしまったこと。小狐丸に、番号といえ、真名ではないとはいえ仮の名前を教えてしまったこと。鈍い審神者にも、これがどれだけ駄目なことであったのか、流石に理解ができる。
「戯れが過ぎます」
おそるおそる、審神者は目を長谷部に向ける。長谷部は、審神者のことを据わった目で睨みつけていた。言葉遣いは崩れてはいないものの、代わりに視線が長谷部の押さえつけているのであろう感情を露骨に示している。審神者に触れた小狐丸にか、それても無防備を晒した審神者に対してか。審神者に向けたことのないような冷たい、けれど怒りに燃えた視線。それに、審神者は今更になって己の迂闊さを後悔した。
小狐丸を大人しくさせたい余りに、長谷部について失念をしてしまっていたのは、審神者の失態である。
「長谷部、」
「俺はもう何度も忠告したはずです。小狐丸は主に何をしでかすか分からないと。……主。俺はそんなに難しい言葉を使っていましたか? もっと分かりやすく伝えた方が良かったでしょうか? それとも、主は俺の忠告も小狐丸の危うさも分かっていて気づかないふりをして――いたのでしょうね。先ほどの主の姿を見ていれば、よおく理解できます」
ゆっくりと、一歩一歩踏みしめるように、長谷部は審神者と距離を縮めてくる。隣で、歌仙が大きくため息をついた。
「そんなに小狐丸に犯されたいですか?」
にっこりと、張り付けたような笑みを浮かべて、長谷部が審神者にそう言い放つ。長谷部が審神者に対してこんな笑みを浮かべながらこんな言葉を告げるなど、審神者は全く予期していなかった。
「長谷部。君の気持ちも分かるけれど、少し落ち着いてくれ」
「何を言う。蜂須賀。俺は至って冷静だ」
「目が据わっているんだが……」
長谷部と審神者の間に割り込むようにして、長谷部を止めようとする蜂須賀。そんな蜂須賀に、歌仙が声をかける。
「待ってくれ。蜂須賀、ここは長谷部に任せよう」
蜂須賀の行動を制止するなり、歌仙は審神者の肩を背後から掴んで長谷部の前に押し出した。遮る者もいないまま長谷部の前に出された審神者は、近くなった長谷部の視線にきゅっと唇をとじ合わせた。
「主。君は一度、長谷部に怒られておくといい。君のやっていることは、小狐丸だけでなく他の刀にも悪影響を及ぼすことだと、しっかり自覚することだね」
「……良いのかい? 長谷部と二人にするのは……」
「仕方ないさ。少しぐらい痛い目にあったほうが主のためだよ。何かあってからでは遅いからね」
「そうかもしれないが……」
今度は渋る蜂須賀の腕を掴んで、歌仙は部屋の外へと連れて行ってしまう。そうして歌仙は部屋を出ると障子を閉ざしてしまった。しっかり閉ざす前に、障子の隙間から部屋の中を覗いた歌仙は、こう言っていた。
「十分だ。その間だけ、僕たちは外に出ておく。かといって、主に乱暴を働いたらすぐに部屋に突入するから、そのつもりで」
視線は無言でいる長谷部に。そうして、今度は審神者に向けられる。
「――折角だ。君はしっかりと怒られておくんだね。嫉妬とは恐ろしいものだよ。いとも簡単に、首が飛んでしまうくらいにね」
今度、僕の元の主の話をしてあげようね。最後にそう言い残して、歌仙はぱたんと障子を閉めてしまった。隙間さえ見せない、閉ざされてしまった部屋の中で、審神者は、長谷部と二人になってしまったこの状況に、焦りを覚えずにはいられなかった。
「主」
呼ばれ、審神者は長谷部に目を向ける。
「座って下さい。主に話したいことが、山ほどあります」
「…………わかった」
その言葉に逆らうことの出来る状況では、既になくなっていた。
正座をする長谷部の前に、向かい合うように同じく正座をする。いつものように背筋を伸ばしていた審神者ではあるが、長谷部に対する後ろめたさのせいか、どことなく不安げな佇まいとなってしまっていることは否めない。
「小狐丸に接触を許す理由を、もう一度主の口からお聞かせ下さい」
元々、長谷部の方が審神者よりも体格が良い。故に、こうして向かい合えばその差は歴然であり、このような状況では威圧感を感じるのも仕方のないことだった。
「………」
「黙っていては分かりませんよ。主、俺は主を責めているのではありません。主が主なりに考えあってのことだというのであれば、それを、俺にも教えて頂きたいと、そう言っているだけです」
「…………長谷部」
「はい。なんですか?」
少しばかり優しい言葉回しにはなっているものの、審神者と小狐丸の関係を責めていることには違いない。審神者は何も、小狐丸とどうこうなりたくてあのような行動をとったわけではない。結果的にどのように小狐丸に受け止められたかはまた別の問題として、審神者は審神者なりに現状打破を考えて行動をおこしたというのに、長谷部はそうは思っていないようだった。
それでも、先ほどの歌仙の反応もある。説明しても理解されるとは期待しない方が賢明だ。分かっていても説明をしなければならない、沈黙を許されないこの状況は酷だった。気が重くなる。
「――…私は、護衛係という役割を、なくしてしまいたいと思っている」
言葉を選びながら、審神者はそう切り出した。長谷部は何か思うところがあったのだろう、静かに、不機嫌に目を細めていた。それでも審神者の言葉を否定することなく、審神者が続けるであろう言葉を、じっと待っている。
「皆、この本丸の刀剣男士だ。等しく同じ、私の大切な刀達なんだ。それなのに、お前達から身を守るために、お前達を護衛として常にそばに置かなければならないこの現状が、嫌で嫌でたまらない」
審神者といられて嬉しいと言われる。話が出来る機会が出来て嬉しいと。審神者とて同じである。中々じっくりと向き合うことが出来なかった刀剣男士達と触れ合い、知らなかった一面を知ることができて、嬉しく思っている。
「護衛係のおかげで、距離が近づいた刀剣もいる。だから、全てを否定するようなことはしない。けれどいつまでもこのままではいられないだろう」
一度口を閉ざして、審神者は言葉を選ぶ。
「だから小狐丸には――断りを入れた。審神者である以上は、気持ちには応えられないと。それから……小狐丸が好意を抱いているのは審神者である私だけで、私の本性を知れば、間違いなく幻滅するだろうと」
良い審神者として振る舞う姿を見て、きっと勘違いをしたのだ。顕現された審神者に対して惹かれてしまうという傾向が、拗れてしまったのだ。審神者としての審神者に好意を抱いても、審神者ではない個人的な姿を見て好意を抱くことなどありえない。そんな自信が審神者にはあった。
「審神者である私は愛せても、私個人を愛することなどないと、そう断言した。だから今、小狐丸は意地になっている状態なんだ。私の本性を知っても気持ちは変わらないと示したいようだが、……それも、今の内だけだ。飽きるまで好きにさせておけば、小狐丸の気持ちも自然と冷めていくだろう」
長谷部の眉間の皺が、更に、深く深く刻まれていく。
それでも、審神者は迂闊にも、言葉を続けた。言葉にすればするほど、やはり己の中ではそれが最適解だと思えてきたからである。
「愛する相手も、私などではなく、より最適な人物など星の数ほどいるだろう。この本丸の中にいるから、それに気づかないだけだ。私に拘るのも私が主だからというだけで、消去法のようなものだよ。だから視野が狭くなっているだけで、小狐丸が私自身を愛しているわけではない」
本丸の中に閉じこもっていたせいで、町に出るまで己が間違っているとは全く疑っていなかった審神者自身のように。見えているようで、何も見えていないのである。外に出れば、きっと気づく。己の視野がどれだけ狭いものだったのかに。
「だから、私自身に好きになるような価値などないと、小狐丸がそれに気づくまでの話だ。そんなに時間もかからないはずだ。今に、無駄な時間を費やしたと後悔するだろうから、」
長谷部は審神者の話を止めようとはしない。審神者は膝の上に置いている己の手の甲を見下ろすように、目を伏せる。
「――それまでの、ほんの少しの間だけだ。小狐丸が私に飽きるまでは、好きなようにやらせておく」
護衛係、なんて出来た大きな要因は、やはり小狐丸にある。小狐丸は審神者に対して感情的になりやすく、行動に移すにもためらいがない。審神者を押し倒して強引に事を進めようとしている。そこが危惧されているわけで。もしも小狐丸が審神者に対して特別な感情を持たないようになれば、護衛係も必要なくなるだろう。
長谷部は、審神者が誰も選ばなければ審神者に行動は起こさないとしている。清光は、既に審神者に対してそのような感情など持っていない。審神者の身を守ることにだけ尽力してくれる、審神者の初期刀である。薬研については、分からない。あの日以降、審神者に対して何もしてこないからだ。もしかすると薬研は、審神者に対する関心が薄くなっているのかもしれない。とはいえ、薬研がまだ審神者を想っているのだとしても、小狐丸のように審神者に迫るとは思えない。
――つまりは、小狐丸さえ審神者への関心を失えば、もはや護衛係など不要になるということだ。このまま小狐丸に好意を抱かれ続けるよりは、その方が良いと、審神者はそう考えている。
「――終わりましたか?」
少しは長谷部から理解を得られただろうか。審神者はそれを望んで、どぎまぎする胸の内を感じながら、そっと顔を上げる。
そしてその期待は愚かな想像だったのだと、すぐに思い知らされた。
「他にも主張があればどうぞ。なければ、次は俺が話す番です」
抜き身の刀を突きつけられているよう。そんな事を考えながら審神者はひくりと口角がひきつる感覚を覚えた。
「まず、一つ。主。貴方の本性がどうであれなんであれ、小狐丸が貴方に飽きることなどありません。貴方が好きにすればさせるだけ、小狐丸が貴方の中に土足で踏み込んでくるだけです」
静かな口調。一切の感情を排除したような声が、一層審神者のことを責めているようだった。
「二つ。消去法で貴方を慕っている者はいません。そのような考えは今ここで捨てて下さい。それは、俺たちへの侮辱です」
一文字一文字、噛みしめているような口調だった。審神者は口を挟むことが出来ずに、ただただ長谷部の言葉を聞いている。
「三つ。歌仙も言っていましたが、気持ちに応えないのならばないなりの、けじめというものがあります。二度と小狐丸に、その身を許すことのないように。主にそれが出来ない以上、護衛は必ずつけます」
そこまで言い切って、長谷部は口を閉じる。審神者が長谷部にした主張全てを一つ一つ否定していった長谷部の言葉に、審神者は素直に頷くことも出来ず、口を開く。はい分かりましたなどと、言うわけがない。何も考えずに、審神者は行動していたわけではないのだから。
「小狐丸の気持ちが、何故お前に分かる」
「では主には分かるのですか? 小狐丸が今何を考えているのか。俺にはアイツの気持ちがよく分かります。少なくとも、甘い考えで悠長に構えている主よりも、ずっと」
淡々と返される言葉。不意に、長谷部は審神者に向かって、柔らかに微笑んだ。
「主。少しこちらへ、近づいてきて頂けますか?」
「……? わかった」
一瞬、何故かと尋ねようととしたものの、すぐに思い直して了承する。審神者よりも小狐丸を理解していると主張する長谷部のことだ。そうしなければ審神者に伝えられない話をするのかもしれない。部屋の外に歌仙と蜂須賀が控えていること。おそらくこの距離感では音が二振りにも漏れてしまう。だからこそ、二振りに聞こえぬようにとの配慮かと判断を下したのである。
審神者は正座で待つ長谷部のすぐ前まで移動して、下から長谷部のことをのぞき込むように、畳の上に手のひらを置いて、少しだけ前のめりになった。そっと顔を近づけて、長谷部の口元へ、耳を近づける。
そんな審神者の行動に長谷部は、ふっと笑った。
「髪、伸びましたね」
言いながら、長谷部は、審神者の髪をさらりと撫でおろす。審神者は小さく身じろぎをして、長谷部に視線を向けるべく顔を上げる。そこには先ほどと同じような微笑みを浮かべている長谷部の姿があった。思っていた反応と違う長谷部の行動に、審神者は疑問を覚えた。
「……長谷部?」
髪を伸ばすと決めてしばらく経つ。長くなってしまった分切るということをしていないため、審神者の髪も、あともう少しで肩につきそうだ。けれど、それは今、話さなければならないことだろうか。
「三つ、貴方へ質問をします。決して嘘はつかないと、今ここで誓って頂けませんか? 決して不誠実な返事はしない、冗談やごまかしでなく、正直に答えると」
戸惑う審神者の頬をすっと撫であげてから、両の手のひらで審神者の頬を包み込む。優しい微笑みとは裏腹に、冷ややかな声が審神者に向けられる。乱暴な触れ方ではない。けれど、決して目を逸らすことは許さないという意思が込められた長谷部のそれに、審神者はごくりと唾をのんだ。そばに呼ばれたのは逃がさない為なのだと、この時になってようやく気が付いたのである。
覚悟を決めたように、審神者はこくりと、小さく頷いた。
「ありがとうございます。簡単な質問なので、あまり気負わないで下さいね。正直に答えて下されば、それで良いので」
目が長谷部から逸らすことは、やはり出来なかった。長谷部の怒りが、圧が、嫌でも伝わってくる。
「一つ。小狐丸に情は移っていないですか? 何度も何度も触れられる内に、犯されても構わないと思うくらいに」
「……思ってない。思うわけがない」
答えると、値踏みするような視線が真っ直ぐと審神者の視線に絡まってくる。少しの間を置いて、長谷部は穏やかな声で、そうですか、と呟いた。
「二つ。貴方に護衛がついてから今まで、今朝の件を抜いて、小狐丸と口付けをしたことはありますか? 勿論、唇に、ですよ」
親指が、審神者の唇の上をなぞっていく。端から、端まで、ゆっくりと感触を楽しむように移動する感触に、審神者は強ばらせる。嘘をつかないと長谷部に言った今、嘘をついて誤魔化すことはしたくない。揉め事を回避させたいというのであれば、嘘を答えられれば解決することが出来るのだろう。だが、そんな不誠実な真似が出来る性分ではない審神者には、それは出来ない。
すぐに否と返事が出来ない時点で、長谷部は審神者の返事を察しているのだろう。けれど、急かさない。ただじっと、審神者に触れながら、審神者からの‘誠実な’返事を待っているだけである。
「……ある」
これ以上、返事ができないままいられるわけもなく、審神者はそう呟くように口にした。長谷部は、先ほどのように、そうですか、と呟いた。
「では、その中で貴方の方から小狐丸に口付けをしたことはありますか? それがただの一度だけだとしても、貴方の意思で、強要されたわけでもなく、小狐丸に触れたことは?」
すうっと、長谷部の目が鋭く細められる。これは最後の質問。長谷部が一番審神者に聞いておきたかったことは、きっとこの質問なのだろう。出来ることなら、とぼけてしまいたい。事実であるように嘘をついて、何でもないようにしてしまいたい。
返事なんてとっくに察しているのだろう。それでも、やはり、長谷部は審神者をせかすようなことはしなかった。
審神者の口から、審神者の言葉で聞きたいのだろう。
「っ……」
けれど、既に長谷部は腹に据えかねたものがあるらしい。距離が縮まり、審神者の唇に、長谷部の唇が近づいている。けれど触れることのないそれは、まるで合図を待っているかのようだった。
返事をすればどうなるか、審神者にはそれが分かっていた。それでも、だからといって偽りの返事も出来ない審神者は、覚悟もまともに出来ないままで、小さな声で呟いた。
「――…あ、る」
小さな声だったとしても、それを長谷部が聞き逃すことはない。長谷部は苛立った表情を浮かべ、そのまま、審神者の言葉を飲み込むような口付けをした。
審神者の体は強ばり、けれど、長谷部の体を突き飛ばすような事は出来ずにいた。明らかに、長谷部を焚きつけるような行動をとってしまったのは己だと理解していたからだ。もしかすると、そのためだけに審神者の口から、答えを言わせたのかもしれない。そんなことを考えても、審神者にそれを確認する術もなかった。
唇が離れて、吐息が唇に触れる。
「慣れて何も感じないくらい、小狐丸とは口付けを交わしたんですよね」
審神者は何も言えず、唇をとじ合わせたままだ。長谷部の瞳から目を逸らすことも出来ていない。すぐ外には歌仙と蜂須賀が待機している。大きくなくとも、助けを呼べばきっと気づいて部屋に入ってくれることだろう。けれど、負い目があるのだ。審神者は長谷部にこのような行動をとってほしいわけではなかった。だが、そうさせてしまった原因が己にあるのならば、抗えないとも思った。
「――否定を、して下さらないのですね」
くしゃりと、長谷部の表情が歪む。傷ついた表情――次いで、怒りをのせたそれに変わって、審神者は小さく言葉をこぼした。
「……すまない。……幻滅したか」
それならそれでも良い。けれど長谷部を傷つけてしまったことだけは、申し訳ないと思った。審神者は静かに目を伏せて、ここにきてやっと長谷部から目を逸らす。長谷部が審神者に気を持たぬようになれば、それは審神者にとっては好都合な展開であるのだ。傷つけてしまったことを悔やんでも、これで、これ以上長谷部が審神者への恋心で傷つくことがなくなると思えば、それはそれで都合の良いことであるに違いない。
「――何も分かっていないのですね。もう何度も、言われてきたでしょうに」
けれど、審神者の期待は優しい声で裏切られてしまう。こめかみに、優しく口づけられた。そして額に、頬。瞼の上。唇の横。そのどれも優しく触れられたことで、審神者は長谷部にまた視線を戻してしまう。触れられる熱も絡まった視線も、どこかもどかしく、審神者はきゅっと唇を引き結ぶ。
「気が多いところも、察しが悪いところも、隙だらけなところも、この期に及んで俺を疑わずに近づいてくる無防備さも、間違いなく貴方の欠点です。それで一体何度貴方に傷つけられてきたことか、俺はもう数える気もなくなりました。見当はずれの思いこみで行動して俺を振り回して、出来もしないのに中途半端に突き放すような真似ばかりして弄んで、けれど、」
視線が、深く深く絡み合ったような気がした。長谷部は諦めたような表情で笑みを浮かべると、また、審神者の唇に自身の唇を寄せていく。
「どんなに愚かで鈍くて思わせぶりな貴方でも、嫌いになどなりません。どうすれば貴方に失望できるのか、此方が聞きたいくらいですよ」
そっと、唇が重なった。審神者は拒むこともせずに受け入れ、また離れていった長谷部のことを、ただ見上げる。長谷部は審神者と目を合わせて、諦めたように微笑んだ。
「――惚れた弱みというやつです。貴方が何を隠していると――…いいえ、隠せていると思っているそれが何でも構いませんが、けれど、あまり油断していると、俺だって怒りますよ。どんな貴方でも――貴方は俺の唯一です」
鼓動が忙しなくなる。とっさに、審神者は逃げるように長谷部から目を逸らしてしまう。
審神者が考えているものなど全て見越していると言わんばかりの物言い。面白くなくて、けれどたくさんの否定の言葉を並べてまくし立てるような気も起きずに、審神者はつい、呟いてしまう。
「………お前は、趣味が悪い」
長谷部は口角を吊り上げる。そうして、もう一度、強引に審神者の顔を自分の方に向かせてしまう。目の前が藤色でいっぱいになった時には既に、唇には熱が触れていた。咄嗟に、長谷部の胸を掴んで服を強く握りしめる。ぬるりと、濡れた舌が、唇の間から滑り込んできた。
「っ、……」
無防備だった舌先を絡ませられて、審神者は逃げようと背中を反らせて、同時に長谷部の胸を押して体を離そうとする。けれど、審神者の頬を包むように触れていた手はそれぞれ審神者の腰に回されて、強く強く引き寄せられた。いつの間にか、正座した長谷部の膝の上に向き合うように座らせられていた。
激しくはない。けれど、逃れることが出来ないような力加減だった。舌先で、弱いところを念入りになぞられる感覚に、審神者の背中はぞくぞくと粟立った。流れ込んできた唾液が舌と舌の触れる感覚を滑らかにして、一層感覚を過敏にさせる。どちらのものとも知れない唾液が口内に溢れて、上から長谷部の唇に塞がれているせいで、審神者はそれを吐き出すことも出来ない。
こくりと、喉を上下させてそれらを飲み込む。ぞくぞくとした感覚が審神者を妙な心地にさせて、じわりと目に涙が浮かんだ。尾てい骨をなぞるように撫でられれば、微かにあった隙間から力の抜けた吐息がこぼれて、それを塞ぐようにまた強引な口付けが再開された。
そうして解放された後、はっと酸素を求めて呼吸を繰り返す審神者の耳元に唇を寄せて、長谷部はこう告げた。
「これからは、貴方が小狐丸に接触を許す度に、俺も貴方に同じように触れますから。……どうか今一度、身の振り方を、改めて下さるよう」
長谷部が審神者の顔をのぞき込む。呼吸の落ち着いていない審神者は、涙目で恨めしそうにみることしか出来ない。それでも途切れ途切れに、唾液で濡れた唇から長谷部への文句を吐き出す。
「っ、舌なんて、い、れられてない」
納得できない。覆い隠すように手の甲で唇を押さえてそう言えば、長谷部は僅かに目を丸くして、そうしてふっと口元を緩めさせた。
「それは失礼を。ですが、散々目の前で小狐丸との関係を見せつけられていたことを思えば、それくらいのおまけは可愛いものだと思いますが?」
「かわいくないっ」
「そう怒らないで下さい。俺も、主に振り回されて大変だったんですから」
あやすように審神者の額に唇を押し当てて、長谷部はそう言う。申し訳ないなどとは一切思っていないような物言いに、審神者は恨めしそうに睨みをきかす。そんな審神者の様子を楽しみながら、長谷部は審神者の体をさらに引き寄せ、強く強く抱きしめる。胸の服を掴む審神者の腕ごとすっぽりと抱き込まれ密着すると、長谷部は審神者の耳に唇を押し当てて、囁いた。
「――忘れないで。貴方を最後に手に入れるのは俺ですよ」
しっとりとした声で、直接吹き込まれた言葉。触れている唇が声を発する度に耳がその吐息で犯されて、審神者の唇からは小さな嬌声がこぼれ落ちた。
「他の刀に隙など見せないで下さい。俺は加州と違って、指を加えて見ているだけで終わるような真似はしません。決して油断をしないで下さいね」
最後に耳に音を立てて口付けが落とされる。その度に小さく体を震わせれば、長谷部は至極楽しそうな声で小さく笑った。
審神者の拘束が緩むと、その隙を逃がさないというように、審神者は長谷部から距離をとる。最初に向き合うようにして座っていた時ぐらいの距離ができると、熱い頬を長谷部の視線から隠し通そうとするようにそっぽを向き、そんな審神者の様子に、長谷部は満足そうな表情を浮かべる。
コンコンと、障子の縁の部分をノックする音がする。続いて、歌仙の声がした。
「入るからね」
その一言。言い終わらない内に、障子が遠慮なく開かれる。審神者はまともに歌仙の顔を見ることも出来ない状態で、畳の筋をひたすら見下ろしている。
「どうだい、主。少しは長谷部に絞られたかい? 全く、想い人が目の前で恋敵と仲良くしている様など、拷問のようなものだと、ちゃんと認識しておくんだよ? 分かったかい?」
返事をすることが出来なかったのは、呂律が回るか不安だったからである。口付けに慣れたといっても、それは触れるだけのもののみ。耐性は少しはあるものの、舌を入れられてしまうことにはどうして慣れない。これに関しては、慣れてしまったら終わりだという意識すらある。親愛で触れる範疇を越えている。
代わりに、こくりと頷いた。歌仙の視線は審神者に向けられているだろうから、これで良いだろうと。咄嗟の判断だった。
「……主」
ふわりと鼻をくすぐったのは、香の匂いだろうか。畳に落としていた視線が、無理矢理持ち上げられる。顎をくいと上げて視線を合わせた先にいたのは、もちろん歌仙だった。
その瞳は、品定めをするような眼差しを審神者に向けていた。先程までの行為を見透かされているようなその視線に、ただでさえ熱い頬が更に熱くなっていく。惑いながら視線を返した審神者の髪へと手は移動して、その指先で梳かれるように触れられると、びくりと反応してしまった。
「……かせん?」
困惑の表情を浮かべたまま歌仙を呼べば、歌仙は苛立ちを露わに、目つきを険しくしてしまう。そうして無言で立ち上がると、長谷部に向き合い、一言、こう口にした。
「長谷部。少し顔を貸してくれ」
二振りが審神者の部屋を出ていき、呼吸も完全に整った頃。まだ顔の熱は下がってくれないものの大分落ち着いた審神者は、隣に座る蜂須賀に尋ねるように口を開く。
「……蜂須賀。歌仙は、長谷部に何の話を……?」
長谷部と二人きりにするという判断は、歌仙が下したものだ。にも関わらず、すぐに長谷部を連れて去っていってしまうとは。それに、審神者にはあまり言葉をかけてこなかった点も気になる。
蜂須賀は審神者の問いに、困ったように眉尻を下げた。
「……なんでだろうね?」
とぼけたように言って、蜂須賀はそっと審神者の目尻に触れる。そうして真っ直ぐと審神者のことを見つめた。
「長谷部があなたを虐めすぎたとでも思ったのかもしれないよ。歌仙はあなたのことを大切にしているからね」
「虐められていたわけでは……」
「大丈夫だよ。歌仙も、長谷部に何かしようとは思っていないだろうからね。だから、そんな顔をしないで」
その指先の優しさとは裏腹に、審神者は複雑な気持ちで、蜂須賀に問いかける。
「……そんなに、酷い顔をしているか?」
蜂須賀は曖昧に笑っていた。
[newpage]
そうして仕事にとりかかってしばらく、八つ時前のことである。
昼過ぎに戻ってきていた清光と長谷部の二振りが近侍の仕事を進めながら、審神者も己の仕事を進めていく。久々に緩やかな時間が、審神者の部屋に流れていた。というのも、今日の護衛係は落ち着きのある歌仙と蜂須賀の二振りだからである。仕事をこなす審神者の邪魔もせずちょっかいをかけることもなく、縁側に座って、お茶を飲んだり、書物を開いていたり。何でもないような会話をしていたり。
そんな部屋の中へ、ぽんと、弾けるような音が飛び込んできた。審神者は仕事の手を止めて、その音の主へ目を向ける。聞き覚えのある音。その主の正体については、すぐに見当がついた。
「審神者殿!」
案の定、そこにいるのはこんのすけであった。
「こんのすけか」
筆を置き、姿を現したこんのすけに向き合う。こんのすけがこうして審神者の前に姿を現すときは、たいてい、何かしらの連絡を審神者に持ってくる時である。でなければ、こんのすけは神出鬼没なため、審神者にも滅多に姿は見せてはくれない。雑談をするために審神者の前に現れることなど、ほとんどないといっても良い。
「どうした?」
聞けば、こんのすけはもごもごと言い淀む。確実に審神者に伝えなければならない内容ならばこのようにはならないため、審神者はこの時から既に嫌な予感を抱いていた。
「その……実はですね、審神者殿。そのぅ…どうしても審神者殿と連絡をとりたいという方がいらっしゃいましてですね。もう何度も何度もコンタクトをとろうと、それはもう何度も何度もこんのすけめに連絡がきておりましてですね。流石にもう、断り続けることも大変で……」
その嫌な予感は的中したようだ。審神者はため息をついた。
「アイツか」
「はい……こんのすけも、審神者殿の意向なのだからと断ってきたのですが……今回はその、あちらの本丸の刀剣男士の方からコンタクトがありまして……一応、審神者殿の耳には入れておくべきかと……」
「刀剣男士から……?」
逐一審神者の機嫌を伺ってくるのは、やはり、以前件の本丸からの連絡をきっぱりと拒否したからに違いない。本丸番号384927の審神者は、審神者の同期、昔馴染み、あるいは後に審神者になるための環境の中、己の後に入ってきた後輩であり弟弟子。どの表現で呼ぶのが正しいのかよく分からないような関係で、それ以上の繋がりはないと審神者は思っている。少なくとも、友人などではない。
今までにも何度か連絡はあったものの、そのどれもがろくな用件ではなかったため、審神者は件の本丸からの連絡は取らなくて良いと、こんのすけに命じていたのだった。だからこそ今回も連絡は無視してしまいたかったが、審神者ではなく刀剣男士からの連絡という点がどうにも気にかかる。何か重要な用件かもしれない。それを思うととても無視して良いとは言えず、審神者は諦めたように肩を落とす。
「……分かった。繋げてくれ」
「! はい! では、お繋ぎいたします!」
そう言うと、こんのすけはすぐさまその本丸と連絡をつなげる。液晶のような画面が空中に浮かび上がり、本丸番号がその真ん中に表示される。審神者は座布団の上で、姿勢を正して座り直した。
縁側に座っている護衛係の二振りが、不思議そうに部屋の中をのぞき込んでいた。同様に、清光と長谷部も仕事の手を止めて、じっと耳をすましている。審神者は特に人払いをすることもせずに、そのまま、その本丸と繋がるのを待っていた。
『あー、あー、聞こえちゅうか? 本丸番号――384921、じゃったか。わしは陸奥守吉行、この本丸の初期刀ぜよ!』
同じ境遇で育った者達の選んだ初期刀は、全て覚えている。同期とも昔馴染みとも呼べる問題児の選んだ初期刀は、確かに陸奥守吉行で間違いなかった。そのことを思い出して、審神者は音声しか相手に届いていないのだと分かっていても、ついつい頷いてしまう。
「ああ、聞こえているよ」
『よっしゃあ! やっと繋がったぜよ!』
答えれば、画面の向こうで、喜んだような声がわき上がった。
『こうして話をするのは初めてじゃのう! おんしの話は主からよおっく聞いとるが、わしはおんしと直接話したいことが山ほどあったんじゃ。すまんき、ちっくと話をしてもええか?』
「構わないよ。私に答えられることなら、力になろう」
『おお! 助かるぜよ! そうだ、映像回線も繋げてええじゃろうか。どうせなら、直接目を合わせて話をしたい』
「……映像回線か。わかった」
こんのすけに指示するように目線を送る。こんのすけは審神者の意図にすぐに気がついて、すぐに回線を切り替えた。
『おっ! うつったうつった! こりゃあみっごとハイテクじゃのう。いや〜大したもんじゃあ』
そうして、繋がるや否や、アップで写されたのは陸奥守の瞳だった。最初は何なのか分からなかった審神者だったが、徐々に離れて顔全体を見えるようになって、ようやく陸奥守の姿であると把握する。
「はじめまして、陸奥守。私は……そうだな。お前の主の同期――……いや、兄弟子、といった方が分かりやすいか。弟弟子が世話になっている。何か困ったことがあればいつでも連絡してくれ。アイツからの連絡はとらないが、お前達からの連絡ならばすぐにとるつもりだ」
そう言って、微笑む。陸奥守はそんな審神者の様子を見て、ぱちぱちと、信じられないものを見たときのように瞬きを繰り返した。
『ほお〜……こりゃあ、また……』
「陸奥守? どうした?」
感嘆に近い声を漏らす陸奥守は、審神者の反応に驚いているようで。じいっと観察されるような視線を向けられた審神者が不思議に思って首を傾げれば、それに気がついた陸奥守はハッと我にかえったようだった。
『おっと、これはすまんのう……いやなに、主から聞いていた話と随分違ってな』
「アイツは話を大袈裟に盛るからな。全て信じていると疲れるぞ」
『はっはっはっ! あやつも言われちゅう! いや、全部盛っているとはわしも思わんが、本当かと疑いたくなる話はあるからのう。おんしの気持ちも分かるが、まあ、それも主の面白いところじゃき。わしは結構、そういうところも気に入っちゅう』
「……そうか。上手くやっているのなら何よりだ」
『おう! 退屈せんのはええことじゃ』
にやり、と陸奥守は笑う。そうして少し真顔になり、陸奥守はジロジロと審神者の顔を観察して、不思議そうに口を開く。
『しっかし、話せば話すほど、聞いていた話と違っちゅうな。‘年柄年中ぶすっとしとる鉄面皮’なんどと主はいうとったけんど、中々かわいい顔で笑うき』
その言葉にきょとんとして、審神者は、小さく笑った。昔の記憶が蘇ったとでもいえば良いのか、決して面白いわけではないのだけれど、それでもなんとなく笑ってしまったのだ。懐かしい、とでも表現するべきなのか、審神者には分からない。
「……鉄面皮か。アイツには、よく言われていたな」
『はっはっは! ほがか! 言われちょったか! なら、意外と嘘でもなさそうじゃの。おなごのような顔をしとるとも言うちょったし、案外話を盛ったわけでもなさそうじゃ』
笑い声をあげながら、ごく自然な流れで、陸奥守はさらりと爆弾発言を落としていく。
『なら、おんしがおなごと間違えられて求婚されたことがあるっちゅう話も、与太話っちゅうわけじゃなさそうじゃなあ』
ぴたりと、審神者の表情が固まる。あの馬鹿、と小さな声で吐き捨てるように呟いた言葉は、どうやら陸奥守まで届いてはいなかったようである。どこからか突き刺さるような視線を感じながら、審神者は、不機嫌に顔をしかめていく。
「……そこにお前の主はいるか」
『いやあ、すまん。ここに主はおらんき。今回の連絡は、わしの独断なんじゃ。いやしかし、おんしの反応からゆうと、やっぱりホントのことらしいのう』
「幼い頃の話だ。皆、髪を伸ばしていたからな。僕に限らず、全員女に間違えられてもおかしくない外見だった。今は違う」
ふむふむ。そんな擬音が聞こえてきそうなくらいに考え込みだした陸奥守は、また、じいっと審神者の顔を観察し始める。
『ほいじゃあ、あれはどうなんじゃ? おんしは、怒らせたらげに恐ろしいっちゅうんは』
「…? 何だ、その話は」
『いやあ、主がの、おんしは怒ると一番おっかないっちゅう話をしとったんじゃ。その姿は、まるで鬼神のようじゃったと…それも嘘じゃろうか?』
問われ、審神者は少し沈黙した後に、静かに首を横に振った。
「嘘だな。そんなことはない」
『ほがか。じゃなあ、流石に、そうは思えんからのう』
「ああ。アイツは話を盛るからな。信じなくて良い」
『じゃあ、尻を鷲掴みされて怒ったおんしが、主の意識が飛ぶまで投げ飛ばした挙句、庭の池に沈めたっちゅうんは、』
「……嘘だな。そこまではしていない」
ろくな話をしていない。審神者はこめかみに青筋を浮かべながら、一つ一つ否定していく。目の前に弟弟子が居たのならば、投げ飛ばしていたかもしれないと思うような不快さだった。
『ほいじゃあ、あれはどうじゃ? 喧嘩になると愛用の小刀を振り回して、チャンバラをおっぱじめるっちゅうのは』
近くで耳をすましているのだろう面々が、会話の邪魔にならない程度にざわついていく。
「嘘だ。小刀を持っているのは僕ではないし、それも喧嘩で小刀を取り出す奴ではなかった。相手を頼まれて練習に付き合っていただけの話だ。第一、あいつはその現場を見たことなどないはずだ。人伝てに聞いた話を、盛ったのだろう」
『なら、取っ組み合いの喧嘩をした後、あまりの怖さに弟らにしばらく避けられたっちゅう話も、嘘なんかのう?』
審神者の眉間に、深い深いシワが刻まれる。
「……要らんことしか言わんな、アイツは。なあ陸奥守。少し、お前の主を出して貰っても良いか?」
静かな口調で、審神者はそう陸奥守に頼み込む。けれど陸奥守は、申し訳なさそうに首を横に振った。
『ああ、いやいや。実はな、おんしと連絡をとっちょうのは主には内緒なんじゃ。どんな返事をもらうか分からんし、せっかくなら驚かせちゃろうと思うてな。やき、まだ主は呼べん』
「……そうか。なら、今日は僕に何の用だったんだ?」
『おお? ああ、そうじゃ! 忘れるところやった。これが本題なんじゃが――』
手のひらの上に拳をぽんと置いて、陸奥守はずいっと、液晶越しに審神者の方へ近づいた。液晶に移される映像が、陸奥守の顔のドアップになる。
『――次の演練会場で一度、主と会うてもらえんじゃろうか』
予想をしていなかった言葉に、審神者は目を丸くした。
「……演練で、か?」
『そうじゃ! わしの主は、もう随分とおんしに会いたがっちょってな、もうかれこれ一年も経っておるが……一向におんしは首を縦に振ってはくれん。初期刀としてこの本丸と主を支えてきた身としては、どうしてもやりきれん思いでなあ……』
わざとらしくも思える大きなため息をついて、陸奥守は情に訴えかけるように審神者の目を真っ直ぐと見つめてくる。そして、バシッと突きつけるように人差し指を審神者に向けて、強い声で口を開いた。
『おんしに聞きたいのはそのことじゃあ! 一体なんで、主をそう邪険にするがか!? 確かに口は悪い、女癖は悪い、金遣いも荒い、酒癖も悪い! ちょっとばかし、癖があるといってもいいじゃろう! 問題児かもしれん! じゃがなあっ!!』
まさか、陸奥守にここまで感情的に詰められるとは予想をしていなかった。審神者は呆気にとられながら、液晶越しだというのに、その勢いに圧倒されていた。刺さるようなピリピリとした感覚が、陸奥守の怒りを通して伝わってくる。
いやそれが答えじゃないのか。歌仙がポツリと呟く声は誰にも拾われずに消えていった。
『あああ陸奥守殿、わたくしめを掴まないで下さいまし!』
『あっ、す、すまんすまん』
画面の向こうで、こんのすけの声らしき高い声が聞こえてくる。どうやら、陸奥守が勢い余って、こんのすけまで掴んでしまったらしい。審神者は陸奥守の主張に、苦い表情を浮かべてしまっていた。何と説明したことか。何と返事をしたものか。陸奥守が主である弟弟子を思いやっているが故に、言葉に迷ってしまう。
『わしの主の兄弟子というならなあっ! 弟弟子である主の良さを、おんしも良くわかっとるはずじゃき! 確かに主は曲者じゃが、それでもおんしのことを心配しとるんじゃ。何度連絡してもすげなくされて、その内連絡すら無視されるほどのことを、本当に主がしたがか!? ちょっと会うくらいいいじゃろうが! なんで、おんしはわしの主をそう避けるんじゃ!』
はあはあと肩で息をしながら、陸奥守はまだまだ言い足りないといったような視線を審神者に向ける。審神者はそれを受け入れて、少しだけ、陸奥守の息が整うまで口を閉ざしておく。陸奥守は自分でもやってしまったというような表情を浮かべて、決まり悪そうにがしがしと頭をかいていた。
『すまん……熱くなりすぎたぜよ』
「構わない。気にしないでくれ」
不快ではない。むしろ、ここまで熱くなるほど想われている弟弟子を、審神者は微笑ましく思う。
「アイツは幸せ者だな。こんなにも、お前に慕われている」
審神者の任をこなせるのかどうか、おそらく師匠が一番危惧していたのが、この陸奥守の主である男だった。知っているからこそ、陸奥守の姿にそう感じてしまうのである。審神者は肩の力を抜くように呼吸を繰り返して、陸奥守に柔らかな笑みを見せる。予想していない反応だったから、陸奥守は不意を突かれたような表情を浮かべていた。
「お前の主を邪険にしたかったわけではないよ。侮っているわけでもない。お前の言うとおりだ。アイツは僕達の中でも一番の問題児だったが……僕はお前の主の良さを、よく知っている。アイツは能力こそ低いが、努力しても僕には手に入れられないようなものをたくさん持っている。僕はアイツの、そういうところを尊敬している。お前の主は――未熟かもしれないが、立派な男だ」
陸奥守のための嘘をつくわけではなく、思うままの言葉を並べていく。必要でなければ口にすることもなかっただろう言葉だが、間違いなく、審神者の言葉である。今度は陸奥守は目を大きく見開き、驚きの表情を浮かべる。
『やったら、どうして主の連絡を……』
「………それはな、陸奥守」
言わなければならないのか。言えというのか。
葛藤を重ねた上で、審神者は、諦めように大きなため息をついた。渋々と、口を開く。
「――何度僕が断っても、アイツがしつこく僕を花街に連れて行こうとするからだ」
『…………おん?』
審神者の言葉に不思議そうにする陸奥守。その心中を察しながら、審神者は遠い目をして、ため息をついた。
「何度も花街に誘われ、断ってもしつこく何度も何度も女を抱くように言ってくる。いい加減相手をするのも面倒になってな。この間、もう本丸の連絡はとらなくて良いとこんのすけに指示を出した」
『お、おお…?』
「僕は色事への興味がない。行きたければ勝手に行けば良いが巻き込まれるのは御免だ」
『聞いとる話と違うのう……なんじゃ、主は何を考えとるんじゃあ…?』
不思議そうに首を傾げて難しそうな表情を浮かべる陸奥守。審神者はここまで説明をしなければならない状況に陥っている事実に、なんともいえない心地だった。何が悲しくて他所の本丸の刀剣男子にこのような話をしなければならないのか。穴があったらそこに弟弟子を投げ込みたいくらいの心持ちで、審神者はもう一度ため息をこぼした。
『主は、おんしのことを心配しておったがのう……おんしを外に連れださんとおんしの為にならんと。とにかく、おなごと関わらせようとするのが目的のようにも思えんかったがのう……ううむ、分からん』
分からん、が、
そう続けて、陸奥守は後ろへ下がる。そうして、審神者に全身が見えるような距離にまで下がると、頭を畳にぶつける勢いでたたきつけた。いわゆる、土下座である。
『後生じゃき! どうか、今一度主と会うてくれ! 花街に行ってくれとは言わん! そうなったらわしが全力で主を止めるきに! これはわしの勘じゃが、きっと主は、真剣におんしに話したいことがあるんじゃろう! じゃがな、主はきっと、素直にそれを言えんのじゃろう。わしはそれが悔しゅうてならん。どうか、どうか、頼まれてくれんじゃろうか…!!』
「! 陸奥守っ! やめてくれ、土下座などするな!」
『いいや、やめん! おんしが首を縦に振ってくれるまで、絶対にやめんき!』
ぐっと、審神者は口を閉ざす。刀剣男士を大切する方針である審神者にとって、こうして土下座される状況など耐え難いものでしかない。嫌悪感があるといっても良いだろう。それが例え他の本丸の刀剣男士であったとしても、ここまでされて無碍にはあしらえるわけがない。
(……止むを得ない、か)
諦めて、審神者は、渋々と口を開いた。
「――……分かった。次の演練には僕も出向く。アイツとも、そこできちんと話をしよう。だから、どうか頭を上げてくれ。アイツのことで、お前が僕に頭を下げる必要などないんだ」
『!! ほんに感謝するぜよ! 直接会ってたら抱きつけたんじゃが、ああ、映像越しはこれだからいかん!』
『ですから! わたくしめを抱きしめても意味がないと…ああ、振り回さないで! 振り回さないで下さいまし!』
くるくると回転する映像。真面目に見ていたら酔ってしまいそうだった。審神者は一気に沈む気を抱えながらも、陸奥守が喜んでいる姿に安堵もする。
(アイツが真面目な話をするとは到底思えないが……)
審神者に話さなければならない真剣な内容など、あるとは思えない。それこそ、陸奥守の考えすぎではないだろうか。そんなことを思いながら、審神者は陸奥守に気づかれない程度のため息をついた。
『よっし! そうと決まれば、こうしちゃおれんき! 主に早速このことを伝えてこんと! わしは主のところへ行くきに、一度切るぜよ。じゃあまた、次の演練会場で会うのを楽しみにしとるぜよ!』
「……ああ。時間や場所の詳細は、こんのすけを通じて連絡してくれ」
問題児と会話をすると疲れる。まだ会っていないのに話をしていないのに、既に想像だけで気疲れしている。そんな風に思いながら言えば、陸奥守はにっかりと笑って頷いた。
『任せるぜよ! じゃあ、また次の演練会場でなあ!』
言って、回線が切られてしまう。大声の陸奥守の声が響かなくなったことで、部屋はやけに静まりかえっていた。
「ということは、次の演練は主も同行するのかい?」
いつの間にか審神者の背後からのぞき込んでいた蜂須賀に問われ、審神者ははっとする。縁側に歌仙と並んで座っていたはずが、いつの間に背後まできたのだろうか。後ろを振り向けば、歌仙も蜂須賀同様に審神者の背後に待機していた。
「君は演練会場には行かないからな。ということは、これが初になるわけか」
感心したように、同時に審神者のことをじっくり観察している二振りに、審神者はふうと息をつく。この様子を見る限り、陸奥守の会話は全て聞いていたようだ。
「そうだな。映像記録は全て確認しているが、直接観に行くことはなかったから。行くのはこれが初めてだ。……清光。次の演練予定日は、」
「来週だね。演練用の部隊編成も決まってるよ。はいこれ」
言いながら、書類が手渡される。審神者と陸奥守の会話を聞いていたせいか、予め用意されていたようであ。審神者は礼を言ってそれを受け取ると、その内容を確認した。
「…………」
加州清光。和泉守兼定。薬研藤四郎。乱藤四郎。燭台切光忠。一期一振。
打刀と短刀、太刀で編成された部隊。比較的練度の高い刀と中堅の刀の編成である。ふむ、と何通りかの作戦を練りながら、審神者はふと視線を感じて顔をあげる。
「……?」
その視線は清光から、次いでは他の三振りからも向けられていた。じいっと見られていた審神者は、怪訝に顔をしかめる。
「……どうした? 何か、私の顔に何かついているかい?」
じいっと見られているものの、浮かべられた表情には、差がある。
もの珍しいものを見たように好奇の目を浮かべるのは蜂須賀。審神者を見て熟考しているのは歌仙。言いたいことがあるような訝しげな表情を浮かべる長谷部と、特に驚いた様子を見せていない清光である。
「君のそんな話し方、初めて見たよ。驚いたけれど、新鮮だね」
「そ、うかな? いつも通りだと思うけれど」
ふふっと笑って、蜂須賀は審神者にそう言い放った。そう言われるほどとは思わない審神者だったが、そういえば以前も、長谷部に似たようなことを言われたことがあったと思い返す。
(……何が違うと言うんだ)
さっぱり分からない。眉間にしわを寄せた審神者のそれをつつくようにぐりぐりと伸ばしながら、歌仙はじいっと審神者のことをみる。実体のない圧力に審神者が構える間にも、歌仙は審神者のことを観察しているのだ。居心地が悪くて、審神者は口を開く。
「やめろ、歌仙」
「……そうか。それか」
「…それ?」
言っている意味が分からず、審神者は抜けた声で繰り返す。だから普段と何が違うのかと問いかけたい審神者の言葉を遮るように、歌仙はぺたぺたと、今度は審神者の顔に手のひらで触れていく。
「興味深いな。加州、次の演練は僕と交代してくれ」
「いや、しないから。これは主が行くって分かる前から決定してたの。変更はなし!」
「僕一振りくらい良いだろう。補欠でも良いから、僕も連れて行ってくれ」
「だったら、俺も行きたいな。君たちの中で負傷するものがいないとも限らないし」
「ないってば! ダメだからね。一振り許したら、自分も自分もって、キリがなくなっちゃうから」
清光は両手でバツを作って、きっぱりと却下する。そうして審神者のことをじっと見て、すっと、目を細めた。はっきりとは審神者には分からなかったが、少しばかり、浮かれているようには見えた。
「――じゃあ、今度の演練は主も来るってことで。そうと決まったら、いつも以上に気合い入れなきゃね。他のメンバーにも、そう伝えておくよ」
「ああ、いや、普段通りで良い。私のことは気にしないでくれ」
「それはどうかな。主が直接見てくれてるってだけで、普段通りは難しいと思うけど」
声が、徐々に弾んでいく。清光が浮かれていると感じ取った審神者の推測も、あながち間違いというわけではないらしい。
「見てて、俺だって、主に格好良いところを見せるからね!」
審神者に悪戯っぽくはにかんでそう言った清光は、長谷部に視線を向ける。
「そういうわけだから。主と俺が不在の間、本丸は長谷部に任せるから。頑張ってね」
「……主の命ならば異論はない。だが、お前が俺に命令をするな」
不服そうにしかめっ面をしている長谷部は、そう言って、審神者の前に膝をついた。そうして審神者の目を真っ直ぐと見つめると、小さく、口角をつり上げた。どうにも胡散臭さを感じるような笑みに思えた。
「主。主が不在の間、俺がこの本丸を守ります。お任せ下さい」
「……ああ。頼むよ、長谷部」
「はい」
清光ではなく審神者の口から告げられた言葉を以って、長谷部はそう返事をする。しかし、それだけでは終わらず、長谷部は審神者のことをじっと見て、こうも続けた。
「主。俺がいることを忘れないで下さいね。強引に誘われたからといって、決して、花街になどいかぬよう。主が帰還するまで、俺は何時間でも何日でも待っていますから」
その言葉に、審神者は呆気にとられ、そうして、眉間にしわを寄せて長谷部を睨みつける。
「行くわけがないだろう。お前の目には、僕がそんな節操なしに見えるのか。先も、行かないと言っただろうが」
まるで強引に誘われたら審神者が花街に行って女を抱いてくることが決定しているような物言い。長谷部の中では既に審神者はそういう存在として認識されているとでもいうのだろうか。
「いいえ。ですが、その気がなくとも主は簡単に絆されてしまうでしょう? 選ばないといっても、いざ迫られてしまえば簡単にその体を許してしまうのではないかと俺は心配で――…」
焦っているようで、その実焦ってはいないのだろうか。至って落ち着いた物言いでそう続ける長谷部に、審神者は苛立ちを覚えずにはいられなかった。朝方審神者に強引に唇を合わせたその口で、よくもそんなことを言えるものだとおもってしまう。いや、だからこそ、か。
恭しくそう言ってのけた長谷部の顔を、両手で挟むようにして捕獲する。審神者にそのような行動がとられると思ってはいなかったのか、長谷部は少々驚いた表情を浮かべていた。
「女に興味などない」
吐き捨てるように審神者が言って、数秒。静まりかえった中で審神者は苦い表情を浮かべて、やはりといったような表情をしている歌仙と蜂須賀に目をやる。
「――男にもない!」
あくまで誤解のないように釘をさせば、何とも言えないような表情をみせる。審神者は長谷部に視線を戻して、口を開いた。
「いいか、長谷部。僕は嫁は娶らない。遊びで誰かに手を出すつもりも、勿論、出されるつもりもない。――…少しは、僕を信じてくれ」
最後のは失言だったか。審神者は口を閉ざして、長谷部の顔を解放すると、そっぽを向いた。
「信じていないわけではありません。けれど現実に、主はその気のない相手にもそれなりに体を許しているではありませんか。主は圧されれば必ず手を出されます。貴方は間違いなく、そういう方です」
「……尻軽だといいたいのか」
冷えた声で問えば、長谷部は少しだけ困ったような表情をみせて、しかし、さらりとそれに返事をするのである。
「結果的には、そうなりますね。それに、先程求婚された経験があると言っていましたが、それは事実なのでしょう。否定していませんでしたよね、主」
「子供の頃の話だ! 小夜の半分も背丈がないような頃の話で、責められるような謂れはないぞ」
「それでも、昔から主が誑しだったということには違いないでしょう」
「長谷部、お前……!」
ひくりと、口がひきつる。審神者は無言で顔をしかめると、驚くほど真っ直ぐに審神者に視線を向けている長谷部の眼差しを怪訝に思う。
(本当に僕のことが好きなのか…? 本当は嫌っているのではないのか)
好意を抱いている相手を尻軽と呼ぶとは、もう既に好きを通り越して憎くなっている範疇だろう。審神者は不機嫌に長谷部の視線を受けながら、はあと、吐き捨てるようなため息をつく。
「お前の気持ちはよく分かった」
今度は長谷部の両頬をつまんで、ぎゅぎゅっと引っ張る。審神者なりの訴えである。花街になど心でも行くものかという主張である。長谷部の言う言葉に納得しているから言うのではないと、そういった意味合いのものだ。思っていたより伸びたそれに特筆して思うところはなく。審神者は啖呵を切るような口調で言い放つ。
「――長谷部。次の演練にはお前もついてこい」
長谷部は審神者の言葉にぽかんとしたような表情を見せて、僅かに口を開いたまま、固まった。
「ずっと僕のそばにいろ。監視でも何でも、お前の好きにすればいい。それでいいな?」
ぱっと手を離して、長谷部の顔を解放する。長谷部は審神者の言葉に唇を孤に描いた。審神者に引っ張られた頬については何も気にしていないようだった。ふわりと、嬉しそうな雰囲気をまといながら、長谷部はゆっくりと口を開いた。
「――はい! 主命とあらば」
とても良い返事だった。喜ぶ長谷部とは裏腹に、審神者は不機嫌にそっぽを向く。尻軽呼ばわりされて、些か気分が悪かった。つんと横を向いた審神者は、何か言いたげな残りの視線を振り切るようにして、机に向かって座り直す。
「この話はこれで終わりだ」
予期せぬ予定が入った。前のめりに仕事はこなしていっているため、そんなに焦ることもないけれど、調整くらいは必要になるかもしれない。
(そういえば……目の前で直接戦う姿を見るのは、これが初めてになるのか)
直接演練会場に出向かずとも、映像記録、書類記録の両方を確認できる。演練相手の練度や編成も同時に確認できるため、直接出向かなければいけないということもない。
だから、理由は何であれ、これが初めての経験になるだろう。連絡がなければ演練会場になど出向くこともなかったであろう審神者は、心のどこかで、少しだけわくわくする気持ちを抱かずにはいられなかった。
「長谷部だけ狡くないかい? 俺もあなたの護衛としてついて行きたいんだけど」
「僕もだよ。君の弟弟子という審神者にも、一度会っておきたいものだしね」
「駄目だよ。お前達に悪影響を与えかねないからな。本当なら、長谷部も留守番させたいくらいだ。……長谷部。監視は構わないが、あまりアイツに近づかないように。出来る限り、僕の後ろに隠れていろ」
「主がそう言うのでしたら従いますが……」
歌仙と蜂須賀の不満の声もさらりと流しながら、審神者は書類作成に戻る。
初期刀である陸奥守も言っていたが、会う予定をとりつけられた審神者は、ひどく癖のある男だ。何を言い出すのか、検討はついても予想ができない。長谷部が審神者が尻軽すぎて心配だという暴言を吐かなければ、連れて行くつもりなど全くなかった。
「癖があるっていうのは分かったけどさあ、主の弟弟子なんだよね? そんなに警戒する必要ってあるの?」
不思議そうに、心配そうに、清光が審神者に問いかける。
審神者はその質問に少し思案した後、ゆっくりと口を開いた。
「……ある。会わなくて良いのならば、あいつとは出来る限り会いたくない」
ろくなことがないからな、と心の中で付け加える。据わった目をしてそう呟いた審神者に、それ以上問う者はいなかった。
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