折り目のついた紙をなぞる。ざらついた和紙の感触は心地よく、それは手の平によく馴染んだ。審神者はそれを眺めながら、送り主について、思いを馳せていた。一文字も書かれていない、どこまでも真っ白な紙の上を指先でなぞりながら。
(……これを、恋文と呼ぶか)
薬研藤四郎からのものだと言われて渡されたそれを受け取ったとき、渡し役を務めた包丁藤四郎は、あっけらかんといった様子でこう言った。
『薬研兄から、恋文だって!』
お駄賃代わりに貰っていたらしい、その見るからに甘ったるそうな飴を舐めながら、包丁は審神者に向かってそう言ったのである。小狐丸の膝の上で小狐丸の毛並みの手入れをしている最中の審神者に向かって、そう、言い放ったのだ。
[chapter:審神者は恋ができないE]
小狐丸が審神者の部屋に来たときには既に、包丁は審神者に抱えられていた。審神者に抱えられているというだけで、特に審神者に話しかけたりべたべたしていたりすることもなく、ただ飴に夢中になっているだけの短刀の姿に、小狐丸は眉を潜めた。珍しく、困惑していたような気がする。
「ぬしさま……それは?」
「それってなんだよー! 俺は主の護衛係だぞ!」
「ぬしには聞いておらん。手入れの邪魔だ。そら、降りろ」
「やーだよ! 主がいいって言ったもんね!」
ね!?と強気な口調で包丁は審神者を見上げる。審神者は優しく微笑んで、頷く。それを見て、包丁はそら見たことかと小狐丸に向かってドヤ顔を浮かべていた。完全勝利の表情である。
「包丁を抱えていても手入れは出来るよ。構わないだろう?」
「ぐっ……ですが、ぬしさま、」
渋る小狐丸を煽るように、包丁は審神者の首に手を回してぎゅっと身を寄せる。
「文句いうなら髪ぐらい自分でしろよー! いち兄もいつもいってるぞ! 自分のことは自分で出来るようになりなさいって!」
「余計な世話じゃ。私はぬしさまにしてもらいたいだけで、元より自分でやれる。いいから、そこを降りろ小童」
「やだやだ! ぜったいやだ! 今日はずっと抱っこしてもらうんだー!」
「こら、喧嘩をするな」
窘めるように言いながら、審神者は小狐丸をみる。
「仲良くできないなら、今日は我慢をしなさい。また明日な」
へし切長谷部に小狐丸への態度を怒られたのは昨日のこと。審神者は小狐丸への今後の対応に悩んでいたものの、今日の護衛係である包丁がやたらと審神者に抱えられたがっていたことで、考えたのだ。包丁を抱いていたら、小狐丸もそこまで露骨に迫ってはこないのではないかと、そう。少々打算的ではあるが、これで小狐丸が大人しくなってくれるのであれば、それは審神者にとっても都合の良い話ではある。
小狐丸は審神者の発言にぐっと押し黙ると、そのまま憎々しさを含んだ視線を包丁に向けた。こら、とその視線を窘めるように言えば、小狐丸は渋々といったように口を開く。
「――…わかりました。我慢致します故――…」
以降は、視線だけで訴えかけてくる。毛並みの手入れをしてほしい、と。それを受けて、審神者は頷いた。どうやら今日は、穏便に毛並みの手入れは終わりそうである。
そうは言ったものの、小狐丸は機嫌が良くないという事実は変わらない。
いうまでもなく、いつもの日常の中に包丁が入っているからである。いつものように小狐丸は自身の膝の上に審神者をのせていたが、今日はその審神者の膝の上に、更に包丁が居座っている。ピンクのうずまきが特徴の大きな棒飴をぺろぺろと舐めながら、包丁は小狐丸をじいっと観察していた。それ以外何をしているというわけではないが、審神者の膝の上にいるというだけで、小狐丸にとっては邪魔者以外の何でもないのである。
「……ぬしさま」
「どうした、小狐丸」
「今だけでも、その童をおろしてください。気が散ります」
ぎろりと睨みを落としながら言う小狐丸に、審神者は困ったように眉尻を下げた。包丁がいるおかげで確かにいつものような過度な触れ合いはなくなっているが、その分小狐丸が荒んできてしまっている。
(しかし、包丁がここまで甘えてくるのは珍しいな……?)
短刀は審神者に甘えがちなものが多いけれど、もちろん例外もいる。刀種が同じというだけで同じ個体ではないので、それは当然なのだが――包丁はどちらかといえば、審神者に甘えてくるタイプではないのだ。お菓子や人妻を強請られることはあっても、撫でてほしいだとか遊んでほしいだとか、こういった類の頼みごとを審神者はされたことがない。
もう一振りの護衛係である毛利も同様である。幼い子供が好きな毛利は、他の短刀ほど審神者に甘えてくるようなことはない。現に今も、少し離れた場所に座って、なにやら自由帳を片手に黙々と何かを描いている。
普段あまり関わりがないために、今日の組み合わせは、審神者にも行動がよめないものだったりする。
「我慢してくれ。すぐに終わらせるから」
「早く終わってほしいわけではないのですっ。私はただ……ぬしさまと二人が、」
すっと、審神者に顔を近づけてきた小狐丸は、いつものように審神者に触れようとしたのだろう。けれど、包丁が舐めていた飴の面を、小狐丸と審神者の間に割り込ませるようにずいっと突き出したことで、その動きを止めてしまう。
「だめだめっ。おさわり禁止だぞ!」
包丁が舐め回していた飴に触れるのは嫌だったらしい小狐丸は、強引にそれ以上距離を縮めることはない。小狐丸、と窘めるように呼んでも、小狐丸は審神者の言葉に反応した様子は見せなかった。
「邪魔をするな、童」
ただ地を這うような低い声で、そう包丁に言い放ったのである。不機嫌の度合いが、先程よりも明らかに酷くなっている。
「ただ、毛並みの手入れをしてもらっているだけじゃ」
「わっぱじゃないぞ、包丁だ! 主にちゅーするつもりだろ! ぜったい駄目だぞ!」
「ぬしさまは嫌がってはおらぬ」
「主からするのはいいけど、されるのは駄目だって聞いてるから関係ないぞ」
「生意気な口をたたくではないか……四の五の言わずに早く降りろ、重い!」
二振りの言い合いに、審神者は痺れを切らして櫛をしまう。他の刀剣男士同士でも同じことを思うはずなのだが、どうにも、太刀で体格の良い小狐丸と、短刀の中でも特に幼い外見の包丁が言い合っている光景は見ていられない。
「すまない。重かったか」
小狐丸が包丁をおろすために言った発言であるとは分かっている。だが、包丁の体重が重いと感じるのであれば、審神者の重みはそれ以上だ。ならば、己が退こうと考える。審神者はため息をついて、包丁を抱えたまま小狐丸の膝の上から離れようと腰を上げた。そうして身を乗り出すようにして立ち上がりかけた審神者の体を、慌てて小狐丸が引き寄せた。
「っ…違います! ぬしさまを重いと言ったわけではありません!」
腰に腕を回してそう訴える小狐丸に、審神者はじろりと視線を向ける。
「包丁よりも、私の方が重いだろう。――丁度良い機会だ。これからはお前の膝に乗るのはやめる。知らずにお前に苦労を強いていたな。気づかなくてすまなかった、小狐丸」
「っ…何故そんなことを……分かっていらっしゃるのでしょう? 私はぬしさまのことを言っているわけでは――…」
「分かっている。だが、喧嘩をするのなら、もう、こういったことは出来ない」
きっぱりと言えば、小狐丸はきゅっと唇をとじ合わせて、何かと戦うように顔を険しくする。そうして、絞り出すような声で口を開いた。
「……もう、降りろとは、言いませぬ。ですから……」
悔しそうに言いながら、すがるような視線を審神者に向ける。審神者はそれに息をついて、小狐丸の膝の上に再び座り直した。相手は包丁であって、長谷部や薬研ではない。審神者をそのように見ているわけではない刀剣男士を前にしてでも、今のように喧嘩腰になってしまうのは問題だ。これ以上包丁に喧嘩を売るような真似をするのであれば、ずるずると続いていたこの体勢はやめてしまおう。審神者はたった今、そう決めた。
「分かった。もう少しだから、我慢できるな?」
「……はい、ぬしさま」
「よし」
しゅんとしている小狐丸の頬を優しく撫で下ろしながら、優しく告げる。そんな審神者に何か言いたそうな目で見ていた小狐丸は、一応は大人しくなった。毛並みの手入れをすべく審神者が再び櫛を取り出したあたりで、今度は包丁が口を開く。
「あっ、そうだ。なあなあ、主」
「どうした?」
急に何かを思い出したらしい。ハッと声を上げた包丁は、ごそごそとポケットに手を突っ込んで、ゴソゴソと何かを探しているようだった。弾みで小さな飴がこぼれ落ち、畳の上をころころと転がっていく。ポケットの中にどれだけ入っていたのかと考えている審神者に、やっと目当てのものを発掘したのだろう、包丁が白いものを取り出した。
「薬研兄から、恋文だって!」
長方形に折り畳まれた和紙は、表に何もかかれていない。審神者はいきなり出てきた名前と、単語に、しばしの間固まってしまう。
「おつかい頼まれてたんだ! 飴あげるからって! これは前払いでもらったんだぞ」
見せつけるように飴を揺らしながら、包丁はご機嫌に口にする。審神者は戸惑い、目の前に差し出された文を、じっと見つめるだけで、手を出すことが出来ずにいた。
文と言われれば、気軽に受け取って、ありがとうと包丁に告げていただろう。けれど、審神者の聞き違いでなければ、包丁は今、恋文だと口にした。
「……薬研から、か?」
審神者は薬研から、告白を受けていた。護衛係が出来る前の話である。しかしそれ以降、長谷部や小狐丸とは違い、薬研は審神者の前に姿を表すことはしなかった。だからこそ、審神者は薬研が何を考えているかが分からなかった。時間を置いて考えたことで薬研は審神者への興味を失ったのではないかと、そう考えることもあった。
けれどその度に、薬研に言われた言葉を、触れられた熱の温度を思い出す。そうなると、やはり審神者には、薬研の考えていることが分からなくなってしまうのである。
「そうだぞ。あとは…これ、これも渡してほしいって」
言いながら、包丁は更に取り出した花を一輪、文に添えるようにして審神者に向ける。審神者が受け取るまで、引っ込めるつもりがないらしく、包丁はじっと審神者の方を見上げていた。
「……そうか。……薬研は、どうしている?」
どうしてここまで薬研が渡しに来ないのか。恋文を受け取ることも出来ないまま、審神者はそっと問いかける。
同時に、こうして名前と恋文などを出されてしまえば、嫌でも薬研とのやりとりを思い返してしまう。審神者は仄かに頬に熱を覚え、それを誤魔化すようにそっと目を伏せる。
「知りたいなら会いにいけば? 薬研兄は、ちゃんと待ってるって言ってたぞ」
「……? 何をだ?」
「主の気持ちが落ち着くまで、ちゃんと待ってるって」
そう言って、包丁は審神者に恋文と花を近づける。花の香りがふわりと鼻をくすぐった。
「………そう、か」
薬研が姿を見せなかった理由。それが分かって、審神者は言葉には形容しがたい感情を覚えた。納得すると同時に、ほっとしてしまっている己がいたのである。審神者にとっては、薬研が諦めてくれていた方が遙かに都合の良いはずだったのに。
(安心する理由なんてないだろうに……)
そう考えながらも、審神者はそれを受け取ろうと手を出した。そして審神者の指が文に触れそうになった直前に、包丁の手がぱっと遠ざかっていった。よく見れば、包丁は審神者の手から逃げたわけではなく、小狐丸の手から文を遠ざけたようだった。
「主のだぞ!」
小狐丸に向かって言い放つ。その姿はまるで、子犬がきゃんきゃんと吠えているかのようだった。小狐丸といえば、無言でひたすら包丁の持っている文を睨みつけている。その光景を見て、審神者はようやく状況を正しく認識した。
冷静に考えて、小狐丸の膝の上で薬研からの恋文を受け取るなど――冷静に考えなくとも、酷い状況であると自覚する。審神者は重たくなる胃の存在を感じながらも、睨み合う二振りの間に割り込むように腕を差しこんだ。
「小狐丸」
状況が不味いことは分かる。包丁から文を受け取りたいところではあるが、だが、小狐丸の前では受け取れない。ひとまず小狐丸を宥めるように頬に手をやって、視線を己に向ける。とりあえず、視線を包丁から逸らさせたかったのである。
小狐丸は不機嫌を露わに審神者を見る。文句を口から言葉にして吐き出すことはしないが、代わりその視線が審神者に文句を訴えている。審神者は困り顔を浮かべた。今の小狐丸に、どんな言葉をかければ良いのか。さすがに思い浮かばない。
「ぬしさま」
怒りか、悲しみ、か。そのどちらともとれるような声で、審神者を呼ぶ。審神者は何も言えないまま、小狐丸の頬から手を離した。
「……包丁。それについては、後で話そう」
要らないとは言えない。もしもここで審神者がそう言うことが出来たのならば、そもそも小狐丸を部屋に入れるようなことはしていない。せめて小狐丸の前で受け取るようなことはしないとそう口にした審神者に、包丁は首をぶんぶんと横に振った。
「これは、今じゃなきゃだめなんだぞ。小狐丸の前で恋文って言って主に渡すようにって言われたからな」
――その一言で、ぴりっと空気が震える。
包丁のその伝言は、煽りそのものであった。言い換えれば、薬研から、小狐丸への宣戦布告のようなものだ。審神者は息をのんで、殺気を含めた小狐丸の視線の先を追いかける。案の定そこには文があり、限界まで遠ざけていた包丁の手に握られた文は、小狐丸の獲物として睨みつけられていた。
赤々とした瞳は瞳孔が開ききって、その熱で文を燃やしてしまいそうな雰囲気さえある。今にも包丁に飛びつくのではないかと危惧するほどの怒りの感情に、審神者は頬をひきつらせた。
「分かった。だが包丁、その話は後でな」
包丁を逃がすように下ろして、審神者は二振りの間に割り込む。一度小狐丸の膝から降りて、正面から小狐丸と向かい合えば、小狐丸の怒りが直接肌に突き刺さってくる。
「落ち着け、小狐丸」
「………不要です、ぬしさま。そのような文は必要ありませぬ」
「……あれは私に贈られたものだ。どうするかは、私が決める」
「受け取るつもりですか? 誰も選ばぬというぬしさまが、何故わざわざあれを受け取る必要が? ぬしさまにとって、あの短刀は特別だとでも言うのですか?」
「何故そうなる…! 私は誰も選ばないが、遠ざける気もない。それは、お前もよく分かっているだろう」
「……あの短刀に限っては、遠ざけた方が賢明ですよ、ぬしさま。私が代わりに処分致します」
唇の形が弧を描く。歪にかたどったその唇からこぼれるのは、刺々しい声だけだった。
「手を出すな。その気はない。仮にその選択をするのだとしても、行動には私が移す。……落ち着け」
「落ちついております。至って冷静です」
「冷静なものか。殺気をしまえ」
とても信じられない状況だった。視線を包丁に移さぬよう小狐丸の両の頬を挟んで、無理矢理視線を己に向ける。小狐丸は眉を潜めると、審神者の背中に腕を回して、その身を引き寄せようとした。
視線が絡み合った瞬間に、審神者は本能で、感じ取った。
今までに何度も感じた感覚。喰われてしまう、という恐怖。
「――だから、主は薬研兄のだから駄目だって!」
けれどそれを断ち切るかのように、機敏な動きで審神者と小狐丸の間に包丁が乱入してくる。審神者に背を当てるようにして、包丁は飴の先を小狐丸に向けた。指を指すような要領で、それをやってのけたのである。
小狐丸はまさかここで包丁が間に入ってくるとは考えていなかったのだろう。審神者を引き寄せる力は急になくなることはなく。そのまま包丁の体ごと引き寄せる結果となり――
「――あっ」
――包丁の、間の抜けた声がこぼれ落ちた。
「っ――!」
その視線の先には、小狐丸の髪にぺったり張り付いてしまった包丁の飴があった。長くふわふわとした小狐丸の髪は勢いのせいか、派手に飴に絡んでしまっている。だめ押しのように、包丁の背後から審神者もそれを奥へと押してしまう形になり、更に小狐丸の髪に飴が絡まる結果となった。
「っ〜〜なんということをっ!」
「ああー! 俺のアメが!!」
「飴なぞどうでもよい! ああ、毛並みがっ」
「どうしてくれるんだよー! これ一番おっきいやつだったのに!!」
「っ、こらっ、引っ張るな! はなせ! このたわけが!!」
「おはよー。ねえ、声が外まで聞こえてくるんだけど、なに、これ一体何の騒ぎなの?」
近侍の任につくために部屋に訪れた清光が入ってきて見た光景はさながら惨状だったに違いない。現に状況を確認した瞬間、清光の口からは声が漏れていたのだから。
飴に絡みついてべたべたになった髪に気落ちしている小狐丸を宥め、小狐丸が部屋を去った後、審神者は思い切り脱力した。
その傍ら、何故あの状況に至ったのかについて毛利から説明を受けていたらしい清光は、言いたいことがあるような含みのある表情を浮かべていたものの、すぐにきらりと目を輝かせた。
「逸材…!」
真っ先にこぼれてきた言葉はそれだった。包丁の肩をがっしりと掴んで、清光は続ける。
「ねえ、明日から毎日主の膝に乗っててくれない? お菓子用意するから。働きによってはお菓子もいっぱい弾むし! どう?」
「! ほんとか!? やるやる! 毎日くるぞ!」
どうやら、小狐丸に審神者が一度も口づけられることも、また口づけることもなかったという点が評価されていたようだ。お菓子でつられた包丁はぱあっと表情を明るくし、返事に前向きな態度をとっている。
(小狐丸は大丈夫だろうか…)
小狐丸の気落ちぶりを知っている審神者は、その二振りに何も言わないものの、素直に喜ぶようなこともできない。何もされなくて、長谷部は喜ぶだろう結果に終わったが、とても後味が悪い。毛並みを大切にしている小狐丸のこと、べたべたになった髪に何を思ったことだろう。
あまり良い結果であるとは言い難い。出来ることなら、穏便に済ませたかった。
後で様子を見に行こうか。けれど護衛係は絶対に連れて行かねばならないのだから、逆効果になるかもしれない。小狐丸と包丁の相性はどうやら良くないらしい。
どうしたものかと考えあぐねす審神者の前に、清光が移動して、にっこりと笑う。
「大丈夫だって。小狐丸の様子は俺が見に行っておくから。だから、主はいつも通りに仕事を進めてて。俺も、またすぐこっちに戻ってくるし」
そう軽い口調で言ってみせた清光は、一点の曇りのない笑顔を浮かべている。審神者が小狐丸に口づけられなかったことで、珍しくご機嫌である。それを見て、審神者は何ともいえない心地でいた。清光の笑顔に喜べばいいのか、小狐丸のために悲しむべきか。
恋仲でも何でもないのだから触られないことは当然のことだ。だが、今日のことはあまりに稀なケースだったように思える。
「……分かった。任せるよ、清光」
「うんうん。じゃあ、行ってくるね」
爽やかな笑みを浮かべて軽やかに部屋を出ていった清光の背中を見送りはしたものの、審神者は未だもやもやを払いきれずにいる。もっと良い手段はないものだろうか。少なくとも、あのように、毛並みをべたべたにさせて落ち込ませてしまうなんて、と。
「大丈夫ですよ、主さま」
そんな審神者の心境を察してか、黙々と自由帳に何かを書き込んでいた毛利がそう口にする。審神者が毛利に目を向けると、毛利はにっこりと、審神者に向けて笑ってみせた。
「包丁の子供殺法、見事なものでしょう? 僕が教えたんですよ」
えっへん、と、誇らしげに胸を張ってそう言い放つ。どうやら、包丁にあれを仕込んだのは、毛利だったらしい。
「そうなのか?」
「はい! 小狐丸さんも、包丁のかわいらしさには勝てなかったみたいですね。さっすが包丁です。やっぱりかわいい子は最強ですね〜」
「……成る程。包丁が甘えてくるなど、珍しいと思ったが……そういうことだったのか」
「はい。効果はばつぐんだったでしょう?」
「俺、飴洗ってくるなー!」
小狐丸の髪と絡まった飴はそのまま舐めたくなかったらしい包丁は、審神者と毛利の会話に耳を傾けることなく、マイペースにそう言い残してぱたぱたと歩き去っていく。それを見送り、審神者は困ったように眉を寄せる。
「うれしくないんですか?」
「……何がだ?」
「小狐丸さんに口付けされたくないのでしょう? なら、うれしいはずじゃないですか?」
不思議そうに言われ、審神者は返事に少しだけ困る。
「……嫌ではない、かな。ただ、困るだけというか」
そうか。毛利からすれば、小狐丸の押しに困っている審神者を助けただけなのだ。その身が無事でいるのに喜んでいない審神者の姿は、毛利にはきっとおかしなものに見えるに違いない。
「されないに越したことはないよ。けれど、小狐丸が気落ちするところを見たいわけではないからな。……だが、有り難う」
毛利の前に膝をつくようにしてしゃがみ込んで、審神者はそっと毛利の頭の上に手のひらを置く。そのまま優しく撫でれば、毛利は静かに目を細めた。
「はいっ、まかせてください! でも主さまは、もっと厳しくしていいと思いますけどね」
機嫌が良いのか、リズミカルに左右に体を揺らしながら、毛利はえへへと笑っていく。そうして少し照れくさそうにしてから、毛利は審神者の顔をじっと見つめた。
「主さま、それでその……僕、お願いがあるんですけど…」
「? なんだい?」
毛利の頭から手を離し、その顔をのぞき込む。毛利はもじもじとしながら、そっと、自由帳を審神者に向かって開いて見せた。そこには人の絵が描かれている。髪の長い、子供のような絵に、審神者は首を傾げた。子供好きの毛利のこと、描かれているのは子供で間違いないだろう。けれど、黒髪の長髪の子供には覚えがない。黒髪と黒い瞳、長髪。全てを兼ねそろえている刀剣男士は、審神者の本丸にはいなかった。
「誰か分かりますか?」
「いや……」
素直にそう答えれば、毛利は自由帳をじっと審神者に近づけて、ふわふわとした声で口にする。
「これは主さまなんです」
「……私か? しかし、小さくないかい?」
「はい、具体的には、子供のころの主さまなので」
ふふ、と笑って、毛利は続ける。
「蜂須賀さんから聞いたんです! 主さまは小さい頃、女の子に間違われるくらい可愛かったとかっ」
「……髪の長い子供は、皆そういうものだろう。私に限った話ではないよ」
「はい! きっと可愛かっただろうな〜。主さまの子供のころ、この目で直に見たかったです…」
うっとりとしている毛利には、いまいち審神者の言いたいことは伝わっていないらしい。女のようだと言われたくはない審神者の意図は、全く。目を瞑ってうっとりとしている毛利とは真逆の表情で、審神者は受け取った自由帳の絵を眺めている。
描いてもらえることは嬉しいけれど、手放しで喜ぶことが出来ないことは少し悲しくもある。ただでさえ貧弱や尻軽など、ろくな印象を持たれていないというのに、これに加えて女のようだという印象がついてしまうのは困る。非常に困る
「あくまで子供の頃の話だ。以降、女に間違えられたことなどないよ」
「はい! 分かってます! それで、主さまへのお願いなんですけど……」
今度は審神者を上目遣いで見上げながら、両手の指を組んで、祈るような姿勢をとる。きらきらとした視線を受けながら、審神者は毛利からのお願いを待った。
「主さまのこどものころの写真がほしいなあって」
そういうことか、と、どこか納得する。けれど、その期待に応えることは出来ないと分かってしまっているだけに、審神者は渋い表情を浮かべてしまう。
「……すまない。写真はないんだ」
言った瞬間、毛利の表情筋が固まる。想定内の反応だが、直接目にすると、申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。
「……一枚も? 一枚もですか?」
「一枚も持ってない……すまない」
あんなにもきらきらと輝いていた瞳から、光が消えていく。曇りがかかってついには生気までも感じられなくなった毛利の瞳に、審神者は居たたまれなくなって沈黙した。
決して隠しているわけではない。毛利が望むのならば渡してあげたいが、そもそも、審神者は己の写真など一枚も所持してはいない。
「……そう、ですか」
力なく呟いて、毛利が畳の上に伏せる。全身から感じる消沈の気に、審神者はおろおろとしているだけだった。何か気の利いた言葉をかけてあげたいが、何を言っていいのかも分からない。
「……主さまは、お嫁さんをもらう気がないとか」
「そう、だな。ないな」
「では……主さまの子どもは…」
「生まれることはない」
「じゃあ…永遠にこの本丸に子どもは……来ないということでしょうか…?」
「……そうなる、な」
毛利の子ども好きは知っている。だが、審神者は嫁を娶る気も所帯を持つつもりもないのである。かといって、審神者は毛利を慰めるために嘘をつくつもりもなく、何のフォローもできない。
「……縮む予定とか…ないんですか、主さま…」
「いや、無理だ毛利……諦めてくれ」
嘘でも元気づけることのできる言葉を選びたいが、限度というものがある。審神者は神妙な表情で、けれど非常な現実を突きつけるしかない。
「ぎゃっ! なにしてんだよ、もー!」
――ぎりっと悔しさに畳に突っ伏したままの毛利に、戻ってきた包丁が驚いて飴を落としてしまったのはこの後すぐの話であった。包丁は、また飴を洗いにいく羽目になってしまったことで、非常にぷんすかしていた。
そんなことがあったものの、仕事は進めていく。ただいつもと違うのは、審神者の机の上に一輪の花が置かれていたことだ。花瓶など審神者は持っていなかったから、小さなコップを持ってきてもらって、それに一時的に花を活けている。仕事で手を動かす傍ら、ちらちらと花を眺めては、審神者はここにいはいない送り主のことを思いだしてしまう。
(何故このようなものを……)
併せて渡された恋文に、この花の意味については何も書かれてはいない。そもそも、包丁に改めて渡された文には、何も書かれていなかった。宛先人も送り主の名前も。何も書かれていない、ただただ真っ白なだけの文だった。それを見た時、審神者の脳内は疑問符で溢れたものだった。
「これが飴で、こっちわたがし! これが金平糖」
「わ〜上手ですよ〜! かわいい!」
ちらりと、部屋の隅の方で二人してお絵かきをしている包丁と毛利の姿を見る。この内容について、何か知っているかもしれない。そう思うものの、薬研が恋文の中身まで包丁に伝えているなどとは思えないため、無駄足で終わるだろうことは容易に想像が付く。
(……包丁を通して、小狐丸に喧嘩を売っただけだろうか?)
それはそれで問題ではあるが、今ある情報を整理すればそういうことになる。護衛係である包丁に飴という名の駄賃を渡し、小狐丸の前で審神者に渡す。小狐丸の前でという条件をつけてのことだ。その線が一番濃厚である。
(ならばこの文も花も、形だけ取り繕ったものだろうか)
紫色の花。名前はわからない。審神者は花に詳しくなかった。五角に開いたその花は、薬研の瞳が持つ色とよく似ていた。花を見て、審神者はどこかざわついてしまう頭から、薬研のことを追い出そうとする。が、どうしてか、頭にちらつき続けてしょうがない。
(――何を考えているんだ)
最終的に、審神者は直接薬研の元に出向くことを考え始める。でなければ、ここで審神者がどれだけ頭を悩ませても、きっと正解にはたどり着けないだろうと判断したのである。違いない。審神者にとって、審神者に想いを寄せる刀剣男士の中で、一番考えが読めないのは薬研藤四郎という刀である。
あの時、小狐丸と長谷部と共に審神者の部屋に集まったあの日。薬研はまっすぐと審神者の目を見て言ったのだ。‘愛している’‘誰にも渡さない’確かにそう言った。
だが以降、薬研は何もしなかった。審神者の元に訪れることはなく、声をかけてくることもない。アプローチを続けている小狐丸や長谷部と違い、考えが全く読めない。審神者に対する興味を失ったのかも知れない。時間を置いて冷静になれば、審神者を想うこと事態が、阿呆らしく思えてきたのかも知れない。薬研は賢い刀だ。その可能性はあるだろう。審神者としては、そうであったのならばという希望もあった。
けれど、その度に引っかかった。審神者に愛を告げたあの言葉が、触れた熱が、与えられた痛みが、審神者にとって都合の良い可能性を信じさせてはくれない。目の前に居なければ気にしなくて済んだ感情が、こうして目の前で物としてはっきりとした輪郭をなしている。それだけで、無性に気が散った。
「主。どうしたの?」
「……? 何の話だ?」
不意に隣に座った清光が、膝をついて座って、審神者の顔をのぞき込む。心配そうに揺れる表情に戸惑って言い返せば、清光は静かに言葉を紡ぐ。
「なんだか、いつもよりぼうっとしてる。どこか体調が悪いんじゃないの?」
「……いや、そんなことは…」
言い掛けて、口を閉ざす。確かに、審神者は意識が散漫していた。
「……そうだな。少し、散漫だった」
頭で何を考えていても、手は動かせる。それが出来ないのならば、それは審神者の怠慢に他ならない。審神者は清光にそう謝罪して、無意識に、清光を撫でようと手を伸ばした。
けれど、清光の髪に指先が触れる寸前になって、ハッとする。直接触れられることをずっと避けていた清光へ、何故己が迂闊に触れようとしているのかと。それを清光は望んでいない。触れるなど、それは、清光の意思なくしてはいけないことである。そう考えて、審神者は伸ばしていた指先を丸め、手を引く。
「――すまない。…集中するよ」
謝罪して、すぐさま手を引っ込める。ついでに、紫色の花を活けていたコップを、視界の外に追いやるように移動させた。ことりと、机の上で音を立てたコップと、ゆらりと揺れる紫色の花。不意に、その紫の花が、何かと重なり、けれどそれが何か分かる前にその意識は薄れていく。
(清光に、要らぬ心配をさせるわけにはいかない)
それは、審神者のその意識が強かったせいである。
「………そう。分かった。何かあったら、すぐに言ってね」
「ああ。ありがとう、清光」
清光の言葉にそう答えて、審神者は目の前の仕事に集中する。まずは仕事が第一。それ以外のことは、後ほど考えれば良い。
顔を背けた後の清光の表情を、見ることはなかった。
「桔梗、ですよ」
「……桔梗」
三時のおやつ、審神者は部屋の中で毛利と向かい合って座っていた。今日のおやつは洋菓子で、シュークリームである。大喜びの包丁は、あっという間に自分の分のシュークリームを食べ終えてしまう。物足りなさを浮かべる包丁に、審神者は笑って己の分を手渡した。その流れで、包丁は現在審神者の膝の上で、今度は審神者の分のシュークリームをゆっくりと味わっている。
それを正面から幸せそうな表情で見ていた毛利を眺めながら会話をしていると、ふと、話の話題は薬研のこととなり。貰った五角の花の名を知らぬと言った審神者に、毛利が上記の台詞を口にしたのである。
「綺麗な花ですよね。ちょうど、今が見頃の花でしょうか」
「……そうか」
花に詳しくない審神者には有り難い情報である。花を見てきれいだと思うことはあれど、花に全く詳しくない審神者にとっては、名前をいえる花など限られているのだから。
(今が旬だから、か)
まあ花を送ることにそれ以上の深い意味などあるはずがないか、など。薬研がわざわざ花を贈ってきたことにもそれ以上の理由などないと判断して、審神者はどこか納得してしまう。
「主さまは花に詳しくないんですか?」
「そうだな。あまり、知識はない」
「そうなんですね。……なら、どうして薬研兄さんが主さまに桔梗の花を贈ったのか、主さまには分からないかもしれないですね」
包丁を熱心に見ていた毛利は、一瞬だけ、審神者のことを見つめた。その視線はとても真剣味を帯びているようで、審神者は毛利の意味深なその言葉に、静かに眉を潜めた。
「……意味? 綺麗だからという以外に、花に意味などあるのか?」
分からずにそう聞くが、毛利はとっくに視線を包丁に戻してしまっていた。けれど審神者の言葉はきちんと届いていたようで、毛利はきちんと答えてくれる。
「ありますよ。花には、きちんと意味があります。一つ一つに、たくさんの意味が込められているんです。本数によって意味が変わってくる花もありますよ」
「……どういうことだ?」
「花は見た目だけでなく、言葉で楽しむものでもあるということです。あるいは、伝えたい言葉を乗せて、大切な人に贈るためのものでも」
ますますもって意味が分からない。そういった感想が、表に出てしまっていたのだろう。そんな審神者の反応に、口を開いたのは包丁だった。審神者の胸に背中を押しつけるように体重をかけて、下から、審神者の顔を見上げて言う。
「花言葉っていうんだよ!」
その口元には、クリームがついてしまっていた。審神者は手拭いを取り出して、そのクリームを拭ってやる。と、包丁は嬉しそうに口角を引き上げた。
「わあ! そうですよ! 包丁は物知りですねえ、偉いですよう」
「ふっふーん。これくらい、じょーしきだぞ、じょーしき!」
「……花言葉」
包丁の言葉を繰り返して、審神者はきょとんとしたままでいる。耳になじみのない言葉である。己の中でしっくりくる言葉が見つからず、少し考えた後、審神者はやっとぴったりな表現を思いついた。
「縁起担ぎのようなものか?」
そう言った瞬間の毛利は、微妙に、笑っているようで笑っていなかった。包丁といえば口の周りを舌でぺろぺろと舐めていて、あまり審神者に関心がいっていないようである。
「……う〜ん。惜しい、とはいえない微妙な答えですね」
呆れているように感じた審神者の印象は、おそらく間違ってはいなかったのだろう。毛利は少し考え込んだ後、噛み砕いて審神者に説明にかかる。
「花にはそれぞれ、意味があります。贈る本数や色、贈る相手にもよって、花には気持ちが込められるんです。それが花言葉ですよ。こういう雅なことは歌仙さんの方が詳しいと思うので、聞いてみたらいいですよ。きっと喜びますから」
分かりやすい説明の後に、毛利はそう締めくくる。そうして自分の分のシュークリームに口をつけると、クリームの甘さに幸せそうに顔を綻ばせていた。
「そうなのか。有り難う、毛利」
興味のないこと、必要のないことと判断した知識には疎い己を実感し、もう少し雅な情報を学んだ方がいいかもしれないなんて思う。審神者は、包丁の頭を撫でながら、気になったことを毛利に聞いてみることにした。
「なら、あの桔梗にも花言葉があるのだろう? 知っているかい?」
もしも薬研が桔梗の花を贈ってきたことに何か意味があるとしたら。そうなれば、文が白紙だったことにも納得がいく。文字にする必要がなかったとしたら、それはそれで何故恋文といって出す必要があったのか分からなくなってしまうが、とにかく、花を贈られたことに意味があるならば、と。言葉にしにくい気持ちを、花言葉に託している可能性もあるだろう。
「はい。でも、うーん……何だったかなあ。前、本で読んだんですけど……忘れちゃいました。すみません」
「そうか……いや、こちらこそ、急にすまない」
「ああ、でも、知りたいなら本を持ってきますよ。食べてからで良ければ。主さまは仕事があるでしょう? 包丁がいれば主さまの護衛は十分ですしね」
「! いいのか?」
「はい。主さまさえそれで良ければ」
願ってもない。審神者の方からその申し出を蹴る理由などない。
「なら、頼む」
「はい。お任せください」
にっこりと笑った毛利は、あらかじめ審神者が頼んでくると予想していたかのように快活に返事をする。
(これで、薬研がなにをいいたいのかはっきりするな)
そんなことを思い、審神者は薬研から贈られた桔梗の花を一瞥した。毛利が答えを持ってきてくれさえすれば、何も記されていない恋文や桔梗の花の意味も、薬研が何を考えて審神者に何を思っているのかもはっきりする。
それはつまり、これ以上薬研のことを考えて気をとられる時間がなくなるということである。
(良かった。これで、清光にも余計な心配をかけなくて済むな)
そう考えて胸をなでおろした審神者のことを、毛利は微笑みながら見つめていた。
毛利に持ってきてもらった図鑑を受け取った審神者は、仕事を終わらせてから、ようやくその本を開く時間を持った。それは既に日が沈みかけた夕方――もう少しで夕餉の時間になる頃である。審神者は植物図鑑を開き、目録から、桔梗の花について書かれている頁を探す。
仕事を終えて清光は部屋から去り、包丁と毛利が並んで昼寝をしている部屋は、とても静かだった。そんな中で桔梗の花の頁にたどりついた審神者は、静かに文字を上を視線でなぞっていく。
桔梗の花。開花時期は六月から九月、最盛期は六月から七月であり、ちょうど、今の季節と合っている。読み通り、特に深い意味などなさそうだと判断した審神者は、ふっと笑う。薬研のこと、無意味なことはするまいなどと考えたが、審神者の考え過ぎだったようだ。雅なことは分からんと言うような薬研が、よくよく考えれば花言葉など用いるとは思えない。
そんなことを考えながら、審神者の視線は花言葉の欄に移っていく。完全に、気を抜いてしまっていた。
(やはり、薬研がそこまで気にしているわけが――…)
不意に、指先が止まる。もしかすると、見間違いかもしれない。他の花の頁の文章を気づかない内に読んでしまっているのかもしれない、なんて。とにかく、これは己が見間違えた結果であるという結論がほしかったのである。
顔から血の気が引いて、今度は波が押し返すように血が巡っていく。思わず乱暴に音を立てて図鑑を閉じれば、その大きな音に反応したのか、毛利が目を覚ましてしまった。
「賊ですか!?」
目を覚ますだけでなく体を起こして、顕現した短刀を構えて臨戦態勢に入っていた毛利だったが、素早く周囲を見渡して、敵襲ではなかったことに気がついたらしい。すると今度は、唯一部屋の中にいる審神者に目を向ける。
「――主さま。何かありましたか?」
「……いや、何でもない。その、起こしてしまったな」
「大丈夫です。でも、どうかしたんですか? 顔が赤いですが」
心配そうに審神者の様子を伺う毛利は、敵がいないことを確認したのか、ふっと本体の顕現を解いてしまう。すぐに審神者のそばに来て熱を計るように審神者の頬に触れた毛利に、審神者は小さく首を横に振った。
「何でもないんだ。驚かせたな、毛利。すまなかった」
自然と小さくなってしまった声が疑わしいのか、毛利は審神者の言葉に怪訝そうな目を向ける。
「本当に、何でもない。ただ、本を落としてしまって……」
悟られぬようにそう続ければ、毛利は審神者が手に持っている図鑑を見て、合点がいったかのようにああ、と呟いた。納得したせいか表情が和らぎ、にこやかになってくれる。
「そういうことですね。いやあ、何にもなくて、よかったです」
「ああ。すまない、驚かせてしまって」
「護衛ですから。気にしないで下さい」
花言葉に動揺して起こしてしまったという事実がなんだか申し訳なく思えて、審神者は図鑑を毛利の目から遠ざけるかのように、机の上に置いてしまう。
「……そろそろ夕餉だな」
「ですね。楽しみです。もうおなかペコペコで」
「私もだ。今日の献立は何だろうな」
話を逸らすようにいえば、毛利は疑うことなく話に乗ってくれる。これ幸いと、審神者はおどけるようにそう言った。
(――なんだ。なんだというんだ。あんな花言葉があるなんて、薬研は、分かっていてあれを贈ってきたのか)
けれど、頭の中では桔梗の花言葉がぐるぐると回っている。深い意味などないと思いたい。けれど、偶然にしてはあまりに出来すぎているような気がした。
(ただ綺麗な花が目についてなんとなく贈ったとか、そんな理由ではないのか。でなければ……あんな、あんな言葉を贈るなど、)
何の意味もなかったと分かれば、流してなかったことに出来るはずだった。審神者は困ったように頬を押さえて、毛利の視線から逃れるように、部屋の外へ向かおうとする。
「顔を洗ってくる。離れからは出ないから、ここにいてくれ」
「え? ……まあ、離れから出ないのであれば良いですけど。出るときは、僕に声をかけて下さいね」
「ああ。分かっている」
厠も洗面所も、離れに備えられている。行くためには審神者の部屋を通り過ぎて奥に進まなければいけないため、部屋の前を見張りしていれば、誰も進入できない場所でもある。故に、この時ばかりは、審神者も一人になれるのだった。
桔梗の花言葉は複数あった。誠実、清楚、従順。
けれど一番に審神者の目に止まった花言葉は――『変わらぬ愛』だった。
その花言葉を見た途端に、薬研がどうして文と共に贈ってきたのか、察してしまって。熱くなった顔を冷やしたくて、審神者は水をぱしゃぱしゃと頬に打ち付ける。
間違いであってほしい。従順の意味合いの方であってほしい。やはり主従関係の方が健全だからそちらをのぞむだとか、そんな意味合いの方がずっと助かった。
だが、おそらくそうではない。あの花に意味があるとすれば、間違いなく後者である。
(〜〜薬研はどうしてこうも……このようなことを…)
心の中でだけで、言葉に発しているわけではないのに、言い淀む。肉体的な意味で手を出してくる小狐丸やへし切長谷部と最近関わっていたせいか、このようなやり口でこられてしまうと、審神者はどうすればいいのか途端に分からなくなってしまう。
つまりは、直接手を出さないけれど、だからといって忘れてはいけないと、釘を刺されている状態なのだ。今の己の状況をそう分析した審神者は、たまらず、水を止めて手拭いに顔を埋めたまましゃがみこむ。
(……ふざけるな。一文字も一言も貰ってないのに、どうしてこんなにも調子を狂わされなければならないっ)
何も深い意味はないと高をくくったことが問題だったのだろうか。警戒心を解いて、完全に気を抜いているところに致命傷を負わされた気分だ。
(大体、なんだあの文は……! 何も書かず、けれど形だけは取り繕って、小狐丸を焚きつけるような真似までして! 気持ちが落ち着くまでなんて……そんな時間、与える気などないくせに)
いっそ小狐丸のように、露骨に迫られた方がまだ拒絶できるというものである。審神者はぐっと奥歯を噛みしめて、一刻も早く表情を落ちつかせようとする。こんな表情を、誰にも晒してなるものか、と。
大きく息を吸って、吐き出す。何度かそれを繰り返して、ようやく、審神者は気持ちを整えた。ひとまずは問題ない。けれど、このままではいられない。
(……気づいてしまった今、どんな顔をして薬研に会えば……)
果たして、次に薬研と顔を合わせた時、己はまともに接することが出来るだろうか。
審神者は、薬研のあの目が――審神者の心の奥を全てを見透かしたような目が、どうしても嫌だった。いくら平静であれと己に言い聞かせていたとしても、簡単に調子を狂わされてしまう。審神者が今のように混乱していることも、おそらく、薬研は予測しているのだろう。そんな風に考えてしまう審神者は、悔しさで拳を握りしめる。
平常心、平常心、と。心の中でひたすら繰り返す。審神者にとって、花一輪にここまで振り回されてしまうなどあってはならないことだった。
部屋に戻り、審神者は身を強ばらせた。審神者の部屋には今、毛利と包丁がいるものだと思っていたからだ。その審神者の考えは決して間違ってはいなかった。ただその空間に、一振り、予想もしていなかった存在がいたのである。
「…………薬研、」
思わず間の抜けた声を出しそうになった審神者だったが、必死でそれを押しとどめる。何故か審神者の部屋にいた薬研は、丁度審神者に背中を向けていた。けれど審神者に呼ばれたことで、ゆっくりと、後ろに振り向いた。さらりと長い前髪を揺らして審神者をゆらり見た薬研は、穏やかに微笑んだ。
「――よう、大将」
何でもないように浮かべている表情に、審神者は何故か言葉に詰まってしまう。薬研に会ったときのことについて延々と先ほどまで考えていたというのに、こうして実際に目を合わせてしまえば、変に考え込んでいた内容は全て飛んでいってしまっている。言葉に困っている審神者に、薬研は気を悪くした素振りも見せずに口を開く。
「本を返してもらいにきただけだ。すぐに出て行く」
顔を合わせるのは困る。そう考えていることがばれていたのだろうか。審神者に気を遣うようにそう言った薬研は、手に中にあった本の表紙を審神者に見せた。それは、毛利にとってきてもらった植物図鑑である。
――変わらぬ愛
つい先程開いた頁に記されていた言葉が浮かび、審神者は静かに眉を寄せる。表情に戸惑いが浮かばないように、必死だった。取り繕っているのだということは、とっくに薬研にばれてしまっているのかもしれない。だとしても、無様は晒したくないと、審神者はそう考えて悪足掻きをしようとしてしまう。
「主さまがまだ使うかもしれないから、確認しようと思って。兄さんには待ってもらっていたんです」
「……そうか。すまない、手間をかけたな」
平穏を装ってそう言い放てば、薬研は緩く笑う。
「気にするな。大した手間じゃない。……それで、これはまだ使うか? 使うなら、また後でとりに来るが」
「いや、それはもう――……」
言い掛けて、止まる。審神者の頭の中で、ぐるぐると思考が回っていった。使い終わったから本を返すなどといえば、恋文と共に渡されたあの花の意味――花言葉を既に調べ終わっているということが、薬研にばれてしまう。そう考えてしまったからだ。そもそも、毛利が薬研になんと言って借りてきたかも問題だ。全部伝えたのだろうか。知っているのだろうか。
(いや、そもそもあれは、薬研の物だったのか…)
少し考えれば分かったかもしれない情報に、その可能性を全く考えていなかった己を少しだけ憎く思う。
「――どうした、大将? ……まだ使うなら出直すぜ?」
距離を縮め、審神者の顔を下からのぞき込むようにして、何でもないように薬研は言う。自分の行動が審神者を振り回しているのだという事実には、全く気づいていないようにさえ見える。
(……いや、確信犯か?)
薬研は賢い刀だ。審神者はそれを知っている。だからこそ、今だって薬研の手のひらの上で踊らされているような気がしてならないのだ。藤色の瞳に己の姿が映っていることに、ひどく焦りのようなものを感じてしまう。
「大将」
急かすように呼ばれて、審神者は咄嗟に口を開く。抵抗のつもりだったかもしれない。ひとまずこの場をなんとかしたいと思ったのかもしれない。審神者にもそれが自覚できないまま、無意識で言葉を発していく。
「――まだだ」
上擦った声でそれだけを言って、その言葉にきょとんとしている薬研に気をとられることなく、続ける。
「まだ使う。まだ、読んでいないから」
付け加えれば、薬研は何も言わず、じいっと、真っ直ぐ審神者のことを見つめている。その視線がどうにも落ちつかず、審神者は逃げるように視線をずらしてしまった。それでも、薬研からの視線は依然向けられたままなのだろう、肌にぴりぴりとした熱を感じていた。
「――分かった。じゃあ、また後で取りにくるか」
少しの間を置いて、薬研はあっけらかんとそう言った。審神者がとりやすいように、本を差し出しながら。審神者は、黙ってその本を受け取った。薬研から視線をずらしたまま、目を合わせることも出来ないまま。
そうして、小さな声で口を開いた。
「いや、こちらから返しに行く。……いつまでに返せば良いんだ?」
「ん? ああ、そうだな……」
また薬研が審神者の部屋に来る、など、心臓に悪い。いつ来るのか分からないという状況は、審神者にとっては落ち着かないものでしかない。審神者が焦りながらそう聞けば、薬研は審神者の視線の先に入り込むように位置を移動した。
「いつでもいい。必要には違いないが、気は長い方だ」
本を持つ審神者の手の上に、細く長い指がのせられた。
審神者と目を合わせた薬研は真剣な表情を浮かべたまま、見せつけるように薄く口角をあげる。
「――大将の気が向いた時でいい。俺は、いつまでだって待つ」
言って、すぐに手に乗せられた指は離れていく。そうして、それ以降何も言わず、薬研は審神者に背中を向けて歩いていく。小さく控えめな足音が小さくなる度に、審神者はいたたまれない思いでじわじわと顔に集まる熱を苦しく思った。顔を隠すように、本で盾を作る。
(……本、の話だと思いたいが……違うのだろうな……)
おそらく、そうではない。なんとなく、審神者はそう確信してしまった。
同時に、薬研に良いように転がされてしまっている、とも。認めたくはないが、それは間違いなく事実である。
(どこでこんな手口を覚えてくるんだ……)
じわじわと、距離を縮められている。きっと審神者が気がついたときには、薬研は己が想定していなかったような距離にまで近づいているのだろう。そんな気がしてならず、審神者はこの本を持って薬研に会いに行かなければならなくなったことに、静かに唇をとじ合わせた。
――困り顔で必死に熱を隠そうとする審神者に、毛利はによによとした笑みを浮かべていた。
部屋に入って、薬研に手渡された本を机の上に置く。その表紙を横目に、審神者は大きくため息をついた。よくよく考えれば、護衛係が作られてからきちんと顔を合わせたことは先ほどが初めてだった。ちゃんとしようと決めた直後だというのに見事に気を揺さぶられた審神者は、どうにも先ほどの己が情けなくなって言葉が出てこなかった。薬研は、あんなにも冷静だったというのに。
(薬研だけはどうにも……苦手だ)
あの目も、あの声も、一番記憶から遠ざかっているはずなのに、どうしてか一番意識させられてしまう。審神者として、主としての自覚が足りていない。
「薬研兄さんのこと、迷惑ですか?」
「……毛利?」
不意にかけられた言葉に振り向けば、そこではどこか大人びた微笑みを浮かべる毛利が、審神者のことを見上げている。
「迷惑など……」
審神者は言い淀む。そんなことはないとはっきりと言う事が出来ていたのなら良かった。けれど、薬研に振り回されていることを思うと、即答することが出来なかったのである。毛利は審神者の態度に眉を潜めることもなく、何かを察しているような目をしていた。
「主さまは大切ですから。兄さんの好意が迷惑だというのなら、身内といえど、力付くでも主さまから引き離しますよ」
正座をして真っ直ぐと審神者の目を見据えながら、審神者にそう語る毛利の口調はふざけているようには思えない。そもそも毛利は、このような冗談を口にするような刀ではないのだ。また言葉に迷う審神者だが、毛利はそれでも審神者からの返事を待っていた。
「気持ちが迷惑というわけではないんだ……ただ、審神者であり、主である以上は、刀剣男士に手を出すわけにはいかないから」
「……何故ですか?」
「……何故?」
「僕は、お互い好き合っているならば関係ないと思います。そんな決まりありませんし……何より、薬研兄さんなら主さまに酷いことはしないと思います」
毛利の言葉に、審神者はすぐに首を横に振ってそれを否定をする。
「薬研が私に酷いことをするなど思わないよ。……まあ、痛い目にあうことはあるが……そんなことを気にしているわけではない。――これはあくまで、私の問題なんだ」
「主さまの問題ですか……?」
審神者の言葉に、毛利は更に疑問を覚えたらしい。審神者は目を伏せて、また、視線を本の表紙に戻す。次いで、薬研から贈られた桔梗の花へと。
(……心を動かされてしまうことは、困る)
審神者は分からない。己のことは己できちんと理解しているといいたいところだが、簡単に気を乱されてしまう自分がいることは紛れもない事実である。どんな言葉を並べようと、その事実はなくならない。何もなかったことにはならない。
審神者が刀剣男士に手を出すなどあってはならない。それが刀剣男士からの気持ちを向けられた結果だとしても。それでも一度刀剣男士と一線を越えてしまえば、審神者としての意識が変わってしまうこともある。
審神者は、その末路を知っている。良き審神者であるために必要なもの、不要なものはお師匠様と呼び慕う存在から教わった。故に恋も愛も、審神者には不要のものであると、審神者は知っている。
どんなに善の心があろうとも、俗を知ってしまえば、簡単に悪に転がってしまう。今まで大切にしていたものを蔑ろにする悦びを知ってしまった人間は、決して良き審神者には戻れない。あるのは破滅。刀剣男士の尊厳は損なわれて、霊気は汚れて全てが堕ちる。
審神者は、それが何よりも恐ろしいと――…
「誰かを好きになることが、怖いですか?」
胸を突かれたようだった。審神者は、一瞬呼吸が止められたような気がした。ゆっくりと後ろを振り返り、毛利をみる。毛利は柔らかく目を細めていた。
「審神者としてなんて、上辺の言葉でしょう? 僕には、主さまが怖がっているものは他にあると思います。審神者として、主としてではなく。……誰かを好きになったことがないから、好きになってしまうことが怖いのではないでしょうか」
「……何を言っている。そんなことはないよ。道を違えた審神者の事例を山ほど知っているから、そうならないためにお前達刀剣男士と結ばれるわけにはいかないと、そう考えているだけだ」
そう言い返すが、毛利は納得した様子などみせない。
「でも、主さま、誰も好きになったことがないんでしょう? 誰とも結ばれることはないと言っていたじゃないですか。相手が人であっても、って。主さまはそもそも、誰かを好きになることを前提として避けているような気がします」
「……考えすぎだ。ただ、審神者には必ずしも必要ではないというだけの話で。そこまで深く考えているわけではないよ」
「必要ではないから人を好きにならない、なんて無理な話です。人の心というものは、理屈ではないはずです。僕が小さい子を見て喜びを覚えるように、もっとこう……感覚的なものなんです。本能というか」
言って、未だ寝息をたてている包丁を見下ろし、毛利はふにゃりと表情を緩めてしまった。刀である毛利に諭される日が来ようとは思わなかった審神者は、ただ静かに口を閉ざす。
「主さまにはいないですか? そばにいるだけで愛しくて、ぎゅっとしたくなって、いっぱい喜ばせたいなんて思う相手が」
「……そんな相手など…」
「嫌われてしまうことを思うと泣きそうになったり、ずっとそばで笑ってほしいと思う相手――本当に、いないですか?」
そんな相手はいない。そうはっきり言葉にしようとしたものの、それ以上審神者の唇から言葉は出てこなかった。ただ、毛利の言葉に当てはまる相手を、ふっと、脳裏に思い描いてしまった。それがとても後ろめたいことのように思えて、審神者は顔をしかめてしまう。
主、と頭の中で呼ばれる声を、審神者は聞かないふりをした。
「その好きは、恋愛感情に限らないだろう。私はこの本丸にいる全ての刀剣男士に、そう思っているよ」
綺麗な言葉に並べ替えた言い方をされてしまったから、そんな幻聴を聞いたのだ。恋などしない。己に出来るわけがない。刀剣男士にいくら好きと言われようと、それは己が審神者であるが故に吐き出された言葉に違いないのだ。それを本物と勘違いして彼らを汚すような真似を、審神者はするわけにはいかない。
「…そうですか? 主さまは随分と可愛らしい反応をしているから、薬研兄さんには可能性があるって思っちゃいましたよ」
「………お前たちは、やけに薬研と恋仲にさせようとしてくるな。何故そこまでするんだ」
皮肉を含んだような声になってしまったと、審神者は口にした後になって思う。護衛などという役目を果たしながら、その裏では、審神者と刀剣男士が結ばれることを望んでいる。果たして、本丸のこの形は正しいものなのだろうか。
「……ずっと、見てきたからですよ」
毛利は審神者の言葉を不快に感じたような素振りは一切みせなかった。ただ、ふっと、何かを見通したような含みを持たせて微笑むだけだ。何を見てきたのか分からないと、審神者は怪訝首を傾げる。
「主さまの為に頑張る姿を見てきたから、その上で思ったんです。――薬研兄さんなら、きっと、主さまを幸せにしてくれるって」
毛利はふふっと笑って、続ける。
「さっきの主さまを見て、尚更そう思いました。自覚はないようでしたけど、脈は十分あるみたいで。耳まで真っ赤にして、とってもかわいかったですよ」
毛利の言葉に、審神者はカァッと顔に熱を集まるのを感じとった。先ほどの己の狼狽えぶりを、しかと見られていたのだと気づいたからである。どのような感情からだろうと、薬研を前にして、情けなく、翻弄されていた己が知られていたことに、羞恥を覚えずにはいられない。
「そ、そんなことは……」
「ありますよ。護衛係としてずっと見てましたけど、主さまは小狐丸さん相手に頬を赤らめたりなんてしていませんでしたし。他の、長谷部さん相手でもそうですよね?」
「ちがうっ! そんなことなどあるわけが……」
「ありますよ」
思わず声が荒くなり、審神者は冷静を保てなくなっていく。そんな審神者に、毛利はなんてことのないように言い切った。
「薬研兄さんの名前が出るだけで、顔を合わせただけで、いつも落ち着いている主さまがあんな表情を浮かべるなんて。十分、特別なんだと思います。それは主さまも、自覚しているはずです」
そう言い切られて、審神者はそれ以上なにも返すことが出来なかった。図星を突かれてしまった。己で自覚している部分を言い当てられてしまった。審神者はそれ故に、きゅっと唇をとじ合わせてしまう。
「薬研兄さんは待ちますよ。本気だからこそ、主さまの気持ちが落ち着くまでずっと」
毛利の言うとおりだと思う。薬研は、待つと宣言したのなら待つだろう。きっと、審神者がそれを望むまで。そんな気がする。
「でも、今なら――僕と包丁が護衛係である今日なら、邪魔をしないように、一度ゆっくり話すことの出来る時間を作ることができますよ」
にっこりと人当たりの良い笑みを浮かべて、毛利はこともなげに続けていく。
「勿論、無体はさせません。薬研兄さんが主さまに不躾に触れようとした時点で、引きずってでも部屋に戻します。ですから主さま、安心して下さいね」
「毛利、話すなんていっていないが……」
「はい。ですから、主さまが薬研兄さんと話をしておきたいと思ったら、僕に言って下さいね。他の刀の耳には入れないように、うまくやりますから」
審神者は、その言葉に戸惑う。確かに、一度、薬研とは話をしておかなければという思いがあったからである。けれど、それを急に言われても、では今すぐに、という気持ちにはなれない。ただでさえ、薬研には振り回されてばかりなのだ。
(だが、薬研とはどのみち話さなければならない……色々と考え込んで、変に意識してしまっていては、この先必ず支障がでるだろう)
認めたくないとは思いつつも、毛利の指摘は事実だった。小狐丸や長谷部とは違い、薬研だけは、どうしてか意識をしてしまっている。その自覚は審神者の中になかったわけではない。
「……わかった」
審神者はそんな返事だけをして、また、桔梗の花をみる。そうして、ゆっくりと考えていく。
このまま薬研と顔を合わせる機会を徹底的に避けたのだとしても、きっとここにある桔梗の花が、何も書かれていない恋文が、薬研という刀の存在を審神者に刻みつけたままでいさせるのだろう。ひらひらと降り積もる雪のように、それはいつか審神者の足を捕らえていて、気づいたときには身動きできない状態になっているのだろう。
(――……後回しにすればするほど、きっと追いつめられていく)
そう思った。審神者は、既に己の中に出ている選択肢を選ぶまでの間、悪足掻きをするかのように沈黙を貫いていた。
今夜、薬研をここに――。
だが、そう切り出すまで多くの時間はかからなかった。
[newpage]
夜。食事も湯浴みも済ませた審神者は、毛利に頼んで薬研を呼び出してもらうことにした。次の演練では、嫌でも薬研と顔を合わせることになるだろう。そうなったとき、今日のような反応はできない。一刻も早く、薬研との関係に決着をつけてしまいたい。一番の思いは、それだった。
審神者は布団を敷いた部屋の中で待つ。その布団の中では、包丁が既に眠りについている。一度昼寝をしていたというのに、食事を済ませて風呂に入ってから、包丁がうとうとするまでは早かった。部屋に戻るか尋ねる前に寝入ってしまった包丁は、布団の上に移動させようと審神者が抱いても、一向に起きる気配を見せなかった。
むにゃむにゃと熟睡している包丁の寝顔を見下ろしながら、審神者は小さく目を細める。
(迂闊な行為だな、これも)
今まで、散々忠告されてきた。必ず護衛係をそばにおくように。油断はしないように。応えられないのなら、気を持たせるようなことをしてはいけない、と。では、そのためにどうすればよいのか。切り捨てるように突き放すような行動をとる以外に、何か方法があるのだろうか。分からない。
何を言われても、審神者には正解が分からない。この本丸の刀剣男士は、みんな等しく大切な刀剣男士。特定の刀剣男士だけを遠ざけるような行為は、審神者には到底選ぶことの出来ないような選択肢であるのに。
きっと、薬研を呼び出して話をするという行為も、隙を作っているようなものだと言われる類の事なのだろうと思う。けれど、それでも、審神者は毛利に頼んだのだ。薬研を連れてきてほしい。少しだけでも、誰にも邪魔されない状況で薬研と話をしておきたいのだと。そう頼み込んだのだ。
(言いたいことも、聞きたいことも、たくさんある)
審神者は薬研に恋などしていない。けれど、毛利にされたあの指摘を否定する根拠も持ってはいないのだ。だからこそ、他の刀剣男士とは違い、薬研を前にすると気が乱れてしまう理由も、己の中ではっきりとさせなければならない。己の態度が諍いの理由になりかねないことも、審神者にはちゃんと分かっていた。慎重に、事は進めていきたいところである。
(……絆されないようにしなければ)
緊張して、喉が乾く。ごくりと唾を呑み込んでその時を待つ審神者の元に、部屋の外から声がかかる。
「主さま、連れてきました」
毛利の声である。審神者は大きく息を吸ってから、部屋の外を見た。立ち上がり、障子に近づく。そっと障子を開ければ、そこには毛利がいた。
「ああ。ありがとう、毛利」
ぎこちない声で礼を言う。審神者に毛利は微笑んで、障子の開いたところから、中で寝ているだろう包丁のことを覗き見た。
「包丁はまだ眠っていますか?」
「ああ、ぐっすりとな」
「そうですか。じゃあ、僕は中で待機しておきますね」
そう言うと、審神者と入れ替わるように部屋の中に足を踏み入れた。そしてくるりと審神者を振り返ると、更に続けてみせる。
「主さまに何かあればすぐに動きます。心配しないで下さいね。ですから主さまは、主さまのしたいようにして下さい」
ふっと、短刀を顕現させて、毛利はそう言い放った。柔らかな表情とは裏腹に、目はまっすぐと審神者のことを見つめている。――否、毛利が向けた目線は、審神者に対するそれではなかった。それは、審神者の後方へと向けられている。
「大将にひどいことはしねえよ。だがまあ――俺が大将に手を出しそうになったら、構わねえよ。ぶっすりやってくれや」
今度は審神者の後ろから声がする。ここにいるだろうことはとっくに分かっていたはずなのに、それでも審神者は身を強ばらせてしまう。毛利が向けていた視線は、審神者ではなく薬研に向けられていたものだったのだと、審神者はようやく気がついた。
「はい。任せて下さい」
今度は薬研の言葉に対する返事である。毛利はにっこりと笑ってそう言って、包丁が寝ている布団の横で立ち止まると、縁側に顔を向けるようにして正座をし、膝の上に短刀を置く。いつでも抜くことが出来るのだと、そう示しているようだった。
審神者は、ゆっくりと、縁側の方へ振り返る。
ここに薬研が来てから初めて、真っ直ぐと目を合わせたような気がした。
「薬研」
名前を呼ぶ。薬研は、審神者の声にくすぐったそうに小さく笑っていた。ああ、と応えるように呟かれた声の低さに、審神者は息を飲んだ。
「本当はもっと待つつもりだったんだが……早かったな。そういや大将は、やると決めたら早い性分だった」
「……あんなことをされて、放ってなどおけるものか」
「どのことを言っているのか分からんな。まあ、それについても、ゆっくり話せばいいか。そら、準備もしてあるんだ」
そう言って、薬研は縁側の上に置かれたそれを指で示す。その先を審神者が追いかければ、そこには菓子と湯飲みが置かれていた。本当にゆっくり話すつもりでの手土産だと感じ、けれど、今この場で言いたいことを立ち話で伝えなければならないよりも、縁側に座って話をする方が、審神者にとっても有り難い。その方がずっと、話しやすい。
「……すまない。気を遣わせた」
「なに。俺が好きでやったことだ。気にすんな」
あっさりと言ってのける姿に、感心する。このような包容力が、粟田口一同が薬研を審神者と結ばせようとしてくる理由なのかもしれない。
薬研に続くように並んで縁側に座り、審神者はどこか気まずい思いを感じながらも、言葉を探す。この時のために己の中で言葉を整理して、話す順番も決めていたのに、こうして実際に当人を目の前にすると、途端に言葉がしぼんでしまう。
「……薬研」
「ああ、なんだ?」
けれど、黙ってもいられない。審神者が薬研の名を呼ぶと、湯飲みを審神者に差し出していたまま、何でもないように返事をする。審神者はその手から湯飲みを受け取り、その水面をなんとなくのぞき込む。そこへゆらりと朧気に写った己の目が、水面から審神者のことを見つめていた。
「私は、お前を選ぶことはしないぞ」
開口一番に酷な言葉を吐いたものだと、審神者は己の言葉を他人事のように考える。審神者にとって、薬研は脅威以外の何でもない。どうしても薬研には分かっていてほしいと思うその言葉を口にして、審神者は湯飲みを握る手に力を入れる。傷ついたのは薬研であって己ではないと言い聞かせ、苦しくなる胸の内を見て見ぬふりをした。
「それは聞き飽きた。大将には、もう何度も言われているからな」
けれど薬研はあっさりとそう答えてしまう。審神者がどれだけ否定しても、その否定を受け入れることはしない。断られても諦めない、諦めが悪いという点については、小狐丸や長谷部と同じかもしれない。
「大将が何と言おうが諦めん。アンタを必ず口説き落とすと、俺はそう言ったが。しばらく顔を合わせない内に忘れちまったか?」
審神者の否定など、全く堪えた様子はない。審神者は眉間にしわを寄せて、隣に座る薬研を横目に見る。薬研はどこか楽しそうに、湯飲みの中の水面に写る月を眺めていた。
「大将が何のために俺と話をしようとしているのか、ちゃんと分かっている。だが俺は今夜、アンタを口説こうと思ってここまで来ている。すまんな」
くっと笑って、薬研は審神者に目を向ける。視線が絡まって、審神者は身構えた。飄々とした様子で、薬研は直球に言葉を並べてくる。それにどうしても調子を崩される。審神者はこれが嫌だったのだと、唇をへの字にしてしまう。
「私は――」
「審神者であり主である以上、刀剣男士に手は出せない。手を出して一線を越えれば、一体どう人格が変わるか分からん。だろう?」
「……」
「後は、そうだな。俺の好意はアンタに顕現されたから生まれたもので、俺個人が本当に、アンタ自身のことを好いているからではない……だったか? それももう聞き飽きた。物覚えは悪い方じゃない、一度言われれば分かる」
「だったら、もう良いだろう。私にこだわるのはやめろ」
文にしても花にしても。審神者は、己に何をしても無駄であると思う。好きになることなど、己には出来ない。審神者として、主として。そもそもの己の生き方としても。あらゆる方面から考えても、やはり、刀剣男士と恋仲になることなどあってはならないのである。
「まあまあ。結果をそう急ぐことはねえよ、大将。ほら」
小皿を手に取り、薬研はそれを審神者に差し出す。審神者は湯飲みを薬研と反対方向に置いてから、それを受け取った。小皿の上に紙が敷いてある。その上には、花の形の落雁が鎮座していた。
(……桔梗)
この形の落雁を審神者に渡した理由を邪推してしまう。ただの偶然かもしれない。けれど薬研ならばわざとやってのけそうなことだという思いも強い。
「あの桔梗の花は、わざとか? 意味を分かっていて贈ってきたのか」
「意味?」
「……花言葉だ」
「ああ、あれか。まあな。だが桔梗を選んだ一番の理由は、単純に俺の色に似ていると思ったからだ。あれを見る度、アンタが俺を思い出せばいいと思ってな」
そういう薬研に目をやる。けれど視線が交わることはなく、薬研は真っ直ぐと月を見上げていた。
「――……アンタは、俺のこの気持ちが、大将に顕現されたことで持って生まれたものだと言う。だが違う。俺は大将のこと、特別好いてはいなかったからな」
その言葉に、審神者は息苦しさを覚える。どうしてかは、審神者にも分からない。好かれていなかったという事実のせいか、己の主張が覆ってしまいそうなためか、一体そのどちらなのだろうと考える。ただ、審神者は薬研の横顔から目を離すことができずにいた。
月の光を受けながら目を細めた薬研は、そっと視線を審神者に移した。好いてはいなかった。その先程の言葉とは裏腹に、薬研の視線一つ一つが、審神者への愛を語っている。
「大将は随分と無口だったからな。笑ったこともないし、必要な連絡以外で声をかけてくることもない。だから俺は、大将は俺たちに興味がないのかと思ってたぜ」
けれど唇からこぼれるは、ひたすら方法を間違えてしまっていた審神者についてのこと。審神者は、そんなことはないと否定をしたかった。けれどその資格が己にはないことも、審神者はよくよく自覚している。必要以上に刀剣男士とは関わらないこと。それが結果的に刀剣男士にとって良いことになると、審神者はずっとそう考えていたのだから。言い訳を挟む隙すらない。審神者は、身勝手な振る舞いをしていたのである。
「楽しそうにしているところも、俺は見たことがなかった」
耐えきれず、審神者は視線を落とし、薬研から目を逸らす。じっと落雁を見つめながら、審神者は口を挟むことなく、薬研の言葉に耳を傾けていた。
「加州から、大将についての話は聞いていた。この本丸の方針を、大将は加州にだけは説明したんだろう? 俺は加州から事情を聞いて、まあ、それに従っていた。大将は指揮も手入れも、やることはちゃんとやってたしな」
ずずっと、湯飲みから茶をすする音がする。はあと息をついて、薬研はしみじみと口を開いた。
「まあ、思うところがなかったとは言わん。言いたいことは色々とあった。だが、文句があるわけでもなかった。だから俺は、大将の方針に従ったんだぜ」
ちくちくと、薬研が言葉を吐く度に胸が痛む。過去に犯した己の過ちが、また、頭の中で何度も何度も繰り返された。一年だ。人の身を得て戦う刀剣男士を、それだけの間ずっと遠ざけていた。何を言われても何を思われても、それに審神者が意を唱えることなど許されるはずがないのである。
「――ああ、そうだな。お前は、何も言わずに私に合わせてくれていた」
審神者がそれを認めるように口にすれば、薬研は何かを思い出しているかのように、一呼吸を入れる。そうして、また話し始めた。
「とはいえ、大将はちゃんとやっていたさ。軽傷だろうと手入れはすぐにやって、問題があれば改善して、それを確実に次に活かしていく。それに衣食住何一つ欠けさせることなく、俺たちに与えていただろ。何より、俺たちに仕込みながら、アンタ自身が率先して掃除も料理も洗濯もやっていたからな。少なくとも俺にはそれだけで十分、アンタについていっていいと判断する理由にはなっていた。アンタは、口だけでなく自ら手本となろうとする男だ。主としては、十分信頼に足る器だと思ったよ」
そうして、薬研は審神者に目を向けて、笑みを浮かべる。
「それで、大将はその時、何を考えていたんだ?」
急に問われ、審神者は戸惑いを浮かべながら、その薬研の笑みを真っ正面から見つめた。
「何を…?」
「あの時は聞けなかったからな。連絡事項以外で、こんなふうにアンタに質問なんてとても出来なかった。無駄な話を大将が嫌っているのは、あの時の俺にも分かっていたからな」
言われ、審神者はすまなそうに肩を落とすと、苦しげに眉間にしわを寄せる。望まれている答えが分かっているが故に、審神者は心地が悪かった。
「――お前が喜ぶようなことは、何も考えていなかったよ」
嘘をつく才能があれば良かったのかもしれない。不誠実なことだと思うが、もしも審神者にその才能があったのなら、きっと、審神者の振る舞いで傷つく刀剣男士もいなかったはずだった。
けれど審神者は、そんな嘘がつけない。不実な言葉を吐きたくないと思えば、それがストッパーとなってしまうからである。嘘をついたとしても、きっとすぐに見抜かれてしまうだろう。
「ただ、この本丸を整えなければと……私の中にあったのはそれだけだ。不足を補い、形を作り、習慣を定着させる。本丸がその機能を正しく果たすことが出来るように、必要なことはお前たちに教え、それを新しく来る刀剣男士に伝えることが出来るようにとしようと――全ては、私がお国に恥じることのないような審神者で在りたかったからだ」
距離を置くことが刀剣男士のためだと、そう考えていた。けれどそれは審神者の自己満足で、刀剣男士に我慢を強いていただけだった。あの審神者の振る舞いは、刀剣男士のためのものとはいえない。審神者自身のためだけのものである。
それを思えば、最後の方は声が震えた。言葉にしてみれば、やはり、審神者には欠けているものがあると、そう実感せずにはいられなかった。それを知らず、審神者に対して情を抱くなど、なんと愚かなことだろうか。幻想越しに好意を抱かれた先に在るのは、決して己ではない。審神者は、この場から逃げ出してしまいたかった。
「――…決して、お前達を愛していたわけではなかった。あの時の私には、お前たちのことなど何も見えていなかった。それが私の本質だ」
今は違う。刀剣男士達のことを大切にしたい気持ちはきっと、審神者であるからという理由だけではもはやない。けれど審神者になったばかりの頃は、刀剣男士に不足はさせたくないという思いしか審神者の中にはなかった。苦しまぬために、より、快適に過ごせるように。そしてお国のため歴史のために、より戦うことのできる環境を作るために。
(――……とても、愛を送られるような器ではない)
小皿の上に咲く桔梗の花に視線を落としたまま、審神者はそう思った。一年経って、ようやく己の過ちに気がついた頃には、全てが手遅れなのではないかと悩んだものだった。手遅れで終わらなかったのは、刀剣男士の方が、審神者に歩み寄ることを選択してくれたからである。
それは刀剣男士の優しさであり、審神者の中に優しさがあったからではない。
「相変わらずだな。そうやって、すぐ自分を否定する」
「否定でなく、事実だ。私を優しいと言う刀はいるが、それは、私が優しいからではない。欠けている私を、それでも受け入れてくれる皆が優しいだけのことだ」
「あのなあ、大将。俺たちを馬鹿にしすぎだ。俺たちにとって‘主’ってのは確かに重要な存在だ。だが、唯一無二の神様じゃねえんだ。嫌なものを嫌だと言うことは出来るし、誰も、従いたくないことに従う気はこれっぽっちもねえよ」
どちらかっていうと、神は俺らの方だしな。なんて付け加えて、薬研は続ける。
「従ってきたのは、アンタがその器に足る男だと認識していたからだ。言葉を交わさずとも視線が合わなくとも、アンタの行動を見ていればそれがよく分かる」
大将、と、薬研は審神者を呼んだ。それが審神者の視線を欲しがってのことであると気づいた審神者は、少し迷った末に、薬研へと視線を向ける。
先程まで見ていた桔梗の花――薬研に贈られたあの花と同じ色の瞳が、真っ直ぐと審神者のことを見つめていた。それが己にとって痛々しい視線だと感じた審神者は、苦しそうに表情を歪めて、ちがう、と声を漏らす。
「お前たちが意識していないだけで、私が主というだけで、お前たちは何らかの影響は受けている。幻想を通して私を見ているんだ。だから皆、私を許して、私のそばにいてくれる。何を思っていようと主従の関係が出来た時点で、お前たちの行動には制約が出来るんだ。だからこそ、道を違える審神者も現れる。刀剣男士より弱い人の身でありながら、それでも刀剣男士を虐げることが出来るのはそのためだ。――わかるだろう?」
わかってくれ、と。悲痛な表情でそう告げる審神者ことを、薬研は真剣な表情で見つめている。薬研は少しの沈黙を得て、ゆっくりと口を開いた。
「俺たちが大将を大切に思うのは、大将が主だからってか?」
「……そうだ。審神者になる者には、多くの霊力が備わっている。一度主となり主従関係ができれば、言霊を用いてどんな命令でも、強制的に従わせることが出来る。霊力を通して繋がりが出来ているからこそ、出来ることだ」
「確かに、霊力があればいいってもんじゃあないな。余所の審神者に命令されて従う奴はいない。つまり大将は、俺が大将を好きになったのは、大将との霊力を通して繋がりが出来ているからだと言いたいんだな? ……この期に及んで、まだそれを言うんだな」
「――そうだ」
「そうか」
気を悪くするかと思った。けれど、そんな審神者の予想とは裏腹に、薬研は少し呆れたように、けれどどこか優しい微笑みで審神者の言葉に相づちを打つだけであった。
「――アンタ、本当に面倒な性格してるなあ」
そうして、柔らかな声でそう口にする。不意を突かれて口を閉ざす審神者に、薬研に緩やかに唇を弧に描いて見せた。
「だが俺は、アンタのその面倒なところが好きだ。俺の好きって言葉を疑って、それを馬鹿正直に口にして――近づきたくないなら、それこそ言い方はいくらでもあるっていうのにな。女が好きだ、人の身が良い。体の良い言い訳なんていくらでも作れるだろうに、誠実でいたいのかどうか知らんが、正直に俺たちに向き合おうとする」
目を丸くして、薬研の言葉を呑み込むことが出来ていない審神者は、結果的に、薬研の言葉をおとなしく聞いている状態である。あのやりとりの後で、こんな言葉が返ってくることを、少しも予想していなかった。
「ああそれからもちろん、笑った顔も好きだ。アンタが嬉しそうにしていると、俺までつられちまう。アンタをもっと喜ばせたいと思う。――だがまあ、泣き顔も嫌いじゃあないぜ。特に、涙目で強がっているアンタに見上げられると、どうにも堪らん気持ちになる。アンタの笑った顔に次いで好きだな。組み敷いて、その澄ました顔をとことん乱してやりたくなる」
「っ……おまえ、何を言って…!」
審神者はようやく口を開いて、おかしなことを言い出した薬研の言葉を制止しようとする。
「妙なことを言うのはやめろっ! というかお前、それ、鯰尾にも言っていただろう」
「? 言ったか? 覚えはないが…」
「酒を飲んだお前に聞いたと、鯰尾が言っていた」
「……ああ、じゃあ言っていたかもな。悪いな、酒を飲むとどうも口走っちまうんだ」
しかし、悪びれた様子はない。確かに酔っているのならば不可抗力かもしれないが、酔う度にそのような言葉を吐かれては困る。とはいえ、酔って記憶をなくすタイプの審神者には、それ以上強く責めることもできはしない。
「アンタのことばかり考えてるんだ。迂闊にそれをこぼすこともあるだろう。許してくれ、愛故だ」
「……馬鹿なことを言うな。言っただろう、その感情は……」
言い掛けて、止まる。今まで何度も口にして、けれど決して受け入れられることのなかった言葉である。仕舞いには流血沙汰にもなったそれに、もう口にはするまいと思った言葉でもある。
「アンタへの気持ちが審神者としての繋がりのせいだというなら、本丸全員の刀剣男士がアンタを結ばれたいと思うはずだろう。だがアンタに恋いこがれたのは、数振りだけだぜ。その理屈は通らん」
口を閉ざした審神者にそう言って、薬研はのんきにまた茶をすする。
「それに、言っただろう? 俺は初め、アンタを主として認めていても、抱きたいとは思っていなかった。俺たちが負傷して帰ってきても、アンタは一切動じることなく手入れを行うからな。手元を狂わせることなく、表情一つ動かさない――俺はなあ、大将。アンタは俺たちの内誰が折れようとも、きっと表情一つ崩さんだろうなあと、そう思っていたよ」
抱きたい、の部分で顔をひきつらせた審神者だったが、薬研がそう言い終わる頃にはそれも引かせ、ただただ、その言葉に口を閉ざす。そんなことはない。折れないようにと審神者は取り組んできたのだ。愛がなくとも、刀剣男士が折れて全く動じないはずがないと、そう考える。
しかし、そう言い切る自信はなかった。審神者となる前は、薄情だと言われたこともあった。気にせずに聞き流していたその言葉。今となっては、その投げかけられた言葉は決して間違いではなかったのだと己でも分かる。だから、何もいえなかった。
「だがな――覚えているか、大将。昔、加州と俺と小夜の三振りでこの本丸を回していたときのことを」
「? ……覚えているが…」
急に切り出され、きょとんしながらそう返事をした審神者に、薬研は楽しそうな笑みを浮かべた。
「なら、小夜がいなくなった時のことも覚えてるな? 何処を捜しても見つからなくて、俺たちみんな、三日かけて死にものぐるいで捜してな。結局、大将が小夜を抱えて帰ってきた、アレだ」
「……ああ」
「ふらふらになりながら小夜を抱えて帰ってきて、こっちは肝が冷えたもんだ。怪我の一つでもしているかもしれんと覚悟していたが、小夜は無傷で安心した。まあ、ちょっと弱ってはいたがな、」
「そうだな。怪我がなくて、本当に良かった」
よく覚えている。本当のことをいえば、小夜左文字とその話をするまでは、それは審神者の記憶の奥の方にあった出来事だ。だが、きちんと小夜と話をした今、それはちゃんと審神者の中に在る。
だが、それが何なのだろう。薬研が何をいいたいのか分からず、審神者は怪訝に思ってしまう。ただの思い出話なのだろうか。そう疑問に思うと同時に、審神者は、以前小夜と話をした時のことを思い出す。それを思うと、どこか優しい気持ちになった。あの頃から、小夜は審神者のことを気にかけてくれていた。それを知っているから、少しだけ、審神者は気が休まったのである。
「? いや、怪我はあったぞ」
「……なに?」
だがそんな審神者の耳に、とても信じられないような言葉が飛び込んでくる。聞き間違いかも知れないと薬研に目で訴えるが、薬研は審神者の望む反応を返してはくれない。
「嘘は言わん」
「……だが、確認はした。小夜に怪我などなかったはずだ。今お前も、小夜は無傷だったと言っていたじゃないか!」
寝ている小夜を連れ帰る前に確認はした。そうして、小夜は眠っているだけで怪我はないと判断した上で、審神者は小夜を連れ帰ってきたのだ。
(だが、あの時は確か、意識も朧気でいた……私の判断が鈍っていたのか…?)
だとしたら、己があの後眠りこけていた間に、小夜は人知れず手入れを受けていたとでもいうのだろうか。審神者は、そんな話は聞いていなかった。もしも薬研の言う通り、小夜が言わなかっただけで、実は負傷していたのだとしたら。
「っ…もしも怪我をしていたというのなら、どれほどの怪我をしていたんだ…? 手入れはすぐに行えたのか?」
顔面蒼白になって、審神者は震える声で問いかける。
その後、その件によって審神者自身で小夜を手入れをした記憶はない。札を使って手入れを行うのであれば、必ずしも審神者の力は必要ない。もしも札で手入れをしていたのなら、おそらく薬研はそれを把握しているはずである。
「いいや、してない。ひどいもんだったぜ。途中で脱げちまったんだろうな、裸足で帰ってきて、足なんて切り傷擦り傷だらけだ。本人は眠りこけてちっとも気がついていなかったがな」
「そんな……なら何故私を――…」
「アンタのことだぜ、大将」
「……なに?」
今度こそ、聞き間違いではないかと思った。
審神者は突然の言葉に戸惑って、声は小さくなり、語尾は次第に消えていった。代わりに、間の抜けた声が口からこぼれていく。
「怪我をして帰ってきたのは、アンタだ。大将」
どことなく、呆れていたような声だった。審神者は薬研のいう怪我をした者が己のことをさしていたということに、ただただ目を丸くしているのみだ。
「………私、か?」
「ああ、そうだ」
「怪我など……していたか? 気のせいじゃないのか?」
「……大将らしいな。俺たちの傷には目敏いのに、自分のことには鈍い」
審神者は己の記憶を必死に思い返す。だが、薬研の言うようなひどい傷を負った記憶はなかったため、困り顔で黙り込む。ぬかるんでいて、気をとられれば転げてしまいそうな道を通ったのだ。少しくらい怪我をしていても仕方ないだろうが、薬研のいうような酷い傷があった記憶はない。ただ、確実に覚えているといえる情報が一つある。
「しかし、履き物はちゃんとあったはずだ。裸足で帰ってきたわけでは……」
「履き物は、次の日目を覚ました小夜が探しにいって持って帰ってきた。大将はろくに寝てなかったからな。その反動で深く眠りについて、何をしても全く起きなかったから、その間に」
「…………けれど、足だって裸足で帰ってきたような有様ではなかったはずだ」
「――本当に、アンタは自分に興味がないんだな」
今度は、ため息をつかれた。己の持つ記憶と薬研の語りが一向にかみ合わずに、審神者は嫌な汗をかきながら、眉をハの字にしてそれを聞いていた。そんなことはないと反論したいが、何でも知っているように装う薬研は、本当に審神者も知らない情報を知っているのだろう。下手に強く出られない審神者を前に、薬研は続ける。
「あの日、大将はふらつきながら帰ってきた。焦点の合わん目をして、でも、しっかりと小夜を抱えてな。それから駆け寄った加州に小夜を渡して、何にも言わずに部屋に戻っていった。俺は加州に大将の様子を見てくるように言われて、後ろを追いかけていったんだ」
薬研はため息をついて、肩をすくめた。
「アンタは履き物も履かずに、ふらつきながら歩いていた。――で、ここで、力つきたんだろうな。ここで。ここで、だ。丸まって寝始めた。布団も敷かずに着替えもせず、血と泥で汚れた足も洗わず、ここに、転がっていてな。声をかけても揺すってもぴくりともしねえ」
現在座っている縁側をばしばしと平手でたたきながら、薬研はふうと息をつく。そうして、嫌な予感を覚える審神者に向かって続けるのだ。あの後、きちんとした状態で布団から目を覚ました記憶しかない審神者に向かって。
「そんな大将の足を洗って、ついでに体も綺麗に拭いてやって着替えさせてやって、きっちり敷いた布団の中に運んだのは――この俺だぜ、大将?」
自分親指をさしながら自信に満ちた顔でそう言ってのけた薬研に、審神者は顔面蒼白になって、静かに額を押さえる。少し予想がついたとはいえ、あまりにも耳に痛い話だった。
(嘘であってほしい……)
記憶はある。倒れるように眠りについたとはいえ、起きたときにはきっちり服をまとって布団の中にいた己の、そんな記憶は残っているのである。ただ、その途中の記憶はなく、けれど小夜を抱いて帰る道中から既に記憶が曖昧だったから、記憶がなくとも記憶がない間に自分でやったのだろうと、当時の審神者はそれを不思議に思うようなことはなかった。
今なら分かる。よくよく冷静に考えればおかしいことは。
現に、薬研の説明を信じたくない傍ら、納得してしまっている己がいる。
「――すまなかった。その……全く気づいていなかった」
「だろうなあ。次起きたときには、大将は普段通りだったからな」
今度は楽しそうに小さな笑い声をこぼしている。きっと今、薬研は声の通り、楽しそうにしているのだろう。予想がついても、審神者は薬研のその表情を見る余裕はない。穴があったら入りたいとは、まさにこのことである。
「小夜は大将から何か言われるかと構えていたが、大将は結局小夜には何も言わなかったらしいな? あれは、どうしてなんだ?」
「……清光が、小夜には注意をしていたと言っていたから、私から言うこともないかと思っただけだ」
「言えば良かっただろ。大将には、その権利があったはずだ。小夜も、それだけのことをしたと自覚はしていたんだ」
「なら尚更、わざわざ言う必要がない」
「……大将らしいが。小夜はきっと、大将に声をかけてほしかったと思うぜ」
言われ、審神者は頷いた。そんなはずはないとは言わない。小夜の本音は、とうに本人から聞いている。だからこそ、薬研の言葉に頷くことが出来た。
「――そうだな。私はあの時、小夜とちゃんと話をするべきだった。必要か否かで判断したのは、私の失態だ」
それが小夜のためになると思っていた。けれど、そうではなかったことを、審神者は既に知っている。
「……そうか」
薬研は審神者の返事が予想外だったのか驚きを含んだ沈黙を作り、そうして、再び話を続ける。
「まあ、失態かもしれんが。でもアレがきっかけで、俺はアンタに興味を持つようになったんだ」
「……興味?」
審神者は額を押さえていた手をどけて、そっと、薬研に目を向ける。そうして視線が合わさると、薬研は寂しそうな表情を浮かべていた。
「あの時俺は初めて、人の身の不安定さを知った。大将は長いこと目を覚まさなかったからな。傷は放っておいても治るんだろうが、そのためにはえらく時間がかかることもその時に知った。あの時、俺は加州と人の身用の薬がないか本丸中を探し回ったんだぜ。だがなあ、見つからなかった。後で確認したが――大将、人の身用の医療道具、ケチって置いてなかっただろ」
「……最低限はあったはずだ。どこかに」
「どこだよ」
「どこかに、だ」
とぼけるようにそう言って、審神者はふいと薬研から目を逸らす。確かに、本丸に配置されたとき、最低限これがあれば良いと判断して持ち込んだものしか、本丸には置かれていなかった。審神者は記憶の糸を探りながら、薬研の物申した気な視線をかわしていく。
「手のひらぐらいの大きさの布袋に、包帯ぐらいは入っていたはずだ……あの部屋のどこかにある」
「どこにあるのかって聞いてんだ」
「さあな。押入の中にでも入っているだろう。一度も使ったことがないんだ。確かめなければ分からないが、おそらくそこで間違いない」
言えば、無言の圧力を含めた視線が隣から送られる。居心地の悪さを覚えながら、審神者は開き直るように口を開く。
「――あのな、薬研。私は生まれてこの方、一度も病気をしたことがない。大怪我もそうだ。もしも仮に私に何か起きたとしても、その場合は国の機関にかかるのだから、この本丸に大袈裟なものは揃える必要がないと判断しただけのことだ。そもそも人の身は一瞬では治らないが、放っておけばほとんどの怪我や病気は治る。問題は何もない」
開き直っても薬研から顔を背けているのは、少しの後ろめたさがあるからである。具体的には、布団に入る前に力つきた己の面倒を見てくれた薬研に対する申し訳なさだろうけれど。
だが、この件において審神者が責められるべきことはないはずだった。下手に痛み止めや飲み薬を持ち込めば、機関にかかるべき病気の発見の遅れに繋がりかねない。だからこそ、あえて薬は本丸に持ち込まず、異常が見つかれば早急に機関の治療を受けられるようにする、という意図があってのことだ。
再び、ため息。審神者に何も言わずとも、それが無言の文句であることは、審神者にも分かった。
「……そうやってアンタが自分のことに頓着しねえから、俺は人の身に興味を持ったんだ。自分のことを雑に扱うこの男のことを、誰かが面倒見なきゃならん、と思ってな」
審神者はそれを聞いてから少しの間を置いて――そうして、静かに肩を落とす。そろそろと、ゆっくり視線を薬研に向けて、審神者は気まずそうな表情を浮かべた。
「すまない……お前には、迷惑ばかりをかけたな」
気づかなかったとはいえ、手間をかけさせてしまった。そう謝罪をする審神者に、薬研は、今度は柔らかく微笑んだ。
「いいさ。あれがあったから、俺はアンタを好きになったんだ。自分のことに無頓着なアンタが気になって、ふらついてるくせに大事に小夜を抱えていたアンタのことが気になって、気にするようになって――俺はアンタに会う度に、自然と目をとられるようになった」
持っていた湯飲みを床に置いて、薬研は座るむきを変えて、審神者の方へ体を向けた。
「作業に集中すると休憩を入れたがらないところも、何でも好き嫌いせず飯を食うところも、意外と包丁捌きが上手いところも、それが例えどんなに些細なことだって、一つアンタのことを知る度に俺はそれを嬉しく思った。もっとアンタを深く知れたらと、加州の立ち位置を妬んだこともある」
目は、逸らせなかった。これから薬研が告げる言葉は、きっと審神者にとって都合の良いものではないのに。審神者は身構えて、己の意思とは裏腹に早くなっていく心臓の高鳴りを覚える。何か言葉を吐き出しているわけではないのに、唇は小さく震えてしまっていた。
「……気づいたときには、もうアンタのことを想っていた。だがアンタに迷惑をかけたくはないと、それを表に出したりはしなかった――例え戯れでも、アンタが乱に口づけするまではな」
すうっと、息を吐いてから、また吸い込む。そんな薬研の言葉を待ちながら、審神者はごくりと唾を呑み込んだ。
「あの時、他の誰かにかっさらわれるくらいなら、俺がアンタを奪うと決めた。これは忠心の延長じゃない。アンタのことをずっと見てきたから、口にする言葉だ」
その藤色を見て、審神者は思う。
(――ああ、この目だ。この目が、私は嫌いなんだ)
痛いほど真っ直ぐに、審神者を見つめるその目がまぶしくて、隠したいものを全て見透かされているようで。それが嫌で、審神者はこの目を恐れていたのだと思い知らされてしまう。
「――審神者としてでなく、主としてでなく、アンタ自身のことが好きで好きで叶わん。アンタが危なっかしくて、面倒な性格していることも承知で――いや、それも込みで、俺はアンタを心底好いている。俺には、アンタの全てを受け入れて、愛せる自信しかない」
ぐっと、唇を噛みしめる。審神者は目を逸らしたくても逸らすことも出来ずに、ただただ、薬研から視線を受けている状態である。
「――後悔はさせん。必ず、幸せにしてみせる。だから俺がアンタの隣に在ることを、どうか、許してほしい」
返事に詰まった。今夜薬研は、審神者を口説きに来ると言った。今薬研に告げられた言葉は、審神者に対する口説き文句で間違いはない。愛の告白にしては辛辣な言葉も入っていたような気がするが、それ以上に投げられた熱量があまりに膨大で、審神者は頭がくらくらとするのを感じとった。
「……初めに、言ったはずだ。お前は選ばないと、僕はそう言ったぞ」
「関係ない。アンタは間違いなく俺を意識しているからな」
薬研は真剣な表情を崩すことなく続けてみせる。
「――アンタは、必ず俺を好きになる」
それは、薬研の希望だったのだろうか。そうに違いないはずなのに、審神者は薬研のその言葉が、まるで予言のように聞こえた。間違いなく、審神者が薬研に好意を抱く未来を確信しているような、そんな自信に満ちあふれた言葉に、審神者は思わず息をのんだ。
吸い込まれてしまいそうな視線だった。審神者は、眉をしかめて、痺れてしまったみたいに動きが鈍くなった唇で、拒絶の言葉を吐くために必死であらがっている。
「……そんなはずない」
辛うじてこぼれてきたのは、それだけの言葉だった。あまりに真っ直ぐすぎる好意が、審神者の首を絞めているかのような苦しさを与えている。それが重りとなって、思うように言葉が出てこない。
「……私は、審神者になるために生まれてきた。それ以外は、私の中には何もない」
ぽつりぽつりと、少しずつ言葉がこぼれていく。
「好きになることなんて出来ない。私は、そんな風には出来ていない。恋がしたければ他を当たってくれ。……僕には、誰かを好きになることも、特別に思うことも、特別になることも、出来ない。そんな方法は知らない……出来ない……」
泣きそうな表情を浮かべて、審神者はそう口にした。
そのまま薬研から目を逸らし、視線を落とした先で、未だ口をつけることも出来ずにいた落雁をその目に写す。惚れたのなんだとまくし立てられても、審神者にはそれに応えることが出来ない。応えられないように出来ている。故に、審神者は審神者であるために生きることしか出来はしないのである。
「出来るさ」
そう口にした審神者の手に、そっと、薬研は手のひらを重ねてきた。審神者の手はぴくりと震え、けれどその手のひらをはねのけることもせずに、そっと、顔を上げる。
「俺がそうさせる。全部、俺が教えてやる」
その先にいた薬研は、勝ち気な笑みを浮かべていた。その表情を見て、審神者の胸の内に、審神者自身でもよく分からないような感情が浮かび上がってくる。その藤の色に己が写っているという事実がどこかくすぐったいように感じられて、審神者はただただ、身動きすることも出来ずにその目を見つめ返しているのみだ。
薬研はそれ以上何も言わず、そっと、視線と共に距離を縮めてくる。そうして、目と鼻の先にまで近づいてきていても、審神者はそこから動かずにいた。
「……僕は善人ではない。良き審神者であろうと、ただそう振る舞っているだけだ」
「それがどうした」
「決して、優しくなどない」
「構わん」
「気は荒い方だ。決して、清い性根をしているわけではない」
「そりゃあ、いいな。戦場育ちの俺とは、随分と相性が良い」
すりと、手の甲を撫でられる。思わず体を震わせると、薬研は楽しげに目を細めた。
「全部好きになる。アンタの、どんなところも」
審神者がまだ何か言うのであっても、決して審神者の思うような反応はしないことだろう。審神者はぐっと唇をとじ合わせて、目を伏せた。
「俺の気持ちは迷惑か?」
ずるい、と思った。審神者が何を言おうと、どうせ、引くつもりもないくせに、と。審神者はそれがどうにも面白くなかった。どんな返しをしたとしても引き下がりなどしないだろうに、審神者が否定したくなるような聞き方をしてくるのだから、たまったものではない。
「…………迷惑だといえば、引くのか?」
恨めしそうにそう審神者がいえば、小さく、薬研は笑みをこぼす。
「いいや、引かん」
だと思った。そう言いたげに眉を吊り上げた審神者は、視線をまた上に向ける。そうしてまた重なり合った視線は、先程よりも近くに迫っていた。
突き放すことも出来たはずだった。けれど、審神者はそのまま、ただじっとしていた。逃げることも出来たのにそうしなかった理由を、審神者は認めようとはしたくなかった。ただ流されるままに、藤の色を見つめていただけだ。
――そっと、唇が寄せられる。
審神者は、抵抗をしなかった。
「そこまで」
唇が重なる寸前、声と共に、抜き身の短刀の先が薬研に向けられる。そこでは部屋の中で待機してくれていた毛利が、刀を構えていた。
「……駄目か」
「駄目です。触れる前に、ぶっすりいきますよ」
「大将は嫌がっていないが」
「ええ。でも、許可しているわけではないので、駄目です」
そう言われて、薬研は審神者から距離をとる。残念そうにため息をついて、縁側に座り直して足を組む。
毛利は審神者を見て、にっこりと笑った。
「大丈夫ですよ。これ以上触れさせません。でも、主さまから触れる分は止めませんので、もしも続きがしたいのであれば主さまからどうぞ」
「っ……しない、っ、絶対しないからなっ!」
ハッとして、流されるまま簡単に口づけられそうになっていた己の行動を棚にあげて審神者は力強くそう宣言する。それを聞いた薬研は、くっと笑った。
「本当にアンタは素直じゃないな。そんなところも愛しちゃいるが、もっと正直になってくれていいんだが」
「っ……馬鹿なことを言うな…」
「体は正直なのにな」
「その言い方やめろ!」
確かに、突き放すこともしなかった己の言葉には説得力はないのだろうが。かといって聞き流すことも出来ない審神者の反応に、これまた楽しそうに笑ってから、薬研は立ち上がる。
「さて、言いたいことは言ったし、そろそろ退散するかな」
浴衣の中に手を入れて、薬研は涼しげな振る舞いであっさりと審神者から一歩分の距離を開けた。それを下から見上げた審神者に、まるで慈しむような視線を向けながら、問いかける。
「……少しは、伝わったか?」
その言葉の意味するところを、審神者はすぐに理解した。だからこそ返事に困って、言い淀むように口を閉ざしてしまう。その審神者の反応すら、薬研にとっては面白いものだったらしい。
「また、花も贈る。だからあの本は返さなくていい。大将が持っててくれや」
「っ……いい、贈ってくるな。あんな挑発紛いな…」
「紛いじゃなく、挑発だぜ。大将」
言って、薬研は一瞬口を閉ざすと、ふっと微笑む。
「他の刀に言い寄られている間も、アンタの頭ん中には俺がいれば良いと思っている。だから止めん」
「………薬研、」
「心配するな。ちゃんと待つさ。いつまででも。例えアンタが、何を言ってもな」
言って、薬研は、おやすみ、とだけ言葉を残して、審神者に背中をむけてしまう。審神者はそれに言葉を返すことも出来ないまま、ただただ、その背中が見えなくなるまで目で追いかけていた。
(……なんだ、それは)
そうして薬研が離れから去ってしまった後、審神者は、何も語ることなく、視線を手の中にある菓子に向けた。その中にある桔梗の花の形をただただじっと見下ろして、その間、ずっと頭の中で薬研の言葉が反響する。
(これは、話をしたといえるのだろうか……結局、薬研に振り回されただけじゃないのか……)
近づいたかと思えば、審神者がはっきりと突き放す前に、また少しの距離をとられてしまう。完全に受け入れることも突き放すことも出来ないまま、けれど、すぐ近くに熱を残されてしまっている。
(……どんな僕も、か…)
言葉だけなら何とでもいえる。審神者とて、己でも欠けている部分が山ほどあると思っている。情というものが足りていなかった。おそらく、今も何かしら欠けているのだろう審神者は、瞼を閉ざして思う。認めたくはないけれど、薬研は審神者に欠けているものを、よく理解している。その上で、審神者のことを好いているなど口にするのだと。
それはとても、審神者にとって心臓に悪いものだった。だから、つい取り乱してしまう。絆されてしまうのだ。完全に付け込まれてしまっている。重ねられそうになった箇所が、触れられてもいないのに熱を持ってしまっている。
「……少ししたら、僕たちも休みましょう。主さま」
「……ああ、そうだな」
薬研のことには触れずに、それだけを口にしたのは、毛利の気遣いだったことだろう。それを有り難く受け取り、審神者は、しばらく物思いに耽りながら空を見上げている。
そうして、時間をおいてから口にしたその桔梗の花は、とても甘かった。
「護衛係、御苦労だったね。首尾はどうだい?」
「はい、いち兄。主さまは、薬研兄さんのことを意識していると思います。小狐丸さんや長谷部さん、加州さんへの対応等も観察していましたが、薬研兄さんへの対応は、間違いなく特別でした」
「……うん。それは重畳。主殿が薬研を好ましく思っているのなら、何の問題もない。それで、包丁はきちんとお役目を果たしていたかい?」
「もちろんです! 包丁の子供殺法には、さすがの小狐丸さんもタジタジでした。おかげで昨日は、一度も口付けされていませんでしたよ」
「そうか。では、包丁を毎日小狐丸殿がいる時間に派遣するとしようか。主殿は、ゆくゆくは薬研の伴侶となるお方でもある。軽々しく触れられるのは気分が悪いからね。では、毛利。すまないが、ここに包丁を呼んできてくれるかい?」
「はい、いち兄!」
[newpage]
[chapter:おまけのキャラ設定]
男審神者
→人外レベルの霊力をもって生まれたため、赤子の内に政府に引き取られた。同じ境遇である子供達と師匠の教えの元、審神者になるべく学んでいき、審神者となった。偏った思考は師匠譲り。
自我が芽生える前である赤子の頃から引き取られていた子供は、男審神者のように師匠の教えに洗脳されているような状態。よって、癖があるものが多い。自分の名前を認識している頃に引き取られた子供たちは感覚が一般から少しズレている程度。十を過ぎる頃に引き取られた者はわりと一般人に近い普通の感覚をもっている。
→近づきすぎては刀剣男士達に害を仇なすことに繋がる可能性があると信じ切っていて、一年程の間刀剣男士達と積極的に関わることをしなかった。刀剣男士を傷つける審神者にどうしてもなりたくないから言霊に関する訓練を放棄するなど、一番最初に師匠の元に置かれたせいか、最も濃い影響を受けて行動している。
→審神者としての能力は秀でているが、人格的な面でいえば非常にポンコツ。気遣いが出来ているかと思いきや出来ていない。大丈夫だと思っていることは大体大丈夫ではない。感覚がずれきっている。恋愛願望がなく、男も女も恋愛対象ではない故に、男色にも偏見や嫌悪はなく、結果的にバイに近い感じ。どちらでも良いし、どうでもいい。そもそも関心がない。押しと勢いに非常に流されやすく絆されやすい。チョロい。
加州清光
→初期刀。審神者が望む形の本丸になるように、刀剣男士達との橋渡し役となっていた本丸のまとめ役。そのために審神者に甘えたい欲を抑えに抑えた結果、審神者の前で笑顔を浮かべることができなかった。生粋の仕事人間である審神者の代わりに買い物等も済ませていたため、審神者と共に出かけたのは一年経った頃の買い物が初めて(一人で行こうとしていた審神者に強引についていった)。初お出かけだと浮かれていたが、ちょっと目を離すと審神者はふらふら何処かへ行ってしまうので、一切気を抜くことができなかった。
→完全無自覚だったが、他の刀剣男士達が審神者に想いを寄せ始めたことで、徐々に嫉妬からその想いを自覚。審神者に迫るようになった。審神者の役に立ちたい欲が他の刀剣男士達と比べてカンストしている。そのため、審神者の望むように動こうとしている。審神者への想いを抑えているのに他の刀剣男士に思わせ振りな態度をとり続けている審神者が愛しさ余って憎さ百倍みたいな感じになりつつある。今はまだ何とか理性を保っているが、他の刀剣男士に手をつけられたら多分我慢できないだろうなと思っているので、徹底して審神者を守る方向に全力を出している。これ以上審神者に触られてたまるものかと、内心腸が煮えくり返っている。
→長谷部と約束する前に自分を選ぶというような台詞を言われていたら想いを通じ合わせることが出来ていたのにという悔しさを、審神者の前では隠さなければと思っている。審神者の気持ちは嬉しいのに長谷部との約束のせいで手が出せない。そろそろ病みそう。
小狐丸
→審神者が燭台切と歌仙に厨房を引き継いだ後、しばらくして顕現された。その時には既に審神者は刀剣男士とあまり関わらない体制を本丸で築いており、小狐丸が審神者と対面したのは顕現された時と手入れ時のみ。最初こそ審神者に可愛がってもらおうと意気込んでいたものの、加州筆頭に先に本丸にいた刀剣達に止められ叶わず、時折見かける審神者の姿を見る度に、ため息をつく日々を送っていた。
→そんな中、審神者が刀剣男士と仲良くなりたがっているとの情報が入ってきたことで、可愛がって貰いたい欲が爆発。おやつ当番の順番無視して審神者に突撃した。可愛がって欲しいときに可愛がって貰えなかった恨みから、試し行為に走ったりしたが結果没落。堅物かと思えばめっちゃ甘やかして可愛がってくれそうな気配に、審神者への恨みは吹っ飛んだ。
→どこまで許してくれるか試していく内に、審神者は何をしても許してくれるという確信を得てからは、いつ押し倒してしまおうか頃合いを見計らっていた。邪魔者のいない審神者と二人だけの夜の間にいずれ……と考えていた頃に、ついつい審神者に手を出しかけて機会を逃した。審神者はどうせ許してくれるだろうし心は後でいいからとりあえず先に犯して体を手に入れたい精神。恋仲になりたいより、ひたすら独り占めにしたい。正直隠したい。
へし切長谷部
→審神者に想いを寄せる刀剣達の中では、顕現されたのは最後。元々主に尽くしたい気性だったが、審神者は刀剣男士と関わりを持たなかったため、歯がゆい思いで日々を過ごしていた。自分の方がもっと役に立てるのにともやもやしていたせいで、酒が入ると泣き上戸になり審神者のことしか話さない。油揚げでこんのすけを釣って、審神者の個人情報を聞いて無念さを紛らわせる日々。
→審神者と関わらなさすぎて、既に審神者のことを神格化していた頃、審神者が変わり始めたことを知る。すごく近づきたいし自分のことを売り込みたいし、でも神格化しすぎて近づくことができない状態。
そんななか、審神者の方から近づいてきてくれて天に昇りそうなくらいに感激したが、最初のコンタクトが夜伽の誘い(誤解)であったために動揺。それが主の命ならばと思いつつ、相手が審神者で勃つかなど色々不安だったが、意外と全然いけた。なんならむしろ興奮した。結局誤解で未遂で終わったが、最初がそれだったため、もう審神者をそういう対象とか見れなくなった。ある意味被害者。
→本当に夜伽の命があれば良いのにとか思いながら、審神者を狙う刀剣男士達に焦りを感じていた。けれど審神者を困らせたいわけではないので、やきもきしていたところに例の小狐丸。無自覚で言質をとるように審神者に詰め寄って、実際言質を手に入れた。審神者が他の刀剣男士にとられるのは嫌だがとられてしまえば無条件で手っ取り早く自分のものになってくれるので早く他の刀に気を向けて欲しいが、自分以外に気持ちを向けて欲しくない乙女心()に揺れている。審神者に自分なしじゃ生きていけなくなるぐらい依存して欲しいと思っている。
薬研藤四郎
→初鍛刀。審神者を支えるため、審神者の方針に従っていた。決して無体を働かれはしなかったが、愛情を持たれているかといわれればその自信もなかった。この堅物主は刀剣男士が折れても顔色一つ変えないのではないかとすら思いつつ、それでも審神者を主として慕っていた。後からやってきた刀剣男士達に、この本丸の方針を説明するのは清光と薬研の役目であった。だが、小夜失踪事件をきっかけに、違った意味で審神者を気にかけるようになった。
→やがて審神者を目で追いかけるようになり、人の身について詳しく知りたいと審神者に人体や医学に関する書物を求めるようになった。いつ審神者が病気や怪我をしても良いように知識を深めていたが、意外に丈夫だった審神者が薬研の世話になることは一度もなかった。健康なのは良いことだと割り切っていたが、人数が増えて審神者と関わる機会が減ってしまったことは不満に思っていた。近侍である清光への嫉妬も、ずっと抱えていた。この頃には、これが恋であることを自覚済。
→自分の恋心は審神者の方針と道を違えているため表に出すつもりはなかったが、頬だろうが何だろうが審神者が乱に口付けをしたことで想いが爆発。動かなければ、審神者が他の刀剣男士にかっさらわれると確信したことで、審神者を狙い始める。体だけでなく心も欲しい、体のつながりは審神者の心を手に入れてからが良い。必ず、誰よりも先に審神者を口説き落とすと決めている。ガチ勢。
- 22 -
mae top tugi
index