その赤ん坊は生まれもった霊力のため、母の顔を知らぬ内に国元へその身を移された。同じような境遇の子供達は元審神者であった男の元に集められ、審神者となるべく教育を施される。男は自らを師と呼ばせ、子供達が良き審神者となるように、手塩にかけて育てたのである。
特に、赤子の内に来た二人の子供にはとりわけ多くの知識を吹き込んだ。
審神者としての在り方や信念を叩き込んだ末――歪に、けれど曇りない意識を抱いた審神者が誕生した。
一、と名付けられた少年はその片割れ。そうあるべくして作られた審神者であった。
[chapter:審神者は恋ができないG]
審神者が弟弟子と再会を果たしてからのことである。審神者の本丸では、とある変化が起きていた。
「――はい、主」
目の前に置かれた膳の中には、食事が並んでいる。ご飯、汁物、主菜に副菜。バランスのとれた食事である。以前と変わらない献立。
けれど以前と明らかに違っているのは――…その量である。
「多くないかい?」
審神者は眉を潜め、膳を用意してくれていた歌仙兼定を見た。珍しく夕餉の膳を持ってきてくれたのは歌仙である。弟弟子と会ってからうっすらと感じていた違和感を解消するために、審神者は歌仙を引き留めた。
そうして意を決して尋ねた言葉だったが、歌仙は何でもないように言い放つ。
「多くしているんだよ?」
きょとんとしている歌仙には、審神者の方こそきょとんとしたい気持ちでいっぱいである。おかしなことを言うものだと呟いて、生温い視線を審神者に向けながら、歌仙は審神者の頭の手のひらを置いて優しく微笑む。
「君は育ち盛りだからね。いっぱい食べて、たくさん大きくなるんだよ」
きらきらとした、曇り気が全くない、透き通った眼。審神者はそれを目にした瞬間に、全身が粟立つような感覚に襲われた。恐れていた可能性が、その不穏な頭角を現している。
「……気持ちは嬉しいけれど、歌仙。こんなに沢山は食べられないよ。また、以前の量に戻してくれないかい?」
「何を言っているんだい? 君はまだ子供なのだから、いっぱい食べないと大きくなれないだろう?」
「子供扱いは必要ないよ。私への対応も、以前と同じで構わない」
言えば、歌仙兼定はくすくすと笑う。
「そう背伸びをしなくていいんだよ。少しくらい、子供らしくしたまえ。おかわりもいっぱいあるからね」
歌仙のここまで慈愛に満ちた声を、審神者は今までで一度も聞いたことがない。ぽかんとしている審神者の頭をなでなでしてから、歌仙は審神者の部屋から出ていった。
「…………」
審神者が感情豊かな方であったのならば、おそらく今、あんぐりと口を開いているはずである。とても、今起きた出来事が信じられない。
「huhuhu……主サン、愛されていますねえ」
「村正、その……少しそっとしてやらないか」
本日の護衛の千子村正と蜻蛉切は、固まってしまっている審神者を見て、そう言った。村正は微笑ましそうな、蜻蛉切は審神者に同情のような感情を込めた目を向けている。
審神者は己の膳に目を向けてから、また、しばしの間固まった。
(……多い。何食分なんだ、これは)
審神者の食は、細くも太くもない方であった。出されれば完食し、少なくともそれ以上は求めない。審神者にとって、食事は嗜好よりも習慣に近かった。
それがどうだ。弟弟子である審神者と会って帰ってきてから、審神者が(現世の基準で)成人していないことは本丸中に広まってしまった。少しずつ日常が変わってきたのは、それからのこと。最初は、気のせいかと思った。少しずつ器に盛られた量が増えてきていることも、やけに頭を撫でられる回数が増えたことも。護衛係が審神者の身の回りの世話を焼きたがったことも。
だがこれだけ食事の量が増えていればもう気のせいでは済まされない。見て見ぬ振りはできない、明らかな変化である。そうして歌仙に問うたのが先程のこと。そして確信を得たのも先程のこと。
「村正」
「ハイ、なんでショウ?」
「お前は、私のことをどう思っている?」
やけに楽しそうな目で審神者を見ている村正に聞けば、勿体ぶったような笑みを浮かべながら、こともなげに言い放った。
「――赤ちゃんデスね!」
「厨に行ってくる」
「村正っ! あ、主! お待ちください主!」
歌仙にもそう思われてしまう前になんとかしなければと審神者は歩き出す。村正の発言にも審神者の行動にも慌てふためいた蜻蛉切に引き留められなければ、審神者は厨で歌仙に何を言っていたか分からない。衝動からの行動である。
「皆、悪気はないのです! ただ、主の新しい情報を得て舞い上がっているだけでっ…!」
「悪気がないことは分かっている。だから問題なんだ。蜻蛉切、お前も、私のことを子供だと思っているのか?」
「いいえ、自分は、昔も今も変わらず、主を主と慕っております!」
胸を叩いてそう宣言する蜻蛉切に、審神者はほうと目を丸くする。皆が審神者への態度を変化させていく中で、そう言って貰えることのなんとありがたいことか。
「でも蜻蛉切は主サンのことをカワイイっていってました。子供だと思うとカワイク見えるものだなっていってました」
いつもの癖がない口調ですらすらとそう言った村正に邪魔されなければ、審神者は蜻蛉切の言葉に完璧に救われていたに違いない。そっと、村正の言葉の真偽を確かめるべく、審神者は蜻蛉切を見た。
「…………主は、主です! 以前から主は可愛かったかと!」
誤魔化すことをせずにきっぱりと言い放った蜻蛉切の態度の堂々たるや。審神者は何とも言えずに、無言で座り直した。それ以上の言及はできなかったのである。そうしてはいけないような空気が、そこにはあった。
「少し貰ってくれ。この量は食べられない」
「……はい」
「ワタシはだし巻き卵をもらいマス」
「肉も貰ってくれ。半分くらい」
とても一人では食べきれない量を二人に助けてもらいながら、審神者はなんとか夕餉を乗り越えたのだった。
よしよし。いい子いい子。
このフレーズを、審神者はもう一日に何度聞いているか分からない。審神者はいつものように仕事をこなしながら、どうしても頭の隅に転がるその問題を気にしてしまう。
(明らかに、子供扱いされている……)
幸い、戦ごとには支障はない。皆の態度が変わったのは、平時のものだけである。いっそのこと、戦の時にも態度が変わっていたのなら強くも出れるのだが、そうではないから動きにくい。じわじわと、審神者は息苦しさを感じていた。
(年が分かった途端にこれか……私は以前と何も変わってはいない。それでも、子供のように扱われなければならないのか。……いや、原因はそれだけではないか)
一つ一つ原因を辿っていけば、その先には弟弟子との間で起きた問題があった。弟弟子の話で、以前町に出た時に絡んできた輩が審神者のことを捜しているのだと知った。それも、審神者に対して下心を持って捜しているのだと。その情報は既に審神者の本丸で周知されており、審神者は心配されたり、説教を受けたり、ほれ見たことかといわんばかりの目で見られてしまったりと、散々な目にあっている。
(だから嫌だったんだ…! アイツに関わると、ろくなことがない…!)
この件において、審神者は己に非があるとは思っていなかった。己が何をしたのかと、審神者はそう訴えたくてたまらない。外見につられて寄ってきたと言われたとて、この外見は生まれつきのものである。加えて、たった一度、一人男が寄ってきただけで、己の身を守ることも出来ない尻軽扱いなどされたくない。
けれど、審神者が何を言っても効果はなかった。心配されていることは分かる。分かっている。だが、このままではいられない。審神者は、焦りと不安を感じていた。
(このままでは、本当に首輪でも付けられかねない)
行き場のない感情の矛先を仕事へ向けつつ、審神者はひたすらに手を動かす。提出期限が先の書類も、次から次へと前倒しでこなしていく。その審神者の作業スピードは、おそらく以前よりも格段に早い。
「主、絶好調だねえ。長曽祢さん」
「だなあ……なんというか、鬼気迫るものも感じるが…」
「仕事の鬼って感じ?」
「仕事の鬼……か?」
縁側で審神者を覗き見る大和守安定と長曽祢虎徹は、無心の審神者の背中を、何とも言えない表情で見つめている。その会話も耳に入っていない審神者のそばでは、清光が少しだけ困ったように眉を下げていた。
その時のことだった。審神者の部屋へ、こんのすけが現れたのは。
「加州殿!」
審神者の身の回りの変化など関係ないこんのすけは、いつものように、はじけるような小気味よい音と共に現れる。審神者は小気味の良い音を立てて現れたこんのすけを見やり、手を止める。
「……?」
まず気にかかったのは、呼ばれた相手が己ではなく清光であったこと。こんのすけは、まず審神者へと連絡を持ってくることが常だった。こんのすけを通して刀剣男士へ連絡が入ることなど、今までにはないことである。一体何事かと、審神者は訝しげに視線を向けた。
「っ……こんのすけ、後でいいから」
「? ですが、連絡が……」
「いいから! 後にして、こんのすけ」
「――どこからの連絡だ、こんのすけ」
平静なように見えながらも声に焦りが滲んでいる清光に、審神者は疑念を抱く。明らかに、己の知らぬ処で何かが進んでいるように思えた。その疑問を払拭するために尋ねれば、こんのすけは後ろめたい様子も何も見せずに、審神者からの問いに答えようと、とてとてと距離を縮めてきた。
「はい? 私は審神者殿の指示通りに――」
「待って待って! いいから、後にして!」
焦っている清光が審神者とこんのすけの間に入り、審神者の背中を向けるような形で、こんのすけを審神者の視界から消してしまう。それからこんのすけの首根っこを掴んで持ち上げた清光に、審神者は確信した。タイミングから考えても、清光が審神者に隠し事をしていることは明らかであった。
審神者は静かに眉を潜め、こんのすけを連れて部屋を出ていこうとしている清光の背中をじっと見た。
「‘こんのすけ’」
名を呼ぶ。こんのすけは式神である。審神者のサポートが役目であるがために、この本丸において審神者との繋がりが密であるこんのすけは、どの刀剣男士よりも先に審神者の声に反応して審神者の元へ出現するようになっている。
例え遠くに連れて行かれようとも、審神者の声に応えるのがこんのすけなのである。審神者の呼びかけに応じて清光の手元から姿を消したこんのすけは、審神者のすぐ目の前にへと一瞬にして移動した。小気味の良い音と共に、審神者の前に移動したこんのすけは快活に返事をする。
「はいっ! なんでしょう、審神者殿」
「どういうことだ。私の指示とは何のことで、先の連絡は何処からのものだ。説明を」
「? わたくしは、審神者殿の指示通りに動いただけですが……」
「覚えがない。一度、説明を」
不思議そうに小首を傾げ、けれどこんのすけは「かしこまりました」と返事をして説明し始めようとする。
「清光。じっとしていろ」
こんのすけの説明を遮ろうと動いている清光にそう言い放てば、清光もぐっと黙り込んでしまう。室内の温度が下がったような錯覚を受けるような殺伐さが、部屋に流れていた。
「本丸番号384927 から審神者殿へ連絡がきております。けれど審神者殿は忙しい身――用件はまずは近侍の加州殿か長谷部殿を通すようにと、それが審神者殿からの命ではないですか。ですからいつものように、今日の近侍である加州殿に連絡を……」
「………その命は、誰がお前に伝えた」
静かに、審神者はこんのすけに問う。道理で、弟弟子から連絡が一向に来なかったわけである。まさかその理由をこのような形で知ることになろうとは。己の知らぬところでこんのすけがそんな情報操作を受けていることが衝撃で、けれど審神者の心中は己でも驚くほどに冷え切っている。
清光を視界にいれることなくまっすぐとこんのすけに問いかけた審神者の姿に、清光も、護衛係である長曽祢と安定にも、目に見えて焦りが浮かんでいる。
「加州殿です! あっ! あう、でも、そういえば連絡は審神者殿のいないところでとは言われていたかもしれません」
「そうか……」
元気いっぱいに言い放ったこんのすけに、審神者はすうっと目を細めた。
「此方からすぐに折り返すと伝えてくれ」
「はい! かしこまりました!」
「後で呼ぶ。もう行って良いぞ」
言うと、こんのすけはまた小気味の良い音と共に姿を消してしまう。そうして部屋の中に残った静寂の中で、審神者は沈黙を貫いていたまま正座を続けている。考え込むように、己を落ち着かせるように、瞼を閉じて静かに唇をとじ合わせて。
(……どうしようか)
清光の指示で、弟弟子の本丸からの連絡が審神者まで届かぬように手配されていた、という事実は把握した。そして清光がなぜそんなことをしたのか、という点においても、説明がなくとも審神者には大凡の予想がついていた。おそらく、審神者が弟弟子の要求をのんでしまうことを恐れたのだろう。弟弟子からの連絡がなかった時点で、その可能性を考えられなかった己がむしろ考えが足らなかったのだ。
審神者は瞼を開いて、今度は清光に真っ直ぐと視線を向ける。強ばった表情で不安そうに、けれどどこか怒りを含んだような清光の表情を確認して、審神者は迷いを覚える。審神者がどんな発言をしようとも、おそらく清光は自分の意志を曲げないに違いないことを感じとったのである。だからこそ、対応に困ってしまう。
(大事に思ってくれていることは分かる。悪気がないことも。けれど、その一線は越えてはいけないものだ)
主想いだと、褒めることはできない。だが、それをどう清光に伝えれば良いのだろう。審神者は悩んだ末、静かに、できるだけ感情的な声にならぬように気をつけながら口を開いた。
「――清光。言いたいことはあるか?」
何故こんなことをしたのか、は説明を聞くまでもない。ならば、他に聞かなければならない理由等あるかもしれない。思うところが何であれ、言いたいことが何であれ、清光から話を聞こうとしていた審神者の態度に、清光はただただ不安そうに口角をひきつらせた。
「……別に、ないけど。主のために必要だって思ったから、やっただけ。後悔なんてしてないよ! 主を守るためなら何だってするし! だって、そうでしょ? こうでもしないと、主は絶対傷つけられるもん! 用件なら俺が聞いてる。必要だったら、ちゃんと主に伝えるよ!」
胸を押さえて啖呵をきるように言い切った清光に、審神者は静かに眉を寄せた。審神者の予想通りの言葉が飛び出したが、審神者がその気遣いを喜ぶような反応を見せることはない。
「……清光」
「なに。主を守るのは当然でしょ? それの何がいけないの!?」
「行き過ぎている。分かっているから、お前も私に知られぬように動いたのだろう」
「……それでも、これは必要なことだったよ」
弟弟子と会ってから、審神者の本丸は変わっていった。それは弟弟子のせいでもあるが、あくまできっかけである。審神者の本丸は、審神者と刀剣男士との信頼関係が出来ていないが故に、おかしな形になりつつある。その責任は勿論、審神者自身にあった。
「主が一人で何が出来るっていうの。俺たちがいなきゃ、主なんて今頃どうなってたか……主が自分の身も自分で守れないんだから、こうするしかないじゃん!」
それを痛感して、審神者は肩を落とした。何を言っても分かっては貰えないと、そんな確信があるだけに適した言葉は何も出てこない。審神者が信頼されていない以上、どんなに障りの良い言葉を並べたとしても、清光が引くことなどないのだろう。納得などしてもらえないのだろう。
言葉だけでは、きっと何もかもが足りないのだ。
「――……分かった。もう良い」
清光の勢いを落ち着かせるように口にして、審神者は静かに立ち上がる。ゆっくりと足を進ませて清光の目の前に移動すると、清光は不安に瞳を揺らし、僅かに唇を震わせた。構わず、審神者は口を開く。
「近侍は終わりだ。下がって良いぞ」
元々、今日中にやらなければならない書類ならば済んでいる。今日のところは、もう近侍として清光の手を借りること必要もないとの判断である。
審神者は、すぐに弟弟子に折り返しの連絡を入れるつもりでいた。件の審神者についてしっかり話をつけてこようと決めたのである。それから、これからの己の振る舞いについても、今一度じっくり考えたかった。
「っ……」
審神者の言葉を受けて何も言わぬ清光の隣を通り、縁側から様子を覗いている長曽祢と安定のことを一瞥する。
「護衛も必要ない。今日はもう休んで良い」
そのまま縁側に移り、歩いていく。腕を伸ばしてこんのすけを呼べば、審神者の腕の上に乗るようにこんのすけが現れた。それを受け止め、審神者はすかさず「連絡を」と口にした。こんのすけはすぐさまその指示に従う。
「っ、ちょっと待ってよ主!」
腕を掴まえられて、審神者は足を止める。かけられた声から、後ろにいるのは安定だと思っていた。だが、審神者の腕を掴んでいた相手は安定ではなく、長曽祢であった。右はこんのすけ、左は長曽祢と、両手が塞がった状態の審神者は、僅かに目を細めた。
「確かに、主に無断でやることではなかった。だが、これは全て主のためを想ってのこと。近侍を外すまでのことではないはずだ! そもそもこれは、加州が独断で決めたわけではない。罰するなら、おれ達も同様に罰してくれ!」
眼光の強い刀剣男士であったが、今は普段以上に強い意志をその瞳に秘めている。主である審神者を相手に、一向に遅れをとることをしないその気迫に、審神者は小さく目を丸くした。圧されたわけではなく、長曽祢の言葉が引っかかったからである。
「――……誰が清光を近侍から外すと言った」
その気迫の意味を知る。だがあまりに見当違いな理由で止められたものだと思い、審神者は長曽祢の手を振りきった。そのように見られてしまったことに、苛立ちすら覚える。
「罰など与えない。刀剣男士の不始末は全て、審神者が至らぬせいで起きる。これは私がお前達の主たる器でなかったから起きたことだ。今から、こうなった原因に片をつけてくる。だから近侍も護衛も、今日は必要ないといった。誤解するな」
それでも何かを口にしかけた護衛の二振りに先手を打つように、審神者はすかさず口を開いて強い口調で言い放つ。
「一人で行く。誰も、ついてくるな」
突き放すような物言いだった。返事を待つこともなく歩き出せば、戸惑っている雰囲気は背後から感じ取ったものの、それ以上引き留められることもない。
そうして、審神者の腕の中で弟弟子と連絡を繋げたこんのすけに向かって、弟弟子が喋る前に話を切り出した。
「――今からお前の本丸に行く」
「なーるほどなあ。お前がいきなり来るっつーから何だと思えば……」
テーブル越しに向かい合って座り、審神者は事の顛末を説明した。弟弟子に持ってこられた話のせいで、審神者の刀剣男士が過保護になっていること。加えて発覚した実年齢も相余って、最早こどものように扱われていることも。
「お前のとこの刀剣男士は過保護が過ぎる! まあ今思うとお前――和泉守に手を引かれて来たからなあ……うちの和泉守なんてなあ、俺が手繋ごうっつっても全力で拒否するぞ。なあ、青江」
弟弟子の横に座る青江は頬杖をつきながら、そうだねえ、と呟いた。
「僕も遠慮したいね。君たまに厠にいっても手洗わないだろう? ……うん、絶対嫌かな」
「お前…手ぐらい洗わないか……」
「洗っとるわっ!」
決まり悪そうに言い放ち、逃げるように弟弟子は続けていく。
「とにかく、お前が俺の連絡をとらなかった理由は分かった。言いたいことは色々あるがまあ……心配するな。お前の本丸の事情はさておき、俺たちはもう義兄に会えとは言わん」
「言われても会う気はない。そんなことをしてみろ、僕はもう、本丸から出しては貰えなくなる」
「……なんでお前んとこそんな過保護なんだ」
「僕が聞きたい。人の身相手なら自分の身くらい守れるといっても、全く信じて貰えない。どうすれば良いのか、僕にも分からない」
審神者は憂いを浮かべた瞳を細め、続ける。
「だからとりあえずは、件の審神者について話をつけておこうと思ってな。急に来て悪かった。お前の力にはなってやりたいが……すまない。その男には会えない」
「あー…、いい、いい。気にすんなって」
「元を辿れば主のせいだからねえ。謝る事なんてないよ」
「それに、向こうと話をつけた。別に会わなくてもいいってよ。ただ……お前の連絡先だけ教えてくれればって話なんだが……いやなに、本丸番号だけ、ちょっとな?」
「……それを把握されたら、本丸に来られかねないだろうが」
「いやいや、審神者の承諾なしに余所の奴は入れねえだろ!? お前が了承しなけりゃ問題ない! な? 情報だけ、情報だけ流させてくれ! ちょっとだけ! あと、出来れば証拠写真がほしい! くれ!」
「………お前……」
露骨に表情を崩して、審神者は酷く不機嫌な声を出す。けれど長く共にいた弟弟子にそれが響くはずもなく、弟弟子は両手を合わせて猫なで声で続けた。
「な? 頼むって! この通りだ! 何でもする!」
「お前に望むことなどない」
「そう言うなって! 本当それだけ! それだけで良いんだ、別に連絡が来ても無視すりゃいいわけなんだからよ! なあ!? 頼むって! 俺の未来のために…」
弟弟子が家族に拘る理由は知っている。元々、現世に残って生きていきたかった弟弟子のこと。自分の意思で審神者となったわけでもなく、だが、それでも今は審神者としての勤めを果たしているのだ。経緯を思えば、審神者とて弟弟子の邪魔をしようとは思わない。せめて審神者の刀剣男士の耳にさえ入っていないのであれば、まだ協力出来たかもしれないというのに。
審神者は、渋々と口を開く。答えはほとんど決まってはいたが、快く引き受ける気にはなれなかった。
「……本当に必要なのか? その男の承諾は」
「絶対に、必要だ」
「何故言い切る。交際というなら、それこそお前と相手の二人だけの問題だろう。妹の交際相手だからと、何故お前がそこまでする必要がある。許可しないだと? 何様のつもりなんだ、その男は」
「言いたいことは分かる。だがなあ、これが筋ってもんなんだよ。そういう流れっていうか成り行きというか、やるといったからにはやらなきゃならんことが男にはある。分かるだろ?」
「分からん」
「じゃあ分からなくていい! とりあえず可愛い俺のために一肌脱いでくれ! 頼む!」
それを聞いて、審神者は、観念して肩を落とした。元々、己に出来ることならばと口にしたのは己である。実際に会うわけでなければ、この際譲歩はしてやってもいい。そう諦めたのである。
「……分かった。その男の本丸番号も合わせて教えろ。こちらで連絡を取り次がないように言っておく」
「よっしゃ! 恩に着る!」
「それから――絶対にこの件は僕の刀に漏らすなよ」
余計な諍いは避けたい。そう考えて言い放てば、弟弟子は大きく頷いた。
「あったりめえだ! バレたら俺の首が落とされる!」
「それは大袈裟だろう。……精々、僕が首に縄をつけられる程度ではないか」
「あーあー、やりかねんな。お前のところの刀剣男士はどっかおかしいぞ。普通、あんな殺意むき出しにするもんかねえ……」
そこまで口にして、弟弟子は含みのある沈黙を挟んだ。
「……なあ。ありゃあ、過保護ってレベルか? もっと別の話じゃねえのか、と俺は思うんだが」
「? 何がいいたい」
いいながら、ちらちらと弟弟子は青江に視線を寄越す。青江はそれに気づいているのか、気まずそうな表情で審神者と弟弟子を交互に見る。審神者はそれを怪訝に思いながらも、急かすような真似をせずに待つ。
「――……ええっと、気を悪くしないで聞いてほしいんだけど、いちくん」
「何だ?」
審神者がそう聞き返すと、青江は言葉を濁しながら、ゆっくりと口を開いていく。
「そっちの長谷部くんとか、薬研くんとか、加州くんのことを見ていてちょっと気になることがあって。違っていたらそれでいいんだけど、というか、その方がいいんだけど。やっぱり、そういうふうにしか見えなくてね。それで、僕なりに考えていたんだけど――…もしかして、君は口説かれていたりなんかするんじゃないかなー。君の本丸の刀剣男士にね」
審神者は、その言葉に背筋が凍るような思いだった。ぐっと唇をとじ合わせて余計な言葉を吐かぬようにと構えたせいで、要らぬ沈黙を作ってしまう。否定の言葉を吐かなくてはと思いながらも、咄嗟のことで頭の中が真っ白になってしまっていた。
「――…… 」
早く否定をしなければ。そう思うものの、口を開いても言葉は何も出てこなかった。審神者のその反応こそ、既に青江の問いを肯定しているようなものだった。審神者に向けられる目が、疑念から確信に変わる。
「やっぱり。君を見る目がおかしいと思ったんだよね。うちとは違うっていうか、主に向けるものには見えなかったから」
「やっぱなー…ただの過保護にしては行き過ぎてるって青江の意見はドンピシャだったわけだ」
天井を仰ぐように背中を反らせながら、弟弟子は困ったような声を出す。審神者は違うと反論したくなったものの、もう何を言っても取り繕えないという確信から、大人しく肩を落とした。
「………そんなに、露骨だったか?」
一度会っただけで見抜かれてしまったことに、審神者は不安を覚えた。手を出してはいない。刀剣男士と肉体関係を結んでいるわけではない。にも関わらず、後ろめたいことになっているという自覚があった。審神者が苦い表情を浮かべながら問えば、青江が苦笑する。
「誰が見ても一目瞭然ということはないよ。ただ、あんなことがあったから、僕も主も引っかかるものがあったというだけなんだ。――何せ、君が手を出されそうになったって話を宗三くんがした時の殺気なんて……主の首が飛ぶんじゃないかと僕らは気が気でなかったよ」
大袈裟だ。確かに審神者も恐ろしくてとても己の刀剣男士の顔を見れなかったものだが、そこまでのものではなかったはずである。
「大袈裟だ、みたいな顔をしてんな。マジだぞ、マジ! お前が和泉守に回収された後のあいつらの面をお前に見せてやりたかったぜ! おかげで俺はあの日悪夢を見た……責任とれ! 責任!」
「それはお前の宗三が、妙な言い方をしたからだろう。あんな言い方さえされていなければ、皆もそこまで怒ったりはしなかった。そんな責任はとらん。自分で克服しろ」
言って、審神者は大きなため息をついた。軽口を叩いて気が済んだのか、少しだけ落ち着いた口調で弟弟子は口を開いた。ボリボリと頭をかきながら、その表情は心配そうに崩れている。
「それで、お前ちゃんとお断りしてんだろうな」
「当然だろう。僕は審神者だぞ。刀剣男士に手など出すか」
むしろ手は出される側であるなど、わざわざ口にする必要のない情報である。審神者がそう答えると、神妙な顔で弟弟子はテーブルの上で前のめりになった。
「で、諦めたのか? あんな目ギラギラさせといて、大人しく引っ込む連中じゃないだろ。刀剣男士を大事に、なんて仕込まれてたお前が、上手く立ち回れるとも思えん。本当に大丈夫なんだろうな」
「問題ない……と思う。……言っておくが、肉体関係はないからな」
「あったりめえだ!」
拳でテーブルを叩き、弟弟子は声を荒くした。
「お前は言霊使えんだろうに、本気で来られたら逃げられん自覚あんのか? だからジジイはてめえに散々仕込もうとしてたのに、お前が嫌がるから」
もうどうしようもないことだが、悔いているように見える。審神者はその言葉に気まずそうに口を閉ざして、視線をずらすように移動させた。
「男だぞ。こんな事態など、想像もしていなかった。想定していたとすれば、僕の未熟故に刀剣男士から謀反がある場合だったが――その場合、責任は僕にある。受けるのが筋というものだ。だから必要ない……と思っていた」
「いやまあ、分からんでもないが」
大倶利伽羅にも、同じことを言われたような記憶がある。
こうなった今であっても、審神者はやはり言霊で縛るような真似はしたくないと思う。そのため、ああしておけば良かったという後悔はないが、それでも己のことを浅はかだったと思う心はあった。
「……本丸で一人になることはないからな。無理矢理ということはない。その点は心配ない」
だから安心、であるが、審神者は護衛係などなくしたいと思うため、そう言葉にしていて違和感を覚えてしまう。言っていることとやりたいと思っていることが、矛盾してしまってい。た
「やっぱこんがらがってんなあ、お前の本丸。……よし、話してみろ。散々ひっかき回しちまったんだ。今度は、俺がお前の話を聞いてやる」
直接見ずとも、弟弟子がどのような表情をしているのか審神者にはすぐに分かった。そしてその声と態度から、弟弟子が審神者の話を聞くまで決して引かないだろう事も。
「――……わかった。他言無用で頼む。誰にも言わないでくれ。青江もだ」
「おう、任せろ」
「もちろん、口は堅い方だよ」
一人では追いつかないこともある。審神者は迷った末に、目の前の弟弟子と審神者に、己の事情を話すことにした。
「僕は……いや、僕の本丸では今――……」
諦めて話し始めた審神者は、出来るだけ余計な情報を省いて説明をしていく。そうやって話していく内に、弟弟子と青江は揃って顔を白くさせていった。
そして審神者が粗方を説明し終わる頃には――二人そろってテーブルの上で頭を抱えていた。こういう光景を見たとき、やはり審神者と刀剣男士は似るものなのだろうかと思わずにはいられない。細かい所作までそっくりである。
「――…思った以上に、お前の本丸やべえ」
「あー……君の本丸がそんな状態だと知っていれば、あんな話を持って行ったりなんかしなかったんだけどねえ。宗三くんも、あんな言い方はしなかっただろうに……それはそれは本当にすまないことをしてしまったね」
その悲壮感は、審神者に対する罪悪感のせいか、審神者の状況に同情しているからか。そのどちらかは、審神者には判別がつかなかった。
「……僕が審神者である以上、関係は持てないと言っても聞いては貰えない」
「そりゃそーだろ。そんな言い方されちゃあ、諦められないってもんだ。お前はなんにも分かっちゃいねえな!」
弟弟子は頭を抱えるのを止めて、審神者を強く指さした。
「他に好きな奴がいるとか、女が良いとか、人でないと無理とか生理的に無理とか、はっきり言わんと諦められんだろう! いいか? こういうのは可能性があると思われたら終わりなんだよ! はっきり言ってやれ! 相手は女が良いってな!」
「……嘘は見抜かれる。そもそも、僕は誰も娶らないと決めているし、誰とも関係は持たないと、既に言ってある」
「アホかお前! そんなの逆効果だろうが! だったらお前が心変わりするように動くに決まってんだろう! 俺だってそうするわ!」
「っ……!」
その勢いに圧されて、審神者は怯んでしまう。口を閉ざす審神者に、弟弟子は更にまくし立てた。
「困ってても嫌がってねえなら、引く理由が見当たらん! 隙があれば攻撃するのは当然だろ! 基本だ、基本!」
「だ、だが、相手は刀剣男士で、僕は審神者だぞ。手など出せないし――何より、僕が主だから好かれているだけだ。だから恋慕だと勘違いされているだけで、」
言えば、露骨に弟弟子は顔を歪める。今度はその隣で話を聞いていた青江が、ゆっくりと審神者に問いかけてきた。
「ええっと……もしかしていちくんは、それを皆に言ったのかな? 主に対する厚意を勘違いしてるだけだとか……そういう……」
「ああ、言い聞かせている。だがその度に否定されて……納得して貰えない。それしか知らないからだろう、勘違いだと理解しては貰えなくてな」
審神者はそこまで口にして、黙り込む。示し合わせたようなタイミングで、同時にため息を吐き出されたからである。
「あいつらも可哀想に……こ〜んなのが相手じゃなあ……苦労してんだろうなあ」
「あのね、いちくん。確かに僕たちにとって主っていうのは特別なものだけど、それは恋愛感情とは別のものだよ。僕は主を慕っているけれど、主に恋愛感情なんて持ってないし、主と恋仲に……なんて考えるだけでゾッとするよ。何でもするから見逃してくれと懇願するくらいにはね」
青江はまっすぐと、審神者を見てそう言った。心を見透かすように見つめられて、審神者は身を堅くする。
「そこまで言う必要あるか青江。お前なが〜いつき合いだろ俺と」
「だからって、僕は君とどうこうとか考えたことないしねえ。主だからそんな風に見てるんだろうって言われると、恋愛感情があってもなくても嫌な気になるよ」
弟弟子に向けられた言葉に、審神者の方が苦しい思いを抱く。青江の言葉には、確かに不快だという感情が含まれていた。一時的に弟弟子に向けられていた視線が、また審神者に向けられる。
「君はどうだった? 彼らに好きだって言われて、嫌だって思った? 無理だって思った? 触られたくないって思った?」
審神者は目を丸くして、そして考え込む。穏やかなその口調は、審神者の本音を聞きたがっているように思えた。
「――……嫌ではなかった。遠ざけようとも、触られたくないとも、思わなかった」
「だったら、それは相手にも伝わっているだろうね。余計に諦められないよ。恋敵が他にもいる状況なら、尚更ね」
審神者は何も言えず、黙り込む。痛い指摘ではあるが、本丸内でも耳にする言葉でもある。それでも納得できなかった。そんなわけはないと思ってしまう。だから今、審神者はここにいるのだ。
青江は審神者の言葉に納得しているようではあったが、弟弟子はそうではなかったらしい。
「ん? いや待て。お前、嫌じゃねえのか? 相手は刀剣男士だろうが男だぞ、男! ちょっと想像してみろ。そいつらとキスしたり、抱いたり抱かれたりってやつを! そしたらやっぱ無理ってなるだろ? な!? だろう!?」
言われ、審神者は困惑を見せる。そして弟弟子の言葉に考え込むように、小首を傾げた。
「抱くことも抱かれることも、真剣に考えたことはないな。……けれど口づけならよく強請られるから、特に嫌悪はない。お前も、遠征や出陣帰りには強請られるだろう?」
「っ!? はあっ!?」
急に出された大声に、審神者は思わず口を閉ざした。そんな審神者の反応を気遣うことなく、弟弟子は顔全体を使って驚きの感情を大胆に表現している。
「ねえよ! あるわけねえだろ! なに、お前のとこそうなのかよ!? はー!? どういうことだよ!」
「っ……ない、のか? いや、褒美がほしいと言われて、するだろう……? しないのか? 頬に、だが」
「しねえよ! そもそも言われねえよ! 褒美云々はあってもそんなもん強請られたことなんざ一度もねえわ!」
一瞬、弟弟子と審神者の間に沈黙が流れる。お互いがお互いの顔を、信じられないといったように見つめている。
「お前の本丸が特殊なのか…?」
「お前だわ! お前の本丸がおかしいんだよ! ……相手は、短刀だけか? まあ、短刀だけならなんとか」
「そうだな。ほとんど、短刀や脇差だ」
「打刀や太刀は?」
「それは……たまに、」
「あんのかよ……」
またも流れた沈黙。気まずさに、審神者は冷や汗を覚えた。
良くないことだとは思っていたが、まさかここまで他の審神者との温度差があるとは思っていなかった。
「どっちだ」
困ったような表情を浮かべている青江の横で、弟弟子は真剣な口調でそう問いかけてきた。
「……何がだ」
「口説かれてんだろ。抱きたいって言われてんのか抱いてほしいっていわれてんのか、そのどっちかを聞いてんだよ」
「! 何をふざけたことを……」
「真剣に聞いてんだよ。答えろ、それによって対応が変わる」
「………」
諦めたように、審神者は小さく息を吐いた。本音をいえばもう本丸に帰りたいとさえ思うが、審神者はまだ何も答えを見つけてはいない。こんな不躾な質問にと思わないでもはないが、だが事実として、色恋には目の前にいる弟弟子の方が詳しいのも事実。
「…………抱きたい、と」
迷った末、渋々と審神者は口を開いた。
「…………それで、主に対する尊敬を勘違いしてるだけだろうからごめんなさいとか言っちゃうんだな、お前は」
「事実、そうだろう。でなければ、好きと言われる理由が僕にはない」
弟弟子はひくひくと口角をひきつらせながら、大袈裟な動きで今度は背後に倒れ込んだ。そのまま畳の上に寝っ転がり、天井を見上げたまま口を開く。
「〜〜こりゃダメだ。青江、ちょっとこいつ頼むわ。ここ案内して、ちょっと現実を見せてやれ」
「――……良いけど、これは長丁場になるんじゃないかな。彼は思ったより、手がかかりそうだ」
「構わん。こいつの本丸には連絡入れとくから、じっくり分からせてやってくれや」
「分かった。じゃあ引き受けよう。いちくんには迷惑をかけてしまったからねえ」
青江は立ち上がり、審神者に向かって手のひらを差し出す。話についていけていない審神者に、青江は目を僅かに細めて微笑んだ。
「さ、行こうか」
「……どこへ?」
「本丸だ。本丸。で、しっかりここの連中を見てこい。んで、ちゃんとまじめに、告白の返事を考えてこい。とりあえず、なし崩しで既成事実作られるのは避けられるだろうよ」
寝っ転がったままひらひらと手を振った弟弟子に、審神者は静かに眉間にしわを寄せた。
青江の横を歩きながら、長い廊下を進んでいく。ずぼらなところがある弟弟子の本丸ではあったが、審神者が思っていたよりもずっと澄んだ空気が流れていた。
「綺麗だろう? 僕が来たときよりずっと、空気も澄んでいる。ここに顕現した時はそりゃあひどかったからね。君にはもう話したけれど」
「ああ、そうだな」
青江の言葉にも、審神者は特に驚かない。その話は、以前の演練会場で青江から既に聞いていたことだった。
あの時審神者は、弟弟子の初鍛刀である青江から本丸について聞かれていたのである。それは、青江が顕現されてからずっと抱いていた疑問だったのだという。
『鍛刀されたはいいものの、本丸には既にたくさんの子が棲んでいてね。異常なくらいあちこちに潜んでいるし、主のそばになんて、常に四、五人がうろついていたよ。主は気づいてはいないようだったし、そういう話は苦手だって分かってたからね。陸奥守くんとも相談して内々に処理してたんだけど――気になるだろう? 主に近しい人なら知っているかと思って』
だから主である弟弟子が来る前に、審神者に確認しておきたかったのだという。審神者ならば、あの土地や建物について詳しい事情を知っているのかもしれないと、そう考えてのことだったらしい。
そして審神者は、その質問にこう答えたのだ。
その場所に本丸を構えるのは当然のことで、心配するような理由は何もないのだと。
『僕達は、契約で審神者になった者とは霊力の容量が違う。だからこそ、良いものも良くないものも集まってくるような、磁場の強い土地に配属される。誰にも使われていない建物だ。既に棲みついているものがあって当然。代わりに、本丸を運営するならこれ以上の場所はない。結界も張りやすいしな』
勿論審神者も例外ではない。審神者が本丸に派遣されて最初にしたことといえば、初期刀である加州清光の顕現ではなく、土地や建物に棲みついているものを払い、土地を清めることであった。
「大変だったんだよ。僕の次に来た石切丸くんと一緒に、主にバレないように霊を払いながら、主にさりげなく結界を厳重にかけるように誘導して、やっとこうして綺麗な空気に出来たんだ」
「それは苦労をしたな。あいつは僕達と違って、よほどのものでない限り目では捉えられない。その、よほどのものばかりを見ているから怖がりなんだ。だからこそ、それほど酷くない土地を当てられたはずなんだが……」
「まー命を奪うような激しい子はいなかったけどね。にしたって数が多すぎるから、放ってはおけなくて。かといって、恐がりの主に聞くわけにもいかないだろう? ……君に聞けて良かったよ。長年の疑問が晴れて、すっきりした」
ゆったりと足を止めて、青江は審神者を見下ろした。審神者はそれを受けて同じように足を止め、同じように青江のことを見上げる。思えば、審神者の青江とは違い、弟弟子の青江は非常に落ち着きがあるような印象を受けた。よほど、気の抜けない日々を送っていたのだろう。そんなことを思う。
「それに、僕は君に興味があったんだ。主は色々な人の話をするけれど――……とりわけ、君のことは結構な頻度で話題にするからね。僕以外にも、君に興味をもっている刀剣男士はたくさんいるよ」
「……そうか。ろくな話をされていないだろうな」
「それは、これから分かることだよ。ついでによく見ておくといい。主相手に恋をするのは当然ではないってことをさ」
言って、青江は歩き出す。審神者は少し遅れて、それについていった。
(あいつは、それを僕に見せたいのか……)
主であるからこそ向けられる想いであると言った審神者だ。その弟弟子の行動はおかしなものではない。確かに、審神者の考えが正しいのならば、弟弟子も誰かしらに口説かれているという話になるが、弟弟子がそんな状態になっていないことは既に知っている。わざわざ見にいく必要はあるのだろうか。
「ちなみに、今までに主に口付けを強請った子は一人もいないよ」
「………短刀も?」
「短刀も。まあ褒められたいっていうのはあるかもね。主は社交的な方だから、色んな審神者の子と話もするんだけど、んー……今のところ、君みたいになっている本丸はないかなあ」
納得できない思いを抱きつつも、それを口には出せない。審神者に対する好意だと思っていた審神者にとって、余所の本丸では全くその気配がないという事実は、不安以外の何者でもなかった。
(……だがアイツは…僕のように皆を遠ざけるような真似はしていなかったはずだ)
違う点があるのならば、そこである。前提が違うとなれば、己の本丸の形がおかしいことにも納得はいく。そうでなければ、審神者は今までの己の考え方が間違っているのだと受け入れなければならなくなる。
(……もしも、そうなら、そうだと納得したのなら、僕はどうすればいいのだろう……)
沸き上がる気持ちが、嬉しさ故か悲しさ故か、そのどちらに属するものかも分からない。ただただ漠然とした不安がすぐそばにあったことだけは分かっていた。
「あっ、青江さん!」
「ああ、秋田かい?」
「……? そちらの方は……?」
「ああ、彼は主の兄弟子くんだよ。主に会いに来たついでに、皆に紹介しようと思ってね」
考え込む審神者は、青江と秋田藤四郎との会話を聞いて、視線を向ける。思考のせいで、気づくことが遅れてしまったらしい。そこで秋田と目があった審神者は、秋田の瞳がきらきらと輝いていることに気がついて、目を瞬かせた。
「この方がそうなんですね……!?」
何やら期待を浮かべていたような表情に呆気にとられている審神者に構わず、秋田はとてとてと近づいてきた。
「はじめまして! 主君のお兄さんですね! 僕は秋田藤四郎です!」
「……ああ。はじめまして、秋田」
「はい! 主君からおはなしは聞いてます! なんでも、野犬も裸足で逃げていくぐらいお強いんだとか!」
「…………」
審神者は苦い表情を浮かべて、秋田と目線を合わせるようにしゃがみこむ。きらきらと輝く視線を断ち切るような真似はしたくない。間違いであるとは言い辛いものがあった。言うけれど。
「嘘ではないが、野犬と戦ったことはないよ」
「…? どういうことですか?」
「動物には好かれないんだ。犬猫には特に。野犬にも逃げられてしまう」
「……では、迷い込んできた野犬を追いかけて追い出したという話は……」
「それはまあ……結果的には、そうなってしまったからな。間違いではないが……」
へえ、と言いながら、青江がつぶやくように問いかける。
「それは凄いね。特技かい?」
「特技というか、霊力の問題だな。私以外にも二人、同じような体質の者はいる。勘が良い小動物には、大抵逃げられてしまうんだ」
説明するために視線を青江に向け、また秋田に向ける。期待を裏切ってしまっただろうかと思っていた審神者とは裏腹に、秋田はふわふわと、嬉しそうな雰囲気を纏っている。
「じゃあやっぱり本当なんですね! わーっ、すごいですっ!」
喜ぶ秋田は審神者の手をとって、奥の方へと指を向ける。
「こっちにみんなもいるんですよ! さ、案内しますね!」
花開いたような笑みと共に審神者の手を引こうとする秋田に、審神者は困惑をみせる。青江に案内されるという形だったのに、秋田にこのままついていってもいいのかと。縋るように青江を見れば、青江はにっこりと笑って言った。
「手間が省けて良いじゃないか。行っておいで」
審神者の手を掴む小さな手が、柔らかく審神者の手を握り直す。
「さあ、こちらですよ!」
「……ああ」
戸惑いを覚えつつ、審神者はその手をそっと握り返した。
それからは、審神者は本丸内を移動することはなかった。ずっと大広間にいれば、審神者を一目見ようと刀剣男士の方からが広間に集まってきたからである。弟弟子の本丸には、審神者の本丸よりも多くの刀剣男士が顕現していたため、初めて言葉を交わす刀剣男士も多かった。
そうやって代わる代わる訪れた刀剣男士は、審神者の話を主から聞いていたと、審神者に関する様々な情報を持ってきたのだが、そのどれに対しても審神者は首を傾げるばかりだ。間違ってはいないが正しくもない、そんな情報ばかりだった。
「お前、どうしてこうもずれた情報ばかり流すんだ」
審神者の執務室でこんのすけと向き合っていた弟弟子は、入ってきた審神者に目を向ける。呆れてしまっている審神者の反応を見て、楽しそうに笑った。
「全部嘘じゃねーだろうが。毎回みんな楽しく聞いてるんだぜ? 実物見れて、さぞ喜んでたろうよ」
「……毎回訂正しなければならない僕の身にもなれ」
「律儀に訂正しなくていいんだよ。アホだなお前。お前はそうやっていちいちくそ真面目に反応するから舐められるんだ。まー座れ座れ」
示された座布団の上に腰を下ろしながら、審神者はむっとしたような表情を浮かべていた。
「訂正しなければ、益々妙な話になるだろう。なんだ、お前は。僕をどうしたいんだ」
「ちょっとぐらい脚色した方が盛り上がるんだよ、こういうのは。青江はどうした?」
「一緒にいたが、ここに来る途中で用を思い出したと引き返していった」
「ほー……じゃあまあ、サシで話せそうだな。よしよし。ああ、こんのすけ、もう行っていいぞ」
ひらひらと手を振りながらこんのすけに告げて、こんのすけはそれに頷いた。そして視線を審神者に向けると、「ごゆっくり」と口にして少量の煙と共に消えていった。
「今、お前の本丸に連絡を入れた。帰りは遅くなるから夕飯はいらねえってな」
「……何をしている」
「いいだろう。こんな機会は滅多にない。飯ぐらいつき合え。もうお前の分も用意させてるからな」
有無を言わせない口調で言ってから、弟弟子は腕を組んで大きなため息をついた。
「しっかし、お前のとこの刀剣男士はこえーな。お前に何かあったら許さねえってよ。寿命が縮むわ」
「……普段は、もっと寛容だ。お前が妙な話を持ってくるから、過敏になっている」
「それだけじゃねえだろうよアレは。嫌われるよりマシだろうが、好かれるのも大概だな。――で、答えは出たか? この本丸の刀剣男士を見て、そんでまだ言うか? 主だから口説かれてるってのは」
審神者は苦い顔で押し黙り、所在なさげに視線をずらす。
「……お前と、僕の本丸は違うな。同じ刀剣男士でも、全くの別物だ」
「そりゃそうだ」
「僕の青江はもっと楽観的で、どちらかといえば奔放な方だ。だが、お前の青江はしっかりしている。そうならざるを得なかったのだろう。お前が主では」
「やかましいわ」
実際に顔を合わせて、言葉を交わして。嫌でも思い知る。自覚するべき事実がある。
「僕の蛍丸はもっと甘えたで、僕の小狐丸はお前の小狐丸程穏やかではない。同じであって、同じではない……皆、違う。刀剣男士として主に親愛は持つだろうが……それは色恋とは別のものだ」
口にして、己が口にした言葉に、何ともいえない複雑な気持ちを抱いている。
「皆前を慕っているが、それは主としてだ。それ以上の感情を持っている刀はいない」
「今更気づいたか。おっそいこった」
ぐっと、唇をかんだ。
けれど未だ納得できていない、最後の砦のようなものは、依然として審神者の中にあった。
「……僕が皆に好意をもたれてしまった理由は……原因は、僕にある」
弟弟子は、呆れた表情を浮かべた。
「まだどっかで認めてねえ喋り方しやがって」
「……いや、認める。僕の本丸が特殊なのだと。お前の本丸は健全だ」
「お前の本丸は不健全か?」
鼻で笑うような物言い。審神者は静かに口を閉ざし――そして頷いた。
「……その通りだ。僕の本丸は不健全で、そうさせたのは僕だ」
「………」
「お前、酒の席で僕に言ったな。今まで何度清光を泣かせてきたのかと」
きゅっと、唇を強くとじ合わせた。また思い出す。一年前の己の間違いを、また。膝の上で強く握りしめた拳を見下ろしたまま、審神者は苦しげに口を開いたのだった。
「――何度もだ。僕は何度も清光を泣かせてきた。審神者として適切な距離をと考えて、ずっと、遠ざけていたんだ。それが間違いだったと気づくまで、僕は一年、一年も皆を遠ざけていた。僕の本丸が健全でないのは、それはその僕の行いが引き起こした――」
ばしゃりと浴びせられたぬるい湯が、審神者の前髪から、顔に伝っていく。
「――……」
静かに視線を前に向ける。弟弟子は審神者に向かって空の湯呑みを構えていた。湯飲みの中身の茶をぶちまけられたのだとすぐに気づき、けれど審神者は、呆然とそれを見つめている。
「いい加減にしろ、鬱陶しい」
ぽたぽたと、髪を、顔を伝って腿の上に落ちてはシミを作っていく滴を審神者は見下ろし、もう一度弟弟子をみる。審神者の反応などお構いなしに、弟弟子は続けていった。
「お前は昔からそうだ。自分はやることをやっているだけだから好かれる理由にならんと、甘やかすくせに少しも歩み寄らない。知らん顔で好意を無碍にする。そういうところが鬱陶しくて、俺は進んでお前を困らせたこともある。久々に見ると更にうざったいぜお前。いい加減にしろ」
目に茶が入りそうになって、審神者は手の甲でそれを拭う。表情を崩さずに弟弟子の言葉を受けた審神者は、静かに瞼を閉じた。ぬるま湯で頭でも冷えたのか、妙に、脱力していた。
「……なら、どうしろと言うんだ。どうしようもないだろう。審神者として以外にどう接すれば良いのか、僕には分からない」
「何を難しく考えてんだ。嫌なら嫌って言えばいいだけの話だろうが」
「言っても通じない。何よりこれは、僕が審神者だから、」
「そりゃあもういいっつーの! バカの一つ覚えみたいにそればっかり言いやがって!」
湯飲みを乱暴に置く。弾みで揺れたテーブルの上に湯飲みを置いてから手を離して、審神者に向かって弟弟子は腕を組んだ。
「審神者だから好きなだけだろうとあしらわれて、だーれが諦めるかっつーの。お前は本当に分かってねえな! これ何度言わせんだよバーカ!」
「お前……もっと年相応の言葉遣いをしないか」
「うるっさい! そりゃこっちのセリフだ!」
大きな大きなため息をついて弟弟子は部屋を出て、外に向かって口を開く。その前に呟かれた「もーいい」という言葉に、審神者はふと、嫌な予感を覚えた。
「長谷部――!! 長谷部いるだろー!! ちょっとこっち来い!!」
目を丸くして、審神者は立ち上がる。そのまま弟弟子に近寄った。
「何のつもりだ」
「お前は俺が何言っても聞かんだろう。自分の刀剣男士の言葉も信じないなら、俺の刀剣男士から聞け!」
「っ……お前、何を言って――いや、どうして長谷部なんだ」
「あれが一番良いだろ。しっかり聞いとけ! お前は主に興奮するかってな!」
「聞けるか! 要らん! やめろ! 誰にも言わないと言ったことを忘れたか!」
「うるせえ! そんなもん知るか! その顔ふいとけ!」
止めようとして弟弟子の腕を掴む審神者と、審神者の顔に手のひらを当てて引き離そうとする弟弟子が騒いでいる部屋に、足音が近づいてきた。
「主。お呼びですか?」
内番着を身につけて腕まくりをした長谷部が早足に現れ、審神者と弟弟子を交互に見て、訝しげに眉を寄せた。
「来たか長谷部! ちょっとコイツ頼む!」
「……はい?」
「やめろ! 必要ないと言っているだろう!」
「うるせえ! 長谷部! 連れてけ連れてけ!」
審神者の肩を掴んで、そのまま長谷部に向かって突き飛ばすようにして押し出す。いきなり呼び出された挙げ句に知らぬ男を押しつけられそうになって困惑する長谷部に、弟弟子はデリカシーもへったくれもない物言いで続けた。
「いいか? コイツは今、自分とこの長谷部に迫られて困ってる」
「は…?」
「で、主相手だから惚れてるんだろうとコイツは思っている。刀剣男士は主に無条件に惚れるもんだろうってな!」
「……はあ?」
一度目は戸惑い。けれど、二度目は完全に不機嫌な声であった。長谷部は弟弟子の言葉を聞くと、眉間に深いしわを刻み込んで審神者を見下ろした。
「訂正してやれ! お前、俺相手に欲情すると思われてんぞ!」
「…………そうですか」
否、睨みつけたとでも表現した方が良いだろう視線に、審神者の足は自然に後ずさろうとする。しかし、後ろから背中に手のひらを押し当てられているせいでそれは叶わない。長谷部との距離は縮まない。
「構いませんが、俺は今厨当番の最中ですよ。其方はどうしますか?」
「ちょうどいい! ならコイツにもやらせろ、手際は俺らの中で一番良い! 今何やってんだ?」
「下準備ですよ。ひたすら野菜の皮むきを」
「よし、いいぞいいぞ! 一緒にやりながら言い聞かせてやれ! お前も嫌だろう? コイツお前が主相手に問答無用で欲情する刀だと思ってんだぞ!」
「八! お前…!」
ぎろりと、長谷部は不快さを露わに審神者を睨みつける。
「……ええ、主命とあらばそうしましょう。この男は主の何ですか? 上司ですか?」
「あ? んなわけねえだろ! まーなんだ。弟みたいなもんだ!」
「違うだろう! お前の弟になった覚えは……」
「似たようなもんだろう!」
「全くちが……」
弟弟子と正面から向き合って反論しようとするも、途中で切れてしまう。背後から腕を掴まれ、そのまま後ろに引かれてしまったからである。
「では連れて行きます。遠慮なく使っても良いのでしょう?」
「おーおー連れて行け! その後はまたこっちに寄越してくれ!」
「はい。お任せください。事情は存じませんが――よくよく言い聞かせますので」
言って、足を止めずに長谷部は進み出す。長谷部の方を見た審神者は、ひくりと口角をひきつらせた。主である弟弟子から聞かされた最低限の情報は、どのどれもが長谷部にとって侮辱に近い内容だった。その長谷部の視線の鋭さといったら、審神者の長谷部相手でも見たことがない表情だった。
「大人しくしろ」
何もいえず、審神者は半ば引きずられていくような形で、その後をついていく羽目になったのだった。
ずっと長谷部に背中を向けられる形での移動だったため、声をかける事も出来ないまま。無言で連れて行かれた先は、当然厨である。複数の刀剣男士達が既に作業してい様子を目にした審神者は、使え、の一言と共にエプロンとたすきを渡された。非常に気まずい思いを抱えながらもそれらを身につけながら、審神者は静かに長谷部の様子を伺った。
(アイツめ……余計なことを)
己の本丸が特殊であることは分かっている。そうしてしまった原因が己にあることも自覚している。だが、どの刀剣男士も己の刀剣男士と同じように主を慕うなどとは言っていない。それを、弟弟子があんな物言いで長谷部に説明してしまった。説明という単語を使うのさえ抵抗がある。あんな雑に言われては、長谷部が機嫌を悪くするのも当然のことであった。
「難しいことはない。ひたすら皮を向け。多少雑でも構わん、何しろ数が多いからな」
「……ああ、分かった」
そのまま奥の方へ誘導され、言われるがまま長椅子に座り、既に表面の土が洗い落とされたジャガイモの山と包丁を渡された。審神者の隣に並んで座った長谷部と同じように、一個ジャガイモを掴んでは皮を剥いていく。終わり次第、それを目の前に置かれている大きなかごへと投げ込んでいく。
(何も言わないんだな……)
ここに至るまでで、長谷部はこれといって特に審神者に声をかけてはこない。戸惑いつつも、審神者は言われた通りにジャガイモの皮を剥いて芽をとり、それらをかごの中に放り込んでいく。そうしてそれを何度か繰り返していると、不意に、横の長谷部から声をかけられた。
「確かに手際は悪くない」
「ああ。慣れてはいる」
「ふん……で、お前の名はなんだ」
審神者に一切目を向けることなく、長谷部にそう問いかけられる。審神者はほんの少しだけ手を止めて、またすぐに再開させた。構えるように、心臓の音が急いていく。
「一だ」
「……ああ。ならば、やはりお前は主の兄弟子か。話は聞いている。やけに本丸が騒がしいと思っていたが、原因はお前か」
「ああ。おそらく、そうだろうな」
「主はよくお前の話をする。この本丸の刀でお前の存在を知らないものはいない。俺のことは長谷部でいい。俺もお前に敬語は使わん。構わんな」
「ああ、それで良い」
愛想はないが、思っていた以上に友好的な態度のように思えた。そんなに構える必要はなかったかもしれないと思う審神者は、ふっと風圧が首元に当たったことで手の動きを止めた。
「――で、だ」
低くなった長谷部の声と、すれすれのところで審神者の喉元に添えられた包丁。辛うじて隙間はあるものの、それは長谷部の意思一つで簡単に審神者の首を裂くことが出来る距離であり。審神者は静かに長谷部に視線を向けた。
「俺が、主に所構わず欲情するような、見境なしの下劣な刀だと言ったのはこの口か?」
そこには、敵を目の前にした時のように冷ややかな視線を審神者に向けた長谷部がいる。審神者は眉間にしわを寄せて、すっと目を細めた。
「そうは言っていない。悩んでいるのは僕の長谷部のことであってお前のことではない――お前を貶めているわけではない」
勘違いされてはたまらないと、苦い心地でそう言い放つ。長谷部はこめかみに青筋を浮かべながら、審神者への苛立ちを隠そうともせずに睨みつけている。そうしてまっすぐ審神者と目を合わせたまま、数秒。ようやく、審神者から刃先が離れていった。
何もなかったかのように皮むきの作業に戻って、長谷部は口を開く。
「だったら説明をしろ。お前の本丸の俺がどうしたというんだ」
「……いや、話すようなことはない。気にしないでくれ」
「俺は主命を受けている。お前の事情など知らん。早く説明しろ」
「お前の耳に入れるべきことでは――…」
「既に半端な情報だけ耳に入っている。全部説明する責任がお前にはあるぞ。違うか」
「だが……」
「話せ、と言っている。何度も言わせるな。無駄だろうが」
なんとか話をせずに済ませたいと思うが、言葉に圧されて黙り込む。とはいえ素直に口を開くことも出来ずに、審神者はほとほと困り果てた。余所の刀剣男士とはいえ、同じへし切長谷部という刀を相手に、何故己の本丸の状況を説明しなければならないというのだろう、と。既に青江は知っているといえ、そう何度も同じ話をすることには抵抗があった。
「……お前の事情は知らんが、知れば力になれるかもしれんぞ。口も堅い方だ。話せ」
その審神者の抵抗をどう感じ取ったのか、幾分か柔らかい口調でそう付け加えた長谷部に、審神者は口を閉ざす。そのような言葉を吐いていた長谷部の主である弟ですが、いきなり長谷部に話をぶちまけたのはつい先ほどの話である。すんなりと信じることなど出来ようもない。そうしてしばらく断りの言葉を探していた審神者だったが、結局は根負けをすることとなったのだ。
「………分かった」
少なくとも、青江は審神者の言葉を守っている。破ったのは人間である弟弟子だけ。刀剣男士ならば問題はないだろうと希望的観測で、審神者は渋々と口を開いた。
「僕は――…」
「待て」
けれど、制止の声がかかる。審神者が長谷部の方を見れば、長谷部の視線は既に審神者でない方向を向いていた。
「――そこ! 聞き耳を立てるな!」
審神者の本丸よりも大所帯なため、厨当番もそれなりに存在している。それぞれが自分の作業に集中しているため気にしていなかった審神者だったが、その長谷部の言葉で、ようやく聞き耳を立てられていることを知った。長谷部の視線を追いかければ、少しだけ慌てた様子を見せた刀剣男士に顔を背けられた。あちらは今、人参の皮むきを担当しているらしい。一番近い場所で作業をしているが故に半端に耳にでも入ってしまったのだろうか。
長谷部は呆れたように息をついて、審神者との距離を縮めた。
「良いぞ、続けろ」
その物言いは先程長谷部自身が言ったように、審神者に対して敬いに近い態度はない。それは審神者も了承の上、こだわりもないため気にしないが、己の本丸の長谷部と全く同じ姿形でそのような態度をとられていることに、どこか新鮮味を感じた。
(僕の長谷部ではない。似た部分は勿論あるのだろうが……ここまで違う姿を見ていると、不思議な気持ちになってくるものだな)
改めてそう感じ、審神者はじっと長谷部を見つめる。そんな審神者の反応に長谷部は怪訝に眉を寄せ、審それに神者はハッと我にかえった。
そうして少しだけ声を潜めると、長谷部にだけ聞こえるように、説明を始めたのであった。
「理解出来ん」
全てを説明した後の第一声は、それであった。手を止めることなく、次々とジャガイモを丸裸にしていきながら、審神者に目を向けることなく吐き捨てるように口にした言葉。審神者は目線をジャガイモから長谷部に移した。必然的に、皮むきの手も止まる。
「主に懸想するそこの俺も理解出来んが――それはいい。同じ刀といえど別物だ。そこの俺と俺は別の人格だからな」
手慣れた手つきで芽を落とし、長谷部は声を低くした。
「理解出来んのはお前だ、一」
「……僕か?」
「ああ。他に誰がいるという」
弟弟子の審神者と青江に説明した内容を簡潔に説明した審神者は、まさか長谷部にそう言われるとは思わずに、目を丸くする。
審神者が説明したことは、本丸の長谷部に好意を持たれていること。その好意は、審神者が主だからこそ向けられるものであると審神者自身思っていること。散々違うと言われたものの、やはり審神者が一年間刀剣男士から距離を置いていたことが関係しているのではないか――故に、主への敬意を勘違いしているのではないかと思っていること。そう言って断っているが、納得して貰えていないこと。それだけである。
己の説明が足りていなかったかと思ったが、そうではないらしい。
「何故、方々で言われておきながら納得しない。俺は確かに主の忠実な刀であろうとするが、主相手に色恋沙汰は起こさん。お前のところの俺にも、そう言われたのだろう。なのに、何故お前はそれを信じない。一年放っておいたから何だというんだ。一年放っておかれたら主を抱かねばいかんのか。懸想しなければならないのか。そんなわけあるか」
淡々と言いながら、長谷部は嫌嫌そうな声で続けていく。
「お前はそれを言い訳にして逃げているだけだろうが。嫌なら嫌と断ればいいものを。中途半端に期待させて、首を絞めるような真似をするな」
「そんなつもりは……」
「どんなつもりだろうが、やってることは変わらん。――おい、手が止まっているぞ。動かせ」
指摘されて、審神者は止まっていた皮むきを再開させた。もやもやとした思いを抱えながら皮を剥いていきながら、審神者の耳は長谷部の言葉を一言一句逃さずに拾っていく。
「はっきり言おう。俺は主だからという理由で懸想はせん。腹立だしい。二度と口にするな」
「――お前の主は僕ではないし、僕の長谷部もお前ではない。僕はお前のことを言ったわけでは……」
「やかましい」
ぴしゃりと言われ、審神者は口を閉ざす。刺々しい物言いで、長谷部は続けて審神者に言い放った。
「……お前は、お前のところの俺と交わることが出来るのか」
「……なに?」
聞き間違いかと思った。手が止まりかけ、すかさず長谷部に「手」と指摘される。ただでさえでんぷんで手が滑りそうな中、動揺が加わってしまっては手を切りかねない。気を散らしていれば、そのまま指を傷つけてしまいそうだった。審神者は、手元から目を離さないように努める。
「今し方少し対話しただけでも分かる。お前は面倒くさい。面倒なやつが面倒なことを考えても意味がない、もっと簡単に考えろ。要は、性交できるかどうかだ」
そしてどうやら、聞き間違いではないらしい。重ねて言われて、審神者は眉間にシワを刻む。
「刀剣男士相手に、そんな俗な真似が出来るものか。したいとも思わん」
苦々しい表情で答えれば、負けじと勢いよく長谷部は口を開く。
「生理的に無理かどうかを聞いている。考えてみろ。ただ単純に、抱かれても良いかどうか答えろ」
「何故そんなことを……」
「お前の断り文句は隙がある。期待もするだろう。諦めないのは脈が少しでもあると思われているからだ。生理的に無理なら無理といえば、引き下がらずを得なくなる。そうだろう?」
同じようなことを、弟弟子にも言われた。刀剣男士の思考もある程度主と似るものなのだろうか。そんなことを思いながらも、審神者は嫌々そうに首を横に振る。
「……そんな言葉を使って、わざわざ傷つける必要などないだろう。そんなこと、考えたこともない」
言って、審神者はただひたすらに皮むきに集中する。抱きたいと言われたことはある。けれどその行為自体となると、審神者は詳しいことまで想像力が働かない。曖昧な想像しか出来ないのである。当然だ。性交がなんたるかは知っているが、それは仕組みの問題だけで。その行為を直接見たこともなければ、詳細に手順を教わったわけでもない。知りたいと考えたこともないのだ。いきなりそういわれても困る。
「そもそも僕など……男を抱いてもつまらんだろう。面白味もない、ただの堅物と言われるばかりの……」
「そういうところが面倒なんだ! そっちの俺と交わることを考えてゾッとするなら断れ! でなければもう抱かれてこい! 簡単な話だ!」
言って、長谷部は鼻息荒く、皮をむき終わったジャガイモを放り投げた。審神者のはっきりしない物言いに、相当苛ついているらしい。その音を聞きながら、審神者は困って口を閉ざした。
(……抱く、とは。そもそも、男同士で…?)
男女の性交すらふわふわとした知識しかないというのに。男同士の交わりなどもっと曖昧だ。おそらく、たぶん。そんな前置きがつくような知識しかない。そもそも、男同士で性交は可能なのか。そこから不安を覚えた審神者だが、長谷部の言葉の通りに想像をしてみる。
――全く想像がつかなかった。
ただ、一度、長谷部と初めて会話らしい会話をしたあの夜のことを思い出す。あの夜、長谷部は審神者に夜伽を命じられたのだと思って、審神者を押し倒して身につけていた衣服を解いてしまって――その時のことを思い出す。
「………だが、言われると、そう…だな」
絞り出すように言いながら、審神者は手を止めることなくそう呟いていく。
「――…嫌、とは思う。勿論。僕は審神者だから、こんなことをしてはいけないと考えて、間違っていると思うと、とても、嫌な気持ちになる」
けれど。その言葉は審神者が自覚しない内に唇からこぼれ落ちていく。長谷部は新しいジャガイモを取り出して、また剥き始めた。その音を聞きながら、審神者はまるで己自身に言い聞かせるように続けていく。
「――でも、長谷部のことを嫌とは思わなかった。口付けも何度もされているが、それ自体に嫌悪もない。思えば、押し倒されたときも脱がされた時も、恐れていたのは審神者としての「っ…!」……長谷部?」
声にならない声が隣からこぼれて、審神者は手を止め、長谷部の方へ目を向けた。長谷部は青い顔をして、苦い表情を浮かべていた。よく見ると、長谷部の指から赤い血液が伝い流れ落ちている。指を切ったのだと、審神者はすぐに理解した。
「ふざけるなお前! いきなりそんな話をぶちまけるやつがあるかっ!」
どうやら手元が狂ったらしい。思いの外深く指を切ってしまったらしく、だらだらと流血している長谷部の指を見て、審神者は慌てて手に持っていたじゃがいもと包丁を膝の上に置いた。そして、怪我をしたらしい長谷部の左手に手を伸ばす。
「すぐに手入れを…」
「要らん。この程度で主の手を煩わせるなど…!」
逃げるように離れていこうとした長谷部の手を強引に掴み、審神者は己の方へと強く引き寄せた。まっすぐと長谷部の目を見つめれば、長谷部は一瞬だけ押し黙った。その隙をつくようにして、審神者は怪我した箇所を上下から手のひらで挟みこんだ。
「分かっている。僕がやる」
そうして、霊力を送り込む。傷つき欠けた部分を補うように、傷を修復していく。霊力を送り込む行為は、感覚として、抱いている熱を伝えさせるようなものに似ている。そんなことを思いながらも、審神者は霊力を送り続け、傷を手入れしていった。刀身が傷ついているわけではなければ、手入れはすぐに終わる。審神者の思惑通り、長谷部の指の傷はすぐに塞がった。それを確認して、審神者はほうと息をついた。
余裕が生まれ、審神者は長谷部と目を合わせる。
「すまない……僕のせいだな」
聞かれたから答えただけだが、前置きなくそんなことを聞けば驚いたとしても仕方のないことだ。
物珍しそうに指と審神者の顔を交互に見た長谷部は、困惑した表情を浮かべた。
「……お前は、出来るのか」
「? 何の話だ?」
「資材を使わない手入れを」
「……ああ。八も出来るだろう」
答えながら、視線をまた傷ついていた指先に落とす。ともかく、手入れのために触れたためについた血液を落とさなければ。このままジャガイモにもは触れない。
「ああ、主にも出来る……が、時間がかかる。この程度の傷なら一時間ほどか」
「………そうか。アイツは、これが苦手だったな」
審神者は霊力操作に長けているが、弟弟子はそうではない。審神者は納得したように口にして、立ち上がる。審神者だけがそうすれば、長谷部のつむじがよく見えた。
「………一応、礼は言っておく。だが忘れるな。原因はお前だ」
「ああ、そうだな。すまなかった」
性交の話を振ってきた相手にそこまで気が回らなかったというのが本音ではある。だが、長谷部がそう感じたというのであれば、そうなのであろう。審神者が謝罪をすれば、物言いたそうな視線を長谷部は寄越してくる。
「やはり、原因はお前にある」
「……分かっている」
「いいや、分かっていない。お前はもっと強気に構えていろ。偉そうにしろというわけではないが、そう簡単に下手に出るな」
「偉そうにする必要などあるか? 審神者は主ではあるが、偉い訳でも何でもない。ただの人だぞ」
審神者と同じように立ち上がり、長谷部も血のついた手と包丁を洗いにいく。そのすがら交わした会話に、審神者は淡々と返事をしていった。
「うむ。よきかな、よきかな。その心がけは悪くないぞ。だが、ちと、危なっかしいな」
途中で、どこからか声がかかる。声の主を探せば、そこでは人参班であったらしい三日月宗近が、つかみ所のない笑みを携えて審神者のことを見上げていた。審神者の本丸にはいない刀剣男士であり、厨当番の刀とは先ほどの大広間で顔を合わせていなかったため、見慣れない顔だという感想が一番はじめに浮かび上がってきた。
「おい、口を挟むな。話がややこしくなるだろう」
三日月の視線から隠すように審神者の斜め前に立った長谷部は、非常に面倒くさそうにしている。どんな理由からかは知らないが、警戒しているように見える。けれどその態度が堪えた様子はなく、飄々と三日月は口を開く。
「そう年寄りを邪険にするな。それに俺も、まったく無関係というわけではない」
「? お前が一体コイツと何の関係が――」
食ってかかるような物言いであった長谷部の言葉がとぎれる。
そっと差し出された三日月の手のひらに、ぱっくりと刃物で切ったような傷があった。だらだらと流血している手のひらを三日月は審神者に向け、そして笑った。
「どれ、俺の手入れも頼む――どこな長谷部が大声をあげたせいで、手元が狂ってしまった」
快活に言う台詞ではない。審神者はすぐに動いて膝をつくと、三日月の手をとった。何も言わずに、速やかに手入れを行う審神者のことを観察するように見下ろし、そんな三日月へ長谷部が睨みをきかせている。
「……もう痛くはないか?」
手入れを済まし、審神者は三日月のことを見上げた。
「ああ。さすがは主の兄弟子といったところか、見事な手際だな。――全く、いきなり大声をだすやつがあるか。聞き耳を立てていたとはいえ、いやはや、実に驚いたぞ」
「だから、聞き耳を立てるなと言っただろうが!」
「なに、主の兄弟子となれば、俺の兄のようなものだろう。心配になるというものだ。何よりそのような面白そうな話、放ってはおけまい」
「それが本音だろうっ」
「はっはっは。バレてしまってはしょうがない。どれ、爺も混ぜてくれ」
そっと、さらうように審神者の顎を指先で持ち上げる。瞳の中に写る三日月を見つけた審神者は、感心したように目を細めた。
(……本当に、三日月があるんだな)
知ってはいたが、こんなにも見事だとは。だがそんなことよりも、三日月が話を聞いていたという事実に審神者は焦りを覚える。声は潜めていたはずだが、一番近くにいた人参班には聞こえていたとでも言うのだろうか。そんな審神者の思考を読んだように、三日月は微笑む。
「案ずるな。俺は口が堅い」
「…………それは、」
「ふふ、可愛い顔をしているな。主と兄弟と言われても、これではぴんとこないというものだ」
「血が繋がっているわけではないよ」
「知っておる。だが、長く時間を共にすれば、少なからず共通する部分も出来よう」
すっと細められた三日月に、審神者は困り顔で離れようとする。直感だが、嫌な予感がしたのである。だがそれを引き留めるように、指先で頬をなぞられた。くすぐったっさに身をすくめた審神者に、三日月はくすくすと笑った。
「いや信じられんなあ。おぼこいように見えるが、既に刀剣男士と褥を共にしているとは」
「っ…! してない! していないぞ!」
「人は見かけに寄らんな。どれ、俺も一つ相談に乗ってやろう」
「聞いてくれっ…!」
慌てて訂正するが、審神者の言葉を三日月はあっさりと聞き流してしまう。止めに入ったのは、長谷部であった。
「悪ノリするな! 主は真剣にこれを心配しているんだ。ひっかき回すような真似をするな」
「何を言う。なれば尚のこと、俺が必要だろう。聞いてはいたが、お前の‘あどばいす’とやらも酷いものだったぞ。生理的に無理でなければ抱かれろとは投げやりがすぎる」
「? それが一番手っ取り早いだろう。交際など、行き着く先はそれしかない」
「それが分かっていないというのだ」
頭上で交わされる三日月と長谷部との会話に、審神者は眉間にしわを寄せた。嫌な予感しかしない。こっそりとこの場を離れてしまいたいと思いながら立ち上がり、逃げるように三日月の手入れ時に手についた血液を洗おうと移動する。
そうやって手を洗い終わった審神者が戻ると、今度は上から三日月を見下ろす形となった。その頃には長谷部と三日月の話もついていたのか、三日月は楽しげに審神者を待ちかまえていたようだった。
「今度は俺がお前に良い‘アドバイス’をしてやろう。なに、そこの無骨者よりも、有益な助言が出来るというものだ」
心底楽しんでいるのだろう。三日月は唇を弧に描いて、審神者にそう言い放った。
「主。連れてきました」
「おう、早かったな! どうだ、役に立ったか?」
「ええ、まあ。手際は悪くありませんでした。言い聞かせるのに苦労はしましたが」
「いやあ、ご苦労さん! あとはいいぞ。その堅物こっちに寄越してくれ」
「はい」
会話の末、審神者は行きと同じように、今度は背後から長谷部に押されて弟弟子の前に突き出された。審神者のその表情は苦いものであり、何を考えているのか読めないと、弟弟子は首を傾げた。
「どうだ。今度こそ参考になったか」
「………参考、か」
「なんだなんだ意味深に呟きやがって! まあ座れ!」
「では、俺はこれで。失礼します」
長谷部が主である弟弟子に頭を下げたあと、一、と背後から名を呼ばれ、審神者は長谷部の方を振り返った。
「……どうした?」
そのまま聞けば、長谷部は小難しい顔をして審神者のことを見つめていた。
「……相談なら、また受けてやってもいい。どうもお前は危なっかしいからな。それに人手は多ければ多いほど良い。だがその時は、しっかり手伝えよ」
腕を組み、背を反らしながら口にする長谷部は、非常に強気であった。
もしもここに審神者の長谷部がいたら激昂するだろう態度だが、審神者はこだわらないため、気にもしない。ただただ、表情を柔らかくさせて、小さく微笑んだ。
「……ああ。ありがとう、長谷部」
言えば、ふんと鼻をならして長谷部は部屋から出ていった。その背中を目線で追いかけていると、背後で弟弟子が笑う。
「……ありゃ気に入られたな。お前、いつの間にうちの長谷部たぶらかした」
「やめろ。そういうことじゃない」
からかうような口調の弟弟子をキッと睨みつける。勿論冗談であったらしく、弟弟子は軽快に笑った。
「まー、気に入られたのは本当だろうな」
「? ……そうか?」
「おう。アイツ世話焼きだからな。それよか、危なっかしいて。余所の刀剣男士に言われるのは相当だぞ。これで自覚したろ? 参考になったろ? よし座れ! もう一度、改めてお前の考えを聞いてやる!」
「改めて話すようなことはないが……」
また対面するように座り、弟弟子は審神者の言葉を待った。
審神者は静かに黙り込み、今日弟弟子の本丸を回って見て聞いた内容を思い出す。己の思いこみとの食い違いを知り、己の姿勢の問題も散々指摘された。その中には、己の刀剣男士に言われた言葉に近いものもあった。
審神者は不思議であった。指摘された相手が違うだけで、こうも言われた側の印象が代わってくるのだろうかと。余所の本丸との違いは、審神者には耳が痛くなるようなものばかりだった。
「――お前は、他の皆とも連絡をとっていると言っていたな」
「おーよ。元気でやってんぞ〜。お前とあと二人は頑なに俺を拒否しているから知らんがな。他の奴らは元気にしてらあ」
「それは、お前が悪さばかりしていたからだろう。……とにかく、その、皆の本丸でも、僕の本丸のようになっている者はいないんだな?」
「いねえよ。そんな風になってんのはお前の本丸だけだ」
「……そうか」
言って、審神者は黙り込む。徐々に眉間のしわを深く刻んでいき、そしてついに、重苦しい声で口を開いた。
「――……僕は、皆への態度を間違えていた。だからそのせいで、本丸がおかしくなっているのだと思っていた。今までも、此処でも散々言われたが……それでも、やはり納得ができなかった。でなければ、僕など好かれるはずがないと、そればかりを思ってしまう。良い審神者になるべくやってきたことを好きと言われたところで、その好意は偽物だと疑ってしまうからだ」
まっすぐな視線を受けながら、審神者は静かに、丁寧に続けていった。
「指摘されても、それを受け入れることが出来なかった。それは色恋に触れて変わってしまうことが嫌だったからだと思っていたが――僕はもっと根底の部分を恐れていたのだろう。……そのことに、やっと向き合えた気がする」
審神者はすうと息を吸った。
「だからもう、その言葉で逃げるのはやめようと思う。――結果はどうあれ、僕は、僕のことを好きだと告げてくれた刀剣男士達と向き合おうと……そう、決めた」
飲みかけの茶でも入っていたのだろう、湯飲みを握って構えていた弟弟子は、審神者の言葉に驚いたように目を丸くした。また中身をぶちまけようとしていたのかもしれない。湯飲みの底をテーブルにつけて、それから、弟弟子は訝しげに審神者のことを見た。
「……つまり、どうするってんだ」
「…………具体的に、どうとは考えていないが、………向き合うとはどうすればいいのだろうな。お前知っているか」
「いや知るわけねえだろ」
それもそうだ。審神者は困り顔をして、はあ、とため息をついた。
「……お前が嫌じゃねえならまー止めねえが、分かってんのか? もしもお前があいつらと向き合ったとして、恋仲になったとして――お前に未来はねえんだぞ」
「……どういうことだ?」
深刻そうに口にする弟弟子に、審神者は静かに目を細めた。
「男同士は勿論、女だろうと刀剣男士との間に子が出来る事はない。お前は若いから実感がないだろうが、一生姿形の変わらん相手を番に選ぶってのがどういうことか本当に分かってんのか? こういっちゃ何だか、生産性は何もない。男同士だの刀剣男士との恋愛だの、当人が良いなら俺は首を突っ込みはしねえよ」
その声は真剣そのものであった。弟弟子の言葉を審神者は真剣に受け止め、茶化すような真似も遮るような真似もしない。弟弟子の言葉は、真実そのものである。言葉を選ばずに審神者に口にした理由も、審神者はよく分かっていた。
「――だが、お前には少なからず恩がある。だから言うが――お前は人間の女と恋をすべきだ。そして子を成して、未来を作るべきだ。その若さで諦めるな。後で後悔しても、誰も得はしない。今ならまだ――…」
言い掛けて、弟弟子は口を閉ざす。審神者の表情を見て、全てを察したようだった。
「何言っても無駄か――……」
「無駄、ではない。きちんと、お前の言葉は届いている」
審神者は、自嘲気味に目を閉じた。
「元より、この命はお国に捧げるためにある。家族など望んだことはなかった。今もこれからも、それは変わらない。だが、もしもこの身を、気持ちを渡す相手がいるとするのなら――……その相手は、きっと……」
それ以上は紡げず、審神者は瞼を開いた。渋い表情でいた弟弟子は、深いため息を吐き出した。
「で、刀剣男士と交際しようってか」
そうして投げやりに呟かれた言葉に、審神者はきょとんとする。話が食い違っているのか。弟弟子から、よく分からない発言が飛び出した。
「? 何故そうなる。そんなつもりはないが」
刀剣男士ときちんと向き合うと言ったが、刀剣男士と結ばれるつもりであるとは一言も発してはいない。先入観でもあったかと、誤解を解こうと口にした審神者に、今度は納得出来ないとでも言いたそうに弟弟子はぽかんとしていた。
「はっ? そういう流れだったろ今」
「いや、違うだろう。嫁を娶るぐらいならば、という話だ今のは」
「じゃあどうすんだよ。本丸戻ってお前何するつもりなんだ」
「それを悩んでいるんだろう。審神者だからという理由で断るのは止める、ということは決めたが……それ以上は何も…いや、何も決まっていないということはないが……」
うんうんと難しい顔で言いながら、審神者は口にする。
「――今の僕のままでは、何も出来ない。きっと僕の言葉も、本丸で信じてはもらえない。このまま手ぶらでは帰れない」
方向性は全く決まっていない。けれど、変わろうと決心しただけで、沸き上がってくる衝動があった。
余所の本丸と己の本丸を見比べて、己の認識がおかしいこと。ついでにいえば、己と刀剣男士との関係が普通ではないことも、このままでは状況は悪化するばかりであるという事も理解した。こうして実際に事情を知る余所の人間や刀剣男士と関わって初めて、審神者は強い決心をしたのである。良くしよう、解決しよう。そう思う度に状況を悪化してきた己の未熟さは承知していた。
「――……一応、考えはある。けれど、足りない。知恵を貸してくれ。どうも僕一人では、………相手の気を逆撫でして終わってしまうような気がする」
この弟弟子に頼ったことなど、審神者の人生において初めてのことかもしれない。弟相手に弱みを見せるような真似をしたことがなかった審神者であるため、非常に落ち着かない心地であった。
「お前にこんなことを頼む日が来るなど……どうかしているな」
胸の内に押さえ込むことが出来ずに、審神者は苦渋を舐めたような表情でそう呟く。露骨に嫌がっていた審神者の表情に、弟弟子は「なんだその嫌そうな顔は!」と文句を口にして、けれどどこか満足気に、口角を吊り上げた。
「いいぞ、言ってみろ! 今までの借りをきっちり返してやらあ!」
啖呵をきってみせた弟弟子だったが、審神者は感動することも感謝を前面に押し出すこともせず、嫌嫌そうに声を絞り出す。
「………頼む」
おそらく、刀剣男士には一度も見せたことがない表情である。その表情をみていても、弟弟子はにやついた笑みを引くようなことはしなかった。
(……不安しかない。だが、動かなければ。変わらなければ……)
皆に迷惑ばかりをかけるのは嫌だ。何より――これ以上加州清光という刀に、負担をかけたくはない。次に清光に会うときには、しっかりと己の考えを説明して、信じてもらえるような案を出したいものだ。審神者は小さく息を吸って、真剣な表情を浮かべたのだった。
「変わらなければ。いつまでも守られなければならないと思われるのは我慢ならん。刀剣男士にお守りされるのも、子供扱いされることも、女扱いされることも」
審神者だからと断るのでは意味がない。ならば、そうでない理由を持って断る必要がある。適当な嘘ならバレる。バレてしまう。ちゃんとした理由をもって、審神者は刀剣男士達に諦めてもらいたいと考える。
答えが、少しずつ形を鮮明に変えていった。
「つまり、何するってんだ」
「……一つ、助言された案がある。それを試してみようかと」
よく分からん、という表情で問いかけてきた弟弟子に、審神者はゆっくりと口を開いた。厨で三日月から受けたアドバイスを思い出す。
「僕のことが嫌になるまで、僕に付き合ってもらおうと思っている」
「……はあ?」
理解が追いつかないとぽかんとしている弟弟子の前で、審神者は真剣な表情で口を開き、詳しい説明を始めたのだった。
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