ついに、審神者にとって重要な一月が始まってしまった。

月を跨いだ瞬間から既に加州清光に惑わされていたが、今に至るまで審神者は誰にも好意を伝えておらず――無事かという点においては、まあそれなりに順調だったといえるだろう。何より、ここ二、三日は仕事があるからと、それのみに専念していたことが大きい。


(……だが、先はまだ長いな……)


護衛係が出来てからは二人きりになることを避けていた加州清光も、もう想いを隠す必要がないからと気持ちを表に出すようになった。加州清光に向ける感情が恋愛感情かどうかは、審神者にも判別は出来ていないところである。にも関わらず、加州清光という刀剣男士に審神者はことさら弱いので、いとも簡単にかき乱されてしまう。

そんな状態で、それでも今まで何も起きていないのは、仕事中は私情は持ち込まぬようにと念押ししていたことと、長谷部が出来る限り審神者のそばから離れようとしなかったことが理由としてあげられるだろう。おかげで、何とか口説き落とされる事態は避けられている状態といえる。


(予想は出来ていたが……心臓に悪い)


それでもふとした瞬間に熱の含んだ視線を送られ、交わす会話の端々に愛を含ませられれば、審神者はどうしても赤面してしまう。そうなると、それに気づいた長谷部が殺気立つため、二重の意味で心臓に悪いのだ。己で招いた状況とはいえ、この状況はたまったものではない。


(早く終わってくれ……)


加州清光に切なそうな表情をされるだけで揺らいでしまうほどの己が、長い時間かけられてしまえば、一体どうなってしまうのか。想像が出来てしまうが故に、胃がキリキリと痛むようなものだ。もはや、胸がときめく云々の話だけではない。やはり、多少は審神者にもストレスがたまっているのだろう。この一月を提案した立場であるが故に逃げることも愚痴をこぼすことも出来ず、審神者はふうと息をつく。

だが、やり遂げなければならない。途中で投げ出すようなことだけはしないと、審神者が自分でそう決めたのだ。

それぞれときちんと向き合うのだと言ったのだから、審神者はこの一月逃げることはしないつもりでいた。ただ、絆されて流されて返事をするような真似だけは避けなければと、それだけを己にしかと言い聞かせた。


[chapter:審神者は全て終わらせたいB]



――そして迎えた、非番の日。審神者にとって気が抜けぬ日である。今日は、小狐丸と過ごす予定が入っていた。

元々は、今剣と岩融と過ごす予定であった。だが、それを小狐丸と過ごす日に変えて欲しいといわれ、断ることができずその申し出を受け入れたのは少し前の話である。


(……だが、問題はないだろうな)


だが、審神者はそれほど焦ってはいなかった。相手が相手なのだから、少なくとも、加州清光や薬研藤四郎の時のようになし崩しになることだけは避けられるだろうと、そう考えていたのである。


(元々、小狐丸は僕のことなど好いてはいないしな)


小狐丸から向けられる好意は、個人に向けたものではなく、あくまで主である審神者を対象にしたものであると、審神者はそう考えていた。小狐丸が己に向ける好意は、審神者に向ける親愛が助長された故のものではないだろうか、と。

いつぞやに、審神者ではない部分も愛すると言われてはいたものの、審神者はそれを信じてはいない。負けん気から、勢いや口先だけで述べていることであると思っていたからである。


(出来ることなら、今日で区切りをつけてしまいたいが……難しいか?  難しいだろうな……小狐丸が他の刀と張り合おうとしていれば、やはりそう簡単にはいかないか)


朝、審神者はそんなことを考えながら、櫛を髪に通し、身だしなみを整える。あと少し伸びれば、堀川と和泉守に貰った組み紐で結えそうな長さになる。もうそれだけの月日が経過しているのだと思えば、少々複雑な気持ちになった。果たして己はあの時から前進しているのか、それとも後退しているのか。


「ぬしさま。失礼します」


さらりとした毛先を指先でつまんだ時、部屋の外から声をかけられた。それは審神者の返事を待たず、言い終わると同時に襖を開いてしまう。返事をする機会を逃して、視線だけを先に返すことになった審神者は、小狐丸の姿を確認すると小さく目を丸くした。まだ審神者が己の身支度をしている時間帯に、小狐丸が訪れることは珍しいことだったのだ。


「おはようございます」


審神者のその反応が予想通りだったのか、小狐丸はどこか楽しげだ。


「……おはよう」


返事は遅れ、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。

それは、小狐丸がこの時間帯に審神者の元へ訪れたこともそうだったが、小狐丸が隙もないほどに身支度を整えていたことに気をとられたからでもある。審神者に毎日手入れをして貰いにくるとはいえ、酷く乱れた髪で小狐丸が来ることはない。けれど今日は、自分でも手入れをしてきたのだろう、審神者の手など借りずとも良いとすぐに理解できるほどに、小狐丸の身支度は完璧であった。


「……今日はまた早いな? 毛並みの手入れかい…?」
「いいえ。それも良いですが……今日は違います」


審神者と二人で過ごせるとはいえ、なんとも不思議なこともあるものである。小狐丸は朝に弱いという印象があったせいだろうか。そんなことを思う審神者に、小狐丸は自身の胸に手を当てて、にこやかに審神者にこう切り出した。


「――ぬしさま、馬はお好きでしょうか?」
「……馬?」


随分と突飛もない話題である。
審神者は小狐丸の言葉の意図を考え――そして考えても意味がないことに気がついた。どちらにせよ、審神者の返事が変わることもないのだから。審神者は深く考えることをやめて、率直な返事をすることに決めた。


「……嫌いではないが。どうしてそんなことを? それに、その格好は…」
「私はまだ準備が残っておりますので。先に身支度を整えてきたのです。ぬしさまに毛並みの手入れをして頂くことも悪くはないのですが……今日は我慢することとしました」


小狐丸は目を細め、微笑む。そして、審神者の手をさらって柔い力加減で握りしめた。


「――ぬしさま、今日は馬で遠出をしましょう。幸い、良い天候に恵まれましたから」


提案に審神者は驚き、小さく目を丸くした。本丸で過ごすのだろうと思いこんでいた審神者だったが、まさか外に誘われるとは思ってもみなかったのである。ましてや、乗馬でとは。予想を大きく裏切られたようなものだ。

小狐丸は、微かに白い牙を覗かせて笑う。


「たまには外へ行くのも良いでしょう? ぬしさまは外へ出る機会が中々ありませぬ故、貴重な経験になるかと」
「……そうだな。だが、馬か……」


驚きはしたものの、審神者にとってそう悪い話ということでもなかった。普段は本丸から出ることのない審神者である。確かに良い気分転換にもなるだろう。
だが――懸念がある。審神者にとって、相性の悪い内容が含まれていた。審神者の表情からそれを察したのだろう。小狐丸がそっと、審神者の顔色をうかがうように口を開いた。


「何か不安でも?」
「いいや……不安というわけではないが」


口にするかどうか迷い、けれどどのみち知られるのだからと、諦めたように審神者はぽつりと呟いた。


「……馬に、乗れるだろうか。昔から、あまり生き物には好かれないんだ」


審神者にとっての体質である。幼い頃から、小さな生き物には好かれなかった。虫やネズミならばそれほど気にはならないらしく、特に避けられることもないのだが、ウサギや猫、犬のような大きさの生き物になると、途端に避けられたり逃げられたりしてしまう。


(馬は微妙な線だな……逃げられはしないだろうが……)


人員の足りない時――初期の頃は、審神者も馬の世話をしていた。だがその時の馬の反応とて微妙なものだったことを覚えている。逃げられたり怯えたりはしないものの、じっと審神者の反応を伺っていたようで。暴れはしないがやはり、距離はとられていたような気もする。

要するに、警戒されていたのである。


「ああ、そのようなことですか」


小狐丸は審神者の言葉に安堵したようであった。何だと思ったのだろうかと不思議に思った審神者がじっと小狐丸を見れば、それに気づいた小狐丸が口を開く。


「いえ……てっきりぬしさまは、私と外で二人きりとなることを懸念しているのと思いまして」
「……何故だ? 中も外も、大して変わらないのではないか?」


怪訝に思ってそう聞けば、ほんの少しの間を置いて小狐丸は審神者の腕を引き、そしてそのまま腰を抱き寄せる。そうしてそっと耳に唇を寄せられれば、審神者とて身構えるというもの。とにかくスキンシップの多い小狐丸のこと、あまりに良くない触れ方をしてくるのであれば、審神者もきつい言い方をしてでも制止しなければならないところである。


「――ええ、変わりません。私がぬしさまに想いを伝え、そしてぬしさまから良き返事を貰うだけです」


その瞳はぎらついていて、その奥には隠すつもりもないのだろう、審神者をなんとか籠絡しようと考えているだろう欲が切々と伝わってくる。審神者は唇の端を困ったように引き下げて、視線を小狐丸の顔から、その胸元に落とす。


「そうはならない。分かるだろう? 私は誰ともそうはならないのだから、お前も早く私に見切りをつけてくれ」
「ご冗談を。もはや時間の問題でしょう? ぬしさまはすぐに気を移す方ですので。私でなくてはならないと、必ず言わせてみせましょう」


これ幸いとつむじに触れる感触は、間違いなく小狐丸の唇だろう。審神者は尻軽だと遠回しに言われていることに物申したい気持ちがあれど、ぐっとその言葉を飲み込んだ。


「っ……だったら尚更、他を探すべきだとは思わないか。そんな尻軽を伴侶になどして、良いことなど何もないぞ。仮にお前を選んだとして、簡単に他に浮気をするかもしれない」


もうこの際、尻が軽いと言われてしまうことは仕方ない。否定することも、審神者はもう疲れてしまった。ならばもう、利用するくらいが丁度良いのではないだろうか。眉をキッとつり上げて、強気な視線を小狐丸に向ける。

審神者の言葉に不適に微笑む小狐丸は、更に審神者の体を引き寄せた。


「それは許しませんよ。私のものです。決して、遊びであろうと他の刀に触らせるつもりはありません」
「……お前のものではないが」
「これから、そうなるのですよ」


言っていることは物騒きわまりないというのに、その口調は飄々としていて、どこか穏やかでさえある。その矛盾に、戸惑いを覚える。しかし、小狐丸のこの自信は一体どこから湧いてくるのだろう。


「少なくとも、今日はぬしさまの時間は私のものでしょう。ぬしさま、これから外出となってもよろしいですか?」
「今からか? 朝餉は……」
「ささやかですが、用意しておきました。悟られて、誰ぞに邪魔はされたくなかったもので。そう遠い場所ではありません。ぬしさまさえ良ければ、今すぐにでも出かけましょう」


そう言われ、審神者は迷いを覚える。もしもここに誰かがいれば、きっと外で二人きりはよくないと指摘されるだろう。審神者自身もそう思う。小狐丸は衝動で行動を起こすところがあり、審神者から承諾を後回しにして強引に事を進めてしまおうというところがあった。
かといって、それを理由に断ってしまっては、しっかりとそれぞれに個人として向き合うと言った審神者自身の言葉が嘘になってしまうような気もしている。向き合うと言ったのに、逃げ回っていたのでは話にならない。


「……乱暴は、しないか?」


懸念があるとすれば、それである。小狐丸は感情が高ぶらなければそう悪さはしないのだが、如何せん、そうなってしまったときに、穏便に抑止することが非常に難しいのだ。

乱暴するつもりであろうとここで素直に肯定するわけもない。分かっていても、審神者は小狐丸の口から言葉を聞きたかったわけで。小狐丸もそれは分かっていたのだろう。


「ええ、もちろん。‘乱暴’は致しません」


返ってきた言葉は、どこか棒読みであったような気がした。案の定である。

審神者は少し考えた後に――考えること放棄して薄く笑った。考えていても仕方がない。どのみち、きちんと小狐丸にも向き合わなければならない。審神者だから応えることは出来ないと、その口上で断ることとてもう出来まい。避ける理由は、もうないのだ。

審神者は今日一日小狐丸と真剣に向き合って――その上で、しっかりと断らなければならない。


「……すぐ準備をする。その……着物しかないのだが、良いだろうか」
「ええ、構いませんよ。どうとでもなります」


このような時、洋装の方が向いていると思う。和装の方がしっくりくるという理由で持ってはいなかったが、一着ぐらいは、洋装も持つべきだったかも知れない。

見当違いの不安を見せた審神者の心中を知って知らずか、小狐丸はにっこりと笑ってみせた。











早朝の空気は澄んでいて、ひやりと審神者を包んでいた。比較的動きやすい着物に着替えた審神者は、少し早足で進む。審神者が準備をしている間に馬の用意をすると出て行った小狐丸とは、門のところで待ち合わせる手筈となっていた。


(少し、時間がかかってしまったか)


小狐丸の希望で離れから直接門へ向かっていた審神者は、少々複雑な思いだった。
後ろめたい思いを抱えてしまうのは、隠れて動いているからだろうと思いたい。審神者がこの期間を設け、それぞれと向き合う時間を作ると宣言した以上、後ろめたいことは何もないはずだが、それでも、審神者は思うところがあった。


(悪さをしているわけでもないのに、周りの目を気にしなければならないとは……)


正確にいうのならば、想いを告げられた時のことを思い出して、か。口説かれはしたものの、選んだわけではないからこれは浮気でもないのに、後ろ髪を引かれるような想いがあるのは何故だろう。


「……何もないからな」


誰も聞いていない独り言だ。一体誰に言い聞かせているのか。審神者は困り顔で息をつく。

実際、加州清光が相手でさえ、(今剣の邪魔が入らなければ非常に危うかったとはいえ)なんとか受け入れることなくこれたのだから、小狐丸が相手だとしてもなんとか断れるだろうという自信はあるのだ。
けれど、強く押されてしまうと絆されてしまう己がいることとてまた事実。加え、小狐丸は審神者が思っているよりも審神者に執着しているということもまた事実なのだ。もしかすると、それが後ろめたさの理由なのかもしれない。




――審神者はふと、この月の話を小狐丸に持ちかけた時のことを思い返した。



一、審神者が向き合うのはこの一月のみ。
二、その間は審神者であることを理由に断りはしない。
三、一月の間に審神者が受け入れなければ、審神者のことはすっぱり諦めること


他にも多くの話はしたが、ポイントとして理解して欲しかったのはこの部分である。小狐丸にこの話を持ちかけたとき、審神者は三日月のアドバイスの通りに、非常に傲慢に振る舞った。人間風情が思い上がりすぎだと、この話を小狐丸から一蹴してほしかった、という理由のためである。


『……成る程。ぬしさまはそのようなお考えなのですね』


プライドの高い小狐丸は、そのような申し出に耐えきれないだろうと太鼓判を押されたための策の一つであったが、効果は今一つであった。小狐丸は特に感情を揺らした様子も見せず、ふむ、と考え込むように沈黙を作った。

焦ったのは審神者の方であった。始終小狐丸は思考を働かせているようで
、審神者の言葉に乱されている様子はなかったのである。


『……まあ、どれだけ時間をかけたところで無駄だろうがな。そこまで私に好意を抱いているというのならば、短い間であれ相手をしてやろうという話だ。結果は変わらないが、私もいい加減、このお前たちとの関係を終わらせたいんだ』


駄目押しのようにそう言うが、小狐丸は審神者の言葉に特に反応を示さず、じいっと、審神者の様子を伺っている始末である。傲慢に振る舞えば小狐丸は途端に興味をなくすだろうと聞いていたというのに、話が違うとすら審神者は感じた。手応えというものがまるでなかったのである。

ふいに、小狐丸が穏やかに微笑んでみせる。そんなタイミングではなかったのにと、審神者の方がびくりと反応してしまった。


『構いません。その話に乗りましょう。要するに、期間内にぬしさまの首を縦に振らせれば良いのでしょう?』


妖しく細められる瞳は確かに審神者をとらえ、そして、既に脳内では何かを得ていたようであった。ぞっと背筋に冷たいものが走ったのは、きっと気づかぬ方が良い何かがあったからに違いない。








(……大丈夫だろう。小狐丸とて、何も、乱暴な真似はしないはず……)


何もしないと言葉も貰ってある。そんな形で審神者に首を縦に振らせるなどしないはず……という希望を抱きながら、審神者は門へとたどり着いた。
既に馬を引いていた小狐丸は、審神者がそばに来ていることを確認すると、にっこりと微笑んでみせた。何が恐ろしいといえば、それは審神者からの申し出を受け入れたときと同じような微笑みであったという点である。明らかに、何かを企んでいる。


「ぬしさま。無事にたどり着けたようで」
「本丸の中だよ。迷いなどしない」
「……ええ、そうですね。では、此方へ」


手のひらを差し出されて、誘われるがままに審神者は近づいていく。そのまま手を重ねれば、優しく、けれど力強く握り返された。


「温厚で賢い馬を連れてきました。きっと、ぬしさまに心乱されることもないはずです」
「……そうか。ああ、浮雲だな」
「はい」


艶々とした黒の毛並み。ガラス玉のように光を乗せた瞳は審神者のことをじっと見てはいるものの、避けている様子がない。この馬――浮雲は、昔から審神者の本丸にいる馬であり、新しく来た馬と比べると、審神者とも多少なりとも関わりを持っている馬でもあった。

審神者の言葉を聞いたからこそ、この浮雲を選んだのだろう。小狐丸の気遣いに感謝をして、審神者は、おそるおそるであるが、浮雲の顔をのぞき込んだ。浮雲は審神者の様子を伺い、けれど拒絶することもなくそこに居る。


(少なくとも、今は怯えている様子はないな)


審神者の感じた通り、浮雲は審神者に触れられても逃げようとはしなかった。

好かれている反応とはとてもいえない。けれど、恐れられてもいない。それだけで、審神者にとっては十分だった。


「馬は賢いですから。恐れ多くてぬしさまに懐けないのですよ。決して、嫌っているわけではありませぬ」


そっと、撫でていた審神者の手を小狐丸がさらってしまう。そのまま手の甲に口づけられて、審神者の視線は馬から小狐丸に移った。小狐丸は審神者と目が合うと、満足そうに口角を引き上げる。


「ですが妬けますので、そろそろ私を見てもらえますでしょうか?」
「……今触れたばかりだが……?」


一分どころか、三十秒にも満たない触れあいだったはず。長い間放置していたかのような反応に、審神者はそう言わずにはいられなかった。ふざけているのならばともかく、本気でいっているのであればなんという独占欲だろうか。呆れたように言えば、小狐丸は関係ないといわんばかりに、審神者の手のひらに頬ずりをする。


「今日は他の誰にも、ぬしさまを渡すつもりなどないのです。相手が馬であっても関係ありませぬ」
「そういう感情がないと分かっていてもか?」
「ええ。その相手が私でないだけで、妬く理由には十分です」
「……お前は、少し独占欲が強いのではないか?」
「おや、今頃気づかれましたか?」


くすりと笑って、小狐丸は審神者の腰を引き寄せる。そのまま自然な動きで上から額に口づけられた審神者は、困ったように表情をつくった。対小狐丸であるとすっかり慣れてしまった行為だが、審神者が何も感じないと分かっていても、小狐丸は触れてくることをやめるようなことはしなかった。


「……いくら触れたところで、私は」


決してお前を選んだりはしないのに、と。
無駄なことだと言い掛けた時、そのまま唇を塞がれた。審神者の顔が上向くように、審神者の手を掴んでいた指は、いつの間にか、審神者の顎に添えられていたのである。


「………」


数秒触れて離れた唇は、微かに熱かったような気がする。
少しだけ離れた状態で、それでも、小狐丸と至近距離で目が合うと、審神者はそれ以上何もいえなかった。


「では、参りましょう。ぬしさま」


審神者の体を解放してそう口にした小狐丸に、審神者は今し方触れられた唇を指先で隠しながら頷く。まるで挨拶のように触れてくるものだから、審神者もさほど動じない。けれど、誰の目もない、邪魔もされない場所で触れられた時、己は今までのように対応できるだろうか。

少しの不安と、加州清光のことを思いだす。審神者は、不安げに唇を引き結んだ。








門から離れ、本丸を遠くから見やる。扉の設定さえいじらなければ、本丸の外は自然ばかりが広がっている。審神者御用達の町などには繋がらず、もちろん他の本丸にも繋がりはしない。


「ぬしさま。しっかりと掴まっていて下さいね」


着物のために馬に跨がれず、手綱を握る小狐丸の前で横向きに座る審神者は、小狐丸の胸にしがみついた。


「すまない……私がもっと格好に気をつけていれば、早く進めたのにな」
「気になさらないで下さい。急いでいるわけではありませんし……私にとって大切なのは、こうしてぬしさまといる時間ですから」


それより、と続けながら、小狐丸は審神者に向けて口を開く。


「姿勢が安定しないでしょう? 落とすつもりなどありませんが、念のためです。くれぐれも暴れず、私から離れないで下さいね」
「ああ。だが、邪魔になっていないか? 大丈夫か?」
「問題ありません。言ったでしょう? 浮雲は賢い馬です。ぬしさまのことも考えて進んでいますよ。後はぬしさまがどれだけ大人しくしておけるか、でしょうか」
「心配せずとも、暴れるつもりはないぞ」


念を押すように言われたことで、審神者はふっと笑ってしまった。そして、視線を浮雲に移す。この位置からではたてがみが見えるくらいで、その表情や目などを見ることなど出来ない。けれど手綱を握っている小狐丸がそう言う位なのだ。審神者が思っている以上に、賢い馬なのだろう。


「……小狐丸」
「はい」


今更ながらに、じんと胸が熱くなる。まさか己が馬に乗れる日が来ようとは思わなかったからである。


「実は、初めてなんだ。馬に乗ったのは」


頭を小狐丸の胸にもたれさせたまま、審神者は感慨深そうに目を細めた。思えば、毛並みに善し悪しがあるような生き物には好かれた試しはなく。近づけば逃げられ、怯えられることも多々あった。

いつしか、審神者は生き物への接近を避けるようになり――鳴狐のキツネも、獅子王の鵺も、五虎退の虎も。刀剣男士と共に顕現された生き物は審神者を怖がらないと知った後も、審神者は触れようとすることができなかった。大丈夫だと、害はないと言われたとて、自ら進んで触れることはなんとなく気が咎めたのだ。


「一度も…?」
「ああ、一度もだ。どうしても怯えさせることが多くて、生き物に近づくことも避けていた」
「ぬしさま自身は、生き物が苦手なのですか?」
「いいや。そんなことはない」


昔、こんのすけにも尋ねられたことがある。生き物が嫌いなのかと。そんなことはない。だが、傷つけたくないから遠ざけている。と、そう答えたような気がする。そういえば、それからしばらくして、審神者が変わろうと決意し、そして五虎退が審神者のいる離れに迷い込んできたのだったか。その時、初めて審神者は五虎退の虎に触れたのである。


「ただずっと、機会を逃して生きてきたんだ」


思考が脱線してしまった。審神者は柔らかく微笑み、小狐丸のことを見上げた。


「だから、こうして近づけることが嬉しい。連れてきてくれてありがとう、小狐丸」


おそらくは、一生乗ることもなかっただろう。四足で進む馬は、それぞれの足を個々に動かして進むために、振動が体に響いて姿勢が安定しないこと。小狐丸が審神者を支えてくれなければ、すぐに落ちてしまいそうになること。それらを、知識ではなく経験として審神者の中に取り入れることもなかっただろう。

審神者の言葉に小狐丸は少しだけきょとんとした表情を見せ、審神者はそれを不思議に思う。何か失言をしただろうかと考えた審神者に、小狐丸はふふっと吹き出した。


「小狐丸…?」
「ああ、すみません。ぬしさまがあまりに可愛らしいので……つい笑ってしまいました」
「……どこも可愛くなどないが」


審神者としては、ただ礼を述べたかっただけである。笑われたかったわけではなく、やはり納得もいかない。


「……機会がなければ、馬に乗る機会などそうないんだぞ。最前線に直接人間が戦いに行く時代でもなくなったのだから」


もしも人間が過去に出向き、時間遡行軍と戦えたのであれば、刀ではなく銃火器を用いていたに違いない。おそらく、馬に乗って戦いはしなかっただろう。だから乗馬の経験がないことはそう珍しいことではないと思う審神者であったが、刀剣男士の感覚から考えれば、頓珍漢なことを言っているように感じたのかもしれない。


「いいえ。可愛らしいといったのはそこではなく……」
「? ……では何を…?」


そう問えば、小狐丸は少しご機嫌に言葉を紡いでいく。


「これから私に何をされるとも知らず、無邪気に笑うぬしさまが愛しく思えた、という話です」
「……何をする気なんだ?」
「さて、どうしてくれましょう。連れ出したばかりにも関わらず、もう終わった気でいるのですから。私の心も知らず……少しぐらい、許されると思いませんか?」
「だから、何をする気なんだ……」


さすがに冗談だろう、と思うのだが、如何せん確信はない。小狐丸は行動が読めないところが多く、審神者も上手に対処できないこともあるのだ。どこまで本気なのかは、審神者にも分からない。困り顔で、審神者は眉間にしわを作る。


「私がぬしさまを連れ出したのは、邪魔をされたくなかったからですよ。この一月、表だって邪魔はしないと暗黙の了解が出来ているとはいえ、皆が皆、大人しくしているわけではありませんから。一体どんな手を使われることか……」


初めて聞く情報である。審神者はぱちぱちと瞬きを繰り返し、考え込むように口を開く。


「……それは知らなかった。確かに、言われてみるとそのような気もするが……そんな規定ができていたのか?」
「相変わらず、ぬしさまは鈍いお方ですね。そこがまあ、愛らしくもあるのですが……」


ふっと笑い、そしてそれはすぐに真剣な表情に変わる。その変化に気をとられた審神者に、小狐丸は続けて言った。


「私が貴方を口説き落とすために連れ出していることを、決して忘れぬよう」
「っ……そう、だったな」


一瞬頭から抜け落ちてしまっていた。改めて言葉にされてしまうとどんな表情をしていいかわからなくなってしまって、審神者は小狐丸から逃げるように視線を逸らし、そのままぽすんと頭を小狐丸にもたれさせた。


「……馬を選んだのは間違いだったかもしれません。こうも揺れていては、ぬしさまを押し倒すこともできな…」


一際、大きく揺れる。浮雲が嘶いて、ペースを乱したらしい。おそらく、わざとである。慌てて審神者が小狐丸に強くしがみつき、珍しく小狐丸が動揺した声で呟く。


「……聞こえておったか」


耳の良い奴じゃと拗ねたように言う小狐丸に、審神者はくすくすと笑う。


「確かに、浮雲は賢いな。小狐丸の言う通りだ」


そう言う審神者は、小狐丸に体を預けたまま、浮雲のたてがみと、ゆっくりと移り変わる景色に視線を向ける。最初はどうなったものかと不安もあったが、なんだか、何とかなりそうな気がする、と考えるのは気が早いだろうか。

小狐丸に警告されたばかりというのに、審神者はそんな風に楽観的に考えていた。これから、何をされるかも知らずに。


[newpage]


そうして連れて行かれた場所は、小さな滝の見える川辺であった。水底の石さえ鮮明に確認できるほど透き通った水と、風に揺れる木々のざわつきが心地よい。


「すごいな……こんな場所があったのか」


少し奥にある小さな滝は、そばに近づけばきっと、轟音が響いていることだろう。その周囲には座るに手頃な大きさの岩が並んでおり、水気を含んだ空気が一帯の気温を低くさせている。

先に浮雲から降りた審神者は、滝を遠めに眺めながら、小さな砂利と石が敷き詰められた地を、足裏で踏みしめながら歩いていく。滝から流れ行く川の辺にたどり着くと、改めて、その水の透明度に感心した。


「綺麗だな…」


思わずそんな言葉がこぼれれば、背後から小狐丸が声をかけてきた。


「ええ。良い場所でしょう? それより、ぬしさま。あまり遠くに行かれませんように」
「心配ない。ここにいる」


振り向かずに答え、川辺で屈んで水底をのぞきこむ。手のひらで川の水をすくいあげれば、このまま飲むことも出来そうなほど綺麗な水に目を奪われた。

審神者は本丸から出ること自体そうなく、このような開けた場所があることなどもちろん知らなかった。当然、このような光景も珍しいものである。


(外に出たことなど、小夜を迎えにいった時ぐらいだ。それも、このような穏やかな場所ではなかったが…)


浮雲を引いた小狐丸が、屈んだ審神者の隣に並ぶ。


「その様子ですと、この場所に来たのは初めてのようですね」
「ああ。お前はよく来るのか?」
「ええ、たまに。良い場所でしょう?」
「そうだな。とても良い場所だ」


審神者が横を見れば、小狐丸を挟み、浮雲が水を飲んでいるところであった。ここまで小狐丸と審神者の二人を乗せてここまできたのだから、疲れていたのだろう。そしてその先にこのような綺麗な水があれば、当然の行動ともいえる。それを見て、審神者は目を細めた。


「浮雲も、ここまで大変だっただろうに」
「大丈夫ですよ。たくましい馬です。普段は戦場を駆けているのですから。ぬしさまと私を運んだぐらいでは何ともありませんよ」


労うように手を伸ばし触れようとした審神者の手は、早い内に小狐丸にさらわれた。そのまま繋がれてしまった手に、審神者は呆れてしまう。


「……嫉妬か?」
「はい」


すんなりと認められてしまっては、それ以上何も言う気になれない。いっそ笑ってしまいそうになる。実際小さく笑って、審神者は小狐丸の手の中から己の手を引いた。今度は小狐丸にそれを止められることもなく、審神者は手を膝の上に置いて、また川の中をのぞき込んだ。


「魚もいるな」


小魚がゆらゆらと漂うように泳いでいて、審神者はそれをぼんやりと見落ろす。特に明確な目的があるわけでもなく、小魚の行方を見守っていただけである。小狐丸が引いているのだろう、小狐丸と共にゆっくりと浮雲が離れていく気配がしたが、審神者は顔を上げなかった。


(……蟹)


よく見れば、水底を進んでいる蟹がいた。水の流れにも負けることなく、着実に移動している蟹を眺め、そしてそれは再び審神者の隣に小狐丸が来るまで続いた。小狐丸は審神者と同じように屈み、審神者の肩を抱いて自身に引き寄せた。


「楽しいですか?」


そしてそう問うてきた小狐丸は、審神者の視線を共有しようとしているのだろう、審神者と同じように蟹を目線で追っている。つい見入ってしまっていた審神者だが、楽しいのかと聞かれれば、少し返事に困った。


「……ん、というより、新鮮なんだ。魚など、池で鯉が泳いでいる様を見る以外で目にすることもなかったからな」
「ぬしさまは、外には出ませんからね」
「そうだな」


小狐丸の肩に頭を預けたまま、審神者は問いかける。


「浮雲はどうした?」
「休ませていますよ、あちらで。気になりますか?」
「そうだな。随分と長く付き合わせてしまったから」
「問題ありません。ぬしさまはあれを気にしすぎですよ」
「お前が連れてきた馬だろう? そんなに意識することもないだろうに」
「それとこれとは、また別の話なのですよ」


呆れたような口調で言う審神者に、ふっと小狐丸は笑ってみせる。そうして、口を開いた。


「そろそろ朝餉にしませんか?」


しゃがみこんだままそう言う小狐丸に、審神者は朝何も食べていなかったとを思い出した。ああ、と声をこぼして、小狐丸に笑いかける。


「お前の手作りだったな」
「はい。握り飯ですが、私が手づから作りました。ぬしさまの料理には到底及びませんが、食べれぬ味ではないかと」
「そんなことはないだろう。楽しみだ」


これは審神者の本音であった。そもそも審神者のために手間暇をかけて用意された食事が、嬉しくないはずがないのである。それが何を目的としたものであっても、この際あまり関係はない。
何より、最近いろいろと考え込むことが多かった審神者にとって、この外出が良い気分転換になっていることは確かだった。

審神者は、己の肩に置かれた小狐丸の手の甲を撫でてから、その場を立ち上がる。そして続くように腰を上げた小狐丸の袖を指先でつまんで言った。


「小狐丸、彼方で食べないか? 景色が良さそうだ」


どうせなら景色の良い場所で食べた方が気分も良い。ここから少しだけ滝に近づいた場所に、丁度良い大きさの岩があったのである。そこでなら、砂利の上に座るより、きっと気持ちが良いはず。
岩を指さして口にした審神者の様子に、小狐丸は少々面食らったような表情を見せながら、けれど素直に頷いてくれた。


「はい。では彼処で食べましょうか」


にっこりと微笑む小狐丸に、審神者もそっと目を細めたのだった。







自信がなさそうな小狐丸の物言いではあったものの、出された握り飯はきれいな三角であった。見た目は申し分なし、審神者にとって食べやすい大きさで、塩味もちょうど良い。


「――美味しいよ、小狐丸」


一口食べてそう言うと、小狐丸はまだ口をつけていない握り飯を片手に持ったまま、「それは良かった」と口にして、表情を緩める。


「まだまだありますから、思う存分食べて下さいね」
「ああ、ありがとう」
「喉に詰まらせてはいけませんから、水もどうぞ」


妙に甲斐甲斐しい小狐丸に、審神者は笑ってしまった。どちらかといえば、小狐丸は審神者に甘えることの方が多い。こうして審神者の世話を焼こうとする刀剣男士ではないため、妙に新鮮な気持ちになってしまう。


「今日はやけに甘やかしてくれるな」


身構えていた己がちょっとおかしくなる。口説くといわれていたものの、予想していたものと違っていて、なんだか不思議な感覚だった。小狐丸がいつもと違う印象に見えてくる。

小狐丸は審神者の発言にきょとんとして、不思議そうに首を傾げた。


「……ただこれしきのことで、甘やかされていると思うのですか?」
「え?」


今度は、審神者の方がきょとんとする番であった。


「……ああ、言われてみると、そうか……?」
「ぬしさまは日頃から、皆に甘やかされているものと思っておりましたが」
「そんなことはないと思うが……」
「ありますよ。ですから、この程度で甘やかす、など。私の方が驚いてしまいます」
「そうか……」


冷静に言われると、そんな反応になってしまう。


(これは甘やかされるの内に入らないのか…?)


ここまで連れてきてもらって、朝食も用意して貰って、それだけでも十分、審神者にとっては甘やかされているような感覚だったのだけれど。改めて指摘されると、考え込んでしまいそうになる。


「作ってもらったものを、連れてきてもらった場所で食べるのは初めてだったからな。だから、そんな風に感じてしまったのかもしれない」


小狐丸がどんな思いで審神者をここに連れてきたのか知っているはずなのに、呑気が過ぎたかもしれない。


「……少し、浮かれていたようだ」


少し気まずくなって審神者はそう呟くように口にすると、誤魔化すように握り飯を一口食べる。程良い塩味と米の旨味がちょうどよくて、美味しいけれど、どこか上の空で咀嚼してしまう。
これ以上この話が続いてしまうことが嫌で、けれど違う話題に振るようなことも出来ない審神者のことを、小狐丸は片膝をたてたまま見つめていた。


「……ぬしさま。食べ終わったら、辺りを散歩しませんか? 何度か訪れた場所ですので、詳しいのです。木の実の生っている場所や鳥の住処、それから泳ぐに適した場所も知っております。普段外に出ないぬしさまにとっては、良い気分転換になるかと。きっと楽しんで頂けます」


その申し出を審神者が断る理由などなく。審神者は喜んで頷いた。


「それは楽しみだ。よろしく頼むよ、小狐丸」





そうして朝食をとりおわり、荷物をまとめた後、審神者は小狐丸に案内されて川辺を下っていた。その途中で小狐丸に綺麗な花が咲いている場所や、鳥の巣などを教えてもらいながらのんびりと歩き進める内、程良く肩の力が抜けていった。


「随分と詳しいんだな。よく来るのか?」
「ええ。町に出るのも嫌いではありませんが……やはり、こちらの方が落ち着きます。打たれた時代のせいかもしれませんね」


大丈夫と言ったが、転んだら危ないからと押し切られて繋いだ手は、今も離れずにいるままだ。別にすぐ転ぶほど鈍くはないのだが、こういう扱いも慣れつつある審神者である。審神者よりも大きな手のひらを、長い指先を、審神者の方からも離そうとはしなかった。


「良い場所でしょう? 夏には水浴びも出来、秋には紅葉も色づきます。ぬしさまがお気に召したのなら、是非、またここへ訪れましょう。また、馬に乗って」
「……それは良いな。きっと、楽しいだろう」
「ええ、それはもう」


審神者の歩幅に合わせて進む小狐丸は、審神者の返事に、嬉しそうに目を細めて笑った。


「ぬしさまさえ良ければ、乗馬の手ほどきもしましょう。そうすれば、もっと遠いところにも行けますから」


その申し出に、審神者は少しだけ顔色を明るくして、唇を緩ませた。


「それが出来たら、きっと楽しいだろうな。私に乗れるかどうかは分からないが……」
「出来ますよ。出来るまでお付き合い致しますから」
「面倒見が良いんだな。だがきっと、苦労するぞ。私は、生き物との相性が良くないから」


きっと難しいことだろうことは分かっている。けれど、そんな未来があったのなら、どれだけ楽しいことだろう。本気にとらずに冗談として流しながらも、審神者は想像して浮かれてしまいそうになる。


「構いません」


繋いでいた手に、今度は指が絡められた。審神者はそれに気づき、けれどその手を振り払うことはしなかった。


「そうか。ありがとう、小狐丸」


ただ、優しくそう返事をするだけに留めた。


(……楽しい、な)


ゆっくりと流れていく時間がとても穏やかで、心地が良い。小狐丸に連れられて――と警戒をしていたことが無駄に思えるほど、審神者は外を満喫してしまっていた。
何のために連れだしたのか忘れるなと釘を指していたとは思えないほど、小狐丸はその手の話題を出さずにいた。


(このままで良いのだろうか?)


良いか悪いかでいえば、良い状況に決まっている。少なくとも、審神者にとってはとてもありがたい状況のはずだ。


「……小狐丸」


藪をつついて蛇をだすようなことはしたくない。けれど、確かめたい。一体何を考えているのか把握しておきたいと思ってしまう。その気持ちが抑えきれず、審神者は小狐丸が新しく見つけた鳥を指で示している間に、小狐丸の衣服を指で引いて視線を己に向けた。


「その……良いのか? 私は楽しいから構わないが」
「はい? なんの話でしょうか?」


しらばっくれているようにも思えるが、そうともとれない反応である。これで通じないほど小狐丸が鈍いとも思えない審神者は、困り顔を浮かべつつ、もごもごと口を開いた。


「口説かないのか…?」


こうして言葉にすると、己が酷く傲慢に思えてきてしまう。言いようのない気まずさにじわじわと羞恥に苛まれ、審神者は視線を泳がせた。小狐丸がこれといった反応を見せないことが、かえって審神者を焦らせてしまう。


「その……お前にその気がないのであればそれで構わないんだ。けれど楽しくて、忘れてしまいそうになるというか、これで良いのかと、少し心配になる」


言い訳のように付け足されていく蛇足。情けなさを客観的に自覚できているにも関わらず、挽回や撤回が出来ない審神者である。


「ぬしさま」


呼ばれ、審神者は肩を強ばらせた。ただ、小狐丸のことを素直に見るにはまだ度胸が足りず、頬を撫でられ、顔を向けさせられるまで目をそらしてしまっている始末で。

ようやく目が合った小狐丸は、優しく微笑んでいた。


「ぬしさまは幼子のようにはしゃいでいたので、てっきり忘れてしまわれているのかと思いましたが……」
「……そんなことは――……少しは、あるか」
「ええ、そうでしょう」
「だが幼子は言い過ぎだ。そこまでではない」
「そうですか? 私の目には、幼子が楽しんでいるように見えましたが。それで、ぬしさまの方は口説かれる準備が出来たのでしょうか?」


からかうように唇を寄せて、小狐丸は審神者の反応を伺う。楽しそうに細められた目に、審神者はぐっと言葉に詰まってしまった。


「別に私は……お前に口説かれずとも構わない。そう言っただろう」
「その割には、気にしていたようですが」


ぬしさま、と呼ばれ、審神者は小狐丸をまっすぐと見上げて言葉を待つ。


「ぬしさまは以前、審神者でない自分は空っぽなのだと、好かれるわけがないとそう仰っていました。ですから私は今日、審神者ではない貴方をみたいと、外に連れ出すことにしたのです」


審神者の両手を、小狐丸が両手で包みこむ。その手は審神者の手よりも大きく、温もりが直に伝わってくる。


「……覚えていたのか」
「忘れません。貴方は頑固で、自分に向けられる好意を疑ってばかり。無碍にあしらわれてばかりで、焦れったいと思うことも多く……ならば見せて貰おうと思ったのです」


強引に触れられているわけではない。はねのける理由もなく、審神者はそれを受け入れる。


「こうして本丸の外で貴方を見ていて――何故貴方はこうも自分を卑下するのかと不思議でした。私の目には、無邪気にはしゃいでいるようにしか思えなかったもので」
「……お前と二人でいるのに、無闇に当たり散らかすわけがないだろう? 必要でないから、汚い側面が出てこないというだけだよ。小狐丸」


確かに、言った覚えがある。審神者である以外に、己の中には何もないと。それは間違いない。間違いないのだ。だがそれは、その本性は、審神者に危害を与えようとは考えていない刀剣男士を相手に出てくるものでは決してない。


「そうですか。……でしたら、今一度、貴方の出自についてお話を聞かせて頂けますか?」


思いも寄らぬ提案に、審神者は小さく唇を開き、そして静かに眉を寄せる。


「そんなものを聞いたところで何の意味もないだろう? お前が得るものなど……」
「ありますよ。私は、貴方があの時言った言葉の意味を知りたいのです。貴方が空っぽであると宣う心中にあるだろうものを。それを知った上で、私が貴方を愛していることを理解して欲しいと、そう思っています」


審神者はわずかに目を見開き、そして目を伏せる。
物好きなことを。なんて考えながらも、審神者は迷う。わざわざそんなことをせずとも、と思う反面、話せばきっと小狐丸は己に対する興味を失うことだろうと、そんな風に考えてしまうの己もいた。


「……つまらない話だよ」
「構いません。それが貴方自身の話であるのならば」


正直にいえば、気が進まない。隠していることではないが、進んで詳しく説明したいことでは決してなかったからである。けれど、ここで小狐丸が素直に引き下がることなどないだろう。ここまで連れてきた小狐丸は、きっと、審神者以上に多くのことを考えてきただろうから。


「分かった……なら、話そう」


ぽつりと、審神者はつぶやいた。

どうせ、話し終わる頃には小狐丸との関係も終わっているだろうと、そんなことを考えた。



その後、審神者の出自について詳しく知りたいと言った小狐丸は、始めにたどり着いた滝壺まで戻り、握り飯を食したあの岩の上に座り込んだ。
そしてその隣に座ろうとした審神者の体を引き寄せるや否や、膝の上に横抱きに座らせてしまったのである。


「……この体勢は必要なのか?」


顔をしかめてそう問いかける。いつもの、小狐丸の毛並みの手入れをするときの体勢である。慣れてはいるものの、本丸ではなく外でそれをやっているという事実が、普段よりも審神者の羞恥を煽っている。


「岩の上に座らせておくわけには参りませんから」
「気にしないぞ」
「ぬしさまが良くとも、私が気にするのです。どうかこのままでお話下さい」
「先はそのまま座ったじゃないか…」
「長くなりますので」


ぎゅうと審神者の体を抱きしめながら、しれっと言う。そんなものは建前で、目的が違うことなど審神者にとてわかりそうなものなのだが。おそらくは、それも承知の上で口にしているのだろう。


「……つまらない話だぞ。それに、どこから話して良いか……」


審神者には輝かしい過去も、忌まわしい過去もない。少しばかり出自は特殊かもしれないが、特に面白おかしく語れることもない。平凡で、つまらない話。小狐丸が得られるものなど一つもないだろうと思うのだ。だからこそ、小狐丸に話して興味をなくしてもらうには必要なのかもしれないが。


「時間はあります故、ゆっくりとお話下さい。ぬしさまが必要だと思うことを話して下されば、それで良いですから」


流れるような自然な動きで、小狐丸は審神者のこめかみに口づける。そして、真剣な声色に乗せて口を開いた。


「ただ――その話を終えた時、私がぬしさまに幻滅していなければ、その時こそ私の気持ちを受け取ってもらいます。審神者だから、主だからといった言葉に逃げないでください」


そんな心構えで聞かれるとなると、話す側の難易度もあがるというものではないか。妙に焦ってしまう審神者に、小狐丸は先ほどまでの穏和な雰囲気はどこへいったのか、好戦的に目を光らせて不敵に笑った。


「貴方が言う貴方と、私が見る貴方があまりに一致しないのです。貴方の自己評価など、当てにならない。ですが、貴方の心を、まずは知っておきたい。貴方は私が戯れで口説いているとお思いかもしれませんが――そんなことはないと、知っていてほしいのです」


その言葉に審神者は戸惑い、眉間にしわを寄せてしまう。


「……私には、好かれるほど特別なことなど何もないと言っているんだ。お前を疑っているわけではない。ただ、刀剣男士以外に好かれたことなどないことが、その証明だろうと……」


そうぼやくようにつぶやいた審神者に、小狐丸は今度は不機嫌に目を細める。


「そうでしょうか? 確かぬしさまは、どこぞの馬の骨に付きまとわれていたそうですが」


何をいけしゃあしゃあと。そう言いたげな視線であった。同時にその馬の骨が示す存在が誰かという点において、審神者には心当たりがあったために、カッとしてしまう。件の審神者については、聞きたくもない話であり、知られたくもない話であった。


「っ……またその話か! 本丸に広める話ではないというのに――忘れてくれ、そんな話など覚えておく必要はない」
「いいえ、必要です。好かれている自信がまるでないぬしさまは、我々で守る必要がありますので。これは皆の総意ですよ。既に相手の風貌も通達されています」


初めて聞く情報に、審神者は小さく口を開けた。例の審神者についての情報が全員に通達されている、までは審神者も理解してはいたが、まさか風貌まで広まっているとは思っていなかった。どこまで本気だというのだろう。少し絡まれただけの話ではないか、と。


「和泉守と堀川か」
「はい。あのような優男、ぬしさまには似合いませんよ。ましてや、ぬしさまに乱暴を働こうとは……」
「乱暴というほどでもない。少し、絡まれただけだ」
「同じ事。あれらも手ぬるい……骨ぐらい折っておけばよいものを。無傷で返しおって」
「やめろ。必要があれば私自身で対応する。お前たちは何もしなくて良いんだ」


言えば、つまらなそうに小狐丸は眉を寄せる。


「出来ると思えませんが」
「相手が人ならば問題ないと言っている」
「ふふっ、ぬしさまは自己評価が高いのか低いのか……不思議な方ですね」
「私はただ事実を……」
「そうですか。まあ、その話はまた今度で結構ですよ」


つぶやき、急かすように小狐丸は審神者の体を自身に引き寄せる。審神者の訴えをじっくり聞くつもりはないらしい。


「それよりも、聞かせて下さい。貴方が、私のぬしさまになる前の話を――」


あくまで、審神者の出自について問う小狐丸に、審神者はぐっと黙り込んだ。言いたいことは確かに色々とあるが、ここで言っても聞き入れてはもらえないだろう。


「……わかった」


件の審神者については、後でよくよく言い聞かせることにする。審神者は、諦めたようなため息をついた。


「そう難しい話ではないよ。私は、生まれつき霊力に恵まれていてな。赤子の内に国元に引き取られたんだ。そこでお師匠様に引き取られ、審神者となるまで育てられた」


視線を小狐丸からそらし、体重を預けるようにしながら、審神者は流れ落ちる滝の流れを眺める。


「他にも同じ境遇の子どもが集まっていてな、私は、兄弟子という立場で日々を過ごしていたんだ」


その音と景色に意識を少し預けながら、審神者は続けた。


「お師匠様は立派な方だった。国のために戦える喜びも、その心構えも私に教えてくれた。審神者としての正しき振る舞いも、刀剣男士の尊厳についても――兄としての在り方も、人生と命の使い方も全て」


幼き頃から繰り返し教わってきた日々を思い返し、ふっと目を細める。


「教わってきたこと全て、間違いでないと今でも思っている。だがそれは、弟たちに言わせればおかしいものではあるらしい。何度も薄情だと言われ、大切なものが欠けていると評されていたから」


中でも八という男からは、散々言われてきた。何もかもがおかしい。審神者としての生き方も兄としての在り方も、お前のそれが正しいわけがないと。個人的な好き嫌いでいえば間違いなく嫌いな部類に入る男だ。けれど、あれは人を見る目はある方だと思っている。だからこそ、あの弟弟子の周りには人が常にいたのだろう。


「情がないわけではないでしょう。ぬしさまはただ、知らなかっただけでは?」
「……お前に限ったことではないが、私に対する評価が甘いな。長く暮らしてきた者が、繰り返し私に忠告することだ。それはきっと正しい」


言葉で伝えるとなると、やはり足りない。元々口が回る方でもないのだ。己がいかに好かれる器ではないかと伝えられる気がせず、歯がゆい思いで、審神者はため息をつく。


「お前に見せてやれたら良いのだが……口で伝えるのは難しいな」


そうこぼせば、小狐丸の手のひらが、審神者の髪を梳くように撫でていった。気を遣わせてしまっているのだろうか。小狐丸からそんな風に触れられたことなど初めてのような気がして、審神者は目を丸くした。そして少しだけ迷ったあげく、小狐丸の顔を見ないままその体勢でいた審神者は、少しだけ上ずった声で続けていく。


「好かれたことなどない。審神者としての生き方を覚え、兄として、弟を支えていけるようにとしてきた。弟達には乱暴もしなかったし、必要なときに、必要なだけ手を差し伸べてこれたと思っている」


ただ、と続け、少しの沈黙。


「――…ずっと、疎まれていた。好かれも慕われもしない、ただ必要な時に手を貸すだけの関係で……ずっと、何年もそうだった。それが答えだろう。主でなければ好かれない理由の根拠など、それで十分だ」


目をつぶり、審神者は過去を思い返す。昔は兄様と慕われたこともあった。頼られて力を貸したとき、感謝をされることもあった。けれど次第に態度は変わっていき、年下のくせに、と邪険な態度をとられることも多くなって。


「昔、殺されかけたことがあったんだ」


ぴりっと空気が震え、黙って聞いていられなくなったのか、小狐丸が口を開く。


「誰に」
「私ではなく、弟弟子がだよ。そんな表情をするな」


宥めるように、審神者は小狐丸の頬に手の平を当てて、そのまま撫で下ろしていく。


「歴史修正主義者と後に説明を受けた。私たちは霊力が一般人よりも多いからな、いずれ脅威となりかねないといった理由で狙われたと。それで、まず初めに弟が狙われたんだ。だが幸い、殺される前に駆けつけられる距離にいたからな――その場で私が取り押さえた」
「ぬしさまが?」
「ああ。不意をつけたことが何よりも大きかった。男は連行され、誰も殺されずに済んだのだが……その時の私の形相や方法が恐ろしかったのだと、態度がよそよそしくなっていっていったのはそれからだったか……」


男が連行されているその背中を見届け、大丈夫かと弟弟子に伸ばした手は振り払われることはなかった。けれど、その指先が弟弟子に触れる前に、怯えたように震えた体を、己に向けられた目を。審神者はずっと忘れられないでいる。


「おかしいと思いませぬか。助けてもらいながら、そんな不遜な態度をとるなど……」
「違う、小狐丸。その時私は、駆けつけたお師匠様に止められるまで、その男を痛めつけていた。その様があまりに酷かったから、そんな態度をとられたのだと――後に人伝に聞いた。弟は悪くない」


きっと、弟たちも分かっている。だからこそ、その後精神的に不安定になったときは、審神者のことを頼りにしてきていたと記憶している。普段よりも審神者のそばにいたが、けれど審神者を見るその瞳の奥には、恐れが混じっていたような気がするのだ。そして精神的に落ち着いてからは、また弟弟子には距離をとられるようになり。


「追いつめられた時、人は本性が出るものだ。僕の本性はそれだった」


審神者は髪に触れる小狐丸の手をとって、自嘲するように口角をつり上げる。


「お前は私を優しいと、甘いと言う。弟たちとは正反対のことを私に言う。それは私が審神者であるから、審神者として振る舞っているからだ。もしもありのままで振る舞いお前たちと接していたのなら、決してお前たちは私を好きなどとは言わなかった」


ぎゅうっと、小狐丸の手を握りしめて、やっと審神者は小狐丸と顔を合わせた。この説明が、己がいかに他人に好かれない人間であるかを示す方法になりうるかは分からない。果たして、どれだけ小狐丸に伝わっているのやら。


「――私のことを好きだという――それこそが、お前が私を審神者としてしか見ていない証拠だと思わないか?」


審神者が相手だから好きなのではないと、弟弟子の本丸で認めた。けれど審神者がより良い審神者として振る舞おうとしている姿を好きなのだと言われれば、それは個人を好きになったというよりも、審神者像に恋をしているだけのことだと思うのだ。


「お前が昔からの私の振る舞いを知っていたのなら、そんなことは決して考えたりはしなかった」


己の至らなさをひっくるめて好きだと言われるのならば、審神者とて思うところはある。けれど、優しいところなど、と言われたとて、審神者は己が心優しい人物であると思ったことはない。故に、信じ切ることが出来ないのである。

審神者なりに分かりやすく伝えたつもりであった。出来ることならあまり口にしたくはなかったことも、小狐丸に伝えたと思っていた。


「――……つまらぬことを」


けれど、それは小狐丸には届かなかったらしい。心底呆れた、というよりも失望しているかのような声であった。


「私には分かりません。貴方が何故そこまで己を低く評価しているのか。貴方がしつこく言うものですからこうして話を聞きましたが、時間を無駄にしたとすら思います」
「伝わらないか…? やはり言葉では難しいか……ならば、実際に弟弟子にあって話を聞いてきたらどうだ。私の至らぬところを詳細に語ってくれるだろう」
「聞きたくありません。興味もありません」


ぐいと、腰を抱かれ、引かれる。


「貴方の鈍いところも、好意を無碍にあしらってくるところも、私は好きではありません。見せつけるように他の刀に色目を使うところも、あからさまに隙を見せているところも。全くもって不愉快です」


けれど、と続ける。その目から視線をそらせずに審神者は勢いに押されるままに、小狐丸を掴み返してしまった。


「そういったところも含めて貴方なのだと知っている」


そっと、審神者の瞳をのぞき込むように、そのまま額をあわせられる。


「貴方が足らぬと思っていることは全て、私にはとっては些細なことなのです。今日貴方を連れだして、それがはっきりしました」
「小狐丸……」
「貴方が足らぬ人間だとは思いません。ですが、貴方が自分のことをそう思っているのなら、それはそれで構いません。ですが私は誰に強要されたわけでもなく、貴方の隣で時を刻みたいと考えていることを決して忘れないで下さいね。貴方がどれだけ疑おうと、私の気持ちは偽りでも紛い物でもないのですから」


いち、と。名を呼ばれ、審神者は目を小さく丸くした。
優しい声が、審神者の心を撫でるようにくすぐっていく。


「――貴方を好いています」
「っ……!」


言葉に詰まる審神者の反応にくすりと笑い、小狐丸の唇が寄せられる。

審神者はそれを止めるように指先を小狐丸と己の間に差し込んで阻止をする。流れのまま、身を預けてしまえばどうなってしまうのか、己でも分からない。

やけに、心臓の鼓動がうるさかった。


「っ……だめだ、」


口づけを阻止された小狐丸は、審神者の様子を伺うように視線を向けたまま、けれど静かに審神者の反応を待っているようだった。


「……気持ちは嬉しいが、応えることは……」
「何故? 既に、他の刀に気をとられているからでしょうか?」
「そうではない。そうではないが……その……」


審神者として、という言葉では断れない。真っ直ぐな小狐丸の言葉に、審神者は必死で言葉を探す。審神者個人のことについてはもう、何を訴えたところで小狐丸の胸には届かないことだろう。


「私に触れられることは嫌ですか?」
「いいや。だが、私の方からこういったことをしたいとは思えないんだ。それはつまり、お前のことを好いていないということで――…」


そう言って引き離そうとしている審神者の手首を掴み、小狐丸は自身の方に引き寄せる。元々近い距離にいた小狐丸との間である。逃げることや突き飛ばすといった選択肢を選べるような時間も猶予もなく。

今度はいとも簡単に唇を奪われ――そして、何事もなかったかのように唇は離れていった。くしゃりと、審神者は表情を崩す。


「――……気安く、こういうことをしてくれるな」


今までも、何度も小狐丸からはこういう行為をされてきた。数えることも出来ないほどの回数を重ねてきたそれに、審神者が何かを感じることなど一度もなかった。


(何故……)


――……そのはずだったのに。

何故か唇が合わさったことがとても恥ずかしくなって、審神者は逃げるように視線をそらしてしまう。あわあわと唇が震え、顔の熱が上がっていく。


「本気か? 何が良いのか分からない。……そもそも、私よりも見目の良い者も性格の良い者も、本丸の外にはいると思うぞ。私が審神者であることは関係ないというのなら、外で探そうと思わないのか? 男よりも女人の方が、都合の良いこともあるだろう」
「分からない人ですね。私は‘貴方’が良いと言っているのですが」


あまりにも直球で返され、審神者は困惑を隠すことが出来なかった。審神者の意図が伝わっていないとはいえ、それでもこのような物言いで言われてしまえば、心を揺さぶられてしまうこともまた事実。


「苛烈な貴方も悪くありません。身内に危害を加える者に手荒な真似をして何の問題が? 弟君については知りませんが――大方、ぬしさまの優しさに甘えて勝手に振る舞っていただけでしょう」
「……口だけならばなんとでもいえる」


受け入れられぬまま、中途半端に突き放すような言葉を必死に絞り出す。今、黙っていてはいけない。このままでは、どうしても気丈に振る舞える気がしなかった。


「そう言っていても、いざそういう関係になった時、同じことを言い続けられるか? 好きでいられるのか? もしも仮にお前を選んだとして――面倒だ飽きたと、途中で私に興味を失うに決まっている」
「そうなってみなければ分かりません。貴方は、私が戯れでここまでやっていると? 負けん気でこのような真似をする刀だとお思いですか?」
「違う……そういうわけではないが……」
「ではなんです? 私の何が不満なのですか?」
「不満などない。お前ではなく私の問題で……」


出てくるだろう言葉を飲み込むかのように、また重なる唇。先ほどよりも長く触れたそれは、名残惜しそうに離れていった。


「――馬に乗って喜ぶ貴方は。本丸から離れ、自然の中で笑う貴方は。審神者として振る舞った貴方ですか? 私にはそうは見えない。貴方が気づいていないだけで、私は貴方の飾っていないところも、気に入っていますよ」


そして今度は、ごちんと、少しばかり乱暴に額が合わせられた。真っ直ぐと審神者のことを見つめた小狐丸の瞳は熱く、審神者はきゅっと唇をとじ合わせた。


「――貴方はただ、黙って、私のものになれば良い」


噛みつかれるかと思うほどの迫力に、審神者は何も言い返せなかった。


「……小狐丸」


けれど、すんなりと受け入れることなど出来ない。もう何度も言っているやりとりではあるが、繰り返し伝えなければならないことが審神者にはある。


「……わかった。それでも私のことを好きだといってくれるのならば、私の方からお前に言っておかねばならないことがある」


出来ない。そんな関係にはなれない。そんな言葉では納得などしてもらえないことだろう。小狐丸からの返事はなく、代わりに、逃がさないとでもいいたげに、強く腰を抱かれた。


「――確かに、触れられることは嫌ではない……だが、私の方から触れたいとも思わないんだ。だからこそ、尻が軽いだの気が多いだの言われるのだが……もしもお前を選んだとして、その先に私の気持ちがあるわけではないよ」
「構いませんが」
「……勢いで返事をしていないか? 真面目に言っているのだが」
「此方はずっと真剣です。むしろいい加減、真面目に受け取って欲しいと思っているところですよ。いつまでもいつまでも、貴方はどれだけ此方の気持ちを軽んじているのか」


呆れたように言われれば、気を構えて口にした審神者としては立場がない。審神者が小狐丸に特別な感情があって受け入れるという話ではないのだと、それを真面目に受け入れられないと審神者としても困るのである。


「……この一月は、私の方から好きだと言わなければ意味がないと知っているだろう? だから、そう流されてお前を選ぶわけにもいかない。そもそも、私は長谷部と約束もしているわけなのだから、結局は誰を選んでも意味がない。だろう?」


加州清光にも伝えたことだ。その際にも色々と言われたことだが、そこは言っておかなければならないことだ。


「あの腰抜けのことですか。何故私があれに気を回す必要が?」


なのだが、あっけらかんとそう言われてしまっては審神者も呆然とするほかないというものである。


「断る理由に他の刀を出すのはおやめ下さい。あまりにも、誠意がないと思いませんか。嫌ならば嫌と、ご自身の口で言うべきです。違いますか?」


耳にいたい言葉である。うっと言葉に詰まる審神者に、小狐丸は手のひらを審神者の頭の上にのせて問いかける。


「こうして触れられるのは嫌ですか?」
「……嫌じゃない」
「では、これは?」
「嫌ではないよ」


今度は頬をなでられ、正直にそう答える。すると次は両腕で体を包み込むように抱きしめられて、小狐丸は同じ問いを投げてくる。審神者はそれに嫌ではないと答え、小狐丸の触れ方は更に親密性を増していく。

そして、唇に指が添えられた。


「……駄目だ」


この先の展開が容易に想像できる。先手を打ってそう言うが、小狐丸が審神者の言葉に耳を傾けた様子は何もない。


「嫌です。私は言いました。ぬしさまの話を聞いて尚気持ちが冷めなければ、貴方を私のものにすると」
「私の合意なく、か?」


そもそも、そんなこと言っていただろうか。似たような言葉を口にしていた記憶はあるけれど。困り顔の審神者がそう言えば、小狐丸は一切迷う様子も見せずに「ええ」と口にした。


「ぬしさまはどれだけ気持ちがあろうと否としか言いません。事実、私に触れられることは嫌ではないと言うではないですか。ただ困る、と。何故困るのかも言えないようならば、私が我慢などする必要もない。でしょう?」


僅かに顔を傾けて、薄く開いた小狐丸の唇は審神者の唇に迫る。


「あの時、何も感じないと言いましたね。どれだけ触れようとも心は動かないと。試してみますか?」
「……そんなことをして、一体何に……ん、」


断りたい審神者にとっては、何のメリットもない話である。むしろ流されてしまうような空気にされてしまうことは非常に困るのである。思うところはあれどきっぱり断らなければと考える審神者の唇を、あっさりと奪って黙らせた小狐丸は、楽しそうに目を細めていた。


「何も感じないですか?」


軽んじられている、とでもいえばいいのか。審神者はむっと唇を引き結んで、拗ねたような口ぶりで口を開く。


「……何も、感じない」


当てつけのようにした返事ではあるが、小狐丸は審神者のその返事に楽しそうな表情を見せたのだった。今の己の物言いで何故そんな風に言われるのか理解できずにいる審神者に、小狐丸は答え合わせのように口を開く。


「普通は――対象外の存在に触れられるのは不快なものですよ。嫌でない、何も感じないということは、少なくとも私が貴方の対象内にいるということ」
「……何を言っているんだ。そんなわけ……」
「では、例えば件の審神者に触れられても、何も感じないと言えますか? このように触れられて、口づけられても何も思うところはないと?」
「っ……馬鹿をいうな! そんなわけがないだろう。あれとお前たちが同じなわけがない!」


少々語気を強めて否定すれば、小狐丸は笑い、続ける。


「では、刀剣男士はぬしさまから見てそういう対象であると? 人間とは違い、触れても嫌悪感がない存在であると?」
「それは……多少は、特別だということは否定しない。けれどそういうわけでは決して……僕はただ、審神者として、おまえたちに出来ることは何でもしたいと、そう思って……」


だが、何も感じないと思って、慣れきってしまっていた行為であるという事実があることは確かで。審神者はそれを感じ取って、居心地の悪い思いで目を伏せた。


(小狐丸のいうことも一理ある……のか)


あまりに強請られて慣れてしまっていたが、審神者は老若男女問わず刀剣男士以外の存在とそういった行為をするのだと考えれば、形容しがたい感情を覚える。そんなことはしたくないし、件の審神者について考えれば、素直に不愉快とすらいえる。断言できる。

では何故。そんな疑問がわいてくる。


「そんなつもりなど……。されても嫌ではなければ、好きということだというのか?」
「そういう見方も出来るかもしれませんね。事、私に関しては。他の刀に関しては全て気のせいです」
「……ふざけているのか。真剣に悩んでいるんだぞ、これでも」
「私も真剣ですよ。貴方は、いらないところで考え込みますね。もっと楽に考えて下さい」


おかしな方に考え込んでしまいそうになる。表情に影の差した審神者に、小狐丸はこんな提案をしてきた。


「――では、確かめてみますか?」


そっと、優しく頬に触れられた。審神者は怪訝に眉間にしわをよせた。


「何、を?」
「触れられることが、貴方にとって意味があるかどうかですよ。もしも私に触れられて貴方が私を意識するようなことがあれば、それは私が貴方にとってそういう対象であること。でしょう?」


審神者は目を小さく丸くする。何を言っているのかと言い掛けた審神者だったが、次に小狐丸に続けられた言葉にそれを飲み込んだ。


「もしもぬしさまがこれで私を意識しないのであれば、私はぬしさまのことをきっぱりと諦めましょう」
「っ……本気で言っているのか?」
「はい。これは本気ですよ」


審神者は少し迷った末、不安げに小狐丸の服を握りしめる。それは、願ってもない申し出であった。
審神者としては小狐丸に触れられること事態すっかり慣れてしまっているのだから、何の問題もない……はずだ。けれど今日は調子が狂うとでもいえばいいのか。そんな少しの不安が顕著に出てしまったのだろう。

だが、これ以上続けたところで同じような問答が続くに違いない。
審神者は覚悟を決めたように唾を飲み込んだ。


「分かった。嘘ではないのだな?」
「もちろん。けれど、決して嘘の返事はしないでくださいね」
「ん、約束する。お前が、約束を守ってくれるのなら」


そう言って、きゅっと、身構えるように閉ざした唇に、そっと唇が寄せられる。今度は審神者はそれを受け入れ、ゆっくりと触れた温もりに、体を強ばらせた。今の今まで何度もしてきたこととはいえ、どうしても身構えてしまう。


(だが、まだ、平気だ。とり乱しはしない)


小さく唾を飲み込む。小狐丸は審神者の様子を観察した後、また唇を近づけ――そこで止まる。至近距離で審神者を見つめているだけで、時間が過ぎていく。戸惑い、けれど審神者の方から急かすようなことでもなく。
真剣な眼差しがただ己を見つめている。それが余計に困惑を覚えさせるのだ。


「……小狐丸」


何を言うでもなく名前を呼ぶ。小狐丸は審神者の呼びかけに返事をせずに、すり、と優しく頬をすりあわせた後に、唇を審神者の頬に押し当てた。


「っ……」


やけに妙な心地になるような触れ方である。いっそ乱暴にでも触れられれば審神者も気丈に対抗出来るというものなのだが、こそばい、とでも表現すれば良いのか。普段欲の方が顕著に出てくる触れ方ばかりしていることが嘘のようである。


「いつもは、そんな風に触れないだろうっ……」


余裕がなくなってきて、審神者はそう口を開いた。気丈に出したと思っていた声は、僅かに上擦っていて、声を出した後に少しだけ後悔をした。

隙を見つけては噛みつくように触れてくる小狐丸は、審神者からの合意など気にしたことは一度もなかったと記憶している。それが今、どうしてこんな触れ方をしてくるのだろう。まるで、審神者のことを本当に想っているようではないかと。ここまで小狐丸に連れてこられた目的を未だ自覚していないのではないかと言われても仕方ない審神者の思考回路など気にもとめないと言いたげに、小狐丸は再び審神者に口づけをした。

柔く触れあわせたそれは、まるで唇で撫でようとしているかのように優しく。数秒の間、愛でるように重ねられていた。


「……不快ですか? 私に触れられることは、貴方にとって屈辱でしょうか?」


名残惜しそうに離れた唇が問う。審神者は、素直に狡いと思わずにはいられなかった。小狐丸が指先を審神者の唇にのせ、眉尻を下げた。懇願するような、切なげな視線が、審神者に突き刺さる。

小狐丸のこの表情には弱い。ついつい甘やかしてしまいそうになる。けれどその表情すら、初めて見るもののような気がした。場所のせいか、状況のせいか。きゅうっと、胸がしめつけられるようだ。


(……普通は、相手が刀剣男士であっても、屈辱に思うようなことなのだろうか)


嘘はつかぬと言った手前、嫌だと口には出来ない。気恥ずかしくはあれど、そのような不快な感情を審神者は感じていないのだ。


「……そんなことはない。嫌ではない。むしろ少し……くすぐったい気持ちになる」


生まれてこの方好意など向けられたことのない己だ。だからこそやはり、好意を向けられること事態、どうあがいたところで拒絶は出来ないのである。審神者はただ、それを受け入れることが出来ないだけで。

何も感じないといったあの時の己の言葉が、今この場では出てこない。それは間違いなく、小狐丸の影響のせいだろう。


「……認める。小狐丸」


往生際が悪く、なかなか喉を通らなかった言葉である。だが、審神者は、これほどまでに小狐丸に想いを伝えられて、切り捨てることは出来なかった。今まで無碍にしてきた対応を、改めざるを得なかった。


「――僕はお前を――…お前たちを、意識してしまっているな」


審神者はそう続ける。小狐丸だけでなく、他の刀剣男士の存在も含めての話であると言い直して。


「たちは余計ですが」
「事実だ」


審神者は未だ唇にある小狐丸の指に、そっと唇を押し当てた。
ぴくりと小狐丸の指は震え、審神者の行動に応えるように、ゆっくりと唇をなぞられた。審神者は目を伏せ、そしてまた、小狐丸と視線を合わせる。


「……嫌じゃない。触れられること、僕の方から触れることも……それからきっと、体を繋げることも嫌ではないと思う」


交錯した視線が、また審神者に羞恥を感じさせる。なんという台詞を口にしてしまったのかと、審神者は一度唇を強くとじ合わせた。


「だが、僕の方から望みはしない。お前たちに特別な関係を望むことはないし――皆が僕にとって一律なんだ。お前だけ、と思う相手はいない。だから応えることは出来ない」


申し訳なさと罪悪感に逃げるように逸らした視線は、間も置かずに小狐丸に引き戻された。顎を持ち上げられるようにして、視線を合わせられると、そのまま静かに唇を合わせられる。

審神者は一瞬体を強ばらせたものの、すぐに体の力を抜いた。拒絶せずに瞼を閉じ、また唇が離れていくその時まで身を任せていた。


「――……でも、お前の言葉が嬉しかった、小狐丸」


離れた唇と、切なげな小狐丸の瞳を開いた視界で見つめる。審神者は小狐丸の頬に手のひらを当てて、そして、目を細めた。


「僕を好いてくれてありがとう」


言えば、悲しげに小狐丸が微笑む。


「私では、貴方には足らないですか?」
「そんなことはない。ただ僕に、覚悟が出来ていないだけだ。……もしも誰かを選ぶとしても、時間がいる。今返事は出来ない。それが受け入れられないなら、ここで諦めて全てを終わらせる選択肢もある」


審神者は、ぎゅうっと抱きつくように、小狐丸の首に腕を回し、首もとに頭を預けた。


「それでも、僕を好きなままでいられるか…?」


ぽつりと、つぶやくように問うた言葉。沈黙の後、そっと、審神者の髪を撫でる感覚。審神者は、瞼を閉じた。その手つきは優しいが、己は今あの滝壺に投げ込まれても仕方ないと思うようなことを口走った自覚もちゃんとある。これで小狐丸が審神者のことを諦めるのならばそれでも良い。けれど審神者があまり刀剣男士に見せたくない個人のことを、些細なことと言ってのけた小狐丸が手の平を返してしまう様を想像すれば、何故か怖くもなる。


「傲慢ですね」
「……そうだな」


そっと、小狐丸は審神者が首に回していた手を引き離す。その所作から小狐丸がどんな選択をしたのか察した審神者は、ただ静かに、目を細めた。


(……当然だな。やはり……いや、これで良い)


素直に従い、審神者自身の意思で小狐丸から離れて、審神者は目を合わせることも出来ないままに、膝の上に手を置いて、小狐丸から距離をとろうと動く。小狐丸にその気がなくなった今、膝の上に乗っておく必要とてない。


「……?」


けれど、引き留められるように審神者は腰を抱かれている。不思議に思って、重い腰をあげるように視線を小狐丸に向ければ、小狐丸は空いている方の手を懐に差し込んでいた。どうやら、何かを取り出そうとしているようだった。


「――これを、貴方に」


そうして、取り出されたものは櫛であった。見覚えのあるそれは、小狐丸が普段から使っている愛用の櫛であるとすぐに理解した。


「……手入れ、か? 今?」
「違います」


審神者の問いはすぐに否定され、代わりに審神者の手にそれを握らせて、小狐丸は静かに言った。穏やかな表情に見えた。


「……これを、貴方に持っていてほしいのです。ぬしさまではなく、他ならぬ貴方に。もしも一月経って、貴方が誰も選ぶことなく皆のぬしさまに戻ったとしても、これを貴方に使い続けていて欲しいのです」


大事に大事に使い込まれ、椿油などできちんと手入れもされているのだろう。艶やかででありながら優しい色合いのつげ櫛を見下ろしながら、言葉を失っていた審神者の髪を、小狐丸の長い指が梳いていく。


「櫛は毎日使うものでしょう。それを見る度に、私が貴方を好いていることを思い出してほしいのです。……苦難の時も、幸福の時も、変わらず貴方のそばにいること。そして貴方が命を全うするまで、貴方を想い続けることを」


言葉を失う。じんわりと、紙に落とされた水のように、それは胸に広がっていく。審神者は小狐丸から渡された櫛を大事に握り、行き場のわからない感情をこらえるように眉間にしわを寄せた。

これは、審神者がした質問の答えなのだ。感極まって中々口を開けなかった審神者だったが、やっと口を開いた。


「――ああ、忘れない。どれだけ月日が流れようとも、この日のことも。お前の気持ちも――もう疑うことはしない」


途中、詰まりながらも最後までそう口にした審神者は、感慨深い気持ちでそう告げた。小狐丸に顎をすくうように持ち上げられ、そっと口づけられるその前に、審神者は自ら瞼を閉じ――それを受け入れた。

何度も交わした小狐丸の熱の中で、一番熱いと感じた。離れていった唇に、名残惜しさを感じてしまったのは、審神者の方だったかもしれない。交わる視線ですら熱を感じてしまって、審神者は落ちつきなく視線を下に向けてしまう。


「っ……小狐丸、ならこれを……」


照れくささのようなものを感じ、それを誤魔化すように審神者も己の懐に手を差し込んだ。そしていつも己が使っている櫛を取り出すと、それを小狐丸に差し出した。


「僕が使い古したものではあるが、手入れは欠かしていない。高価なものではなく、お前の櫛には劣るかもしれないが――お前に受け取って欲しい」


貰うばかりで申し訳ない。けれど審神者の櫛と交換という形であれば、まだ審神者としても気は楽というものである。

小狐丸は審神者から差し出された櫛に、虚をつかれたようだった。明らかに困惑してしまっていて、けれど感極まったような表情にも見せる。


「良いのですか?」
「ああ。お前に貰って欲しい」


そう答えれば、小狐丸はふわりと、花開いたような表情を浮かべた。周囲に桜が舞い、とても大事そうに審神者から贈られた櫛を包み込む。先ほどの審神者の様子と同じで、審神者はふっと微笑んでしまった。

そんな審神者の様子に気がついた小狐丸も、審神者の表情につられるように笑みを浮かべていた。そうして櫛を懐にしまい、また、審神者の体を抱きしめ、唇に触れようとする。


「あっ、……」


審神者は一瞬戸惑い、けれど、そのまま受け入れるように目を閉じて待つ。

けれどくると思っていた感触はいつまで経ってもくることがなく、審神者は目を開ける。するとすぐ目の前にあった小狐丸が、悪戯に唇を弧にしていて。そのタイミングを見計らったように、審神者に口づけを落とした。

赤く燃えるような小狐丸の瞳を見ながら合わさった唇は、再び離れると、楽しげに形を変えた。驚きで目を丸くした審神者に、小狐丸は言った。


「折角ですから、今日はここでゆっくりしていきましょう」


言葉を探し、審神者は諦めたように口を閉ざす。
そして、じわじわと熱を抱いた唇を指で隠すようにして、小さく頷いた。


「……そうだな」






手の中には、まだ小狐丸から贈られた櫛があった。



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