「やってくれたな、大将」
「……何の話だ」
――目の前に立ち、己を見下ろすは薬研である。
その目からは、審神者を非難している様がありありと見てとれた。けれど審神者は非難を受ける覚えなどなかったため、そう聞き返すことしか出来なかった。
とはいえ、己が今置かれている状況が大変よろしくないものである、ということだけははっきりと感じていた。
[chapter:審神者は全て終わらせたいC]
今日は例によって、秋田藤四郎と乱藤四郎の頼みで一日薬研と過ごすことになった日である。一月の間に審神者から選ばれなければならないとあってどの刀も真剣であり、その勢いたるや、審神者もうっかり絆され流されそうになってしまうようなものばかりである。元々、審神者が流されやすい性質であることを抜きにしても、である。
己の意思が決定打になるとはいえ、油断はしたくない。相手が薬研という刀ならば、尚のことである。
そのためにも部屋で二人になるのは避けたいと思っていた審神者が、先手をついて人目のあるところで薬研に会いに行こうと考えていた矢先――薬研が審神者の部屋に足を踏み入れたのだ。
例によって、足音は審神者の耳には聞こえなかった。薬研は決して、審神者に気配を悟らせない。まさに神出鬼没なのである。そうして放たれた言葉が、冒頭の台詞である。
「すっとぼける気か?」
「本当に心当たりがないのだが……」
そう言うほかない。審神者には、他に言うべきことなど何も思い当たらない。心当たりがないのだから、無意味に謝る必要とて感じない。それよりも、審神者は部屋に入るなり襖を後ろ手で閉めてしまった薬研の方に意識が向かう。
(逃げ道が……)
二人きりになることは避けたいと行動する前に、しっかりと二人きりになってしまった。非番故に加州清光もへし切長谷部もそばにはいない。ここでどうなろうと、止めに入る刀剣男士はいないのである。
とはいえこの一月、小狐丸曰く、お互いの邪魔はしないという暗黙の了解があるらしいため――いても止めてもらえるかどうかは微妙なところだ。
「……他の刀と、随分よろしくやってるみたいじゃねえか」
言われて、審神者は首を傾げる。
「よろしくやっている、とは? 誰かを選んでいるといいたいのか? 誰も選んでいない」
値踏みをするような視線が、真っ直ぐと己に向けられる。なんと居心地の悪いことだろうか。審神者は眉を潜めて、薬研の返事を待った。何か誤解がありそうだと思うが、薬研が事情を話してくれなければ審神者には何も分からないのだ。今の段階で、審神者に弁解できることなど何もない。
「……櫛」
「櫛?」
「……ああ。小狐丸の旦那に貰ったんだろ?」
「どうしてそれを……」
「何だっていいだろう? 見せてくれ」
「……構わないが」
言われて櫛を取り出し、薬研に見えるように差し出す。薬研はじっとそれを見落ろして、苛立ちを露に目を細めた。
そこまでくると、審神者も何かを察したというもの。この櫛は審神者の物だが――先日、小狐丸と互いの櫛を交換したため、元は小狐丸の櫛であった。交換してじっくりと眺めれば、小狐丸の紋が薄く彫られた櫛は、誰が見ても元の持ち主が誰か分かってしまう。
「……この櫛のことを言っているのか? 何を考えているかまでは分からないが、おそらく、お前の思っているようなものではないよ」
審神者の前で仁王立ちしていた薬研は、静かに審神者の前に膝をつき、櫛を持つ審神者の手首に指を置いた。細い指先から、確かな熱が肌を通して伝わってきた。
「その櫛が、どんな目的で贈られたか知っているか? 大将」
目的、といわれても、審神者はぴんとこなかった。声に出さずとも、それは薬研も気づいたのだろう。小さく息を吐き、薄い唇が忌々しげに結ばれた。
「これは小狐丸がこれから先、この櫛を通して自分のことを忘れないでいてほしいと、そういう意味合いで贈られたものだ」
「……その様子じゃあ、気づいてねえみたいだな」
「? 一体、何だと言うんだ」
随分と勿体ぶるものである。何を考えているかは知らないが、どうせ勘違いだろうと審神者は暢気に構えて、薬研の鬼気迫る視線から守るように、櫛を握った。すうっと息を吸う音が聞こえ、薬研の声が続く。
「――江戸時代、求婚の際に櫛を贈る慣習があったことは知ってるか?」
「……求婚?」
薬研の言葉から、審神者は静かに唇をとじ合わせた。そうして少しの間沈黙を置いた後に、そっと呟く。まさか、と。
「……お前は、私が小狐丸の求婚を受けたと思っているのか?」
「大将にその気がなくとも、旦那はその気だろうよ」
「――馬鹿なことを……考えすぎだ。そもそも、小狐丸は平安に打たれた刀だろう。時代が違う。これはただ、」
審神者の言葉を遮るように、ぎりっと審神者の手首が握られる。苛立ちを含んだそれは、審神者に黙るように示しているように思えた。その行動の真意はともかく、審神者はそれに呼応するように黙り込んでしまう。無言でかけられる凄みに、気圧されてしまったのかもしれない。
「……確かに明確に言葉には出しちゃいなかったがな。旦那のあの態度を見れば分かる。これは、間違いなくそういう意図を持って贈られたものだ。もし仮にアンタが誰も選ばなくとも、そういう口上で迫るための保険なのさ。何故受け取った――と追求したいところだが……まあ、アンタが、江戸時代の求婚方法なんて知るわけがねえな。口吸いですら、俺が初めてだったんだ」
「……最後の一言は余計だろう」
居たたまれない。薬研にその気があったかどうかは不明だが、哀れみが含まれていたように感じて、審神者は不服を露わにそうこぼす。そうして小狐丸からもらった櫛を見つめて、審神者は目を細めた。
(求婚……そういう意味だったのか…? 薬研の考えすぎではなく…?)
審神者は小狐丸と過ごした時を思い出し、そして、確かに共に過ごしたあの時間を、あの熱を、感触を思いだす。困ったように眉間にしわを寄せて――けれどそう嫌悪感もなく。それが尚更、困ってしまうのだ。
ただ、静かに小狐丸から貰った言葉を、頭の中で反芻させる。
「求婚……」
ぽつりと呟いて、じわりと熱くなった熱を隠すように櫛をしまおうとする。そのとき、薬研にそれを止められた。あっという間に目をのぞき込まれ、審神者はぎくりと固まってしまった。
「っ……」
そのまま、じいっと見つめられて数秒。
見透かすように審神者の瞳から目を逸らさなかった薬研は、大きくため息をついてしまう。そしてがしがしと自分の頭をかきながらその場にあぐらで座り込んだ。
「……加州はともかく、小狐丸までは予想外だった」
「何の話を……」
「アンタが移ろいやすいことを忘れていたってことだ。いや、忘れてはいねえか。ただ、甘く見ていたってことだろうな。出遅れたのは俺の失態だが……アンタは、絶対に俺に気があるものと思っていた」
「……お前のその自信はどこからでるんだ。僕は誰も選ばない。実際、誰も選んではいないだろう?」
離れた隙に、と。隠すように櫛をしまいこんだ審神者は、居たたまれない気持ちを継続したまま、そっと薬研から距離をとろうと壁際に下がる。あくまでさりげなく、押し倒される間合いに入らぬように。
「大将」
釘を刺されるかのようなタイミング。審神者は体を強ばらせて、唾を飲み込んだ。
「……なんだ」
すうと細められた瞳が示す感情は、一体何なのか。小狐丸は小狐丸で審神者を好きなようにするが、出血するほどの触れ方はしたことがない。まあ多少強引で、乱暴ではあるけれど。むしろそういう点でいえば、薬研という刀の方がその点は過激である。多少は覚悟も必要なのかと考える審神者に、薬研は厳かな声で続けた。
「アンタの今の気持ちが聞きたい」
「……それは、お前へのか?」
「それもある。が……この際全員への気持ちを聞いておきたい」
「……わざわざ聞く必要などあるとは思えないが…」
「あるさ。知っておきたい。惚れた相手のことだ。なんだって知りたい」
惚れた、など。恥ずかしげもなく、当然のことのように薬研は口にする。審神者ばかりが薬研の言葉に恥ずかしくなって、居たたまれなくなってしまう。己も、薬研のように動じない心が欲しいものである。
「……今アンタの心を占めているのはどの刀だ」
「だから、何度も言っただろう。僕は誰も選んでいないと」
「だがアンタは、意識している。その櫛の話も、満更でもなさそうだったしな」
言われ、審神者は罰が悪そうに目を伏せる。確かに、薬研の指摘は間違っては居なかった。今までそういった相手として意識していなかった小狐丸のことさえも、審神者は意識してしまっている。このまま受け入れたとして嫌悪感も何もないと、そう思ってしまったほどに。もっと露骨に言えば、抱かれてもいいと。同時に小狐丸には、審神者が刀剣男士のことを意識してしまっていると、そう気づかされてしまったこともあり。返す言葉に審神者が迷ってしまったことは、至極当然のことだっただろう。
誤魔化すことは簡単である。けれど、審神者はそれをしたくないと、言葉を選びながら口を開く。何度か躊躇いがちに唇を開き、そしてまた閉じる。何度か繰り返して、やっと審神者は返事をすることが出来た。
「――ああ、嬉しかった。この櫛も、櫛と共に贈られた言葉も。ずっと忘れないだろうな。……小狐丸に触れられたことも……嫌では、なかった」
僅かに、薬研の目が開かれる。それに気づいた審神者の背中に冷たい汗が流れるが、体の良い言葉でうやむやにしていては、薬研に対しても誠実ではないのだ。もはや今の審神者にとって、誠実という言葉などとってつけたような薄い意味合いしか持っていないものであっても、それを意識はしなければと。それだけは、忘れてはならないと思うのだ。
そっと、審神者は唇に指先を置いて、また離す。それだけで、小狐丸との間に何があったのか、薬研ならばすぐに察するだろう。
「何をされても構わないと、そう思ってしまった。小狐丸だけでなく、清光についてもそうだ。審神者としての建前を消してしまえば、簡単に僕の持つ物を全て渡したいと、そう思ってしまう。ただ、僕の方からそうしたいという欲があるわけではないから、選ぶとまではいかなかっただけだ」
煽るよりも、冷めてくれれば良いという希望はある。だが、刀剣男士の一途さは侮ることも出来ないものである。
「性質が悪い。……だろう?」
審神者業に支障のない範囲であるなら欠損も覚悟しなければならないのかもしれないなど、と。そう大袈裟に感じてしまうほどの鋭い視線が、既に己に突き刺さっている。
「言われるだろうから先に言っておいた――これでもまだ好いていると言えるか? お前だけでも、ここで退いた方が賢明だ」
もしも弟弟子がこの場にいたのなら、そんなネガティブキャンペーンが通用するような刀じゃないだろうと指摘するだろう内容だった。けれど審神者はこれがどんな感情を呼び起こすものかどうかは全くの別の問題として、前もって言っておかなければと思ったのだ。
ふ、と薬研が笑う。
「――この月の話を持ちかけてきた時もそうだったな。不遜で傲慢な態度で諦めさせようと躍起になっているアンタに、俺は呆れたものだった。俺達の感情を理解していない奴らの助言を間に受けて、自分の逃げ道を塞ぐような愚策を選んだアンタのことを俺は――…」
整えられたような笑みが、ゆっくりと真剣なものに変わっていく。それから目を逸らせずにいた審神者に、薬研は手のひらを向ける。そこに視線を乗せても、その手のひらには何もなく。何の意図があってそんな行動を、と考えた審神者の意識を丸ごと包み込むように、薬研は手を閉じた。
一瞬、まるで自分が不意をつかれたような感覚を覚えた審神者が息を飲む。そろそろと薬研の顔に視線を戻せば、獣のように静かに怒りを散らせた瞳が審神者のことをとらえてしまっていた。
「…――必ずものにしてやろうと思ったもんだ」
「っ……」
どきりと心臓に悪い言葉を投げられ、審神者は言葉を失う。逃げるように視線を逸らし、ぎゅうっと唇を噛みしめた。同時に、薬研にこの月の話を持ちかけた時のことを思い返した。あのときも、薬研は一切迷うそぶりを見せることなく承諾したのだ。審神者の考えなど不安の材料にもならないと、自信に満ちた姿で。
「大将」
再び開かれた拳は、今度は審神者を誘うように手のひらを差しだしている。審神者はうっと言葉をこぼして、膝の上に置いた手を強く握りしめた。嫌に心臓がざわついて、今にも捕食されてしまいそうな予感が、逃げろと警鐘を鳴らしている。
「ここまで来い」
ごくりと唾を飲み、審神者は瞳を震わせた。低い声は審神者に逃げる選択肢を与えず、従うか無視をするかの選択肢しか与えていない。無視をするという選択も審神者が選ぶには難しい物である。結局は、審神者はどんなものであれ、反応をせざるをえない。
「……何故」
「悪いようにはしねえ。ちいっとばかし、話をするだけだ」
嘘だ。と。直感で気づき、けれど、それを口にも出せず。口に出してしまえば、それこそもう逃がしてもらえないような、藪蛇になってしまうような気がしてならなかったのである。そうなってしまえば、果たして己は選ばずに得られるだろうか。
それも、月が変わる前は一番に警戒していた――もとい、意識してしまっていた刀剣男士の筆頭である相手に。
「……行きたく、ない」
ふるふると弱々しい声で告げれば、ぴりっと空気が震えたような気がした。「何でだ」と聞かれ、審神者は迷いながら言葉を選んだ。
「お前には、不用意に近づきたくない――……どうにも、お前が相手だと分が悪いんだ。流されてお前を選ぶようなことは、したくない」
言えば、少しだけ薬研の纏う雰囲気が変化したような気がした。
「……煽ってんのか。随分余裕じゃねえか」
「っ……違う! だが、お前はすぐに僕の調子を乱すから――……困るんだ。今は、特に……」
「――ここまで来て学習しねえ主だと、むしろ、褒めたくなるな。よくそれで、今まで無事にいられたもんだ」
ふ、と小さく笑う声。それが乾いた笑いなのか、それともおかしくて笑っているのか、審神者には判別がつかなかった。
「だが、聞いてやらん。来い」
ただ、薬研が己に手加減というものをしてくれることがないことは分かった。こうなってしまっては審神者がいくら断ったところで同じことだと理解するものの、すんなりと従うことも出来るわけがない。みすみす食べられに行くようなものだと、審神者とて理解している。出来ることなら、このまま部屋を出て月が変わるまで姿を隠したいものだが、そんなことが出来るのならばとっくにしている。出来ないから、きちんと対峙しなければならないから、己は今ここにいるのだ。
――分かっていても、腰が引ける。
「……冷静に、話し合おう」
「ほう。何を? アンタを諦めた方が賢明な理由か?」
「…………」
「今更、それは必要ないって分かるよな?」
今の己にできることなど知れている。有効な策などなにもないのだ。断れない、と感じた。
「来い」
あきらめて、審神者はゆっくりと唾をのむ。
そしてそのまま、ゆっくりと、薬研に近づいた。良い子だ、なんて言われたときは、羞恥でどうにかなってしまいそうだった。完全に手玉にとられていると感じながら、それでも起死回生の方法なんて審神者が知るわけもない。
「………っ」
目の前に近づいた審神者の頬を、細長い指が撫でていく。小さく震え、審神者はゆっくりと薬研の顔を見た。
「審神者だから、って理由はもう消えたな?」
「……ああ」
「なら、今は俺をどう思っている?」
頬を撫でていた指は審神者のうなじに伸びて、そのまま薬研の方に引き寄せられてしまう。そのまま鼻先を近づけられて、審神者は身を強ばらせた。何をされるのか、わかっていた。それでも、拒絶のために体は動かない。
「アンタの中に、俺はいるか?」
問われた言葉に、なぜだか、きゅうと胸が占められるようだった。
「………いる」
少しだけ眉を寄せて、審神者はそう答えた。小さく目を細めた薬研の視線がくすぐったくて、困り顔を浮かべるも、きっとそれは何の意味もなさない。
「普通は、対象でない者から触れられることは、嫌悪するものらしい。指摘されて、ようやく気づいた。……お前たち以外の相手とそういった行為をすると考えたことがなかったから、今まで、不思議とも思わなかったが……」
そして、続ける。
「前も言ったが、好かれることは嬉しい。……触れられることも、嫌ではない。僕に出来ることならどんなことでもしたいと、そう思う」
「……建前がなくなると素直だな。他の奴らにもそうだったのか」
否定はしない。審神者は、何も言わず、頷かず、ただ肯定するように目を細めた。
「そうか」
淡々と呟くことと、審神者を引き寄せるのは同時だった。重なった唇は何をするでもなく、ただお互いの感触を確かめるように、数秒だけ触れていただけである。審神者は静かに目を伏せて、再び唇を寄せられた時には抵抗せずに瞼を閉じた。
「――っ!」
けれど、予測していた感触はなく、代わりに強く腕を引かれてバランスを崩す。そのまま薬研の上に倒れ込み、審神者は目を丸くした。辛うじて薬研の顔の横にもう片方の手を置けたものの、それだけでは足りず――半分ほどの体重は薬研に乗せてしまっているような状態だ。
危うく、潰してしまうところだった。冷や汗が流れ、審神者は眉を寄せる。
「……危ないだろう」
そう言うが、薬研は答えない。ただ静かに、審神者のことを見つめていた。怒りとも喜びともどちらとも重ならない。ただ審神者の心の奥底を見透かすような、そんな視線だけがあった。
審神者の腕を掴んでいた手はいつの間にかに審神者の腰へ回っており、ぴたりと腹部同士は重ね合わせるようにくっついている。少年の姿で顕現している薬研は審神者よりも身長は小さく、体つきも華奢なように見える。けれどその手の力から、嫌でも理解してしまう。――審神者よりも強く、能力的にも上の存在であると。
「悪いな。……少しばかり、妬いた」
片方は薬研の横に、そしてもう片方の手は薬研の胸の上に。腰を引き寄せられて密着しながら、審神者は思うように動きをとれないままに、薬研の言葉に眉を潜めた。何故、と思わないではなかったが、すぐにその理由を察する。他の刀ともこういった行為をしたことに、だろう。
「……少しか?」
問えば、薬研は面白くなさそうに眉間にしわを寄せた。
「いいや。かなり妬いた」
空いていた手が審神者のうなじに再び伸びて、そのまま下に引き寄せる。小さく息を飲んだ審神者の髪が、さらりと薬研の頬にかかった。
「出来ない、嫌だとばかりだったアンタが、素直に俺を受け入れて――だが、他の刀にも同じようにしているんだろう? それが、ちっとばかし……いや、悔しいもんだな」
うなじにあった手は審神者の頬に降りて、そして愛しそうに撫でている。言葉とは裏腹に、それは優しい触れ方だった。
「がっかりしただろう? お前は、ろくでもない男を好きになってしまったんだ」
「否定はしないが、後悔はないぜ。今も」
「……諦めが悪いな。――お前も、」
「誰と比べてんだ。……なあ。今は、俺だけを見ていてくれ」
誘うように寄せられて、今度こそ――唇が重なった。選ばない、といっても、嫌なわけではなく。こんな受け入れるような行為はいけないと分かっては居ても、結局は流される。流されても良いと考える。己の心がどこにあるのか、審神者自身にも分からない。
いや、きっと、どこにもないのだ。恋など、やはり己には分からない。
だから誰が相手でも、恋われればこうなってしまうのだ。
『あるじさまがこいとなづけたのなら、それがどんなきもちからくるものであっても、それはこいになるのですよ』
過去に言われた今剣の言葉を思い返す。名前をつけるとすれば、この感情はなんと呼べば良いのだろうかと。そんなことを思いながら、身を委ねるように力を抜く。
確かにここにいる。存在を確かめるように、体温を奪い合うように重ねていく。時折、微かに離れる唇から漏れた吐息は熱く。
何度か繰り返し、再び唇が離れたとき、審神者は腕で己の体を支えるのを止めて、そのまま薬研の胸の上に寝ころぶように頭を置いた。薄い胸板は堅く、落ち着かないというのに、それに相反して心地よいと感じてしまう矛盾がそこにはあった。
「薬研。好きにならなくていい。僕を好きになると、苦労するぞ」
「……まあ、そうだな。振り回されてばかりだ」
「だろう? 僕も、おかしいことは自覚している。自分では誰も選べないのに、誰に何をされてもいいなど……あまりにも、矛盾している」
まるで愛玩動物を撫でるような、慈しみを感じさせる手つきで髪を撫でられる。それはとても心地が良く、審神者は静かに目を細め、そして目を閉じる。
「これだけ長く好意を向けられて――絆されていると、思うところはある。このまま流されても良いと思うことも。だがそれが、許されるはずもない。――だからせめて、お前だけでも――……っ!!」
ところが不意をつくように臀部を鷲掴みにされ、審神者は息を飲む。誰がやったのかは迷うまでもないが、何故そんなことをされるのか分からないまま、慌てて体を離そうとするも、腰に回された腕にそれを邪魔されてしまう。
「っ〜〜何を考えている。今は真面目な話をっ……」
「真面目な話ねえ……てっきり誘われてるのかと」
「断りを入れているっ。分からないか? 僕はお前だけを選べないと――…」
言い掛けた言葉は、反転した視界によって遮られた。上からのぞき込んできた薬研は、むず痒そうな、そんな表情を浮かべていた。
「どう解釈しても、アンタがこのまま衝動に流されて、俺の物になりたいといっているようにしか聞こえん」
面食らった審神者は、慌てて口を開いた。確かに、そう言われると、そうとられても仕方ないような言い方であったような気がする。けれど、決してこの状況を迎えたくていったことではない。
「そ、ういう意味で言ったわけでは……」
「じゃあ何だ。あんな態度で諦めてくれといって、はいそうですかと引き下がるわけがないだろ。少なくとも、俺はそんな真似はしないぜ」
なあ、と。濡れた吐息と共に投げかけられた声。審神者はぞくりと、背筋が粟立つのを感じ取った。
「アンタが好きだ。……アンタは、俺のこと好きか?」
熱を帯びた視線が審神者にむかって降り注がれる。
きゅうと締め付けられた心臓が、今度は忙しなく鼓動し、呼吸の邪魔をする。息苦しさすら感じる中で、確かに己の顔に熱が集まっている。おそらく、今の己はひどい表情を浮かべていることだろうと、そう感じた。
「っ……す、きではない…。嫌ではないけれど、そういうわけでは…」
「……触られるのも嫌じゃない。抱かれてもいいが、好きじゃないってか。そんなんで、どうやって諦めろっていうんだか。悪い男だなあ、大将は」
何もかもを見透かすような視線だった。顔を見られたくないと、手で隠そうとした審神者だったが、その両方が薬研にさらわれて、畳の上に縫いつけられた。隠したいものを露わにされたことで恨めしげに薬研を睨むが、迫力も何もない審神者を薬研が恐れるわけもなく。
「なあ、好きだ」
むしろ、愛しそうな視線を向けられた。
「触れていいか?」
是も、否も、言えなかった。返事をする暇もなかったのだ。審神者の返事を待つことなく重ねられた唇は、少しずつ深い触れ合いになっていった。それはやがて審神者の呼吸すら奪うようなものに変わり、けれど審神者を解放する素振りを見せることはない。
どれだけそうしていたのかは分からない。思考がどろどろになるまでの熱を味合わされて、そして抵抗する気力もわかないまま、審神者はされるがままとなっていた。――否、されるがままを望んだのだ。審神者の手を拘束していたそれは、いつの間にか指と指を絡ませるものに変わっており、いつの間にか、縋るように、強く指を絡めていたのは審神者の方だった。
「……俺のことは、好きか?」
そう問われ、審神者は乱れた呼吸のまま、その返事を吐き出した。
「す……き、じゃない」
言わせようとしていることは分かった。審神者の思考回路をぐずぐずにして、言葉をとろうとしていることは。審神者とて愚かではない。その目的には気づくし、大人しく従う気もないのだ。一瞬好きと言いかけたなど、死んでも言うものか。
審神者の返事に薬研は笑い、けれど諦めた様子もなく、またすぐに審神者の唇を塞いでしまう。くぐもった審神者の声さえ飲み込んで、そのまま審神者の意地を崩してしまおうとしているのだ。
強引ではあるものの、それは審神者を崩すためのもので。審神者の弱いところを攻めるようなそれは、着実に審神者の判断能力を崩していった。
初めは考え事をする余裕もあったというのに、既に審神者は何も考えることも出来ないまま、与えられる熱に身を委ねてしまっている。
(……このまま、では……)
いっそ、応えてしまいたくなりそうだ。好きだ、愛している、と。時折離れた唇から愛の言葉が注がれる度に、審神者は目の奥がじんと熱くなっていくのを感じ取った。もういっそこのまま、そう感じた瞬間は、何度かあった。
「や、げん」
審神者の方から、口づけの合間を縫って名前を呼ぶ。口づけは止められたものの、ぺろりと舐められた感触で、審神者は怯えるように唇を閉じてしまう。それを確かめるように音を立てて口づけされてしまえば、完全に出鼻を挫かれてしまった。
「ああ、どうした?」
息の整わない呼吸は、獣を連想させた。はあはあと、酸素を取り込むことに必死になっていた審神者をぎらついた目で見下ろして、薬研はおかしそうに口角をつり上げた。
頬に唇が落とされ、それは審神者が話の切り出しにもたついている間に首に移動していった。出血するほどでもない甘噛みを受け、審神者は思わず声を漏らす。楽しそうに、薬研は笑っていた。
「…………」
言い掛けた言葉が何だったか、分からなくなる。されるがままの状態で下から縋るように見つめた審神者に、薬研は唾を飲む。その姿が嫌に目に焼き付くと同時に胸が熱くなって、審神者は一層強く、指を絡め合わせた。
「……末恐ろしいな、アンタは」
いって、耳に唇が寄せられる。濡れたような低い声が、審神者の耳に直接吹き込まれる。
「俺にこうされるのは、嫌か?」
「……嫌、じゃない。でも、」
「なら、好きか?」
「っ――……」
「言ってくれ。俺の気持ちは迷惑か?」
ぞわりとする。審神者はくらくらと目眩を覚えながら、唇を震わせた。急かすように耳に吹き込まれる熱が、震える唇の間から声が零れさせる。
「……お前に触れられるのは、すきだ。でも、お前を――んん、」
選びはしないと続けようとした声は飲み込まれ、また、審神者から呼吸を奪い取るような口づけが始まる。己の失言が何だったのかを振り返る余裕もなく、また思考回路を溶かされていく。
「……肝心なことは言わんくせに、アンタはすぐにそうやって俺を煽る。あまり、試してくれるな。こっちも余裕がある訳じゃない」
「……煽ってない…」
お前が勝手に煽られているだけだろうと、そこまでの返事ができるほどの余裕のない審神者である。そう返事をするだけで精一杯だった。審神者の手から、絡めていた指が離れていく。そのまま、どちらの唾液のせいで濡れているのか分からない唇に指先で触れられても、審神者は嫌がることなく受け入れる。
「体はとっくに受け入れてんのに、口だけが素直にならんな。今すぐにでも、アンタを俺のものにしたいってのに……歯痒いな」
「嫌な言い方をするな……」
視線を流して、審神者は横を向いた。
「他の刀とも、した。……お前だけじゃない。この意味が分からないわけではないだろう」
「……アンタがそんなだから、皆躍起になってんだ。流されやすいくせに強情なアンタのことだ。今は例え他の刀にふらついてようが、一度自分で口にした以上――……たった一言好きと言わせるだけで、アンタは必ず一振りだけのものになるってな」
視線を戻すように、顎を掴まれ、顔の向きを変えられる。
「あいつらも俺も、馬鹿じゃねえんだ。アンタの性質の悪さも理解している。その上で、それでもアンタに自分を選ばせたいと、そう思っている。アンタを独占するには、それしかないからな」
真剣な眼差しを受けた審神者がたじろぐように眉を潜める。
「アンタはどうだ。本当に、誰も求めていないのか? 全員、アンタの条件のんで、全力でアンタに気持ちを伝えてるんだ。それを受けた以上、アンタもその心を隠さずに見せる義務があると思わないか?」
「……僕は、」
真っ直ぐと見据えられ、審神者は静かに目を細めた。
心の触れられたくない部分が、じんじんと熱を持っていく。
「アンタの一番そばで、共に歩んで生きたい。勿論、アンタの審神者としての役目を果たしたい気持ちは尊重する。忠誠も、変わらず捧げる。だが、アンタが審神者でなく、一人の人間として羽を休めるとき、その一番そばにいたい」
その言葉は審神者から言葉を奪い、審神者が胸の奥に秘めているものを引きだそうとするものであった。
「っ……!」
――想いの熱さに苦しさすら感じる中、審神者は刹那に、薬研と共に生きる未来を見た。あるはずのない未来。だが、あるかもしれない未来。
疲れたとき、気を休みたいとき、隣にいる姿。少年の姿に合わぬ落ち着きと大人びた振る舞い、けれどその中に触れたら溶けてしまいそうな程の激情を秘めたこの刀は、きっと言葉通り、審神者を支えてくれるだろう。審神者に多くを与えてくれることだろう。審神者を、満たしてくれるはずだ。それが、審神者にはとても目映いものに見えた。
けれど、……それでも、
「……愛など、僕には分からない。同じものを返すことが出来ない。きっとお前には、辛い思いをさせる。……今まで以上に」
だが、審神者には、その相手が薬研でなければならない理由が見つからない。何より、与えられる愛と釣り合いがとれるものは、審神者は何一つとして持っていないと思うのだ。何も、差し出すことが出来ない。
「構わん。それでもアンタが俺を選んで、俺をそばに置いてくれるなら――…」
すり、と、頬を撫でられた。くすぐったくて、けれど、心地よいそれに戸惑いは覚えない。審神者はゆっくりと、唇を開いた。
「――……薬研」
「ん?」
「お前を選んで、終わりじゃない。その先も、きっと、お前を振り回して傷つけて、……幸せには、出来ない」
「違う。俺が、アンタを幸せにするんだ。……いや、違うな。そうじゃない」
両手で頬を挟むようにして触れられる。
「俺はアンタと一緒に幸せを見つけたい。同じ歩幅で進んで、同じものを見て聞いて、共にそれを見つけていきたい――……こう言った方が分かりやすいだろうな」
それを受けて、審神者は、くしゃりと表情を崩す。嬉しいよりも、息苦しさの方が先行する。まるで今までここにあった己というものが、崩れていくような、形を変えてしまっていくかのような、そんな感覚があった。
「お前はいつも、真っ直ぐだな……」
「ああ、じゃなきゃ、鈍感なアンタには伝わらんからな」
「……お前のそんなところが、いつも、僕は……」
その続きは出てこない。代わりに、ぽつりぽつりと、絞り出すように言葉を紡いでいく。
「なあ、僕は……お前を……好きになっていいのか…?」
そう問うた時の薬研は、審神者の予想していた以上に呆気にとられていた。審神者はその表情が意外で、だがふっと笑ってしまう。たまらないというように目尻を細めた薬研の指が、急かすように審神者の唇をなぞっていく。
「……当然だろう。……ずっと、俺はそれを望んでいたんだ」
言ってくれ。そう続けた薬研の言葉に、審神者は少しの沈黙の後、唇を開く。何も考えていなかった。断る、という明確な目的のために放つ言葉ではなく、ありのまま、本音を口にしようとした。
「――薬研。僕は、お前を――」
ごくりと、薬研が唾を飲み込む。
いってしまう。衝動が、理性を踏みにじって、今にも溢れてしまう。
「――……お前の、ことを――……」
続くはずだった言葉は、出てこない。躊躇ったからではない。我に返ったわけでもない。ただ、天井を背景に見上げていた薬研の背後から、見知った存在が表れたからだった。
弾けるような音と共に。毛並みを揺らしながら口を開くのは――この本丸の式神――こんのすけである。
「審神者殿ー!! 緊急の連絡が入りました! 至急、確認をお願いいたします!」
面食らった、とも違う。夢に浮かされていたような状況から、いきなり冷たい水をかけられたようだった。
「こんのすけ……?」
現在の己の状況を踏まえた上で、ここですぐさま毅然と振る舞うことなど出来るわけがなく、審神者は戸惑いを含んだ声を出す。答えなければ、と続けかけた言葉は、審神者の口を塞ぐように薬研の手が伸びてきたことで打ち止めとなった。
「――取り込み中だ。もう少し、後に出来ねえか」
元々、外見に似合わない低い声であった薬研だったが、今発せられた声は殊更に低い。こんのすけに投げられた声は、けれどその圧に屈することのないハキハキとした声で返された。
「なりません! 審神者殿――ひいては、この本丸の今後に関わる指令です! 緊急! ですので!」
沈黙の後――大きなため息がつかれる。審神者の口を塞いでいた手のひらは離れ、苦渋を舐めたような視線だけが審神者に落とされた。何か呟いた言葉は審神者には聞き取れずに、渋々といったように薬研が審神者の上から引いた。
代わりに、こんのすけは審神者の胸の上に飛び乗って、告げる。薬研に押し倒されていた状況に一切触れることなく、何事もなかったかのように。それを少し不思議に思い、けれどそれよりも先に続けられたこんのすけの言葉に意識をとられた。
「お相手は審神者殿のお師匠ですよ!」
その言葉に、審神者は目を丸くした。
「――……お師匠様…?」
それは、審神者となった以上、気安い用で連絡をとらぬようにと言われて以降、審神者の方から連絡をとることをしなかった相手である。こうして指令とはいえ連絡を個人に向けて送られたのは、初めてのことだった。
(――それだけ、緊急ということか)
こんなことをしている場合ではない。真っ先に感じたのはそんなことだった。
「分かった……少し、待ってくれ」
体を起こして、乱れた髪を整える。視線を、薬研には向けられなかった。こんのすけを抱えたまま、審神者は口を開く。
「……薬研、席を外してくれ」
微かに震えた言葉。
「……邪魔はしねえ。ここにいてもいいだろう。こっちの話はまだ――…」
「――いや、駄目だ」
本来、審神者は知己から連絡が来ようと、指令がこんのすけ経由で訪れても、刀剣男士に席を外させるようなことはしなかった。場所がどこであれ。
「駄目なんだ」
だが、相手は師ならば。審神者は胸を押さえて、ぐっと、目を鋭くする。先ほど、こぼしかけた言葉。
――お前を、すきになりたい、と。
そう口にしようとしていた己が、とても卑しいように思えてしまっていた。夢の中にいるようにふわふわとしていた感覚が、一瞬で引き戻されたような、そんな気がしたのだ。
「主命だ。薬研、席を外せ」
「………分かった」
視線を合わせることもなく告げた命令を、薬研は少しの沈黙の後に了承する。足音もなく部屋を出ていった薬研は、微かに襖を閉める音だけを、部屋に残した。それを感じ取って、審神者は正座をして姿勢を整え、大きく深呼吸をして己を落ち着かせる。
忘れてしまえ。先の熱も、薬研のことも。審神者として、使命を全うするために。そう言い聞かせ、審神者は口を開いた。
「こんのすけ――繋げてくれ」
そう言われたこんのすけは、雰囲気を少し変え、目の奥をきらりと輝かせた。まるで、思い通りに事が運んだと、そう言いたげに。
だが――そう意気込み勇んだものの、審神者が師と対話をすることはなかった。回線を繋げられると思っていたというのに、こんのすけが差しだしたのは紐で結われた書面状である。審神者は面くらい、微かに口を開いたまま、固まってしまっていた。
「………文書?」
「はい!」
「直接の連絡では……?」
「いいえ? あのお方も、何かとお忙しい身ですので」
「ああ、そうだろうが……」
審神者はこんのすけに書面で渡されたそれを受け取り、納得できないままに、じっとこんのすけを見やる。
「その……何をしていたか、聞かないのか?」
「? ああ、先ほどの薬研藤四郎殿との密会のことですか?」
「みっ……いや、いい。分かっていて、あの場で連絡を持ってきたのか?」
「お邪魔でしたか?? 審神者殿は、あのような形で返事をしたくないのではと思ってのことだったのですが……」
その言葉にはっとする。こんのすけは全てを理解した上で、あの場で話に割り込んできたのだ。
(……当然といえば当然か。この本丸のこと、こんのすけが把握していないはずがない)
その上で、審神者が下手に返事をしそうになっていることに気づいているのだ。だから審神者の返事を遮るようにあの空間に飛び込んできたのだろう。
全てを察した審神者は、唇を強くとじ合わせて、それから静かに息を吐いた。
「――……いいや。助かったと、言うべきだろうな」
「そうでしょう!? こんのすけはとても優秀なのですよ! もっと褒めて下さっても良いのですよ!」
ぶんぶんと尻尾を振り、そしてこんのすけは続けた。
「では、早速書面の確認を! 緊急であることには違いありませんので!」
「ああ、分かった」
紐を解き、審神者は真剣な表情で紙を広げる。
そこには、簡潔にこう記されていた。
――護衛を一振り従えて会いに来るように、と。
それは、紛れもなく審神者の師の直筆であった。指定されていた日時は三日後、場所は審神者が生まれ育った学びやである。
どのような用件なのか疑念が過ぎるが、ここに記されていないと言うことは、直接でなければ伝えられないことなのだろうと判断する。何にせよ、審神者は気を引き締めていかなければならないのだ。
ふと、小さな不安が過ぎったが、審神者はそれを気のせいだと思うことにした。どちらにせよ、今ここで考えていても答えの出ることではないのだから。
静かに、審神者は目を細めた。
[newpage]
――後日。
「――なあ、もうちっと空気ってもんを読めねえか?」
薬研藤四郎に呼び出されたこんのすけは、きょとんと首を傾げた。
「はい? 空気……でしょうか?」
「ああ。どっからどうみても、取り込み中だったろ。緊急の連絡というから堪えたが、文書での連絡、それも、緊急ってほどの内容だったか? ただの呼び出しだったろ。それも、今日明日の話じゃねえ」
「何をいいます! 緊急です! この本丸に大きく関わってくる内容ですよ! 審神者殿にとって、何よりも可及的速やかに動かねばならないことなのです!」
「……だが、あと少し、ほんの数秒待っていてくれりゃあ俺は――……」
「――審神者殿を手中に納めていたとでも?」
薬研藤四郎の言葉を遮り、こんのすけはそう言い放った。
「……分かってんじゃねえか。あの堅物から言葉を引き出すことがどれだけ骨の折れることか、知らんとは言わせねえぞ」
「勿論存じております! 審神者殿がどんな性格なのか、こんのすけはこの本丸の誰よりも詳細に理解しておりますので! ええもちろん!」
不自然な一瞬。時をあえて止めたような違和感の後、こんのすけは続けた。
「ですからわたくしめは、あのタイミングで審神者殿の元へ向かったのですよ」
ぴりっと、空気が震える。
「全く……審神者殿にも困ったものです。こうなることを見通して、あれだけ情に流されぬよう徹底して育てられたというのに、ここまで来てああも絆されてしまうとは……いはやは、子育てとは奥が深いとでもいいましょうか」
厳かに続ける声は平時のこんのすけとまるで雰囲気が変わっている。人が変わったような、という例えが式神のこんのすけに通用するかは微妙なところだ。
「とにかく一月、こんのすけは審神者殿のために、空気を読んでサポートをいたします! 審神者殿の幸せは、お国のために身を粉にして戦うことですから! あまりに無用なものを抱えられては困るのです! そも、審神者殿は欲しがられているから与えようとしているだけで、別に欲しがってはいませんし!」
ごくり、と唾を飲む。何を言っているのか脳が判断を拒みたくなる。薬研藤四郎のこめかみを、つうと一筋の汗が伝っていった。
「大将の育ちなら知っている。だが、そこまで面倒みるってのか、政府は。面倒見のいいこったな」
「――審神者殿は、契約によって審神者になったわけではありません。国の手足として存在し、生きて、戦い、死ぬまで、あの身は国の管理下に置かれるのです。いわば、あれは国の所有物――勝手が過ぎると困ります」
耳を疑うような台詞。目を見開き、殺気を伴いこんのすけを睨みつける薬研藤四郎に、それでもこんのすけは飄々としていたものだった。
「ああ、何も反対しているわけではないのです。審神者殿に真名はありませんので、隠される心配もありませんし。そこはもう! お互い同意の上であれば、特に上から止められることもないです。そこはまあ、お好きなように、と。自由恋愛というやつです!」
「ですが、審神者殿が求めているならともかく、あのように誘導して了承を引き出すというのであれば、こんのすけは止めなければならないという話なのです」
「こんのすけの仕事は、この本丸――引いては審神者殿のサポートですので!」
軽快に続けられていく言葉に、薬研藤四郎はふるえる口角を釣り上げた。
なるほど、そうかと、合点がいった。
加州清光は、審神者を口説いているときに今剣に邪魔をされたらしい。今剣を呼んだ人物は不明で、聞いても今剣は答えなかったという。だが、実際のところ――その裏にいたのは、邪魔をしていた存在は――この式神だったのだ、と。
「――はっ。だったら、もう遠慮なんざしねえ――いいか? あの男は、必ず俺が貰い受ける」
「ええ! お好きにどうぞ! こんのすけはただ、審神者殿のために動くだけですので!」
それが分かっているならば、対処とて出来る。次こそは必ず審神者を落とすと意気込む薬研藤四郎を前に、それでも飄々とこんのすけはしっぽを振っていた。
まるで、この問答さえも計画通りとでもいうかのように。
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