長い時間を経てようやく刀剣たちと親睦を深めようなどと思っていても、全員と仲良くなることは難しい。もう一年以上審神者をしているのだから、全員揃ってはいなくとも、そこそこの刀剣が集まっている。
(鍛刀や脇差はともかく……どうしても、他の刀剣たちは後回しになってしまうからな)
おやつ当番など、優先されているのは短刀や脇差だ。それ以外も比較的外見年齢が低い者がなにかと優先されているため、外見年齢の高いそれ以外の刀剣男子とはあまり密な関わりを持てていないのが本丸の現状である。
審神者と仲良くしたい強い意思があるのであれば、脇差と短刀以外であっても、関わりはある。加州清光や小狐丸、和泉守兼定がその例だ。向こうからアピールがあれば答えられるが、そうでなければ接点を持つことは審神者には難しいことであった。
つまりは、審神者と特に仲良くしたいと思ってはいない者も、中にはいるということ。長い間接点のなかった審神者に、今更になって関心がわかないという者もいるらしい。おやつ当番は順番で回ってくる。けれど己のおやつ当番時に、その権利を他の刀剣に譲る刀剣たちも一定数いることがその証拠である。
(甘えてばかりではいられない。時間を作って、こちらから声をかけていかなければ。待っているだけでは、決して仲良くはなれないのだから)
最近では、審神者はそんなことを考えているのだ。
(……ようやく届いた)
割れないように厳重に梱包された長方形の箱を手に、審神者は微笑む。これでようやく、例の計画を実行することが出来るのだ。審神者は箱を開け、大事に大事に箱の中身を取り出した。
(……うん。流石だな。値がはるわけだ)
この箱の中身は、日本酒である。ただの日本酒ではない。有名な地酒、入手困難で少々値の張る一品。まごうことなき一流品である。普段は日本酒どころか、度数のないカクテルさえも一切飲まない審神者には、その価値は具体的には分からないが。
(酒か……付き合いで飲んだことはあるが、それほど美味しくもなかったな……)
以前、審神者としての教育を共に受けた者たちと飲んだことがある。昔なじみ、というやつだ。初めての酒、楽しいかと思ったが、そんなことはなく。味覚に追いついていなかったのか、審神者はすぐに酒を美味しいという昔なじみに酒を押しつけて、すぐさまお茶に切り替えたものだった。
(だが今は、味覚は変わっているかもしれない)
幼子が苦いと嫌う野菜が、大人になると美味に感じるように。ましてやこんなにも良い地酒。きっと美味いに違いない。
(長谷部と飲むのが楽しみだ)
どんな話をしよう。どんな長谷部を見ることが出来るだろう。
とても楽しみで、審神者はふっと笑みをこぼしていた。
へし切長谷部と、審神者はあまり関係を持てていない。
堀川と和泉守から聞いた話によると、長谷部は審神者のことを――なんといえばいいのかは分からないが、とにかく、嫌ってはいないらしい。それどころか、相当好いていると、そういっていた。
(見つからないな……)
長谷部を探して、本丸の中をさまよっていく。
前もって確認して置いたことだが、長谷部は今日は内番も遠征も出陣もないはず。部屋にいってもいなかったし、後はどこを探せばいいのだろうか。そう悩んでいた審神者だったが、ふと、訓練場には行っていないことに気づいた。そうと分かれば一度出向いてみようと決めて、審神者は早足で歩き始める。
「ああ、いたいた」
そうして覗いた訓練場で、ようやく長谷部の姿を見つける。どうやら、燭台切光忠と手合わせをしている途中らしい。
「……あるじ?」
「やあ、小夜」
二人の訓練を眺めていた小夜左文字の横に並ぶと、物珍しそうな目で小夜は審神者のことを見る。
「どうしたの……? ……暇?」
「あはは……長谷部に、ちょっと用があってね」
「……止める?」
「いいや。折角だから、もう少し見学させてもらうよ。急ぎではないから」
「そう……」
そう言って、少々審神者の存在に戸惑っているらしい小夜の頭の上に手のひらをのせる。優しく頭を撫でてあげれば、表情には出さずとも、小夜の雰囲気は柔らかくなった。顔や言葉に出さずとも、こんなに感情が分かりやすい。そういうところが可愛らしい。
ふわふわする髪質は、猫の毛を連想させた。撫でながら、視線を手合わせ宙の二振りに向ける。相手の太刀筋を見定め、避け、いなし、隙をついて攻める。圧倒されてしまう身のこなしをする長谷部に、素直に感心した。
「……あなたは、」
「うん?」
じっくり見ていた審神者は、そう小夜に聞かれたことで視線を小夜に向けた。小夜はあまり声が大きい方ではないので、審神者は屈んで小夜の唇に耳を寄せる。
「なにかな?」
撫でながら小夜の顔をのぞき込めば、ほんのちょっぴり頬を淡く染め上げて、審神者から目を逸らしてしまう。
「……なんでもない」
そしてそう言って、黙り込んでしまう。何でもないことはないはずだ。間違いなく、何か、審神者に聞きたいことがあるはずだった。けれど途中で言いよどんでしまった小夜の意思を汲み、審神者は何でもないように優しく微笑んでみせた。
「そうか。思い出したら、教えてくれ」
そういって撫で撫でする。小夜は審神者の申し出に、小さく、うんと頷いた。
「あれ? 主じゃないか。どうしたんだい? ここまで来るなんて珍しいね」
手合わせに区切りがついたのか、額の汗を手で拭っていた燭台切が審神者の姿を見て手を振った。
「やあ。見事な腕前だな、燭台切。惚れ惚れしたよ」
「そうかい? そう言ってもらえると嬉しいなあ」
それに手を振り返しながら言えば、燭台切は素直に爽やかに受け答えた。燭台切は長谷部とは違い、審神者に背中を向けていなかったため、より早く審神者の様子に気づいたらしい。
「――主?」
燭台切のおかげで審神者に気が付いたのか、遅れて長谷部が審神者の方を振り向いた。目を丸くして、信じられないといった驚愕の表情を浮かべる長谷部にも、燭台切にしたのと同じように手を振る。
「長谷部も見事だったよ。やはり、長谷部の機動力は素晴らしいね」
褒めるにしてももっと語彙力が欲しいところである。そんなことを思いながら、審神者は口を開けたまま固まってしまっている長谷部に続けた。
「長谷部。少し時間を貰えるかい?」
一時の間を置いて、長谷部はこくこくこくと頷いた。
どうやら言葉が出てこなかったらしい。
燭台切と小夜の手合わせを見ながら、壁際に並んで立つ。審神者は隣で明らかに緊張してしまっている長谷部に、何か前菜のような話や、本題とは関係のない話題を持ってきた方が良いのかとも考えた。畳の上で座らせてしまわなければ、長谷部の身が危険だと言った堀川の言葉を思い出し、審神者は困惑してしまう。あながち、大袈裟な表現でもないらしい。
(本当に、今にも気を失ってしまいそうな表情だ)
そうでなくても、体もガチガチだ。なんというか、全体的にみてとてもぎこちなく、違和感に溢れた佇まいである。
「あ! あの! きょ、今日はななん、何のご用でしょうかっ!!」
審神者と目を合わせないようにか、明らかに審神者から視線を逸らしている長谷部。審神者は堀川の言葉が真実になることを恐れて、長谷部の服を掴んで、くいくいと引っ張った。
「……主?」
「少し、座って貰えるだろうか?」
そう言えば、長谷部はようやく審神者を見て、疑問符を頭の上に浮かべながらも床に正座をした。そしてそれに倣うように、審神者も長谷部の前で正座をする。長谷部は背筋をぴんと正した良い姿勢で、主である審神者の言葉を待っている。
「長谷部」
「はい」
長谷部の緊張を解いてから、とも思ったが、そんなことをしていたらどれだけ時間がかかるか分からないと判断して、すぐに決着をつけることに決める。
「今夜、私の部屋に来て欲しい」
真っ直ぐと長谷部の目を見てそういえば、長谷部は小さく目を丸くして、呆気にとられたかのような表情をしたきり、動かなくなった。真っ向勝負で誘いをかけた審神者は長谷部の返事を待つが、固まったまま、長谷部は動こうとしない。
「……長谷部。難しければ、別に良いのだけど、どうだろう?」
嫌かもしれない可能性を考え、審神者は長谷部の逃げ道を用意する。審神者と過ごすことが嫌ならば、強制することはない。今まであまり話をすることが出来なかったのに、今更急に月見酒に洒落込もうなどと、確かに、審神者にのみ都合の良い話であるのだから。
悲しくないといえば嘘になる。本当は、長谷部は審神者の申し出を二つ返事で受けてくれるものだと思いこんでいたから。
「……長谷部。だめかい?」
いつまでたっても反応どころか一言も返さない長谷部に、審神者はそう問いかける。どちらにしても、返事は欲しい。
長谷部は少しだけ俯いた後、動揺しているのか、顔を真っ赤にして体を小さく震わせたまま、声を絞り出すようにして喋り出す。
「主が、私が良いと仰られるのであれば、全力を尽くします。その……あまり経験はありませんが……」
そう力む長谷部に、審神者は首を傾げる。
(全力……経験? 何の話だろう?)
疑問に思ったが、動揺して噛み合わない返答をすることはよくあることだ。すぐにそう思って、審神者はくすりと笑った。
「ああ。よろしく頼む」
「っ……有り難きお言葉です。命に代えましても、必ずや主を満足させて見せます!」
「? そんなに堅苦しいものではないよ。気楽にね」
ただの酒飲みに命を代えられても逆に困る。長谷部の色良い返事を貰った審神者は、立ち上がる。長谷部とお酒を飲めることが分かった今、残りの仕事を確実に片づけておきたかった。
「ではまた、夜にね。楽しい夜にしよう」
「は、はいっ!」
未だ足を崩さない長谷部に言えば、すぐさま良い返事がくる。元気があるのは良いことだ。そして燭台切と小夜の二人に軽く手を振りつつ、審神者は訓練場から出て行ったのだった。
長谷部のことは、よく知らない。勤勉で何事にも真剣で、堅苦しいと他の刀剣に表される長谷部のことは、審神者自身、よく分かってはいないのだ。なにせ、手入れや鍛刀はともかく、それ以外のことで清光以外の刀剣男子と関わってきたことがないのだから。
(でも、楽しみだ。長谷部とは、話が合うような気がする)
己もどちらかと言えば生真面目、堅物、なんて言われてきたタイプの人間だ。そういう点では、長谷部とは同類であるような気がしてならない。価値観が近ければ、さぞ話も盛り上がることだろう。
(長谷部はまだだろうか)
氷水で冷やした日本酒も、コップも、既に用意してある。そして何より、今夜は月がとても綺麗だ。縁側に座り、柄にもなく足をぷらぷらと揺らしながら長谷部を待つ。そわそわして、長谷部を呼びにいこうかなどと考えたのは、もう二度や三度の話ではない。
「……主。申し訳ありません。遅くなりました」
そうしていてようやく、長谷部は姿を見せた。審神者はぱっと笑って、隣をぺしぺしと叩いて座るように要求する。
「ちょうど良かった。今、用意をしたところなんだ。さあ」
本当は、もう三十分ほど待っている。だが、あえてそれを長谷部に伝える必要もない。急かすようにいえば、長谷部はぎこちなくも速やかに隣に腰をかけてくれる。寝間着を着ているからか、昼間のジャージや出陣の戦衣装とも違う、気の抜けた感じを受けた。
「っ……失礼します」
そうやって長谷部が座る間に、審神者は傍らの盆の上に置いていたコップを手に取り、長谷部へ渡す。いまいち状況を把握できていないらしい長谷部は、怪訝な表情でそれを受け取った。
「あの、主、これは……」
どこか不安そうにも見える長谷部に、審神者は氷水で冷やしていた酒の瓶をとりだした。大きくて重量のあるそれを抱えるのに少し手間取ったが、無事に取り出すことの出来た審神者は、長谷部に見せつけるように持ち直す。
「取り寄せたんだ。飲んだことはないが、有名な地酒らしい。日本酒は好きかな?」
「ええ、嫌いではありません。……その、それは、私と飲むために?」
「ああ。長谷部と一度じっくり話してみたくてね」
言うと、長谷部はじんわりと目尻に涙を浮かべて、感慨深そうに胸を押さえてうずくまった。思っていた反応の斜め上をいく長谷部の反応に、審神者は焦って長谷部との距離を近づける。
「どうした? もしかして、あまり酒は得意ではなかっただろうか?」
「いっ、いいえ! そんなことは!」
両膝の間に顔を埋めるようにしている長谷部の表情は、審神者からでは確認できない。地雷を踏んでしまったのかとも焦った審神者を、慌てて長谷部は否定する。
「……光栄です」
「そうか? ならいいけれど……」
そこまでいうほどのことではないのに。そう思いながらも、審神者は慣れない手つきで酒瓶の蓋を開けにかかる。力を込めてぎゅっと空けようとするが、思っていたよりも堅くしまっていた瓶の蓋に苦闘してしまう。
(あれ? 堅いな……酒はこんなものなのか?)
スマートに空けることが出来るとも思った。こんなに苦労するとは。やはり値段の張る良い地酒は違うようだ。一筋縄でいかない。
「すまない。もう少し待ってくれ」
そう感心しながらも、いつまでたっても蓋を空けることの出来ずに悪戦苦闘する審神者に、何の感情を表しているのか分からないうめき声を上げていた長谷部がそろそろと手を伸ばしてきた。
「あるじっ……良ければ私が」
「そうかい? なら、お願いしようかな」
長谷部を見れば、なんとか平常心を保っているという感じで、どことなく挙動不審だ。落ち着くことも出来ていないのに、審神者を気遣ってくれるとは、優しい。審神者は、両腕で抱えた酒瓶を長谷部に手渡した。コップを一時床に置いていた長谷部は、審神者から瓶を片手で受け取ると、空いている手でいとも簡単に開けてしまった。
「……すごいな!」
流石は長谷部だ。素直に感心すると、長谷部は何故か視線を泳がせながら両腕で瓶を抱え、先を審神者に向ける。
「お注ぎします」
「ああ、ありがとう」
出来れば先に長谷部についでやりたかったが、まあ、どちらでも大差はないだろう。そう割り切った審神者は己のコップを長谷部に向ける。
「では、失礼して……」
とぽとぽとぽ。そんな音を立てて透明なコップに継がれていく水のような液体。けれど水とは違うのは、注いだそばから少し甘い香りが鼻をくすぐってくるところだろうか。半分よりも上ほどに注がれたところで、長谷部は注ぐのをやめる。
「ありがとう」
「いえ」
「よし、じゃあ、次は私が注ぐよ」
コップを盆の上に置き、長谷部の方へ両腕を伸ばす。
「! いいえ、主にそんなことをさせてしまうのは……」
「良いじゃないか。今夜は無礼講だよ」
そう言って、半ば強奪するように長谷部から酒瓶を奪う。
「さあ、長谷部も」
既に日本酒の香りだけで酔ったのかもしれない。ぐいぐいと押していく審神者は、普段の受け身からは考えられないくらい積極的である。これも、審神者の進歩の内だろう。
「……は、はい」
緊張は未だ溶けていないらしい長谷部がコップを差し出し、審神者は両腕で酒瓶を抱えるようにして長谷部のコップの中に酒を注いでいった。堀川と和泉守が酒を飲むとすごいと言っていたから、少し量を控えて、とりあえず審神者のコップの中身を同じくらいを注いでおくことにする。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。まだまだいっぱいあるから、たくさんおかわりしてくれ」
そうして蓋をしめて、審神者は酒瓶を氷水の中に戻す。そうして酒の温度ですっかり冷たくなっていたコップを持つと、長谷部に向けて掲げてみせる。
「長谷部。乾杯」
「はい!」
軽く触れあわせたコップから、きんと響く音がする。久しぶりに飲む酒にドキドキしながら、そっと審神者はコップに口を付けた。
「美味しいですね」
「……ああ、そうだね。とても美味しい」
鼻から抜けていく香り。するりと喉を通り抜ける感覚。とても美味しかった。酒が合わないままでなくて良かった。そう安堵した審神者は、両手で挟むようにコップを持ちながら、綺麗な月を見上げた。
「月が綺麗だ」
そうこぼせば、長谷部も「はい」と呟くように答えた。それから少しの間なにも話さずに月を見上げていると、不意に長谷部が話を切りだしてきた。
「主、……今夜は何故私を選んでくれたのですか? 主は、加州や小狐丸ばかりを溺愛しているものとばかり……ですから主にお会い出来る機会がないので……俺は……」
飲み始めたおかげか、長谷部は少しだけ緊張が溶けたようだった。流暢に話し始めた長谷部をじっと見れば、長谷部は泣いてしまいそうな表情を既に浮かべている。
「……俺は……とても、さびしく……」
泣き上戸とは聞いてはいたが、早速酔いが回ったようだ。コップの中はまだ半分残っているというのに、酒の回りが早いのか。それとも酒に弱いのか。
冷静にそう思う反面、長谷部からこぼれ落ちた感情に、静かに心を揺らされる。やはり、清光や小狐丸はそういった評価を受けているらしい。反面、他の刀剣には興味がないのだろうというイメージもついてしまっているようだ。
「……私は、どうにも受け身がすぎたみたいだ。近づいてきてくれるものばかりに目がいって、そうでないものには距離を置いてしまっていたままだった」
長谷部の方から何か反応があったのなら、応えていただろう。だが、そうでないのならおそらく、長谷部とこのように酒を酌み合わせることなど考えもしなかった。堀川や和泉守から教えて貰えなければ、きっと今後もそういったことはなかったのかもしれない。
「寂しい思いをさせてすまなかった。長谷部」
そう言うと、長谷部はぐしゃっと表情を崩してしまう。うつむき肩を震わせる長谷部と距離を縮めて、片手でその頬に触れる。泣いてしまわないように、宥めるように、そっと優しく撫でていると、長谷部はどこか切なそうな表情をみせた。
「……冷たいですね。主」
「気持ちよいだろう?」
日本酒はきんきんに冷えているため、つられて指先もひんやりとしているのは当然だ。「はい」と答えながら、長谷部は泣きそうな顔から一転、ふにゃりと笑って見せた。
「ところで、聞きたいことがあるのだけれど」
「はい。なんでしょう? 俺に答えられることならば、何でも答えます」
噛むことなくすらすらと紡がれる言葉。これぞ本来の長谷部という感じがする。気の良い返事に、審神者は唇を弧にしていた。長谷部から手を離し、またコップを持ちなおした。
「実はね、長谷部のことは、堀川と和泉守から聞いたんだ。長谷部がその……私のことをよく考えてくれていると。けれど、今まで長谷部とよく話をしたことがなかったから――どうして、そんなに私を想ってくれたのだろうかと」
こうして口にすると、まるで自惚れているとしかいえない発言だ。自分で言っていて、どこか薄ら寒く思えてくる。妙な心地になった審神者は、それもやむなしだと割り切って、長谷部に目を向ける。
「……どうして、ですか」
コップの中の日本酒を見下ろしながら、長谷部はぽつりとそうこぼす。そして、しばらく沈黙した後、それをぐっと飲み干した。
(おお、良い飲みっぷりだ)
ちみちみしか飲めない審神者には、その豪快な飲み方が格好良く見える。おかわりと思って酒瓶をとり、長谷部に向けると、長谷部は両手で上品にコップを抱えて審神者にさしだした。
「……主は、あまり皆の前に姿をみせない御人でした」
とぷとぷと注がれる水音を挿入歌代わりに、長谷部は語り始める。注ぎ終わって酒瓶を抱えた審神者は、そんな長谷部の言葉を遮ることなくじっと耳を傾ける。
「ですから、確実に主に会えるのは手入れ時くらいのもの。出陣前や遠征の勅命など、加州が代理で受けることが多かったですしね。俺は主のことを何も知らないまま、過ごすほかありませんでした。気になってはいましたが、加州以外のものを近くに置かない貴方には、俺は近づくことすら許されていませんでしたから」
そう言って、休むように一口。そうしてぼんやりと、月を見上げる。
「そういうものならば仕方がないと、受け入れる他ありません。それが主の意思ならば、俺はそれに従います」
ふっと、唇がゆるんだ。
「けれど、主のことをもっと知りたいと――俺は、こんのすけに主のことを教えて貰っていたのです」
「……こんのすけに?」
「はい。油揚げ三枚で、教えてくれました」
「安い…な、」
個人情報を油揚げ三枚で漏出は些か問題があるのではないだろうか。審神者はそう思いながら、けれど長谷部の話を遮ってしまうのは本意ではないのでその程度の言葉で流す。
「――俺はっ! 感激したんです!」
急に大声でそう叫んで立ち上がった長谷部に、審神者は大きく体を震わせる。あまりに驚きすぎてコップの中身が少々こぼれてしまった審神者は、被害状況を確認するべく、コップを置いてから、手を動かした。
寝間着に触れて、まあ、これぐらいならば自然に乾くかと思う審神者の隣で、酒の入った長谷部の熱弁が始まる。
「主はたぐいまれな霊力を有し、幼い頃から審神者になるべく日々教育を受けてきていたと! 故に審神者としての心構えを何より大事にしており、そのために必要以上の干渉をせず、凛と審神者として執務に励んでいるのだと!! その志に、姿勢に、俺は感動したんです!」
その迫力に呆気にとられ、審神者はぽかんと口を開けたまま固まってしまう。別に隠すような生い立ちではないが、ここまで長谷部が己のことを知っているとは思わなかった。
「ですから俺は、影ながら主を支えようと決めたのです! 例え、主と相見えることがなくとも、主が、俺に興味を抱かずとも……それでも、自らの使命に努める主を、支えることが、出来さえするのならば……それで良いと……」
最後の方は、無理矢理に絞り出しているような声だった。
長谷部の本音を聞くにつれて、審神者は胸が痛むのを感じた。ちょうど、心臓のあたりがチクチクと、針でつつかれているようだ。
(私の行いを受け止めて、それでもなお、長谷部は私のことを……)
支えてくれていたのだ。何の文句もなく、ひたすらに、気持ちを押し殺していたのだ。
(清光だけでは、なかった……)
つくづく、己が嫌になる。こんな風に、自分でも気づかない内に、ここまで追い込んでいた者がいたことになど気づかず。酒を飲んで話せばなど、暢気に考えていた自分の目を覚ませてやりたくなった。
「……そうだったのか」
そんな言葉を口にすることしか出来ず、そのまま審神者は黙り込む。しんとする空間で、長谷部は何も言わずに黙り込んだ。長谷部は静かにまた座り直すと、コップを持つ手に力を込めていた。
「ですが主は……変わりました」
怒りと悲しみ、その二つがぐちゃぐちゃに混ざり合ったような声。そんな声で、長谷部は続ける。
「刀剣たちと話すようになり、笑いかけるようになり、触れあうようになり。俺の知っていた主は、消えてしまった」
ぽたりと、長谷部の目から涙がこぼれ落ちた。膝の上や、コップの中にぽたぽたとこぼれる涙に、審神者は言葉を失った。長谷部が酒を飲むと主、主、という。その情報の意味をはき違えていたのだと実感したのである。
決して主が恋しいわけではない。主が憎らしいのだ。
散々苦しめた挙げ句に勝手な振る舞いをする主に対する怒りを、酒の酔いと共に吐き出しているのだ。
「主っ……俺は、何のために我慢したのですか? 俺の今までの決意は、一体何だったのですか? 俺は、主にとって一体……」
それ以上は、言葉にならなかったらしい。長谷部がそう心の内を吐き出したとき、審神者は頭の中が真っ白になったのである。仲良くなれるなんて感嘆に考えていた己が情けなく、こうして泣いている長谷部にかける優しい言葉の一つさえ思い浮かばない。
「……すまない。すまない、長谷部」
ただ、その言葉を絞り出すだけで精一杯だった。かたかたと、コップを持つ手が震え、次に何をすれば良いのかも分からないまま。審神者は、ただ長谷部の涙から目を逸らすこともできずに、寄り添うだけのことしか出来なかったのだ。
審神者が変わったことで救われた者がいる一方、変わったことで苦しむ者もいる。審神者はその事実にどうしようもなく苦しくなってしまう。
「俺が、俺ばかりが主を深く想っている。それがとても苦しいのです、主」
その言葉に、審神者は長谷部との距離をさらに詰めた。コップをおいて自由になった両腕を広げて、長谷部をそのまま強く抱きしめる。逞しい体は子供のように震えていて、言葉で気持ちを伝えられなかった審神者はせめて行動でと、精一杯に腕に力を込めた。
ぎゅうと瞼を閉じて、今までの己の勝手を思い出す。声が震えた。
「すまない。お前を、ひどく傷つけてしまった」
謝ると、長谷部は小さな声で「主」と呟いた。
そうして少し経って、ぽつりと話し出す。
「……いいえ。俺は、謝ってほしいわけではないのです」
そう言って、長谷部は持っていたコップを横に置き、審神者の腕から離れるように身をよじった。それに気づいた審神者が、長谷部への抱擁を解いて身を離す。すると長谷部は空いた両腕を審神者の両肩の上にのせた。
未だ涙に塗れる瞳に、審神者はそっと手を伸ばす。目尻の涙を指で拭うと、長谷部は逃がさないようにと、審神者の手を掴んで自らの頬に押し当てた。
「ただ俺は――…貴方が欲しい」
すがるように審神者の手のひらに頬を寄せ、そう呟く。
真っ直ぐな瞳で見られ――ようやく、初めて長谷部と目が合ったと思った。
そのまま、肩に置いていた手を審神者の腰に回すと、長谷部は審神者の体を引き、強く強く抱きしめた。
「俺をそばに置いてください、主。きっと、お役に立ってみせます。今度こそ貴方のそばで、俺は主命を全うしたいのです」
強い感情が籠もっている。審神者は長谷部の背中に手を回して、胸に顔を埋めた。長谷部の本音――ずっと審神者に隠してきた希望。
「……長谷部」
審神者は名を呟いて、静かに目を閉じた。
「ああ。これからまた、よろしく頼む。私のそばで、私を支えてくれ」
そう返事をすれば、少しの間をおいて、長谷部がまた泣き出しそうな気配がした。涙が止まったとばかり思っていたが、まだそうではないのか。顔は見えないが、それがなんとなく分かった審神者は、長谷部の自由にさせることにした。
泣きたいのであれば付き合うし、文句があればいつまでも聞こう。そうする義務が己にはある。そして何より審神者自身も、そうしてやりたいのだから。
「……はい、主」
静かな声でそう答えたあと、しばらく長谷部は審神者のことを離そうとはしなかった。
そうして長谷部が落ち着いた頃、審神者と長谷部は色々な話をした。審神者が変わる前のこと、変わった後のこと、これからのことも。審神者が話すのを目を輝かせて長谷部が聞いたり、逆に長谷部の話に審神者が静かに耳を傾けていたり。
「……そろそろ、寝ようか」
いつしか夜も更け、夜中にさしかかろうとする。酒瓶の中身は、半分になっていた。酔ってはいるようだが、長谷部は酒に弱いというわけではないらしい。一方の審神者も、それほど酔いで人格が変わることもなかった。少し頭はぼんやりするが、酒にはそこそこ強いらしい。新しい発見だ。
「っ……! は、はいっ……」
そう言った審神者の言葉を理解した瞬間、長谷部は体をこわばらせた。まるで酒を飲む前の長谷部のようだと感じた審神者は、それを不思議に思いながらも、特に気に留めはしない。
「――っと、」
「主!」
足を縁側に上げて、立ち上がる。足に思うように力が入らず、ふらついてしまった。
「平気だよ」
なんとか片膝をついて、転倒は回避する。心配そうにする長谷部に向かってそう言って立ち上がろうとした矢先、長谷部は審神者の肩に腕を回してきた。それに立ち上がるのをやめて長谷部を見上げれば、長谷部は熱に浮かされた顔でまっすぐと審神者のことを見つめていた。
「俺が、布団まで運びます」
「……長谷部」
まるで介護。そこまでしてもらう必要はないのだが、折角の長谷部からの親切。受けとっておくことは悪い事じゃないと、審神者は静かに微笑んだ。
「ありがとう。頼むよ」
「はい」
そういうと、長谷部は審神者を横抱きにして立ち上がる。長谷部も審神者以上に飲んでいるはずだが、まるで酔いが冷めたかのように足腰はしっかりしている。
心配がないといえば嘘になるが、審神者の部屋はすぐ後ろ。しかもすぐに睡眠できるように、布団も予め用意している。
「長谷部は酒に強いんだな」
「いえ、いつもこうではないのです。ですが今日はどうにも、酔いが冷めてしまったというか……俺も、やはり緊張しているようです」
「緊張なんて。今は主従など気にしないでよいのだから、楽にして」
「は、はあ……」
目を閉じて長谷部に身を預けていた審神者だったが、部屋に入った長谷部が足を止めてしまったことで目を開ける。下から見上げれば、暗がりの中で長谷部はどうやら戸惑っているようだった。
「っ……」
「長谷部。どうした?」
そう問いかければ、長谷部はどうやら困惑している様子だった。
「その……布団が、」
言われ、審神者は部屋の中をみる。じいっと見れば布団が確認できるだろうが、だからどうしたというのか。何もおかしいところはない。
「準備しておいたんだ。すぐに寝られるだろう?」
布団があると思わなかったために、その存在に驚いたのか。そう考えたが、やはりそこまで驚くようなことには思えない。思えば、ここで違和感に気づくべきだったと審神者は後に後悔するのだが、現時点の酔っぱらいは何も思わない。
(長谷部もやはり酔っているんだな)
冷めたといってもあれだけの量のアルコールがすぐに分解されるわけではないのだろう。頭もぼんやりしているのだ。きっと、今の審神者と同じように。うっかり落とされぬように長谷部の首に回した腕に力を込めると、長谷部はごくりと生唾を飲んだ。
静かに審神者の部屋に入り、まるで壊れ物を扱うかのように、長谷部はゆっくりと審神者を布団の上に降ろした。足を楽にして布団の上に座ると、片膝をつけて布団の外にしゃがんでいた長谷部は、そっと手のひらを審神者の頬に当ててきた。
「……主」
たどたどしいというか、腫れ物に触るようにとでも表すか、妙にくすぐったくて、審神者は笑みをこぼす。
「長谷部の手は熱いな」
やはり長く飲んでいては、コップも酒も温くなってしまうか。脳天気にそう考えていると、長谷部はもう片方の手で審神者の腰に手を回した。そして乱れた呼吸と共に、静かに口を開いた。
「主。このような経験はありませんが、必ずや主を満足させると、約束いたします」
「……約束?」
「はい。ですから、俺に身を任せて下さい」
一体何の話をしているのだろう。そんなことを考える暇もなく、審神者は腰を引き寄せられて、長谷部の胸の中に飛び込む形になった。頬に触れていた長谷部の手は、いつのまにか審神者後頭部に回っている。
「はせ――…」
上を向かされ、長谷部の顔を見上げると――状況も把握できぬまま、唇を塞がれた。
何が何か分からぬまま、とても熱い感触が唇に触れていたことにだけ意識が集中する。小さな水音を立てながら、何度も触れては離れを繰り返す。角度を変えながら、吐息ごと呑み込むような激しいものへと変化していった。
思考が追いつかないながらも、審神者は抵抗するように長谷部の胸を押した。けれど思ったより力が入らず、体勢のせいで、足にも力をうまく入らない。そんな気持ちはないが、されるがままだった。
「っ、んんっ…」
離れた隙をねらって、呼吸のために口を開けば、熱い舌がねじ込まれ、さらに呼吸が難しくなった。口内を蹂躙されながら、先ほど飲んでいた日本酒の香りが鼻を抜けていくのが分かった。そのせいか、それとも熱に犯されているせいか、審神者の頭はくらくらと揺れていた。
「――っ!!」
ふと、寝間着の隙間から節ばった大きな手が入ってきて、肌をなぞる。かと思えば、そのまま、布団の上に押し倒された。
審神者に馬乗りになった長谷部は、ゆっくりと、審神者を口づけから解放した。代わりに、熱をもった長谷部の手の感触が鎖骨の方から胸元にむかってなぞっていく。ぞわぞわと背筋をおかしな感覚が走って、慌てて審神者は口を開いた。
「は、はせべ、」
乱れた呼吸のせいで、うまく言葉が出てこない。長谷部の名前を絞り出せば、審神者ほどではないが呼吸の乱れた長谷部は、ひどく熱に浮かされた瞳で審神者のことを見下ろしている。
「……大丈夫です。信じて、身を任せて下さい」
後頭部に回っていた手がいつの間にか首筋をなぞり、肩にかかった寝間着を下げていく。汗をかいていたのか、脱がれたところから触れる空気がひやりとしているように思えた。
「ちがっ、はせべ、ちがう、」
このままではいけないという危機感が、アルコールで緩くなった意識の中にも残っている。長谷部の胸の前の寝間着を掴んで訴えるも、本気だと思われていないのか、長谷部は真剣に受け取っていないようだ。
「っ、んん、まって、あっ」
首に長谷部は唇を寄せ、上から下に向かって落とすように口づけを繰り返していく。時折ちくりとした痛みを感じながらも、唇を解放されたことで呼吸を少し整えられた審神者は、ひたすら一つの言葉を繰り返す。
「まて、まって、待って」
帯に手をかけられ解かれた瞬間、ようやくはっきりとした大声を出すことが出来るようになる。大きく息を吸って、出来る限りの声量を出す。
「――待て!!」
手にかけていた長谷部は、その審神者の言葉でようやく動きをとめた。
「……主? 俺は何か、粗相をしましたか?」
そう言って審神者の顔を不安そうな表情で見上げてくる長谷部に、審神者は呼吸を整えながら口を開く。
「粗相……というか、これは何の真似なんだ」
もう何から手をつけてよいのか分からない。審神者も頭の中がぐちゃぐちゃだ。審神者の問いに眉をしかめた長谷部は、少しの沈黙の後、掠れた声で口を開く。
「主の夜伽の相手を……」
「………夜伽?」
「はい。そのつもりで、俺を今夜呼んだのでしょう?」
熱に浮かされていた表情が、少し冷静なものに戻っている。長谷部の声色から、本気で長谷部がそう思っているのだと気づいて、審神者は顔をしかめて己の顔を隠すように手のひらを置いた。
なんとも形容しがたい気持ちで、長谷部を飲みに誘ったことを思いだしながら、審神者は悔しそうな声で告げる。
「うちの本丸に、そのような習慣はない……!」
怒っていいのか泣きたいのか情けないのか、そのどれかなのか分からない。
(そうか、あれを、夜伽だと捉えたのか……)
確かに、思い返せば、そうとれなくもない誘い方だった――とはやはり思わない。そんなもの、本人にそういった思考がないと成立しないだろうに。無理矢理が過ぎる。何故そんな結論にたどり着いてしまったのか。眉間にしわを寄せながら、審神者は手のひらを顔の上から引いて長谷部を見た。
「俺は、小狐丸の代わりなのでは……?」
本気で吃驚している表情だった。その表情を見ると審神者は怒るに怒れず、長谷部に当たり散らすことももちろん出来ず、もやもやとする胸の内を抑えつけてグッと堪える。
「小狐丸が夜伽をしたことはない。いつも、添い寝をしているだけだ」
気怠い上半身を起こすと、長谷部も審神者の上から退いて布団の上に座る。その前に座り、審神者はため息をついた。
「小狐丸はややこしい言い方をしたのだろうが……そんな関係ではないよ」
「では、小狐丸が主の閨に出入り禁止になったという話は……」
「ややこしい噂を振りまいていたから、しばらく出入り禁止にしたんだ」
「では、小狐丸に飽きたから俺を……ということではないのですか?」
「当たり前だろう。小狐丸は大事だ。飽きたりはしない。長谷部、お前もそうだ」
ただ、何に向けて良いのか分からぬ苛立ちが募り、審神者は長谷部の頬を両手で挟むようにしてぐっと己の方へ引き寄せた。
「私はお前と仲良くなりたかっただけだ。下心はない。今後お前に――他の刀剣が相手だとしても、夜伽を頼むことは生涯ない!」
まっすぐと長谷部を見つめながら言えば、思い切り困惑していた。けれど審神者の言葉を受け入れはしたようで、小さい声で「はい」と呟いた。
「では俺は――早とちりで、主のことを――……」
言って、その途中で言葉を失って黙り込む。審神者は顔をしかめたまま、長谷部に悪気はなかったのだと自分に言い聞かせた。でなければ、これ以上何を口走るか、自分でも分からなかったからである。解かれた帯を雑に結び直しながら、審神者は口を開いた。
「小狐丸には、改めて言っておく。そのような噂は長谷部の方でも否定しておいてくれ」
それだけを言えば、長谷部はわなわなと体を震わせた後に、突如後ろに下がり、床に額を打ち付けるようにして土下座をしてみせる。
「申し訳ありませんでした!」
「っ、待て、長谷部そこまで気にすることは……」
「いいえ”! 俺は主の心を踏みにじってしまいました。もう切腹するしか道が――」
「待て待て待て!」
慌てて長谷部の肩をつかんで土下座をやめさせる。涙を浮かべていた長谷部に、審神者は罪悪感で黙り込んだ。けれどずっとそうするわけにもいかず、審神者はゆっくりと、言い聞かせるように口を開く。
「いいかい? 土下座も切腹も禁止! 何もしなくて良いから、先のことは忘れなさい。それでなかったことにしよう。私もそうする」
でも、とか、それでは、とか途中で合いの手を入れる長谷部を勢いで押していけば、最後には長谷部を押し切ることが出来た。
「………はい」
長谷部は酷く落ち込んだ様子で、審神者は心配でならなかった。
「自傷もなしだ。絶対に許さない。これは主命だよ。いいね?」
そう付け加えると、ぐっと堪えたような顔をする。
「…………はい…!」
本当に了承しているのか心配になる。こんな状態の長谷部を放っておくことが出来なくて審神者は長谷部に見せつけるように、縁側を指さした。
「酔いが冷めた。長谷部。飲み直しだ。付き合ってくれ」
そして長谷部の腕を引っ張って、残りの酒を全て飲みきることに決めた。もう全て酒に流してしまうしか、明日に長谷部の自己嫌悪を持ち越さない方法は思いつかない。
「は、はいっ」
泣きそうな顔で素直についてくる長谷部に、もう残りの酒はなくなるまで飲ませてやろうと、審神者は決心したのだった。
それから長谷部と話していたことは覚えてる。審神者は二杯、長谷部に残りを全て飲ませて、お互いに酔いが回りに回ったことは覚えている。けれどそれ以降はよく覚えておらず、目を覚ましてみれば、すっかり周囲は明るくなっていた。
(……朝か)
頭が痛い。そして重い。あまり眠れた気もしない。
顔をしかめて怠い上半身を起こし、隣を見れば、目元を赤くした長谷部が隣で眠っていた。
(飲ませすぎたか……)
そんなことを思いながら、昨夜のことを思い返す。全く、あれほど小狐丸には言い聞かせて、出入り禁止と共に噂の訂正をいいつけていたというのに。小狐丸を出入り禁止にしたのは最近の話。どうやら噂の訂正は長谷部にまで届かなかったようだ。
そんな風に考えてしまっていたが、審神者はその考えを改める。もっと己がしっかりしておけば、防げたことだともいえる。昨夜は長谷部に些か酷く当たってしまったような気がした。長谷部の目元に優しく触れ、撫でてやる。
(もっと、長谷部と向き合って話をしなければ……)
そんなことを考えながら、布団から出た審神者は重い体に鞭をうって歩き出す。ひとまずは、顔を洗ってさっぱりしたかった。
顔を洗って少しはさっぱりしたが、どうにもずきずきと頭は痛む。まともに酒を飲んだのは昨日が初めてだ。己の体が許容する酒の配分をそもそも知らなかったというのに、あんな飲み方をしてしまったのが良くなかったのだろう。
(あいつのことも、笑えないな)
酒を浴びるように飲んで次の日屍のように苦しむ昔なじみを、だらしないやつだと一笑していた。だが、これではとても他人のことをとやかくいえない。
あくびをまた一つして部屋に戻ると、縁側に酒瓶と、それをひやすための氷水を入れていたバケツ、そしてコップが縁側に置かれていたままだったことに気がついた。後かたづけをしないまま寝ていたのだから、まあ当然の光景ではある。
「……うん。まだ寝ているな」
部屋の中をのぞけば、長谷部はまだ眠っているようだ。いつの間にか審神者の枕を抱き枕代わりにして、丸くなって寝ている姿はまるで子供のようだ。着替えを後回しにして、審神者はばけつに酒瓶を入れ右腕で抱えるように、そして左手でコップを乗せた盆を持った。
(片づけついでに、水を貰ってこよう)
おそらく、審神者だけでなく、長谷部にも必要なものだ。また大きなあくびをしながら、審神者は台所に向かって歩いていった。
「あれ、主じゃないか」
大勢の朝餉を作るであろう台所では、既に当番の者たちが料理をしている真っ最中だ。味噌汁の匂いと、炊かれている米の匂いが鼻をくすぐって、審神者は唾を飲んだ。食欲を刺激する良い香りである。
「おはよう。歌仙」
「……おはよう」
台所に顔を見せた審神者に一番に気づいたのは大量に並んだ小鉢に漬け物を詰めている途中の歌仙兼定だった。台所に姿を現す審神者が珍しかったようで、菜箸を持っていた手が止まっている。
「昨日片づけ忘れてしまったから、持ってきたんだ」
審神者が答えると、歌仙は審神者の抱えていたものを見て首を傾げる。
「君、酒なんて飲むのかい?」
「ああ。まあ、少し。ちゃんと飲んだのは昨日が初めてだったけれど、美味しかったよ」
「それを丸ごと飲んだのか? 一人で?」
「いや、長谷部と飲んだ」
言うと、歌仙の動きが一瞬止まる。
「長谷部と?」
「ああ」
「暴れなかったかい? 彼はその……飲むと、」
「泣き上戸だな、長谷部は。でも、おかげで色々な話が聞けたよ」
「……そうか。ああ、それはそこに置いておいてくれ。後でまとめて片づけるよ」
そう言って、歌仙は微妙な表情で横の机の空いたスペースを指さした。審神者は頷いて、そこに抱えていたものを置く。すると歌仙の奥で味噌汁の様子を見ていたらしい燭台切光忠が、審神者のことを見てにっこりと笑っていた。
「良かった。長谷部くん、ちゃんと主とお話できたんだね」
「……ああ、おはよう。燭台切」
「おはよう、主。ねえねえ、こっち来てくれるかい?」
言われ、審神者は奥の燭台切の元へ歩いていく。そうしてそばに近づくと、燭台切は審神者の額に手の平を当てて、じっと審神者の顔を観察した。
「隈が出来ているね。熱っぽいし……もしかして二日酔いかな? 頭とか痛くない?」
「痛いな。ズキズキする」
「だよねえ」
ぺたぺたと顔を触りながら、燭台切は続けた。
「食欲はどう? ある?」
「……あると思う。でもあまり多くは……」
「そっか。じゃあ、お味噌汁と、梅粥でも用意するよ。長谷部くんにも、同じもの用意するね」
気遣いの行き届いた燭台切の好意が、今の審神者にはとても有り難い。素直に甘えることにして、審神者は小さく頷いた。
「ありがとう。燭台切」
「どういたしまして。それで、長谷部くんと飲んだんだって? 良かった。彼は、主のことをとびきり気にしていたから――……」
にこにことしていた燭台切の動きが、不自然に止まる。まさに石になったような、とでも表現するか。そんな燭台切に、審神者は怪訝に思って見上げる。
「どうした?」
「えっ、ええっとねえ……」
審神者の髪を耳にかけながら、燭台切は審神者の顔の下あたりに視線を向けていた。どうにも煮え切らない返事に、審神者は燭台切の頬に手を当てる。
「燭台切」
呆けているのかと、燭台切の名前を呼べば、困った表情で笑みを浮かべて、燭台切は焦った手つきで審神者の寝間着の胸元をぎゅぎゅっとしめあげるようにとじ合わせた。
「主。皆には僕から言っておくからさ、今日は長谷部くんと一緒に部屋で食事をとりなよ。ほら、二人だけメニューが違うと色々騒ぎになっちゃうからね」
「……そんなものなのか?」
「そうだよ! そういうものだよ! それに、今日は部屋からあまりでない方が良いよ。あまり動くと二日酔いは長引くからね!」
やけに気を遣ってくれるものだ。燭台切のテンションに違和感を覚えながらも、審神者はその好意に引き続き甘えることにした。確かに、二日酔いに苦しむ情けない姿を見せずにすむなら、その方がずっと良い。
「そうだな。ありがとう燭台切」
「あはは、大丈夫。僕は二人の味方だからね! 任せて」
頼もしい言葉だ。審神者は微笑んで、燭台切の気持ちに深く感謝をした。
水差しとコップを貰って部屋に戻ると、どうやら長谷部は目を覚ましていたようだった。額を押さえて枕に顔を埋めている長谷部は、うんうんと苦しそうにうなっている。
「二日酔いだな。大丈夫かい?」
丁度良いタイミングだったか。長谷部のそばに膝を落とすと、審神者はコップに水をつぎながら燭台切のことを説明する。
「二日酔いが辛いだろうと、燭台切が梅粥と味噌汁を持ってきてくれるそうだ。それまで、ゆっくりしていなさい」
水をつぎおわり、長谷部にコップを続ける。
「水、飲むかい?」
要らないといわれれば、審神者が飲めばいいだけの話。軽い気持ちで勧めた審神者に、長谷部はそろそろと枕から顔を起こした。
「……すびません。いただきます」
呂律は回復していないらしい。というか、声が掠れてしまっている。そのままのそのそと上半身を起こして座りこんだ長谷部は、眉間に深いしわを刻んだまま審神者の布団の上で胡座をかく。
(長谷部も胡座をかくのか)
初めて見た、と変なところで感心する。ごくごくと一気にコップの水を飲み干すと、額を押さえながら長谷部は審神者を見た。
「主は思ったより平気そうですね」
「まあ、頭痛はあるけれど、長谷部ほどじゃないな」
「それは良かったです」
空いたコップに水差しを向ければ、長谷部は「いただきます」と言ってそれを受け入れた。
「今日は予定はないだろう? ここで好きなだけゆっくりしていくといい。しておきたい話もあるしな」
「……話、ですか」
「ああ。酔いが冷めたら、ね」
長谷部のコップに注ぎ終わると、審神者は自分用にコップを取り出して、水を注ぐ。そして水差しを置くと、水の入ったコップを持って楽に足を崩して座り込んだ。
(酒を飲んだおかげで聞けた話もあるが、あまり酒には頼らない方がいいかもしれないな)
コップに口をつけながら、そんなことを思う。一口水を喉に流し込めば、少し楽になったような気がした。頭痛がなくなったわけではないが。ふと、長谷部からの視線を感じて、審神者は長谷部のことをみる。
目が合うと、長谷部は動揺を見せて、慌てて視線を逸らしてしまう。
「主、昨日はその……失礼な真似を……」
「構わないよ。長谷部が悪いわけではないからね」
長谷部が何を言い出すのか、察知して、話を遮る。昨夜の布団の上での件はなかったことにする方が賢明だ。審神者と長谷部さえ口を噤んでいれば、誰にもあの件が漏出してしまうことはないのだから。そのためにも、これ以上この件については触れたくない。
「忘れなさい。大丈夫、誰にも知られることはないから」
安心させるべくそう言うが、長谷部はどうにも納得がいってない様子だった。
「そ、……そう、ですかね」
「ああ。こう見えて、私は口が堅いよ。安心しなさい」
「いえ、そういう問題ではなく……その、」
「? どうした?」
何か言いたいらしい長谷部にそう問えば、歯切れの悪い言葉をばかりを並べてしまう。ちっとも長谷部の考えが分からず、審神者は少し強めに詰め寄ることに決めた。
「長谷部。はっきりと言ってくれ」
そう言うと、羞恥に苦しめられた様子で、両手でコップを持ったまま、長谷部は震える声で説明を始めた。
「その、主の首筋に、跡が残っております」
「跡? 何のだ?」
続けて問えば、長谷部はもういっぱいいっぱいな様子で肩を落として小さくなった。
「昨夜の……口吸いの跡が……」
顔を真っ赤にして震える声で呟かれ、審神者は無言で、昨夜長谷部に触れられただろう首筋を押さえる。
「…………」
「申し訳ございません……!」
ようやく長谷部の言わんとしていることが分かった審神者は、静かに立ち上がって、部屋に置いてある手鏡の元へ行き、それを使ってそっと首筋をみる。
耳の付け根の下に一つ。
鎖骨の上に一つ。
喉仏より少し左に一つ。
計、三つ。
「燭台切に、見られた」
他の二つはともかく、首についた跡に気づけないとは情けない。そう思いながら先ほどの燭台切の反応を思い返すと、審神者はしでかしてしまった失態にその場でうずくまった。
(間違いなく夜伽をしたと思われているっ…!)
歌仙はどうだろう。燭台切はもはや手遅れだろうが、歌仙はまだ気づいていないはずだ。考えていても無駄だ。早急に手を打たなければならない。ただでさえ、現在数名の刀剣に日常的に口付けを強請られている状況で困ってしまっているというのに。これ以上本丸に爛れた空気を持ち込むわけにはいかない。
(それに、これを清光に見られてしまったら……)
それが何よりも恐ろしい。獣を見るような目で清光に見られ、だらしないやつと蔑まれてしまうことは本気で避けたい事態である。
今の審神者に出来ることは、清光にばれないように、この跡が消えるまで日々をやり過ごすことだけ。
「長谷部」
決心を固めた審神者は振り返ると、申し訳なさで縮こまっている長谷部を真っ直ぐと見据えた。
「本丸の空気を爛れさせるわけにはいかない。二日酔いで苦しんでいるところ悪いが、私に力を貸してくれないか?」
そうはっきりと言えば、長谷部はパッと顔を上げた。そしてすぐさま胡座をとき、その場で正座をした。水を得た魚のように、目は爛々としているように見えた。
「もちろんです! 必ずやこの長谷部、主のお役に立って見せます」
「ありがとう」
二日酔いの痛みがどうでもよくなるほどに、審神者は熱を上げて拳を強く握りしめる。
まずは朝餉を持ってくる燭台切を捕まえて誤解を正し、そして跡が消えるまで身の回りのことを長谷部にしてもらう。そしてその間、清光は近侍から離れていてもらう。経験のない長谷部には清光の代わりは完璧には勤まらないだろうが、足りぬ分は審神者が埋めていけばよい。
決して失敗は許されない。
審神者はこれ以上ないほどに真剣だった。
「燭台切。主の首にあったのは間違いなく、アレだな?」
「うん。アレだね。昨日長谷部くんから夜伽に呼ばれたって相談された時は、とても信じられなかったけど……。主はただ長谷部くんと話をしたいだけじゃないのかなとか思ってたのに……今も信じられないや」
「あの堅物な主がな……人は変わるものだね。しかし、そうとなればただでさえ煩い輩が、これからどれだけ騒ぎ立てることか」
「いずれは隠せなくなるだろうけれど、それまでは、黙っておいてあげよう? 長谷部くん、昨日は本当に喜んでいたから」
「……それは恋かい?」
「どうかな? それは長谷部くんにしか分からないけど、僕は、そうだと思っているよ。さあ、二人に朝餉を持っていってあげなきゃ!」
審神者の部屋に入った瞬間長谷部と審神者に拘束されてしまうことを、この時の燭台切は知らない。
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