朝餉を審神者の部屋に持ってきた燭台切光忠を拘束して、数十分。
正座する燭台切の前で同じく正座をして、審神者は強く宣言をした。


「――というわけだ。重ねて言うが、この本丸に夜伽の習慣はない」












何が何だか分からないと言った様子だった燭台切も、審神者の話を聞いている内に、徐々に事情を把握してきたようだ。こめかみを指で押さえながら、頭の中で情報を整理している。


「うーん。事情は分かったよ。つまり、その……未遂で終わったけど、跡が残っちゃったから、皆にバレないようにしたいってことなんだよね」
「ああ。燭台切にも、協力して欲しい」
「それは構わないけど……」


物分かりが良いと助かる。話が早いと、審神者はひとまず安堵する。変な誤解をしたままの燭台切を審神者の部屋から出してしまっていたら、今頃どうなっていたことか、考えるだけで冷や汗が出てしまう。


「俺はしばらく主の身の回りの手伝いをしながら、加州をここに近づけないようにする。お前も、そのサポートをしてくれ」


燭台切の隣で正座した長谷部は、背筋を伸ばして姿勢正しい。とても二日酔いを引きずっているとは思えなかった。そんな長谷部のはきはきとした言葉に、燭台切はため息をついた。


「だから言ったじゃないか。主は夜伽に呼んだわけじゃないと思うよってさ。まさか未遂とはいえ、主に……」
「うっ……それは、」


痛いところをついてくる燭台切に、長谷部は決まり悪そうに口ごもってしまう。審神者は長谷部の心中を察して、口を開く。


「燭台切。過ぎたことだ。それ以上はやめてくれ」


既に参っているだろう長谷部に、これ以上鞭を打つことはない。苦言を申す燭台切を止めて、審神者はふうと息をついた。


「歌仙はこのことに気づいていたか?」
「え、ああ、それは……」


審神者からの問いに、燭台切は曖昧な言葉と共に目をそらしてしまう。その一連の仕草だけで、燭台切の返事が聞かずとも分かった審神者は、眉間にしわを寄せて燭台切に告げる。


「……燭台切。とりあえず、歌仙の誤解を解いてきてくれ」
「うん。分かったよ」


ひとまずこの件を知っているのは当事者であるへし切長谷部と燭台切光忠、そして歌仙兼定だけ。であるなら、歌仙に口止めさえすれば、この話が外にでることはない。立ち上がって、部屋から出ていく寸前に足を止めた燭台切は、審神者のことを振り返った。


「とりあえず、二人は朝餉をとってて。僕は歌仙くんに事情を伝えておくよ。……でも、皆にはなんて伝えておこうか? 二日酔いでダウンしているとでも言っておく? 今日の朝餉は主に頼まれて僕が持って行くからって、加州くんにはそう伝えておいたけど」
「……清光は、何と?」
「主のことを随分と気にしていたよ。加州くんは主のことが大好きだから、すぐに顔を見にくるんじゃないかな?」


どこまでも気の遣える存在だとでもいうか、まるで未来を見透かしていたようだ。事情を説明する前から良い動きをしてくれていた燭台切を、審神者は有り難く思った。朝、いつものように清光に来られていたらと、考えるだけで恐ろしい。


「けれど、どうしてそんなに気を配れていたんだ? 燭台切にはまだ何も言っていなかっただろう?」
「え? そりゃあ……僕は二人を応援しているからね!」


握り拳をつくってそう元気よくされた返事に、審神者はきょとんとした。質問の仕方が悪かったのかだろうかなど思いながら首を傾げる。


「応援?」


繰り返せば、燭台切は意味深に笑ってみせた。審神者は追って質問する前に、傍らでごほんと長谷部が咳払いをしたことを皮切りに、燭台切は話を逸らすように口を開く。


「それより、加州くんには何て伝えておく?」


問われたことで、審神者はうんと頭を悩ませた。下手に体調が優れないといった理由で近侍の仕事を休むようにいったのなら、おそらく、清光は審神者の体調を気遣ってお見舞いにきてくれるだろう。それこそ、いつも以上にやる気を出して仕事を手伝おうとしてくれるはずだ。その光景が鮮明に思い浮かび、故に迷う。


(所用で留守にするから、その間の清光の近侍の仕事は休みにする、というのはどうだろう。……いや、それでは手入れ等で本丸を移動することが出来なくなるな)


結局は同じことだ。つまり一番重要なことは、普段通り仕事はこなしつつ、他の刀剣たち――ひいては、清光に気づかれないようにすることなのだ。

苦悶の表情で悩みに悩んだ末、審神者はやっと口を開く。


「ひとまず、清光には今日の近侍の仕事は休みだと伝えてくれ。それほど仕事は立て込んでいないからと」


答えは出てこなかった。とりあえずの策として、審神者は燭台切にそう伝えた。幸い、昨夜長谷部と飲むことを頭に入れていたので、昨日で終わらせられる分は終わらせている。二日酔いが回ることを考えて、少なくとも午前中は自由がきくように配分していたのだ。だから、これはあながち嘘でもない。そんな審神者に「分かった」と頷いて、燭台切は部屋を出ていった。


「……とりあえず、食事にしようか」


きちんと考えなければならない。が、その前に食事及び着替えぐらいは片づけておきたいところである。長谷部は「はい」と力強く答え、二人はそのまま二日酔い用の食事に手をつけ始めたのである。








そうして食事を取り終わった後、きびきびとした動きで長谷部は立ち上がった。


「では、俺は一度戻って着替えて参ります。その間に、主も」
「ああ。そうだな」


流石は燭台切の料理。二日酔いの体にも負荷を与えることなくするっと体に入ってきた。味噌汁も、疲労の残る体に染み渡って行くような優しい味だった。もちろん、味も申し分ない。けれど折角の燭台切の料理の味を堪能することは出来なかったのは、悩んだにも関わらず、結局これといった良い案が思いつかなかったからである。立ち上がり、審神者に礼をする長谷部をじいっと見ながら、審神者はなんとなく問いかけてみることにした。


「長谷部」
「はい」
「これ、そんなに目立つだろうか?」


鬱血痕を撫でながら尋ねると、長谷部は一瞬にして表情を変えた。真剣な表情から、狼狽えた表情に。そうして少しの間を置いて頬を染めると、審神者の首の痕から逃げるように目を逸らす。


「……はい」
「そうか……」


まあ、分かり切っていた答えである。審神者は首に手を当てたまま、ふうと息を吐いた。少し、意地の悪い質問だった。


(こんなところではなく、せめて服の下にでもつけてくれたのなら良かったのに)


良い案が思い浮かばないせいである。だから、今更考えてもどうしようもないことばかりを考えてしまう。審神者の服は和装ばかりで、首を隠せる服もない。マフラーなどで隠すにしても、今の季節ではあまりに不自然だ。

――せめて、長谷部の内番衣装のようなデザインであれば、この痕も隠せたのだろうが。


「……長谷部」
「はい……」


そこまで考えて、審神者は閃いた。この状況で、普段通りに皆の前に出られること、兼つ、痕に気づかれないようにすること。その両方の条件を満たす方法を思いついたのである。


「長谷部……長谷部!」
「は、はい?」


暗くなっていた思考に光が射し込んで、気持ちが急上昇する。審神者は長谷部を引き留めるように胸元を掴むと、己の方にぐっと近づけた。


「良いことを思いついた……!」


これで清光に知られずに、かつ審神者業も滞りなく進めることが出来る。急な審神者の変化についていけなかった長谷部は、わかりやすく困惑していた。


「――長谷部の服を貸してくれないか!?」
「……はい?」


満開の笑顔を浮かべて口にすると、長谷部は動きを止めて、呆けた声でそう呟いたのだった。








何も、痕がなくなるまで清光を近づけないようにする必要はない。首もとさえ隠し通せるのであれば、それだけで何の問題もないのである。それに気づいた審神者は、長谷部が持ってきた服に腕を通して笑った。


「長谷部は大きいな」


そう言って、審神者は長谷部に見せつけるように腕を伸ばした。長谷部は審神者よりも体格が良いため、袖がどうしても余ってしまうのである。指先だけが辛うじて袖から姿を見せている、という光景が滑稽で、審神者はくすくすと笑った。


「っ……お役に立てたのなら、本望です」


そんな審神者の様子がおかしく、長谷部も少し笑ってしまうのだろうか。けれど真面目な長谷部はその姿を審神者には見せてはいけないとでもいうように、顔を手のひらで覆いながら視線を審神者から逸らしてしまう。


「笑っていいよ。長谷部。自分でも、ちんちくりんだと思う」
「いえっ、とんでもないです。よくお似合いです!」
「……そうかい?」


褒められ、審神者は表情を綻ばせた。
お世辞だろう事は分かっていても、そう言って貰えることはふつうに嬉しいのだ。長谷部の反応を見る限り、間違いなくお世辞であることが分かっていたとしてもである。


「いつも和装で、洋装は滅多に着ないんだ。和装の方が着慣れているし、しゃきっと出来るからな。でも、たまに着ると新鮮で、少し楽しくなるよ」


そう言って、「不謹慎かな?」なんて付け加える。いつの間にか視線を審神者に戻していた長谷部は、何か堪えるように肩を震わせながら、首を横に振った。笑いを堪えすぎて声も出ないのかもしれない。そう受け取りながら、審神者は「腕と……足も、捲らないとな」とこぼした。手足の長さがここまで違うとは、思っていた以上に差があった。


「今日はお揃いだな」


重い重い気持ちも、解決してしまえば軽いものだ。そんな気安い言葉も口から簡単に出てきてしまう。とりあえず腕まくりをしながら、何気なく長谷部のことを見る。


「――長谷部?」


そしていつの間にやら床にうずくまっていた長谷部の姿を見て、審神者は顔をひきつらせた。ちょっと目を離した隙で、何故そんなことになっているのだろうか。そう考えたものの、思い当たる節は一つしかない。


「長谷部。二日酔い、そんなに酷いか? やはり今日は休んでおいた方が……」


言い掛ければ、途中で長谷部に手のひらを見せられ、遮られる。


「いいえっ……心配ありません。主のためならば、二日酔いなど何ということもありません!」
「……そうか? なら良いが、無理はしていないか?」
「いいえ!!」


そう言って、長谷部がきりっとした顔を上げる。


「俺は主の為なら――…」


けれど途中で言葉が止まり、長谷部はじいっと審神者の姿を上から下まで観察してから、またうずくまってしまう。


「主っ…後ほど、写真を撮ってもよろしいでしょうか……?」
「え? まあ、構わないけれど」


そんなものが欲しいとは、長谷部の考えることはよく分からない。だが断る理由もないのでそう答えれると、なにやら長谷部は感極まったような声で「感謝します」と呟いた。まるで神に祈っているかのような声だ、なんてぼんやり思いながら、審神者は何気なく口を開く。


「なら、一緒に撮らないか?」


そう言うと、長谷部は声にならない声をあげてしまう。そして審神者に顔を見せないまま了承の意を示すためか、何度も何度も頷いた。






「主。加州くん凄く怪しんでたんだけどどうしよー…って、あれ? それって長谷部くんのジャージ?」


審神者の部屋に戻ってきた燭台切は、審神者の格好に気づいて口を閉ざすと、すぐにそのことについて突っ込んできた。腕と足の余り部分を捲り終えた審神者は、見せつけるように腕を伸ばしてみせる。


「これなら、首は見えないだろう? サイズが大きいから余計にね。長谷部に借りたんだ」
「へえー。お揃いだ、いいね」
「だろう? ジャージなんて初めて着たよ。似合うかい?」


何だか楽しくなってきた審神者に聞かれて、燭台切はすぐに頷いた。


「うんうん。よく似合っているよ」
「ありがとう。これで、体調が悪いとか留守にするとか、理由はいらなくなったよ。でも、清光には引き続き、今日は仕事が少ないから休みだと伝えてくれ。あまり近寄られると気づかれそうだからね。せめて、今日と明日くらいは」
「分かった。じゃあ、そういう風に伝えておくよ」


頷いて、燭台切は長谷部を見下ろして黙り込む。うずくまっていたままではないが、立ち上がって体勢を正してもなお、長谷部は顔の下半分を手のひらで覆ったまま、決してその下を見せようとはしていなかったからである。


「……大丈夫? 長谷部くん」
「何の問題もない」
「本当? 鼻血とか出てない? ティッシュ持ってくる?」
「要らん。いいから、カメラ持ってきてくれ。大至急だ」
「え? カメラ?」


二人の会話を横に、審神者はほっと安堵の息をついた。これならば大丈夫という確信があったのである。もしも長谷部の服を着ていることを聞かれたら、こう返事をすればいいのだ。ジャージに憧れが合ったので着せて貰った、と。心配されることはない。へえ、そうなんだと言われるだけ。完璧である。


「あ、そうだ。歌仙くんの誤解は解いておいたからね。歌仙くんは誰にも喋ってなかったから、大丈夫だったよ」


思い出したように審神者に振り返ってそう言う燭台切の言葉が、審神者の背中を押す。全てが全てうまくいくと、そう感じた。


「それは良かった! ありがとう。燭台切」


そう言うと、燭台切は応えるようににっこりと笑って、長谷部は顔を隠したまま燭台切の背中に隠れてしまった。笑ってはいないようだが、だったら何の感情から長谷部のあの反応が返ってきているのか、聞きたくて仕方なかった。だが、聞いてもまともに答えは返ってこないだろうと、審神者はおとなしく口を閉じたのだった。







そうして、滞りなく審神者の仕事を進めていく。燭台切や長谷部が手を回してくれたのか、清光が審神者の部屋に訪れることはない。


(今頃、休みを満喫しているのだろうか)


それを思うと少し寂しい気持ちにもなるが、そう差し向けたのは審神者自身である。自分でも勝手だと自覚しながら、その罪悪感を押し消すようにひたすら審神者業に精を出していた。


(それにしても……ジャージはやはり慣れないな)


普段着慣れない服でいると、なにやら妙な感覚だ。体のあちこちが、どこかそわそわしている。しばらくは何も用事はないからと長谷部に少しの休憩を言い渡していたせいで、部屋が静寂に支配されていることも関係しているかもしれない。


(休憩は要らないと長谷部は言っていたな……全く、責任感の強い)


今後ああいったことがないのであれば、責任を感じることもない。審神者はそう思っているのだが、おそらくそう言ったところで、長谷部は耳を傾けたりはしないだろう。だから、休憩は絶対だといって強制的にとらせたのである。どんなに責を感じていても、必要なことだ。今日の長谷部はなにやら言動も少し妙だったし、なおのこと。この件が片づいたらもっとなんとかしてやりたいが、一体何をすれば長谷部は喜んでくれるだろうか。


「たーいしょっ」
「っ……!?」


突如、背後から耳にふうと息がかけられる。予測もしなかった出来事に大きく体を震わせた審神者は、慌てて背後を振り返った。


「……薬研!」


静まりかえった部屋だったというのに、薬研の存在に全く気づけなかった。薬研の隠密能力が秀でているからなのか、それとも審神者がぼんやりしていただけなのか。
咄嗟に襟の上から首を隠すように手で押さえて、背後に立っていた薬研を見上げる。薬研はひどく楽しそうな表情を浮かべていた。純粋な楽しみではなく、少し邪な楽しみ方をしているような表情だ。


「今日はいつもと違う格好だな」


具体的に言えば、先日遠征帰りの薬研を出迎えたときのあの表情を彷彿とさせる笑みだった。


「……そうだな。どうした? 何か用かい?」


既に何かを感づいているかのような気がする。審神者は平静を装いながら、速やかに薬研の用を終わらせて部屋から出ていって貰おうと考えた。


「大将に相談したいことがあってな。で……何で長谷部の旦那の服着てるんだ?」


けれどそんな審神者の心を知らず、薬研は床に腰を下ろして胡座をかいた。確実に長居をしていく心積もりの姿勢である。迂闊に首を押さえる手を引けないまま、けれどこれでは余計に怪しいと、審神者は焦りながらも考えていた返事を口にする。


「これか……長谷部に借りたんだ。一度、着てみたくて……」


言いながら、審神者はゆっくりと首から手を離した。サイズが大きいため痕は隠すことが出来ているが、上から至近距離で覗かれてしまっては見られてしまう可能性がある。薬研の動きを警戒しながらそう言い終わると、薬研は「ふうん。なるほどな」なんてこぼしつつ、不思議そうに自分の首を押さえた。ちょうど、先ほどの審神者と同じように。


「首、痛いのか? 診てやろうか?」


あまりに痛いところを突いてくるものだ。審神者は一瞬固まり、薬研はもう既に、先ほど背後に立った時に痕をみたのではないか。そんな不安が審神者の頭を支配する。


「っ……いや、大したものではないから……」
「痛むんだろ? なら、軽くても処置はしといた方がいい」
「いや、痛くはない。ただの、そう、肩こりだよ。本当に、大したものじゃない」
「大事になってからじゃ遅いだろ。大将は、霊力だけで俺たちのどんな傷でも直しちまうからな。その分、ここには大将用の薬を充実させてるんだ。ちょっとの異変でも頼ってくれ。待ってろ。今、持ってくる」


颯爽と立ち上がり審神者に背を向けた薬研に、審神者は顔を白くさせた。薬箱を取りに行こうとしているのだろう、薬研の白衣の裾を掴んで慌てて引き留める。


「待ってくれ。そんな必要はない、平気だよ」


訴えるように言うと、薬研は探るような視線を審神者に向ける。その目と真っ直ぐに視線が絡んで、審神者はきゅっと唇を閉じた。見透かすような視線を審神者に向ける薬研は、少しの間を置いた後、ゆっくりと目を細めた。


「なんだ。見られたら困るものでもあるのか?」


ゆっくりと紡がれた言葉で、審神者は察してしまった。薬研が既に何かしらの事実に気づいていることを。


「薬研にそこまでしてもらうほどではないだけだよ。それで、薬研の用っていうのは――…」


強引でも話を戻さなければと話を切り出そうとしたのだが、薬研の人差し指で唇を塞がれた。笑顔を引いて真顔で審神者を見つめる薬研に、審神者は嫌な汗が流れていくのを感じた。


「大将。何隠してんだ?」


それだけを口にすると、薬研はゆっくりと審神者の唇から指を離した。自由になった唇で薬研に何か言おうとしたが、どんな言葉を並べたとしても、目の前の短刀を誤魔化せる気が全くしなかったのである。


「………いや、大したことではないんだ。何でも…っ……薬研っ!」
「おいおい、大袈裟だな、大将」


唇に触れていた指が、そろりと襟の中に進入してくる。ぞくっとして、審神者はすぐに薬研の手首を掴んでそれを阻止した。慌てている審神者とは正反対に、薬研は静かに構えている。


「長谷部の服着て首隠して、中身を見られたくねえなんて……邪推しちまうな。それでも何をされたのか、言えねえってのか?」


おそらく、審神者の力では薬研にとって大した影響はないはず。けれど審神者の手を振り払うことなく、引こうとしないのは、薬研が審神者のことを試しているからに他ない。


「言いたくないならいい。脱がせて直接確認するからな」


凄みの利いた声に、審神者は息をのんだ。からかっているわけではない。本気で、薬研はそう思っている。そして審神者が口を開かなければ、本当に審神者の服を脱がしにかかるだろう。そうなったら、そうなってしまったら、万が一にも審神者に勝ち目はない。


「……薬研」


名前を呼び、審神者は静かに目を細めた。薬研は返事をすることなく、ただじっと、審神者の目を見つめていた。

しばらくの間沈黙して、審神者は諦めて肩を落とした。
薬研が相手では、もう抵抗するだけ無駄なことだということが分かってしまった。








「派手にやられたな、大将」


審神者と向き合うように膝の上に座り、上着のチャックを降ろして首を覗く薬研は、開口一番にそんな言葉をこぼした。もっと体勢があっただろうと思うが、墓穴を掘ってしまいそうな気がして口を閉ざす。薬研が相手だから警戒をしているが、他の短刀を膝の上にのせることも珍しくないので、そういう意味では、この状況もそう違和感のあるものではないといえるからだ。


「酒が入っていたからだよ」
「そうか。で、尻は無事か?」


もっと聞き方があるだろう。下品だと顔をしかめて、審神者は首を縦に振る。


「……すぐ止めたよ。何もなかった」
「寸止めされたわけか。相手は気の毒にな」
「薬研。ただ酔っぱらいに絡まれただけだ」
「まるで長谷部がキス魔みたいに言うが、あれはただの泣き上戸だ。酒が入っても誰彼構わずそんなことはしない」
「……誰も、長谷部のこととは言っていないだろう」


まだ、薬研にはこの痕の説明などしていない。誰がやったのかも、まだ何も言っていない状況だ。


「長谷部の服着て何言ってんだ」
「服だけ借りているとは思わないのか?」
「そーさなあ。長谷部の旦那があれほど上機嫌でいなけりゃ、それも考えたかもなあ」


痕を指先でなぞりながら、薬研は含みのある笑みを浮かべた。


「でもまあ、未遂なら何よりだ。大将も苦労するな」


まるで、張りつめた糸が切れたようだ。ご機嫌にくくっと喉を鳴らし、審神者の耳の後ろに手を回す。


「聞いたぜ大将。最近、いろんなやつにキス強請られてんだってな」
「……誰のせいか分かるかい?」
「俺か? でも、あれは隙のある大将にも原因がある」


張本人に言われてはおちょくられているとしか捉えられない。眉間にしわを寄せて言えば、とてもご機嫌な顔をした薬研は、耳の後ろに回していた手を後頭部に回すと、ぐいっと自分の方へ引き寄せる。合わせるように、薬研の顔が距離を縮めてくる。


「――ほらな」
「っ……薬研っ!」


唇と唇が触れる寸前で止められて、至近距離に藤色が見える。吐息まで確実に感じられるそれに、審神者は体を強ばらせた。背中をそらして、薬研の腰を掴んで引き離そうとするが、薬研の体はびくともしない。


「悪ふざけが過ぎるぞ!」


声を荒くし、全力で引き離そうとする。けれど、どれだけ力を使ったのだとしてもどうにもならない力の差があった。


「あっ――…」


そうしていた途中、薬研が急に審神者を引き寄せていた力を抜いた。拮抗するだけの力の抵抗がなくなって、全力で背を反らしていた力だけが残る。


「……っ…!」


残された己の力だけで畳に背中から倒れ込んでしまった審神者は、派手に畳に背を打ち付けた痛みに苦しんだ。薬研を引き離すために力を入れたのは審神者だが、あんな状態で何も言わずに力を抜く方も抜く方だと思わずにはいられない。


「おっと、大丈夫か?」


どの口が言うのか。力を抜いたら、審神者が背中から倒れてしまうことには気づいていたはず。気づかなかったわけがない。言葉が出ない代わりに視線で訴えた審神者に、薬研はふっと笑って、審神者の上に馬乗りになった。


「大将。ちょっと、手を貸してくれ」


言いながら、いつの間にか薬研の腰から離れていた審神者の両手首を掴む。


(今度は何だ)


痛みに耐える中でそんなことを思う。ただ、ろくな予感がしないことはまず間違いない。すると案の定、薬研はその手を審神者の耳の横へと移動させて、そのまま畳に縫いつけてしまう。


「ほらみろ。もう押し倒されちまった」


上から見下ろす薬研は心底楽しんでいるように見えた。無駄だと察しつつも、審神者はもしかしたらを期待して声をあげる。


「……退きなさい」


普段は温厚な方であると自称していた審神者だが、この時ばかりひくひくとこめかみがひきつるくらいには感情が溢れていた。ひらたくいえば、わりと怒っていたのである。


「大将。下から言っても煽るだけだぜ」


そう言いながら、拘束していた両手をひとまとめにして、片手だけで拘束をする。好機かと思って両手に力を入れるが、薬研は片手だけしか使っていないというのに、びくともしなかった。面白くなく、薬研のことを睨みつけるが、薬研は黙って口角を吊り上げるだけだ。


「だからしっかり跡を残されたんだ。分かるか?」


空いた手を使って、指先でゆっくりと、堪能するように首筋をなぞっていく。痕を繋げ合わせるように、ゆっくり、ゆっくりと。
ぞくぞくとして、審神者の体が小さく跳ねる。その度に、薬研は笑みを深いものにした。


「敏感だな。大将。そんな反応されたんじゃあ、長谷部もすぐには止めなかっただろうな」
「っ……やめなさい」
「ん? ああ……どうするかな」


審神者の言葉に怖じ気付くことなく、薬研は、今度はじいっとジッパーを降ろしにかかった。下に着る薄いシャツも借りているため素肌は見えないが、薬研はそこはどうでも良かったらしい。上着のチャックを全開にすると、薬研はその下、心臓の上に手のひらを置いた。


「……動きが激しいな。怖いか?」
「怒っているんだ! 女ならばともかく、私は男だぞ!? 馬鹿なことを言うんじゃないっ」
「だから何だ大将。俺たちはそもそも人じゃないんだぜ。性別なんて、ただのおまけだ」


笑みを引っ込めて、真剣な表情を浮かべる。薬研はすうっと瞳を細めると、胸の上に置いていた手を審神者の頬に当てた。


「見た目が子供だとか作りが同じだとか抜かして気抜いてると、次は最後までやられちまうぞ」


そう言われて、審神者は困惑した。結局のところ、薬研はそう自分に忠告がしたかっただけなのではないかと思ったのである。苛立っていた感情が少しだけ静まり、審神者は真っ直ぐに薬研の目を見た。


「……薬研。それが言いたかったのか?」


だからといってあのような手法を使うのはどうかと思うが。けれど隙を見せるなとは、清光にも何度も言われた言葉だ。もっともっと、審神者は審神者としての自覚を持つべきなのかも知れない。


「………」
「薬研? どうした?」
「……いいや。そうそう。それが言いたかったんだ、俺っちは」


頬に手を当てられたまま、薬研が顔を近づける。先ほどのような至近距離にまでくると、薬研はまるでおやつを強請るような無邪気な声で、審神者にこう言い出した。


「大将。褒美をくれるなら、それを隠すの手伝ってやるよ」
「……褒美?」
「そう。褒美だ。俺を味方につけたら最強だぜ。何せその分早く、その跡を消せるからな」
「本当か?」


言葉に反応してそう問えば、薬研はにっこりと笑う。


「もちろん。大将が褒美をくれるならな」
「……褒美の内容は?」
「それは追々。ああ、ちゃんとその度交渉するから安心してくれ」


安心できる要素が一つもない。だが、跡を速やかに消してくれるのは大歓迎だ。とはいえ、それでは不安要素がまた一つ増えてしまう。今既にこのような体勢になっているというのに。幸先が恐ろしい。


(だが、ここで断ってしまえば、この事を広められる可能性がないわけではないしな……)


審神者は迷ったあげく、苦渋の表情を浮かべて声を絞り出す。


「……わかった。度が過ぎたものは買えないからな」
「ああ。ちゃんとわきまえてるから安心しな。大将」


薬研はにいっと笑って、審神者から顔を離した。
審神者を見下ろす薬研は、まるで計画通りとでも言いたげな表情をしている。それを見た審神者は、薬研のことをちゃっかりとしたやつだと思った。


「退いてくれ。もう十分だろう」


拘束されたままで話をしていたくない。そう言ったものの、薬研はどうしてか意味深に黙り込んで、審神者のことを上から眺めるように視線を流していく。


「大将。これ、気分わりいな」
「……何の話だ?」
「他の奴の服着るのはやめねえか。どうにも、虫酸が走る」


冷めた目でもって審神者の格好を見下ろす薬研は、淡々とした声でそう続ける。


「俺はまだともかく、もしも小狐丸の旦那がこれを見たら、今度は何言っても止めて貰えねえぞ大将。分かってるか? ただでさえ、大将に部屋出禁にされて、俺に先を越されて、すげぇピリピリしてんのに」
「……それはお前にも非があるだろう。薬研」


前半でぞくりと背筋に冷たいものが走ったが、後半では少し気が抜ける。原因を作った本人が言えたことではない。呆れ顔でそう言えば、薬研は笑う。口元だけ。目は笑ってはいない。


「一度痛い目にあっとくか、大将」


下手に怒らせるよりもまずい地雷を踏んでしまったことに気づくが遅く。薬研は鬱血痕のない側の首筋に唇を近づける。そして――がぶりと、噛みつかれた。


「っ、ぁあっ!」


痛みで声を漏らし、拘束から逃れようと両手を激しく動かす。けれどそれで薬研の拘束から逃げられることもなく。薄い皮膚に痛みが食い込む感触に、審神者は顔をしかめた。

痛みが鈍いものとなりつつある間、じんじんと熱を持つそこに、今度はねっとりとした感触が這う。昨夜耳にしたような水音が小さく聞こえ、ぬるりと首を這う舌の熱さに体が震えた。


「やげっ……やめ、やめないと、本当に怒るぞっ!」
「まだ怒ってねえのか。甘ちゃんだな。うちの大将は」


完全に舐められている。二重の意味で。審神者は本気で怒りを覚え、出せる限りの低い声を絞り出す。


「――薬研!!」


このままされるがままでいる気はない。声をはってそう名前を呼ぶと、薬研はため息をついてから、審神者の顔をのぞき込んだ。怒りを隠すことなく薬研を睨みつければ、薬研は「やれやれ」と呟いて手を離そうとした――


「主。休憩がすみましたので、お茶をもってまい――」


――瞬間に、審神者の部屋の障子を長谷部が開けたのだった。
押し倒された審神者と、押し倒している真っ最中の薬研。


「……長谷部」
「やべっ」


思わずそんな言葉をこぼしたと同時に、長谷部が片手で持っていた盆が床に落ちる。上に乗っていた急須と湯飲みは、無慈悲に畳の上に舞っていった。








歯形が加わった。服ではもう隠し通せない。


手鏡に写る己の首の凄惨さに、審神者は大きなため息をつく。長谷部のジャージを着たとしても隠せない位置に、小さいとはいえ立派な歯形がしっかり跡を残してしまっていたからである。


(歯並びが良いな……)


現実逃避をするかのように、審神者はそんなことを思った。血こそ出ていないが、ミミズ腫れのように浮き出た歯形をなぞると、ひりひりとした痛みが審神者を襲った。


「薬研貴様ァッ! 主の部屋は出入り禁止と言っただろうが! 何故ここにいるっ!?」
「まあまあ、落ち着け。俺は大将の身を案じて来たんだぜ? 人の身の治療は俺っちにしか出来ないからな。忙しいから出入り禁止なんて今までなかっただろ? 全部、大将のためだ」
「だったら! お前は、今しがた主に一体何をしていたんだ!? 説明してみろ! できるものならなっ!」
「ん? ああ、それはな。――あんたが昨晩大将にしたことを、俺もしようかと思って……ちょっと、な?」
「っ〜〜! そこになおれ! 俺が直々にたたっきってやる!!」


そんな審神者の横では、力比べをするかのように両手を合わせている長谷部と薬研の姿がある。長谷部の方が圧倒しているように見えるが、薬研も負けてはいない。ぎりぎりと相手を押し退けようとする力は拮抗していて、止めるものがいなければいずれ刀をもっての勝負になってしまいそうだった。


「長谷部、薬研。落ち着け」


その騒ぎで嫌でも現実に引き戻されてしまう。手鏡を持ったまま二人にいえば、長谷部は露骨に嫌そうな顔を見せた。


「で、ですが主っ、薬研は主に無礼を……」
「そうだな。だが、ここで言い争っても意味がない。とりあえず、怒りを静めてくれ」
「っ……主命、ならば」


言って、長谷部は薬研をきっと睨みつけたあと、渋々と言った様子で薬研のことを解放した。それにやれやれといった表情を浮かべた薬研は、長谷部に構わずスタスタと審神者の元に歩いてくる。


「ああ、もうこれは、服じゃ隠せねえな」


しれっとそう言う薬研に、審神者は手鏡を置いて、無言のまま薬研の頬をつまんで引っ張った。柔らかくはあるが肉付きはそれほどでもなく、そんなに伸びない頬だった。


「薬研。言いたいことがあるのならば口でいいなさい。次はないぞ。絶対に許さないからな。肝に銘じておきなさい。二度と噛むな」
「……わかっひゃ」


両頬を引っ張られ喋りにくいのか、こもったような声で薬研は返事をした。何を考えているか読みとりにくい表情だ。隙がないというか、なんというか。審神者は薬研の頬から手を離して、解放する。


「で、着替える気になったか? 大将」


頬をさすりながら、何でもないように問いかけてくる薬研に、審神者は歯形を押さえながら眉間にしわを寄せた。先ほどの行為についてはまだ怒りを抱いているが、確かに、薬研の言う通りかも知れない。


(どうせ、もうこれでは隠せない)


短い間だったが、これでジャージも着納めのようだ。審神者は小さくため息をついた。


「そうだな。着替えるか」
「えっ」


そう言うと、長谷部が残念そうな声をあげた。長谷部はまだ事情を知らなかったと思い審神者が口を開こうとした時、審神者よりも先に薬研が口を開いたのだった。


「あのなあ。大将に自分の服着せてご満悦だろうが、このままじゃ大将の身が危ないぜ。考えてみろ。もしも大将が俺の服を着ていたら、あんたも正気じゃいられないだろ」
「なに……? 主がお前の服を…だと?」


薬研が代わりに説明してくれるならば良いかと、審神者は上着を脱ぐことにした。薬研がチャックを全開にしたおかげで、すぐに脱げそうである。


「主が白衣を……」
「そう。俺の白衣を」


あっさり脱ぎ終わった上着の、捲っていた袖の部分を戻す。二人の会話が妙なところで足踏みしているとは思っていたが、大して気にも留めず。しゃがんで畳の上に上着を置いた審神者の背中に、後ろからぱさっと何かをかけられた。首を動かして見てみれば、それは薬研が着ていた白衣だった。


「……?」
「大将。ちょっと着てみてくれ」
「何故だ? 着ても隠れないだろう」
「隠せないが、大事なことだ」


何がしたいのか。怪訝に思っていれば、神妙な表情をした長谷部までが「俺からもお願い致します。主」などというものだから、状況が把握できていないなりに審神者はその申し出を受け入れることにする。


「わかった」


立ち上がって、かけられていた白衣に手を通す。長谷部の時は袖が余ってしまったが、薬研の白衣ではどうだろう。なんて考えながら着てみたら、意外に、ちょうど良いサイズ感だった。もう少し袖が長くても良いが、これはこれで合っている。おそらく、薬研が少し大きめのサイズを着用しているからだろう。


「これでいいかい?」


何故見たいのか理解不能だ。いつもの格好に着替えようとしているのに、この段階は不要ではないだろうか。時間の無駄なようにも思える。


「……中々、似合ってるぜ大将」
「……これが、一体なんの役に立つんだ?」


しみじみという薬研に聞けば、薬研はふっと笑みをこぼしつつ、長谷部の方を振り返る。


「どうだ? 大将がよその奴の服を着ていると、ムラムラするだろ?」
「なに?」
「――イライラするだろ? 大将は普段の格好をしていた方が無難だ」


どんな言い間違いかと聞けば、何事もなかったかのように言い返す。今まで薬研に向けて清光がいうほどの警戒心を持っていなかった審神者だが、そのことを今では少し後悔している。流石に今の言い間違いをうっかりで流すほど、審神者は鈍くはなかった。

長谷部は審神者の格好をじいっと眺め、ぽつりと呟く。


「……いや、これはこれで……」


長谷部の反応に、審神者は薬研を見下ろして口を開いた。


「答えが出たな。薬研の考えすぎだ」
「いや待て待て。大将、それは違う。長谷部がそういう特別な気質なんだ。他の奴は違うぞ」
「俺を変態みたいに言うな、薬研。いいから、これ片づけるのを手伝え。お前のせいでこぼしただろうが」


言いながら、長谷部は落ちてしまった急須と湯飲みを指さす。湯飲みは空だったので転がっているだけだが、急須の中身は畳の上に広がっている。茶葉と共に広がるお茶のせいで、酷い有様だと言わざるを得なかった。


「そうだな。薬研。あれの片づけを頼む」
「跡は消さなくていいのか?」
「片づけてからでいい」


白衣を脱いで、薬研が着やすいように広げてみせる。そんな審神者の動きを見てからその意思を組んだ薬研は、その白衣に腕を通しながら、審神者の心を伺うように見上げた。


「……罰か?」
「軽くすんで良かったな」


言って、薬研の頭をぽんと叩く。すると、薬研は何ともいえない微妙な表情を浮かべる。少し沈黙があったが、審神者に従うと決めたのか、頭をかきながらため息をつく。


「……雑巾とってくる」
「箒とちりとりも頼むぞ」
「はいよ。大将、着替えとけよ。その格好はまずい」


それは気のせいというか、薬研の勘違いではないか。そのような思いもあるが、あれでも審神者の身を案じているのだろう。


「分かった」


そう考えた審神者は、薬研にそう答えた。薬研はにっと笑い、長谷部は残念そうな表情を浮かべた。







長谷部から借りていた服を脱ぎ、綺麗に畳み直すと、それらを持って、審神者は閉ざされていた障子を開く。


「長谷部。終わったよ」
「――主、」


そうして部屋を出れば、背を向けるようにして待機していた長谷部が振り向いた。そうして普段の和装に着替えた審神者の顔を見るなり、ふっと顔を綻ばせる。


「やはり、主はその格好が一番似合います」
「そうかい? ……ありがとう。嬉しいよ」


先ほど長谷部の服を着ていたときより、ずっと良い表情だ。だからこそ、その褒め言葉が先ほどよりもずっと嬉しい。審神者は目を細めて、長谷部に微笑んでみせた。思っていたよりも嬉しかったようで、つい、畳んで手に持っていた長谷部の服をぎゅっと抱きしめてしまう。


「ああ、これ、洗濯を……」
「いえ、そのままで結構ですよ。どの道、持って行く場所は同じです」


洗濯してから返した方がよいか。そう聞こうとした審神者の言葉を遮って、長谷部は審神者の手から自身の服を受け取った。


「これは俺が洗濯場に持っていきますから。主はここでお待ち下さい」


そういって爽やかな笑みを浮かべる長谷部に、審神者は頷いた。確かに、洗濯する場所は同じだ。同じ本丸に住んでいるのだから。現在自由に本丸の中を動き回れない審神者が持っているよりも、その方がずっと良い。


「すまない。頼んでも良いかい?」
「はい! では、行って参ります」


そういって、長谷部は服を持って去っていく。機敏な動きで廊下を進んでいく長谷部の背中を見ながら、審神者は長谷部に感心していた。働き者だ。張り切っているのか、負い目を感じているからか。でもそのどちらにしても、長谷部が真面目なことはよく分かる。


(親近感みたいなものか)


先ほど、いつもの格好に着替えようとしたときも、長谷部は自分から部屋から出ていった。外で待っているといって。審神者は男同士なのだから気にすることはないといったが、聞かなかった。主に対する礼を欠かしていないのだろう。そういった規律を守る姿勢は、とても好ましい。

長谷部の二日酔いが治まったら伝えようと決めていた言葉。出来れば、今日の内に伝えてあげたい。そんなことを思いながら、審神者は障子を閉めて部屋の中に戻る。時間も出来たのだから、その分仕事を済ませよう。そう考えていた。そして机の前に座り、薬研が来るまでに手をつけていた書類に向かい合う。










――そうして、五分も経たない内のことだった。


「主? いる? 俺だけど」


不意に障子の向こうから声をかけられ、審神者は固まった。一拍おいてから声の方を見れば、一目で誰かが分かる影が障子越しに写っている。


(……清光)


嫌な汗が流れる。今日は休みを与えていたというのに、よりにもよって誰もいない時に。なんという間の悪さだ。審神者は嫌な汗をかきながら、声を出そうか出さないかを迷う。障子を閉め切っていたおかげで、うまく居留守を決め込めるかもしれないなんて希望を感じたのだ。現に、清光は審神者が部屋にいるか聞いている。


「急に休みなんて言うからさ、逆に心配になって来ちゃった。ね? 入っても良い?」


良くない。良くない。困る。そう言いたいが、口に出してしまえば清光が傷ついてしまう。だが返事をせずに居留守を決め込んでも、おそらく清光は障子を開けて中の様子を確認するだろう。入ってはいけないと審神者が言わない限り、清光は入ってくる。今までそうであったし、審神者は清光ならば良いとしていたからである。


「……清光。だめだ」


名前を呼んで、審神者は迷いつつ、後ろにそう続けた。この先何と続けたらいいのか分からない。けれどまずは、止めるしかないのだ。言葉でしか、清光にここから去って貰うことはできない。


「……なんで? 俺、主に何かしたっけ?」


障子の向こうで、清光が悲しそうな顔をする。見えなくとも、審神者にはそれが手にとるように分かった。胸が痛んで、今すぐ戸を開いて清光を抱きしめたくなった。けれど、実行してしまえば、間違いなく跡を見られてしまう。


(清光に、幻滅されてしまう)


今すぐ動きたくなる足を制止させたまま、審神者はぎゅっと拳を握りしめる。せめて、清光を傷つけない言葉を選ばなければならない。けれど、一体なんと言えば良いのだろう。


「違う。清光は悪くない。ただ、今は、遠慮してほしい。時間ができたら、私の方から会いに行くから……」
「仕事が忙しいの? でもさ、だったら俺、手伝えるよ。いきなり休みをもらってもすることないし……ほら、遠慮しないでいいよ、主。俺、主の近侍だもん。きっと役に立ってみせるからさ」


健気なことを口にして、清光は震える声で続ける。


「ね、だから、入ってもいいでしょ……?」


そう言われて、何とも思わないはずがない。審神者は顔をしかめて、けれど、清光に嫌われたくない一心で、首を横に振った。


「……すまない。だめなんだ」


そう言うと、清光は口を閉ざし、沈黙する。審神者は首を隠すように押さえながら、清光が去ってくれることを待った。しばらくの沈黙が続いたあと、清光が、小さな声で呟く。


「……もう俺のこと、要らなくなっちゃった?」


小さな、小さな声。けれどその呟きは審神者の耳にも確かに届いた。


「そんなわけがないだろうっ!」


審神者は衝動的に立ち上がり、障子の前にまで移動して、手をかける。けれど手をかけた状態で、その動きは止まってしまった。清光が傷つくところは見たくない。聞きたくもない。このまま清光を抱きしめて大切なのだと言ってやりたい。けれど、そうしてしまったら、間違いなく、清光に軽蔑されてしまうことだろう。

開けなければ清光が傷つき、開ければ審神者が傷つく。


「主……?」


じわりと、涙で視界が滲む。清光を傷つけていることに胸が痛んだからではない。清光に嫌われてしまうことを恐れたからでもない。己と清光を天秤に掛けて、己の方を優先してしまっている自分自身が、醜く思えて仕方なかったからである。


「すまない、清光。――私はただ、お前に、嫌われたくないんだ」


震える声でそう言うと、審神者は手を下ろした。こんなにも簡単に開けられる戸に手をかけることさえ出来ない己が情けない。完璧に隠し通すことも打ち明けることも出来ないまま、何もかもが半端である、と。


「今の私を見たら、きっと、お前は私を嫌いになる」


だから、今は来ないでほしい。そう続けて、審神者は障子越しの清光に背中を向ける。そうして部屋の奥へ足を踏み出すと、背後で清光が何かを呟いたような気がした。それが聞き取れなかったのは――非常に良い音を立てて、障子が開かれたからである。


「――そんなわけないじゃん!!」


勢いよく開かれた障子と清光の大声で二重に驚いた審神者は目を丸くして後ろを振り返る。


「どんな主だって、俺、大好きなんだから!!」


きよみつ。言葉は出てこなかったが、唇だけでそう呼ぶ。清光はあっという間に部屋に足を踏み入れて、審神者は怯えるように首を両手で押さえた。そんな審神者に、清光はきっと目を細めてみせる。


「怪我、してるの?」
「してない。けれど、すまない。出て行ってくれ」


動揺して、審神者は距離をとるように後ろに下がっていく。けれどすぐに背中に壁があたり、これ以上退がれない状況に陥ってしまった。首を両手で隠したまま、審神者はしゃがみこんで、丸くなるようにして清光の視線から逃げようとした。


「見ないでくれっ…!」


すぐ目の前に清光が立っている。その気配を感じながら、審神者は震える声で懇願した。今ならまだ、清光が見ないで部屋を去っていってくれるかもしれない。例え部屋を去ってくれたとしても、このままでは後に影響があると気づく余裕すら、今の審神者にはなかった。


「……主。そんなこといわないでよ」


清光も審神者と目線を合わせるように、畳に膝をついた。そして首を覆っていた審神者の手のひらの上に自分の手を重ねて言う。


「どうして俺のこと疑うの? 信じてよ」


力づくで引き離そうとはしない。あくまで、審神者からの許しを待っているのだ。清光の声は優しく、今にも泣いてしまいそうな切ないもので、審神者は胸を締め付けられるような気がしてならなかった。


「前にも言ったでしょ? 主のことが一番好きなのは俺だよ! だからそんな心配、いらないんだって」


優しい言葉に、絆されてしまいそうになる。けれど跡を見せてしまったら、その優しさも崩れてしまうのかもしれない。それを考えると手を退けることが出来ず、審神者はぎゅっと目をとじ合わせる。


「主。俺、主に避けられる方が傷つくよ。今までこんなことなかったのに、どうしちゃったの?」


泣きそうな声で言われてしまえば、心がしめつけられるように苦しくなる。審神者は耐えられず、消え入りそうな声で口を開いた。


「……本当に、嫌いにならないか?」
「当然でしょ! 主のこと大好きなんだから!」
「軽蔑しないか? 情けないって、だらしないって、」
「思わないよ! 俺は、何があっても主の味方だし!」


言われ、審神者はそろそろと顔をあげる。目の前にいた清光と目があって、審神者は顔をくしゃりと歪める。滲んだ視界の中で、清光は笑ったような気がした。


「……もう、なんて顔してるの、主」
「清光……」


言いながら、指で優しく目尻を拭われる。その優しい仕草に審神者はどこかほっとして、けれど清光に突き放されることを恐れながらも、ゆっくりと、首を覆っていた手を離していった。

そうして清光が手の下で隠されていたものを見た瞬間――清光の顔から、笑みが引いていった。


「――……誰がしたの?」


静かな声。けれどピリピリとした殺気が滲んでいて、審神者は唇を震わせた。瞳孔の開いた目が、殺意にゆらゆらと揺れていた。


「……す、まない、清光」
「主に怒ってるわけじゃないよ。誰がこれをしたのかって、聞いてるだけ」


首に、清光の指先が触れる。優しく、慈しむように撫でるその仕草とは裏腹に、清光の声はどこまでも残虐的なように思えた。怒っていないと言っていても、とても、清光の反応に怯えずにはいられなかった。いっそ、笑って流してくれたのなら良かった。そんなことを思う。


「その……それは……」


言いよどむ審神者を、清光はじっと見つめ続ける。審神者が返事をするまでは、意地でもひかないというような、そんな強い意思を感じる。責められている気がした審神者は、とても言葉が出てこなくて、それきり、何も言えずに、逃げるように目を逸らしてしまう。


「……軽蔑したか?」


目の前の清光の反応が、清光の心が見えない。不安が不安を呼び、審神者の目からは涙が一筋こぼれてしまった。清光はそんな審神者の姿を見て、ぐっと息に詰まったようだった。


「――するわけないでしょ!?」


瞬間、力強く審神者の体は抱きしめられた。息が止まってしまうほどの強い抱擁に、審神者は頭の中が真っ白になった。けれど、ただ、強く強く己を抱きしめる清光の体温に落ち着きを取り戻していく。瞼を閉じると、また一筋、涙が頬を伝っていった。


「いい加減、信じてよ! 俺はただ、」


耳元で、清光は、泣いてしまいそうな声で口にする。清光の背中に腕を回して、審神者は抱きしめ返した。


「――主を傷つけた奴が、許せないんだよ!」


その瞬間になってようやく、審神者は心から安堵することが出来た。清光が己のことを軽蔑していないこと、失望していないこと。それをようやく自覚できた審神者は、力一杯に清光の服を握りしめた。同じように、審神者の腰に回された清光の腕にも力がこもる。


「主をこんなにするなんて、俺、絶対っ、絶対許さないから――」


良かった。清光に嫌われていない。審神者はそれだけで良かったと心から思う。


「……よかった。お前に嫌われていないのなら、それだけでいい」


零した言葉に清光は何も言わず、代わりに審神者の体を強く抱きしめ続けていた。





「――おっ、なんだなんだ。取り込み中か?」


そんな状況で、薬研が部屋に戻ってくる。手にはバケツと雑巾、箒とちりとりをうまいこと全て抱えている。審神者と清光の姿を見た薬研は、はっとしたような表情をした。薬研は掃除道具を畳の上に置いて二人に近づき、審神者の涙に気づくと、眉をひそめる。


「おいおい。大将泣かせちまったのか」


それは清光に向けて告げられた言葉である。清光は薬研を邪魔そうに見ると、苦虫を噛んだような顔をした。


「――ちょっと、今大事な話してるんだから、出ていってよ」
「そんな重大なことか? まあ、そりゃ、軽い話題じゃねえだろうが……大将を責めてやるな。隙が多かった以外は、大将は悪くない」
「分かってるよそんなこと……! だけど、主を傷物にしたやつを、何で野放しにしなきゃいけないんだよ!」


声を荒げる清光に、審神者は違和感を感じる。審神者を抱きしめたまま離れる気配のない清光は、薬研に息を乱しながらそう言った。その清光の横顔を見ながら、その違和感の正体が己の中で徐々に輪郭を露わにしていく。


「……? 大将、どこまで話したんだ?」


そんな清光の尋常ではない様子を不思議に思ったのか、清光と審神者の横に目線を合わせるようにしゃがみ込む。薬研からの問いに、審神者はようやく詳しい説明ができていないことに気がついた。


「……まだ、なにも、」
「そりゃ不味いな。だったら今の大将の姿は明らかに……だからな」


薬研なりの気遣いだったのか、該当する単語の時には言葉が伏せられる。審神者は薬研の言わんとしていることを察して、現状を冷静に分析した。そして清光がしているだろう誤解に、ようやく気づくことができたのである。

そんな薬研と審神者のやりとりに、清光は困惑の表情見せる。


「……? え、なに、何なの?」
「清光、違うんだ、これは……」


そんな清光に説明しようとした審神者より早く、薬研は審神者の首を指さす。


「いいか? こっちは、酔っぱらった長谷部が勢いでつけた跡。で、こっちが隙だらけの大将を俺がつまみ食いしたやつだな」
「長谷部? つまみ食い……は? え、なに?」 


薬研の言葉がいまいち飲み込めていないらしい。頭の上に疑問符を浮かべているような清光が呟く言葉に、審神者も少し同調する。


(つまみ食い……?)


他にもっとましな言葉はなかったのか。よりにもよって何故そんな言葉を選んだのか。審神者が薬研に聞こうとした矢先、薬研が清光に向かってにっこり笑いかける。


「どっちも未遂で終わってる。大将の尻は無事だ。良かったな」


言って、ぐっと親指を立てられた指をすぐさまがっしり掴み、審神者は薬研のことを睨みつけた。


「そんな下品な言い方は……」
「まあ、いいじゃねえか大将。本当のことだろ?」


言いながら薬研は笑って、白衣の裾を使って審神者の目元を拭う。審神者はそれを受け入れながら、鼻をすすって、薬研の指を解放した。

そうしていると、安堵したようなため息とともに、審神者は清光にぎゅぎゅっと抱きしめられた。


「なにそれ……もう、何事かと思ったじゃん」


すりすりと頬を審神者につけながら、清光は気の抜けた声でそうこぼす。そんな清光にされるがまま、審神者の方も清光を抱きしめ、抱きしめ返されている。


「すまない。驚かせたな」
「本当だよ! 俺、すごく心配したのに!」


何にせよ、清光に嫌われていないのなら、審神者はそれで満足だった。ぎゅっと強く抱きしめて抱きしめられていることがとても幸福に思えて、不安定だった調子も落ち着いてきた。


「お前に嫌われなくて良かった」


そう言うと、審神者はふっと笑う。少しの間を置いて、清光は優しい声でばか、と呟いて、気の抜けたように笑ったのだった。






「主、ただいま戻りました」


その後、詳しい説明を清光にし終わった頃、長谷部は部屋に戻ってきた。そして清光の姿を確認すると、少し固まった後、驚愕の表情を浮かべて清光に指を差す。


「――加州!? お前、ここで何を……」
「こっちの台詞なんだけどぉ! そっちこそ主に何してんの!? 信じられない!!」


未だ審神者を離さず、審神者も清光から離れずにいたため、声を荒げる清光の声がよく耳に響いた。審神者は少し顔をしかめ、清光の背中に回していた手で、くいくいと服を引っ張った。


「清光。それはもういい。その話は済んでいる」
「済んでるって、でも、」
「いいんだ。長谷部も悪気があったわけじゃない」


そういう審神者に、清光はぐっと押し黙る。すると、水気を拭き、畳の上の茶葉を箒で集めていた薬研が口を開く。


「悪気はなかったろうが、下心はあったと思うぜ、大将」
「お前が言うなっ! 薬研はもう主の部屋出入り禁止だからね!」
「何言ってんだ。俺っちなんて可愛いもんじゃねえか。ちょっと甘噛みしただけだろ? よく見てみろ。こんな可愛い短刀が、そんなことするわけがない」
「だから自分で言うなって! 主も分かったでしょ!? 薬研は油断しちゃだめなの!」


言いながら、清光は審神者の腰に回していた手を、審神者の頬に移して、優しくなで上げた。


「せめて、俺が朝からいたら、薬研は防げたのに……!」


そうしてとてつもなく悔しそうな声でいって、じわりと目に涙を浮かべる。審神者は慌てて清光の背中に回していた手を引くと、少し距離を空けて袖を清光の目元に押し当てながら声をかける。


「すまない。今度は、早く清光に伝えるよ」
「うん。そうして。今度がないのが、本当は一番良いんだけどね」


言いながら、清光はもう一度強く審神者のことを抱きしめたのだった。


「で、今までどこにいたんだ?」
「主が来ていた服を洗濯場に持って行っていた。お前こそ、加州が来たとき何をしてたんだ」
「おいおい、忘れたのか? これをとりに行ってたんだよ。こっちはもう済んだし、次は大将に使う軟膏とってこなきゃな」


長谷部とそんな会話を交わしながら、持ってきた掃除道具を抱え直す。そうしてまだよく状況を把握できていない長谷部と、清光と審神者を見て、何気なく呟く。


「しっかし、昼まで持たずにこの面子が揃ったとなると……こりゃあ、小狐丸の旦那もすぐに来るかな」


聞かせるつもりの有無に関わらず、全員の耳に聞こえるような音量だったのだ。薬研の言葉に長谷部も清光も顔をしかめた。


「ちょっと、やめてよ。本当に来たらどうするの?」
「そうだ。やめろ。演技でもない」


あんまりな言いようにも聞こえる。本当にそこまでいうほどの脅威が、はたして小狐丸にあるのだろうか。以前から考えていたことだったが、その件については全く納得できていなかった。


「……小狐丸は、お前たちがいうほど危なくはないぞ? どうしてそんなに警戒するんだ?」


ややこしい噂を広めてしまっていたから、それまで添い寝はなしとしていただけである。だからこそ厄介な印象があるのかもしれないが、当の本人がほかに何かしたという話はない。小狐丸は少し甘えん坊ではあるが、だからといって審神者に危害を加えたこともない。にも関わらず、何故か、ことあるごとに審神者の耳に入ってくる小狐丸の名前は、いずれもあまり良い印象はうけないものばかりだ。あまりに違いすぎて、警戒が必要といわれても、実感は何もわかない。


「大将は、まだまだ隙だらけだな」


やれやれと息をはく薬研に、審神者は眉を潜めた。


「何を言う。小狐丸は私に噛みついたことはないよ。薬研よりは、よっぽど無害だ。何故皆がそう小狐丸に構えるのか……」


薬研よりは、の部分で、薬研は呆れたように目を細め、清光と長谷部は言葉に詰まった様子で黙り込む。審神者にいえない根拠があるのか、それともないから黙り込んでいるのか。何か口にして貰えなければ、そのどちらかなのかは審神者には判断がつかない。反応に困る審神者に、清光と長谷部は困ったような声を出した。


「小狐丸はねえ……」
「なんと言えばいいか……」

「まあ、それは二人から聞いてくれ。俺っちは、ちょっと大将用の軟膏をとってくる」


そして、二人そろって困った顔を浮かべている。言葉を探してうんうんと悩む二人とは真逆に、薬研はふっと笑って、部屋から出ていった。その背中が見えなくなり、審神者は交互に清光と長谷部の顔を見た。







薬研が掃除道具をなおして軟膏と共に戻ってきた後も、小狐丸が何故危険か、審神者は二人から明確な返事はもらえていないままだった。


「――とにかく、危険なの。一番タチがわるいっ」


ただ、そのような結論だけが出ている状態だ。審神者は眉をひそめ、長谷部の方はどうかと思って目をやる。しかし長谷部もうんうんと唸るように考え込みながら、それでも清光に同調するように頷くだけである。


(……感情的なものか?)


そんなことを思う。けれどそれでは小狐丸を警戒する必要性は全くないので、二人の言葉を信じることが出来ずにいる。


「そう言われても、実際、小狐丸は可愛いからね。いまいち実感がわかないな。薬研はどう思う?」
「ん? 俺か?」


軟膏を審神者の首に塗っていた薬研は、自分に話がふられると思っていなかったのか、少し反応が遅れていた。同時に、軟膏を伴った薬研の指が歯形に触れ、そのひりひりとした痛みに審神者は眉を寄せた。声は出さなかったものの、肩は少し上下してしまった。


「……そうだな。小狐丸の旦那は、嫉妬深いんだよ。他の刀剣への牽制の仕方が、一人だけ違う……とでもいうか? 夜伽云々の噂も、その中の一つだからな」


言いながら、自身がつけた歯形を指でなぞっていく。なるべく反応をしないように我慢しながらそれを受けていると、清光が苦い表情を浮かべながら口を開いた。


「……うーん。なんかしっくりこないけど、まあ、薬研の言う通りかな」
「実際、小狐丸は主に執心ですからね」


それを受けて、審神者は少し考え込む。ここまで言われては、確かに少しは警戒をと考えるのが普通なのだろうが、やはり、どうにもぴんとこない。


「終わったぜ、大将。これを朝晩二回塗っておけば治りも早くなる。色もうっすらついているだろ? 肌の色に近いから、隠すのにも使える」


軟膏の入ったケースと共に、手鏡を渡される。それを受け取って、審神者は首をのぞき込んだ。全くバレないほどなんてことはまずないが、けれど確かに、うっすら目立たなくなっているような気はした。


「ありがとう。薬研。助かった」
「主。お礼なんていいよ。噛んだ張本人なんだから」


ぷんすかしている清光に苦笑いして、審神者は薬研に貰った軟膏を机の引き出しにしまった。そして、清光という最大の問題が解決したからだろう、暢気な気持ちで、こんな言葉をもらす。


「……とはいえ、いいじゃないか。嫉妬深いくらい、可愛いものだよ。噂については本人にきつく言い含めているから、気にすることもない」


手鏡を置いて、審神者は三人に向き直り、微笑む。
各々、何か言いたそうにはしていたが、やはり審神者には小狐丸がそんな危険なようには思えなかったのである。


「手はかかるのかもしれないが、小狐丸はそこが可愛いんだ」


そう言う気持ちは本物だ。審神者は隙だらけだと指摘されようが、小狐丸のことを警戒する気持ちは全くなかった。












「……全く、ぬしさまは嬉しいことを仰る」


部屋の外。そう小さく呟いた小狐丸は、部屋に入ることもしないまま、足音もなくその場から姿を消してしまう。


「ならば次は――……」


歪んだ弧を描いた唇から、牙が姿をのぞかせていた。






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