春が来るより

泉貴が呼び出したっていうのに泉貴は全然来なかった。ファミレスのいい感じに端の、空調が強すぎない席で、ドリンクバーで2時間粘っても音沙汰ない。

時間つぶしに開いた古文単語も、携帯が気になって全然覚えられなかった。身近な受験仲間にメールでもしようかなと思ったけど、真っ先に思いついた私と泉貴の共通の友人である稲葉くんは、このご時世に携帯を持っていないのだった。

稲葉くんと泉貴は唯一無二のマブダチで、私が仙台の大学に行きたいとこっそり打ち明けた時も稲葉くんは「あの長谷が許すか……?」と至極真面目な顔をして言ったくらいには泉貴のことをよくわかっている。当然のように東大志望の泉貴は、なぜ仙台と散々渋ったが、泉貴が仙台の本家に嫌々お使いに出される時も私に会いに行くというおまけの目的ができるので、私はどうにか第一志望を変えずに済んだ。彼氏の意見で第一志望が揺らぐなんて、と真面目な友達には苦い顔をされたけど、私は苦笑を返すことしかできなかった。ただの高校生の彼氏ならそうかもしれないけど、私の恋人は泉貴だった。

メールの返事が一向にこないのは、学校にいるからか、おじさんのところで修行中だからかもしれない。いずれ泉貴と結婚する可能性が高いからとはいえ、私のことは娘同然に良くしてくれる長谷家の人たちも、ひとり息子の泉貴にはとびきり厳しいのだった。あの泉貴が歯ぎしりして悔しがるのは、肉親である長谷家の人たちを相手にした時以外にないだろう。

「悪い、遅れた」
「おそい」
心配になってもう一度連絡を取ろうとしたら、泉貴の声がした。いつもの余裕そうな声で悪かったよと言った。
「連絡くらいしてよ」
「さっきになったのは悪かったよ」
「それも来てないよ」
「……送れてなかったみたいだ」
携帯を確認した泉貴は送信画面を確認してがっくりきた様子だった。泉貴がそんなミスするなんて、珍しい。顔に出ていたのか泉貴は今度こそ悪かったと困った顔をした。

「払うから、好きなもの頼めよ」
「言われなくても……」
周りの高校生はまだコートを着ていないというのに、泉貴はマフラーもコートも両方装備していた。走ったのか、暑そうにしてマフラーもコートも制服のブレザーも全部脱いで、席に置いた。いつもの高校生らしくないコートとマフラーのデザインが、まったく高校生らしくない泉貴には似合っている。

「今日、おじさんのとこ?」
「いや、学校。親父は車の中で話しただけ」
「会長まだ忙しいの?」
「任期はもう、終わるはずだけどな。文化祭ともなればアドバイスも欲しいんじゃないか」
「さすがカリスマ生徒会長は違うね」
「まあな」
泉貴は否定もせずに微笑んで(泉貴の嫌味のない笑顔は本当に、むかつくくらいカッコいい)、名前のとこみたいに春に文化祭も済ませたら楽なんだろうなと首を回した。私の高校は春に文化祭も体育祭も済ませてしまうので、それが終わると本格的な受験の雰囲気になるのだった。

「稲葉くんのとこもそろそろでしょう?」
「条東商はうちより一週間早いよ」
「受験の子も就職の子も大変な時期だろうにね」
「うちも稲葉の方も、ピリピリしてるやつはどっちにも身が入らなくて大変そうだよ」
泉貴は全然そんなことないんだろうな、と私は感嘆のため息をついた。泉貴は稲葉くんが言うところの「良くて東大、悪くても東大」という優秀さだし、お家の事情で浪人不可国立希望の稲葉くんや私の勉強を見ながら、自分も受かる気でいる。だから、今日の呼び出しはきっと勉強のことじゃないんだろうなと予想がついた。泉貴には、第一志望合格とかじゃなくて、もっと先を見ている余裕がある。

「それで、春休みなんだが」
「随分先に話が飛んだね」
「仕方ないだろ、うちの鬼どもが旅行に行くんだからこれくらい前から俺の心の準備がいるんだよ」
「長谷家のツアーコンダクターさんは大変だね」
「好きでやってるわけじゃないのが一番つらいんだよ」
泉貴に憧れる人たちも、長谷家では末っ子の長男でビシバシこき使われてるなんて知らないんだろうな、と私は気の毒に思った。私にとっては長谷家のおじさんもおばさんも汀さんも優しくていい人たちだけど、泉貴にはまったく容赦がない。長谷家の海外旅行では、ホテルの予約から観光の手配まで全部泉貴の仕事で、泉貴はいっつも旅行から帰れば楽しいことは何もなかったみたいな顔をしている。

「それで、春はさ、名前も来いよ」
「えっ」
「姉貴もおふくろもお前を連れて行きたいって」
「えっ、いいの」
「姉貴たちにこき使われる俺の心労を減らすために来いよ」
「うわ、大変そう」
泉貴は例によってハードワークになるであろう家族旅行を思ってから疲れた顔をしたが、行き先は今年はスイスかフランスになるだろうが構わないよなと話を進めた。スイスもフランスもどっちも行ったことないし楽しそうだ。
「でも泉貴は、大変じゃないの。っていうかせっかくの家族旅行なのにいいの」
「お前のわがままなんて、あの鬼どもの要求と比べたらかわいいもんだよ」
「……」
うちが仲良く家族旅行なんて柄じゃないのはわかってるだろ、と泉貴が深々とため息を吐いて私は微妙な顔になった。私がいても泉貴の負担は減らなそうだ。

「覚悟しとけよ、これも婚前旅行そのいちみたいなもんだからな。高校卒業したら、うちの人間どもに本気で外堀埋められるぞ」
「泉貴は、嫌?」
「嫌じゃない」
私の不安な声を切り捨てるように泉貴はきっぱりと言いきった。高校卒業を目前にして、泉貴との関係が私の知らないところで変わっていることが怖かった。所詮は親の決めた恋人なのに、泉貴は優しい。泉貴は、私が小さい時からずっと見てきたとおりに目を細めて、また真面目な顔に戻った。

「俺は、名前以外考えられない」
どうして、そんなにかっこいいことがかっこいい顔をして言えるんだろう。泉貴が、泉貴だから?こんなの他の男が言ったら笑ってしまうけど、泉貴が言うから、私は泉貴の自信の裏側の努力を知っているから、どうしようもなくかっこいいと思ってしまう。ぽかんとした私を笑って泉貴は頬杖をついた。
「何を今更驚いてるんだ」
「だって……だって、泉貴が……」
「だって、何だよ?」
「だって、泉貴がかっこいい」
泉貴は驚く私に何を今更と笑ったけど、私は私を見る泉貴がそんな笑い方をするのを知らなかったし、そんな顔を見せられたら好かれているんだって改めて自覚しないでいられない。熱くなった顔を隠すように俯いて、八つ当たりでテーブルの下の泉貴の長い脚を蹴れば、泉貴はまた楽しそうに笑って古典単語帳を指し「まずは受かれよ」としっかり釘を刺した。

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