秘密の部屋
きっかけはなんだったか、思い出せないくらいのどうでもいいことだったのだと思う。そういうことの積み重ねだった。薫くんは医者をやめてアイドルになって今じゃテレビをつければバラエティにドラマに歌番組に、本屋に行けば雑誌にドラマ化原作のPOP、CDショップに行けば店頭のコーナーには最新のシングル、それからライブのブルーレイが並べられている。家でも街でも、本物の桜庭薫に会うのと同じくらい映像や印刷された薫くんと会う。
薫くんは医者時代から変わらず律儀に共有のスケジュールアプリに予定を書き入れている。例えば今週、月曜から順にドラマ撮影、ボイストレーニングと雑誌取材、オフ、収録、ダンスレッスンとミーティング、新曲レコーディング、音楽番組生放送に出演のち映画の宣伝……といった具合に。普通の会社員の私とお休みが会うことは少なく、ただでさえ忙しいのだからオフの日はゆっくり身体も心も休めてほしいから2人で出かけることも少なくなった。お医者さんをしていた頃もすごく忙しそうだったけどデートもしたし、その頃は周りのことなんて気にしなくていいからなんだってできた。今は、外に行っても周りを気にしなくちゃいけないし私の行きたいスポットは他の多くの若い女の子も目をつけてるようなとこばっかりだからあんまり薫くんを連れてはいけないのだ。
「君はもっとわがままになっていい」
薫くんがそんなことを言い出したのは2人で一緒にベッドに入ってベッドサイドの電気を消そうという時だった。(薫くんは神経質な割に私と一緒に寝ることを拒否しない。曰く、ベッドがこれだけ大きいのにもう一つ買う必要はないのだとか)
「本当に?私結構わがまま言ってるでしょ?」
「……それでわがままなつもりだとしたら君は相当無理をしているんだろうな」
ゴロンと薫くんは寝返りを打って私の方を向き、腕を伸ばして私を引き寄せた。オレンジの光が頬に当たり、眼鏡がないこともあっていつもの頑張ってる顔とは違う優しそうな印象を受ける。
「むり、してないよ」
「本当に?」
君は、僕を連れ回さなくなった。買い物に行こうと休日の僕に強請ることも疲れたからカフェで休もうと駄々をこねることもなくなったし、美術館の招待券も好きな学生楽団のコンサートチケットも僕に渡さなくなったしあんなに好きだったプラネタリウムの季節展示にも誘わない。夏祭りにも二年参りにも行きたいと言わなくなった。これのどこが、我慢していない?前から思っていたがやはり君は、心配性が過ぎる。
薫くんはつらつらと私がわがままでなくなった話をして、私は昔のそんな話をされて恥ずかしくて寝返りを打って薫くんに背中を向けた。薫くんは肩に手をかけて無理に私の顔を薫くんに向ける。
「何より、僕に触れようとしなくなった。前は鬱陶しいくらいまとわりついてきただろう」
「……オトナになったの。オトナだから薫くんにベタベタしなくても平気なの」
「嘘だな」
ばっさり切り捨てられて何よ!何よ!と私は憤慨したけど薫くんがひどく残念そうにしているので、黙った。私が前よりオトナになったのは確かだけど薫くんの指摘は全て事実だったので。だって薫くんはアイドルになったから女の子の買い物に連れ回されたりこれが似合うんじゃない?って私服を見繕われることもないし、彼女と一緒になってカフェやプラネタリウムやコンサートや美術館に行っちゃいけない。行って、見られちゃいけない。お仕事以外で浴衣を着てお祭りに行って彼女の面倒をみるのも、二年参りで今年一年また恋人と健やかにあれますよう願うのも、きっといけないことなんだ。だって、だって、前も今も変わらず私薫くんの彼女だけど、今の私は薫くんのファンでもある。薫くんのファンの私は薫くんが美人女優とドラマで危険な恋をするのは許せても街中で知らない女の子と楽しそうにする薫くんはきっと許せない。もちろん薫くんにしっかり休んでほしいというのも嘘じゃない。我慢の繰り返しは確かにつらいけど薫くんが好きだから我慢できたし、これからもする。
「そうやって、一人で考え過ぎることがよくないと言っているだろう」
薫くんは、外に出かけなくなった代わりに休みの日におうちでできることを提案するようになった。ちょっと高いケーキを買ってきて2人で食べるとか、新作映画をレンタルして二人でふかふかのソファに寄りかかって観賞会をするとか、手間のかかるご飯を二人で不慣れながらにチャレンジするとか、薫くんが先に始めたスマホのゲームを教えてもらって進めるとか、あとは一日中本を読んだりベッドにこもったり、そういうお休みが多くなった。部屋のベランダで2人で花火を見るし、年末は2人で炬燵で遠くで鳴ってる除夜の鐘を聞きながら今年もお世話になりました、来年もどうぞとお願いをする。休日は外に出ていって遊ぶことしか知らなかった私に薫くんはひとつひとつそういう遊び方、やり方を教えてくれた。そんな中私は思うところあって勝手に薫くんとの接触やら何やらを控えるようになって、薫くんにそれを我慢している、と思ったのだ。仕方ない人!
「確かに私、可愛い服着てショッピングしたりカフェでお茶したりするの好きだけど、薫くんといれるなら部屋着で薫くんがいれてくれたコーヒー飲むのも大好きだよ。ね?オトナになったって言ってくれてもいいのよ。全部、薫くんが教えてくれたおかげだけど」
「……全く君は……」
薫くんは眼鏡もないのに眼鏡の真ん中を抑えるみたいな仕草をしてため息をつく。明日、前に君が見せてきた店のケーキを買ってくる。あの、オレンジとショコラの重なった……そうだ、君が散々食べたいとインスタグラムを見せてきただろう。……何?そのくらい覚えている。仕事で近くに寄るはずだから、遅くならなければ帰りに。フランボワーズのやつも食べたいだと?全く……半分僕に寄越すなら考えてもいい。たまには浴びるほどチョコレートのケーキが食べたい、なんて先月のチョコレートフェアのことはすっかり忘れているようだな、君は。
薫くんは照れ隠しにまた私を一つ甘やかして今度こそ電気を消そうと言った。暗さに慣れない中、軽い羽布団の中を薫くんがごそごそと寝やすい位置を探すように身じろぎした。シーツの音にかき消されるほど小さいからといって「君がいつか本当に耐えられなくなったら、出来るだけ早く僕を捨ててくれ」なんて言い逃げ、許すつもりはない。
「絶対、そんな日は来ません!おやすみなさい!」
宣言して私も身を落ち着けようと寝返りを打った。君は本当に馬鹿だ、という幻聴を聞いた気がした。
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