君を攫う話
昔に付き合っていた恋人がいて、別れてから暫く亡くなったのだと聞いた。あんなに優しくて賢い女性が早くに死んでしまうなんてと私は彼女の実家を訪れて彼女の写真の飾られた仏壇に手を合わせた時に思ったのだった。それから紆余曲折あり今、アイドルになった。
「硲さんすみません、ロケ中止です〜〜!!」
一人で、とのことでプロデューサーの同行を断り地方でのロケに行くも列島を直撃した春の嵐のために屋外での撮影は中止になった。我々ははやばやとホテルに引き上げることとなり夕食を終えて時計を見れば引き上げたのに合わせての食事だったからかまだ早い。たまにはと一人でホテルのラウンジに足を運んだのだった。
「外の雨すごかったですね、道夫さん」
ごうごうとなる風をBGMがわりに何杯かグラスをあけてほどよく酔いの回った頃に聞き覚えのある声が私を呼んだ。ひたひたと濡れた足音がする。教え子の誰とも違うその呼び方に酔っているのだと言い聞かせながらも振り返れば思った通りの彼女がいた。少し大人びた、とずれた眼鏡を直しながらそんなことを思う。亡くなったはずの彼女が年をいくつか重ねた姿なのはなぜだろうと思ったけれどお隣、いいですか?と尋ねる姿は変わらずに可愛らしくもあり、その横顔はやはり大人びているのだ。無理もない、別れたのはまだ彼女が大学を出て2年ほどのころだから計算して、私と別れて6年もの月日が経っている。
「こんなところでお会いするなんて奇遇ですね」
「ああ、この嵐のせいで外での撮影が延期になってしまったが悪いことばかりでもないようだ」
「それはそれは……風も強くて危ないですから。延期はちょっと困りますけどね」
「だが、君と会えた」
食い気味にそう言ってから酔っている、とため息をつきそうになった。恋愛ドラマでも言ったことのないようなセリフに目眩がする。名前さんは目を細めて笑い「そうですね、またお会いできて私も嬉しい」と自分のグラスに口をつけた。柔らかな赤い色の口紅がグラスの縁に残ってそれを名前さんはそっと拭った。
「なんのお仕事だったんですか?……って聞いちゃいけないことだったかしら」
「ルーレットで示された土地に一人で向かう企画で……前に出た映画の続編が出るからその宣伝のために呼ばれている。映画は来月からで今日の放映は確か、月末の……」
どちらかの氷がゆっくり融けてキンと音を立てた。風も雨も止むどころか未だ強さを増すばかりだ。
この仕事が終わって東京に戻ればファッションブランドの秋の撮影に呼ばれているし山下くんや舞田くんとは次のイベントの相談をしたい。ライブも近いからパフォーマンスも精度を高めたい。会場の面積や高さや席がどこまで作られるのかも調べてからMCの内容も決めなければ。ドラマのオーデションに出てみないかという話も来ているからそれにも出られたらいい。
口から出るままに語ればどんどん熱が入ってあれもこれもしなければ、とあちこちに話が飛んで彼女にはさぞわかりにくかったことだろう。昔と変わらず名前さんはグラスに手をつけるのも忘れて話に聞き入るので私の方も加速してしまう。直すべきとはわかっているのに久しぶりに彼女に会って昔に戻ったみたいだった。
「名前さんは」
「はい?」
「名前さんはいま、どうしている」
「私ですか」
そうだ、名前さんは死んだはずだ。夏の終わりに連絡が来て9月、まだまだ暑い中ネクタイを緩める気にもならず彼女の実家を訪れた。写真の名前さんは、百合の花畑で無邪気に笑い美しかった。あれはいつか、2人で百合園を訪れた時に私が記念に撮った写真だ。そうだ、その後名前さんは私ばっかり撮ってもらってる!と私の腕を取り知らない誰かに写真を撮ってと頼んだのだった。決して表情豊かといえない私と対照的に名前さんは溢れんばかりの笑顔を浮かべて……
「特に何をというわけでもないですけど……強いて言うなら道夫さんの幸せを祈ってます」
「名前さん」
はっとして顔を上げると名前さんは全然減らないグラスの水面を揺らした。道夫さん、アイドル似合ってますねと呟いて。
「そうだろうか。アイドルになる前の、それこそ教師になる前のただの私も知る君にもそう言ってもらえるのなら」
胸を張ってアイドルが天職と言えるな。その言葉を言う前に名前さんのハイヒールを履いたつま先に視線をやってあっと声が出た。雨が降り出して割と早くにホテルに戻ったとはいえ私の革靴はまだ濡れている。ウエイターの青年は先程モップを持ち出していた。なのにひたひたと音を立てるほど濡れていた名前さんのつま先はすっかり乾いている。酔っている、眼鏡をずらして目元を揉むようにしても見えるものが変わらない。
「道夫さん、お疲れですね。早く寝たほうがいいですよ」
「ああ、」
たしかに疲れているのかもしれない。名前さんがさっと席を立って髪を直した。お酒には相当弱いひとだったはずだが、いつのまにかグラスの中身は半分くらいに減っている。
「今夜はゆっくり休めますように」
「ありがとう……君も」
今夜は、そう言いかけた時に頭上のライトが一度点滅して、電球が切れたのかそれともこの嵐で停電か。上に目をやったのは一瞬のはずが再び視線を下ろした時には名前さんの姿はどこにもなかった。
「お隣、いいですか?」
聞き覚えのない声にまた振り向くと知らない女性だった。今夜はそういう日なのか。
「すまない、さっきまでここにいたんだ」
名前さんの置いていったグラスを一気に煽る。喉を通る熱い感覚で余計に頭が重くなった。雷が一際明るく光り、すぐに大きな音が鳴る。近いな、下ろしたグラスには丸い氷以外に何も残っていない。今夜はもう休むべきか。
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