息ができない

次にコロン先生に会ったのは、先生の研究室の前だった。他学部の友達が使っている棟との間にあってわかりやすい。コロン先生が研究室でもくもくと研究をしているところが小さな窓から見えた。

(授業の時よりよりずっと、楽しそう)
海について語る先生はいつも楽しそうで、それでも時たまどことなく憂いを帯びた顔をしている。自分の講義を真面目に聞く人が少ないなら多少なりとも心を傷めるだろう。先生は自分の専門を深く愛しているからなおさらだった。研究室にいる先生はいきいきしていて、罪悪感でそっと視線をそらした。

「ずっと、研究室にこもってればいいのに」
助教というのは、卒業後も研究に明け暮れる結果得る職業だと思っていた。何となくでドクターまで取る人は少ないような気がする。多分コロン先生もその口だろう。自分の世界を持っていて、何よりそれを愛している。そして、とっても残酷なことにそういう人の言葉は中々人には届かない。

視線を逸らした先の壁には、他の研究室と同じように関連のイベントだとか展示、学会のポスターやお知らせが貼られている。私の専門とはかけ離れた掲示物はどれもこれも青い色をしていて珍しく見え、わからないなりに眺めるだけでも楽しかった。

海が好きなコロン先生は、私よりもずっとこれを見るのが楽しいんだろうなとそっと一枚のポスターに触れた。水族館の企画展の紹介だった。そうか、水族館も海の管轄か。

「水族館が、お好きですか?」
ふとかけられた声に、弾かれたようにポスターから手を引いた。
「こ、コロン教授……」
「すみません、驚かせてしまいましたね」
「いえ、そんなことないです」
うっかりコロン先生と呼びそうになってしまった、と反省していると先生は水族館はお好きですか?と再び聞いた。

「水族館は、そうですね……最近はあまり行っていないですが好きです」
「そうですか!」
目に見えてパッと顔が華やいで、思わず笑ってしまった。私よりいくつも年上なのに、子供みたいな顔をしていたから。

それで、何があったか知らないけれどコロン先生は私を気に入ったらしかった。すぐに先生は私を名前で呼び、私も古論教授ではなく、密かに呼んでいたコロン先生と直接呼ぶようになった。

コロン先生は私が見ていたポスターの特別展示を皮切りに水族館や博物館の面白そうな海の企画展、それから海のある街に誘うようになった。
「名前、今度は鎌倉にシラスを食べに行きませんか。近くの水族館ではシラスの孵化や稚魚を見ることもできますし、海底探索機の展示もあります」
「わあ、やっぱりお昼はシラス丼でしょうか」
先生は研究のために水族館を訪れることもあるらしかったが、私と行くときはいつも詳しくない私に説明するべく最初から最後まで丁寧に回った。水槽に貼られたプレートよりも詳細に、私がついてこれない話題もひとつひとつ言葉を説明しながら解説を回るのだが、私はそんな先生の顔を見ている方が楽しかったりする。

ある時私みたいな詳しくない学生と回るより、学科の学生を誘ってはいかがでしょうかと声をかけたら
「一人で回るのも素晴らしい体験ですがあなたと見るとまた新たな発見がありますから」
ときらきら輝かんばかりの笑顔を見せるものだから私は何も言えなくなってしまった。私が何を言うべきか考えている間に先生は新しい話題に移り(遮る前も魚の話題ではあったが)その話題はコロン先生の中では終わってしまったらしかった。


どうして私だけを誘うのだろう、という疑問は私とコロン先生の交流を知った学生たちも度々口にした。どうして?と聞かれても私は先生の言ったことをそのまま口にするのはどうしても憚られて「知らない。先生海のことばっかり考えてるから想像もつかない」と大して親しくもない学生にそう答えることになった。

「本当に何もないの?ほら、実は恋人同士とか……」
その日、私にその話題を振ったのはまたしても大して親しくもない同学科の男だった。にやにやとしつこく食いさがる男に苛ついて「無いって言ってるでしょ。だって、ほらあの人……」

廊下の窓越しに白衣の裾と長い髪をひらひら躍らせながら闊歩しているコロン先生の姿が見えた。いつものように白衣の下はダイビングスーツなのかもしれない。先生は今日、午前の講義を持っていないから、海に行って帰ってきたところだろう。
「教授がどうかした?」
「……教授は、海が恋人でしょう。授業とってたなら知ってると思った」

無理矢理先生から視線を引き剥がして足元を見つめた。パンプスに細かな砂がついていた。今朝、わずかな期待を持って海に行ったがコロン先生に会えなかったことが思い出されて惨めな気持ちになった。先生は、海に行きましょうと誘えばきっと本日2回目だとしても喜んで連れて行ってくれる。そうわかっていてもあの人なんて呼び方をした今日は、先生を訪ねようという気にはなれなかった。



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