魚には熱すぎる


「海を愛し、海を学び、海に尽くすことが私の使命だとずっと考えていました」
学期の終わり、先生の受け持つ授業ではレポートの提出を求められた。私は先生と親しくなるまでは適当に済ませていたリアクションペーパーも丁寧に書くようになったし、今回のレポートも一生懸命書いた。そして、コロン先生は私を贔屓することなく、毎回他の学生に対するのと同じようにウェブで返答をし、レポートに評価をつけた。

長いテストアンドレポート期間から解放された私は先生の研究室に遊びに来ていた。長期休みの前に地球史に関する展示を見に行く約束をしていて、それの予定を立てることになっていたのだ。「海はすべての生命の始まりですから」と言って私が提案したそれに先生は快く了承した。

博物館の近くにおしゃれなカフェがあるからそこによるのはどうだろう、と考えてわくわくしながら重たい研究室のドアを開けると、コロン先生は長い髪に手を突っ込んだまま紙束を見ていた。見たことのない暗い顔をして。

「先生……?」
先生の手元には提出されたであろうレポートの束と教員評価書。学生が見ちゃいけないやつ、とはっとすると同時に先生は1つを残してそれらをカバンにしまった。

「さて、私もこれで今季の授業は終わりました。研究所に行く予定はありますが他の予定はお任せします」
先生はさっきまでの暗い顔が嘘みたいににっこりと笑った。手元に残していたレポートにキュッと音を立てて先生の名前と魚の絵が描かれた。もう見慣れた、先生の確認印の代わりを書き記して私にそのレポ―トが返却された。先生は私のレポートについての評価も、アドバイスも何もしなかった。先生の所属する学科の学生たちが受ける専門の授業では、毎回厳しい添削がなされると聞く。座学の単位も厳しいらしい。このレポートも学科生には一足早く返却され、それはそれは厳しい添削がなされたという。先生が私にそうしないのは、ひとえに私がただの海が好きないち学生に過ぎないからだった。

先生は、私が興味を持てばどこでも連れて行ってくれた。水族館はもちろん、博物館、近くの海も遠くの海も、果てはいち学生だけでは入れないような研究施設も。先生の見せてくれる海に惹きつけられた私は、なんだかんだで自然史学のコースを選んだ。

学科は違うながらも先生はたいそう喜んでくれて、ますます先生のお誘いは増えた。それは1年では終わらず2年3年になっても続き、私は先生には及ばないけれど年を経るにつれて、海の知識をゆっくり増やしていった。

「名前、潮が満ちていますから、足元に気をつけて」
「はい、先生」
4年にもなると単位は取り終えてヒマになったので図書館に入り浸るようになった。夕方、資料を読んでいたら先生に肩を叩かれ、見るまでもなく先生だった。「名前、海に行きましょう」と微笑む先生は図書館の古い造りがとても似合っていてまるで映画のようだった。先生のそんな姿に周りの学生たちがざわめくなか荷物をまとめ先生について退館した。「見て、あの人すごいイケメン」「誰?」そんな会話をしているのはまだ先生の授業を取っていない1回生だろうか。先生は全く気にせずどんどん進んでいった。

そうして突然海に連れてこられた私は先生に手を引かれながら潮の満ちた岩場を歩いている。夕日が明々と燃えて先生の髪を照らした。
「院試合格おめでとうございます、名前」
「ありがとうございます。まだまだ頑張ります」
先生の適当に結ばれた髪の、ゴムからこぼれた一房が潮風に煽られた。

静かに波が岩にぶち当たっては泡立ち、帰っていく。先生はぽつりと呟いた。講義の時のよく通る声の先生からは考えられないくらい小さな声だったけれど、それは波の音よりずっとよく、私の耳に届いた。

「名前は、このまま内部進学するものだと思っていました」

先生に見せられ興味を持った海だけど、私は外部の大学へ進学することに決めた。専門の勉強をするなら別の大学の方が環境もレベルも上だったからだ。外部からの院進は試験がきついとか聞くけれどなんとか受かった。

「先生、寂しいですか?」
「……ええ」
冗談で聞いたのに、先生は少し困ったように微笑んだ。目線は遠い水平線を見据えたままで。

今はヒマだけどこれから卒業まで忙しい日々が続く。私には卒論が残っている。先生は3年前と変わらず今年も般教で信者を増やし、学科生にビシビシ指導して後進を育て、それから自分の研究、もちろん海も欠かさず忙しくしている。今までほど一緒に出かけたりはできなくなるだろう。

「先生」
むっつりと黙ったままの先生はただひたすら海を見ていた。
「あなたが卒業したら……」
卒業したら、なんですか。

その言葉の続きが聞きたかったけれど先生は言い淀み、「日が沈む前に帰りましょう。夜の海も美しいですが危険ですから」と私の足元を見て言った。白くて華奢なサンダルは、今日先生に付き合う予定はなかったから久しぶりに履いたもので、少しだけ潮水に濡れていた。

先生に手を引かれながら元来た道を戻って、先生の運転する車に乗った。砂まみれになった車内の床に気をつけてサンダルを脱ぐ。

クリス先生に足を上げてもいいですよ、と昔言われて以来、車で海に出かけた帰り道は助手席で膝を抱えていることも多い。今日はワンピースなので裾に気をつけて足をシートにあげた。その間、先生は静かな眼差しで私を見ていた。

「先生、あの、」
何か悩みごとでもあるんですか、と続けようとした言葉は、目前に迫る先生の整った顔に驚いて消えた。夕日が髪の一本一本をきらきらと輝かせるのに目を奪われて、こういう時は目を閉じないといけないんだと思い至り、慌てて目を閉じた。中途半端に上げた手が力を失ってシートにくたりと落ちた。

落ち着いてみれば、海の匂いがした。海の匂いは死の匂いだって教えてもらったけれど、今日ばかりは投げ出した手に添えられた手が熱くて、生きてる人間の匂いがした。



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