僕を僕のまま愛してくれる
……先生、どうしてキス、したんですか。卒業したら、何があるんですか。
そう聞きたくても先生と見事に会わなくなった。避けられてるし、こっちもなんとなく怖くて避けている。悶々と1人で悩み、悩みながらも卒論を進め、ついに卒業が目前になった。高校の卒業とは持つ意味が段違いだ。卒業したら先生と離れることになるし、それから先生の一方的な言葉も卒業が期限だった。
卒業式のあと、呼ばれるままにいつものように先生と待ち合わせをした。先生は私の袴姿を見ても特に何も言わず、「目的地を変えましょう」と言って優雅に助手席のドアを開けた。先生の何かしらの海の生き物に例えてほめる癖はこの日ばかりは発揮されなかった。成人式の写真を見せた時なんてすごかったのに。
運転する横顔をそっと覗き見る。これがもしかしたら最後になるかもしれないと思って。先生の運転する車は静かに海辺の駐車場に止まった。
「足下に気をつけて。裾が濡れてしまいますから」
その言葉に従って、袴の裾をたくし上げたが、先生は失礼しますと一声かけてわたしを背負った。突然の事に驚いたし恥ずかしかったのだけど「たくし上げても、濡れてしまいそうだったので」と先生は気にしていないようだった。
互いに無言のまま、先生は黙々と岩場を進んでいった。先生は今日もダイビングスーツの上からスラックスをはいて、ズボンのチャックは全開だった。もしかしなくてもこの格好で式典に出席したのだろうか。
「到着しました」
その声に前を向くと、前に一緒に来た岩場だった。息が止まった。「あなたが卒業したら、」一方的な言葉を思い出さずにはいられなかった。今日はその言葉を約束ととっていいのなら、約束の日だから。
しばらく海を見て、先生は黙り込んでいた。それから日が沈んで星が光り始めるまでに、先生はいろんな海の話をした。この海をまっすぐ行くと海溝があって、そのずっとずっと先に大陸があるとかいう話を地層的な観点から話したり、海のピンクがかった色を見てタイの食べ方の話をしたり、流されてきた何かの死骸を見て深海魚のからだの造りについて近年新たになったことの話をしたりした。
「特別な日ですから、何か特別な話をしようと思っていたのですが結局絞りきれませんでした」
困ったように先生はそう言って、でもあなたは最後まで聞いてくれるからいつも甘えてしまうのですねと言った。先生は顎を少し引いて、遠い海の先を見るように目を細めた。
「名前、私は先日オーデションに合格しました」
「オーデション?」
私はてっきり新しい論文の審査の話かと思ったのだが、先生は首を振った。
「アイドル事務所のオーデションに合格したんです」
「アイドル?」
先生の白衣のポケットから束になってモデル事務所の名刺が出てきたことは何度か経験があるけれど、アイドル?思わず目を丸くして聞き返してしまった。確かに顔はいいけれど、ダンスや歌はできるのだろうか。トークとか、大丈夫なのだろうか。
不安が顔に出ていたらしく、先生は困ったような悲しいような顔をして私と目を合わせた。
「海を愛し、海を学び、海に尽くすことが私の使命だとずっと考えていました。ですが、私には海の魅力を学生達に伝えるには力不足のようです」
同意するのも憚られて、黙っていた。私も最初は授業もまともに聞いてなかった。先生に海へ連れ出されることがなければ、その中の1人だった。
「新たなステージです。私は海の素晴らしさを伝えるための大きなステージを与えられました。ですからあなたにもついてきてほしいんです。海の素晴らしさを心から伝えることができたいちばん最初の相手である、あなたに」
言うなれば、あなたがファン1号です。この4年間、私が私の好きなものを好きなままでいさせてくれたあなたが。
そう続けられた言葉と握らされたものの形に私は言葉を失った。この4年、般教の授業で思うような成果が出せないことを、海の魅力を理解してもらえないことを、先生は随分気に病んでいたから。そして、先生はもしかしたら私を好きでいてくれるのかもしれないと思っていたけどこんな人間らしいモノで伝えられるとは全く思ってなかったから。
落とさないようにそっと手を開くと日の暮れた中でも金の指輪が鈍く光った。先生らしからぬ愛情の伝え方だと思った。まるで普通の人みたい。
「先生、私、先生の言うようにあなたのファンです。でも、」
黙って先生は金の指輪を取ってそれから私の指にはめた。
「私、アイドルになる人と恋人同士になれません」
「でしたら、私のファンをやめて、私だけのものになってください」
背中に腕が回されて後頭部に手が添えられた。心臓がちゃんとドキドキしていて胸が熱くて、そういえばこの人も哺乳類だったなと今更思った。どこか人間離れしたところがあるのでたまに忘れそうになる。
「アイドルになるなら、恋人は邪魔になりませんか」
「私が海の魅力を伝えられるアイドルになるにはきっとあなたが必要です」
「今までみたいに、2人で一緒に出かけるのも難しいと思いますよ。それに結婚だって今からアイドルになるなら中々できません。先生を待ってたら私、おばさんになっちゃう。先生はかっこいいからおじさんになっても若くて綺麗な女の子を捕まえられるけど……」
「2人で出かけられないのも、あなたが歳をとるのも、この海の前では小さな問題だとは思いませんか」
クリス先生が両手を広げて示した海は広く大きく、遠くまで広がっていた。地球の7割は海、面積にして3億6千万ちょっと。それと比べたら小さな島のたった1人の駆け出しアイドルと一般人の悩みごとなんて豆つぶより小さい。思わず頷くと先生は穏やかに笑って私の左手をとった。
「あなたが進学して離れていってしまうと知った時、どうにか繋ぎとめておく方法が欲しかった」
「今度は先生の方が離れていくんですよ。これからはずっと」
「いいえ、あなたが私というアイドルの証明になるんですよ」
掴まれた左手の甲に唇が落とされて、クリス先生の優しい瞳が私に向けられる。優しい目というと私はどうしてもクジラを思い出してしまう。
海に全てを注いで助教として頑張ってる先生が好きだった。連れまわされた私が海のことを全部先生と同じように好きでなくても、講義評価アンケートを受けて生徒たちに海の魅力を伝えるためにレポートの難易度を下げることになっても、先生の持ってる般教が寝てても受かる楽単と言われるようになっても、それでも海を真面目一辺倒に語る先生が好きだった。
芸能界なら、変人ばかりだと聞く315プロダクションなら、それを個性だと受け止めてくれるかもしれないと思って私は先生の背中に腕を回した。先生もためらわずに抱き返した。
「今日はキス、しないんですか」
前回の気まずさとタイミングの悪さを思い出してか先生は困った顔をした。それでも私の顔を見て、前と同じように顔に手を添えて同じようにした。二回目とあって、今度はちゃんと目を閉じた。頬に濡れた感触があったけど、海で何か跳ねる音がしたからその飛沫だろうと思って目は閉じたままでいた。
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