笑って明日を生きなくちゃ


最寄り駅で神谷さんと2人、なんとか下車するとすぐに東雲さんを見つけた。ほっとして東雲さんに神谷さんを引き渡し、神谷さんに迎えに来てくれたお礼を言った。

神谷さんは何のことだい?とでも言いたげににっこり笑って、対照的にプンプンしている東雲さんに手を引かれて去っていった。東雲さんが去り際に「快気祝い楽しみにしててくださいね」と言ってくれたから私はその日を楽しみに待とうと思う。

階段を踏みしめて一段ずつ上がり、ゆっくり事務所のドアを開けた。ドアを開けても、誰もいなかった。

見渡せば、慌てて出ていった時と何も変わらない、綺麗に整頓されたデスク。いや、何もかもがそのままではなかった。毎日誰かが埃を払ってくれたのだろうピカピカの机、カレンダーはちゃんと今月のページになっていたし、立てられたファイルには新しいものがあった。誰かが私が帰って来た時のためにちゃんと整えてくれたのだとわかって泣きそうになる。誰だろう、お礼を言わなくちゃ。

「そんなところに立っていないで座ったらどうだ」
弾かれるように振り返れば、涙が出るくらいに変わらない光景だった。どうして、誰もいないなんて思ったんだろう。キャスターつきの椅子腰掛けた桜庭さん、三人がけのソファの真ん中を開けて座る北斗くんと玄武くん。

吸い寄せられるようにソファの真ん中に浅く腰掛ければ、肩を押されて深く座り直すはめになった。すっかり秋物を身につけてる玄武くんと変わらない様子で足を組む北斗くん。大きい2人に挟まれて息がつまって、浅く息をついた。

「さて、君の病状のことだが」
がさりと桜庭さんの手にした封筒が音を立てた。中から紙を抜き取り、桜庭さんは険しい顔つきのまま手元を見た。
桜庭さんはそこに書かれている数値を1つ1つゆっくり見て、それから顔を上げた。

「よく頑張ったな」
びっくりするくらい、優しい笑顔だった。穏やかで、心から自然に微笑んだのだろう、安心した顔をしていた。

その表情に目を見開くも、左からの衝撃で目の前に白い星が散った。鎖骨に直撃した分、よく骨に響いた。隣の北斗くんの詰めていた息が吐き出され、私は左からの衝撃の正体をようやく理解した。190センチ65キロ、玄武くん。
震えた声で、よかったと、泣きそうな声で。京都で生まれた玄武くんだけど、その後神奈川に来て。たまに打ち明けられる心情から思うに、私を京都にやることに不安がなかったわけじゃないだろう。それでも、私が良くなるならと送り出してくれたことに私は感謝しなくちゃいけなかった。それでも水の滲む目元を拭って「でも信じてた、さすがは番長さんだぜ」と笑ってくれるから、彼のまだ解決したわけじゃない出生のことやら何やらでたまらない気持ちになる。

玄武くんの肩をさすりながら「手紙のおかげで冷静になれたよ」と北斗くんに告げれば「雑務なら慣れてますから」と茶化されて私は思わず眉間にしわを寄せた。たまに届く荷物の送り主はいつも北斗くんで、そうやすやすと帰しはしないという強い意志を感じた。過去の苦労を知っているから、事務所に所属してからは極力アイドル活動に専念してもらいたかったのに。良く効いたようでなによりです、とちょっと満足そうだから文句を言うのはやめた。

とりあえず、と出されたお茶を4人で堪能したところで桜庭さんが「何か言うことがあるんじゃないのか、プロデューサー」と鉄面皮のまま言った。さっきの花も恥じらう微笑はどこへ行ったのやら、すでにむっすりとしている。玄武くんと北斗くんもカップを置いて私を見た。言葉を間違えたらただじゃすまない様子だ。

「えっと、まずはただいま。それから……心配してくれてほんとうにありがとう」
満足そうな頷き、「当然だ」っていう嬉しそうな声、それから「冬馬に知らせてやらないと」と愉快そうな声。

「そういえば三人しかいないの?」
「君が突然帰ってくるなんていうから、皆出払っている。戻り次第、事務所で君の快気祝いだ」
なるほど、東雲さんの楽しみにしててほしいがこんなにすぐに来るなんて。確かにいつになく静かな事務所だけど落ち着いて見ると窓際のテーブルにはやりかけの課題が放り投げられてるし、テレビの方にはゲーム機のコントローラーが置きっ放しだし、いくつかのドアは開けっぱなしにされていた。

急に帰って来て、やっぱり迷惑だったかなと言おうとして、やめた。課題を放り投げて立ち上がった子たちの笑顔やゲームをそのままに薫さんたちに事情を問い詰める子たちの驚いた顔、ドアもそのままに食料調達に走った人たちの顔が見えるようで、嬉しかった。

窓辺に立って電話をかけていた北斗くんがブラインドを指で押し上げて笑った。何かなと顔を向けるとおいでおいでと指で呼ばれ、ふらふらと近寄った。
「あっ!」
事務所の前の通りにはそれぞれスーパーの袋やら何やらを持って楽しそうに笑ってる高校生のみんな、持ってる鍋からはだいすきなカレーの匂いが漂ってるんだろう。カフェパレードのお店でよく見たダンボールにはカチャカチャ鳴る綺麗なティーセットが入っていることだろう。道路の向こうには仕事が終わって直行してくれたのか、通りの皆を見てタクシーから慌てて降りてきて手を振るアイドルに、大人の引率のもと小さい子達も満開の笑顔で手を振って合流していく。会社の前に止まったバンからは大人たちが降りてきて荷物を運び出したり、大きな声で「レコーディング組、終わったから今から来るって!」って電話片手に状況報告をする声がした。

かつかつかつ、と階段を上る音、それからはあはあっていう荒い息が事務所のドアの向こうから聞こえた。きっと私が療養している間に1人で事務所を支えてくれた人だろう。「ゆっくり休んでください。自分と、それからアイドルの皆さんのために」と優しく微笑んだ彼に、今日からは本気で恩返ししなくちゃいけない。

ギイッと音を上げてドアが再び開いた。振り向けば嬉しそうなみんなの顔、泣きそうな顔の子もいるし、今にも飛び出して来そうな子もいる。ごめんね、っていっぱい言いたかったしその倍ありがとうって言わなくちゃいけない気がした。

「……ただいま」
情けないくらい小さい声が、みんなのおかえり、の声にかき消された。帰って来てよかったでしょうって得意げに笑う顔が見えた。そうだね、やっぱり私の帰る場所はここだ。

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