まっさらの灰
学部時代に書いたレポートをまとめて捨てた。もしかしたら落単したときに必要になるのではないかと思って捨てずに取っておいたものの(あの頃のいつも単位の認定に怯えていた可愛げはどこにいったのだろう)、結局必要になることもないまま今日まできてしまった。
初めのころに書いたレポートは形式もなってないし表やグラフの書き方なんかを見ても恥ずかしくてこれ以上めくれない有様だった。パソコンを買い替えるときにデータの方は全て消したのだが、そうして正解だったと思う。あんなの保存しておいてもなんの役にも立たない。
明日まとめて医局のシュレッダーにかけようと表紙の形式もばらばらなレポートの束を並べていると、ひとつだけ自分が作ったものではなさそうなものを見つけた。表紙の名前は桜庭薫、学部の頃の友人のものがひとつ紛れ込んでいたらしい。なぜここにあるのか全く覚えてないのだけど、あとで桜庭に渡そうと思って返却されたものを持っていたのかもしれない。臨床病態検査学、検体検査レポート、長ったらしい学生番号、医学部医学科3年桜庭薫、共同実験者同学科、私の名前。
とりあえず私が捨てていいものかと思ってそれだけ避けた。私たちはとっくに卒業したし、そもそも私が桜庭のレポートを持っていることを桜庭は知らないわけだから、勝手に捨てても桜庭には何にも影響しない。むしろ今更こんな出来の悪いレポート(当時の私のレポートよりは出来がいいはずだが、間違いなく今の我々が書いたものとは比べものにもならない)を渡されても桜庭だって困るだろう。学生時代によく見た、そして今はバラエティ番組でよく見るあの「イヤ〜な顔」をしてみせるに違いない。
とりあえず私は桜庭に宛ててメールを打った。最後に会った時はお互いSNSなんてやってなかったからそういう連絡先はわからない。昔に連絡を取り合ったこのアドレスもアイドルになってまだ使っているのかわからないのに、妙に畏まったメールを打った。
結論から言うと、桜庭から返信があった。しばらく連絡を取っていなかったからそういう挨拶と、大学に戻ると聞いたが元気にしているかという言葉(いったいどこで知ったんだ、いや多分講座の教授経由なんだろうけど)、それから私に捨てさせるのもなんだか嫌な感じがするから今度何処かで茶でも飲みながら例のブツの受け渡しをしないか、という提案だった。返信があっただけでも驚いたというのに、その文面を読んで私は思わず本当にあの桜庭薫かと疑った。
思い出すのは学部生時代、テスト前のファミレス勉強会に誘っても来なかった桜庭、一緒に所属してた手品サークルの鍋パにいちども来なかった桜庭、実習の打ち上げにも嫌そうな顔できて私の隣で乾杯のビールだけ飲んで適当に飯を食いそのあとのカラオケは拒否して帰った桜庭、所属講座の旅行では私が先輩に押し付けられた酒を代わりに渋々飲んだ桜庭。サシで学食でご飯を食べたり実験結果の擦り合わせで一緒にコーヒーを飲んだこともあるけど、そういう思い出が強すぎて本当にあの桜庭?という気持ちが優ってしまう。
疑心暗鬼になりながら、予定を合わせて私は桜庭と数年ぶりの再会を果たした。相手は学部生時代に散々口喧嘩をしながら実験した桜庭とはいえ、今は医者をやめて毎日テレビで見かけるアイドルだと思うとなぜかめちゃくちゃ緊張してしまい、書類ケースを忘れてはいないか服装に変なところはないかと何度も確認してしまった。
「忙しいところをすまなかった」
桜庭は待ち合わせ場所にちゃんと来て、数年の音信不通なんてなかったみたいにしていた。アイドルというフィルターをかけているせいか心なしかまぶしく見える。
「いや、こっちこそお手間をおかけして……」
「なんだその微妙な顔は」
「何でもないです」
一体いつぶりだろう。私たちは前期研修の病院が違ったけど度々会っていたから最後に会ったのはお互い研修を終えた後、しかしそれも彼がアイドルになってからはめっきり途絶えていた。私の方も気が引けたし、桜庭の方も忙しくてそれどころではなかっただろう。
「じゃあこれ、返すね」
桜庭はレポートを受け取ってぱらぱらとめくり、私と同じように渋い顔をした。やっぱり出来はいまいちだったらしい。
「あんなの提出してたと思うと恥ずかしくて消え去りたくなる」
「……同感だ」
互いにため息をついて桜庭は見たくもないといわんばかりにカバンにしまった。やっぱり私がこっそり処分した方が親切だっただろうか。
「君は大学に戻ると聞いたが」
「ああ、教授から?」
「この間会った時に少し。あの人の中では僕と君は限りなくセット扱いらしい」
「げ、それ多分講座の同期で一番覚えがめでたい桜庭くん、それによく絡む名前っていう認識されてるよ」
「別にそんなことはないだろう」
「いやあるね、この間話した時にもうちで一番優秀だったってまだ言ってた」
「そうか」
教授がもう戻ってこないのかといまだ未練たらしく聞いてきたことは言わない方がいいんだろうな。桜庭は多分今の仕事いやりがいを感じていて、彼の宿願はまだまだ果たされるには遠いから戻ってくるには早すぎる。桜庭は教授に未練たらしく惜しまれることをどう感じているのだろう。
「てっきり捨ててくれとか事務所に送ってくれって言われるかと思ってたよ」
「僕のものなのに君に任せるのも悪いだろう」
「それはそうかもしれないけど」
「……君に事務所の話をされるのも不思議な感覚だな」
「嫌だった?」
「別にそうとは言っていない」
「私もね、桜庭がテレビ出てるところ見ると変な感じがする」
最初は当直室のテレビでご飯を食べながら桜庭が出ているドラマを見た時だった。
学生の時も研修中もお互いの苦労をぶつけ合っていた桜庭が、急に去っていったその後に、テレビの中でキラキラした恋愛に巻き込まれて困った顔をしているのを見た。ドラマの役だとはわかっていたし、こんな役をやるのかと微笑ましいような気持ちだった。なのに放送を見たその時に感じたのは、机上にいつも置いているボールペンがなぜか引き出しから出てきたような、なんとも言えない不思議な気持ちになった。
未だにバラエティを見ても、音楽番組を見ても、購買に並ぶ雑誌を見ても不思議な気持ちになる。私が知っているのは医者の桜庭止まりで、それ以降をよく知らないのだから当たり前なのだけど。
「君に聞いてみたいことがある」
「うん?」
「今の僕は、どう見える」
顔のパーツをひとつずつ見ても、前から変わらない服の趣味を見ても、何も変わったところはないと思う。ただ、大人になったなと思った。持ち物の趣味に年が、中身が追いついた。柔らかくなった、優しそうに見える、前よりずっとかっこよく見える。
桜庭は多分そういうことを聞きたいんじゃないとはわかっているのだけど、どうしてもそう思う。どういう返事を求めているのかは視線や表情を見ていればなんとなくわかるのだけど、医者をやっていた時より自分がどうしようもなくなっていないか私に聞きたがっている。こういう自分に厳しいところは変わらないままだ。ひとに厳しいところはどうだろうか。
「お兄さんになったな、と思うよ」
「……そういうことが聞きたいんじゃなく」
「そういうことでしょ?そんな顔しなくても前よりずっと素敵に見えるよ」
「君は、そう思うのか」
「少なくとも私は桜庭がこういう風になるとは思ってなかった」
「それは君の好みに近づいているということでいいか」
一度聞いただけでは桜庭の言うことがあまりわからなくて頭の中で反芻してやっと思考の流れをさらえた。なぜそうなる。
「なんて?」
桜庭が真面目な顔で私を見た。私は桜庭の顔に弱い自覚があるので動揺した。年々角が取れているのはなんとなく察していたけど、記憶にあるよりはるかに柔らかい態度で私を困惑させる。時のなせるわざか、それとも環境説か。あの汚いレポートを書いていたころの勢いも可愛げもお互いにとっくに無くしたはずなのに、私は今更ながらどぎまぎしているし、桜庭は満足そうに静かに笑った。
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