あなたの唯一になりたかった


大学生になってまで、ひたすら数式と見つめ合うなんて誰が予想出来ただろう。

文系学部に進んだのに熱く視線を送る相手はエックス、シグマ、確率、極限…般教で惹かれた科目が数学をこんなに使うなんて想像つかなかった。ああ、頭が沸騰しそう。

比喩でなく熱くなってきた頭を覚まそうとコーヒーを一口、それから店内で流れるオーケストラの音色に耳を傾ける。チャイコフスキーの交響曲の何番だっけ。

ああ、そんなことを考える暇はないのだった。再び目線を数式へ落とす。宝くじでお金が返ってくる期待値はいかほどか?そんなもの知るか。どうせ果てしなく低いのだから買わなければいい。

その時、リンとドアベルが鳴って1人の男性が入店した。生真面目そうなメガネに首元まできっちりしめられたネクタイ、柔らかそうな髪だけどその色味と冷徹に見える視線が彼の印象を硬質なものにしていた。怖そう。そっと目をそらした。

「お好きな席にどうぞ」
彼はマスターの声に礼を言う。思ったより優しい声だった。
それから重たいマホガニーのドアをそっと閉め、その拍子に入り込んだ風で私のプリントがふわりと舞い上がる。

「あっ」
私がもたもたと立ち上がるよりさきに彼は腰を屈めるただ1つの動作だけでプリントをつまみ上げた。彼が眉を跳ね上げたので、何か気に障ったのかと思わず縮こまった。


「失礼、」
彼はプリントを一瞥して、私の前に置くとその長い指で一点を指し示した。
「払戻率の大小なら、ここが間違っている」
「えっ、嘘」
「嘘ではない。得られる金額に対して、支払う金額が、」
彼はそこまで発してからはっとしたように私の顔を見た。

「すまない、初対面の相手に不躾なことを」
「いえ、そんなこと…よろしければ続き、教えていただけますか?」
ああ、と返答したのを見て促せば、彼は私の向かいに腰掛け続きを教えてくれた。

説明を聞けば些細な間違いで、簡単に正解が出た。真面目そうな風貌だから数学者か何かだろうか。それにしてはわかりやすい説明だった(数学者というのは、たいてい相手が全貌を理解していないことを忘れてとんでもないところから話を始め、とんでもないところに着地するものだと私は知っていた)と首をかしげる私に彼、硲さんは高校の数学の先生だと明かしたのだった。


それから何度か店内で硲さんと会い、その度に数学の話をきかせてくれたり、課題を手伝ってもらったりした。それまで苦戦しまくっていた統計学の課題が楽しみになったのは間違いなくこの人のおかげだ。

「高校の時、数学大嫌いだったんですよ。ベクトルとか二次関数とかなにそれ?って感じで、なんにも面白くなかった」

硲さんの几帳面な字で書かれたフィボナッチ数列を見ながら私は思わずそうこぼしてから、慌てて口を閉じた。硲さんは高校数学の先生で、生徒たちへの教え方を色々試行錯誤している話をちょっと聞いていたからだ。

硲さんはその冷たい色をした目で何かを考えるようにじっと私を見た。私は焦ってその渦を巻く数列に目を落とす。

「高校の授業でも、こういうの、教えてもらいたかったなって思います。名画が名画である理由には黄金比が隠されているとか、今日みたいなひまわりの種の規則的な配列とか、フェルマーの最終定理はどうしてこんなにもいろんな人を惹きつけるのか、とか…教えてもらえたら興味も持てて楽しかっただろうな」

そういえば、こういうのもありますよね、と私は几帳面な字の隣に数字を並べて見せた。

「パスカルの三角形か」
冷たい色を宿していた目が緩んで私の丸っこい字で構成された三角形をなぞった。
「硲さんのお話、面白いので自分でも色々調べたんです。意外と色んなことが数字で説明がつくんですね」
「私の話は、苗字くんにとって面白いか?」
それが純粋な疑問に満ちた問いだったので私は安心して素直に頷いた。

「硲さんは、私みたいに払戻率の計算すら満足にできないような人に教えるの、楽しいですか?」
「実に有意義で、私自身のためになると思っている。苗字くんさえ嫌でなければ、私はこれを楽しんでいるのだろう」
「とても楽しいですよ。数学なんて高校でお別れだと思ってたのに、自分で調べたりするほどには。やっぱり興味とか関心を持つとちがいますね」

「…興味か」
たっぷりの沈黙の後、硲さんはそう言ってから何事か手帳に書きつけた。その日はそれからずっと上の空だったので何か言ってしまったかと不安になったまま別れたのだった。
硲さんが帰ってから1人になって、冷めたコーヒーを啜った。ひとくち啜ったところで咳き込み、カップから手を離す。最近妙な咳が出る。インフルエンザはまだはやっていないけど、長引くようなら病院に行かなければならない。

@@@

「私は、教師を辞めてアイドルになる。ここに来るのも、今日で最後になるだろう」
季節が巡って、ある日突然そう告げられたのだから驚かずにはいられなかった。頭が真っ白になった。あの真面目な硲さんがアイドル?

硲さんは優しくて生徒思いで、ちょっと理想主義というかロマンチストだ。だから、冷静な心の片隅で考えると案外ストンと心に落ち着いた。案外やれるかもしれない。

「今まで、ありがとう。私にとって、非常に有意義な時間だった」
そう言って硲さんは席を立ち、コートを羽織った。

こんなに急に、関係が終わってしまうの?あまりに突然で何も考えられなかった。そのまま硲さんは会計を済ませて出て行こうとするので、私は荷物をまとめることもせずに慌ててその背中を追う。マスター、ごめんなさい。食い逃げじゃないから今だけは許して。先を歩く硲さんの背中はピンと伸びていて、いつも私が見ていた硲さんの性格を体現する姿だった。

「硲さん!」
引き止めて何がしたいのかわからなかった。でも、このまま一生の別れになるのだけは嫌だった。
「名前くん」
みっともなく息を荒げる私を見下ろす硲さんの目はどこまでも冷たい色をしていた。それなのに背中をさする手は、労わるような声は、優しい。

最近ひどくなりつつある咳が出て、声が出ない。
「ゆっくりでいい、落ち着きなさい」
はあはあと荒い息を吐きながら、硲さんを見上げる。
「応援、してます。硲さんが素敵なアイドルになるまで、ずっと」
長い沈黙だった。今までそれより長い沈黙が私たちの間には何度もあったけど1番居心地が良かった。
「…ありがとう、君の思う素敵なアイドルになるため全力を尽くす所存だ」
泣き出して崩れ落ちてしまいたかった。硲さんは、どこまでも硲さんだった。優しくて、生徒思いで、骨の髄まで真面目な色をしているのだろう。

「咳をしているときは喉を温めたほうがいい。体を大事にしなさい」
早く店に戻るように、そう言って硲さんは私の首にマフラーを巻いた。本当はアイドルになる硲さんのほうが体を大事にしなくちゃいけないのに、生憎その身1つで追いかけてきた私には何もなかった。

そのまま雪のちらつき始めた中、硲さんは何度も振り返って私に早く室内に戻るように促して、そのまま冬の街の中に消えていった。

1人残された私は重たい咳をこぼした。口元に当てた手に重さを感じて見ると、薄紫色の花が鎮座していた。

私は、硲さんのことが好きだったんだなとようやく気がついた。それを伝えようにも私は連絡先を知らないし、追いかけるには遅すぎた。

花吐きは、恋が成就しなければ治らない。好きになった人がアイドルになる以上、私は一生このままだ。

@@@

大学4年生になって私の就職先が決まっても、病気は治らなかった。硲さんはデビュー後どんどん活躍の場を広げていったけど私がその姿を生で見ることはなかった。うっかり見に行った現地で花を吐いたら、と考えるととてもじゃ無いけど行けなかった。


あれだけ数学を拒否していた高校時代と打って変わって、私の専攻は統計学だ。文系ながら数学に強く、情報戦に強いことを理由に就職先も決まった。今日も仕上げたばかりの卒研の資料に目を通し、マスターの提供する美味しいコーヒーをすする。流れているのは硲さんが先日出演した舞台のサウンドトラック。いつからかマスターのクラシック趣味は封印され、このカフェのBGMは最近S.E.Mばかりだ。

硲さんに数学を教えてもらっていたあの席は私の定位置になっていて、3年も前のことなのに、未練たらしく資料から目を離すたびに硲さんの姿を探してしまう。冬になると、硲さんにもらったマフラーが向かいの椅子の背にかかっているから余計に。似合わない男物のマフラーをこれまた未練がましく、冬になるたび身につけている。

リンとドアベルが鳴って、重たいマホガニーの扉が開く。ああ、誰だろう常連のサラリーマンかな、それともお茶に来たご近所のマダムたち……

「お好きな席にどうぞ……いつもの席も空いてますよ」
テーブルの資料がドアを閉めたことによる冷たい風で床に落ちる。拾わなくちゃ、と立ち上がるも、先に長い指先が拾い上げた。

じっくりと資料を眺めるその姿に目が釘付けになった。柔らかな、感心したようなため息が彼の口からこぼれた。

「よく練られている、よい論だ」
その言葉だけで嬉しくなって、私の視界がにじむ。

「失礼、久しぶりの再会だというのに、こんな」
「いえ、そんなこと。だって、私、今とっても嬉しいんです」

……初めて出会った時のことを昨日のことのように覚えている。

「ところで、この部分だが」
硲さんは私の作った資料を指差した。ああ、その部分は特に書いていて悩んだところだ。
「私なら別の形式を用いるだろう…君の意見を聞いても?もちろん忌憚のないものを、所望したいところだが」
「はい、もちろん。硲さんこそ、統計のことでもなんでも聞いてくださいね」
硲さんを失ってから大学生活の間、ずっと苦しめられた花吐きのことなんて今はどうでもよかった。私はあなたに恋していたけど、それよりもずっと、あなたに認められたかった。だから今はただ、あの頃と違ってあなたとこうやって論を交わせることが何より嬉しい。



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