坂道の祝福


「ヤマシタ先生、ここなんですけど」
山下は小さくため息をついた。化学を専門に教える教師となって早数年、免職の危機を感じているためである。現在山下は、止むを得ず、見た目が小学生ほどの女の子を膝に乗せている。止むを得ず、だ。

「先生?」
膝の上で山下を振り仰いだ苗字名前は高校1年、れっきとした山下の教え子だ。受験生向けの化学のテキストを持っているところを見て声をかけて以来、名前はわからないところがあると山下のところにくるようになった。

(高校1年なんだよなぁ)
山下を見つめる目は純粋で、背丈は小さい。下手をすれば小学生に見えるだろう。現に私服の時に補導されたことがあると言っていた。

「あーはいはい、緩衝液のところね」
山下の解説をじっと聞く様子は大人びているが如何せん小さいのだ。山下の机が大きすぎて、膝の上に乗って解説を聞くくらいには。

(誰かに勘違いされて免職になったらどーしよ)
山下の心配を他所に名前は再び問題を解き始める。解説を聞いたためか手の動きははやい。

(つむじが右巻き…)
手持ち無沙汰に名前の頭頂を見つめ、慌てて目をそらす。その拍子にぐりぐりと右手を名前の頭に押し付けたため、名前は「先生痛い!!」と悲鳴をあげた。

「先生、できましたー」
「はい、正解。あ、ここの途中の化学式は」
名前がさらさらと手直しする山下の文字をあまりにも注視するので山下はいたたまれなくなった。

なるほどなるほどと名前が自分なりの解説を書き加えるのを横目に今日配布したプリントを眺める。枚数ぴったりに配ったはずが余ってしまった1枚。

(花吐き病について、か)
山下は具体的な症状、感染予防について、詳しく書かれたプリントをひっくり返した。実によくできていると感心しながら。

「先生?」
「あ、終わった?」
「はい、ありがとうございました」
笑って名前が赤ペンを回した。
名前の頬が桃色に染まり、先生いつもありがとうと照れたように礼が小さな口から告げられる。

瞬間、山下は喉をせり上がるものを感じ慌てて口を手で押さえた。
「せんせ、」
横目に怯えた名前の顔が映る。かわいそうに、と山下は冷静な心の片隅で思った。慕う教師がこんな男だとは、かわいそうに。

ひと通りの発作の過程を乗り切って山下はようやく落ち着いて息を吸った。名前の頬はすっかり色を失っていて胸が痛んだ。

「口、ゆすいでくるから…花には触らないよーに」
山下は平静を装って席をたった。吐いたあとの低い声だったから怖がらせてしまったかもしれない。名前は無理に笑って返事をした。ああ、これは本当に免職かもしれない。

@@@

山下が席をたったあと、名前は静かに山下の吐いた花をひとつだけ、こっそりハンカチで包んでスカートのポケットにしまった。ドキドキする胸を抑えて名前は俯く。
(びっくりした…でも、すごくかっこよかった)
不謹慎だと、病に苦しむ人を前に失礼だと罪悪感に苛まれながらも名前は頬を赤らめた。だめなことは百も承知で名前は山下のことが好きだった。目で追ううちになんとなく、病気なのもわかっていた。

(先生の病気のこと、知ってる子はいるのかな)
山下に勉強を教わっている生徒は自分だけではないことを名前は知っていたし、山下が人気のある教師だということも肌で感じていた。先生しっかりしてるから、きっとみんなは知らないんだろうな。

長い溜息をついて山下が戻ってきた。用意周到なことに使い捨ての手袋をはめて、中身の見えない袋に花を集めた。ああやっぱり、先生は結構前から病気なのかもしれない。

「ノートさ、コピーとって返すのでもいい?」
「え、あ、はい」
ぽーっとしていた名前は慌てて返事をしたが、山下はからかったりせず、悪いねと眉を下げた。

「他の文房具も買って返すからさ」
花の散ったノートに名前は触れないし、どこまで飛散したかわからない以上お気に入りのピンクのペンや消しゴムもそうだった。残念だけど、わがままを言うほど名前は子供じゃなかった。

名前は荷物をまとめ、カバンを背負った。ゴールデンウィークを前にして気温は高く、白いワイシャツが風をはらんだ。
「先生、病気のこと知ってる人はいるんですか」
名前の目を見て山下は一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに目を細めて笑って見せた。
「そりゃ先生だからね、ちゃんと伝えてあるよ…でも」
「わたし絶対、他の生徒には言いません」
「そっか、ありがとうね」
「先生、お大事に」
「うん」
高校生になったばかりの名前の純粋で真面目なところを山下は愛おしいと思った。そんな名前が3年後にどうなるのか見届けられないのは残念だとも。名前の前で、名前の前だけで花を吐いたことの意味が彼女に正しく理解されてしまったなら、山下は免職でも辞職でも名前のまえから身を引かねばなるまいと考えていたし、それでいいとも思っていた。

「今度からは、苗字は職員室でやろうか」
山下の優しい声色の中に名前は確かな拒絶を察した。名前は山下を慕っていたが、このまま続けていれば山下に何か不利益を与えかねないともわかっていた。
「はい……ありがとうございました」

その日を最後に名前は山下に声をかけるのをやめた。ノートのコピーと真新しい文房具を担任から返された時に、それとなくやめるように言われたこともある。

化学なら学年の担当に聞けばいいし、そもそも名前がやっていたのは高校1年の内容でもなかったから山下に合わないのに無理に上の学年の内容をやるのはやめた。名前は教師に逆らってまで、山下に会いに行こうとは思わなかった。

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(ヤマシタ先生に会うのをやめてから身長が伸びるようになった)
先生が頭ぐりぐりしないからだ、と名前は思った。

その年、山下は学校をやめた。時を同じくしてハザマ先生とマイタ先生も辞表を出したと聞いたが授業で関わりのな名前は詳しいことは知らなかった。それより成長痛で眠れない日が続くことの方が気がかりだった。

名前の身長が20センチほど伸びた頃、生徒の噂でかの先生方がアイドルになったと聞いた。名前はその事務所の名前をきいて手帳にしっかり書き付けた。315プロダクション、S.E.M。先生のファンが増えてしまう、と思ってから何を今更と頭を振った。先生には元からファンがいっぱいいたじゃないか。

@@@

2年生になってアルバイトを始めた。初めてのアルバイトだから親の知り合いがやっている会社に行くことになった。その社長直々の面接ということで非常に緊張したが、無事に採用された。

「まず、事務所の皆さんに挨拶しましょうか」
赤いメガネを頭に乗せた男、山村(彼も学生バイトらしい)に連れられ名前は開かれたドアを抜けた。途端に聞こえる懐かしい声に目頭が熱くなった。どうしよう、こんなに簡単に会えるなんて。

「そう、ここは計算が違う…でも化学式はあってる。わかざともよくできるようになったねえ」
「みなさん、新しい事務員の方ですよ」
山村の声にぱっと視線が集まる。山下と他に高校生くらいの男の子が何人か。山下はにこにこしているが名前に気づいた様子はない。スカートのポケットに入れたままの押し花の栞がかさりと音を立てた。

「本日よりお世話になります、苗字名前です。よろしくお願いします」
「えっ」
名前の深く下げた頭が山下の声であげられた。
「お久しぶりです、先生」
山下は左右に揺らしていたピンクのペンをぽろりと落とした。
「えっ苗字……?大きくなったねえ」
山下の声がわずかに震えているのを感じて名前は返事をしながらも堪らない気持ちになった。

くしゃりと柔らかな何かを握りつぶす音がした。見れば山下の左手に、名前が過去に拾った花と同じ色があって名前は堪らない気持ちになった。

「先生、私もう先生の生徒じゃないんです。だから、これから事務員のバイト一生懸命やりますのでよろしくお願いします」
「これからまた、よろしく」
今ね、わかざと達に勉強教えてたとこでね。山下は春名に「ね、わかざと」と声をかけた。

「苗字さんは山下先生の学校の子だったの?」
「ええ、学年は違いましたけど」
「高校生ってことはバイトっすか?どうしてうちに?」
春名と四季が次々に名前に声をかけた。
同じ学生バイトの山村の大変さを知っているための四季の質問に、名前は一瞬詰まってから首を少しかしげた。

「アルバイト始めるなら親の安心できるところでって言われて……社長が親の知り合いなんです。もちろん、お仕事はしっかり務めさせていただきますけど」
四季と春名があの社長の?と驚いて、山下の目がきらりと光った気がした。名前さん、他の方にも挨拶行きましょうか、山村の声に返事を返し、名前はもう一度礼をしようとスカートの縫い目に指先を合わせた。

その拍子に触れたポケットの中身は、あの時と違って乾いた小さな音を立てた。
「アイドルの先生、これからよろしくお願いしますね」
きれいになった、と山下は呆然とする心の隅で思った。身長は20センチ以上伸びただろうし、大人っぽくなった。何よりかさりと音を立てた名前のポケットの中身が、山下に1年弱の月日が経ったことを訴えかけていた。一方、山下の手にある花は未だ瑞々しいままだ。

山下は握りしめた手をそっと開いた。自分を訪ねて来てくれたということは、まだまだこれから勝機があるのではないかと思いながら。山村に連れられて部屋を出て行く名前と目が合い、名前がにっこり笑った。


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