君は死ぬまで知らなくていい

竹千代が東大寺へ遣いを出したのだという。どうやら黄熟香を切り出そうという話らしかった。私は通りすがりにそんな噂話を耳にして「全くあの子は香道が好きだな」と思って、それきりだった。

竹千代は日ノ本で一二を争う香道好きである。それどころか天下をその掌中におさめた後はますます加熱の一途を辿り、貴重珍品に凝りだして、最早香狂いと言っても過言ではないような気がする。

彼が師と仰ぐ武田信玄もその道を嗜むと聞いたが、あの子の幼い頃からの境遇を思えば香にはまるのもなんだか咎め難く、私は「国を傾かすほどはやるんじゃないよ」と冗談まじりで言うにとどまっていた。戦乱の世において、武士は戦に出る前の精神を鎮めるために香を聞く。天下人の趣味としては非常に合理的なものなのかもしれない。

しかし黄熟香を求めるほどだとは知らなかったな。いや、天下を掌中に納めたのだからよく考えたらしないはずがない。手に入れてからしばらくは仕事の合間に思い出してはそわそわする姿が見えるだろう。心が浮つくのを我慢できずに鍛錬に出て行く機会も増えるだろうな。私は図体ばかり大きくなっても変わらずに偶に見せる、幼い頃の片鱗が好きだった。今は巨大になってしまった竹千代の、可愛かったあの頃を思い出せば少しは気持ちが晴れるというもの。

けれど大和国まで行くのだから昨日の今日では持って帰らないだろう。それにいくらあの子が天下人となったとはいえ、貴重な宝物を削らせるなんて向こうが渋るのは目に見えていた。まあ、私が気にすることではないかと納得させて私はまたその事を忘れた。



変わりはないか、といつもの文句をひっさげて竹千代は私の部屋の襖を開いた。私は丁度白と名付けたねこを構っていたところだったので(あまりに退屈すぎて竹千代に抗議したところ、無聊の慰めにとくれたのがこの仔ねこだった)畳に足を投げ出し左右の手に猫遊びの紐を握っているという状態でやつを迎える羽目になった。

「竹千代、来るなら先に来ると言ってくれないか」
「いやあ、暇ができたから足を向けてみたものの。お取り込み中すまなかったな」
「わかった、君は一生突然の御渡りをやめる気がないね。君と私じゃなかったら離婚だよ、離婚」
捲れ上がった裾を黙って直すと、竹千代の手が私の脹脛を掠めて、裾に絡んだ紐を抜き取った。余った歯切れの長いのを2本より合わせて縛り先をびろびろに裂いた、手作り猫じゃらしである。1本無くしたと思ったらそんなところにいた。面白そうに眺めるのが癪で奪い取ってやるとなんだか不思議な匂いがした。

「竹千代、君また新しい道具を買ったな?」
「え?」
「鋏か?箱も、木も新しいのを欲しがってたな。何を買った?天下人さまの数少ないご趣味だ、怒らないから教えてごらん」
「はは、名前は相変わらず聞香が下手だな……手持ちの組み合わせを変えただけとは思わないのか?」
「そうか、その可能性もあるかもしれないが……いや、思い出したぞ。君、この間独眼竜が珍しい木だか雲母だかを見せびらかしたとかで、羨ましがってただろう。騙されないぞ」
「いや、今日のは本当に組み合わせを変えただけだ。残念ながら、ものは手に入らなかった」
「へえ、珍しい。竹千代ともあろうものが輸入失敗か?」
「はは、手厳しいな……まあそういうこともあるさ」
「何を逃したんだ?伽羅か?」
「ふふ、蘭奢待だ」
「蘭奢待!?」
思わず大声を出した私を見て竹千代は「ああ、思った通りの反応だ」と苦笑した。私が大声を出したので、離れて待機していたものの何事かと走ってきた侍女に「竹千代が冗談を言ってそれに笑っただけでなんでもありません」と慌てて弁解し、竹千代はそれを助けもせずに見ていた。膝でくつろいでいた白は部屋の奥に逃げてしまった。

「だって君、蘭奢待がほしくて使いを出したんだろう」
「知っていたのか。まあ、そうだな。そのつもりだった」
「まさか断られたのか?徳川家康ともあろう者が?あの魔王だって貰えたらしいぞ?仮にも天下統一を成し遂げた人間が手に入れられないだなんて、そんなことがあるか?」
「わかった、わかったから落ち着いてくれ!」
竹千代が胸ぐらを掴む勢いで喚く私を押し留めたので我にかえり、大人しく座り直した。竹千代が静かに私の髪に手を伸ばし、乱れた髪を耳にかけた。いつもと違う甘くしずかな、当世風のにおいがした。このにおいを構成するのは何なのか少し考えたがわからなかった。

香を習いはしたがさっぱり、という私は割と香については次女任せ、使うものはだいたい竹千代のおさがりなのでひいては竹千代任せにしている。昔は結構頑張っていたが、今ではすっかりやめてしまった。

今は亡き半兵衛さまが、竹千代の方が出来がいいなんて悔しくないのかいと言ってよく教えてくださった。三成は半兵衛さまが直々に教えてくださるというのになぜ上達しないと怒って、練習させたから私の師はあのふたりといえるだろう。思い出すと笑えるほど練習したのに、結局は竹千代どころか三成にも負けっぱなしだった。壮健であられたあの頃の半兵衛さまも、もう無理やめたいと泣きついた三成も、いいにおいがしたのを覚えている。

香だけじゃない、何もかもすっかり変わってしまった。秀吉さまや半兵衛さまが泉下へと去り、三成と竹千代は袂を分かち、そうして三成まで死んでしまった。残り物同士で身を寄せ合うようにして私たちは未だ生き延びている。竹千代も昔みたいに笑わなくなった。大人になって落ち着いた、といえば聞こえはいいけど、三成を失った経緯はやっぱりあの子に暗い影を落としている。

「あれは、切り取れば悪いことが起こるらしい」
「へ?」
「寺の者が言うには蘭奢待を切りとれば、必ず悪いことが起こるらしい。それを聞いてやめてしまった」
「まさか信じたの?本能寺の変も蘭奢待のせいだっていうの」
「信長公の件の真偽はワシにはわからないが」
ぎゃあぎゃあ喚く私に対して、竹千代は驚くほど落ち着いていた。それが、三成が生きていた頃私と三成が喧嘩をしては竹千代がそれを宥めていたこと、それから三成が死んだ時の静かな声を思い出させた。

「悪いことが起こるというなら、次はきっと名前が死ぬだろう。だからやめた」
「そんなこと、」
「そんなこと、では片付かないさ。ワシは自らの絆を失うつもりはない。これ以上なにかを奪われることは、耐えられないんだ」

竹千代は嘘つきになったな、と私は呆然とする頭の片隅で考えた。にっこりと笑う、それこそ民を照らす笑顔が嘘くさく見えるようになったのはいつからだろう。三成と袂を分かった時には既に嘘くさい笑みを浮かべていたように思う。昔は、それこそ皆が竹千代と呼んでいた頃は、大人に媚びることこそあれ、小さな太陽のようだったのに。

私は部屋の奥の、白が隠れた引き出しを思った。あれは、骨すらおさめることは叶わなかったが三成の仏壇だ。骨の代わりにおさめてあるのは遺品がただひとつきり。

仔ねこに未練がましく白と名前をつけても竹千代は咎めもしなかった。ただ一言「良い名前だな」と嘘くさい笑顔を私に向けた。全部、三成が死んだせいでおかしくなってしまった。三成が死んだことと比べたら、蘭奢待を切って起こる不幸なんて竹千代には少しも痛くないだろう。三成がどんな形であれ、生きていてくれれば。私は暇すぎる日々の中で百万回はした妄想を繰り返す。

「名前、泣かないでくれ」
背中に回された竹千代の腕にすがってわんわん泣いた。香る組み合わせは、複雑すぎて私にはどれがどれだか判別できない。

どれほど泣いても三成が帰ってこないのはわかっているのに、未だに鍔がひとつきり入った引き出しを開けるたびに涙が流れて、枯れることをしらない。三成、帰ってきて。それで情けなく泣いている私をむかしみたいに軟弱者と詰ってくれ。

「名前、三成はもう……」
「わかってる、わかってるよ……」
馴染みのない香りを深く吸い込んだせいか、頭がぼうとする。この日より暫く後、新たにひとりの男が四国の片隅にある小さな領地を任されるようになるのだが、一線より退き暗い部屋で仔ねこを構って暮らす私は、死ぬまでその男の名前を知らない。





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