予防接種の話

今年もインフルエンザの予防接種の時期が来たので、私はホワイトボードに接種の予定日の紙を貼り、写真を撮ってグループラインに流した。たちまち既読がついて、いくつか私宛に個人ラインが飛んでくる。グループの方に流すと重要な連絡が流れてしまうのでこういう私的な連絡は私の方に直接来る。確認するとどれも嫌がるラインばっかりなので、それぞれに虎牙道公式スタンプの頑張るを押した。ガッツポーズのタケルがかわいいので、私のお気に入りのひとつだ。

毎年この時期になるとこの連絡を流すので、そこのソファで勉強していた春名が通知を見て俺らはいつ?と旬に聞いた。僕たちは来週になりそうですねと手帳を照らし合わせて旬が答える。春名は心の準備をしとかないと……と暗い声で呟き、旬が人との接触が多い仕事であるために自分たちにはあらゆる手段をもって予防することが必要だと語った。全くその通りで、これも毎年のやりとりだ。

人間が何人もいる事務所なので当然注射が得意な人もいれば苦手な人もいる。うちの場合病院で流れ作業のように打たれるわけではないので、まだマシだと言う人もいるのだけど、やっぱり注射は痛い。

今年は過去最高レベルの痛さだって!とSNSか何かで調べたらしい春名が悲鳴を上げた。ハイジョは注射の時に四季が大騒ぎしがちだけど他の皆もどちらかと言えば得意ではない方なので、旬が毎年同じようなこと言ってませんかと苦言を呈した。

それより課題を済ませてくださいといらいらしたように単語帳をめくる旬は注射について「特別得意でもないですが、苦手というわけでもありません」と過去に淡々と語った。そうだよね、皆痛くても我慢して受けてるんだよね……何を隠そう、私も注射が苦手な人間なのでこの時期はすごく憂鬱なのだ。

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「苗字、今時間はあるか」
「ええ、割と暇ですよ」
事務所で書類仕事をしていると薫さんが給湯スペースから顔を出した。マグカップを2つ持っているので休憩の合図かな、と思ってにこにこしながらついていく。先日仕事で神戸に行った誠司さんが限定の立派なポッキーを買ってきてくれたので引き出しから出して持っていった。ひとりで1袋全部食べてしまうのは勿体無いので分けてあげよう。コーヒーにも紅茶にも合うだろうし。

「あっお湯じゃないですか……」
「君は自分が1日にどれだけコーヒーを飲んでいるかくらい把握した方がいい」
「げえっ飲まないとやってられないのに!」
「君もいい年なんだから胃をいたわってやれ」
「薫さんが胃だけじゃなくて私のこともいたわってくれたら少しは違うのにな〜」
チラッと見たら薫さんのカップも同じくお湯が入っていた。ひとりだけコーヒーを飲むとかは流石にしないでくれるらしい。でもせっかくのティーブレイクにお湯かよ〜!

薫さんは黙ってテレビの電源をつけて横の映像スペースから1枚選び、再生機に入れた。私が立ち上がろうとすると「君は、座って、茶でも飲んでいろ」と言葉を区切り指先は下を向けて待てのポーズを取らされた。茶でも飲んでろってこれお湯だし……

「あっ!!!これ今年のアルバムツアーじゃないですか!」
ドラスタの今年のツアーロゴが出て、薫さんはチャプター再生シーンを選び始めたので悲しい気持ちは吹き飛んだ。

なんてったってドラスタのツアーは今年も最高だった。円盤の方も私は一度通しで見ただけなのだが、鑑賞に付き合ってくれたみのりさんが「やっぱりお歳暮送った方がいいよね……」と鑑賞後に呟いたくらいにはよかった。因みにどこへ送るのか聞いたところ「プロデューサーでしょ、ドラスタの3人でしょ、あと会社……」と指を折っていたので本当に送らないか心配している。

薫さんは自分のソロ曲から再生を始めたので、珍しいな……と思いながらも私の目は画面に釘付けになる。ツアーで引っ提げたアルバムに入れたソロは3人とも大人のラブソングだったので、いちファンとしても最高だった。今日もめちゃくちゃに良い。隣に戻ってきた薫さんはごそごそと荷物を整理していて画面の中の自分には目もくれない。
「やっぱりよかったですよね、演出……」
「そうだな、ライブの後半にひとりずつソロを回すと僕たちも休憩ができていいし、アップテンポの曲ばかりでないからファンも小休止できる」
薫さんはやっぱり画面を見ないで返事をした。今回は歌唱中の会場映しを出来るだけ減らし間奏中もできるだけアイドルを写す、あるいはアイドル越しの会場の光、くらいに留めておいたので最初から最後まで推しがたっぷり楽しめて好評である。自動制御のペンラも、曲やアイドルに集中できるし会場が推し色一色の光景はやっぱりいい。薫さんの横顔が上からのライトと青色のペンラの光に照らされてとてもきれいだった。

「こっちは準備できたぞ」
「え?ってあああ……」
ソロが終わり、かけられた声に振り向くと薫さんは予防接種の準備を済ませていた。あああついに私の番がきてしまった……

「そんな、騙すみたいな真似……」
「リラックスして受けられるよう配慮がされたことに感謝した方がいいんじゃないか」
「うううその為のソロ……」
問診は記入済みでその後逃げ回っていたのだが、ついに私の順番が来てしまった。注射が大の苦手な私は、毎年逃げ回ってはかわいいアイドル達に情けない姿を晒してきた。今年は痛いと聞き、常にも増して逃げ回ってみた。打たなきゃいけないのはわかっているので毎年打たれるんだけど……

「じゃあ今年はもう、私だけなんですね」
「ああ。なんとか今年も残りは君ひとりだ」
「今年は前評判がすごく悪かったですもんね」
事務所で予防接種日のスケジュールが出た後、皆それぞれお仕事の都合や体調を考えながら接種の日を決めるのだけど、ここでも順番はやっぱり大事だ。今年は道流が先陣を切ってくれて、薫さんも安心したことだろう。

袖をまくり上げた太い腕に容赦なく注射される道流に皆が今年はどうだ、どれくらい痛いのかと群がり、道流は「うーんよくわからないな……次は英雄だから英雄にも聞いてみたらどうだ?」とすっとぼけて、次に打たれる英雄も首を傾げて「あんまり大したことないな。龍!これならいけるぞ!」と顔色を若干悪くした龍を呼び、見事な流れで3番手に打たせた。

他の注射苦手メンバーも、痛みについて「おや、今年はなかなかの仕上がりじゃないかい?」とシラを切り通された上に、「ええこれまた結構な出来栄え……どうしてそんなに後ずさるのですか猫柳さん」ととっ捕まえられて、見事な連携で注射を打たれた。当の本人は毛を逆立てて怯えていたが、打って仕舞えばこちらのもの、とでも言わんばかりに終わった後はけろっとしていた。

他にも注射が苦手なメンバーを巧みに呼び込み、痛いという評判が広がる前に速やかに接種を済ませたその手腕はさすが5年目の連携というか、さすが役者たちというか。ちなみに平気な顔をしている人も、痛いものは痛いというので、とりあえず全員打たせなきゃいけない側としては、今年も無事に済ませてくださってありがとうのひとことに尽きる。「注射の間手を握っててね」なんてかのんのかわいいお願いなら全然大歓迎だけど、過去強く握られすぎて骨折を覚悟した思い出もあるので、手を握るお願いは近頃遠慮させてもらっている。

「あ、四季がね。あんまり痛くなかったって。四季くんに時間かけてくれたんですよ!って旬が言ってたんですけど」
「それか……注入速度や温度も痛みに関係するからな」
「わわわ私も、どうかゆっくりでお願いしますね……」
「わかってる」
もちろん、今年も滞りなく全員分終わったのは注射担当の薫さんのおかげでもある。できるだけ緊張させずにできるよう、打たれる人の決心がつくまで黙って待ってくれるし、苦手な人には出来るだけ配慮して痛くないようにやってくれる。

「ううう怖い、痛そう、怖い、やめたい……」
「怖くない、打たずに君がインフルエンザにかかる方が怖い、針先を見ないでテレビを見ていろ」
「うううあああ薫さんかっこいい……翼も輝さんもかっこいい……」
私も以前はクリニックで受けていたのだけど、流れ作業のように打たれるよりは薫さんに打たれた方がだいぶ恐怖心は軽減される。怖くて逃げ回り怯えるのもある程度は許してくれるし、こうして誰もいない時にやってくれるのは痛くて泣いても他の人に見られないようにという配慮らしい。薫さんが言うには「一度痛い思いをして翌年さらに嫌がられる方が困る」のだとか。その配慮を知っているので私は大人しくブルーレイを見る。カメラに向かって淡く微笑む薫さんの美しいこと……

「ヒッ!」
「まだ消毒だぞ」
「うううだめだやっぱり怖いすみませんお忙しいところお仕事の邪魔をして」
「……力が入りすぎだ」
薫さんの視線が突き刺さり、見ると確かに差し出した左腕はかちこちに固まっていた。一度腕を下ろして解し、薫さんの顔を伺うとそれに気づかれて視線が合わさる。薫さんが一度瞬きをして、ほんの少しだけ口元を緩めた。それだけでガチガチに力の入った肩から力が抜けたのだから、私の体は本当に正直だ。

「僕もたかが数年で君の恐怖を拭えるとは思ってもいない」
再び覚悟を決めて、持ち上げた腕に冷たい感触が当たる。さっきまでは気になったはずの感触は、私の腕に視線を落とした薫さんの横顔に釘付けになりあまり気にならなくなった。

「ら、来年は……もうちょっと大人しく受けに来ます……」
「そうしてくれ、僕のために」
左腕は予想通りに痛いのに、今年は全然耐えられた。腕を刺す痛みより、私は薫さんの伏せたまつげがシャープな線を描く頬に影を落とし、真剣なまなざしを注射液に向けているのを見るのに夢中になった。あーあ、もっと前からこうしていればよかった。注射よりもずっと心惹かれるひとがいるのにどうして毎年勿体ないことをしていたんだろう。

「終わったぞ。今年は随分大人しかったな」
薫さんが私の腕に絆創膏を貼るその時まで私ははっきりしない頭でひたすらに薫さんの顔面を凝視していた。薫さんが黙ったままの私の顔を不審そうに覗き込む。
「よ、」
「どうした?」
「よく頑張ったねって言ってください……」
薫さんが大きなため息をついて、黙ったまま手際よく道具を片付け始めた。さ、さすがに調子に乗りすぎた。私は何と言って誤魔化そうか未だ現実に返ってこない頭で真剣に考える。

「……よく頑張りました」
「か、薫さん!!!!」
「うるさい2度目はないし捲ったままの袖を下ろせ!」
「はい!患部は揉まないし今日は激しい運動はしません!」
薫さんは刺々しい声音でひと息に言い放ち、再びそっぽを向いて道具の一式を片付ける。怒ってる風に見えるけど、後ろから見える首筋が赤いので100パーセント激怒ではないのが明らかだ。すっかり注目するのを忘れていたテレビでは、ドラスタの3人が大騒ぎしながらMCを進めていた。


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