言葉が足りない話
信之さまの元に嫁ぎ、初めてお顔を拝見した時わたくしは一瞬言葉を失った。威圧感のある男たちは実家でも散々見てきたけれど、信之さまは今まで見た中で2番目くらいに大きい。背の高いお方とは聞いていたものの、本当に大きくて、目を合わせようとすれば首が痛かった。
信之さまは静かにわたくしの顔を見てお名前を名乗り、続いて弟君の幸村さまが名乗り、それきり静かになったので、わたくしは慌てて名乗り返し、散々練習した「不束者ですがどうぞ末永くお側にいさせてくださいませ」という言葉も、信之さまに届いていたのかさえ定かではない。わたくしは信之さまの勇ましい御姿が、旦那さまになるお方とはいえ、急に恐ろしくなってしまったのだ。
「名前、いいか。俺と共に在るならば、強くあれ」
「は、はい……」
わたくしの顔に視線を合わせ、信之さまはそれだけお話しになって、そのまま退出された。取り残されたわたくしといえば、顔を合わせたばかりの旦那さまにいきなりお説教をされて、どうしよう送り出してくれた父には何と言おうと頭が真っ白になってしまい、信濃の寒さとそれから旅の疲れもあってぱたんと倒れてしまったのだ。
同じく取り残されていた信之さまの弟君、幸村さまは大いに焦って腰を浮かし「あっあああねっ義姉上ッ!!!!佐助ぇ!佐助ーッ!!そこにおるのだろう!!佐助ぇーーーッ!!」と気合いの入った雄叫びを上げた。わたくしは幸村さまの、いくさ装束と同じくらいに真っ赤なお顔を見たのを最後に意識を失った。信濃は本当に寒くてひとりでは指先が凍えてしまうと思った。
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再び目を覚ました時、ぱちぱちと炭の弾ける音がして父上が火を入れてくださったのかしらと考えた。わたくしをここまで育て上げた父上。体の弱いわたくしに人一倍体を大事にしなければと繰り返し言い聞かせ、出発の折にも信濃はこちらより寒いのだから嫌になったら逃げ帰れと言って、わたくしは嘘でも頷けませんと返したのだ。そこまで考えて、ここに父上がいるはずないと思い出す。わたくしはもう、真田に嫁いだのだから、父上はここにいない。もはや父上のいる愛おしく美しいくには、わたくしの在るべき所ではない。わたくしは信之さまのいるこの信濃のくにを、今までそうしてきた以上に愛し護ることに尽くさなければならない。
父上でないならば、誰が火を入れてくれたのかしら。そもそも婚礼はどうなっちゃったのかしら。嫁いできて婚礼をすっぽかした花嫁なんて、父上に知られたら恥をかかせてしまう。いいや、父上だけでなく、信之さまやその主君にも……恐ろしい想像が脳裏を駆けて、恐怖に体が震えた。
いてもたってもいられず、分厚い布団から抜け出し、まだよくわかっていない屋敷の廊下に踏み出した。床に貼られた木の板は爪先が痺れるんじゃないかってくらい冷たかった。外の庭木は見た事ないくらい大きな雪の帽子を被っている。
「つ、冷た……」
恐る恐る廊下を進むも誰にも出会えない。わたくしの侍女も、それから真田には忍び軍がいるはずなのにその気配もなければ現れて止める人もいない。はて、忍者も夜は眠るものだったかしら。多分そんなはずはないような気がするけれど、辺りは本当に誰もなく、わたくしひとりのようだった。
とりあえず進むうちに帰り道が分からなくなってきてしまい、これは誰かに出会えないと困ってしまうと思ったところで一室、障子から灯りが透けて見えた。冷え切ったからだにはその灯りがとっても暖かく見えた。
声をかけないと元いたお部屋に戻れないのだけど、知っている人のほとんどいないこの屋敷で何と言おう。嫁いできたばかりのわたくしのことを真田の人たちはわかるのかしら。やっぱりここで忍の者たちが見つけてくれるのを待つべきかしら。でも朝まで誰も見つけてくれなかったらどうしよう。お庭の松の木と同じように雪の帽子を被った姿で発見されるのかしら。
寒さと不安で震えるからだを抱きしめ、どきどきする心臓を抑えて黙りこくっていると、部屋の向こうで筆を下ろす音がした。すらっと障子が滑り、一度見ただけなのに忘れようのない大きな手が部屋の内から伸びた。
「何をしている」
「の、信之さま……」
「全くそんな薄着で……いいから入れ」
「は、はあい……」
お部屋に入れていただくと机には山ほどの紙がうず高く積まれ、広げたひとひらにはたった今書き終えたばかりの墨が黒々と光っていた。お仕事の途中なのだと気づいて慌てて視線を逸らす。父上もこうして紙を広げている時はお仕事をしている時だったので、邪魔をしてはいけないのはよくわかっていた。
「お、お仕事の邪魔をしてしまってごめんなさい」
「気にするな、丁度様子を見に行くところだった」
「わたくしのようす」
「伏せったままと聞いたが」
「……?」
「もしや本当に意識がなかったのか?呼びかけても返事がなかったが、倒れたその後も様子がおかしかった。早く休むように伝えたがその時に返事もない……どうした、御前。顔色が悪いぞ」
「わわわたくし、なんてことを……!!」
わたくしとしたら、もしやもしや半分気絶して結婚式を済ませたのでは!?!?
どんな粗相をやらかしたのか、怖すぎて信之さまに聞けない。かといって幸村さまにも聞けない!!嫁いでいって早々に失態をおかした娘に父上はなんと言うだろう。重たい溜息がきこえるようだ。あまりのことに信之さまにわっと泣きつくと、表情の変わらない信之さまも流石に驚いたらしく肩が跳ねた。
「驚くのはこちらだ。名前、このままだと本当に風邪をひく」
「わわわだぐじどじだら……!あんなに練習じだのに……!こっ婚姻の儀もまともに熟せないだなんて……!父上、名前は父上の名に泥を塗る不出来な娘です……!」
「……父君には万事恙無くと伝えよ。大事な娘の体調も察せず、ましてやそれを押して婚姻を済ませたなどとあの男に知れたら、俺がぼこぼこに伸された上で君は即日連れ戻されるだろうな」
「いっ言えません!そんなこと、父上には……!恐ろしくて!」
「だから言わなくていい。とにかく何か羽織れ。まさか嫁いできて早々風邪を引くとは……」
「は、はい……」
信之さまがブツブツ言いながら火鉢を引き寄せ、わたくしの肩に重たい布団をかけた。あまりの重さにぎょっとして布団を見ると、赤くて重たいそれはどうやら着物ではなく、信之さまの着物らしかった。わたくしの冬がけのかいまきより大きくて重い。
びっくりして信之さまを見上げると、肩にかけた着物ごと抱きしめられる。この方のばさらは炎ではないはずなのに、触れる肌はぽかぽかと暖かい。いつか戦場でかける幸村さまの燃えさかる炎を思い出した。信之さまの腕の中でわたくしは静かに息を詰める。
「……慣れない土地に来たばかりでさぞ不安な思いをさせたことだろう……すまなかった」
「の、信之さまが謝ることなどありません!わ、わたくしの覚悟が足りなかったのです……」
今にも消え入りそうなわたくしの声を聴いて、信之さまは膝の上でかたく握ったわたくしの拳にその大きな手のひらを重ねた。信之さまはこの大きな手にあの不思議な形の武器を握って戦場を駆け回るのだという。もう片方の手は落ち着かせるようにわたくしの背を撫ぜて、わたくしは泣きたくなった。覚悟を決めてお嫁にやって来たのに、わたくしときたら……
「一生懸命尽くします。だから信之さま、どうか……」
信之さまは不自然に言葉を切った続きを待っている。わたくしは言い出したものの恥ずかしくなって、「忘れてください」と言おうか悩んだけど、意を決して「末長くおそばに置いてください」と言葉を重ねた。信之さまは黙ったままだった。
やらかしまくった上に図々しかったかしら、と血の気が引いた。なんなら即刻おうちに返されてもおかしくない醜態、目をギュッと瞑って信之さまの次の言葉を待つ。
「俺はそんなこと望んでいない」
「エッ」
片手でコロンと布団に転がされて、え、布団に転がされたのに望んでいないとは?どういうこと?わたくしは混乱の極みにいた。わたくしは顔が熱くて炎のばさらに目醒めるのも時間の問題だというのに、信之さまは平然とした顔をしていた。
「……御前に尽くしてもらうために迎え入れたのではない。ただ、俺の側に……」
た、ただ俺の側に?ただ俺の側に!?信之さまの言葉に混乱し続けていると、代わり映えしない木の天井が信之さまのお顔に変わり、昼にはかたく結ばれていた髪は解かれ、わたしの倍はくだらない肩を滑りおちた。顔の横のお布団が柔らかく沈む。お、押し倒されている……
「ただ俺の側に。いついかなる時も、戦乱の世もいずれ来たるその先も……」
肩からこぼれた銀色の髪が、わたくしの頬を滑ってお布団に落ちた。信之さまは言葉を切って、卓の灯りはその髪で柔らかく遮られる。灯りを孕んで光って見える髪に手を伸ばしたら、思っていたよりもずっと柔らかくてふわふわしていた。触れ合ったからだは暖かく、胸郭を叩く心臓はわたくしよりもずっとゆっくりではあったけれど、午には怖かったはずのこの人が、確かに同じ血の通った人間だと伝えている。
この人は、体も声も大きいしお顔はあんまり微笑んではくれないが、ただ少し言葉が足りないだけなのだ。凍えていたはずのわたくしのからだは、あとはつま先だけがいつもの通り冷え切っている。
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