法の型に嵌ってでもそばにいる話
僕が朝起きた時には、いつも彼女は隣にいない。朝僕が眠っている間に仕事に行って、夜遅く帰ってくる名前さんは、毎日忙しそうにしている。
今日はプロデューサーさんからの電話で目を覚まして、ベッドから出るととっくに日はのぼっていて名前さんは部屋のどこにもいなかった。こういう日はいつもウォーターサーバーに書置きが貼ってあるので水を飲むついでにそれを読む。「圭さん、朝起きたら必ずお水1杯飲んでくださいね、それが朝でも夜でも。絶対ですよ」と彼女が言い聞かせたおかげでベッドから出ると足がそっちに向くのだけど、名前さんはこれを見越してウォーターサーバーに書置きを貼っている。
小鳥の描かれたメモ帳をはがすと「圭さんおはよう。仕事の後食事会があるので帰宅は22時の予定です。冷蔵庫にいちごとチーズがあるので気が向いたら食べてください。それから、ドリップのコーヒーが残りあと2つです。気が向いたら圭さんのおすすめを買ってください。今日もお仕事頑張って」名前さんの仕事で書いているメモを過去に見たことがあるけど、それと全く同じ書き方。違うのは要件ごとに8分音符のマークを書いているのと、絵つきの紙に書いていることだけ。22時、いちごとチーズ、ドリップのコーヒー……プロデューサーさんが迎えに来るまでにもう少し時間があるはずだから、今日はいちごもひとつくらい食べていこうかな。
書置きをウォーターサーバーに貼りなおして名前さんが用意した服を着て、ウォーターサーバーに戻り、書置きを畳んでポケットにしまう。冷蔵庫の扉を軽く押して開けると、いちごの入った皿はすぐに見つかった。3粒だけ入った皿、冷蔵庫の中は意図してものが少ないのですぐにわかった。前に僕がそのまま丸ごと食べたのを覚えているから、以来名前さんはいちごは絶対にヘタを取って僕の分をよけておく。
名前さんはいちごが好き。それを知っている麗さんや事務所の人たちが差し入れだとかデパートに行ったとかで名前さんに、と言っていちごをもたせてくれるのだけど、名前さんにお土産だよと言って渡すと本当にうれしそうに笑う。名前さんは僕が何かすると困った顔をして受け取るけど、この時だけは心からうれしい顔をする。
僕と名前さんは結婚してこの国の法律に許されて共にいるのだけど、名前さんは麗さんやプロデューサーさんと違って僕を人間だとは思っていない。だから僕に何かを期待できない。自分で何でもできてしまうのは勿論、名前さんの言葉を借りると「圭さんは私より優先すべきことを優先して」ほしがる。以前の僕だったらきっと結ばれることはなかったとそう思う。それでも僕は名前さんが好きで、名前さんは僕の手を取った。だから、たまに聞ける「名前さんが本当に幸せな時の音」が僕は本当に大好きなんだけど……それをメロディーに落としたら名前さんは喜んでくれるだろうか。
開けっ放しだった冷蔵庫が急かす音を鳴らしたので、冷蔵庫のドアをそっと押した。その隙に僕のそばにいたメロディーはどこかに行ってしまい、残念に思った。名前さんの声が聞きたい。でも電話を通した名前さんの音はいつもよりとがって聞こえてあんまり好きじゃないし、名前さんは今夜遅くまで帰らないし……
「都築さんおはようございます、お迎えにあがりました」
「ああ、プロデューサーさんおはよう」
「おはようございます。麗さんも車で待ってますよ」
合鍵を持っているプロデューサーさんがそれを使って今朝も僕を迎えに来る。名前さんとふたりで住んでいる部屋だけどプロデューサーさんも慣れているので名前さんが用意してくれたジャケットと置きっぱなしの携帯、定位置にかかっている小さなかばんを集めて、その間に僕も家を出る支度を終えた。髪を梳かすためにブラシを手に取ると、背中に流した髪が緩すぎる三つ編みにされていたことに気づいた。きっとかわいい妖精が昨晩寝ている間にしたのだと思う。
今夜帰ってくるのは22時、いちごとチーズ……は食べられなかったけど、それからコーヒーを買って帰る。名前さんは「気が向いたら」という言葉を使って、僕が朝食を食べなくても、コーヒーを買わなくても、僕が何もできなくても何も言わない。「気が向いたら、何か口に入れないとだめですよ」と名前さんが言ってそれを聞いた麗さんは「気が向かなくてもちゃんと食べてください!」と言った。僕のかわいいあの人はとても臆病で、僕を人間じゃない何かだと思っている。だから僕は、名前さんが僕が人間だと思い知った時──例えば初めてキスをした時、結婚を申し込んだ時、初めてベッドに入った時──奏でる音を、今日も心から愛おしく思っている。
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