逃げ腰
「俺と結婚は嫌?」
御幸が眼鏡越しの目を少し細めて私に聞いた。
「いや、その、ちょっとびっくりして」
「嫌?」
「嫌じゃないよ。ただ、このタイミングで言われると思わなくて……」
私はお風呂から出てアイスの蓋を開けたところだった。レモンの輪切りの乗ったやっすい氷菓だ。わざわざ私の正面に座り、御幸は「結婚しよう」といった。それについていけなかった私が頭を冷静にすべく蓋についたシャーベットをすくったところで俺と結婚は嫌?と重ねられた。全然嫌じゃない。全然嫌じゃないけどびっくりしすぎて口が追いつかない。
「……球団から怒られない?」
「怒られない。むしろ過熱状態だから歓迎される」
「御幸は?」
「返事の前にその質問されてちょっとムカついた」
「ごめん、その辺りはちゃんと考えてくれてるとは思ってたんだけど……」
「けど何」
「びっくりした」
「それは顔見たらわかった」
「さすがだね」
「名前のことだからだよ」
「……本当にさすがだ」
本当に驚いている私に御幸は苦笑してだるだるのスウェットの裾で眼鏡を拭いた。雑だな。
「アイスたべる?」
「もらう」
いつもは大抵いらないと言われるアイスを珍しく御幸が食べると言ったのでスプーンを渡した。レモンの皮の近くを食べたらしく苦いと顔をしかめる。
「そういや名前、最近料理教室通ってるだろ」
「うわ、なぜバレた」
「今までと作るもんが違うから」
「バレたくないから黙ってたのに」
「いーじゃん。そういうとこかわいい」
「私が嫌がるのわかってて言ってる」
「そんなこと、ないけど」
今度は御幸が驚いた顔をして私を見た。2口目をすくった手が止まる。付けっ放しのテレビで鳴くんのCMが流れた。その30秒のうちにシャーベットは砂糖水になった。御幸、変わったよねと私が言うと御幸は黙ってテレビを消した。
「全部名前を好きになったからだな」
「それは関係ないでしょ」
「名前が関係なかったことなんて何一つなかった」
それは……ちょっとロマンチックがすぎるのでは?高校の時とかは想像もつかなかった言葉に本日二度目の困惑がひどい。
角が取れた。丸くなった。怖い顔をしなくなった。寝る時、間の抜けた顔をするようになった。疲れた、と言うようになった。かっこ悪いところを見せるのを嫌がるようになった。そのくせ甘えてくるようになったし、それに照れたり誤魔化したりしなくなった。高校時代から変わったものなんて幾つだって挙げられる。高校時代は1年の時から3年まで、御幸に任されたものがめちゃくちゃ多くて、かっこよかったけど必死になっているところはちょっと怖かった。よく張り詰めた顔をしていた。今は全部が全部御幸が任される、ということは全然なくて肩の荷が降りたのかもしれない。
「返事もらってもいい?」
高校時代、付き合ってたって私のできることも関わる余地も何もなかった。野球のことはもちろん、それ以外の私生活なんて御幸にはほとんど無いに等しかった。
私が口を開くと、御幸は掛け直したばかりの眼鏡を乱暴に外して肘をついたその先の掌を顔に押し当てた。その顔も見たことがなかった、と思ううちにもシャーベットは溶けていく。
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