夢でも幸せになりたい
目が覚めて、いつも置いているはずの枕元にスマホがなくてもぞもぞしていたら、「……まだ時間があるだろう」と薫さんが静かに言った。一緒に寝ているはずが、すっかりその存在を忘れていたので私は急に息の吸い方を忘れて喉の奥からはひゅうっという変な音が漏れた。
「あと1時間は寝れるぞ」
「え、え、え……」
「話なら1時間後にしないか……」
「え、あ、はあい……」
薫さんは今日は午後からのはずだし私の方は大きな案件が終わって昨日から3日お休みをもらっている。そういうわけで久しぶりに一緒に昨日は寝て、そういうことにもなった。
私が勝手に混乱しているだけで、疲れている薫さんをわざわざたたき起こしてまでするような話じゃないので私は大人しく布団の中で目を閉じた。薫さんの腕がぐいっと後ろからまわって抵抗の術もなく私は黙って静かにしている。しかしこれは起きたら薫さんの腕が痛いやつな気がする。当の薫さんは薫さんは既に二度寝したらしく小さい呼吸音だけが聞こえている。
薫さんは普段寝起きがいいとは決して言えないけど、前職の名残か「緊急です!!」と叫んでたたき起こすとびっくりするくらい速やかに意識が覚醒する。ホームアローンみたいな絶望的な寝坊をして大遅刻の危機だった時に1回だけやったけど、心臓に悪いので2回目はなくていいと思っている。
しかし裸でホテルの布団をかぶって、強すぎる暖房と加湿器がフル稼働している状況というのはめちゃくちゃ眠気を誘う。私も眠ってしまいたいのだけど、覚醒した今もう一度指先に触れる。
恐る恐る布団から左手を取り出した。電気の消えた、日が昇って薄暗い部屋でもはっきりとわかる。薬指に私の体温で温まった銀色の光が収まっていた。
こ、これってもしや……エ、エ、エンゲージリングでは!?きらりとひかるダイヤモンド、華奢な輪っか、紛れもなく、確かめるまでもなく、これがエンゲージリング。心臓が驚くべき速さで脈打ち、胸に並ぶ肋を押し除けて飛び出してきそうな勢いだ。変な汗まで出てきたというのに、薫さんは後ろから私を抱きしめて静かな眠りについている。
ここで、大問題なのが私にこの綺麗で素敵なエンゲージリングもらった記憶がさっぱり無いことだった。順番に思い出させてほしい。
昨晩、私の大きな案件が終わったのと薫さん主演のドラマがアワードを取ったことのお祝いでレストランに行ってホテルに泊まった。レストランでは2人でこれが美味しいだのこれは何の味だのとこそこそ盛り上がり、私はワインをたくさん飲むつもりで行ったのに、薫さんが乾杯とその後の1杯でお酒をやめたので私は薫さんの「その気」を察して大人しくワインのおかわりまでで我慢した。
私は食事の間じゅうそわそわしていたのに薫さんは「そんな気」は微塵も見せずに食事を終え、お店を出た後「アイスでも食べたい気分だな」と涼しい顔で言ってのけた。結局、アイスはコンビニまで行って買って、買ったのに、部屋につくや否やそういう雰囲気になってしまって冷凍庫に突っ込んだままだ。昨夜の薫さんはすごかった。「その気」は察していたけど、「めちゃくちゃその気」だった。
アイスは?という私の言葉は薫さんの口内に消え、薫さんが荒い息で「僕のもくれてやる」とまで言ったので私はそれ以上アイスにこだわるのはやめて、いつも以上に積極的な薫さんにとろとろになってアイスのことはすっかり忘れさせられた。
そういえば、アイス。薫さんのラムレーズンのやつと、私が買ったキャラメルナッツは仲良く冷凍庫に並んでいることだろう。朝ごはんがアイスってどうなんだろう……しかし昨晩はアイスのことをすっかり忘れて、体力の限界がきてしまったので、最後の方はよく覚えていない。どろどろに融けた意識の中で、薫さんが名前を呼ぶ声だけを何となく覚えている。そんな仲で指輪をもらうようなあれがあったのだろうか。薫さんに限って、そんなぐちゃぐちゃの状況で済ませるようなことがあるだろうか。うーん。
「どうした、眠れないのか」
「あ……起こしちゃいました?」
「唸っていただろう、さすがに目が覚めた」
「うわ、ごめんなさい」
ごろんと寝返りを打って薫さんのほうを向くと、薫さんは布団から抜け出してサイドボードの眼鏡に手を伸ばし、起床モードになっていた。時計を見ると30分くらい経っていて、結局睡眠時間を30分くらい削ってしまったのだと思うが、薫さんはすっかり覚醒した様子で眼鏡だけ拾ってそのままシャワーに行くかと思いきや私の方に向き直った。
「それで、何があったんだ」
「ごめんなさい!昨日もらった記憶がないです……本当にごめんなさい」
私が左手を差し出すと薫さんの顔が目に見えて強張った。
「薫さん?」
「……夢かとおもったんだ」
「夢ですか」
薫さんは現実を確かめるみたいに私の手を握った。もちろん薫さんが左手には覚えのない指輪が嵌まっている。今までに見たことがないほどショックを受けている薫さんは、夢の中でこれを私にくれたつもりだったのだという。
ここで双方の記憶が怪しいことがわかり、私たちは互いに自分の記憶を疑わなければならない事態となった。だんだん頭が痛くなってきてウンウン唸っていると、薫さんがなんだか話したそうにしている。私の頭をそっと自分の方に向けて、薫さんはもう、覚悟を決めた顔をしていた。
「薫さん」
「……君と結婚したかった。勝手に嵌めたりしてすまなかった」
「薫さん!」
「……何だ」
勝手に言いたいことを言って、握った手があっさり離れていくので私は慌てて引き留めた。薄暗い部屋でも煌めく石、柔らかなラインを描くわっか、薫さんはこの後私がどうするべきか何も言わない。珍しく完全に逃げの姿勢を取っている。同意なく、指輪を嵌めたので弱気というかある意味断られる程のいい口実ができたとでも思っているのかもしれない。珍しく、嫌な吹っ切れ方をしていた。
「どうして過去形なんですか……」
「どうしてだろうな」
「わ、私は絶賛ただいま、過去からの進行形で、薫さんと結婚したいのですが、いかがお考えですか……更に言うと私は夢の中でも無意識下でも、薫さんが私と結婚したいと思ってること、めちゃくちゃ嬉しいのですが……薫さんあの、私今テンパってるから何言ってるかわかんなくなってきた、あああもう、ひとりで話してるの恥ずかしいから何か言ってくれませんか……!!」
薫さんは恥ずかしさでしどろもどろになる私をぎゅうと抱きしめて、消え入りそうな声でもう一度「すまなかった」と呟いた。私は薫さんにこうやって正面から抱きしめられることが大好きなのでなんだか嬉しくなってしまって、変な笑い声が混じりながらもなんとか「うへ、ふふ、謝罪じゃなくて、ふふ、もっと違う言葉が欲しいですぅ」とおねだりをしてみた。
薫さんはしばらく黙って、私の止まらなくなった笑いだけがしていた。薫さん、夢の中でも私と結婚したかっただなんて嬉しいなあ。いつもしっかりしている薫さんとしては、プロポーズはちゃんと計画していただろうから(今更思い当たったがもしかしたら本当は昨日の夜やりたかったのかもしれない)、たまったもんじゃないだろうけど私はやっぱり嬉しかった。
「……君と結婚したい」
「へへ、知ってます。何回聞いても嬉しいです」
「……」
「嬉しくてにやけてしまう、ああだめ、見ないでください……」
薫さんがまじまじと私の顔を見てくるので恥ずかしくなって押し返す。何をしても、左手がきらりと光るのが嬉しくて仕方ない。
「……君を随分待たせてしまった」
薫さんがアイドルになって数年。私はもう数年って思うけど、人気がとどまることを知らないアイドルの薫さんにとってはきっとまだ数年だった。結婚だなんてまだ遠いいつか、あるいは一生こないイベントだと思っていた。
「きっと、いつ言ってくれたってその時がいちばん嬉しかったよ。断言できるよ、だって私のことだから。だから……あっ薫さんまさか泣いてます!?いやだな、我ながらいいこと言ったな!と思ったけどまさか今年のスーパージャパンアカデミー賞ノミネート俳優を泣かすほどでした!?」
薫さんのすっきりとした頬が涙で濡れて、長い前髪が眼鏡に絡んでいるのを払ってやった。お互いに朝からびっくりしまくったせいで情緒がおかしくなっている。茶化してはいるけど気を抜いたら私も涙腺が崩壊しそうだ。既に声が震えている。
「だからね、えっと何が言いたかったんだろう。えっと……そうだ、私はいつだって薫さんが私を好きでいてくれることが嬉しいので、遅かろうと早かろうと、そのタイミングが夢だろうと現実だろうと、そんなのはどうだっていいんです。薫さんが納得さえしてくれれば」
薫さんは「相変わらず君が考えていることがわからない」とため息をついた。薫さんの声も震えている。
結婚して幸せになろうね、という人生で最もハッピーな時間のはずなのにふたりしてこんなメンタルがガタガタになっているなんて誰が予想できただろう。普段冷静沈着の薫さんがこんなことになっているのは由々しき事態なので、私はベッドから飛び降りて冷蔵庫に向かった。
結婚に際し、不安がないとか嘘でも言えないのは既に一連の出来事でお互いバレバレなわけだし、アイスクリームでも食べて気持ちを落ち着かせようと思う。話をするのはそれからでいい。いつもの調子を取り戻したら、きっと私には思いつかない劇的な解決手段で私を幸せにしてくれるのがわかっているので。
*前次#TOP