雁字搦めの恋は
「龍、黒猫は幸せがやってくる証なんだよ」
何度も何度も名前は俺の手を握ってそう言った。
「黒猫の目って夜でも光るでしょ、だから商売にいいんだって」
高校の時に出会ってから名前は俺の不運に巻き込まれながらもずっとそう言い続けた。黒猫が横切って何か起こるたびにそう言うから、今でも耳に残るそれは、きっと俺が死ぬまで耳で響くだろう。
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「アイドルになりませんか」
とプロデューサーに言われたとき、俺はその言葉にほとんど反射で飛びついた。名前が「龍、めったにラッキーがない分、いざというときのラッキーは間違いなくつかむのよ」って何度も言っていたからだ。
「俺、必ず立派なアイドルになって夢を叶える!プロデューサー、よろしくお願いします!」
大学生になった名前は、勉強が忙しいのを知っていたから何の相談もしなかった。アイドルになる道は、めったにないラッキーは、全く間違ってなかったと思う。それから、詐欺じゃないとも思う。この人の手を取れば、きっと夢が叶う。夢を叶える努力が続けられる。早く名前に言いたかった。
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名前とデートの約束をした。アイドルになることを報告することが一番の目的、それから名前がテスト期間の間会えなかった分、いっぱい話もしたかった。恋人同士だってホウレンソウが大事なのは変わらないし、アイドルのことを相談なしに決めたから報告だけでもちゃんとしたかった。テストとレポートに追われる名前からメールが返ってきたのは2日後、週末に2人でよく行ったカフェでランチしようと提案された。
久しぶりに会った名前はおしゃれをしていてすごく可愛かった。素直に褒めると、照れて「龍はなんでまた、そんなにボロボロなの」って笑って頬の汚れをハンカチで拭いた。ひらひらしたピンクのハンカチで、決して安いものじゃないのに惜しげもなく使ってくれる名前が、本当に好きだって改めて思う。
ランチを食べ終えるのを待って、名前にホチキスで留めた資料を手渡すと名前の顔がこわばった。
「俺、アイドルになるよ」
「……これ、見ていいやつ?事務所の人に言った?」
「恋人に説明するってちゃんと言ってきた」
「……そっか」
じゃあ失礼しますって神妙な顔で名前は資料をめくった。その間俺は手持ち無沙汰にアイスココアのストローを指でつぶしていた。
「……龍」
「は、はいっ?!」
「この、メンバーの2人にはもう会ったの?」
「うん、元自衛官の信玄誠司さんと、元警察官の握野英雄さん。誠司さんとは前にあったことがあるし、あくの……英雄さんは顔が怖いけど優しい人だった……と思う」
「あのね、龍。私、きっとこのユニット売れると思う」
「ほんとに!?」
資料から顔を上げた名前は神妙な面持ちで頷いた。
「だから、龍……別れよう」
「えっ」
ほとんど表情を変えずに名前が言い放ち、突然のことすぎて思わずストローの飲み口をへし曲げてしまった。
「なんでだよ……?もし失敗したら困るから?」
「ううん、きっと龍が人気のアイドルになるから。アイドルってね、自分を売っていくの。時にはプライベートも。そういう時に恋人がいると隠しきれなかった時にゼッタイ大きく非難されるの。売り出し始めの時は特に、そうだと思う」
「そんな、だからって」
「私、龍ならすごいアイドルになれると思う。本気だよ。龍の笑顔は皆を笑顔にするし、龍が頑張ってるところに励まされる人、絶対いるよ。私、龍がアイドルなるの応援したい」
「俺、別れるつもりなんてなくて……そんなつもりじゃなくて、今日は本当に報告するだけのつもりで」
「わかってるよ。私だってまだ龍のこと好きだよ。でも、龍の夢、応援したいよ……!」
ぼろっと名前の目から涙が落ちた。めったに見ない名前の泣き顔に動揺して、頭の中がグルグルしてて、とりあえず袖口で拭った。前にやった時、ヒリヒリして痛いって怒られたのもすっかり忘れて、ゴシゴシ拭った。今日の名前は、怒らなかった。泣き続ける名前を抱えてとりあえずお金を払って名前の家に連れて帰った。久しぶりの名前の家だった。
ドアを閉めるや否や、鍵をかける間もなく名前が激しく咳き込んで、俺は慌てて背中をさすった。名前は喘息持ちだった。
「名前、薬は?寒い?気持ち悪い?返事できる?」
「ダメ、龍、触っちゃダメ……!」
名前からぼろっとオレンジの小さい花がこぼれた。あっと思った時には遅く、あふれた花が俺の手に落ちる。
「ダメだってば……!」
花吐き病だとすぐにわかった。
名前も俺も、お互いを好きなのにどうしてとガンガンする頭で登録したばかりのプロデューサーの番号に電話をした。そのあとのことはあまり覚えていない。英雄さんと誠司さんが俺の名前を呼んで、プロダクションの人が来て、気づいたときには名前の体温は離れて、多分別々に病院に連れて行かれたのだと、思う。
ぐちゃぐちゃの意識の中で、鍵をかけてないドアをすり抜けて黒猫が玄関にいたのを見た。また、黒猫。結局名前の言うように、黒猫は幸運を運んではこなかった。
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こんなにも俺が昔のことを詳細に覚えているのは、病院で治療として記憶薄化と症状を抑える薬を打たれてすぐに全てノートに書きつけたからだ。今では俺は高校からの付き合いの名前のことをこの文面でしか知らない。顔も声もよく覚えていない。薬の効き目はバッチリだったみたいだ。
アイドルになってわかったのは、アイドルには花吐きも、恋人の存在もやっぱりマイナスで、名前のことを忘れたから言えるのかもしれないけど、プロデューサーの処置は正しかったと思う。
名前の言った通り俺たちFRAMEは徐々に売れ始めてテレビに映る機会も増えてきた。今日のように街を歩く時には3人揃って変装をする必要があるくらいだ。
「龍、靴紐緩んでるぞ」
「あっ、本当だ」
立ち止まってしゃがみ込み、靴紐を結ぶ。アイドルになったのはラッキーだったけど、不運は治らないんだなあ。
「にゃーん」
「あっ黒猫!!」
叫んだ拍子にポケットの鍵が飛び出した。あああ、もう。
「龍、もう動くなよ……」
英雄さんの仕方ないなあと言いたげな声に反省して眉が下がる。
「あの、これ落とされましたよね?」
英雄さんとも誠司さんとも違う声に顔を上げた。
顔を見た途端、「何にも覚えていないはずなのに」ギクリと体が強張って、心臓がガンガン音を立て始めた。頭が痛い。思い出すなって本能が警鐘を鳴らしている。チカチカとオレンジ色がフラッシュバックする。あの花の名前って結局何だったんだろう。
尻もちをついた彼女もまた顔を青白くして、鍵を手にした指先がかわいそうなくらい震えている。ああ、俺が、支えてやらなきゃ。せっかく拾ってくれたのに、こんなのってないよな。名前はすぐに無理するんだから、俺がいてやらなきゃ。まだ好きだって言って抱きしめたい。
薄れていた記憶の切れ端が、そう思わせるのに、フラッシュバックするオレンジがひどくて立ち上がれない。俺は、俺たちは、いつまでこれに囚われていればいいんだろう。
「おい、龍大丈夫か?お嬢さん、息をちゃんと吐いてくれ!」
「信玄、プロデューサーに電話してくれ、俺は救急車呼ぶ!」
誠司さんと英雄さんの声が遠い。それなのに名前の喘ぐような吐息だけがやたら大きく聞こえる。切れ切れの息の中でごめんって名前が泣いてる。
オレンジの花がひらひら舞う視界の端を黒猫がするりと通り抜けた。ああ、また、この景色だ。
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