和泉三月が風邪を引いた日

「兄さんのこと、よろしくお願いします」
「はあ……」
「くれぐれも、くれぐれも、よろしくお願いしますね」
「いおりん、くれぐれもって、2回言った?」
「た、環くん……じゃあ名前さん、僕たちもう出るので、戸締りだけお願いします」
「はい、アイドリッシュセブンの寮にいるという自覚を持って行動しますのでご心配なく」
「……」
アイドリッシュセブンの寮に来るのはいつぶりだろう。送迎で入り口に車を停めることは結構あるけど、中に入ってしかもアイドルの皆を見送ることは初めてなので違和感がすごい。そして、一織くんの眉間の皺もすごい。一織くんの寝起きの顔が険しい話は陸くんから聞いているけど、もう支度を済ませて朝7時半なので、寝起きなわけじゃない。言うまでもなく私のせいです。

「いおりん、顔こえーよ」
「はは……環くん、一織くん、そろそろ僕たちも行かないと」
「風邪を引いた兄さんを置いて仕事に行くなんて……」
「名前ちゃんがいるだろ。みっきーだってこどもじゃねーんだし」
「名前さんがいるから心配なんですよ……!」
「ふ、2人とも、さすがにもう出ないとまずいんだけど……マネージャーも車で待ってるよ」
今日は紡ちゃんが寮にメッゾと一織くんを迎えに来るついでに乗っけてきてもらったわけだが、一織くんが出勤を渋っているのでいくら皆さんが5分前行動を心がけて私が寮のドアを開けた時には皆さん揃っていたとしてもそろそろやばい。一織くんもそのことはよくわかっているはずなのだが。逢坂さんが高級そうな腕時計に視線をやってそれからスマホの通知を確認した。右手に持ってる鍋と、荷物をたくさんいれてるビニール袋が手に食い込んで痛くなってきたので、黙って床に下ろした。環くんが出してくれたスリッパはまだ履けていない。一織くんの許可が出ないからだ。

「おはようございます!皆さん、車回したので乗ってください!」
「おはよ、マネージャー」
「おはようございます!皆さん、三月さんのことが心配だと思いますが、今日は名前ちゃんに任せて、皆さんは仕事に行きましょう」
「……兄さんのこと、くれぐれもよろしくお願いします」
「はい。頑張ってきてください」
紡ちゃんのひと声で一織くんはすっかり大人しくなって、メッゾの2人と寮を出て行った。3回目の「くれぐれも」を申し付けられた私は、スリッパを借りてビニール袋を拾い、キッチンを借りた。

鍋を下ろして、電子レンジをお借りしてタオルをチンして、その隙に冷蔵庫の中を拝見する。持ってきた冷えピタも入れさせてもらおう。冷蔵庫の中を見る限り、和泉さんが食べられそうなのはプリンくらいだけど、これは多分環くんのプリンなので一回買い物に行ったほうがよさそうだ。和泉さんの部屋に向かう。

今朝早く、撮影のために早起きした二階堂さんから紡ちゃんに電話が入った。曰く、「ミツが風邪引いたっぽい」。朝起きてこないので部屋を覗いたら具合が悪そうで、腋に体温計を突っ込んでみたところ37度を超えていた。

その時二階堂さんは撮影所に向かうタクシーを待たせていたので、寮にいるメンバーに後を頼んで寮を出たのだという。アイドリッシュセブンのマネージャーをしているわが愛しのシスター紡ちゃんは早朝から和泉さんの仕事を調整してお休みを作り、メンバーは朝から仕事のため、代休で1日家でごろごろする予定だった私に看病要員を頼んだというわけ。

休日出勤と引き換えに得た代休だけど、理由が会社にとって大事なアイドルの体調不良、しかも紡ちゃんが心底申し訳なさそうに頼んできたからには行くしかあるまい。朝から紡ちゃんの運転するバンでドライブを楽しめたことだし、私としては帰りも紡ちゃんが迎えに来てくれるって言うし、看病関係の道具をかき集めて寮に来た。そして、一織くんにはめちゃくちゃ嫌がられた。基本一織くんは私に対する当たりがちょっときついが、かわいい17歳のやることなので、私はあまり気にしてない。

「和泉さん、入りますよ……」
鍵がかかっていないドアをちょっとだけ開けて、静かにその室内を覗き込むと、まんまるに膨らんだ布団が静かに上下している。き、きれいな部屋だな……1回だけ環くんの部屋に入ったことがあるのだが、逢坂さんに「環くんあの部屋に名前さん入れたの!?」と驚かれるくらいに大変なことになっていた。昔の彼氏の部屋もあんまりきれいとは言えなかった人の方が多いので、男の子の部屋はきれいじゃないものという偏見があったんだけど、和泉さんの部屋はすごくきれいに見える。

「和泉さん、様子見に来ました」
「ん……?え、名前さん……!?」
「あっ起きなくていいです!あの、今日看病係に就任しましたので、よろしくお願いします……」
「うぇっ!マジ!?」
「マジです。とりあえず、お水飲んで着替えて、食べられそうだったら何か口に入れましょう。病院行くかはその後決める、こういう流れで進行しようと思います」
「はは、名前さん仕事モードだ」
「当たり前です!でも、和泉さんはお仕事のことはちょっと忘れて、元気になることに専念してくださいね。って紡ちゃんが。和泉さん、最近すごく忙しかったですもんね」
「……そうだな、ありがとう」
熱で真っ赤になった和泉三月が潤んだ目で私を見ている。か、かわいい……熱出してるから顔が赤くて目が潤んでて声はちょっと掠れてて、それがすっごくエロくてかわいい……ああ和泉三月ってすごい……

一織くんがあれだけ私と和泉さんを2人きりにするのを嫌がったのは、私が和泉三月のファンだからだ。私が、三月くんかわいい♡テレビに出てる三月くん超おもしろい♡たまに見せるかっこいい顔も最高♡とかいう感じだったら、一織くんとは和泉三月が最高な話で盛り上がる仲になれただろう。しかし私の場合、ショから始まる性癖の持ち主で邪な感情込みで和泉三月を推しているので、兄さん過激派の一織くんからはすごく警戒されている。和泉さんが21歳なのは知ってるけど私のセンサーはばっちり反応したので、そのことを知った一織くんからあたりがきついのも当然とういうわけ。

「一織くんが兄さんはポカリ派だって言うからポカリにしてみました。お水もあるので、どっちも飲んでくださいね。後で買い物にも行くので食べたいものがあったら教えてください」
「何から何までごめんな。名前さん、今日休みだったんだろ」
「和泉さんが熱出して苦しんでるのに、のうのうと休んでられません……!」
「名前さん……」
「と、とりあえず汗かいたでしょうし、着替えましょう!あったかいタオル持ってきたので、使ってください。それと、お着替え出していいですか?」
「いいけど……えっと」
「場所なら一織くんに聞いてきましたのでご心配なく!失礼ですが勝手に開けさせていただきますね……後ろ向いてある間にあの、お願いします……」
「おう……」
ポカリを飲む姿さえかわいい。超絵になる……やっぱり清涼飲料水のCMを再チャレンジしてほしい。紡ちゃん頑張ってお仕事取ってきて……お願い……短パン履いてる和泉三月がもっと見たい……

私はなんとか邪な妄想を跳ね除けて、私がいつまでも見つめていたら着替えにくいだろうと心を鬼にして背中を向けた。私はショから始まる邪悪な性癖の持ち主だが、相手は事務所の大事なアイドルで、しっかり者の21歳で、私は今日仕事をしに来ているのだと言い聞かせる。しかし背中越しに聞こえる和泉さんの呼吸が荒い。ご飯の前に熱を測ってもらったほうがいいかもしれない。

一織くんに言われた通りに衣装ケースを覗くと、ちゃんと言われた通りの着替えが入っていた。一織くんは一体何者なんだ。いくら同じ寮に暮らしてるとはいえ、服のしまわれている場所だけでなくローテーションから割り出したそのデザインまではっきり覚えてるなんてことある?パーフェクト高校生にも程がある……

「和泉さん、お着替えこれで……」
「あ、うん……」
ゆっくり10数えて心を落ち着けて、振り返ると今まさにTシャツを脱がんとする和泉さんと目があった。い、和泉三月のお腹が……それにチラッと胸部が……み、見てしまった、ピンク色の……成人男性でピンクなことある……?私は大いに混乱した。

「ごめん、なんか……いつもみたいに動けなくて……」
「いっいえ!こちらこそ具合が悪いのにお手伝いもせず!」
「名前さん、仕事モードがぐちゃぐちゃになってる」
「う、あの、本当に……」
「ごめん、わざわざ来てくれたのに意地悪言って」」
「あの、本当に……すみません……」
「いいって。目も合わせてくれなかった最初の頃が懐かしいよ」
「う、う……」
私は中高と紡ちゃんと違う女子校に通っていたので、一時期人見知りとビビりで男の人と話せなかった。特に大神さんの入社当時は大神さんと一言も喋れなかった時期があって、大神さんは未だに「名前ちゃんが男の子たちと話してるのを見ると成長を感じて感慨深いね」ってからかってくる。当時は普通に反抗期で愛想がなかったし、大神さんにからかわれるたびに恥ずかしい。そういうところが余計に面白がられているのだと思う。ちなみに言っておくと、紡ちゃんは反抗期もなくずっと可愛かった。

アイドリッシュセブンの皆が入所したばかりの頃も、超絶事務的対応をとっていたのでマネージャーである紡ちゃんとの差に一部のメンバーは驚いたと聞いている。いや、そもそも私マネージャーじゃなくて事務員だし……

和泉さんに対してはショの血が騒ぐため、特に塩対応を取っていたので、ちよっと話すようになった頃に「オレのこと、嫌い?」と聞かれて本当にどうしようかと思った。聞いてきた時の困った顔が可愛すぎて、罪を犯さないように「和泉さんは商品!うちの主力商品!主力商品に興奮するな!」と言い聞かせて頬の肉をめちゃくちゃ噛んだ。

「名前さんは、オレのこと嫌いなんじゃないかってずっと思ってたけど……」
和泉三月の生着替えが目の前で披露されているので、私は思わず食い入るように見つめて、自分の名前が呼ばれたことに気付いてはっとした。ビニール袋の中から覗く体温計に気付いて、気を紛らわすために手に取った。

「多分、一織と一緒で素直に言えないだけなんだ。大丈夫、そんな困った顔しなくてもいいよ」
「和泉さん」
「わかってるよ。名前さん、オレのこと嫌いじゃないって」
「どうしてそんなこと言えるんですか……」
「わかるよ、兄ちゃんだから。名前さん、マネージャーのことは人よりよくわかるし、周りのやつらのこともよく見てる方だろ。オレも」
返事に困ってとりあえず体温計を渡す。体温計が着替えたばかりの襟首に消えていくのをぼんやり眺めた。オフのたびにスポーツに励んでいる話をメンバーやモモさん経由で聞いてるが、スポーツ好きな人のからだをしている。なんなら前の彼氏よりしっかりしてるかもしれない。

「名前さん?どうかした?」
「い、いえ!なんでも!」
「本当に?」
和泉さんがじーっと見つめてくるので私は慌てて視線を逸らした。熱で潤んだ目や赤い顔がかわいいのでやめてほしい、本当に困る、私はそもそも風邪をひいた和泉さんの看病に来たはずが、どうしてこんなことに……和泉さんの脇に挟んだ体温計がピピピと鳴って、和泉さんの視線が外れた。

「あー……高いな……」
「念のためお医者さんに診てもらった方が良さそうですね。すぐごはん持ってくるので、待っていてください」
小さい画面を覗き込むと心配になる熱の高さだった。そうだった、遊んでる場合じゃない。うちの主力商品が体調を崩しているのだから、しっかりしなくちゃ。

「名前さん……」
「すぐ戻ります。冷えピタも取ってきます」
数字で見たせいで、体調が悪いのをより一層自覚したらしく和泉さんはさっきより辛そうにしている。和泉さんを布団に戻して、閉じた瞼にかかる前髪を払った。紡ちゃんが風邪をひいた時はいつも髪が邪魔にならないように前髪を避けて冷えピタを貼って、首筋にはりつく長い髪は三つ編みにしてあげているのを思い出して、手が止まった。最近は紡ちゃんも風邪を引かなくなって、こうやって風邪を引いた誰かの世話をするのは久しぶりだった。紡ちゃんにするのと同じように、おくれ毛を耳にかけると和泉さんの目が開いた。

「名前さん」
「寝ていてください」
「オレ、名前さんのことすきだよ」
「そうですか、それはどうもありがとうございます」
高熱のために頬が赤く、いつも元気な声は掠れて甘く、熱で潤んだ瞳からは今にも涙がこぼれそうだった。かわいそうだと思って、手のひらを額にあてた。末端冷え性もこういう時だけは役に立つ。
「冷たい」
「紡ちゃんが熱出した時もいつもこうしてあげてました」
「そっか……」
「あの、ごはんあっためてきます」
「名前さん」
だんだん見てはいけないものを見ているような気がしてきて、私は目を逸らして立ち上がった。いつも元気な和泉三月の弱り切った姿は、心臓によくない。おかゆをあっためて、和泉さんが食べてる間にダッシュで車取りに行って、あと冷蔵庫の冷えピタも回収しないと……

「名前さん」
「すぐ戻りますから」
「名前さん。オレ、嘘はつかないんだ」
私は返事をしないで部屋を出て、後ろ手にドアを閉じた。顔があつい。

風邪をひいて弱ってるから寂しい気持ちになったに違いない。紡ちゃんだって熱を出すと今でも「そばにいて」って言うし、和泉さんはお兄ちゃんだから普段甘えづらい分、熱が出て気持ちが緩むこともあるだろう。それに、和泉さんは普段だったら絶対あんなこと言わないし、私はショの気があるけど和泉さんのことを恋愛的に好きなわけではないと思う。

でも、さっきの顔は私のよくない性癖にはちっとも響かなかったが、どこか別の部分のセンサーに引っかかった。心細さから出た発言だと頭はわかっているのに心臓の音が速い。

急いで仕事を終わらせて帰ってくるだろう一織さんにどんな顔をして会ったらいいんだろう。絶対顔でばれる。いつもみたいに涼しい顔して「万事恙なく」なんて言える気がしない。しっかり閉まっていないドアからは小さな吐息が聞こえたような気がした。それが切なげなのは熱のせいに違いない。それか聞かなかったことにしたい。私は今度こそ半開きのドアを背中でしっかり閉めた。

「何をため息ついてるんですか」
「ヒョエ!」
顔を上げると目の前に正統派和製プリンス・パーフェクト高校生こと一織くんがいたので、心臓が本当に止まってしまうかと思った。ほ、ほんもの……?と疑いながら視線を合わせるが、眉を顰める表情を見るに、間違いなく先ほど出て行ったばかりの和泉一織本人だ。思わず2回目のヒョエが出てしまった。
「ヒョエはないでしょう。兄さんの具合はどうですか」
「お、お、お仕事は……」
「スタジオの都合で午後からになったので一度戻ってきたんです」
「あ、ああそうですか……」
「それで、名前さん。くれぐれも、と言いましたよね」
「ヒョエ」
「何があったか後で詳しく聞きますから……兄さん入りますよ」
一織くんは私を一瞥して、そんなことより愛する兄さんの方が大事なのでさっさと和泉さんの部屋に入っていった。
扉越しに会話の声がかすかに聞こえるような、聞こえないような、私はそれを振り切ってキッチンに向かうことにした。やっぱり和泉三月は元気な方がいい。私を見上げた大きな瞳と、甘い声が頭にこびりついて離れないので、私は今日何度目かになる大きなため息をついた。


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