和泉一織と特別なひと
「これ、兄さんからです」
「本物だ!一織も忙しいのにありがとうね」
「いえ……」
このあと、「あなたに会いたかったから」と続けられたら。そう思うけどどうしても声に乗ってくれなくて、一織は名前から視線を逸らすことしかできなかった。名前は一織から人気店の菓子箱を受け取って嬉しそうに微笑んだ。
ブランド名の印刷された真っ白の紙袋の中身は三月が先日、超人気スイーツショップの仕事をした時に名前が好きだからといくつか購入しておいたものだ。三月が昨日の夜、「一織明日休みだろ。名前に持ってってやって」と一織に渡して一織は戸惑いながらそれを受け取った。「兄さんが名前さんに買ったものでしょう」「そうだけど……一織も名前に会いたいだろ?オレは年末に会ったし」「べ、別に名前さんに会いたいわけじゃ……」というやりとりの後、結局一織は三月のなまやさしい視線と言葉に丸め込まれて、名前の家を訪ねることとなったのだった。
店舗に併設されたティールームは予約2年待ちの超人気ブランドとあって、名前は目をきらきらさせて菓子箱を見つめた。わずか1パーセントの時間ででいいから、そのきらきらの眼差しが自分に向けられますように。一織は名前を好きになってからずっとそう思っていたのだが、今のところその視線は三月に向けられるばかりだった。三月よりひとつ上の名前にとっては、いつまでも一織は年下のかわいい弟分でしかない。アイドルになってもそれは変わらないようで、一織はひとり落胆した。
「紅茶ね、三月がくれたやつなの。どうぞ」
「……ありがとうございます」
「特別な日の紅茶なんだ。すっごくいいにおいがするの。お菓子もせっかくだから一緒に食べよ」
「いいんですか?」
「え?お菓子すっごく嬉しいけどこんなにたくさんは食べられないよ。しけちゃったら悪いし……」
「そうじゃなくて……兄さんの紅茶、特別なものなんでしょう」
「なんだ、一織が来たから特別だよ。だって一織、全然遊びに来てくれないんだもん」
一織は「一織が来たから特別」の言葉を一生懸命噛み砕いて飲み込もうとして、失敗した。一織は昔からこの幼馴染の些細な言動に翻弄され続けている。本人にとっては大したことではなくて、数年後には「ええ?そんなこと言ったかな?」などとすっかり忘れていることも多い。
三月もどちらかといえば名前に近く、昔から一織はふたりが仲良くしているのを羨ましく思っていた。ふたりが一緒に小学校に通っているところ、また制服姿で話しているところを見るといつも、一織は自分だけがひどくこどもっぽく思えて泣きたくなった。そして一織はいつからかははっきりと覚えていないが、この数年名前に対する好きを年々強めている。
「そうだ、一織。この間の特集見たよ」
「特集?あ、ウェディングの……」
「うん!あの小さかった一織が大きくなったなあって……感動しちゃった」
「そ、そうですか」
一織はとりあえず手土産の焼菓子をつまんだが、味はほとんどわからなかった。その後口をつけた紅茶の味もわからなかった。まさかあの結婚に関するインタビューを名前に見られているとは考えもしなかったので、動揺してソーサーにカップを戻そうとして大きな音を立ててしまった。ここにいるのが三月と名前だったらもっと話も弾んだだろうと一織は考える。
「一織もいつかは好きな人ができて結婚しちゃうんだな……って思ったらしんみりしちゃった。あはは、三月の時はそんなこと思わなかったのにな。いい加減、一織離れしろよって三月に怒られちゃう」
「し、しなくていいです」
「え?」
「一生、しなくていいです。私離れなんて」
一織は悔しいのか泣きたいのかもしくは怒ってるのか自分の感情がよくわからなくなった。頭の中で、こんな恥ずかしいこと言うなら今しかないと冷静でない自分が叫んで、今夜寮に戻ったときの後悔を想像しろと冷静な自分が叫んでいる。いつもはアイドリッシュセブンの頭脳として冷静な一織が勝利するところだが、今日ばかりは名前の幼馴染の和泉一織だったので、冷静でない一織が勝った。
「幼い頃、兄さんとあなたが結婚したらいいと思っていました。大好きなふたりを見守っていたら、自分も幸せになれるんじゃないかって。ずっとそう思っていたかったのに、でも今はそれじゃ嫌なんです」
「ちょ、ちょっと一織!」
「兄さんが名前さんにとって特別な人なのはわかってます」
「一織……」
「それでも、私を選んでほしい」
「あ、あ……」
「兄さんじゃなきゃだめですか」
「……」
「……幻滅しましたか」
名前が一織だけを見ていた。一織の望んだきらきらの目ではなくて、泣きそうな目で困った顔をしていたけど一織はそれでもよかった。一織は名前が好きだ。名前の特別な人になりたかった。いい意味でそうなりたかったけど、もうこの際悪い意味だっていい。
「そんなの一言も言ってないじゃん……ああもう、三月に恋愛相談してた自分が馬鹿みたいだ……」
「兄さんに?」
「三月、知ってたんだよ……わたしたちのこと……うわっ……だからいつもなるようになるって!しか言ってくれなかったんだ……」
「ああ……」
一織はお使いを頼んだ時の三月を思い出してため息をついた。昨晩のあのなまやさしい視線も、今朝送り出す時の頑張れよ!という激励も、三月は一織と名前のそれぞれの事情を知っていたからだとようやく気づく。そしてふたりともに、それぞれ今までの言動を思い返して赤面した。名前は年々素っ気なさの増す一織とはもう二度と仲良く話せないと三月に長電話して深夜「あんまり悲観するのはよくないぞ」と慰められた時のことを思い出し、一織は自分が今まで恋愛についての質問に名前と結ばれることはないのだからと興味のないような回答をしたことを思った。
一織がひと通り過去を思った後に名前の顔を見ると、名前はまだ困った顔をしていた。名前が一織を理由にしてこんな顔をするのは心が痛いけど、一織は今度こそ「あなたが好きです」と声に出した。名前はそれを聞いて本当に困ってしまって、「あと5年くらい経ったらね」と小さな声で返事をしたので、一織は絶句した。
「ご、5年は長すぎませんか!高校卒業したら、とは言いません。せめて3年……!」
「ま、待って待って!急に押しが強い!」
真っ赤になった名前の手を捕まえようと一織は腰を浮かして身を乗り出した。座っていた椅子がガタンと音を立てても、それに構っていられない。
「もう、待てません……」
一織が恥ずかしさに耐えて、消え入りそうな声で訴えると流石の名前も言葉に詰まった。一織はもう今夜は眠れない覚悟でいる。
「や、やっぱりだめ!5年!5年のうちに決心するから待って!」
「そんな……!」
一織の悲鳴を聞かなかったことにして、名前は三月がお土産にくれた焼菓子をつまんで紅茶を飲んだ。人気店の焼菓子はこの上なく美味しくて、幼馴染の選んでくれた紅茶は名前好みのいいにおいがする。
せっかく告白できたのに5年も先延ばしにされた一織は席についてもまだ抗議を続けている。高校生になって、アイドルになって、いっそう大人びて名前が近寄り難いと思った一織は今日この部屋にはいない。
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