友達って難しい

棗巳波のことを、昔「お兄ちゃん」と呼んでいた。一応言っておくが血縁関係は全くなく、ドラマの役柄が兄妹だったというただそれだけで。今思えば番組の宣伝をするにあたって、幼い子役が少し年上の子役を本当の兄のように慕う様子は見栄えが良かったのだろう。何も知らずにわたしは彼を慕っていた。

お兄ちゃん、と呼ぶといつも「どうしたの」とわたしの視線に合わせて屈んだ。声変わりの前の穏やかな声、優しい表情。しかしわたしを見る目は目はいつも冷たく凍っていた。優しい声音は作りもので、大人の中で生きてきた幼いわたしは敏感にそれを感じとった。こわい、お兄ちゃんどうして笑っているのに笑ってないの。それを聴いた巳波は、何をわたしに言ったのだろう。何年も経ってその言葉を忘れても、他の記憶が薄れても、その瞳ばかり覚えている。


「お疲れ様です」
「な、棗巳波……さん」
「スタジオが一緒と聞いたので、ご挨拶にきました。これ、差し入れです」
「どうも……」
巳波が海外に行って、帰ってきたと思ったら怖そうな人たちとアイドルを始めたのはさすがに知っていた。前よりずっと楽しそうにしているのも知っていたけど、会いに行く勇気はなかった。

「オレンジのゼリーですよ。好きだったでしょう」
「あ、ありがとう……」
渡された紙袋を覗くと、撮影当時現場でよく食べていたオレンジのゼリーが入っていた。まるごとのオレンジをくり抜いた中に、ゼリーが詰めてある。休憩中に並んで一緒に食べている写真がドラマのファンブックに載っていたのを覚えている。珍しく一緒に食べるというので嬉しくてたまらない顔のわたしと、対照的に仏頂面でゼリーを食べている巳波の写真だ。わたしは巳波ともっと仲良くなりたかったのだと思う。カメラの前にいる時と同じように、わたしに笑いかけてほしかった。

ドラマ自体の撮影中でも、テレビのカメラが入っている番宣撮影でも、お兄ちゃんと呼べば優しくこたえてくれた。カメラがないときはそっけなくて、呼べば振り向いたけど冷たい目で、それで。記憶の中の巳波はいつも冷たい眼差しで名前を見る。

「どうかしました?」
「あ、ううん。ありがとう!これだいすきなの」
「そうですか、昔散々食べていたから今はどうかな、と思ったんですけどそれならよかったです」
「わたしが食いしん坊みたいな言い方しないでよ……」
「あら、私の記憶の中では随分食いしん坊だったんですけど……」
棗巳波がクスッと笑って、首をかしげた。その拍子に柔らかい髪が肩を流れて、思わず見惚れてしまう。巳波が笑った。わたしに。

「あ!冷蔵庫に差し入れ入ってるからあげる。みんなで食べて。甘いものは平気?」
「いいんですか?」
「うん。事務所の人にいっぱいもらって、友達に分けてあげてねって言われてたの」
冷蔵庫を開けて、マネージャーの出張土産と巳波にもらったゼリーと交換する。出張土産はちょうど4個入りだ。冷蔵庫を閉じて、気配がしないなと思ったら巳波は入り口で立ち尽くしたままだった。

「何してるの?座りなよ」
「私、一応年頃の男の子なんですけど」
「わ、わたしだって年頃の女の子だよ……」
「まあ、密室も良くないですけど、開けっ放しもよくないですからね」
巳波は不満そうな顔で楽屋のドアを閉めて、ソファに座った。

「はい。みんなで食べてね」
「みんなで」
「あと3人いるでしょ。4個入りだよ」
「……ありがとうございます」
紙袋に入れて渡すと、巳波は驚いた顔をした。今日の仕事が何かは聞いていないけど、楽屋なり事務所なり、戻ればきっと4人になるのだろう。

見てわかる通り、巳波は子役をしていた頃より今ずっと楽しいのだと思う。よかった、と思った。ずっと周りを信じられないで、深く関わらないで生きていくのは、たぶんすごくつらいのだと、わたしは短い人生の中で色んな役をやったおかげでなんとなく知っていた。

「私、今日はあなたに謝ろうと思ってきたんです」
巳波はお疲れ様ですと言った時と同じトーンでそれを言ったので私はぎょっとした。巳波はちっとも笑っていなかった。それを見て心臓がドキっとしたけど、瞳は凍っていなかった。

「な、何かしたっけ?」
「あなたにひどい態度をとったことです」
「そう思ってたの」
巳波は痛みに耐えるように目を伏せて、両の手の指を組み合わせた。懺悔をする人のようだったが、わたしは巳波が謝ることは何もないと思う。

「あの頃の私は、あなたが……私を慕うのを許せなかった。大人に搾取されて、笑ってそれに応えるあなたが。あなたを軽蔑して、憐んで……」
「そうだね」
「今は……すごくそのことを後悔している」
「わたしも、今なら昔のわたしにそんなことはやめろって言うよ」
「私は言えなかった。あなたにそこまでの……」
「関心を持てなかった?」
「……ええ」
巳波は多分、泣いていた。泣いた顔を見られないように伏せていても、演技の仕事を長くしているわたしにはバレバレだ。

「笑っていられるあなたが、ずっと羨ましかった」
「巳波……」
「ずっと、ずるいと思っていたんです」
「巳波、泣かないで」
「……私は今日、自分の自己満足のためにあなたに会いに来た。ひどいひとだと怒ってください」
「どうしてそんなに思い詰めてるの!お兄ちゃん!」
わたしの大声に巳波は伏せていた顔を上げた。涙の粒がまつげに絡まって、瞬きの拍子にころんと落ちた。私も自分の口から出たお兄ちゃんに驚いた。

「ご、ごめん……“そう”呼ばないようにしてたんだけど」
「……ええ」
「あの、もう仲良くしたくないとかじゃなくて……わたし、今度は巳波と友達になりたいから、次会った時はもうやめようって思ってて……だからそんなに暗くならないで?巳波がそんなに暗いから……わたし……」
巳波はぽかんして、友達と繰り返した。

「ま、まさか友達はŹOOĻだけで十分です、とか言わないよね……!」
「……言いません。そうですか、私たちお友達に……」
「嫌?」
巳波は何も言わないで、代わりに首を横に振った。いいえのサインだ。巳波が今までになく弱く見えて、わたしはわざとらしく大きな声を出した。
「わたしと友達になったら、オフのたびにラビチャ送るから!覚悟しててね」
「オフじゃないとラビチャしてくれないんですか」
「そ、そうは言ってないけど、巳波がいいなら、いつもするけど……」
「……嬉しい」
アイドルになって、巳波に何が起きたのかは知らない。彼の子役が使い潰されて大人になれない世界への失望は年々強くなっていたのを知っているし、留学に旅立つ前や帰ってきた時の思い詰めて暗く沈んでいた様子は忘れられない。巳波の冷たい手のひらがわたしの両手を覆った。

「お友達として、今度こそ仲良くなれたら……今度こそ言いたいことがあるんです」
「わ、わたしそんなんじゃ……でも巳波と友達になれてうれしいよ」
「では手始めに名前で呼んでみませんか?もうお兄ちゃん役ではないですし」
「友達だもんね!」
巳波は眩しい時にするみたいに目を細めて、「ええ、友達ですから」と微笑んだ。友達だから、ラビチャもするし、現場が合えば楽屋に遊びに行くし、オフをあわせて出かけたりもしましょう。巳波の提案がものすごく嬉しくて、私は今なら頼み事もできると思った。

「そうだ。わたし、ŹOOĻのCD買っちゃった。あとでサインちょうだい」
「いいですよ」
「ほんとに?」
調子に乗りすぎたかな、と思ったけど巳波はラビチャの連絡先をさらさらとメモして、「こっちに連絡ください」と渡した。昔、撮影待ちの間に算数の宿題をみてもらった時と同じ字をしている。巳波は「こんなのもできないんですか」と呆れていたけど、私が全部の問題を解き終えるまで根気強く付き合ってくれた。

「そうだ巳波、仕事は?時間はまだ平気?」
「ああ、あれ嘘です」
「え?」
巳波は口元を緩めて微笑した。ずっと巳波に笑ってほしかった。テレビカメラのないところで、私に笑ってほしかった。嘘つきの冷たい目をやめて。全部願った通りになったのに巳波の微笑には悲しみや後悔が滲む。お腹の底に氷の破片が落ちたみたいに冷えた感じがした。

「巳波、わたし巳波とちゃんと友達になりたいよ」
「ええ、私も」
どうしたら巳波の心はとけるのだろう。ŹOOĻの人たちみたいに巳波と仲良くなりたい。いつになったらなれるんだろう。巳波は静かに「連絡、待ってますね」と冷たい両手で私の手を覆った。巳波のまつげに絡んだ涙の粒が瞬きと一緒にまた転がり落ちた。

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