救いを求めて川を泳ぎ

名前をいつ起こすべきか、千空はずっと考えていた。千空がその決断の根拠や理屈をこねくり回して論理的に感情に折り合いをつけ、名前を目覚めさせたその晩、ふたりは数千年ぶりに落ち着いて話す時間を手に入れた。

名前は突然石化を解かれて人並みに驚きはしたものの、持ち前の度胸と図太さですぐに周囲に混じって活動を始めた。先程「久しぶりの人間社会はどうだ?」と聞いた時など「今日いちにち君を見ていたけど……」と千空をドキドキさせる前置きの後「君は働きすぎ。もっと寝て、もっと休んで。今、この世界で貧弱なことが真っ先に死につながると、起きたばかりのわたしでもわかる!」と想定外の発言で千空をがっくりさせたが、名前がそついう人間なのは数千年前から知っているので放っておくことにした。

夜になってしまったが、辺りの散策を名前が望んだのでふたりは散歩に出た。名前はすっかり寝静まった辺りを見渡し、それから3000年前にもそうしていたように夜空を見上げた。名前の石化以前の趣味は天体観測、特技は等数の大きい星まで実際の夜空で判別できることだった。千空があの日なにがあったのか、どういう仕組みで石化を解いたのか、今まで何を作ったか、今何を目的としているのか順を追って話すのを名前は黙って聞いた。名前は科学の専門家ではないから、到底すべてを理解することはできなかったが、目の前の千空の成し遂げたこと、そしてこれから成し遂げようとすることの大きさは理解した。

「そう……君がそれだけの時間ひとりで数え続けたおかげでわたしたちは今がいつなのかわかるんだね」
「ああ、他に何か言うことはねえのかよ」
「そうだな……あ、歳差運動をこの目で見れたのはすごく嬉しい!本当に、ベガはいつか北極星になるんだね」
「よかったじゃねーか。星が増えたり減ったりだのの観測は専門家のテメーに任せる」
「千空だってわかるでしょう。今見上げた限りでも、小さいものはいくつか増えたり減ったりしている……ほらたとえば」 
「わかるか!」
「そうだね、今まで君に夜通し優雅に星を観察する余裕はなかっただろうね」
「……」
「別に、毎晩の天体観測を勧めてるわけじゃないよ。今の君に観察する暇があったら1秒でも長く寝たほうがいい。君が働き詰めなのは今日見ただけでもわかるし……」
「……」
「君にしかできない仕事が山ほどあるのもわかってる。でもね」
「……」
名前がまた説教を始めたので千空は黙って聞いているふりをした。名前もそれをわかってため息をついた。この石化世界の救世主は彼しかいない。他の誰にもできないことだ。しかし千空は別に神の子でもなんでもないただの未成年男子なので、いくらショートスリーパーでも無理しすぎだと名前は今日いちにち千空を見て思った。

「さんぜん……何百年か」
「テメーのその4桁以上は数字がテキトーになるのはなんとかならねえのかよ」
「定義できない百億なんたらを好んで口にする君に言われたくないんだけど……」
名前の指先が、復活時に繋がらなかった頬の亀裂をなぞった。よりによって名前の顔面を縦断するように大きな亀裂が残ってしまったことを千空はちょっと気にしていた。名前は起きてすぐに簡易に石化復活時の仕組みと顔面の亀裂について説明された時に「すぐに慣れるよ」と大して気にした様子もなく笑っていたし、別にその顔に大きくヒビが入っていようと千空が名前を好きなことには変わりない。それでもやっぱりふたりが長い間離れて、そして千空が名前より数年早く目覚ました、その隔たりが確かにそこにあるような気がした。

「その、年数のことはわからないけど。きっと金魚は死んじゃっただろうね」
「そうだな」
千空は金魚と聞いて何のことかすぐにわかった。名前の家の、立派な鰭の赤と黒の金魚が悠々と水の中を泳ぐ姿を覚えている。名前は「それだけは、ちょっと残念だったな」と自分の知らない遠い昔に死んでしまった金魚を思った。


世界が石化するより前に一度だけ、千空と名前は夏祭りに行ったことがあった。財布の中身と相談しながら腹ごしらえをして、この後の花火を人のいないところで待とうかという時、名前が「千空、金魚すくいしようよ」と袖を引いた。
「あ?金魚すくい?」
「見て。すごい立派なやつがいる」
星以外のことで珍しく名前が目を輝かせた先には、屋台では中々お目にかかれない立派な金魚が泳いでいる。四角い体は琉金、黒いのは出目金だろうか。小さなプールの周りに地域の商工会協賛の幟が立っていて、名前は「すごい!あんなのホームセンターでしか見たことないよ」と声を弾ませた。

「で?すくっても飼えるんか」
「大丈夫。バケツに水、カルキ抜きしてから来た」
「あー……最初っから連れて帰る気満々なわけか……」
「ねえ、勝負しよう」
「浴衣着てるんだから不利だろ」
「わたしが浴衣着てても、千空になら余裕で勝てる」
「……言うじゃねーか!」
名前が元気よく「1回お願いします!」と浴衣の袖を払ってポイを受け取り、千空もそれに続いた。
「見てろよ、入水角度!速度!空気抵抗さえ完ッ璧にコントロールした科学の金魚すくいを!」

「千空、これはわたしの勝ちということでいいか」
「……」
「前々から思っていたけど、君は結構どんくさいところがあるよね」
「……」
理論は完璧でもそれを実現する技術が千空には欠けていたので、名前が大きな金魚を次々ポイから椀に移す間、千空の椀は空っぽのまま寂しくプールで揺れていた。名前の椀が金魚でいっぱいになって狭苦しくなった頃、ようやくポイが破れて勝負は終わった。

名前が椀をひっくり返して金魚をプールに戻してやった。名前は大漁の理由を、昔住んでいた土地で金魚すくいの道場に通っていたためだとにっこり笑ってネタばらしをした。
「……最初っから勝ち目のねえやつじゃねえか」
「いつも負けてるからたまには勝ちたいと思って」
千空は残念賞で出目金をいっぴき、名前はすくった中から赤いのをいっぴきもらって帰路についた。千空の家に魚を飼う設備はないから、名前の家の水槽に2匹ともおさまった。名前が塩水浴をさせたり水草をいじったりした甲斐あって2匹は巨大な金魚になった。そのうち狭い水槽から庭の小さな池に移すことになり、その日は千空も名前の家に見に行った。庭に移された2匹は、祭りの夜に小さなプールで暴れていた姿が嘘のようにのんびりと泳いでいた。


魚の寿命だとか地球の環境、いろんなことを考えても、今あの金魚が生きていることは無い。もしかしたら、川の氾濫なんかであの小さい池を飛びだして……しかし千空はそういうもしもの話をしない主義だった。

「あの子ら、大きな池とかに放してあげるんだったかな……あんな狭いところじゃなくて……」
名前は夜空を仰いで死んでしまった金魚を惜しんだ。千空が返事をせずに黙ったままでいると、名前はガシガシと自分の後頭部をかき回した。乱暴にするから細い髪が絡まってぐちゃぐちゃになっている。名前の白い首筋が月明かりでより一層青白く浮かび上がり、千空は言葉に詰まった。いつもなら、3000年前なら、名前の為にもっとたくさんの言葉を紡げたはずなのに、石化から目覚めてからのたかだか数年の月日がそれの邪魔をした。

名前は記憶の星空と答え合わせをするように夜空を眺める。宇宙の歴史からしてみれば石化していた年月は決して長くはないはずなのに、目覚めてみればよく知るはずの星空も千空も、何もかも少しずつおかしい気がした。名前を起こしたのは名前の知らない千空だった。心安らぐはずの夜空は名前の知っている夜空と違う。おかしいと感じたのは名前がその変化の詳細を知らないから。

近くの池で魚が跳ねた。名前は夕飯にもらった川魚、おいしかったな。うちの金魚もよく跳ねて床を濡らしていたな。金魚、最後は干からびてしまったのだろうか、それとも大きな川を泳いで寿命を全うしたのだろうか、と今考えるべきでないことを考える。見かねた千空が「そろそろ戻るか」と声をかけたので名前は大人しく「そうだね」と振り返った。

今は夜闇で紛れるけれど、明日からどんな顔で千空に会えばいいんだろう。千空は普通でいいって言うだろうけど、名前にはもう普通がわからない。世界の救世主になった千空に、名前はもう昔のように何も望むことはできない。

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