世界の外に何がある

「おはよう、名前。気分はどうだい」
目が覚めたら霊長類最強として名を馳せる男がいた。有名人の彼を当然わたしは知っているけど、彼がどうしてわたしを覚えているのかは不思議だった。彼は全裸で戸惑うわたしに纏うための衣類を渡して落ち着かせ、しかし彼が静かに口にした内容には耳を疑った。

「3700年ほどきみは眠っていた。人類は滅びて、この世界には俺と君しかいない。世界のことは俺がどうにかするから、君はこのままここにいてくれないか」
わたしが100人束になっても敵わないだろう男が真面目な顔をしてそう言ったのでわたしは「わかった」と頷くことしかできなかった。獅子王司はその返事にちょっとほっとしたようで「……よかった」と小さく息を吐いて、わたしを粗末な牢に閉じ込めた。


獅子王司の言葉が嘘だということはすぐわかった。世界が滅びた事実は、朝晩獅子王司が持ってくる食事が大分ワイルドなこととかたまに差し入れされる衣類の着心地が悪いこととか、そもそも目が覚めた時から住処としている牢が洞穴に竹を嵌めただけの作りだということからなんとなく受け入れた。

しかし3700という具体的すぎる数字の根拠は怪しいし、毎日明らかに獅子王司のものではない元気な雄叫びが聞こえて、たまに獅子王司以外に様子を伺ってくる気配も感じるから、長い年月の果てで世界にふたりきりというのは間違いなく嘘だ。気付かないのはよっぽどの鈍感だと思うし、獅子王司もわたしが気づいたことに当然気づいているだろうけど放っておかれていた。「世界のことは俺がどうにかする」と言う言葉を信じるならば、それどころじゃないのだろう。

わたしは獅子王司の「世界にふたりきり」という大嘘に気づいた時に、その言葉の目的は人類の繁栄を目的とするセックスだと考えたが、わたしたちの間でそういうことは一度もなかった。暇を持て余していたわたしは、獅子王司はなぜあんな嘘をついたのか、そもそもどうしてわたしを目覚めさせたのかずっと考えていた。

朝晩の食事の時に獅子王司は文明の滅ぶ前の話をよくした。冬はあの頃と比べて寒いだとかそういう話もしたがいちばんはわたしの話だった。わたしは、わたしの存在が獅子王司に認知されていたとは知らず、彼の口にする過去のわたしに驚くばかりだった。

何かやることがほしいと言った。毎日暇すぎてつらいと訴えたら獅子王司はちょっと困って、「君の役目はここにいてくれることなんだけど」と前置きをした後にやることををくれた。植物の皮だかなんだかをたくさんくれて、これを紐にすることが仕事だと言った。ロープにするにも頼りない紐だが、何に使うのだろう。きっと大した役には立たないのだろう。獅子王司の監視する前でしばらく植物をよりあわせ、それが数十メートルになったころ、片方の先端を獅子王司が牢から持ち出して見えないどこかにやってしまった。多分、見張りに持たせたのだろうと思う。戻ってきた獅子王司は「必ず獅子王司をひとりにしない」ことをわたしに約束させた。道具を手に入れたわたしが自殺をすることを心配しているのだと気づき、わたしは「勝手に死んで恩を仇で返すような真似はしません」と約束した。獅子王司は静かに頷いて帰っていった。その後わたしは獅子王司が食事と一緒に持ってくるようになった材料で朝から晩まで紐を作った。作った側から紐は「見えない先端の持ち主」にするすると回収されるので、自殺を試みてもすぐにバレるのは明らかだった。

終わりの知れない冬のいつか、獅子王司は「これからしばらく会いに来られない」と言った。むしろ今まで朝晩訪ねてくることが異常だった。そんな暇あるはずないから無理に作り出してきたのだろう。そしてその言葉の通り食事は知らないひとがかわりに持ってくるようになって、獅子王司は顔を見せなかった。わたしは大人しく与えられた毛皮に身を包んで、何に使うかも知らない紐を作り続けた。


待ち望んだ春が来て、牢を壊したのは知らない男だった。獅子王司は迎えに来なかった。科学王国を名乗る人間が、牢を壊して私を外に連れ出した。獅子王司の語った言葉以上に外は大変なことになっていた。初めて自分の目で見た世界に血の気が引いた。


この世界にはわたし達以外の人間がいる。世界にふたりきりじゃなかった。

当たり前だ。わかっていたはずだ。食事を運ぶ人間がいて、姿は見えずとも紐の先を持つ見張りがいて、それから夜中にこちらを伺う気配、元気よく叫ぶ声。世界にふたりきりなはずがない。あの言葉はわたしを不安にさせ、あの場所に縛りつけるためだけの嘘だったのだと突きつけられてわたしは泣きたかった。どうして、わたしに嘘をついた。嘘なんかつかなくても協力した。わたしが戦力にならない足手まといだから大人しくしていろと、君はただそう言えばよかった。それほど強大な敵を相手にしていると、ただ一言。


「君には、裏切られたくなかった」
わたしを牢から連れ出した男は、獅子王司の元へ連れていった。傷を負って弱りきった男がこれから長い時を再び眠ることも、今にも生き絶えそうな声で打ち明けた本心も、わたしは無感情に聞いた。無感情であるように努めていた。目の前の男にはきっと無駄なことだったけど。

「君の考えていることがわたしにはわからない。獅子王司、君はいつもそうだ。わたしには何も教えてくれない」
獅子王司はちょっと笑ってそうだねと言った。
「君が忘れていても、ずっとあの日を覚えている。ありがとう」

結局何もわからないままわたしだけ洞窟を追い出されて、そののち獅子王司は眠りについたのだという。見ていないから本当にそうなのか、知らない。でも石化から復活してからずっと気を張って碌に眠れない生活を送っていただろうから、終わりの見えない眠りがこの男にはちょうどいいと思った。どうしてわたしを知っているのか。どうして私を起こしたのか。どうして嘘をついたのか。未解決問題をたくさん残したままの眠りでも。



「君が獅子王司?」
その晩、夢を見た。石化以前の世界で獅子王司と会った最初で最後の日を。

テレビ局の駐車場でひとりぽつんと立っていた。メディアで持て囃される彼のことは勿論知っていたので、マネージャーの迎えを待つ時間潰しに声をかけようと思った。格闘技にも天才高校生の肩書きにもあまり詳しくなかったが、なんだか沈んだ様子に見えたのでかわいそうに思えたのだ。出演番組でキツくいじられたりしたのかな、納得のいかない感じだったのかな。あるいは、そんな大変なことはその日何もなかったのかもしれない。どんなに戦いに優れていても、顔が可愛くても、そういうものはこの世界では時にまったく役に立たない。権力や立場やお金には勝てない。彼はわたしの声に顔を上げたが何も言わなかった。ただその視線が射抜くようだったので、わたしは急に怖くなった。

「ま、まあ、君もわたしも自分を切り売りする仕事で大変だろうけど……」
こんな状況で何を言ったらいいかわからないし、相手は何を考えているのかもわからないし、声は裏返ったし、近くで見たら大きくてかなり怖い。獅子王司がじっとわたしを見下ろした。
「お互い頑張りすぎずに頑張ろうね、ということで」
「……そうだね」
獅子王司はちょっとだけ眉間の力を抜いてそう言った。笑ったように見えた気がしなくもないが、多分わたしの勘違いだと思う。次に会ったのはあの日、石化から目覚める日だった。どうして彼がわたしを起こしたのか、どうして嘘をついたのか。答えはまだ見つかっていない。


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