ごっこ遊び前編
御堂虎於×メイド
「名前はいつも虎於様の幸せのために」
いちばん古い記憶を思い出そうとすると、いつもここに辿り着く。幼い虎於から見ても3歳年上の名前は優秀だった。そんな名前が小さな膝を床に着いて虎於を見上げている。ファンタジー映画のワンシーンのようだと当時の虎於は思ったが、虎於は本当の王でも選ばれしヒーローでもなく、ただの富豪の三男だった。
記憶の中の名前は「名前のこの身は、あなたの未来のために」と続けるが、それは虎於には過ぎた言葉だと思った。名前は魔法使いでも凄腕の殺し屋でもなく、ただの虎於のメイドで遊び相手のはずだった。
ただの召使のはずの名前は幼い虎於が「どうしたら、ずっと傍にいてくれる?」と聞いた時「何もいりません。あなたが最強になるまではずっと傍にいます」と返した。名前は本当は何が欲しくて、虎於に何者になってほしいと願っていたのか、今でも虎於にはわからない。ただ幼少期の虫食いの記憶の中で名前の幸せそうな顔はずっと覚えている。
@@@
例えば兄が映画の約束を「また今度」と延期した時。父が「何でもいい」「好きにしなさい」と言いながら虎於に選ばせてくれなかった時。名前はいつも虎於より怒って、雇い主の父や兄に食い下がった。
映画の時は「可愛い弟と映画に行く時間を捻出できないほど、お忙しいとおっしゃる!今のうちからこの様な有様、代替わりした時が思いやられますわ!」と兄に噛みついたので虎於は大いに慌てた。焦った虎於が「やめて名前、兄さんは忙しいんだから」と取りなせば、兄はかわいい末弟の健気な態度にハッとして、「すぐに終わるからちょっと待ってろよ」と仕事をすぐさま片付けにかかった。
虎於は「兄さんは後継の勉強があって忙しいんだから、突然映画にいけなくなっても仕方ないんだよ」と名前に説いたが、名前は映画のチケットを2枚虎於に握らせて「あの程度の仕事、片手で片付けられない様では今後の御堂グループはどうなることやら……ああすごく心配です!」だの「お兄様たちがお忙しいのは名前ももちろん存じております。ですが虎於様、息抜きもしっかりする様に言って差し上げてください。お兄様たちは虎於さまの言葉なら聞き入れますから」などと全然反省してない態度で宣った。
兄はあっという間に仕事を片付けて、その日のうちに虎於を映画に連れて行ってくれた。帰り道で感想を語り合い、続編も観に行こうと約束した。超大作故に続編の公開日は何度か延期になって、その度に兄と笑ってホームシアターで過去作を見た。虎於が家を出てからも、虎於が好きそうな映画の新作が公開されるたびに忙しいはずの兄は虎於を誘ってくれる。
@@@
父に進路の相談をした時、虎於は父の言葉に言い返せなかった。虎於の優秀な兄たちは皆海外の大学へ進んだから、虎於は自分だけが否定されるなんて思いせず、今日は高額な海外進学費用の相談をする気で来ていた。兄たちの留学費用は父が出してくれたし、虎於の後ろに控えた名前は昔から「万が一、虎於様の海外留学資金をお父様が用意できなかった時のために」などと言って資金繰りをしていたので虎於はすっかりその気でいたのだ。成績は学内トップで部活でも結果を残し、家に帰れば名前がビシバシ経営の知識を叩き込んでくる。虎於は兄たちに劣らず優秀だった。そんな虎於に国内の程々の大学を勧めた父の考えはわかるようで、でも納得はできなかった。虎於は父に反論するのをやめた。
名前は雇い主である父の前では何も言わずに控えていたが、話が終わったと見るとすぐさま虎於を引きずって自室に戻った。
「やりたいことが、あったらなんでもやりなさいって……父さん言ってたのに」
虎於が落ち込んでいるのを一瞥して名前は言った。
「虎於様、やっぱりお兄様と同じ大学か、国内なら東慶田あたりを目指しましょう」
「東慶田!?偏差値幾つだと思ってるんだよ!」
「どちらにせよ、虎於様なら絶対いけます」
「……父さんは兄さんと同じ大学は目指さなくていいって……」
「でも「嫌だ」と思いましたよね」
「……」
「虎於様、名前はテレパシーが使えないのであなたの言葉がないと何もわからないのです」
「……嫌だよ。でも父さんの気持ちもわかる、納得はできないけど……」
「じゃあ無視しましょう」
「名前!」
名前が雇い主である父の言葉を無視しろというので、虎於は慌てた。虎於だけでなく、名前の進退を最終的に決めるのは虎於の父だからだ。
「海外進学もまだ余裕で間に合いますし、手前味噌ながら東慶田も国内じゃいちばんいい大学ですよ」
虎於は言葉に詰まった。名前は虎於のメイド業と御堂家の仕事の合間を縫って大学に通っている。それも「御堂家の人間として仕事をするならそれ相応の経歴を」と名前が選んだ国内トップクラスの東慶田大学だ。父が勧めた大学はどこも有名だがそれよりいくらか簡単で、虎於の学力では大した苦労なく合格するだろう。
「旦那様は名前が東慶田に通うのを箔がつくから、と言ってお許しになりました。旦那様は、虎於様が自分達のためにと、苦難の道を選ぶのがお嫌なのです」
「……でも、学費を出すのは父さんだ」
「旦那さまが何をおっしゃっても、合格すれば話は別です。受かったもの勝ちです。旦那様は虎於様が合格した学校にお金を払うことを躊躇う方ではありません」
名前が真面目な顔でめちゃくちゃ言うので、虎於は頭を抱えた。日本の大学は入学さえしてしまえば進級するのはさほど困難ではない、と名前は日頃から虎於によく言っていた。大して大学に行かずに虎於に付き従っていられるのはそういう理由だと。
「お兄様が「オレの分まで好きに生きろ」とあなたに言った。旦那様は「好きなことをしてのびのび暮らせ」と。ですから、あなたは好きなように、そう!ご自分のために進学すればよろしい。家族や会社を理由にするのではなく、あなたの望みのために」
名前は静かな瞳で虎於を見た。相変わらずめちゃくちゃなメイドだ。他の家の使用人と比べて、名前が一癖も二癖もあるタイプだと虎於は幼い頃から薄々察している。
「旦那様があなたに期待していないというのなら、見返してやりましょう」
「父さんを見返す!?」
「お兄様はお忙しいでしょうが、名前は虎於様の受験勉強に付き合うくらいの暇はございます。あなたのメイドですから、好きに使ってくださいませ」
「……覚悟しろよ、絶対に一発で合格してやる」
「その意気です、ああ、虎於様はやっぱりそうでなければ」
名前は眩しいものでも見るように虎於を見上げた。3歳年上の名前の背をとっくに追い越していた。
虎於は優秀だったので、高校を首席で卒業してそのまま東慶田に進学した。毎日遅くまで虎於が勉強しているのを見て「勉強のしすぎだ」と苦言を呈した父は泣いて喜んで、学費も一人暮らしの部屋も全て用意してくれた。兄たちも「好きなことをして、オレたちの分までたくさん遊べよ」と忙しい中祝ってくれた。虎於はそれに水を差したくなくて、「ありがとう、兄さん」と笑って礼を言った。せっかく忙しい中会いに来てくれたのだから、がっかりさせるようなことを言いたくなかった。最後まで海外進学を強く反対した父に従って国内の大学を選んだことだけがほんの少しだけ虎於に後悔を残した。
@@@
大学生になって、優秀で人当たりよく容姿にも恵まれた虎於の周りには常に友人が絶えなかった。学祭のミスターコンテストにも誘われたし、特に女性は容姿に優れて金持ちの虎於を放っておかなかった。
一人暮らしのマンションの一室に戻ってくるなり虎於は荷物を投げ捨てて叫んだ。
「休みのたびに海外旅行だ、クルージングだって……みんな同じことばっかりしたがって、それで俺の写真を撮ってインターネットに上げる!大学生ってこういう遊びしかしないのか!?それに……それに変なことばかり聞いてくる子もいるし!!」
虎於が実家を出たので、名前は毎日御堂邸から虎於のマンションに通って来るようになった。名前のために一部屋用意することも考えたが、名前はあくまで御堂家に雇われた人間で、虎於が学校に行っている昼間は御堂邸で仕事をしている。幼い頃からメイドとして働いていた名前は大学卒業後にその腕と信用を買われて御堂家のホテル事業以外の財産の管理を任されるようになった。長年見慣れたメイドのお仕着せも今や虎於の部屋にいる時だけしか身につけていない。
名前は洗濯物を黙々と片付けながら虎於を宥めた。虎於は大学生になって以前にもましてモテるようになったが名前は全然態度が変わらないので虎於は若干不満に感じていた。また、虎於は名前のことを長年一緒にいる幼馴染だと紹介することがあったが、それを名前に「恐れ多いですね」と一刀されたことも根に持っている。
「ゴージャスなホテルもクルージングも女の子の憧れなんですよ。みんなそうです」
「みんなって……名前も?」
「名前は例外です。小さい頃から御堂家の使用人ですから……目が慣れておりまして」
「じゃあ名前は何をしたい?どこに行きたい?」
名前から本心を聞き出すチャンスだと虎於は身を乗り出して尋ねた。名前は洗濯物を片付ける手を止めて虎於を見る。
「名前は虎於様のメイドですから。先ほどの質問に答えるなら、あなたが望むことをしたいし、望む場所へ旅行を手配しますし、必要なら銀河の果てまでついていきますよ。虎於様はどこに行きたいですか」
「……そうか」
みんな俺が好きなのか、好きじゃないのかわからない。俺がしてあげたことを喜んでくれるけど、俺がしたいことを喜んでくれない。可愛い女の子と遊んでも、虎於はいつもそんなことを考えてしまって、心から楽しめなかった。俺が何をしたいか聞いてくれる人に俺は何をしてあげたいんだろう、虎於はしばし考えた。
「自分で運転して、遠くまで行きたいな。海外じゃなくてもいいし……そうだ、名前前に黒部ダムに行ってみたいって。今度の週末ドライブに行かないか」
「まあ、名前のことを考えてくださるなんて……お優しい方」
名前はエプロンの裾を持ち上げて涙を拭う素振りを見せた。自分の発言は間違っていなかったらしい、と虎於は安堵の息をついた。
「ところで、『”変なこと”を聞かれる』とおっしゃいましたが……同窓の女子から聞かれる”変なこと”とは一体どのような……差し支えなければ名前にも教えてくださいませ。虎於様」
「え、えっと……」
絶対名前には言いたくない……と虎於が思ったのが伝わったのか、名前はさっきまでの微笑を凍てつかせる。先ほど拭った涙はどこへ行ったのか、絶対零度の視線を受けて虎於はやっぱり例の女の子とのデートはもうやめようと思った。次はアメコミ映画に誘っても嫌な顔をしなくて、友達をたくさん連れて海外旅行に行こうとせがんでこない、それから“変なこと”を聞かない女の子とデートしよう。
@@@
「なんでも俺の好きなことをしていいって言ったじゃないか!」
虎於が大学生になって一人暮らしを始めて前進するかと思われた父との関係だが、実際はあまり変わらなかった。過保護な父親には可愛い末息子がバックパッカーになって海外を旅するなど考えられないのだろう。心配しているからこそだとわかっているから、虎於は父と口論する気になれなかった。大学進学の時の経験から、口論しても無駄だと思っている。
父にぶつけられない怒りを発露できるのは結局、名前の前だけだった。名前は何を考えているのか黙って虎於の後ろに付き従っている。
「何がしたい?何が楽しい?そんなこと聞いたって誰も、俺の願いは叶えてくれないのに!!」
「虎於様」
父の部屋を出てからずっと何も言わなかった名前が虎於を呼んだ。
「何を召し上がるのか、何が楽しいのか。虎於様は相手に聞くけれど、貴方自身の願いは口になさらない。口にしても無駄だとわかっているから一度否定されれば引き下がる。周りを裏切って自分を傷つける願いは諦める。幼い頃から変わらず、ずっとお優しい」
「……褒めてるのか、貶しているのかどっちなんだ」
「ですが、私はあなたのメイド。あなたの要望を叶えるのが仕事です。どうか、名前に職務を全うさせてくださいませ」
名前が静かに頭を垂れて、虎於の言葉を待つ。虎於は何を口にするべきかわからなかったので、考えのまとまらないまま話し始める。
「……そんなこと言ったら、皆がっかりする」
「あなたの言葉を聞いてがっかりする程度の人間なら、好きに言わせておけばいいのです」
「皆俺のためを思って言ってるんだよ。苦しいことも辛いこともないように、失敗して恥をかかないようにって」
「たとえ虎於様を思っての発言でも、それが虎於様を傷付けて、あなたの枷になるというなら。それは聞くに値しないと名前は思います」
「名前は家族じゃないからそんなことが言えるんだ!」
虎於は家族の誰かが聞いているかもしれないということを忘れて声を荒げた。メイドのお仕着せを纏った名前は「その通りでございます」と力無く肯定しただけだった。
名前の悲しそうな顔を見て、上がった血が一瞬で引いた。なんてことを言ってしまったのだろうと後悔した。父に直接ぶつけられない怒りを代わりに名前にぶつけてしまった。名前がなんでも許してくれるからといって、虎於はわがままに自由に振る舞って名前を傷つけたいわけではなかった。名前は虎於の唯一の味方なのに。
「ごめん。頭を冷やしてくる……自分で帰るから、暫くひとりにしてくれ」
「かしこまりました」
御堂邸の分厚いドアに阻まれて、名前が何をしているかわからない。少し待っても追いかけてくる気配はなく、虎於は廊下でひとり項垂れた。自分が情けなくて、涙が出そうだった。感情に任せて声を荒げて、名前に当たり散らして、こんなのちっとも「良い主人」じゃない。
虎於は生まれ育った家だというのに逃げるように御堂邸を去って、夜の街をがむしゃらに歩いて、考えをまとめようとする。今の自分は不満こそあれど、不幸ではないはずだと言い聞かせて。
よりによってその日に月雲了が現れたのは、後から振り返れば運命でしかなかった。夜闇の中から突然現れた男は見るからに高級なスーツを着ていたが、あまりにも怪しかった。普段なら正式な手順も踏まずに御堂家の三男に会おうとする男が正しく「善人」であった試しがない。信じるに値しない人間の言葉のはずだった。でも、父の言葉に傷つき、自分の言葉で名前を傷つけたその日の虎於には、その男が発する言葉の全てが突き刺さった。
知らない男の言葉にみっともなく動揺した。俺がアイドルそのものの生き方をしてるって?そのせいでイカれたって?俺が?俺が「覚悟がないまま芸能人をやってる」って?空っぽのハートで生きてるって?でもそれは俺のせいじゃないって?
言葉の全てが冷たく突き刺さって、早くこの場から逃げ出したかった。携帯ならポケットの中にある。名前は呼べばすぐさま飛んできて、俺をここから連れ出してくれる。指先が冷たいのに心臓は熱い。冷静じゃないと自分でもわかる。虎於は冷静になれと自分に言い聞かせた。
「このまま、君が不幸になるのを見過ごせないんだ」
聞き捨てならない言葉だった。一瞬で全身の血が足元に落ちたような感覚がした。口から溢れる笑声は空虚で、自分でも動揺するのが止められない。
「誰にも期待されないのは不幸って言うんだよ、御堂家の三男、御堂虎於くん」
ペラペラ同情と共感を口にする男から目が離せない。喉が乾く。たったひとこと発するのに、息が苦しい。ようやく発した掠れ声で、初めて男の素性を訊ねた。
「あんたは……誰だ」
「やっと興味を示してくれたね。月雲了だ。芸能事務所の社長になる男だよ」
「だめーーーーーー!!!だめです!!!お巡りさんこっっち!!こっちです!!」
名前が懐中電灯の光とともに飛び込んできて、騒ぎ立てる。その声を聞いて虎於はようやく息を止めていたことに気づいた。
懐中電灯の光を直接顔に向けられた男は「うわっやめろよ野蛮な女だなあ!」と嫌がった。名前は懐中電灯を放り出して男に飛びかかったが、それでも男は「芸能人はみんな嘘つきばっかり」だの「百って男は悪魔の化身だし千は死神の生まれ変わり」だの、他にも有名な芸能人のスキャンダルを口にして、名前と揉み合いになりながら虎於に「汚い芸能界に復讐しよう」だとか「ねえ、虎於。どうか助けて」「正義のために嘘つきは皆やっつけちゃおう」「世界を変えるためには君みたいな男が必要なんだよ」と次々に言葉を投げかけてきたので、虎於は呆然とその言葉を聞いた。名前が男のシャツ襟をひっ掴んで顔と顔がぶつかるくらいに引き寄せたのを見て、虎於は流石に止めようとした。警察は名前が速すぎて引き離してきたのか、嘘だったのか、まだ来ない。
「うるさいな!黙れよ、お前のお粗末な復讐劇にこの人を付き合わせようとするな!この人は、この人はそんなことに付き合ってられるほど暇人でも不幸な人間でもない!!さっさと消えろ!二度と現れるな!!」
激昂した名前が月雲に吠え立てた。月雲はその言葉を聞いた途端、さっきまでの芝居がかった態度を捨てて興が冷めたとでも言いたげな顔になった。唾がいくらか顔にかかったのかもしれない。そして到底女性に向けることを許されない言葉でブツブツ名前を罵り、襟を掴んで離さない名前の手を払い落とした。そして名刺だけはしっかり虎於に押し付けて、そのまま夜の街に消えていった。
「ああ虎於様!遅くなって申し訳ございません!あの男に変な事されませんでした!?怪我は!?」
「大丈夫だよ」
名前はいつもの如くメイド服だけはしっかり着ていたが、メガネは傾いておさげはぐちゃぐちゃでひどい有様だった。激しく掴みかかっていたのは名前だが、今の状況だけ見れば「変なことされた」のは名前だ。虎於は黙ってメガネを直してやった。おさげはもう解いて髪を下ろしたほうがいいかもしれない。おさげをまとめる髪ゴムを取って手櫛で軽く直してやればまあ、マンションまで帰るくらいなら問題なさそうな見た目になった。
「名刺お預かりします。こんなもの、びりびりに破いて捨ててしまいましょう」
「待ってくれ!」
考えるより先に声が出た。月雲の名刺をもう一度見る。芸能事務所の社長になる予定の男。誰にも期待されない虎於を不幸だと言い切った男。月雲了は誰もいないと言ったが、間違っている。虎於には名前がいるし、何より虎於自身が虎於に期待している。でも何も知らない人には、虎於がそういう風に見えるのだ。
「俺、芸能人になるよ」
「あ……あんな男の言葉、間に受けることありません!見てわかったでしょう!?あの男こそ、大嘘つきです!あなたを傷つけようとしてあんな言葉を口にした!あなたの優しさを利用して、自分に都合良く動く駒に仕立てようとした!!」
今まで長いこと名前を見てきたが、こんなにも感情を露わにするところは初めて見た、と虎於は思った。今までも虎於を傷つける人間はいた。あの男の何が名前をそんなに怒らせるのだろう、虎於は注意深く名前の表情を見る。メガネ越しの瞳が怒りで潤んだ。
「あなたは不幸じゃない!あなたの望む期待が周囲から得られなくても、何よりあなた自身があなたに期待している。お願いします、あなたを傷つけるイカれた人間の言葉なんて、耳に入れないで」
名前の瞳から涙が溢れてメガネのレンズを濡らした。名前と意見が一致したな、と思って虎於はそっと直したばかりのメガネを外させて、名前のつむじを見下ろした。
「お願い、虎於様、どうか……」
「ごめん」
「虎於様……」
「初めてなんだ、こんなに人の言葉が痛いと思ったのは。誰に止められても、それが父さんでも、俺はわがままを通したいって、今初めて思った。俺が、御堂虎於が“やるべきこと”はこれなのかもしれない」
その言葉を聞いた名前の表情は絶望に塗りつぶされた。名前が絶望するようなことはない、虎於は芸能界に自分がなるべきものを、夢を探しに行くのだ。虎於はこの決断が間違っているとは思わなかった。
「アイドルになるよ。名前、俺に期待しない人たちを見返してやろう」
名前は涙に濡れた顔で虎於を見上げた。
「……応援します。あなたが、今それを心から願っていると分かるから」
虎於は黙って名前を見返した。自分の決断が名前の人生を狂わせたような気がして、名前の表情を伺ったが、どんなに見つめても未来のことは何もわからなかった。
*前次#TOP